セルマの工房へ向かう道は、初秋の柔らかな陽射しに包まれていた。
石畳を荷車の車輪がゆっくりと転がり、道端では果物を並べる露店の主人が元気よく客を呼び込んでいる。焼きたてのパンの香りが風に乗って流れ、通りを歩く人々の表情にも、冬を前にした慌ただしさより、穏やかな日常の空気が勝っていた。
そんな景色を眺めながら、私は助手席で小さく息をつく。
今日は、セルマさんの栽培槽を増やす相談。
そう思っていた。
……真壁さんが口を開くまでは。
「澪君。」
「はい。」
「セルマ君が一年で作れるポーションは限られております。」
「そうですね。」
「栽培槽を倍にしても。」
「薬草が倍育つだけ。」
「セルマ君は一人。」
私は返事をしなかった。
真壁さんは静かに続ける。
「瓶詰め。」
「調合。」
「品質確認。」
「弟子の指導。」
「全て本人です。」
「一人の能力には限界があります。」
その言葉には反論できなかった。
確かに、設備を増やせば収穫量は増える。
でも、最後にポーションへ仕上げるのはセルマさん自身だ。
どれだけ薬草が育っても、人の手は二本しかない。
「では、どうすると思いますかな。」
「……栽培槽をもっと増やす、とか?」
「違います。」
即答だった。
「人を増やします。」
「弟子ですか?」
「いかにも。」
そこでようやく、私は真壁さんが考えていることに気付いた。
栽培設備ではない。
工房そのものでもない。
もっと大きな話だ。
「でも……セルマさん、弟子はいますよね。」
「三人か四人。」
「通い。」
「教える時間が足りません。」
「だから増えません。」
真壁さんは前を向いたまま言う。
「毎年。」
「冬になるたび。」
「ポーション不足で命が失われる。」
その一言が胸に刺さった。
軽い話ではない。
商売でも利益でもない。
人命だ。
「今年だけ助けても。」
「来年は。」
「また同じ。」
「その翌年も同じ。」
窓の外を流れる町並みが少しだけ遠く感じる。
私は大学へ通っている。
講義を受け、ゼミで学び、教授が何十年も学生を育て続けてきたことを知っている。
一人の優秀な研究者が世界を変えるのではない。
知識を教え続ける人がいるから、社会全体が少しずつ変わっていく。
企業も同じだ。
先輩が新人を教え、新人が後輩を育てる。
だから技術は途切れない。
……真壁さんが言いたいことは分かる。
分かるからこそ、胸が苦しくなった。
「教育とは。」
真壁さんは静かに言った。
「最も効率の良い量産です。」
思わず苦笑いが漏れる。
「その言い方だと、人まで商品みたいじゃないですか。」
「違いますかな。」
「違います。」
即答した。
でも。
理屈だけなら。
その考え方は、間違っていない。
だから余計に困る。
「セルマさん……驚くだろうな。」
「驚くでしょう。」
「怒りますよ。」
「怒るでしょう。」
「泣くかもしれません。」
「泣くでしょう。」
全部肯定する。
「だったら!」
思わず声が大きくなる。
「もう少し段階を踏みませんか!」
「例えば相談してからとか!」
「まず設計図を見せるとか!」
「本人の意見を聞くとか!」
真壁さんは少し考えるように顎へ手を当てた。
「聞けば。」
「断られます。」
「だから聞きません。」
「そういう問題じゃありません!」
私は頭を抱えた。
この人は、いつもこうだ。
正しい。
でも。
進み方が暴力的なのだ。
気付けば目的地へ着いていた。
見慣れたセルマさんの工房。
薬草を干す棚が外へ並び、窓からは薬草を煮る独特の香りが漂ってくる。
この建物も、セルマさんが少しずつ手を加えながら使ってきた場所だ。
壁には補修した跡がある。
窓枠の木も日に焼けて色が変わっている。
何年も積み重ねてきた時間が、そのまま建物に染み込んでいた。
……あと数分で、それが全部消える。
そう思うと、私の胃がきりきりと痛み始めた。
工房の扉を開けると、乾燥させた薬草の香りがふわりと鼻をくすぐった。
壁際には大小さまざまな瓶が整然と並び、天井からは乾燥中の薬草が束になって吊されている。窓際には栽培槽が置かれ、青々としたポーション草が朝の光を浴びて葉を揺らしていた。
何度か訪れたことのある工房だ。
決して広くはない。
それでも、掃除は行き届き、道具は使いやすい位置へ並べられている。
長年かけてセルマさんが育ててきた、まさに「仕事場」だった。
「いらっしゃい。」
奥からエプロン姿のセルマさんが顔を出す。
額には汗が浮かび、手には薬液の付いたガラス棒。
どうやら作業の途中だったらしい。
「ちょうどよかったわ。」
笑顔で栽培槽を指差す。
「もう置き場所を考えてあるの。あと四つくらい増やせれば、今年の冬はもっと作れると思うのよ。」
嬉しそうだった。
新しい栽培槽が届くと信じて疑っていない笑顔。
私はその笑顔を見るほど、胸が痛くなる。
「セルマさん……。」
言葉が続かなかった。
「ん?」
「その……。」
どう切り出そう。
何と言えば傷付けずに済むのだろう。
隣を見る。
真壁さんはいつものように落ち着き払っていた。
「セルマ君。」
「はい?」
「今回は。」
「工房を建て替えます。」
時間が止まった。
「……え?」
セルマさんは笑顔のまま固まる。
「えっと……今、何て?」
「工房を建て替えます。」
「栽培槽じゃなくて?」
「工房です。」
「……全部?」
「全部です。」
セルマさんは私を見た。
助けを求めるような視線だった。
私はその視線を受け止めながら、小さくうなずくしかない。
「本当……なんです。」
「澪まで何言ってるのよ。」
「ごめんなさい。」
謝るしかない。
真壁さんは工房をゆっくり見回した。
「良い工房です。」
「無駄も少ない。」
「整理もされている。」
セルマさんは少し安心したようだった。
「でしょう?」
「長年少しずつ直してきたの。」
「ええ。」
「だから限界です。」
「…………。」
また空気が止まる。
「この広さでは弟子を増やせません。」
「でも私は……。」
「三人。」
「多くても四人。」
「教える時間も場所もありません。」
「それは……。」
「違いますか。」
セルマさんは言い返せなかった。
教室はない。
住む場所もない。
栽培槽を増やせば、今度は通路が狭くなる。
錬金を始めれば、弟子は端へ避けるしかない。
私も何度か見てきた光景だった。
狭い工房の中で、お互いに譲り合いながら作業をしていた。
効率が悪い。
それは誰の目にも明らかだった。
「でも。」
セルマさんは小さく首を振る。
「今までこれでやってきたもの。」
「冬になれば寝る時間を削れば何とか……。」
「なりません。」
真壁さんは静かに遮った。
「今年は。」
「何とかなりましょう。」
「来年も。」
「何とかなるでしょう。」
「十年後は?」
セルマさんが黙る。
「あなた一人が努力し続ける世界は、長続きしません。」
「……。」
「努力ではなく。」
「仕組みを作ります。」
セルマさんはゆっくりと工房を見回した。
壁。
棚。
栽培槽。
作業台。
一つひとつに視線を走らせる。
「ここ……。」
「好きなのよ。」
その一言に、私は胸が締め付けられた。
そうだ。
ここは建物じゃない。
セルマさんが何年も積み重ねてきた時間そのものなのだ。
その空気を壊すように、真壁さんが静かに言った。
「安心したまえ。」
「工房を壊すのではありません。」
「未来を広げます。」
そう言うと、真壁さんは工房の中央へ歩き出した。
私は嫌な予感しかしなかった。
「……真壁さん。」
「はい。」
「まだ説明、終わってません。」
「終わりました。」
「終わってません!」
私の叫びも空しく、真壁さんは右手をゆっくりと前へ伸ばした。
「収納。」
真壁さんが静かに告げた瞬間だった。
工房の壁が音もなく消えた。
「…………え?」
セルマさんの口から、かすれた声が漏れる。
続いて天井。
棚。
窓。
作業台。
薬棚。
栽培槽。
薬草を干す梁。
床板までが、まるで最初から存在しなかったかのように吸い込まれていく。
轟音はない。
崩れる音もない。
ただ世界から切り取られるように、工房が消えていく。
秋風が頬を撫でた。
視界が一気に明るくなる。
ついさっきまで屋根があった場所には青空が広がり、遠くを飛ぶ鳥の姿まで見えた。
土の匂いが鼻をくすぐる。
目の前には何もない。
工房が建っていた場所は、更地になっていた。
セルマさんは瞬きもせず、その光景を見つめている。
手に持っていたガラス棒が、かたりと地面へ落ちた。
「……え?」
もう一度、小さく呟く。
「私の……工房……。」
その声には怒りも驚きもなかった。
ただ、現実を理解できない人の声だった。
私は思わず真壁さんを振り返る。
「真壁さん!」
「はい。」
「はい、じゃありません!」
「まだセルマさん、納得してません!」
「説明の途中でしたよね!?」
「説明は済みました。」
「済んでません!」
思わず頭を抱える。
この人は、本当に順番というものを知らない。
普通は説明して、相手が納得して、それから工事だ。
どうして完成形から始めてしまうのだろう。
セルマさんは、ふらふらと数歩前へ歩いた。
何もない地面へしゃがみ込み、土を指先で触れる。
そこに工房があった証拠を探すように。
「……本当に。」
「なくなっちゃった。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が痛んだ。
長年使ってきた仕事場。
毎日掃除をして、棚を作り替え、薬草を育ててきた場所。
それが、ほんの数秒で消えたのだ。
私だったら泣く。
きっと泣いてしまう。
ところが、その横で真壁さんは空き地を見渡しながら、満足そうに頷いていた。
「うむ。」
「十分な敷地ですな。」
「感想がそこなんですか!」
思わず叫ぶ。
セルマさんも、ようやく我に返ったらしい。
「真壁さん!」
「はい。」
「私の工房!」
「収納しております。」
「それは見れば分かるわよ!」
珍しくセルマさんが声を荒らげる。
「返して!」
「完成後に返します。」
「完成?」
「数時間後です。」
「数時間で?」
「終わります。」
あまりにも当然のように言うので、セルマさんは口をぱくぱくさせるだけだった。
私も同じだった。
数時間で工房を建てる。
そんな話を、もう何度も見てきた。
見てきたのに。
やっぱり慣れない。
真壁さんは私たち二人を見比べ、静かに言った。
「立ち会っても退屈です。」
「リュシア君の商会で茶でも飲んできたまえ。」
「終わりましたら迎えに参ります。」
そう言って、私たちの返事を待たずに背中を向ける。
収納空間から次々と資材を取り出し始めた。
鉄骨。
石材。
巨大なガラス。
見たこともない機械。
空き地は、あっという間に資材置き場へ変わっていく。
私はその光景を見ながら、小さくため息をついた。
「……行きましょうか。」
セルマさんは、まだ更地から目を離せなかった。
何度も振り返る。
振り返るたびに、そこには工房はない。
秋風だけが、何もなくなった土地を静かに吹き抜けていた。
リュシア商会へ近づくにつれ、人通りが多くなってきた。
店先には布や革製品が並び、威勢のいい売り声が飛び交う。
荷馬車が止まるたびに店員が駆け寄り、積み荷を運び込んでは、笑い声があちらこちらから聞こえてきた。
相変わらず活気のある商会だ。
店の前で帳簿を抱えていた若い店員が私たちへ気付き、ぺこりと頭を下げる。
「いらっしゃいませ。」
「リュシアさん、いらっしゃいますか?」
「少々お待ちください!」
ぱたぱたと店の奥へ走っていく。
その間もセルマさんは落ち着かない様子で、工房がある方角を見つめていた。
……もう見えない。
建物が並び始めたせいで、更地になった場所は完全に隠れていた。
それでも気になるのだろう。
視線だけが何度もそちらへ向いてしまう。
「セルマ。」
奥から明るい声が響く。
リュシアさんだ。
いつものように快活な笑顔を浮かべていたが、その笑顔はセルマさんの表情を見た途端、きょとんとしたものへ変わる。
「どうしたんだい、その顔。」
セルマさんは無言で真壁さんを指差した。
「工房が……。」
「うん。」
「なくなった。」
一瞬の沈黙。
「あっはっはっはっ!」
店中に響くほどの笑い声だった。
近くで商品の整理をしていた店員まで、何事かと振り返る。
「ちょ、ちょっと!」
セルマさんが頬を膨らませる。
「笑い事じゃないのよ!」
「悪い悪い!」
リュシアさんは涙を拭いながら笑い続ける。
「いやぁ、真壁が動いたなら、もうそうなると思ってさ!」
「工房よ!」
「なくなったのよ!」
「分かってる、分かってる。」
そう言いながらも笑いが止まらない。
ようやく落ち着くと、リュシアさんはセルマさんの肩をぽんと叩いた。
「安心しな。」
「うちも建ててもらった時は、完成した建物を見て腰を抜かした。」
「頼んだのは店だった。」
「出てきたのは商会だった。」
私は思わず苦笑いする。
それは確かに、その通りだ。
「だから。」
リュシアさんはにやりと笑う。
「今回は工房を頼んだんだろ?」
「ええ……。」
「なら出てくるのは工房じゃない。」
セルマさんが嫌な予感しかしない、という顔になる。
リュシアさんは楽しそうに続けた。
「真壁が作るんだ。」
「きっと、あんたの想像より三回りくらい大きいものが出てくるよ。」
セルマさんは私を見る。
「……本当なの?」
私は小さく肩をすくめた。
「経験上。」
「たぶん、そのくらいです。」
「そんなぁ……。」
セルマさんは天井を仰ぎ、小さく額へ手を当てた。
「私、栽培槽を少し増やしたかっただけなのに……。」
リュシアさんに案内され、私たちは商会の応接室へ通された。
窓から午後の陽射しが差し込み、磨き上げられた床板を柔らかく照らしている。廊下の向こうからは、店員さんたちの元気な声や荷物を運ぶ音が絶え間なく聞こえ、以前よりさらに商会が活気づいているのが伝わってきた。
そういえば、ここへ初めて来た頃は、もっと静かだった。
今では店員さんの数も増え、帳場では何人もの人が帳簿を開き、荷馬車が着くたびに慌ただしく人が動いている。
真壁さんが建てたこの建物は、もうすっかりリュシア商会の一部になっていた。
「はい、お茶。」
リュシアさんが湯気の立つカップを二つ置く。
「ありがとう。」
セルマさんは礼を言ったものの、手を伸ばそうとはしなかった。
窓の外をぼんやり眺めたまま、小さくため息をつく。
「……今頃、どうなってるのかしら。」
その一言で、また胸が痛くなる。
私だって気になる。
工房は、本当に何もなくなってしまった。
あの場所が今どうなっているのか、想像もつかない。
「見に行くかい?」
リュシアさんが冗談めかして聞く。
セルマさんは首を横に振った。
「行ったって邪魔になるだけでしょう?」
「だろうねぇ。」
リュシアさんは苦笑した。
「あの人、建て始めると周りが見えなくなるから。」
「……そうなんですか。」
「そうそう。」
リュシアさんは楽しそうに笑う。
「前に店を建ててもらった時なんか、私も近寄るなって追い返されたよ。」
「えっ。」
「『危険です』の一言だけ。」
思わず笑ってしまう。
何となく想像できた。
建築中の真壁さんは、頭の中が設計と工程でいっぱいになる。
あの様子なら、本当に言いそうだ。
「でもね。」
リュシアさんは湯飲みを手に取りながら続ける。
「完成した時には、文句を言う気なんてなくなるんだ。」
「そんなにですか。」
「そんなにさ。」
窓の外を見ながら懐かしそうに笑う。
「私は店をお願いしただけだった。」
「出来上がったのは、商会だった。」
セルマさんが小さく笑う。
「その話、本当だったのね。」
「本当さ。」
「だから、セルマ。」
リュシアさんは肩をすくめる。
「今回は工房を頼んだんだろ?」
「……ええ。」
「だったら覚悟した方がいい。」
「きっと工房じゃ済まない。」
「それ、慰めになってないわよ。」
セルマさんが苦笑する。
私も思わず笑ってしまった。
少しだけ部屋の空気が軽くなる。
それでもセルマさんは、カップを両手で包み込むと静かに口を開いた。
「私ね。」
「今の工房、好きだったの。」
部屋が静かになる。
「広くはなかったけど。」
「棚の場所も。」
「薬草の干し方も。」
「どこに何を置くかも。」
「全部、少しずつ考えて。」
「失敗して。」
「直して。」
「やっと使いやすくなった工房だったの。」
その言葉を聞いて、私は工房の中を思い出す。
壁に残っていた補修の跡。
手の届きやすい高さへ並べられた瓶。
何度も使われて角が丸くなった作業台。
あれは建物じゃない。
セルマさんが積み重ねてきた時間だった。
「だから。」
セルマさんは困ったように笑う。
「頭では分かるのよ。」
「真壁さんが悪気でやってるんじゃないってことも。」
「でも。」
「心が付いていかないの。」
私は静かにうなずいた。
「……分かります。」
本当に分かる。
真壁さんの隣にいると、昨日まで当たり前だった景色が、今日にはもうなくなっていることがある。
それが良い方向だと分かっていても。
人の気持ちは、そんなに早く追い付けない。
リュシアさんは二人を見比べると、ふっと笑みを浮かべた。
「だったら今は悩みな。」
「完成したら、また別のことで頭を抱えることになるから。」
「え?」
「真壁の建物ってのはね。」
「『思ってたより大きい』じゃ済まないんだよ。」
セルマさんは、少しだけ青ざめた顔で私を見た。
私は何も言えず、小さく笑うしかなかった。
その予感だけは。
きっと、外れない。
窓の外では、秋の陽が少しずつ西へ傾き始めていた。
応接室へ差し込む光も柔らかさを増し、木目の美しい机へ長い影を落としている。
いつの間にかセルマさんも落ち着きを取り戻し、お茶を飲みながらリュシアさんと薬草の話をしていた。
それでも時折、窓の外へ視線が向く。
工房の方角。
建物は見えない。
見えないからこそ、余計に気になってしまうのだろう。
コンコン、と控えめなノックが響く。
「どうぞ。」
扉が開き、一人の店員さんが頭を下げた。
「お客様がお見えです。」
「お客様?」
店員さんは少しだけ困ったように笑う。
「真壁様です。」
部屋の空気が止まった。
セルマさんが勢いよく立ち上がる。
「えっ?」
扉の向こうには、いつもと変わらない落ち着いた表情の真壁さんが立っていた。
「お待たせしました。」
まるで買い物でも済ませてきたかのような穏やかな口調だった。
「終わりました。」
セルマさんは何度か瞬きを繰り返した。
「……終わった?」
「はい。」
「工房が?」
「工房です。」
「数時間で?」
「予定どおりです。」
リュシアさんが吹き出す。
「ほらね。」
「だから言ったろ。」
「途中なんて見なくていい。」
「完成品だけ見れば十分驚くって。」
セルマさんは、まだ信じられないという顔のまま、私を見た。
私は苦笑しながら小さくうなずく。
「……行きましょうか。」
真壁さんは静かに踵を返した。
その背中を追いながら、私は胸の鼓動が少しずつ速くなるのを感じていた。
今度は。
どんな景色が待っているのだろう。
リュシア商会を出ると、夕暮れが町を柔らかな橙色へ染め始めていた。
昼間の賑わいは少し落ち着き、それでも店じまい前の呼び込みや荷馬車の音が通りに心地よく響いている。
真壁さんは先頭を歩く。
いつもと同じ速度。
何事もなかったような足取りだった。
その後ろを私とセルマさんが並んで歩く。
セルマさんは何度も何度も深呼吸を繰り返していた。
「……怖い。」
ぽつりと漏れた本音。
「何が出来ているのかしら。」
「私も少し怖いです。」
正直に答える。
真壁さんが作る建物は、毎回こちらの想像を軽く飛び越えていく。
だから今回は、どこまで飛び越えているのか想像すらつかなかった。
角を一つ曲がる。
まだ見えない。
さらに歩く。
道の向こうから、何人もの町の人が歩いてくる。
皆、興奮したように話をしていた。
「見たか?」
「ああ、信じられねぇ。」
「ありゃ城じゃないのか?」
「いや、工房だって話だ。」
「五階建てらしいぞ。」
セルマさんの足が止まる。
「……五階?」
町の人たちは私たちには気付かず、興奮したまま通り過ぎていく。
私は真壁さんを見る。
本人は何も答えない。
ただ静かに歩き続ける。
また一つ角を曲がる。
その瞬間だった。
「…………。」
言葉が出なかった。
空が。
狭くなっていた。
今まで見えていた夕焼けの空を、大きな建物が遮っている。
思わず立ち止まる。
そこにあった。
石造りでも木造でもない。
真っ白な外壁に大きなガラス窓を備えた、異世界では見たこともない巨大な建物。
五階建て。
見上げても、一番上が遠い。
夕日に照らされた窓ガラスが赤く輝き、整然と並んだ窓が空を映している。
屋上では、大きな羽根がゆっくりと風を受けて回っていた。
その横には黒く輝く板が規則正しく並び、夕陽を静かに反射している。
「…………。」
セルマさんは立ち尽くした。
口を開いたまま、ただ見上げている。
工房が建っていた場所。
見慣れた木造の建物はもうどこにもない。
代わりに町で一番高い建物が、空へ向かって堂々と立っていた。
「……これ。」
ようやく絞り出した声は震えていた。
「私の……工房?」
真壁さんは満足そうに一度だけうなずく。
「いかにも。」
「錬金術師育成工房です。」
私は建物を見上げたまま、小さく息をのむ。
思わず大学の校舎を思い出した。
教室があり、図書室があり、人を育てるための場所。
目の前に建っているのは、もう一人の錬金術師の工房ではない。
錬金術師という職業そのものを育てるための建物だった。
セルマさんは、まだ信じられないというように建物を見上げ続けている。
夕焼けを背にそびえる五階建ての姿は、まるで町の景色そのものを書き換えてしまったかのような存在感を放っていた。
セルマさんは、しばらくその場から動けなかった。
夕日に照らされた白い外壁を見上げ、何度も目を瞬かせる。
まるで目の錯覚ではないかと確かめるようだった。
「……本当に。」
「私の工房なの?」
「いかにも。」
真壁さんはいつもと変わらない口調で答えた。
「今後数十年。」
「場合によっては百年以上使うことを前提に設計しております。」
「百年……。」
セルマさんは呆然と呟く。
私も思わず建物を見上げる。
白い外壁は夕日に染まり、窓ガラスは赤く輝いている。
今まで町で一番目立っていた教会の鐘楼よりも高い。
通りを歩く人たちも足を止め、遠巻きに見上げながら何かを話していた。
まるで新しい名所でも出来たような騒ぎだった。
「……入っても、いいの?」
セルマさんが恐る恐る尋ねる。
「もちろん。」
真壁さんは入口へ歩いていく。
自動ドアではない。
大きな木製の両開き扉だ。
真新しい木の香りが、夕方の風に乗って漂ってくる。
真壁さんがゆっくりと扉を押し開けた。
温かな木の香り。
漆喰の匂い。
新品の建物独特の空気が、私たちを迎え入れた。
「…………。」
セルマさんは一歩踏み入れたまま、また止まる。
床を見ている。
私はその理由がすぐ分かった。
磨き上げられた床石が、夕日を受けて鏡のように光っていたからだ。
「きれい……。」
思わず私も声が漏れる。
受付には大きなカウンター。
その奥には棚。
さらに広い会議室へ続く扉。
「箱……?」
四角い箱のようなものが、静かに止まっていた。
黒い格子の扉。
左右へ開く金属製の扉。
見慣れない。
でも私は知っている。
「……エレベーター。」
思わず呟く。
セルマさんが振り向いた。
「えれ……?」
「昇降機です。」
真壁さんが静かに答える。
「各階を移動するための設備です。」
セルマさんは首をかしげた。
「階段があるのに?」
私も少し笑ってしまう。
異世界では当然の疑問だ。
でも。
真壁さんは、こういう時だけ少し得意そうな顔をする。
「だからこそ。」
「最初に体験していただきます。」
そう言って、真壁さんはエレベーターの扉を静かに開いた。
「どうぞ。」
セルマさんは、中を覗き込んだまま固まっている。
「……これ。」
「本当に乗るの?」
私は思わず笑ってしまった。
さっきまで工房が消えたことに驚いていた人が、今度は箱の中へ入ることを怖がっている。
今日一日で、驚くことが多すぎる。
でも。
たぶん。
この建物の本当の驚きは、まだ始まったばかりだった。
セルマさんは、開いた扉の前で足を止めた。
箱の中を覗き込む。
広さは荷車一台分ほど。
壁は木目調で仕上げられ、天井には明るい魔道灯が埋め込まれている。
狭い。
けれど不思議と圧迫感はなかった。
「……本当に、この中へ入るの?」
「はい。」
真壁さんは何事もないように頷く。
「落ちたりしない?」
「しません。」
「止まったり?」
「しません。」
「壊れたり?」
「定期点検は必要です。」
「そこだけ現実的!」
思わず私が突っ込んでしまう。
セルマさんは小さく笑った。
その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜けたようだった。
「じゃあ……。」
恐る恐る一歩。
もう一歩。
箱の中へ入る。
私も隣へ並び、最後に真壁さんが入ると、静かに扉が閉まった。
「わっ。」
セルマさんが思わず私の腕をつかむ。
閉じ込められたような感覚だったのだろう。
「大丈夫ですよ。」
「……う、うん。」
真壁さんは壁に付いた小さな板へ手を伸ばした。
丸い印が縦に六つ並んでいる。
その一番上へ指を添えた。
「五階です。」
カチッ。
小さな音がした。
次の瞬間。
ふわり。
足元が軽くなる。
「きゃっ!」
セルマさんが私の腕へしがみついた。
箱全体が、音もなく上へ動き始める。
「う、動いてる!」
「上がってる!」
「大丈夫です。」
私は笑いをこらえる。
初めてエレベーターへ乗った時、私も似たような反応だった。
現代では当たり前でも、この世界では魔法のような乗り物だ。
数字が一つ変わる。
1。
2。
3。
「えっ。」
セルマさんが目を丸くする。
「もう三階?」
あまりにも静かだった。
荷馬車のような揺れもない。
階段を上る息苦しさもない。
ただ立っているだけで、景色だけが変わっていく。
「四階。」
真壁さんが静かに告げる。
「もう?」
セルマさんが驚いている間に、もう一度小さく音が鳴った。
――チン。
五階。
扉が左右へゆっくりと開く。
夕焼けの光が、一気に中へ流れ込んできた。
「……え。」
セルマさんは言葉を失う。
そこは、さっきまで見上げていた屋根よりも高い場所だった。
大きな窓の向こうには町並みが広がっている。
赤い屋根。
石畳の通り。
遠くの森。
夕日に染まる教会の鐘楼。
町全体が一望できた。
「きれい……。」
その一言は、自然と口からこぼれたものだった。
私も同じだった。
この景色は知らなかった。
真壁さんは静かに微笑む。
「工房長は。」
「毎日この景色を見ます。」
セルマさんは窓辺へ歩み寄る。
両手を窓枠へ添え、ゆっくりと町を見渡していた。
さっきまで、自分の工房がなくなったことに肩を落としていた人とは思えないほど、その瞳は夕焼けに見入っていた。
「こちらです。」
真壁さんは廊下をゆっくり歩き始めた。
窓の外には夕焼けに染まる町並みが広がり、柔らかな橙色の光が廊下いっぱいに差し込んでいる。
壁には一定の間隔で魔道灯が取り付けられていたが、今は夕陽だけで十分なほど明るかった。
足音だけが静かに響く。
やがて一枚の木製の扉の前で真壁さんが立ち止まった。
「工房長室です。」
ゆっくりと扉を開く。
「……あ。」
セルマさんが息を呑んだ。
見慣れた部屋だった。
窓の位置。
机の向き。
本棚。
薬棚。
椅子。
壁へ掛けられた薬草乾燥棚まで。
全部。
全部、元の部屋と同じだった。
違うのは広さだけ。
一回り、いや二回りほど広くなっている。
「……私の部屋。」
セルマさんはゆっくり中へ入った。
机へ触れる。
椅子へ手を添える。
何度も部屋を見回してから、小さく笑った。
「ここ。」
「私が机を置いてた場所。」
「ええ。」
「窓も。」
「同じ向き。」
「ええ。」
真壁さんは静かにうなずく。
「作業動線は変えておりません。」
「慣れた配置の方が作業効率は高い。」
「ですから。」
「部屋そのものを移設しました。」
私は部屋を見回しながら驚いていた。
ただ似せたんじゃない。
机まで。
棚まで。
細かな配置まで。
本当にそのままだ。
「すごい……。」
「元の工房がなくなったって思ってたのに。」
「なくしておりません。」
真壁さんは静かに答えた。
「良いものは残す。」
「変える必要がありません。」
セルマさんは机へ腰掛けた。
何度か座り直し、ふっと笑う。
「高さまで同じ。」
「当然です。」
「毎日使う机です。」
「違和感があってはいけません。」
セルマさんは少しだけ目を潤ませながら、机を撫で続けていた。
「……ありがとう。」
その一言は、とても小さかった。
私はようやく胸を撫で下ろす。
さっきまでセルマさんは、自分の工房が全部なくなったと思っていた。
でも違った。
真壁さんは壊したんじゃない。
残すべきものは残している。
それが分かっただけで、私まで嬉しくなる。
「ただし。」
真壁さんが静かに口を開く。
……やっぱり続きがある。
「栽培槽だけは移設しました。」
「え?」
「薬草は四階です。」
「理由は後ほど説明します。」
セルマさんは苦笑した。
「やっぱり全部そのままじゃないのね。」
「いかにも。」
「理由があります。」
私は思わず笑ってしまう。
真壁さんは、本当に必要なものしか変えない。
でも。
必要だと思えば、建物ごと変えてしまう。
その極端さが、この人らしかった。
「では。」
真壁さんは隣の扉へ歩き出す。
「次は図書室です。」
セルマさんはもう一度だけ部屋を振り返った。
その表情は、工房を失った人の顔ではなかった。
新しい工房長室を見つけた人の、少しだけ安心した笑顔だった。
工房長室を出ると、真壁さんは隣の扉の前で足を止めた。
「こちらです。」
静かに扉を開く。
その瞬間だった。
「……え。」
セルマさんの足が止まる。
私も思わず息を呑んだ。
部屋いっぱいに、本棚が並んでいた。
壁一面。
窓際。
部屋の中央にも低い本棚が規則正しく配置され、歩き回れるだけの通路が確保されている。
どこを見ても本。
本。
本だった。
「こんなに……。」
セルマさんが呆然と呟く。
今までの工房にも本はあった。
薬草図鑑。
調合書。
古い錬金術書。
でも、それは部屋の片隅に積まれているだけだった。
ここは違う。
本を置くためだけに作られた部屋だ。
真壁さんは一冊の本を手に取った。
「これまで使われていた書籍です。」
「全て移設しました。」
セルマさんが本棚へ近付く。
「これ……私が若い頃に師匠から譲られた本。」
懐かしそうに背表紙を撫でる。
「こっちは薬草の観察記録。」
「あ……。」
「これ、初めてポーションが成功した日の失敗帳まで。」
私は思わず笑った。
「そんなものまで取ってあったんですか。」
「捨てられなかったのよ。」
少し照れたように笑う。
「何度も失敗して、やっと一本だけ成功した日の記録だから。」
その一冊を抱きしめるように胸へ寄せる姿を見て、私は本棚の意味が分かった。
ここは資料室じゃない。
セルマさんの人生が並んでいる部屋なんだ。
真壁さんは部屋を見渡しながら静かに言った。
「今までは。」
「知識はセルマ君の頭の中にありました。」
セルマさんが振り返る。
「それでは弟子は育ちません。」
私は大学の図書館を思い出していた。
教授の知識だけでは講義にならない。
本がある。
論文がある。
学生はまず自分で読み、自分で考え、それから質問を持ってくる。
だから一人の先生でも多くの学生を教えられる。
「弟子は。」
真壁さんは続ける。
「まず本で学びます。」
「分からないところだけ質問します。」
「すると。」
「あなたは。」
「教える時間ではなく。」
「育てる時間を使える。」
セルマさんは、ゆっくりと本棚を見回した。
「そういうこと……。」
「毎回同じ説明をしなくて済む。」
「ええ。」
「同じ失敗も減る。」
「ええ。」
「知識が残る。」
「ええ。」
セルマさんは静かに笑った。
「今までね。」
「弟子が来るたびに。」
「薬草の見分け方から全部説明してたの。」
「毎年。」
「何度も。」
「同じことを。」
私は思わずうなずく。
大学でもそうだった。
毎年、新しい一年生が入る。
だから教科書がある。
ノートがある。
教育とは、同じことを何度でも教えられる仕組みを作ることでもある。
真壁さんは一番奥の棚を指差した。
「こちらは空けてあります。」
「空?」
「今後。」
「セルマ君が書いた本を並べます。」
セルマさんが目を丸くした。
「私が?」
「弟子が増えれば。」
「教科書も増えます。」
「あなたの知識を。」
「あなた一人のものにしてはいけません。」
部屋が静かになる。
夕焼けの光が本棚を赤く染めていた。
セルマさんは空いた棚を見つめながら、小さく呟く。
「……そんなこと。」
「考えたこともなかった。」
図書室を出ると、廊下の突き当たりに、今までとは少し雰囲気の違う扉があった。
木製ではあるが、厚みがある。
金属の取っ手が付き、真壁さんが開けると、かすかに機械油のような匂いが漂ってきた。
「こちらはバッテリー室です。」
「ばってりー?」
セルマさんが首を傾げる。
私も初めて聞いた頃は同じ反応だった。
部屋へ入ると、壁際へ背の高い箱が何台も整然と並んでいた。
黒い箱には細い線が何本もつながり、天井へ伸びている。
静かな部屋だった。
魔道具特有の光も音もない。
ただ、そこに並んでいるだけ。
「これ……何なの?」
セルマさんが恐る恐る箱へ近付く。
真壁さんは天井を指差した。
「屋上。」
「太陽光発電。」
「風力発電。」
「そこで得た電力を。」
「ここへ蓄えます。」
セルマさんはぽかんと口を開けた。
「電気を……貯める?」
「いかにも。」
「昼間余った分を夜に使う。」
「晴れの日の分を曇りの日に使う。」
「それが役目です。」
私は思わずうなずいた。
現代では当たり前のことでも、この世界では考えもしない発想だ。
セルマさんは箱をぐるりと回って眺める。
「でも。」
「冬は?」
「雪も降るし。」
「曇る日も多いわ。」
「その時はどうするの?」
真壁さんは、待っていましたと言わんばかりに、小さくうなずいた。
「当然。」
「考えております。」
部屋の奥へ歩いていく。
壁際に取り付けられた、一つの金属製の箱を指差した。
その横には、見慣れない差し込み口が付いている。
「これは?」
「充電端子です。」
「……じゅうでん?」
「雷スキルを利用します。」
セルマさんが瞬きを繰り返した。
「雷を?」
「ええ。」
「雷を使える者が。」
「ここへ魔力を流します。」
「すると。」
「電力として蓄えられます。」
私は思わず声を上げた。
「スキルで充電するんですか?」
「いかにも。」
「冬は日照時間が短い。」
「風も止む日があります。」
「そのため。」
「非常用です。」
セルマさんは、まだ信じられないという顔をしていた。
「そんな人、いつもいるわけじゃ……。」
「工房に常駐させる必要はありません。」
真壁さんは静かに首を振る。
「押入商会へ発注してください。」
「担当者が伺います。」
「必要量だけ充電します。」
セルマさんが目を丸くする。
「それも商売になるの?」
「もちろん。」
「設備は。」
「維持して初めて価値があります。」
私は小さく笑った。
なるほど。
真壁さんらしい。
建物だけ造って終わりじゃない。
何年も使い続けることまで考えている。
セルマさんは黒い箱を見つめながら、小さく息をついた。
「本当に……。」
「私、一人じゃ思い付きもしなかった。」
真壁さんは静かにうなずく。
「だから。」
「一人で考える必要はありません。」
「工房とは。」
「人が集まり。」
「知恵を集める場所です。」
その言葉を聞きながら、私は改めてこの建物を見回した。
工房長室。
図書室。
そして、この部屋。
どれもポーションを作るためだけの設備ではない。
人が長く学び、長く働き、長く育てるための仕組み。
そんな考え方で、この建物は造られていた。
バッテリー室を出ると、真壁さんは振り返った。
「それでは。」
「この工房で最も重要な階をご案内します。」
私は思わず身構える。
工房長室でもない。
図書室でもない。
バッテリー室でもない。
じゃあ、一番重要なのは……。
真壁さんはエレベーターの扉を開いた。
「四階です。」
私たちが乗り込むと、箱は静かに下降を始める。
ほんの数秒。
小さな音とともに扉が開いた。
目の前には、明るく広い廊下が真っ直ぐ伸びていた。
左右には大きなガラス窓。
夕暮れの光が差し込み、床を黄金色に染めている。
工房というより、大学や研究所のような雰囲気だった。
セルマさんも同じことを感じたのだろう。
「……工房に見えない。」
「いかにも。」
真壁さんは静かに歩き始める。
「ここは。」
「工房ではありません。」
「教育の階です。」
その言葉に、私は思わず足を止めた。
教育。
やっぱり。
真壁さんは最初から、それを考えていた。
廊下を少し進くと、大きなガラス窓の向こうに、整然と机が並ぶ部屋が見えてきた。
中央には長い机。
壁には真っ黒な板。
椅子が二十脚ほど、きれいに並べられている。
セルマさんが目を丸くした。
「……会議室?」
「教室です。」
「教室?」
「二十名程度まで同時に教育できます。」
セルマさんは、黒い板へ近付いた。
手で触れる。
「これ……黒板?」
「いかにも。」
「薬草の絵。」
「調合式。」
「注意事項。」
「何度でも書けます。」
私は大学の講義室を思い出していた。
教授が前へ立ち、板書をしながら講義を進める。
学生たちはノートを取り、分からないところを質問する。
あの光景が、そのまま異世界へ現れたようだった。
「今までは。」
真壁さんは静かに続ける。
「弟子が一人。」
「セルマ君が一人。」
「横で見せる。」
「その教育でした。」
「ええ。」
セルマさんがうなずく。
「でも。」
「それじゃ、一度に一人しか教えられない。」
「……そうね。」
「ここなら。」
「二十人。」
部屋が静まり返る。
セルマさんは教室全体をゆっくり見渡した。
机。
椅子。
黒板。
教壇。
その景色を見ながら、小さく笑う。
「私。」
「先生になるの?」
真壁さんは、すぐには答えなかった。
セルマさんの目をまっすぐ見てから、静かに口を開く。
「もう。」
「先生です。」
「ただ。」
「教える場所が無かっただけです。」
その一言に、セルマさんは何も返せなかった。
私はその横顔を見つめる。
驚き。
戸惑い。
そして少しだけ誇らしさ。
いろいろな感情が入り混じった、不思議な表情だった。
真壁さんは教室の隣の扉へ手を掛ける。
「では。」
「次が、この工房の心臓部です。」
ゆっくりと扉が開き始めた。
真壁さんが扉を開ける。
そこは工房長室よりも広い空間だった。
何列もの栽培棚が、寸分の狂いもなく一直線に並んでいる。
見慣れた治癒草。
けれど、その規模だけは見慣れていなかった。
「……。」
セルマさんは無言のまま歩き出す。
棚へ近付き、一株持ち上げる。
葉の色を見る。
茎を指で軽く押す。
土ではない。
見慣れた液肥栽培。
棚の下へ視線を落とす。
配管。
液肥槽。
循環装置。
一つひとつ確認するように歩いていく。
「……なるほど。」
ようやく口を開いた。
「今までの栽培槽を、そのまま大きくしたんじゃないのね。」
真壁さんは静かにうなずく。
「いかにも。」
「全部が独立してる。」
セルマさんは一列目から順番に眺めていく。
「液肥も別管理。」
「照明も。」
「温度も。」
「そうです。」
私は棚を見比べながら首をかしげた。
「全部同じじゃないんですか?」
セルマさんが振り返る。
「違うわ。」
「ほら。」
一列目の治癒草。
二列目。
三列目。
よく見ると、大きさが少しずつ違う。
私は思わず声を上げた。
「あっ。」
セルマさんは少し笑う。
「育て始める日が違うのね。」
「ええ。」
真壁さんが答える。
「一列目。」
「本日収穫。」
「二列目。」
「明日。」
「三列目。」
「その翌日。」
セルマさんは、その先を口にした。
「……八列で一巡。」
「毎日同じ量だけ収穫する。」
「毎日同じ量だけ仕込む。」
「その通りです。」
私は改めて棚を見回した。
今までセルマさんは、治癒草が育ったらまとめて収穫し、まとめてポーションを作っていた。
だから忙しい日と暇な日の差が大きかった。
でも、この方法なら違う。
毎日同じ。
収穫も。
調合も。
瓶詰めも。
全部同じ量になる。
「仕事が……。」
セルマさんが静かにつぶやく。
「平らになる。」
「いかにも。」
真壁さんは短く答えた。
「仕事量を均一化します。」
「一度に何百本も作る必要はありません。」
「毎日作れば良い。」
セルマさんは、ゆっくりと八列の栽培棚を見渡した。
「だから八列。」
「だからこの広さ。」
真壁さんは微笑む。
「今お気付きになりましたか。」
セルマさんは苦笑した。
「悔しいけど。」
「設計した人の勝ちね。」
私は二人のやり取りを見ながら思う。
ここにあるのは、新しい治癒草栽培じゃない。
今までセルマさんが積み重ねてきた技術を、一人の工房から、何十人もの錬金術師が扱える仕組みへ変えた工房だった。
教室を出ると、真壁さんは隣の大きな扉を開いた。
部屋へ一歩足を踏み入れた瞬間、セルマさんは思わず足を止めた。
「……錬金室。」
見慣れたはずの光景。
けれど、その広さも造りも、今まで知っている錬金室とはまるで違っていた。
部屋の中には、同じ形をした作業区画が規則正しく並んでいる。
一人分の作業台。
薬品棚。
洗浄用の流し。
計量台。
どの区画も、同じ寸法で造られていた。
「全部……同じ。」
セルマさんは一つの区画へ入り、周囲を見回した。
作業台の高さを確かめる。
棚の位置を見る。
流し台へ手を触れる。
そして隣の区画を見る。
「なるほど。」
思わず笑みがこぼれた。
「これなら。」
「誰に教えても同じなのね。」
真壁さんは静かにうなずく。
「道具を探す時間をなくします。」
「作業を覚える時間を増やします。」
私は部屋全体を見回した。
大学の実験室によく似ていた。
みんな同じ机。
同じ器具。
同じ配置。
だから先生は、
「ビーカーを右へ。」
と言えば全員が同じ場所を見る。
セルマさんも同じことに気付いたらしい。
「弟子が増えるとね。」
「道具の置き場所だけでも癖が出るの。」
「一人はここ。」
「一人はあそこ。」
「それだけで教える時間が増えちゃう。」
「ここなら。」
「全員同じ。」
「いかにも。」
真壁さんは短く答えた。
セルマさんは床へ目を向ける。
「排水溝……。」
区画ごとに、小さな排水口が設けられていた。
「これも?」
「薬液処理設備へ接続しております。」
「直接外へは流しません。」
セルマさんは少し驚いたように振り返る。
「全部処理するの?」
「いかにも。」
「失敗した薬液。」
「洗浄水。」
「全て処理後に排水します。」
私は思わず感心した。
確かに、錬金術では何が混ざるか分からない。
そのまま外へ流せば、川や畑へ影響が出る可能性もある。
真壁さんは部屋の中央へ歩く。
「もう一つ。」
壁際の厚い仕切りを軽く叩いた。
コン、と低い音が返ってくる。
「区画ごとに仕切りました。」
セルマさんは、その意味をすぐ理解した。
「ああ。」
「失敗ね。」
「ええ。」
「爆発。」
「発火。」
「薬液飛散。」
「一か所で止めます。」
セルマさんは苦笑する。
「新人はやるものねぇ。」
「やります。」
真壁さんも迷いなく答えた。
「私も。」
セルマさんは懐かしそうに笑った。
「師匠の工房で棚を一つ吹き飛ばしたことがあるわ。」
私は思わず目を丸くした。
「セルマさんでも?」
「あるわよ。」
「若い頃はね。」
そう言って笑う姿は、どこか安心したようにも見えた。
失敗することを前提に工房を設計している。
だから弟子を安心して育てられる。
真壁さんは静かに部屋を見渡す。
「教えるとは。」
「失敗させないことではありません。」
「失敗しても。」
「次を学べる環境を作ることです。」
セルマさんは、その言葉を静かに噛みしめるようにうなずいた。
四階を一通り見終えると、セルマさんは静かに息を吐いた。
さっきまで「工房を返して」と言っていた人とは思えないほど、真剣な表情だった。
真壁さんはエレベーターの前で立ち止まる。
「次は三階です。」
三人で乗り込むと、箱は静かに下り始めた。
ほんの数秒。
扉が開く。
「……?」
セルマさんは首をかしげた。
そこは工房らしくない空間だった。
木の香りがする。
長い食卓。
何十人でも座れそうな机。
壁際には調理場。
奥には食器棚まで並んでいる。
「食堂?」
「いかにも。」
真壁さんは短く答える。
「弟子は学びます。」
「働きます。」
「生活します。」
「だから。」
「食事も必要です。」
セルマさんはゆっくりと食堂を歩く。
「通いだけじゃないのね。」
「通いもおります。」
「住み込みもおります。」
「冬。」
「吹雪。」
「長距離通学。」
「効率が悪い。」
私は思わずうなずいた。
確かに、この世界は現代日本じゃない。
雪が降れば道は閉ざされる。
荷馬車も止まる。
毎日通わせるより、住み込みの方がずっと効率的だ。
セルマさんは食卓へ手を置いた。
「二十人分……。」
「そのくらいでしょうか。」
真壁さんは否定も肯定もしない。
「増築は可能です。」
さらりと言う。
(また簡単に……。)
思わず心の中でつぶやく。
その時だった。
セルマさんの鼻がぴくりと動いた。
「……いい匂い。」
私は笑ってしまう。
真新しい木材の香りだ。
「新築ですから。」
真壁さんは当然のように答える。
「しばらくは楽しめます。」
セルマさんはくすっと笑った。
「そういう意味じゃないんだけど。」
三人で食堂を奥へ進む。
すると、さらに扉が二つ並んでいた。
真壁さんは左の扉を開く。
湯気がふわりと漂った。
「えっ。」
セルマさんが驚く。
石造りの洗い場。
奥には大きな湯船。
壁際には桶が整然と並んでいる。
「お風呂?」
「男子浴場です。」
真壁さんは向かい側の扉を指差した。
「こちらが女子浴場。」
セルマさんは思わず私を見る。
「工房に?」
「必要です。」
真壁さんは即答した。
「錬金術は汚れます。」
「薬草。」
「薬液。」
「煤。」
「粉末。」
「そのまま住居へ戻るべきではありません。」
私は思わず納得してしまう。
確かに。
今日だってセルマさんの袖には乾燥した薬草の粉が付いていた。
工房を出るたびに、それを家まで持ち帰っていたのだ。
「それに。」
真壁さんは静かに続ける。
「疲れは。」
「その日のうちに落とす。」
「翌日に残さない。」
セルマさんは、浴場を見つめたまま小さく笑う。
「こんな工房。」
「見たことないわ。」
「工房ではありません。」
真壁さんは穏やかに答えた。
「人を育てる施設です。」
その言葉に、セルマさんは何も言わなかった。
ただ静かに浴場を眺めながら、小さく、小さくうなずいていた。
三階を後にすると、再びエレベーターへ乗り込んだ。
箱は静かに下降し、小さな音とともに二階へ到着する。
扉が開くと、今までとは少し違う空気が流れていた。
木の香りは同じ。
けれど、どこか生活の温もりを感じる。
「ここは住居です。」
真壁さんが廊下を歩き始める。
左右には同じ形の扉が規則正しく並んでいた。
真壁さんが一室を開ける。
「どうぞ。」
セルマさんと一緒に中へ入る。
「……あら。」
思わず声が漏れた。
決して豪華ではない。
けれど、必要なものはすべて揃っている。
寝台。
机。
椅子。
本棚。
衣類をしまう棚。
窓からは夕焼けに染まる町並みが見えていた。
「一人部屋?」
「基本は。」
「一人一室です。」
セルマさんは窓際まで歩き、外を眺める。
「こんな部屋を弟子に?」
「勉強する者には。」
「勉強できる環境が必要です。」
私は静かに部屋を見回した。
派手さはない。
でも、静かだった。
ここなら本も読める。
考え事もできる。
眠ることもできる。
大学の学生寮を思い出す。
「机がある……。」
セルマさんがぽつりと言う。
「もちろんです。」
「毎日。」
「図書室から本を持ち帰るでしょう。」
「教室で学んだことも整理するでしょう。」
「部屋で復習します。」
私は思わず笑ってしまう。
本当に学校だ。
講義を受け。
本を読み。
部屋へ戻って復習する。
その流れが自然にできている。
セルマさんは机へ手を置いたまま、小さくため息をつく。
「私……。」
「今まで。」
「作ることしか考えてなかった。」
「弟子が寝る場所まで考えたこと、なかったわ。」
真壁さんは穏やかに答える。
「優秀な職人は。」
「育ちます。」
「しかし。」
「優秀な教育者は。」
「環境を作ります。」
セルマさんは静かに笑った。
「今日は何回負けたか分からないわ。」
「勝ち負けではありません。」
真壁さんは首を横へ振る。
「目的は一つ。」
「冬に命を落とす人を減らすことです。」
部屋が静まり返る。
その目的だけは、最初から何一つ変わっていない。
セルマさんは窓の外を見つめながら、小さくうなずいた。
「……そうだったわね。」
工房を建て替えることでも。
学校を作ることでも。
五階建てにすることでもない。
全部、その先にある命を救うためだった。
私は夕焼けに染まる町を見下ろしながら思う。
真壁さんは、いつも手段だけが派手だ。
でも。
目的だけは、不思議なくらい真っ直ぐだった。
二階の住居を見終えると、真壁さんは廊下を戻り、エレベーターの前で立ち止まった。
「それでは、次へ参ります。」
黒い格子扉が静かに開く。
私たちは中へ乗り込んだ。
セルマさんは、もう少し慣れてきたのか、今度は迷わず箱の中へ入る。
真壁さんが壁に並ぶ表示板へ手を伸ばした。
そこには、
5
4
3
2
1
そして、その下に。
B1
B2
と刻まれていた。
「……地下?」
セルマさんが首をかしげる。
「工房に地下まで必要なの?」
真壁さんはB1へ指を添えた。
「必要です。」
小さな音とともに扉が閉まる。
ふわり、と身体がわずかに浮く感覚。
今度は上ではなく、静かに下へ動き始めた。
「あら。」
セルマさんが少しだけ目を丸くする。
「今度は下がるのね。」
「ええ。」
私は思わず笑ってしまう。
「私も最初は不思議でした。」
「階段を使わなくても、上にも下にも行けるなんて。」
セルマさんは壁へ軽く手を添えながら、小さく笑った。
「便利ねぇ。」
「歳を取ると階段が少しずつ大変になるの。」
「これなら薬草を抱えていても平気そう。」
真壁さんは静かにうなずいた。
「治癒草。」
「液肥。」
「瓶。」
「樽。」
「重い物ほど、この設備を使います。」
「人は疲れます。」
「設備は疲れません。」
セルマさんは思わず吹き出した。
「また、真壁さんらしい言い方。」
「でも。」
「嫌いじゃないわ。」
――チン。
小さな音とともにエレベーターが止まる。
格子扉がゆっくりと開いた。
地下1階。
ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
セルマさんは一歩踏み出し、周囲をゆっくり見回した。
「思ったより……明るいのね。」
天井には魔道灯が等間隔に並び、倉庫全体を昼間のように照らしている。
棚は入口から奥まで整然と並び、それぞれ木札が掛けられていた。
治癒草。
液肥。
肥料。
ガラス原料。
陶器原料。
空瓶。
包装布。
コルク。
どこに何があるのか、一目で分かる。
「毎日使う物はこちらです。」
真壁さんは棚を見渡しながら歩き始めた。
「取り出す回数が多い物ほど。」
「入口へ近く。」
「使用頻度が低い物ほど。」
「奥へ配置しました。」
セルマさんは静かにうなずく。
「取りに行く時間を減らすのね。」
「いかにも。」
歩いていくと、倉庫の奥には大量の木箱が積み重ねられていた。
あまりの数に、セルマさんの足が止まる。
「これは……。」
木箱の蓋を開ける。
中には、小さなガラス瓶が隙間なく整然と並んでいた。
一本。
また一本。
すべて同じ形。
すべて同じ大きさ。
「ポーション瓶……。」
「約一万本です。」
セルマさんは、ゆっくりと真壁さんを振り返った。
「一万本?」
「いかにも。」
「納品用に集めていたガラス資材と陶器資材を使用しました。」
「瓶が不足すれば。」
「工房は止まります。」
セルマさんは一本手に取る。
見慣れたポーション瓶より少し細身で、手によく馴染む形だった。
「あれ?」
口元を見て首をかしげる。
「コルクじゃないの?」
「違います。」
真壁さんは蓋へ指を添えた。
くるり。
軽く回すだけで蓋が外れる。
「ねじ込み式です。」
セルマさんも真似をする。
くるり。
するり。
「……軽い。」
今度は閉めてみる。
くるり。
ぴたり。
思わず何度か繰り返した。
「早いわ。」
「何度開け閉めしても同じ。」
「密閉性も高い。」
真壁さんは静かにうなずく。
「容器も。」
「生産設備の一部です。」
「治癒草だけ増えても。」
「瓶が無ければ出荷できません。」
セルマさんは棚いっぱいに積まれた木箱を見渡した。
「ここまで準備してたのね……。」
その声には、驚きというより感心が混じっていた。
真壁さんは倉庫のさらに奥へ歩き出す。
「地下2階をご案内します。」
「こちらは日々使う資材。」
「地下2階は。」
「工房を止めないための倉庫です。」
真壁さんは地下1階の奥にある、もう一つのエレベーターの操作盤へ手を伸ばした。
地下2階。
その文字を押す。
「まだ下があるんですか。」
思わず私が聞くと、真壁さんは静かにうなずいた。
「ええ。」
「こちらは備蓄です。」
セルマさんも興味深そうに箱へ乗り込む。
「毎日使う物は上。」
「じゃあ下には何があるの?」
「ご覧いただいた方が早い。」
エレベーターはゆっくりと下降を始めた。
ほんの数秒。
静かな音とともに止まり、扉が左右へ開く。
地下2階は、地下1階とはまるで雰囲気が違っていた。
棚は同じように整然と並んでいる。
だが、通路は広く、棚の半分近くはまだ空いていた。
セルマさんが不思議そうに周囲を見回す。
「……空いてる。」
「ええ。」
真壁さんは静かに歩き始める。
「ここは毎日使う倉庫ではありません。」
「備蓄倉庫です。」
棚には木札が掛けられていた。
『乾燥治癒草』
『液肥原料』
『予備照明』
『予備ポンプ』
『交換部品』
『予備栽培槽』
『予備バッテリー』
『非常食』
セルマさんは、一つひとつの札を読みながら歩いていく。
「予備……ばかり。」
「いかにも。」
「壊れた時。」
「雪で街道が閉ざされた時。」
「供給が止まった時。」
「工房は止めません。」
セルマさんは静かにうなずいた。
「冬ね。」
「毎年、大雪の日は荷馬車も来ないもの。」
「ええ。」
「だからこそ。」
「冬の前に備えます。」
真壁さんは、一列まるごと空いている棚を指差した。
「ここも備蓄です。」
「まだ何も置いてないじゃない。」
「今は必要ありません。」
「弟子が増えれば。」
「治癒草も増える。」
「薬瓶も増える。」
「資材も増える。」
「そのための余裕です。」
私は思わず笑ってしまった。
「まだ工房が完成したばかりなのに、もう足りなくなることを考えてるんですね。」
「建物は。」
「完成した時が終わりではありません。」
真壁さんは静かに答える。
「成長を受け入れられない建物は。」
「やがて建て直しになります。」
セルマさんは空いた棚へ手を触れ、小さく笑った。
「先のことまで考えてあるのね。」
「当然です。」
「あなたには。」
「工房を建てていただくのではありません。」
「錬金術師を育て続けていただきます。」
地下2階は静かだった。
けれど、その静けさは空虚ではない。
まだ使われていない棚には、これから何十年も続いていく工房の未来が、そのまま残されているように見えた。
地下二階を見終えると、真壁さんはエレベーターへ向かった。
「最後です。」
三人で乗り込む。
真壁さんが「1」の表示を押すと、箱は静かに上昇を始めた。
「これだけ上下すると。」
セルマさんが苦笑する。
「階段だったら大変ね。」
「そのための昇降機です。」
真壁さんはいつもの調子で答える。
「毎日使う設備ほど。」
「人を楽にします。」
私は思わず笑ってしまう。
「それ、本当に真壁さんらしい考え方ですね。」
小さな音とともに扉が開く。
一階だった。
夕暮れの光が正面玄関から差し込み、広いロビーを黄金色に染めている。
セルマさんはゆっくりと辺りを見回した。
「ここが……入口。」
「ええ。」
「すべての来客は、まずこちらへ。」
受付台は横に長く、数人が並んでも余裕がある。
背後には書類棚。
帳簿棚。
依頼品を一時的に預かる棚まで設けられていた。
「受付が必要なの?」
セルマさんが首をかしげる。
「いかにも。」
真壁さんは静かに答えた。
「弟子。」
「患者。」
「商人。」
「領主家。」
「職人。」
「来訪理由は、それぞれ違います。」
「いきなり工房へ入れてしまえば。」
「仕事が止まります。」
セルマさんは思わず苦笑した。
「私は今まで、誰でも工房へ通してたわ。」
「知っております。」
「だから受付です。」
私は受付の向こうを見た。
もう一枚、大きな扉がある。
真壁さんが静かに開いた。
中には、大きな楕円形の机が置かれていた。
二十人近くが座れる広さ。
壁には黒板。
そして、一面の白い壁。
「会議室です。」
「ここでは。」
「何を話すの?」
セルマさんが尋ねる。
「研究。」
「教育方針。」
「新しい治癒草。」
「新しいポーション。」
「領主家との打ち合わせ。」
「商談。」
「工房運営。」
真壁さんは机へ軽く手を置いた。
「工房長の仕事は。」
「薬を作るだけではありません。」
「組織を動かすことです。」
セルマさんは、しばらく黙って会議室を見つめていた。
そして、小さく笑う。
「私。」
「今日一日で。」
「錬金術師じゃなくて。」
「工房長になる勉強をした気がするわ。」
真壁さんも、わずかに口元を緩めた。
「その認識で結構です。」
私は思わず吹き出してしまう。
セルマさんも笑う。
長かった建物の案内も、もう終わりだった。
真壁さんは玄関へ向かって歩き出す。
「それでは。」
「外へ参りましょう。」
大きな扉がゆっくりと開き、夕暮れの風がロビーへ流れ込んできた。
夕暮れの風が、頬を優しく撫でていく。
玄関を出たセルマさんは、二、三歩歩いたところで自然と立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。
「……。」
言葉が出なかった。
夕焼けを背に、白い五階建ての工房が静かにそびえ立っている。
大きな窓が夕陽を映し、屋上では風車がゆっくりと回っていた。
町で一番高い建物。
それなのに威圧感はなく、どこか堂々としている。
この町へ、ずっと前から建っていたかのような不思議な存在感だった。
「私の……工房。」
小さくつぶやく。
その声は、建物へ問い掛けているようでもあり、自分へ言い聞かせているようでもあった。
私は少し離れた場所から、その横顔を見つめていた。
朝は怒っていた。
泣きそうにもなっていた。
工房を返してほしいと言っていた。
でも今は違う。
目の前の建物を見上げる瞳には、不安よりも覚悟が宿っていた。
真壁さんが静かに隣へ並ぶ。
「セルマ君。」
「はい。」
「あなたは以前、おっしゃいました。」
「冬になるたび。」
「薬が足りないと。」
「ええ……。」
「もっと作れたなら。」
「助かった命があったと。」
セルマさんはゆっくりとうなずく。
「そうね。」
「何度も思ったわ。」
「あと少し薬があればって。」
「でも。」
「私一人じゃ限界があった。」
真壁さんは建物を見上げたまま言う。
「だから器を造りました。」
「後は。」
「人です。」
夕暮れの風が、三人の間を静かに吹き抜ける。
「弟子を育て給え。」
「一人の名工ではなく。」
「百人の錬金術師を育てる工房長になり給え。」
セルマさんは建物を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。
長い沈黙だった。
やがて、小さく笑う。
「ずいぶん大きな宿題をもらったわね。」
「いかにも。」
「ですが。」
「セルマ君なら出来ます。」
「そのための建物です。」
私は思わず真壁さんを見る。
珍しい。
こんなふうに、誰かへ真っ直ぐ期待を口にするなんて。
セルマさんは目を閉じ、一度だけ大きく息を吸った。
そしてゆっくりと振り返る。
「……分かったわ。」
「やる。」
「この工房を使わせてもらう。」
「弟子も育てる。」
「私一人で薬を作る工房じゃない。」
「みんなで命を守る工房にする。」
真壁さんは静かにうなずいた。
「それで結構。」
セルマさんはもう一度、夕焼けに染まる五階建ての工房を見上げた。
その姿は、もう朝までの小さな工房ではなかった。
一人の錬金術師が働く場所でもない。
何十人もの錬金術師が学び、育ち、技術を受け継いでいく場所。
私はその建物を見上げながら、大学の校舎を思い出していた。
先生から学生へ。
学生から後輩へ。
知識は、一人で抱え込むものじゃない。
受け継がれて初めて、多くの人を支えられる。
きっと、この工房も同じなんだ。
私の目には、この五階建ての建物は工房ではなく、一つの学校のように見えていた。