押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第18話 畦の豆、鍋の豆

 

 リュシアの屋台裏に、夕方前の熱が残っていた。

 

 水飴で作った補水用の飲み物は、木箱の上に何本か並んでいる。水筒代わりの透明な容器には、首のところに紐が結ばれ、誰が使う分か分かるように小さな木札がぶら下がっていた。トトたちは荷を運ぶ途中でそこへ戻り、リュシアに目で確認されてから一口ずつ飲む。最初は甘さの足りなさに文句を言っていた子供たちも、暑い中で歩いた後には、薄い甘さの方が喉に残らないことを覚え始めていた。

 

 それでも、澪は気になっていた。

 

 トトは元気そうに振る舞っている。年下の子に容器を渡す時も、わざと大人ぶった顔をする。だが、腕が細い。肩も薄い。荷物を持ち上げる時、最初だけ勢いがあって、すぐ腰を入れてごまかす癖がある。もっと小さい子は、屋台裏に戻ると木箱の端に腰を下ろし、器を両手で抱えたまま、しばらく立てなくなる。

 

 補水用の飲み物を渡すと、少し持ち直す。

 

 だが、それは火の落ちかけた炭に息を吹くような戻り方だった。

 

 澪はトトを見た。

 

 トトは視線に気づき、にやっと笑った。

 

「なに、澪姉ちゃん。俺、今日は倒れてないよ」

 

「倒れてないだけで、自慢しないでください」

 

「倒れたら怒られるし」

 

「倒れる前に休んでください」

 

「休むと、荷が減らない」

 

 それを聞いて、澪は黙った。

 

 リュシアが鉄板の横で手を拭きながら、澪の顔を見た。

 

「水と塩だけじゃ足りない顔だね」

 

 澪は少し迷い、トトへ目を向けたまま鑑定した。

 

----------------------------------

トト

 体力:低下気味

 筋力:年齢相応よりやや低い

 水分:改善中

 塩分:改善中

 糖分:一時補給あり

 たんぱく質:不足

 ビタミン:不足気味

 疲労:蓄積

 成長:要観察

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 表示を見た瞬間、澪は唇を結んだ。

 

 水分も塩分も、前より悪くない。糖分も一時的には入っている。けれど、そこではなかった。足りないものは、もっと身体の内側にあった。毎日少しずつ不足して、そのまま積み重なっているものだった。

 

「身体を作るものが足りてないみたいです。あと、野菜みたいなものも」

 

「肉かい」

 

 リュシアはすぐそこへ行く。

 

「肉もです。でも、毎日肉だけは無理ですよね」

 

「無理だね。金が飛ぶ」

 

 トトが器を持ったまま振り返った。

 

「肉がいい」

 

「肉だけ食わせたら屋台が潰れる」

 

「じゃあ、潰れないくらいの肉」

 

「そういう注文が一番面倒なんだよ」

 

 そこへ、少年服姿のエレナが当然のように入ってきた。帽子の下から赤い髪が少しこぼれている。護衛はその後ろで、もう何か言われる前から身構えていた。

 

「なら、肉を増やせばよい」

 

 エレナは真面目に言った。

 

 リュシアは、鍋の蓋をずらして中を確認しながら返した。

 

「姫様、一日だけならできます。でも、明日も明後日も続ける話です」

 

 エレナは口を開きかけ、少し黙った。

 

 最近、その言葉だけは効くようになっている。続ける。毎日。次も。そのあたりの言葉を出されると、エレナは勢いだけでは押し切れない顔をするようになった。

 

 澪はその横顔を見て、少しだけ救われた気がした。

 

 

 

 

 

 澪は、豆という言葉を出す前に迷った。

 

 自分の頭の中には大豆がある。味噌、豆腐、納豆、節分の豆、スーパーで売っている乾燥大豆。けれど、それをそのままリュシアに言っても伝わらない。この世界に大豆はない。なら、まずこの世界の豆を聞くしかなかった。

 

「このあたりで、人が食べる豆って何がありますか」

 

 リュシアは鍋の横で手を止めた。

 

「そら豆と、えんどう豆なら見るね。煮込みに入れる家もある。畦に植える家もあるし、牛や羊に食わせることもあるよ」

 

「家畜の餌にもなるんですね」

 

「豆は腹にたまるからね。ただ、毎日子どもに食わせるものとしては、あんまり主役じゃない」

 

 ちょうど近くに、豆や麦を小袋で売る男が荷を下ろしていた。リュシアが声をかけると、男は澪の話を少し聞いて、袋の口を広げて見せた。

 

「そら豆は煮る。えんどう豆は粥に混ぜる家もある。けど、肉の代わりに毎日食うってほどじゃないな。家畜に混ぜる方が多い家もある」

 

 澪は袋の中をのぞいた。見慣れた大豆はない。似ていると思いたくなる豆はあるが、違う。粒の形も、使われ方も、ここでの扱いも違う。

 

「畦に植えるんですか」

 

 澪が聞くと、リュシアはうなずいた。

 

「植える家もある。豆の後は土がひどく痩せないって農家は言うね。でも、豆を植えれば勝手に畑がよくなるなんてうまい話じゃないよ」

 

 その言葉に、澪の頭の中で何かが引っかかった。

 

 豆の根に小さな粒ができる。土を助ける。小説だったか、ネットの記事だったか、学校の授業の端に出てきた話だったかもしれない。澪は詳しいわけではない。けれど、聞いたことはある。

 

「豆の根っこに小さい粒ができて、土を助けることがあるって、読んだことがあります」

 

「読んだ?」

 

「小説か、ネットの記事か、たぶんそんなものです」

 

 リュシアは笑わなかった。かわりに、豆売りの男の袋を見てから言った。

 

「なら、まず農家に聞くことだね」

 

「農家に?」

 

「畑のことは、畑を見てる者が一番知ってる。澪の読んだ話が本当でも、この土地で同じことになるかは別だよ」

 

 澪はうなずいた。

 

 そのとおりだった。

 

 知識は便利だ。けれど、畑の土に勝手に根を張ってくれるわけではない。

 

 

 

 

 

 その夜、六畳間の机の上で、澪はスマホを握っていた。

 

 小金貨の布袋は机の端に寄せてある。帳面は開いたまま。ペットボトルの空き容器が一本、鉛筆の横に転がっている。通販で届いたタオルの箱はまだ開けていない。押し入れは異世界への入口のはずなのに、最近は入口の前に置く物が増えすぎて、扉の開け閉めにも気を使う。

 

 澪は相談画面を開き、ゆっくり入力した。

 

 この異世界には大豆がありません。そら豆とえんどう豆はあります。畦道にも生えていて、牛、馬、羊、山羊の飼料にもなっています。市場の子どもたちのたんぱく質不足とビタミン不足を改善したいです。現代から大豆を持ち込んで、食用と栽培用に分けて広めたいです。どう進めればいいですか。

 

 送信してから、澪は画面を見つめた。

 

 返ってきた答えは、まず食べ方だった。水に浸す。しっかり加熱する。潰し豆スープ。豆粥。豆団子。生では食べさせない。食べる分と植える分を分ける。少量から始める。

 

 そこまでは、分かる。

 

 だが、澪の指は途中で止まった。

 

「……肥料は?」

 

 さっき、リュシアが言っていた。豆の後は土がひどく痩せないと農家が言う、と。だったら食べる話だけでは足りない。

 

 澪はもう一度入力した。

 

 大豆は肥料になりますか。畦に植える意味はありますか。根粒菌は異世界の土にもありますか。そら豆とえんどう豆がある土地で、大豆は育ちますか。収穫後の茎や葉はどう扱えばいいですか。

 

 返答は、さっきよりずっと面倒だった。

 

 大豆はマメ科で、根粒菌と共生すれば土を助ける場合がある。ただし、大豆に合う菌がその土地にいるとは限らない。そら豆やえんどう豆が育つ土地でも、大豆で同じことが起きるかは試す必要がある。豆を取って全部持ち出すだけでは、畑が勝手に豊かになるわけではない。根をできるだけ残す。茎や葉や莢殻は、麦わらや家畜の糞と一緒に積み、水分を見ながら寝かせる。湿りすぎれば嫌な匂いが出る。乾きすぎればうまく変わらない。時々崩して混ぜ、よく寝かせてから畑へ戻す。

 

 澪はスマホを持ったまま固まった。

 

「豆、収穫した後も仕事があるんだ……」

 

 食べるだけでは終わらない。植えても終わらない。取った後に茎や葉が残る。根も残る。麦わらや家畜の糞まで話に入ってくる。

 

 さらに、トトの鑑定結果に出たビタミン不足が気になった。澪は続けて入力した。

 

 大豆を発芽させて、もやしとして食べられますか。ビタミン不足にも役立ちますか。

 

 画面はまた答えた。

 

 大豆もやしとして食べられる。発芽で一部のビタミンが増える。暗い場所、こまめな水替え、清潔な容器が必要。ぬめりや嫌な匂いが出たら廃棄。基本は加熱して食べさせる。畑から新しい野菜を運びにくい町中では、短期間で作れる新鮮な食材として価値が出る可能性がある。

 

 澪は画面を見つめた。

 

「また洗う話が増えた……」

 

 補水飲料でも洗った。ボトルも洗った。フタも洗った。水飴の木べらも洗った。今度は、豆を発芽させる器を洗うらしい。

 

 異世界商売は、思ったよりかなり水仕事だった。

 

 

 

 

 

 通販画面に、大豆百キロ、二万円と表示されていた。

 

 澪は、しばらくその数字を見つめた。

 

 画面の中では、百キロはただの文字だった。価格も、現代日本の買い物としては高いが、手が届かない金額ではない。小金貨のことを考えれば、むしろ安いとすら思える。

 

 だが、澪は六畳間を見回した。

 

 十キロ袋が十個。

 

 タオルの箱がある。扇子の段ボールがある。ペットボトルの空き容器がある。帳面がある。小金貨の布袋がある。押し入れは異世界への入口だが、入口の前に物を置きすぎると、そもそも異世界へ行けなくなる。

 

 澪は数量を減らそうとした。

 

 料理を試すだけなら、百キロはいらない。子どもたちのまかないに少し使うだけなら、十キロでも多いかもしれない。

 

 けれど、指を折り始めると、すぐに困った。

 

 料理を試す分がいる。子どもたちへ出す分がいる。芽が出るか見る分がいる。もやしにする分がいる。農家へ畦や畑の端で試してもらう分がいる。うまくいかない分もいる。虫や湿気でだめになる分もいる。

 

「料理だけなら少なくていい。でも、芽を見る分と、植える分と、失敗する分を入れると……」

 

 指が足りなくなった。

 

 澪は一度、深呼吸した。

 

 それから注文確定を押した。

 

 画面が切り替わる。注文を受け付けました、という文字が表示される。

 

 澪はその画面を見つめたまま、動けなくなった。

 

「……私、豆屋になるの?」

 

 誰も答えない。

 

 六畳間のペットボトルだけが、机の上で静かに転がった。

 

 

 

 

 

 数日後、玄関に大豆が来た。

 

 大豆十キロ袋が十個。

 

 配達員は慣れた様子で荷物を置き、澪に確認を求め、普通に帰っていった。普通だった。配達員にとっては、ただの通販荷物である。

 

 澪にとっては普通ではなかった。

 

 一袋を持ち上げようとして、腕が止まる。十キロ。米袋ならまだ想像できた重さだが、それが十個ある。廊下に積まれた袋は、大学生の一人暮らしに対して明らかに多すぎた。

 

「二万円って、こういう重さなんだ……」

 

 澪は一袋ずつ引きずるようにして六畳間へ入れた。五袋目あたりで、もう部屋が豆屋に見え始めた。残りを見て、澪は現実逃避しかける。

 

 だが、ここで収納を思い出した。

 

 大鍋はいけた。水飴入り小樽もいけた。なら、大豆もある程度はいけるはずだ。

 

 澪は一袋に手を置いた。

 

 食用試験分。乾燥。生食禁止。水濡れ注意。子どもに勝手に食べさせない。

 

 意識すると、一袋が収納に入った。

 

 次の袋に手を置く。

 

 発芽試験分。少量ずつ使う。清潔な器で水に浸す。嫌な匂いが出たら捨てる。

 

 二袋目も入る。

 

 三袋目は、もやし用。暗所、水替え、ぬめり注意。加熱して食べる。四袋目は、栽培用。農家へ少量ずつ渡す。畦または畑の端。五袋目は予備。虫、湿気、失敗、煮方失敗に備える。

 

 五袋目まで入った時、澪は少しだけ笑った。

 

「半分入った……」

 

 喜びかけて、床を見た。

 

 十キロ袋が五つ、まだ六畳間に残っていた。

 

「半分残った……」

 

 収納でかなり助かった。それは間違いない。だが、部屋はまだ豆に占領されている。ベッドから机へ行く動きが、明らかに細くなった。押し入れの前にも、絶妙に邪魔な袋が一つある。

 

 澪はそれを見て、苦笑した。

 

 収納が便利になっても、六畳間が広くなるわけではない。

 

 

 

 

 

 リュシアの屋台裏に大豆の袋を出すと、リュシアはしばらく黙った。

 

 トトはすぐ寄ってきた。エレナも当然のようにいた。護衛は袋の数を見て、今日は甘い物ではないと判断したのか、少しだけ油断している。

 

 リュシアは袋を一つ持ち上げようとして、途中でやめた。

 

「澪、あんた今度は豆屋になる気かい」

 

「違います。たんぱく質です」

 

「たんぱく……何?」

 

「身体を作る材料です」

 

 リュシアは一拍置いた。

 

「なら、まず煮よう。説明は煮てからでいい」

 

 澪は納得した。

 

 説明は長くなる。リュシアはたぶん、先に味を見て、食べられるかどうか確認したいのだ。どれほど栄養があっても、子どもが食べないなら屋台では扱えない。

 

 トトが袋へ近づき、口紐に手を伸ばした。

 

「これ、食べていい?」

 

「トト」

 

 リュシアの声が飛ぶ。

 

「まだ食べてない」

 

「また、まだって言ったね」

 

「水飴と違って甘くなさそう」

 

「甘くなくても、勝手に食べない」

 

 澪もすぐに言った。

 

「これは生で食べないでください。お腹を壊すかもしれません」

 

 トトは大豆の袋から一歩離れた。ついでにエレナも半歩離れた。

 

 護衛はそれを見て、少し安心した顔をした。

 

 

 

 

 

 リュシアは、豆売りの男を呼んだ。

 

 男は大豆を手のひらに乗せ、目を細めた。そら豆やえんどう豆を見慣れた指先で、粒を転がす。

 

「そら豆より小さいな」

 

 別の粒をつまむ。

 

「えんどう豆とも違う。家畜に食わせる豆の親戚に見えるが……人が食べるのかい?」

 

「しっかり煮れば食べます」

 

 澪が答えると、男は疑うよりも面白がる顔をした。

 

「煮るのか。潰すのか」

 

「潰してスープにするつもりです。あと、芽が出るかも見ます」

 

「芽?」

 

 エレナがそこへ入ってきた。

 

「新しい豆か」

 

「この世界にはない豆みたいです」

 

「なら父上に……」

 

「姫様」

 

 リュシアがすぐ止めた。

 

「まだ芽が出るかも、腹を壊さないかも、味も分かっていません」

 

 エレナは不満そうに眉を寄せたが、すぐに引いた。以前なら「父上に見せれば早い」と押し切ったかもしれない。だが、今は違う。続けるためには、先に試す。少しだけ覚え始めている。

 

「では、まず煮るのだな」

 

「はい」

 

 澪はうなずいた。

 

 豆売りの男は、手のひらの大豆を袋へ戻しながら言った。

 

「家畜が食うかも見ておいた方がいい。山羊は変なものでもかじる」

 

「山羊ずるい」

 

 トトが言った。

 

「トトも勝手に食べようとしただろう」

 

 リュシアが返すと、トトは口を閉じた。

 

 

 

 

 

 澪は、食べる分とは別に、大豆を小さな器へ分けた。

 

 発芽を見る分。もやしにする分。農家へ渡す分。すぐ鍋に入れる分。袋を分けるたびに、澪は頭の中で注意を繰り返した。生で食べない。水を替える。嫌な匂いがしたら捨てる。子どもに勝手に触らせない。

 

 リュシアが、浸す器を見ながら聞いた。

 

「芽が出たら、畑に植えるんじゃないのかい」

 

「植える分と、食べる分を分けます。芽が出るか見る分と、もやしとして食べる分も」

 

「芽を食べる?」

 

 トトがすぐ反応した。

 

「豆なのに草?」

 

「もやしです」

 

「草じゃん」

 

「豆の芽です」

 

「じゃあ豆草」

 

「もやしです」

 

 澪は、少しだけ強く言った。

 

 エレナが器をのぞき込む。

 

「屋敷でも作れるのではないか」

 

「作れます。でも、水替えを忘れると腐ります。ぬめったり、嫌な匂いがしたら食べられません」

 

 エレナは一瞬考え、護衛を見た。

 

「覚えておけ」

 

 護衛は即答した。

 

「私の仕事ではありません」

 

「私はまだ命じていない」

 

「命じる前にお断りしました」

 

 トトが笑った。

 

 リュシアは器を見ながら言った。

 

「また洗う話だね」

 

「はい」

 

 澪は沈んだ声で答えた。

 

 大豆もやしは便利そうだ。町中でも作れる。野菜が少ない時にも役に立つかもしれない。だが、また洗う。結局、清潔な容器と水替えが必要になる。

 

 押入商会の仕事は、だんだん水場から離れられなくなっていた。

 

 

 

 

 

 栽培用の大豆を別の小袋へ分けていると、エレナがその袋に目を止めた。

 

「畦に植えるのか」

 

「いきなり畑いっぱいは怖いので、まず小さい場所で」

 

 リュシアもうなずく。

 

「農家に頼むなら、そら豆やえんどう豆を作ってる家がいいね。豆の扱いを少しは知ってる」

 

 澪は、スマホの画面に出ていた説明を思い出しながら、慎重に言葉を選んだ。

 

「この豆の根っこにも、小さい粒ができるかもしれません。それが土を助けることがあるそうです。でも、この土で同じことが起きるかは分かりません」

 

「分からないなら、試すしかないね」

 

 リュシアはあっさり言った。

 

 澪は続ける。

 

「豆を取ったあと、茎や葉や莢を全部捨てたり、全部持ち出したりしない方がいいみたいです」

 

「どうするんだい」

 

「麦わらや家畜の糞と一緒に一箇所に集めて、少し湿らせて、寝かせます。熱を持ったら時々崩して混ぜて、よく寝たら畑に戻すと、肥やしになるらしいです」

 

 リュシアは少し考えた。

 

 難しい顔ではない。農家にどう伝えるか、言葉を選んでいる顔だった。

 

「それなら農家にも通じるね。麦わらも糞も、畑の端に積む家はある。そこに豆の茎と莢を混ぜるって言えばいい」

 

「根っこは?」

 

「根に粒が出るか見たい、と言えばいい。珍しい豆だから、抜いたら見せてくれってね。全部抜かずに残せるなら残す。農家のやり方もあるだろうから、そこは任せる」

 

 リュシアは、澪が言ったことを少し荒く、しかし通じやすい言葉へ直していく。

 

「珍しい豆がある。畦か畑端で少しだけ見てくれ。芽が出るか、虫がつくか、山羊が食うか、人が食えるまで育つか、それを見る。豆を取った後の茎や莢は、麦わらと糞と一緒に積んで寝かせる。根に粒が出るかも見たい」

 

 澪は、その方がずっと伝わると思った。

 

 エレナは目を輝かせている。

 

「根も見るのか」

 

「はい」

 

「土も見るのだな」

 

「はい」

 

 トトが横から言った。

 

「根っこ見るより肉がいい」

 

 リュシアは即答した。

 

「肉を食べるためにも畑はいるんだよ」

 

 トトは難しい顔になった。

 

 少しだけ、畑に負けた顔だった。

 

 

 

 

 

 リュシアは、市場へ豆を運んでくる農家の使いに声をかけた。

 

 澪が前に出ると、話が難しくなりすぎる。だから最初はリュシアが話した。珍しい豆があること、いきなり大きな畑には入れないこと、畦か畑の端で少し試したいこと。芽が出なければそれまででいいこと。家畜がかじるかもしれないので、そこも見たいこと。

 

 農家の使いは、大豆を手に取って、指で押した。

 

「固いな」

 

「水に浸して煮る。植える分は別だよ」

 

 リュシアが言うと、使いは少し考えた。

 

「畦なら少しは見られる。そら豆の端に、これを入れてみるか。ただ、山羊がかじるぞ」

 

「山羊ずるい」

 

 またトトが言った。

 

 リュシアが振り向く。

 

「トトも勝手に食べようとしただろう」

 

「俺は山羊じゃない」

 

「やってることは近いね」

 

 トトは不満そうだった。

 

 澪は、農家の使いに頭を下げた。

 

「食用大豆なので、芽が出ないかもしれません。まず少しだけでお願いします」

 

「芽が出なけりゃ、そう言う。出たら、虫を見る。伸びたら山羊を見る。食えるまで育ったら、また言う」

 

 その言い方は乱暴だったが、澪には頼もしく聞こえた。

 

「あと、取った後の茎や葉なんですが」

 

 澪が言いかけると、リュシアが引き取った。

 

「麦わらと糞と一緒に積む話だよ。澪はそれも見たいんだ」

 

 使いは少し笑った。

 

「豆を持ってきて、糞の話まで持ってくるのか」

 

 澪は恥ずかしくなった。

 

「すみません」

 

「いや、農家は嫌いじゃない話だ」

 

 その一言で、澪は少し安心した。

 

 

 

 

 

 潰し豆スープの試作は、思ったより地味に始まった。

 

 大豆はすぐ食べられない。水に浸し、時間をかけて煮る必要がある。この場では、澪があらかじめ少量だけ準備したものを使った。全部を一気に鍋に入れる勇気はない。

 

 煮た大豆を潰すと、豆の匂いが立った。

 

 悪い匂いではない。けれど地味だった。とても地味だった。トトが横で「肉は?」と聞く前から、澪には言われる気がしていた。

 

 澪は現代側で見た料理動画を思い出した。

 

 リョウジさんは、うま味を怖がらない。豆だけで勝負すると地味になるなら、うま味を足せばいい。現代には、それを力強く助けてくれる白い粉と、出汁の粉がある。

 

 澪は、潰した豆へ少量の出汁の素を入れた。さらに味の素を少し足す。異世界側の端肉も少し、干し魚もほんの少し。野菜くずも刻んで入れる。塩は入れすぎない。

 

 リュシアが眉を上げた。

 

「澪、それは何だい」

 

「うま味です」

 

「また分からない言葉が出たね」

 

「豆をおいしくする粉です」

 

「最初からそう言いな」

 

 鍋から出汁の香りが立ち始めると、トトが黙った。

 

 さっきまで「肉は?」と聞いていた顔が、鍋の方へ寄っていく。リュシアも中をのぞいた。エレナは鼻をひくつかせ、護衛はそれを見て少し警戒する。

 

「肉は?」

 

 トトが、やっぱり聞いた。

 

「少し入っています」

 

「少し?」

 

「今日は豆が主役です」

 

「豆、地味」

 

 澪は少し傷ついた。

 

 けれど、出汁の香りがさらに強くなると、トトは黙ったままだった。器を差し出されると、まず匂いを嗅ぐ。

 

「さっきより、うまそう」

 

「さっきって言わないでください」

 

 トトは一口飲んだ。

 

 豆のざらつきは残っている。完全になめらかなスープではない。けれど、出汁の味が先に来るので、ただの豆の煮汁にはならなかった。少し入れた端肉の匂いと、干し魚の香りと、現代側の出汁の素が混ざって、屋台裏の気配が急に食事らしくなる。

 

「肉は少ない」

 

「はい」

 

「でも、肉の味はする」

 

「そこが大事です」

 

 トトはもう一口飲んだ。

 

「これなら飲める」

 

 澪は心の中で、動画の向こうの料理人に深く頭を下げた。

 

 エレナも器を受け取り、慎重に味見した。

 

「これは屋敷の料理ではないな」

 

 澪は少し身構える。

 

 エレナは続けた。

 

「だが、荷を運ぶ前の子どもにはよさそうだ。腹に残る。味も薄すぎぬ」

 

 澪は、少し驚いてエレナを見た。

 

 エレナは、今日は自分が好きかどうかだけで見ていない。誰が、いつ食べるものかを考えている。少しずつ、本当に少しずつだが、見方が変わっている。

 

 護衛もそれに気づいたのか、少しだけ表情を緩めていた。

 

 

 

 

 

 数日後、リュシアの屋台裏の暗い棚で、澪は布をかけた器をそっと開けた。

 

 白い太い芽が、いくつか伸びている。

 

 完璧ではない。全部がきれいに芽を出したわけでもない。けれど、出ている。澪は思わず息を吐いた。

 

「出ました」

 

 トトがのぞき込む。

 

「豆草」

 

「もやしです」

 

「しゃきしゃきする?」

 

「加熱してからです」

 

「また加熱」

 

「お腹を壊したくないでしょう」

 

 トトは納得したくなさそうだったが、腹を壊すと言われると少し下がる。

 

 エレナも棚を見た。

 

「畑から運ばずに、町中で作れるのか」

 

「水を替えて、清潔にできれば」

 

 リュシアが目を細めた。

 

「それ、町中で欲しがるね。冬や雨続きで青いものが少ない時は、特に」

 

 澪は、はっとした。

 

 大豆もやしは、栄養改善のためだけではない。畑から運ばず、町の中で短い日数で作れる新鮮な食材だ。生鮮食品が乏しい場所では、思った以上に価値があるのかもしれない。

 

 だが、リュシアはすぐ釘を刺した。

 

「でも、ぬめったら捨てる。嫌な匂いがしたら捨てる。そこをケチると腹を壊す」

 

「はい」

 

「水を替えるのを忘れたら、売り物にしない」

 

「はい」

 

「子どもに任せきりにしない」

 

「はい」

 

 エレナが護衛を見た。

 

「覚えておけ」

 

「私の仕事ではありません」

 

 護衛の返事は、もう少し疲れていた。

 

 

 

 

 

 リュシアは小袋と皿を並べた。

 

 その様子を見て、澪は小金貨を小皿へ分けた日のことを思い出した。金を分けた時と同じだ。大豆も、先に行き先を決めなければならない。袋に入ったままだと、全部食べていい豆に見えてしまう。

 

 リュシアが袋を一つ手に取る。

 

「これは鍋に入れる」

 

 澪が札を書く。

 

 次の袋を縛る。

 

「これは水に浸して芽を見る」

 

 澪がまた札を書く。

 

「これは暗い棚で育てる。ぬめったら捨てる」

 

「はい」

 

「これは農家へ持っていく。畦か畑端で少しだけ」

 

「はい」

 

「これは子どもが勝手に食べない場所へ」

 

 トトが不満そうにした。

 

「なんで」

 

「生で食べると腹を壊すかもしれないから」

 

 トトはすぐ離れた。

 

 エレナも少し離れた。

 

 護衛が安堵する。

 

 エレナは畦用の袋へ目を向けた。

 

「それは私が持っていってもよいか」

 

「持ち帰る話ではありません」

 

 護衛が即座に止めた。

 

「私は畦を見たいだけだ」

 

「見たいだけで袋を持つ必要はありません」

 

 リュシアは笑いながら、最後の袋を縛った。

 

「豆は、鍋だけじゃ終わらないね」

 

 澪は札を置いて、並んだ袋を見た。

 

「畦と、棚と、土まで来ました」

 

「次は何が来るんだい」

 

 リュシアがそう言う。

 

 澪は答えられなかった。

 

 経験上、こういう時に答えると、本当に次の問題が来る。

 

 

 

 

 

 現代側へ戻ると、六畳間にはまだ大豆の袋が残っていた。

 

 収納へ半分ほど入れたはずなのに、床の上には十キロ袋が五つある。場所を取る。圧がある。地味な袋なのに、存在感だけは強い。

 

 澪は、なんとなく鑑定を開いた。

 

----------------------------------

篠原澪

 体力:41

 筋力:29

 集中:46

 睡眠:回復

 栄養:改善中

 鑑定:3

 収納:3

 商才:芽あり

 衛生管理:上昇中

 在庫管理:上昇中

 容器管理:発生

 栄養管理:発生

 栽培知識:芽

 課題進捗:完了

----------------------------------

 

「収納、上がってる……!」

 

 澪は一瞬だけ喜んだ。

 

 大鍋。水飴小樽。大豆五十キロ。たしかに、扱えるものは増えている。頭の中で用途ごとに登録する感覚も、前よりはっきりしてきた。

 

 だが、床を見た。

 

 大豆十キロ袋が五つ、そこにある。

 

 収納が上がっても、部屋が広くなるわけではない。

 

 スマホには配送完了通知が残っている。机には帳面がある。壁際にはタオルの箱と扇子の段ボールがある。ペットボトルの空き容器もある。小金貨の布袋もある。そこへ、大豆。

 

 押し入れは異世界への入口であって倉庫ではない。

 

 少なくとも、そのはずだった。

 

 澪は大豆の袋を見下ろし、ため息をついた。

 

 豆は地味だと思っていた。

 

 でも、地味なものほど、部屋では場所を取る。

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