押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第180話 冬を越す薬草園

 薬草園主は、荷車の軋む音を聞きながら、いつもの角を曲がった。

 

 朝の町には、夜の冷たさがまだ残っていた。石畳の隙間には薄い霜が白く張りつき、パン屋の煙突から立ち上る煙は、風のない空へ細く伸びている。

 

 荷車には、朝露を払ったばかりの治癒草と、咳止めに使う細葉草、胃薬へ混ぜる苦根草、傷薬の材料になる赤筋葉が積まれていた。土の匂いも、籠の重さも、左側の車輪だけが小石を踏むたびに鳴らす音も、何年も繰り返してきた日常の一部である。

 

 今日もセルマの工房へ薬草を納め、品質を見てもらい、次の納品日を決めて帰る。

 

 そのはずだった。

 

 園主は通りの先へ目を向けたまま、足を止めた。

 

 古びた木造の工房があった場所に、白い壁の巨大な建物が立っていた。

 

 大きな窓が朝日を弾き、見上げれば首が痛くなるほど高い。屋上では、見慣れない羽根がゆっくりと回っている。

 

 園主は荷車の取っ手を握ったまま、しばらく考えた。

 

「……道を間違えたか」

 

 後ろを振り返る。

 

 通りの角にある井戸は、いつもどおりだった。向かいの革細工屋もある。去年、荷車をぶつけて欠けさせた壁の角まで残っていた。

 

 場所は合っている。

 

 もう一度、正面を見る。

 

 やはり知らない建物だった。

 

 園主は荷車を置き、建物の横へ回った。裏側に元の工房が隠れているのではないかと考えたのだ。

 

 しかし、歩いても歩いても白い壁が続く。

 

「セルマ先生、とうとう工房ごと逃げたか」

 

 逃げる理由は思いつかなかったが、建物が突然5階建てになるよりは、まだ理解できそうだった。

 

 園主は荷車へ戻り、大きな両開き扉を見上げた。

 

 入口には受付台があり、若い女性が座っている。薬草を納めるために受付へ声を掛けるという経験は、園主の長い仕事人生にもなかった。

 

「セルマ先生へ薬草を持ってきたんだが」

 

「少々お待ちください。工房長をお呼びします」

 

「工房長?」

 

 聞き慣れない肩書へ眉を寄せていると、奥の廊下からセルマが姿を現した。

 

 園主はセルマを見た。

 

 次に建物を見上げた。

 

 もう一度、セルマを見る。

 

「……セルマ先生の工房は、どこへ行った」

 

 セルマは一瞬だけ遠い目をした。

 

「私も、数日前まではそう思っていたわ」

 

 返事の端に滲んだ疲れを、園主は長年の勘で見抜いた。

 

「盗まれたのか」

 

「収納されたというか、建て替えられたというか、戻ってきた時にはこうなっていたというか……」

 

 セルマは説明を試み、途中で諦めたらしい。小さく息を吐き、荷車の籠へ視線を落とした。

 

「とりあえず、薬草を見せてもらえる?」

 

「その方が俺にも分かりやすい」

 

 園主は深く頷いた。

 

 巨大な建物の事情は分からない。

 

 だが、薬草なら分かる。

 

 そこだけは昨日までと変わっていなかった。

 

 

 

 

 

 納品された治癒草は、葉の張りも茎の太さも申し分なかった。

 

 セルマが葉裏を確かめ、園主が根元に残した土を指で崩す。2人の間に長い説明はいらない。虫の卵がないことも、収穫前の水分を少し絞って薬効を濃くしたことも、手に取れば分かった。

 

「いつもより、葉が少し厚いわね」

 

「夜が冷えてきたから、水をやる時間を早めた」

 

「正解よ。この程度なら薬効も落ちていないわ」

 

 セルマが治癒草を籠へ戻すと、園主は肩の力を抜いた。

 

 納品はいつもどおり終わった。

 

 けれど園主は、荷車へ戻ろうとしなかった。

 

 1階の会議室へ通され、茶を出されても、しばらく湯気を眺めている。

 

 セルマは向かいへ座り、急かさずに待った。

 

「セルマ先生」

 

「なに?」

 

「この建物なら、冬でも治癒草を育てられるのか」

 

 セルマは園主の視線を追った。

 

 天井の向こう、4階にはLED照明と液肥を使う栽培槽室がある。

 

「育てられるわ。光も温度も液肥も、こちらで調整できるから」

 

「やはり、そうか」

 

 園主は納得したように頷いたが、その顔は晴れなかった。

 

「うちにも同じものを、とは言わん」

 

「言われても困るわ。あれは工房の中だから使える方法だもの」

 

「分かっている。俺の畑は土で育てる場所だ。太陽が出れば育つし、霜が降りれば止まる。雨が続けば根が腐る。そういう畑だ」

 

 園主の指が、茶碗の縁をゆっくりなぞった。節の太い指先には、洗っても落ちきらない土の色が残っている。

 

「冬になると、治癒草はほとんど伸びなくなる。肥料を入れれば少しは違うが、畑全部へ何度も撒けるほど安くはない」

 

「治癒草以外も育てているでしょう?」

 

「ああ。毒消しに使う草も、腹の薬になる根もある。だから食えなくなるわけじゃない」

 

 園主はそこで言葉を切り、窓の外へ目を向けた。

 

「だが、冬は収穫が減る。価値の高い薬草ほど寒さに弱い。親株を残せず、春にまた探し直す年もある」

 

 セルマは黙って聞いた。

 

 冬に納品量が落ちることは知っていた。だが、園主がそのたびに何を失っているかまでは考えたことがなかった。

 

「全部を冬に育てたいわけじゃない」

 

 園主が続ける。

 

「貴重な株を残せればいい。春に植える苗を少し早く作れればいい。高く売れる薬草を冬に少し育てられれば、孫たちにも余裕ができる」

 

 最後の言葉だけが、少し柔らかかった。

 

 セルマは茶碗へ視線を落とした。

 

 自分の栽培槽を使えば、技術的には可能だ。

 

 しかし、それは園主の畑を工房へ変える方法だった。彼が何十年も扱ってきた土や、風や、季節を捨てさせることになる。

 

「私の育て方は、あなたの畑とは別物よ」

 

「ああ」

 

「私は薬草の使い方と、工房の中での育て方なら分かる。でも、土の畑で冬を越させる方法は、あなたほど知らないわ」

 

「そうか」

 

 園主は残念そうにしながらも、無理を言う様子はなかった。分からないとはっきり言われたことで、むしろ納得したようだった。

 

 セルマは、そのまま帰す気にはなれなかった。

 

「でも、相談できる相手はいるわ」

 

「農家か?」

 

「いいえ。商人と、大学生と、相談すると建物を増やしかねない人」

 

 園主が眉をひそめる。

 

「最後の男は相談相手として大丈夫なのか」

 

「そこが私も不安なの」

 

 セルマは真顔で答えた。

 

 

 

 

 

 リュシア商会の応接室で話を聞いた私は、最初にセルマさんの新工房を思い浮かべた。

 

「栽培槽を増やすのでは駄目なんですか?」

 

 口にした直後、セルマさんが首を横へ振った。

 

「それは私の工房のやり方よ。園主さんの畑は、土と季節で育てる場所なの」

 

 言われて、私はようやく違いを整理できた。

 

 セルマさんの栽培槽は、光も温度も液肥も一定にして、治癒草を安定して作る設備だ。

 

 園主さんの薬草園は、広い土地で何種類もの薬草を育てる。雨も降るし、風も吹く。季節で収穫量も変わる。その代わり、工房内の栽培槽よりずっと広く、安く育てられる。

 

「薬草園全部を管理栽培へ変える話ではないんですね」

 

「そんなことをしたら、園主さんの畑じゃなくなるわ」

 

 セルマさんは言い切ったあと、少しだけ表情を曇らせた。

 

「欲しいのは、冬をなくす方法じゃないの。貴重な親株と、春用の苗を守る方法よ」

 

 向かいで聞いていたリュシアさんが、茶を一口飲んだ。

 

「ゲンダイの農法を調べるなら、澪に聞くのが早いね」

 

「私だけでは無理ですよ」

 

「だから、その先がいるだろう?」

 

 リュシアさんは楽しそうに笑った。

 

 私は笑えなかった。

 

「真壁さんへ話したら、大きくなりませんか」

 

「なるね」

 

「即答ですね」

 

「私もセルマも経験者だからね」

 

 リュシアさんの言葉に、セルマさんが深く頷く。

 

 前回、栽培槽を少し増やしたいと考えた結果、5階建ての錬金術師育成工房が誕生したばかりである。

 

「今回は、最初から1台だけって言います」

 

 私は念を押すように言った。

 

「畑全部ではなく、希少株と親株と春用の苗だけ。園主さんが自分で使えるもの。壊れても直せるもの」

 

「そこまで言っても、増える時は増えるよ」

 

 リュシアさんの慰めにならない忠告を胸に、私は六畳間へ戻った。

 

 

 

 

 

 真壁さんは、私の説明を途中で遮らなかった。

 

 六畳間の座卓を挟み、園主さんの相談内容を最後まで聞く。私が「畑全部ではありません」と3回目の念押しをすると、ようやく腕を組んだ。

 

「目的は限定されていますな」

 

「はい。希少株と親株と春用の苗だけです」

 

「電気は使わない」

 

「園主さんが自分で直せないものは困ります」

 

「肥料も大量には使えない」

 

「そうです」

 

 真壁さんは短く頷いた。

 

「よろしい。調べましょう」

 

 その一言から、座卓の上が急に狭くなった。

 

 ノートパソコンを開き、農業機関や大学の資料を読む。日本だけではなく、寒冷地の小規模農業、肥料を節約する農法、伝統的な温床、簡易温室、輪作、局所施肥まで、調べる範囲は世界中へ広がった。

 

 検索結果には、ドローンや自動走行農機、人工衛星の画像解析まで並んでいる。

 

「最新農業って、機械だらけですね」

 

「それは資本と電力がある土地の解です」

 

 真壁さんは画面を一瞥しただけで、次の資料へ移った。

 

「我々が欲しいのは、異世界で再現できる解です」

 

 最後に残ったのは、意外なくらい素朴なものばかりだった。

 

 藁を敷いて土を守る。

 

 肥料を畑全体へ撒かず、根の近くへ少量だけ入れる。

 

 同じ薬草を作り続けず、畑を順番に使う。

 

 透明な覆いで霜と風を避ける。

 

 堆肥の発酵熱を使う。

 

「これ、オンドルに似ていますね」

 

 私は、床下へ暖気を通す暖房方式の図を指差した。

 

「火の代わりに、堆肥の熱を使えませんか?」

 

 真壁さんが画面へ顔を寄せる。

 

「発酵槽の空気を、そのまま送るのは不適切ですな」

 

「臭いからですか?」

 

「臭気、湿気、アンモニア、二酸化炭素。条件次第では、植物へ影響する揮発性物質も出る。薬草へ吹き付ける理由がありません」

 

「でも、植物は風や接触で茎が太くなることもあるんですよね」

 

 以前読んだ資料を思い出し、私は検索語を変えた。

 

 風に揺らされたり、葉へ繰り返し触れられたりした植物は、背丈の伸びを抑え、茎を太くすることがある。植物が刺激を受けた際に生じるエチレンなど、複数の植物ホルモンが関わっているらしい。

 

 けれどエチレンは、濃度や時間によって老化や落葉も促す。休眠には日長や低温、アブシシン酸やジベレリンなども関わる。堆肥の空気を送り込めば丈夫な薬草ができる、というほど単純ではなかった。

 

「背が低く太くなっても、薬効が上がるとは限りませんね」

 

「いかにも。形が変わっただけなら、商品価値とは無関係です」

 

 真壁さんは紙を引き寄せ、発酵槽の中へ線を引いた。

 

「ガスは遮断します。使うのは熱だけです」

 

 発酵槽の中へ、外気を通す密閉管を通す。送り込んだ空気は堆肥へ触れず、管の中で温められる。その暖気を薬草台の床下へ送り、土を下から暖める。

 

「熱源は堆肥」

 

 真壁さんの鉛筆が、発酵槽から薬草台へ線を伸ばす。

 

「運ぶのは空気」

 

 線は薬草台の底で蛇行する。

 

「蓄えるのは土です」

 

「発酵熱を使ったオンドルですね」

 

 私が言うと、真壁さんは図を見たまま頷いた。

 

「足踏み式の送風なら、園主殿が自分で加減できる」

 

「温度計も必要ですね」

 

「複数です。発酵槽、暖気、土、内部、外気」

 

 紙の上へ次々と部品が増えていく。

 

 私は嫌な予感がして、図の端へ大きく書いた。

 

『試作1台』

 

 真壁さんが、その文字を見る。

 

「分かっております」

 

「前回も似たようなことを聞きました」

 

「今回は移動可能にします」

 

「増えていませんか?」

 

「水害対策です」

 

 言い返せなかった。

 

 園主さんの畑は川に近い。高価な希少薬草なら、洪水が来る前に鉢を1つずつ運ぶより、栽培床ごと逃がした方がよい。

 

「それと、腰を曲げずに作業できる高さにします」

 

「園主さんは、まだ50代後半ですよ」

 

「設備より、園主殿の腰の方が替えが利きません」

 

 真壁さんは当然のように答えた。

 

 設計図の薬草台へ、大きな車輪が4つ追加された。

 

 

 

 

 

 材料を揃え始めると、紙の上では見えなかった大きさが急に現実になった。

 

 透明アクリル板、蝶番、大径車輪、車輪止め、温度計、接続金具。足踏み式送風機には、市販のふいご構造を参考にして、異世界側でも木と革で修理できる形を選ぶ。

 

「この方解石も使うんですか?」

 

 私は、真壁さんが収納から取り出した透明な鉱石を持ち上げた。

 

「採光補助です」

 

「レンズにするんですか?」

 

「一点へ集めれば薬草が焼けます」

 

 真壁さんが取り出した方解石板は、ただ薄く切ったものではなかった。表面へ細かな角度がつけられ、入った光をいくつかの方向へ振り分けられるよう加工されている。

 

 窓から差し込む日差しへかざすと、畳の上に落ちた光が、狭い一点ではなく、少し離れた複数の場所へ分かれた。

 

「方解石だけの性質ではなく、加工して光を散らすんですね」

 

「白い反射壁と組み合わせます。光を増やすのではありません。届かぬ場所へ回すのです」

 

 すべてを現代側から持ち込むわけではない。

 

 木材、陶管、石灰、藁、落ち葉、家畜糞、刈り草、薬草の搾りかすは異世界で用意できる。

 

 園主さん自身が次を作れるようにするなら、現代の部品へ依存しすぎてはいけない。

 

「これで終わりですか?」

 

 私は並んだ資材を見渡した。

 

「終わりです」

 

「本当に?」

 

「現時点では」

 

 やはり信用できなかった。

 

 

 

 

 

 薬草園へ着くと、園主さんは私たちの後ろに積まれた資材を見て、露骨に眉をひそめた。

 

「畑を全部変える気じゃないだろうな」

 

「1台だけです」

 

 真壁さんが答えるより先に、私は人差し指を立てた。

 

「試験用に1台だけです。本当に」

 

「そちらの男は黙っているが」

 

「真壁さんも分かっています」

 

「承知しております」

 

 少し遅れて真壁さんが頷いた。

 

 園主さんはまだ疑っていたが、セルマさんが隣で「今回は私も見ているわ」と言ったことで、どうにか話を聞いてくれた。

 

 真壁さんは、すぐに資材を広げなかった。

 

「園主殿。冬でも最も長く日が当たる場所は」

 

「あちらだ」

 

 園主さんは迷わず畑の南側へ歩いた。

 

「霜が溜まるのは?」

 

「低い方だ。朝まで日が当たらん」

 

「風は」

 

「北西から抜ける。冬は、あの石垣の切れ目が一番強い」

 

「水害時の避難先は」

 

 園主さんが少し離れた高台を指差す。

 

「納屋の横だ。あそこなら増水しても届かん」

 

 質問するたび、即座に答えが返る。

 

 日当たり、風向き、水の流れ、泥の深さ、家族が通る道、希少薬草を置いてきた場所。

 

 園主さんの頭の中には、この畑の地図だけではなく、季節ごとの動きまで入っていた。

 

「設置場所は、どこがよろしいですかな」

 

 真壁さんが最後に尋ねる。

 

 園主さんは畑を見渡し、日当たりと避難路の両方を確かめてから、1か所を指した。

 

「ここだ。朝から日が当たる。高台へも押し上げやすい」

 

「では、ここへ」

 

 真壁さんは、そこで初めて収納を開いた。

 

 

 

 

 

 最初に現れたのは、低い木枠ではなく、大きな台車だった。

 

 大径の車輪が4つ。両端には押し引き用の取っ手があり、中央には深さのある栽培箱が載っている。

 

「高すぎないか」

 

 園主さんが、栽培箱の縁へ手を置いた。

 

 腰の高さより僅かに低い。地面の畝と比べれば、ずいぶん高い。

 

「立ったまま作業できます」

 

「まだ腰は曲がっていない」

 

「曲がる前に対処します」

 

 真壁さんの返答へ、園主さんが目を細めた。

 

「年寄り扱いか」

 

「園主殿の腰は交換できません」

 

「俺の腰を部品みたいに言うな」

 

 園主さんは不満そうな顔をしたまま、台車の横へ立った。

 

 試しに置いた薬草の葉を持ち上げ、裏側を見る。

 

 いつもなら腰を折り、膝へ手を添えながら覗き込むところを、ほとんど姿勢を変えずに確認できた。

 

「……見やすいな」

 

「そうでしょう」

 

「得意そうな顔をするな」

 

 園主さんが真壁さんを睨んだが、もう台車の高さへ文句を言わなかった。

 

 栽培箱の底には排水用の小石と枝を敷き、その上へ土を入れる。さらに底板の下には、陶管が何度も折り返しながら走っていた。

 

「これが床下の道ですか」

 

 私は、陶管の入口から出口まで指で追った。

 

「暖気はここを通り、土へ熱を渡して外へ抜けます」

 

 真壁さんが接続部を示す。

 

「発酵槽とは外せるようにしてあります。水害時は接続を抜き、台車だけ移動させる」

 

「薬草を植えたままか」

 

「そのための台車です」

 

 園主さんが車輪止めを外し、取っ手を押した。

 

 土をまだ半分しか入れていない台車は、想像より軽く動いた。

 

「これなら、孫どもでも手伝えるな」

 

 園主さんの口元が少し緩んだ。

 

 その上へ木枠を組み、南側へ傾いたアクリル屋根を載せる。北側だけは透明にせず、木板の間へ藁を詰め、内側を石灰で白く塗った。

 

「北まで透明にしないんですか?」

 

「熱を逃がすだけです」

 

 真壁さんは刷毛を動かしながら答える。

 

「南から入った光は、白い壁で戻します」

 

 加工した方解石板は、屋根の内側へ角度を変えられるよう取り付けた。

 

 光を一点へ集めるのではなく、低い冬の日差しを複数の方向へ振り分ける。板の角度を変えると、白い北壁へ当たる光の位置も変わった。

 

「これなら、奥の葉にも光が届きそうね」

 

 セルマさんが、アクリル越しに確かめる。

 

「ただし、薬草ごとに適量は違うわ。光が多ければいいとは限らないもの」

 

「園主殿に調整していただきます」

 

「また仕事が増えたな」

 

 園主さんはぼやきながら、方解石板の留め具を動かしていた。

 

 屋根の一部には、蝶番で開く小窓がある。

 

 夜はアクリルの上へ藁の覆いを掛け、朝になれば紐を引いて巻き上げる。

 

 園主さんは1つずつ触り、外し、戻した。

 

 真壁さんは説明するだけでなく、必ず園主さん自身へ操作させた。

 

 最後に作ったのが、台車の横へ置く堆肥発酵槽だった。

 

 木枠の内側へ藁を詰め、断熱する。中には家畜糞、寝藁、落ち葉、刈り草、薬草の搾りかすを混ぜ、水分を調整しながら重ねていく。

 

「堆肥の空気を中へ送るんじゃないんだな」

 

 園主さんが確認する。

 

「送りません」

 

 真壁さんは、発酵槽の中を蛇行する密閉管を示した。

 

「外気は、この管の中だけを通ります。堆肥へ触れず、熱だけを受け取る」

 

 管の入口へ、足踏み式の送風機を接続する。

 

 園主さんが試しに踏むと、革袋が膨らみ、縮み、管の向こうで空気の抜ける音がした。

 

「発酵が始まれば、これで暖気が台車の下へ行くのか」

 

「いかにも」

 

 温度計は、発酵槽の中心、暖気の出口、根の深さの土、アクリル内部、外気の5か所へ置いた。

 

 暖気管には手動の調整板があり、全開、半開、閉鎖を選べる。

 

「温度計は命令しません」

 

 真壁さんが、土へ差した温度計を園主さんへ渡した。

 

「判断するのは園主殿です」

 

「数字だけで薬草が分かるものか」

 

「数字だけでは分かりません」

 

 真壁さんは園主さんの、土に染まった手を見る。

 

「ゆえに園主殿が必要です」

 

 園主さんは返事をせず、温度計を土へ差し直した。

 

 

 

 

 

 発酵槽が十分に熱を持つまでには、数日かかった。

 

 私たちが再び薬草園へ集まった朝、発酵槽中心の温度は上がり、足踏みポンプを動かすと暖気出口の温度もはっきり変わった。

 

 土温は急には上がらない。

 

 何度か送風すると、露地の畝より僅かに高くなる。

 

 園主さんは、寒さへ弱い希少薬草の親株と、春に増やす予定の苗を栽培箱へ移した。

 

 その夜は、季節外れに冷え込んだ。

 

 園主さんは心配になり、夕方から何度も足踏みポンプを動かしたらしい。

 

 翌朝、アクリルを開けると、一部の株の葉が僅かに垂れていた。

 

「土温が高いですね」

 

 私は温度計を確認した。

 

 凍えるほど低くはない。それどころか、想定よりかなり高い。

 

「病気かしら」

 

 セルマさんが葉裏を見たが、病斑はなかった。

 

 真壁さんは何も言わない。

 

 園主さんが葉へ触れる。

 

 指先で茎を押し、土を少し崩し、根元の匂いを確かめた。

 

「寒さじゃない」

 

 園主さんが低く言った。

 

「根が暖まりすぎた。水を吸えていない」

 

 暖気口を閉じ、アクリル上部の換気窓を開ける。園主さんは手早く土の表面を緩め、必要な株へだけ少量の水を与えた。

 

「今夜からは、日が落ちる前に短く送る。土へ熱が残ったら止める」

 

「何分くらいですか?」

 

 私が尋ねると、園主さんは温度計ではなく葉を見た。

 

「今日は昨日の半分だ。数字だけでは決めん」

 

 その判断は正しかった。

 

 晴れた日は送風を止め、太陽熱だけを使う。曇った日は弱く送る。夜は藁の覆いを掛け、土温が下がりすぎる前に短時間だけ暖気を通す。

 

 園主さんは数日で、設備を自分のものにし始めた。

 

 ただ、足踏みポンプを踏みすぎた翌朝だけは、歩き方が少しおかしかった。

 

「足、痛いんですか?」

 

「痛くない」

 

 園主さんは即座に否定した。

 

「歩き方が変ですよ」

 

「昨日、畑を歩きすぎただけだ」

 

 真壁さんが足踏みポンプを見る。

 

「適度な運動にもなりますな」

 

「暖房器具へ健康効果を足すな」

 

 園主さんは睨んだものの、その日は送風時間をきちんと短くした。

 

 発酵槽の温度が下がり始めた時には、真壁さんより先に口を開いた。

 

「1つが弱ってから次を仕込んだんじゃ遅いな」

 

 園主さんは空いた場所を指差した。

 

「もう1つ、小さい槽を作る。交互に使えば熱が途切れん」

 

 真壁さんが1度だけ頷く。

 

「採用しましょう」

 

「最初から考えていた顔だな」

 

「園主殿が決めねば、続きません」

 

「面倒な男だ」

 

 園主さんはそう言いながら、少し嬉しそうだった。

 

 

 

 

 

 温室を使い始めて10日ほど経った頃、別の変化が見つかった。

 

 暖気出口に近い2株だけ、他より節の間隔が詰まり、背丈が低く、茎が太くなっていた。

 

「丈夫になったようにも見えるわね」

 

 セルマさんが茎を指で挟む。

 

「でも、葉の黄ばみが少し早いわ」

 

 園主さんは腕を組み、低い株と通常の株を見比べた。

 

「畑の風上にある草と似ている。風に叩かれる株は、背が伸びずに太くなる」

 

「送風の振動でしょうか」

 

 私は暖気管の出口へ手をかざした。

 

 葉へ直接風を吹き付ける構造ではないが、空気が流れるたびに栽培箱へ僅かな振動が伝わっている。

 

 接続部へ顔を近づけると、微かに堆肥の匂いもした。

 

「真壁さん。ここ、気密が甘いかもしれません」

 

 接続部を外して確認すると、革の密封材が僅かにずれていた。

 

 発酵槽側の空気が、ごく少量だけ暖気管へ混じっていたのだ。

 

「堆肥側の空気が原因でしょうか」

 

「断定はできません」

 

 真壁さんは、低くなった株へ目を向ける。

 

「暖気の流れ、振動、温度差、発酵槽から漏れた揮発性物質。条件が重なっています」

 

 セルマさんも葉を持ち上げ、通常株と匂いを比べた。

 

「植物自身が、刺激を受けて成長の仕方を変えた可能性もあるわね。でも、茎が太いだけで良い薬草とは言えないわ」

 

「丈夫に見えることと、良い薬草であることは別だ」

 

 園主さんが先に結論を出した。

 

「俺が売るのは太い茎じゃない。薬になる草だ」

 

「薬効はこちらで比較するわ」

 

 セルマさんは2株から最低限の葉だけを取り、丁寧に包んだ。

 

「それと、この失敗も弟子たちへ見せたい。薬草は瓶の中から生えてくるわけじゃないもの」

 

 工房長になったばかりのセルマさんは、失敗まで教材にするつもりらしい。

 

 真壁さんが、ずれた密封材を取り外す。

 

「使用するのは発酵熱のみです。ガスは遮断します」

 

 接続部は二重に密閉され、発酵槽側の空気が混じれば外へ逃げる構造へ改められた。

 

「接触や振動の効果を調べるなら、発酵槽とは切り離して行います」

 

 真壁さんは栽培箱の端へ、小さな比較区画を設けた。

 

「毎日、柔らかい布で同じ回数だけ触れる株。台車を僅かに振動させる株。何もしない株。薬効に差が出るか、セルマ君に確認してもらう」

 

「また試すものが増えましたね」

 

「台数は増えておりません」

 

「その言葉を盾にするのはやめてください」

 

 約束は守られていた。

 

 面積は少しずつ奪われていた。

 

 

 

 

 

 園主さんの鑑定が生えたのは、それからさらに数日後だった。

 

 同じ栽培箱の中で、1株だけ生育が遅れていた。

 

 土温は同じ。

 

 日照にも大きな差はない。

 

 水も均等に与えている。

 

「この株だけ、元々弱かったんでしょうか」

 

 私は葉の大きさを見比べた。

 

「病気には見えないわね」

 

 セルマさんも首を傾げる。

 

 園主さんはすぐに答えなかった。

 

 葉裏を見て、葉脈を指でなぞり、根元の土を少しずつ崩す。隣の株の土も触り、両方を掌へ載せて揉んだ。

 

「温度じゃない」

 

 園主さんが言う。

 

「こちらだけ土が細かすぎるように見えますけど」

 

「逆だ」

 

 私の考えを否定し、園主さんは土を指の間から落とした。

 

「台車を動かした時、細かい土が片側へ寄った。こっちは粗い土が残って、水が抜けすぎている」

 

 見ただけでは、ほとんど差が分からない。

 

 園主さんは保水性のある土を少し混ぜ、株の周囲を整えた。

 

 その瞬間、私の視界へ表示が浮かんだ。

 

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薬草園主

 

鑑定:1

----------------------------------

 

「真壁さん」

 

 私は表示を見たまま、隣の袖を引いた。

 

「園主さんに、鑑定が生えました」

 

「鑑定?」

 

 園主さんが眉を寄せる。

 

 真壁さんは驚かなかった。

 

「今生まれたのは表示だけでしょう」

 

 薬草を見つめる園主さんへ、静かに告げる。

 

「その目は、何十年も前から育っていた」

 

 今回だけで得た力ではない。

 

 葉を裏返し、土を握り、枯れた株の根を掘り、春が来るたびに植え直してきた。その積み重ねへ、今ようやく名前が付いたのだと、私には思えた。

 

 園主さんには、鑑定を5まで上げられるだけの未使用スキルポイントが残っていた。

 

 真壁さんが園主さんへ向き直る。

 

「園主殿。未使用の力を、鑑定へまとめることをお勧めします」

 

「全部か」

 

「全部です」

 

「自分ではできんのか」

 

「取得したばかりでは、割り振り方も分からないでしょう。澪君なら操作できます」

 

 園主さんは私を見た。

 

 私たちは何度か顔を合わせてはいるが、親しい間柄ではない。まして、自分の中にあるという力を預ける話だ。すぐ返事が出ないのは当然だった。

 

「他に使えるものもあるんじゃないのか」

 

「あるでしょう」

 

 真壁さんは否定しなかった。

 

「しかし、園主殿が極めるべきものは、すでに決まっている」

 

 園主さんは、しばらく畑を見渡した。

 

 冬風に揺れる治癒草。

 

 寒さへ耐える薬草。

 

 何年も育て、失い、また植えてきた株。

 

 最後に、高床台の中の希少薬草へ目を戻した。

 

「……澪さん」

 

 園主さんが、少し言い慣れない様子で私を呼んだ。

 

「はい」

 

「頼んでもいいか」

 

 命令ではなかった。

 

 長く守ってきた畑の一部を、ほんの少しだけ預けてもらえたような気がした。

 

「もちろんです」

 

 私は園主さんの了承を確かめ、スキルポイントを鑑定へ割り振った。

 

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鑑定:1

 ↓

鑑定:2

 ↓

鑑定:3

 ↓

鑑定:4

 ↓

鑑定:5

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 表示が消えたあと、園主さんは黙って薬草を見つめた。

 

「どう?」

 

 セルマさんが尋ねる。

 

「前から見えていた」

 

 園主さんは葉の縁へ触れた。

 

「ただ、何を見ていたのか分かっていなかったらしい」

 

 園主さんは、すぐに設備へ手を伸ばさなかった。

 

 まず薬草を見た。

 

 葉の開き方を確かめ、土へ指を差し込み、隣の株と根元の温度を比べる。

 

「この株は、昼に温まりすぎている。夜はもう少し冷えていい。水も今は足さない方がいい」

 

 そこまで判断してから、方解石板の角度を僅かに下げ、暖気口を半分に絞り、換気窓を指1本分だけ開けた。

 

 鑑定が設備の操作方法を教えたわけではない。

 

 薬草が何を嫌がっているかを見抜き、どう調整するかは園主さん自身が考えている。

 

「これなら、俺が加減できる」

 

 園主さんが呟く。

 

 その言葉を聞いて、私はようやく肩の力を抜いた。

 

 真壁さんが作ったのは設備だった。

 

 けれど、その設備を農法へ変えたのは園主さんだった。

 

 

 

 

 

 夕方には、可搬式の簡易温室はすっかり薬草園の景色へ馴染んでいた。

 

 発酵槽からは僅かに湯気が上がり、園主さんが足踏みポンプを数回動かす。温められた空気が床下の陶管を通り、薬草の根を包む土へ、ゆっくり熱を渡していく。

 

 そこへ、子どもたちの声が聞こえた。

 

「じいちゃん!」

 

「何これ!」

 

 園主さんの孫たちが、畑の小道を駆けてくる。

 

 透明なアクリルの覆いを見て、すぐに周りを取り囲んだ。

 

「薬草の家だ!」

 

「車輪がある!」

 

「動くの?」

 

「勝手に触るな」

 

 園主さんは厳しい声を出したが、子どもたちを追い払おうとはしなかった。

 

 車輪止めを外し、取っ手へ手を掛ける。

 

「少しだけだ。押してみろ」

 

 孫たちが一斉に反対側へ集まり、力を合わせて押す。

 

 高床台がゆっくり動くと、歓声が上がった。

 

「動いた!」

 

「畑が逃げる!」

 

「逃がすのは水が来た時だけだ。普段から逃がすな」

 

 園主さんが叱るように言う。

 

 その中で、1人だけ台車の車輪を見ていない子がいた。

 

 アクリルへ顔を近づけ、中の薬草をじっと見ている。

 

 園主さんもその子へ気付いたらしい。

 

「お前は車輪を押さないのか」

 

「だって、この子だけ元気がない」

 

 子どもは葉を指差した。

 

「じいちゃん。この子、喉が渇いてる」

 

「また分かるのか」

 

 園主さんの言葉に、私は振り返った。

 

「前からなんですか?」

 

「ああ。俺が水をやる前に、乾いた鉢だけ見つける。適当に言っていると思っていたがな」

 

 園主さんが、子どもの指差した株を見る。

 

 鑑定5で確かめたのか、表情が僅かに変わった。

 

「……本当だ」

 

 私はその子を鑑定した。

 

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緑の手:1

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「真壁さん」

 

 小声で袖を引く。

 

 真壁さんも表示を見て、園主さんと孫を見比べた。

 

 園主さんは何も知らず、水差しを孫へ渡す。

 

「余計なところへやるなよ」

 

「分かってるよ」

 

 子どもは得意そうに答え、乾いた株の根元へだけ、少量の水を注いだ。

 

「園主殿」

 

 真壁さんが呼び掛ける。

 

「どうやら、次の担い手も芽を出しているようです」

 

「まだ遊び盛りだ」

 

 園主さんはそう答えたが、その声は少しだけ柔らかかった。

 

「それに、こいつへ畑を任せるかどうかは、これから俺が決める」

 

「いかにも」

 

 真壁さんは否定しなかった。

 

 孫たちは再び台車の周りへ集まり、今度は足踏みポンプを踏みたがった。園主さんは順番だと叱り、1人ずつ踏ませる。

 

 革袋が膨らむたび、子どもたちは歓声を上げた。

 

「冬でも育つんですね」

 

 私が言うと、園主さんは温度計から目を上げた。

 

「冬がなくなったんじゃない」

 

 アクリルの向こうで、小さな新芽が揺れている。

 

「こいつが冬を越す方法を、少し見つけただけだ」

 

 その隣では、水差しを抱えた孫が、もう一度葉を覗き込んでいた。

 

 園主さんが育てているのは、薬草だけではないのかもしれない。

 

 けれど、今それを口にすれば、きっと「まだ早い」と叱られる。

 

 私は何も言わず、小さな手に抱えられた水差しを見ていた。

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