薬草園主は、荷車の軋む音を聞きながら、いつもの角を曲がった。
朝の町には、夜の冷たさがまだ残っていた。石畳の隙間には薄い霜が白く張りつき、パン屋の煙突から立ち上る煙は、風のない空へ細く伸びている。
荷車には、朝露を払ったばかりの治癒草と、咳止めに使う細葉草、胃薬へ混ぜる苦根草、傷薬の材料になる赤筋葉が積まれていた。土の匂いも、籠の重さも、左側の車輪だけが小石を踏むたびに鳴らす音も、何年も繰り返してきた日常の一部である。
今日もセルマの工房へ薬草を納め、品質を見てもらい、次の納品日を決めて帰る。
そのはずだった。
園主は通りの先へ目を向けたまま、足を止めた。
古びた木造の工房があった場所に、白い壁の巨大な建物が立っていた。
大きな窓が朝日を弾き、見上げれば首が痛くなるほど高い。屋上では、見慣れない羽根がゆっくりと回っている。
園主は荷車の取っ手を握ったまま、しばらく考えた。
「……道を間違えたか」
後ろを振り返る。
通りの角にある井戸は、いつもどおりだった。向かいの革細工屋もある。去年、荷車をぶつけて欠けさせた壁の角まで残っていた。
場所は合っている。
もう一度、正面を見る。
やはり知らない建物だった。
園主は荷車を置き、建物の横へ回った。裏側に元の工房が隠れているのではないかと考えたのだ。
しかし、歩いても歩いても白い壁が続く。
「セルマ先生、とうとう工房ごと逃げたか」
逃げる理由は思いつかなかったが、建物が突然5階建てになるよりは、まだ理解できそうだった。
園主は荷車へ戻り、大きな両開き扉を見上げた。
入口には受付台があり、若い女性が座っている。薬草を納めるために受付へ声を掛けるという経験は、園主の長い仕事人生にもなかった。
「セルマ先生へ薬草を持ってきたんだが」
「少々お待ちください。工房長をお呼びします」
「工房長?」
聞き慣れない肩書へ眉を寄せていると、奥の廊下からセルマが姿を現した。
園主はセルマを見た。
次に建物を見上げた。
もう一度、セルマを見る。
「……セルマ先生の工房は、どこへ行った」
セルマは一瞬だけ遠い目をした。
「私も、数日前まではそう思っていたわ」
返事の端に滲んだ疲れを、園主は長年の勘で見抜いた。
「盗まれたのか」
「収納されたというか、建て替えられたというか、戻ってきた時にはこうなっていたというか……」
セルマは説明を試み、途中で諦めたらしい。小さく息を吐き、荷車の籠へ視線を落とした。
「とりあえず、薬草を見せてもらえる?」
「その方が俺にも分かりやすい」
園主は深く頷いた。
巨大な建物の事情は分からない。
だが、薬草なら分かる。
そこだけは昨日までと変わっていなかった。
納品された治癒草は、葉の張りも茎の太さも申し分なかった。
セルマが葉裏を確かめ、園主が根元に残した土を指で崩す。2人の間に長い説明はいらない。虫の卵がないことも、収穫前の水分を少し絞って薬効を濃くしたことも、手に取れば分かった。
「いつもより、葉が少し厚いわね」
「夜が冷えてきたから、水をやる時間を早めた」
「正解よ。この程度なら薬効も落ちていないわ」
セルマが治癒草を籠へ戻すと、園主は肩の力を抜いた。
納品はいつもどおり終わった。
けれど園主は、荷車へ戻ろうとしなかった。
1階の会議室へ通され、茶を出されても、しばらく湯気を眺めている。
セルマは向かいへ座り、急かさずに待った。
「セルマ先生」
「なに?」
「この建物なら、冬でも治癒草を育てられるのか」
セルマは園主の視線を追った。
天井の向こう、4階にはLED照明と液肥を使う栽培槽室がある。
「育てられるわ。光も温度も液肥も、こちらで調整できるから」
「やはり、そうか」
園主は納得したように頷いたが、その顔は晴れなかった。
「うちにも同じものを、とは言わん」
「言われても困るわ。あれは工房の中だから使える方法だもの」
「分かっている。俺の畑は土で育てる場所だ。太陽が出れば育つし、霜が降りれば止まる。雨が続けば根が腐る。そういう畑だ」
園主の指が、茶碗の縁をゆっくりなぞった。節の太い指先には、洗っても落ちきらない土の色が残っている。
「冬になると、治癒草はほとんど伸びなくなる。肥料を入れれば少しは違うが、畑全部へ何度も撒けるほど安くはない」
「治癒草以外も育てているでしょう?」
「ああ。毒消しに使う草も、腹の薬になる根もある。だから食えなくなるわけじゃない」
園主はそこで言葉を切り、窓の外へ目を向けた。
「だが、冬は収穫が減る。価値の高い薬草ほど寒さに弱い。親株を残せず、春にまた探し直す年もある」
セルマは黙って聞いた。
冬に納品量が落ちることは知っていた。だが、園主がそのたびに何を失っているかまでは考えたことがなかった。
「全部を冬に育てたいわけじゃない」
園主が続ける。
「貴重な株を残せればいい。春に植える苗を少し早く作れればいい。高く売れる薬草を冬に少し育てられれば、孫たちにも余裕ができる」
最後の言葉だけが、少し柔らかかった。
セルマは茶碗へ視線を落とした。
自分の栽培槽を使えば、技術的には可能だ。
しかし、それは園主の畑を工房へ変える方法だった。彼が何十年も扱ってきた土や、風や、季節を捨てさせることになる。
「私の育て方は、あなたの畑とは別物よ」
「ああ」
「私は薬草の使い方と、工房の中での育て方なら分かる。でも、土の畑で冬を越させる方法は、あなたほど知らないわ」
「そうか」
園主は残念そうにしながらも、無理を言う様子はなかった。分からないとはっきり言われたことで、むしろ納得したようだった。
セルマは、そのまま帰す気にはなれなかった。
「でも、相談できる相手はいるわ」
「農家か?」
「いいえ。商人と、大学生と、相談すると建物を増やしかねない人」
園主が眉をひそめる。
「最後の男は相談相手として大丈夫なのか」
「そこが私も不安なの」
セルマは真顔で答えた。
リュシア商会の応接室で話を聞いた私は、最初にセルマさんの新工房を思い浮かべた。
「栽培槽を増やすのでは駄目なんですか?」
口にした直後、セルマさんが首を横へ振った。
「それは私の工房のやり方よ。園主さんの畑は、土と季節で育てる場所なの」
言われて、私はようやく違いを整理できた。
セルマさんの栽培槽は、光も温度も液肥も一定にして、治癒草を安定して作る設備だ。
園主さんの薬草園は、広い土地で何種類もの薬草を育てる。雨も降るし、風も吹く。季節で収穫量も変わる。その代わり、工房内の栽培槽よりずっと広く、安く育てられる。
「薬草園全部を管理栽培へ変える話ではないんですね」
「そんなことをしたら、園主さんの畑じゃなくなるわ」
セルマさんは言い切ったあと、少しだけ表情を曇らせた。
「欲しいのは、冬をなくす方法じゃないの。貴重な親株と、春用の苗を守る方法よ」
向かいで聞いていたリュシアさんが、茶を一口飲んだ。
「ゲンダイの農法を調べるなら、澪に聞くのが早いね」
「私だけでは無理ですよ」
「だから、その先がいるだろう?」
リュシアさんは楽しそうに笑った。
私は笑えなかった。
「真壁さんへ話したら、大きくなりませんか」
「なるね」
「即答ですね」
「私もセルマも経験者だからね」
リュシアさんの言葉に、セルマさんが深く頷く。
前回、栽培槽を少し増やしたいと考えた結果、5階建ての錬金術師育成工房が誕生したばかりである。
「今回は、最初から1台だけって言います」
私は念を押すように言った。
「畑全部ではなく、希少株と親株と春用の苗だけ。園主さんが自分で使えるもの。壊れても直せるもの」
「そこまで言っても、増える時は増えるよ」
リュシアさんの慰めにならない忠告を胸に、私は六畳間へ戻った。
真壁さんは、私の説明を途中で遮らなかった。
六畳間の座卓を挟み、園主さんの相談内容を最後まで聞く。私が「畑全部ではありません」と3回目の念押しをすると、ようやく腕を組んだ。
「目的は限定されていますな」
「はい。希少株と親株と春用の苗だけです」
「電気は使わない」
「園主さんが自分で直せないものは困ります」
「肥料も大量には使えない」
「そうです」
真壁さんは短く頷いた。
「よろしい。調べましょう」
その一言から、座卓の上が急に狭くなった。
ノートパソコンを開き、農業機関や大学の資料を読む。日本だけではなく、寒冷地の小規模農業、肥料を節約する農法、伝統的な温床、簡易温室、輪作、局所施肥まで、調べる範囲は世界中へ広がった。
検索結果には、ドローンや自動走行農機、人工衛星の画像解析まで並んでいる。
「最新農業って、機械だらけですね」
「それは資本と電力がある土地の解です」
真壁さんは画面を一瞥しただけで、次の資料へ移った。
「我々が欲しいのは、異世界で再現できる解です」
最後に残ったのは、意外なくらい素朴なものばかりだった。
藁を敷いて土を守る。
肥料を畑全体へ撒かず、根の近くへ少量だけ入れる。
同じ薬草を作り続けず、畑を順番に使う。
透明な覆いで霜と風を避ける。
堆肥の発酵熱を使う。
「これ、オンドルに似ていますね」
私は、床下へ暖気を通す暖房方式の図を指差した。
「火の代わりに、堆肥の熱を使えませんか?」
真壁さんが画面へ顔を寄せる。
「発酵槽の空気を、そのまま送るのは不適切ですな」
「臭いからですか?」
「臭気、湿気、アンモニア、二酸化炭素。条件次第では、植物へ影響する揮発性物質も出る。薬草へ吹き付ける理由がありません」
「でも、植物は風や接触で茎が太くなることもあるんですよね」
以前読んだ資料を思い出し、私は検索語を変えた。
風に揺らされたり、葉へ繰り返し触れられたりした植物は、背丈の伸びを抑え、茎を太くすることがある。植物が刺激を受けた際に生じるエチレンなど、複数の植物ホルモンが関わっているらしい。
けれどエチレンは、濃度や時間によって老化や落葉も促す。休眠には日長や低温、アブシシン酸やジベレリンなども関わる。堆肥の空気を送り込めば丈夫な薬草ができる、というほど単純ではなかった。
「背が低く太くなっても、薬効が上がるとは限りませんね」
「いかにも。形が変わっただけなら、商品価値とは無関係です」
真壁さんは紙を引き寄せ、発酵槽の中へ線を引いた。
「ガスは遮断します。使うのは熱だけです」
発酵槽の中へ、外気を通す密閉管を通す。送り込んだ空気は堆肥へ触れず、管の中で温められる。その暖気を薬草台の床下へ送り、土を下から暖める。
「熱源は堆肥」
真壁さんの鉛筆が、発酵槽から薬草台へ線を伸ばす。
「運ぶのは空気」
線は薬草台の底で蛇行する。
「蓄えるのは土です」
「発酵熱を使ったオンドルですね」
私が言うと、真壁さんは図を見たまま頷いた。
「足踏み式の送風なら、園主殿が自分で加減できる」
「温度計も必要ですね」
「複数です。発酵槽、暖気、土、内部、外気」
紙の上へ次々と部品が増えていく。
私は嫌な予感がして、図の端へ大きく書いた。
『試作1台』
真壁さんが、その文字を見る。
「分かっております」
「前回も似たようなことを聞きました」
「今回は移動可能にします」
「増えていませんか?」
「水害対策です」
言い返せなかった。
園主さんの畑は川に近い。高価な希少薬草なら、洪水が来る前に鉢を1つずつ運ぶより、栽培床ごと逃がした方がよい。
「それと、腰を曲げずに作業できる高さにします」
「園主さんは、まだ50代後半ですよ」
「設備より、園主殿の腰の方が替えが利きません」
真壁さんは当然のように答えた。
設計図の薬草台へ、大きな車輪が4つ追加された。
材料を揃え始めると、紙の上では見えなかった大きさが急に現実になった。
透明アクリル板、蝶番、大径車輪、車輪止め、温度計、接続金具。足踏み式送風機には、市販のふいご構造を参考にして、異世界側でも木と革で修理できる形を選ぶ。
「この方解石も使うんですか?」
私は、真壁さんが収納から取り出した透明な鉱石を持ち上げた。
「採光補助です」
「レンズにするんですか?」
「一点へ集めれば薬草が焼けます」
真壁さんが取り出した方解石板は、ただ薄く切ったものではなかった。表面へ細かな角度がつけられ、入った光をいくつかの方向へ振り分けられるよう加工されている。
窓から差し込む日差しへかざすと、畳の上に落ちた光が、狭い一点ではなく、少し離れた複数の場所へ分かれた。
「方解石だけの性質ではなく、加工して光を散らすんですね」
「白い反射壁と組み合わせます。光を増やすのではありません。届かぬ場所へ回すのです」
すべてを現代側から持ち込むわけではない。
木材、陶管、石灰、藁、落ち葉、家畜糞、刈り草、薬草の搾りかすは異世界で用意できる。
園主さん自身が次を作れるようにするなら、現代の部品へ依存しすぎてはいけない。
「これで終わりですか?」
私は並んだ資材を見渡した。
「終わりです」
「本当に?」
「現時点では」
やはり信用できなかった。
薬草園へ着くと、園主さんは私たちの後ろに積まれた資材を見て、露骨に眉をひそめた。
「畑を全部変える気じゃないだろうな」
「1台だけです」
真壁さんが答えるより先に、私は人差し指を立てた。
「試験用に1台だけです。本当に」
「そちらの男は黙っているが」
「真壁さんも分かっています」
「承知しております」
少し遅れて真壁さんが頷いた。
園主さんはまだ疑っていたが、セルマさんが隣で「今回は私も見ているわ」と言ったことで、どうにか話を聞いてくれた。
真壁さんは、すぐに資材を広げなかった。
「園主殿。冬でも最も長く日が当たる場所は」
「あちらだ」
園主さんは迷わず畑の南側へ歩いた。
「霜が溜まるのは?」
「低い方だ。朝まで日が当たらん」
「風は」
「北西から抜ける。冬は、あの石垣の切れ目が一番強い」
「水害時の避難先は」
園主さんが少し離れた高台を指差す。
「納屋の横だ。あそこなら増水しても届かん」
質問するたび、即座に答えが返る。
日当たり、風向き、水の流れ、泥の深さ、家族が通る道、希少薬草を置いてきた場所。
園主さんの頭の中には、この畑の地図だけではなく、季節ごとの動きまで入っていた。
「設置場所は、どこがよろしいですかな」
真壁さんが最後に尋ねる。
園主さんは畑を見渡し、日当たりと避難路の両方を確かめてから、1か所を指した。
「ここだ。朝から日が当たる。高台へも押し上げやすい」
「では、ここへ」
真壁さんは、そこで初めて収納を開いた。
最初に現れたのは、低い木枠ではなく、大きな台車だった。
大径の車輪が4つ。両端には押し引き用の取っ手があり、中央には深さのある栽培箱が載っている。
「高すぎないか」
園主さんが、栽培箱の縁へ手を置いた。
腰の高さより僅かに低い。地面の畝と比べれば、ずいぶん高い。
「立ったまま作業できます」
「まだ腰は曲がっていない」
「曲がる前に対処します」
真壁さんの返答へ、園主さんが目を細めた。
「年寄り扱いか」
「園主殿の腰は交換できません」
「俺の腰を部品みたいに言うな」
園主さんは不満そうな顔をしたまま、台車の横へ立った。
試しに置いた薬草の葉を持ち上げ、裏側を見る。
いつもなら腰を折り、膝へ手を添えながら覗き込むところを、ほとんど姿勢を変えずに確認できた。
「……見やすいな」
「そうでしょう」
「得意そうな顔をするな」
園主さんが真壁さんを睨んだが、もう台車の高さへ文句を言わなかった。
栽培箱の底には排水用の小石と枝を敷き、その上へ土を入れる。さらに底板の下には、陶管が何度も折り返しながら走っていた。
「これが床下の道ですか」
私は、陶管の入口から出口まで指で追った。
「暖気はここを通り、土へ熱を渡して外へ抜けます」
真壁さんが接続部を示す。
「発酵槽とは外せるようにしてあります。水害時は接続を抜き、台車だけ移動させる」
「薬草を植えたままか」
「そのための台車です」
園主さんが車輪止めを外し、取っ手を押した。
土をまだ半分しか入れていない台車は、想像より軽く動いた。
「これなら、孫どもでも手伝えるな」
園主さんの口元が少し緩んだ。
その上へ木枠を組み、南側へ傾いたアクリル屋根を載せる。北側だけは透明にせず、木板の間へ藁を詰め、内側を石灰で白く塗った。
「北まで透明にしないんですか?」
「熱を逃がすだけです」
真壁さんは刷毛を動かしながら答える。
「南から入った光は、白い壁で戻します」
加工した方解石板は、屋根の内側へ角度を変えられるよう取り付けた。
光を一点へ集めるのではなく、低い冬の日差しを複数の方向へ振り分ける。板の角度を変えると、白い北壁へ当たる光の位置も変わった。
「これなら、奥の葉にも光が届きそうね」
セルマさんが、アクリル越しに確かめる。
「ただし、薬草ごとに適量は違うわ。光が多ければいいとは限らないもの」
「園主殿に調整していただきます」
「また仕事が増えたな」
園主さんはぼやきながら、方解石板の留め具を動かしていた。
屋根の一部には、蝶番で開く小窓がある。
夜はアクリルの上へ藁の覆いを掛け、朝になれば紐を引いて巻き上げる。
園主さんは1つずつ触り、外し、戻した。
真壁さんは説明するだけでなく、必ず園主さん自身へ操作させた。
最後に作ったのが、台車の横へ置く堆肥発酵槽だった。
木枠の内側へ藁を詰め、断熱する。中には家畜糞、寝藁、落ち葉、刈り草、薬草の搾りかすを混ぜ、水分を調整しながら重ねていく。
「堆肥の空気を中へ送るんじゃないんだな」
園主さんが確認する。
「送りません」
真壁さんは、発酵槽の中を蛇行する密閉管を示した。
「外気は、この管の中だけを通ります。堆肥へ触れず、熱だけを受け取る」
管の入口へ、足踏み式の送風機を接続する。
園主さんが試しに踏むと、革袋が膨らみ、縮み、管の向こうで空気の抜ける音がした。
「発酵が始まれば、これで暖気が台車の下へ行くのか」
「いかにも」
温度計は、発酵槽の中心、暖気の出口、根の深さの土、アクリル内部、外気の5か所へ置いた。
暖気管には手動の調整板があり、全開、半開、閉鎖を選べる。
「温度計は命令しません」
真壁さんが、土へ差した温度計を園主さんへ渡した。
「判断するのは園主殿です」
「数字だけで薬草が分かるものか」
「数字だけでは分かりません」
真壁さんは園主さんの、土に染まった手を見る。
「ゆえに園主殿が必要です」
園主さんは返事をせず、温度計を土へ差し直した。
発酵槽が十分に熱を持つまでには、数日かかった。
私たちが再び薬草園へ集まった朝、発酵槽中心の温度は上がり、足踏みポンプを動かすと暖気出口の温度もはっきり変わった。
土温は急には上がらない。
何度か送風すると、露地の畝より僅かに高くなる。
園主さんは、寒さへ弱い希少薬草の親株と、春に増やす予定の苗を栽培箱へ移した。
その夜は、季節外れに冷え込んだ。
園主さんは心配になり、夕方から何度も足踏みポンプを動かしたらしい。
翌朝、アクリルを開けると、一部の株の葉が僅かに垂れていた。
「土温が高いですね」
私は温度計を確認した。
凍えるほど低くはない。それどころか、想定よりかなり高い。
「病気かしら」
セルマさんが葉裏を見たが、病斑はなかった。
真壁さんは何も言わない。
園主さんが葉へ触れる。
指先で茎を押し、土を少し崩し、根元の匂いを確かめた。
「寒さじゃない」
園主さんが低く言った。
「根が暖まりすぎた。水を吸えていない」
暖気口を閉じ、アクリル上部の換気窓を開ける。園主さんは手早く土の表面を緩め、必要な株へだけ少量の水を与えた。
「今夜からは、日が落ちる前に短く送る。土へ熱が残ったら止める」
「何分くらいですか?」
私が尋ねると、園主さんは温度計ではなく葉を見た。
「今日は昨日の半分だ。数字だけでは決めん」
その判断は正しかった。
晴れた日は送風を止め、太陽熱だけを使う。曇った日は弱く送る。夜は藁の覆いを掛け、土温が下がりすぎる前に短時間だけ暖気を通す。
園主さんは数日で、設備を自分のものにし始めた。
ただ、足踏みポンプを踏みすぎた翌朝だけは、歩き方が少しおかしかった。
「足、痛いんですか?」
「痛くない」
園主さんは即座に否定した。
「歩き方が変ですよ」
「昨日、畑を歩きすぎただけだ」
真壁さんが足踏みポンプを見る。
「適度な運動にもなりますな」
「暖房器具へ健康効果を足すな」
園主さんは睨んだものの、その日は送風時間をきちんと短くした。
発酵槽の温度が下がり始めた時には、真壁さんより先に口を開いた。
「1つが弱ってから次を仕込んだんじゃ遅いな」
園主さんは空いた場所を指差した。
「もう1つ、小さい槽を作る。交互に使えば熱が途切れん」
真壁さんが1度だけ頷く。
「採用しましょう」
「最初から考えていた顔だな」
「園主殿が決めねば、続きません」
「面倒な男だ」
園主さんはそう言いながら、少し嬉しそうだった。
温室を使い始めて10日ほど経った頃、別の変化が見つかった。
暖気出口に近い2株だけ、他より節の間隔が詰まり、背丈が低く、茎が太くなっていた。
「丈夫になったようにも見えるわね」
セルマさんが茎を指で挟む。
「でも、葉の黄ばみが少し早いわ」
園主さんは腕を組み、低い株と通常の株を見比べた。
「畑の風上にある草と似ている。風に叩かれる株は、背が伸びずに太くなる」
「送風の振動でしょうか」
私は暖気管の出口へ手をかざした。
葉へ直接風を吹き付ける構造ではないが、空気が流れるたびに栽培箱へ僅かな振動が伝わっている。
接続部へ顔を近づけると、微かに堆肥の匂いもした。
「真壁さん。ここ、気密が甘いかもしれません」
接続部を外して確認すると、革の密封材が僅かにずれていた。
発酵槽側の空気が、ごく少量だけ暖気管へ混じっていたのだ。
「堆肥側の空気が原因でしょうか」
「断定はできません」
真壁さんは、低くなった株へ目を向ける。
「暖気の流れ、振動、温度差、発酵槽から漏れた揮発性物質。条件が重なっています」
セルマさんも葉を持ち上げ、通常株と匂いを比べた。
「植物自身が、刺激を受けて成長の仕方を変えた可能性もあるわね。でも、茎が太いだけで良い薬草とは言えないわ」
「丈夫に見えることと、良い薬草であることは別だ」
園主さんが先に結論を出した。
「俺が売るのは太い茎じゃない。薬になる草だ」
「薬効はこちらで比較するわ」
セルマさんは2株から最低限の葉だけを取り、丁寧に包んだ。
「それと、この失敗も弟子たちへ見せたい。薬草は瓶の中から生えてくるわけじゃないもの」
工房長になったばかりのセルマさんは、失敗まで教材にするつもりらしい。
真壁さんが、ずれた密封材を取り外す。
「使用するのは発酵熱のみです。ガスは遮断します」
接続部は二重に密閉され、発酵槽側の空気が混じれば外へ逃げる構造へ改められた。
「接触や振動の効果を調べるなら、発酵槽とは切り離して行います」
真壁さんは栽培箱の端へ、小さな比較区画を設けた。
「毎日、柔らかい布で同じ回数だけ触れる株。台車を僅かに振動させる株。何もしない株。薬効に差が出るか、セルマ君に確認してもらう」
「また試すものが増えましたね」
「台数は増えておりません」
「その言葉を盾にするのはやめてください」
約束は守られていた。
面積は少しずつ奪われていた。
園主さんの鑑定が生えたのは、それからさらに数日後だった。
同じ栽培箱の中で、1株だけ生育が遅れていた。
土温は同じ。
日照にも大きな差はない。
水も均等に与えている。
「この株だけ、元々弱かったんでしょうか」
私は葉の大きさを見比べた。
「病気には見えないわね」
セルマさんも首を傾げる。
園主さんはすぐに答えなかった。
葉裏を見て、葉脈を指でなぞり、根元の土を少しずつ崩す。隣の株の土も触り、両方を掌へ載せて揉んだ。
「温度じゃない」
園主さんが言う。
「こちらだけ土が細かすぎるように見えますけど」
「逆だ」
私の考えを否定し、園主さんは土を指の間から落とした。
「台車を動かした時、細かい土が片側へ寄った。こっちは粗い土が残って、水が抜けすぎている」
見ただけでは、ほとんど差が分からない。
園主さんは保水性のある土を少し混ぜ、株の周囲を整えた。
その瞬間、私の視界へ表示が浮かんだ。
----------------------------------
薬草園主
鑑定:1
----------------------------------
「真壁さん」
私は表示を見たまま、隣の袖を引いた。
「園主さんに、鑑定が生えました」
「鑑定?」
園主さんが眉を寄せる。
真壁さんは驚かなかった。
「今生まれたのは表示だけでしょう」
薬草を見つめる園主さんへ、静かに告げる。
「その目は、何十年も前から育っていた」
今回だけで得た力ではない。
葉を裏返し、土を握り、枯れた株の根を掘り、春が来るたびに植え直してきた。その積み重ねへ、今ようやく名前が付いたのだと、私には思えた。
園主さんには、鑑定を5まで上げられるだけの未使用スキルポイントが残っていた。
真壁さんが園主さんへ向き直る。
「園主殿。未使用の力を、鑑定へまとめることをお勧めします」
「全部か」
「全部です」
「自分ではできんのか」
「取得したばかりでは、割り振り方も分からないでしょう。澪君なら操作できます」
園主さんは私を見た。
私たちは何度か顔を合わせてはいるが、親しい間柄ではない。まして、自分の中にあるという力を預ける話だ。すぐ返事が出ないのは当然だった。
「他に使えるものもあるんじゃないのか」
「あるでしょう」
真壁さんは否定しなかった。
「しかし、園主殿が極めるべきものは、すでに決まっている」
園主さんは、しばらく畑を見渡した。
冬風に揺れる治癒草。
寒さへ耐える薬草。
何年も育て、失い、また植えてきた株。
最後に、高床台の中の希少薬草へ目を戻した。
「……澪さん」
園主さんが、少し言い慣れない様子で私を呼んだ。
「はい」
「頼んでもいいか」
命令ではなかった。
長く守ってきた畑の一部を、ほんの少しだけ預けてもらえたような気がした。
「もちろんです」
私は園主さんの了承を確かめ、スキルポイントを鑑定へ割り振った。
----------------------------------
鑑定:1
↓
鑑定:2
↓
鑑定:3
↓
鑑定:4
↓
鑑定:5
----------------------------------
表示が消えたあと、園主さんは黙って薬草を見つめた。
「どう?」
セルマさんが尋ねる。
「前から見えていた」
園主さんは葉の縁へ触れた。
「ただ、何を見ていたのか分かっていなかったらしい」
園主さんは、すぐに設備へ手を伸ばさなかった。
まず薬草を見た。
葉の開き方を確かめ、土へ指を差し込み、隣の株と根元の温度を比べる。
「この株は、昼に温まりすぎている。夜はもう少し冷えていい。水も今は足さない方がいい」
そこまで判断してから、方解石板の角度を僅かに下げ、暖気口を半分に絞り、換気窓を指1本分だけ開けた。
鑑定が設備の操作方法を教えたわけではない。
薬草が何を嫌がっているかを見抜き、どう調整するかは園主さん自身が考えている。
「これなら、俺が加減できる」
園主さんが呟く。
その言葉を聞いて、私はようやく肩の力を抜いた。
真壁さんが作ったのは設備だった。
けれど、その設備を農法へ変えたのは園主さんだった。
夕方には、可搬式の簡易温室はすっかり薬草園の景色へ馴染んでいた。
発酵槽からは僅かに湯気が上がり、園主さんが足踏みポンプを数回動かす。温められた空気が床下の陶管を通り、薬草の根を包む土へ、ゆっくり熱を渡していく。
そこへ、子どもたちの声が聞こえた。
「じいちゃん!」
「何これ!」
園主さんの孫たちが、畑の小道を駆けてくる。
透明なアクリルの覆いを見て、すぐに周りを取り囲んだ。
「薬草の家だ!」
「車輪がある!」
「動くの?」
「勝手に触るな」
園主さんは厳しい声を出したが、子どもたちを追い払おうとはしなかった。
車輪止めを外し、取っ手へ手を掛ける。
「少しだけだ。押してみろ」
孫たちが一斉に反対側へ集まり、力を合わせて押す。
高床台がゆっくり動くと、歓声が上がった。
「動いた!」
「畑が逃げる!」
「逃がすのは水が来た時だけだ。普段から逃がすな」
園主さんが叱るように言う。
その中で、1人だけ台車の車輪を見ていない子がいた。
アクリルへ顔を近づけ、中の薬草をじっと見ている。
園主さんもその子へ気付いたらしい。
「お前は車輪を押さないのか」
「だって、この子だけ元気がない」
子どもは葉を指差した。
「じいちゃん。この子、喉が渇いてる」
「また分かるのか」
園主さんの言葉に、私は振り返った。
「前からなんですか?」
「ああ。俺が水をやる前に、乾いた鉢だけ見つける。適当に言っていると思っていたがな」
園主さんが、子どもの指差した株を見る。
鑑定5で確かめたのか、表情が僅かに変わった。
「……本当だ」
私はその子を鑑定した。
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緑の手:1
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「真壁さん」
小声で袖を引く。
真壁さんも表示を見て、園主さんと孫を見比べた。
園主さんは何も知らず、水差しを孫へ渡す。
「余計なところへやるなよ」
「分かってるよ」
子どもは得意そうに答え、乾いた株の根元へだけ、少量の水を注いだ。
「園主殿」
真壁さんが呼び掛ける。
「どうやら、次の担い手も芽を出しているようです」
「まだ遊び盛りだ」
園主さんはそう答えたが、その声は少しだけ柔らかかった。
「それに、こいつへ畑を任せるかどうかは、これから俺が決める」
「いかにも」
真壁さんは否定しなかった。
孫たちは再び台車の周りへ集まり、今度は足踏みポンプを踏みたがった。園主さんは順番だと叱り、1人ずつ踏ませる。
革袋が膨らむたび、子どもたちは歓声を上げた。
「冬でも育つんですね」
私が言うと、園主さんは温度計から目を上げた。
「冬がなくなったんじゃない」
アクリルの向こうで、小さな新芽が揺れている。
「こいつが冬を越す方法を、少し見つけただけだ」
その隣では、水差しを抱えた孫が、もう一度葉を覗き込んでいた。
園主さんが育てているのは、薬草だけではないのかもしれない。
けれど、今それを口にすれば、きっと「まだ早い」と叱られる。
私は何も言わず、小さな手に抱えられた水差しを見ていた。