押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第181話 王都へ広がる波紋

王都の朝は、鐘の音より先に紙の音で始まる。

 

 宰相府の長机には、夜のうちに各省庁から運び込まれた報告書が山を作り、その脇では書記官たちが羽根ペンを走らせていた。窓の外では、王城の尖塔をかすめるように薄い雲が流れている。秋の終わりを告げる冷たい風が、分厚いガラス窓を時折鳴らした。

 

 宰相は、机の中央へ置かれた最後の報告書を読み終えると、指先で紙の端を揃えた。

 

 オスヴァルト・クライン捜索報告。

 

 表紙には、同じ題名が何度も書き直された跡があった。

 

 第一捜索隊。

 

 第二捜索隊。

 

 魔術院独自調査。

 

 国境街道調査。

 

 遺跡周辺調査。

 

 転移事故を想定した魔力残滓の追跡。

 

 どれも結果は同じだった。

 

 発見に至らず。

 

 宰相は報告書を閉じ、長机の両側へ座る者たちを見渡した。

 

 王都魔術院の代表者、宮廷魔術師団の幹部、財務官、内務官。それぞれの前には、自分たちの部署が費やした金額と人員が並んでいる。

 

「本日をもって、王都としてのオスヴァルト・クライン師の探索を終了する」

 

 静かな声だった。

 

 だからこそ、その一言は会議室の隅まで届いた。

 

 王都魔術院から出席していた老魔術師が、椅子を軋ませて身を乗り出した。

 

「お待ちください。クライン師は境界魔術の第一人者です。まだ生存の可能性は――」

 

「あるかもしれん」

 

 宰相は否定しなかった。

 

 老魔術師の顔へ、一瞬だけ希望が浮かぶ。

 

「しかし、可能性だけで国家予算を使い続けることはできぬ」

 

 希望はすぐに消えた。

 

 財務官が伏せていた目を僅かに上げる。机上の数字を最も正確に理解しているのは彼だった。捜索に使われた金額は、地方の橋を数本架け直せるほどに膨らんでいる。

 

「境界課からは、さらに半年の延長申請が出ております」

 

 内務官が慎重に口を挟んだ。

 

「却下する」

 

 宰相は即答した。

 

「納得できぬ者は、自家の予算で探せ。魔術院の研究費でも、貴族家の私費でも構わん。王家の金は、これ以上使わぬ」

 

 誰かが小さく息を呑んだ。

 

 国家としての捜索終了。

 

 それは、オスヴァルト・クラインが死亡したと認定されたわけではない。

 

 しかし、王国が彼を探すことを諦めたという意味ではあった。

 

「異論がある者は」

 

 宰相が見渡す。

 

 何人かは口を開きかけた。

 

 だが、その者たちの視線は、机の上に並ぶ支出額へ落ちたままだった。

 

「いないようだな」

 

 宰相は捜索終了の命令書へ署名した。

 

 羽根ペンの先が紙を擦る音だけが、会議室に響いた。

 

 

 

 

 

 王都魔術院の境界課には、空いたままの机が1つあった。

 

 主を失って数か月が経っているにもかかわらず、誰もそこを使おうとはしなかった。

 

 積まれていた研究資料は整理され、私物も箱へ納められている。それでも机そのものだけは、以前の位置に残されていた。

 

 王都魔術院長コンラート・アイゼンフェルトは、その机の前で足を止めた。

 

「宰相命令が下りました」

 

 背後から声を掛けたのは、境界課長マティアス・ヘルナーだった。

 

「公式捜索は終了です」

 

「そうか」

 

 コンラートは短く答えた。

 

 驚きはなかった。

 

 いつか来ると分かっていた日である。

 

 それでも、実際に言葉にされると、机の周りだけ空気が冷えたように感じられた。

 

「課長としては、どうする」

 

「後任を育てます」

 

 マティアスの返事には、苦いものが混じっていた。

 

「育つのか」

 

「育てなければなりません」

 

「質問を変えよう。何年かかる」

 

 マティアスは答えなかった。

 

 机の上には、途中で止まった古代結界式の解析図が置かれている。オスヴァルトが最後に手を入れた箇所から先へ進められる者は、まだ現れていない。

 

 結界式の解析だけではない。

 

 古代転移陣の構造確認。

 

 封印魔術の安全検証。

 

 若手への境界感知訓練。

 

 オスヴァルトが何気なく引き受けていた仕事は、失ってから初めて、その量が見えた。

 

「惜しい人材でした」

 

 コンラートが呟く。

 

 マティアスは眉を寄せた。

 

「惜しい、では済みません」

 

 声を荒らげたわけではない。

 

 それでも、普段は感情を表へ出さない男の言葉としては十分に強かった。

 

「若手の訓練が3か月遅れています。第7結界室の改修も止まりました。北部遺跡から届いた転移板は、梱包を解くことすらできていません」

 

「分かっている」

 

「分かっているなら、なぜ捜索継続を――」

 

「私が宰相なら、同じ判断をする」

 

 コンラートは空いた机から視線を外した。

 

「研究者としては探したい。院長としては、戻る保証のない1人へ全てを費やせない」

 

 マティアスは口を閉じた。

 

 正しい。

 

 正しいからこそ、腹が立つ。

 

 廊下の向こうで、靴音が近づいてきた。

 

 黒い外套を着た男が、境界課の入口で立ち止まる。

 

 ジークフリート・ライナー。

 

 ローゼンベルク公爵家の魔術顧問であり、かつて王都魔術院にも席を置いていた魔術師だった。

 

「取り込み中でしたかな」

 

「見れば分かるでしょう」

 

 マティアスの返答は冷たい。

 

 ジークフリートは気にした様子もなく、空いた机を一瞥した。

 

「探索が終わったそうですな」

 

「公爵家は続けるのですか」

 

 コンラートが尋ねる。

 

「それを決めるのは公爵閣下です」

 

 ジークフリートは答えを濁し、懐から折り畳まれた紙を取り出した。

 

「ただ、興味深い噂が届いております」

 

 机へ置かれた紙には、地方商人から集めた情報が簡潔にまとめられていた。

 

 侯爵領で高品質のポーション流通が増加。

 

 同領内に大型錬金工房が建設されたとの噂。

 

 複数の弟子を受け入れる教育設備を有する可能性。

 

 マティアスが紙を読み、表情を険しくした。

 

「錬金術師の話でしょう。境界課と何の関係がある」

 

「今のところは、何も」

 

 ジークフリートは穏やかに答えた。

 

「ですが、地方の侯爵家が独自に技術者を育て始めた。その事実へ、王都が無関心でいられるでしょうか」

 

「育成施設を作ることは罪ではない」

 

 コンラートが紙を裏返す。

 

「もちろん」

 

 ジークフリートは笑った。

 

「だからこそ、見ておく必要があるのです」

 

 その笑顔には、研究者の好奇心と、公爵家に仕える者の計算が同居していた。

 

 

 

 

 

 王都錬金術師ギルドの鑑定室には、12本の小瓶が並んでいた。

 

 同じ高さ。

 

 同じ太さ。

 

 同じ色。

 

 同じ容量。

 

 瓶の中には、淡い赤色のポーションが満たされている。

 

 ギルド長フリードリヒ・クラマーは、瓶の列の前で腕を組んでいた。

 

「もう一度」

 

 鑑定担当の錬金術師が、緊張した面持ちで結果を読み上げる。

 

「薬効は基準値を上回っています。12本すべて、ばらつきは測定誤差の範囲内。沈殿なし。濁りなし。密閉状態も良好です」

 

「保存期間は」

 

「従来品より長いと考えられます。少なくとも、運ばれてきた時点で劣化は確認できません」

 

「価格は」

 

 隣に立つ書記が帳票を見る。

 

「王都の同等品より2割ほど高値です」

 

 フリードリヒは、そこで初めて僅かに息を吐いた。

 

「ならば、すぐには市場を奪われん」

 

 会議室にいた古参錬金術師たちも、ほんの少しだけ表情を緩める。

 

 高品質でも、高ければ買える者は限られる。

 

 王都には王都の市場がある。

 

「今は、です」

 

 若い声がした。

 

 フリードリヒが視線を向ける。

 

 発言したのは、若手錬金術師ルーカス・フェルナーだった。

 

「何が言いたい」

 

「この品質で生産量が増えれば、価格は下がります」

 

 ルーカスは机上の瓶へ手を伸ばした。

 

 古参の1人が止めるより早く、蓋を摘まんで回す。

 

 小さな音を立てて、蓋が外れた。

 

「何度開けても、口が欠けません。閉めれば同じ力で密閉できる。コルクのように品質差もない」

 

「中身の話をしている」

 

「容器も商品の一部です」

 

 ルーカスは蓋を戻し、軽く締めた。

 

 瓶を横へ倒しても、液は漏れない。

 

「王都で同じものを作れる工房はありません」

 

「ガラス瓶なら作れる」

 

 古参錬金術師が反論する。

 

「同じ寸法で1万本作れますか」

 

 ルーカスが問い返す。

 

 答えはなかった。

 

 王都のガラス工房でも、透明な瓶は作れる。

 

 だが、1本ずつ職人が吹いて作る以上、厚みも口径も僅かに違う。蓋まで同一規格に揃えることは難しい。

 

 フリードリヒは、12本の瓶を端から眺めた。

 

 まるで1本を写して増やしたようだった。

 

「市場では、使用済みの瓶が買い取られているそうです」

 

 書記が別の紙を差し出した。

 

「何に使う」

 

「再利用です。洗浄後、自家製ポーションや薬液を詰めています」

 

 古参錬金術師が気まずそうに顔を逸らした。

 

 フリードリヒは見逃さなかった。

 

「まさか、お前の工房もか」

 

「……瓶が良いので」

 

「中身を作る者が、容器を買い戻してどうする」

 

「ですから、瓶が良いのです」

 

 妙に力のこもった返事だった。

 

 鑑定室の隅で、誰かが咳払いする。

 

 笑いそうになったのを誤魔化したのだろう。

 

 フリードリヒは笑えなかった。

 

「価格では、まだ我々が勝っている」

 

 自分へ言い聞かせるように繰り返す。

 

「今だけです」

 

 ルーカスは退かなかった。

 

「侯爵領側が品質を維持したまま量を増やせば、こちらは価格を下げるしかありません。ですが、同じ品質へ上げるには原料も工程も見直す必要があります」

 

「簡単に言うな」

 

「簡単ではありません。だから問題なのです」

 

 室内が静まり返った。

 

 机上には、高品質のポーションが12本。

 

 そのうち中身だけを見ている者は、もう誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 ローゼンベルク公爵家の会議室には、王都の喧騒が届かなかった。

 

 厚い絨毯が靴音を吸い、窓には重い深紅の幕が掛けられている。壁には歴代当主の肖像画が並び、部屋の中央では長い燭台の炎が揺れていた。

 

 エアハルト・フォン・ローゼンベルク公爵は、黒鎖商会から提出された報告書を最後まで読んだ。

 

 向かいには、家令ディートリヒ・ヴァイス、魔術顧問ジークフリート・ライナー、黒鎖商会会頭ヘルムート・グライフが座っている。

 

「高品質のポーション」

 

 公爵は紙面へ指を置いた。

 

「均一な容器」

 

 次の行へ移る。

 

「大型工房。弟子の育成。薬草栽培の改良」

 

 最後まで読み、報告書を机へ落とした。

 

「侯爵は、いつから錬金術へ熱心になった」

 

「侯爵本人の発案とは限りません」

 

 家令ディートリヒが答える。

 

「領内に入った新興商人が関与している可能性があります」

 

「押入商会か」

 

 公爵は、その名を不快そうに口にした。

 

 地方で家具を作り、珍しい商品を扱う商会。

 

 当初はその程度の報告だった。

 

 ところが今は、橋を直し、町を救い、工房を建て、薬草の生産まで変え始めている。

 

「商人が、錬金術師を育てるのか」

 

「正確には、既存の錬金術師へ設備を与えたものと思われます」

 

 ジークフリートが補足する。

 

「教育施設が事実なら、問題はポーションだけではありません。5年後、10年後に育つ人材の数が変わる」

 

「王都魔術院より優れた教育をするとでも」

 

「見なければ判断できません」

 

 ジークフリートは安易に否定しなかった。

 

 その態度へ、公爵の眉が僅かに動く。

 

「お前は興味があるようだな」

 

「あります」

 

「正直だ」

 

「魔術師ですので」

 

「私の顧問でもある」

 

「承知しております」

 

 ジークフリートは平然と頭を下げた。

 

 ヘルムートが低い声で口を挟む。

 

「放置は勧められません」

 

 黒鎖商会の会頭は、他の3人より服装こそ控えめだったが、目だけは鋭かった。

 

「現時点では価格が高い。しかし、生産量が増えれば王都へ入る量も増えます。薬材、ポーション、容器。いずれも我々の取引へ影響する」

 

「黒鎖商会の問題か」

 

「公爵家の収入にも影響します」

 

 言い換えが早い。

 

 公爵は椅子へ深く腰掛けた。

 

「何をする」

 

「まず情報を集めます」

 

 ヘルムートは即答した。

 

「工房の規模。弟子の数。原料の供給元。容器の製造場所。生産量。侯爵家との契約内容」

 

「技術者を引き抜けるかも調べろ」

 

 ディートリヒが加える。

 

「無理なら」

 

 公爵が続きを待つ。

 

 家令はすぐには言わなかった。

 

「まず、無理かどうかを確認いたします」

 

 公爵は薄く笑った。

 

「よろしい。調べろ」

 

 視線がヘルムートへ向く。

 

「まだ手は出すな」

 

「承知しました」

 

「私は、無能な騒ぎを望んでいるのではない」

 

「心得ております」

 

 ヘルムートは深く頭を下げた。

 

 公爵が欲しいのは破壊ではない。

 

 利用できるなら利用する。

 

 奪えるなら奪う。

 

 危険なら潰す。

 

 順序を間違えるほど、彼らは愚かではなかった。

 

 

 

 

 

 同じ頃、ヴァルトは肥料袋を荷車から下ろしていた。

 

 王都で本名のオスヴァルト・クラインを探す国家事業が終了したことなど、知る由もない。

 

 彼の目の前にある問題は、袋へ付けた札が1つ剥がれかけていることだった。

 

「こちらが液肥用の固形肥料。こちらは発酵槽へ入れる材料。薬草の搾りかすは別にしてあります」

 

 リュシア商会の荷捌き場で、ヴァルトは納品物を確認する。

 

「セルマ先生の工房へ運ぶ分ですね」

 

 店員が頷いた。

 

「お願いします。混ぜると用途が変わりますので」

 

 ヴァルトは剥がれかけた札を結び直し、荷車を押して町へ出た。

 

 行商訓練を始めた頃と比べれば、荷の扱いにもすっかり慣れた。

 

 肥料。

 

 液肥材料。

 

 薬草残渣。

 

 特別なものではない。

 

 いつもの納品だった。

 

 セルマの工房がある通りへ入るまでは。

 

 ヴァルトは荷車を押したまま、立ち止まった。

 

 白い5階建ての建物が、通りの奥に立っている。

 

 大きな窓。

 

 屋上の風車。

 

 見慣れない黒い板。

 

 入口へ人が出入りし、荷車が脇の搬入口へ吸い込まれていく。

 

「……場所を間違えましたか」

 

 ヴァルトは周囲を確認した。

 

 道は合っている。

 

 リュシア商会からの距離も間違っていない。

 

 隣の建物も、向かいの井戸も記憶どおりだ。

 

 では、セルマの工房はどこへ消えたのか。

 

「あら、ヴァルトさん」

 

 入口からセルマが出てきた。

 

 ヴァルトはセルマを見た。

 

 建物を見た。

 

 またセルマを見た。

 

「セルマ先生」

 

「なに?」

 

「工房は、どこへ」

 

 セルマは背後の建物を親指で示した。

 

「これよ」

 

 ヴァルトはしばらく動かなかった。

 

「全部ですか」

 

「全部よ」

 

「上から下まで」

 

「地下もあるわ」

 

 ヴァルトは目を閉じた。

 

 地下まである。

 

 聞かなければよかった。

 

「真壁さんですか」

 

「真壁さんよ」

 

 やはり聞く必要はなかった。

 

 

 

 

 

 工房を一巡するたび、ヴァルトの顔色は悪くなった。

 

 最初に案内された教室には、20人ほどが座れる机と黒板がある。

 

「ここで弟子へ基礎を教えるの」

 

 セルマは嬉しそうに説明した。

 

「薬草の見分け方、調合、安全管理。今までは作業台の横で1人ずつ教えていたけれど、これなら全員へ同時に話せるわ」

 

「全員」

 

 ヴァルトが呟く。

 

「弟子は何人の予定ですか」

 

「最初は少なく始めるわ。通いの子もいるし」

 

「最初は」

 

「ええ」

 

 将来増やす前提だった。

 

 共用錬金室には、同じ寸法の作業台が並んでいる。失敗が隣へ広がらない仕切りと、薬液を処理する排水設備まである。

 

 図書室には、セルマが集めてきた本と資料が整理され、空いた棚が将来の記録を待っていた。

 

 住居。

 

 食堂。

 

 男女別の浴場。

 

 地下倉庫。

 

 容器の備蓄。

 

 施設を見れば見るほど、ヴァルトの中で「工房」という言葉が剥がれ落ちていった。

 

 これは工房ではない。

 

 教育施設。

 

 研究施設。

 

 生産施設。

 

 生活施設。

 

 1つの組織を育てるための器である。

 

 王都魔術院の教育課が、何年も予算を求めて実現できなかったものが、地方の町に立っている。

 

「ヴァルトさん、顔色が悪いけれど大丈夫?」

 

 セルマが心配そうに覗き込む。

 

「大丈夫ではありません」

 

「建物が高いから?」

 

「政治的に高すぎます」

 

 セルマが首を傾げた。

 

「政治?」

 

「弟子を継続的に育てる設備です。薬草もポーションも容器も、同じ場所で管理できる。侯爵領が独自に錬金術師を養成していると見られます」

 

「実際、育てるけれど」

 

「だから困るんです」

 

「人を育てるのは悪いことではないでしょう?」

 

「悪くありません。悪くないからこそ、止める側は別の理由を作ります」

 

 セルマの笑顔が少し曇った。

 

「軍用ポーションの生産拠点。技術者の囲い込み。王都ギルドへの対抗組織。好きな言い方を選べます」

 

「そんなつもりはないわ」

 

「政治では、本人のつもりは最後に確認されます」

 

 ヴァルトは額を押さえた。

 

 まだ工房だけなら、説明の仕方はあったかもしれない。

 

 優秀な錬金術師が、生産量を増やすため設備を拡張した。

 

 弟子を数人教える場所を作った。

 

 そう言い張ることもできる。

 

「そういえば、薬草園も見ていく?」

 

 セルマが明るい声で言った。

 

 ヴァルトは嫌な予感がした。

 

「何かしたのですか」

 

「冬越し用の温室を1台だけ」

 

「1台だけですね」

 

「ええ」

 

 ヴァルトは僅かに安堵した。

 

 真壁が関わって1台で済んだなら、被害は軽い。

 

 そう考えた自分を、薬草園へ着いてから殴りたくなった。

 

 

 

 

 

 薬草園には、車輪の付いた畑があった。

 

 腰ほどの高さに土を載せ、その上を透明な板で覆っている。北側の白い壁へ方解石板から光が回り、脇には木枠で囲まれた発酵槽が置かれていた。

 

 園主が足踏み式の送風機を踏むと、発酵熱で温められた空気が床下の陶管へ流れ、薬草の根を包む土を暖める。

 

 温度計は5本。

 

 暖気の調整板。

 

 巻き取り式の藁覆い。

 

 水害時には発酵槽との接続を外し、台車ごと高台へ移動できる。

 

 さらに、その周りを子どもたちが走っていた。

 

「じいちゃん、踏んでいい?」

 

「順番だ。強く踏みすぎるな」

 

「昨日より葉が開いてる!」

 

「触る前に手を洗え」

 

 園主は子どもたちを叱りながら、どこか楽しそうだった。

 

 ヴァルトは可搬式温室を見た。

 

 発酵槽を見た。

 

 薬草を見た。

 

 最後に、温室の脇で平然と園主へ説明している真壁を見た。

 

「……真壁さん」

 

 低い声が出た。

 

 真壁が振り返る。

 

「ヴァルト君。納品ですかな」

 

「何をやっているんですか」

 

「薬草を育てております」

 

「そういう話じゃありません!」

 

 薬草園に声が響いた。

 

 孫たちが一斉にヴァルトを見る。

 

 園主まで足踏みを止めた。

 

 真壁だけが、なぜ怒鳴られたのか理解できない顔をしている。

 

「希少薬草の親株と春用の苗を越冬させる設備です」

 

「説明が正確になっても、問題は減りません!」

 

 ヴァルトは頭を抱えた。

 

「工房で錬金術師を育てる。薬草園で希少薬草の生産を改善する。規格容器を大量生産する。これが王都へどう見えるか分かっていますか」

 

「地方産業の振興でしょう」

 

「技術勢力の形成です!」

 

 真壁が僅かに眉を上げる。

 

 それでも焦った様子はなかった。

 

「随分と大げさですな」

 

「私は王都魔術院にいたんです!」

 

 思わず口走り、ヴァルトは周囲を見た。

 

 セルマも園主も、事情を知っている。孫たちは意味を理解していない。

 

 秘密が漏れたわけではない。

 

 それでも胃が痛んだ。

 

「王都では、小さな研究室を1つ増やすだけで派閥が動きます。新しい講座を作れば、誰の予算を削ったかで争いになる。地方の侯爵家が、これだけの育成施設を突然作った。無視されるはずがありません」

 

「必要なので作りました」

 

「王都の人間は、必要性より誰が力を持つかを見ます!」

 

 園主が真壁へ顔を向ける。

 

「面倒なところだな、王都は」

 

「その感想で済ませないでください」

 

 ヴァルトの胃は、納品前より確実に悪化していた。

 

 

 

 

 

 六畳間へ集まった頃には、ヴァルトは正座したまま動かなくなっていた。

 

 座卓には澪が淹れた茶が並び、リュシアとセルマも向かい側へ座っている。

 

 真壁だけは、ヴァルトの訴えを聞きながらポーション瓶の蓋を確認していた。

 

「まず、必ず王都へ伝わります」

 

 ヴァルトは両手を膝へ置き、1人ずつ顔を見た。

 

「なぜですか?」

 

 澪が尋ねる。

 

「ポーションが王都へ流れているからです。品質が高ければ、錬金術師ギルドが調べます。容器が珍しければ、商人が製造元を探します。弟子募集の噂が出れば、魔術院や貴族家も動きます」

 

「弟子を募集するだけで?」

 

「優秀な錬金術師は、国家資源です」

 

「人を資源扱いするのは嫌ですね」

 

「私も好きではありません。ですが、王都はそう見ます」

 

 ヴァルトは茶へ手を伸ばし、途中で止めた。

 

 胃に入れて大丈夫か考えたらしい。

 

「侯爵家とローゼンベルク公爵家は、以前から政治的に距離があります。公爵派は、侯爵領が技術者を囲い込んでいると考えるでしょう」

 

「囲い込んでいません」

 

 セルマが反論する。

 

「弟子になりたい人を育てるだけよ」

 

「その説明を信じる人もいます。信じない人もいます。信じていても、都合が悪ければ別の話を作る人もいます」

 

 リュシアが腕を組み、感心したように頷いた。

 

「商売と同じだね。商品そのものより、誰が売っているかで話が変わる」

 

「笑い事ではありません」

 

「笑ってないよ」

 

 リュシアは笑っていた。

 

「王都魔術院も動きます」

 

 ヴァルトが続ける。

 

「錬金術の教育施設であっても、地方で人材育成が始まれば関心を持つ。共同研究を申し込む者もいるでしょう。引き抜こうとする者も。潰したい者も」

 

「魔術院は研究する場所でしょう?」

 

 澪が首を傾げる。

 

「研究者だけなら平和でした」

 

 ヴァルトの返事へ、六畳間が少し静かになった。

 

「魔術院には研究者もいます。貴族の派閥もあります。予算を取る者、地位を守る者、若手を育てたい者、他人の成果を奪いたい者。全員が同じ方向を見ているわけではありません」

 

「公爵派が動く。王都魔術院も動く。錬金術師ギルドも動く」

 

 澪が指を折りながら確認する。

 

「そんなにですか」

 

「そんなにです!」

 

 ヴァルトの声が裏返った。

 

 真壁が瓶を置く。

 

「いずれ知れることです」

 

「だから困るんですよ!」

 

 ヴァルトはとうとう茶を飲んだ。

 

 一気に半分ほど飲み、熱かったのか顔をしかめる。

 

「隠せと言っているのではありません。先に侯爵家へ説明しておくべきです。施設の目的、規模、教育方針、ポーションの用途。公的な立場を決めておかなければ、相手が勝手に意味を付けます」

 

 真壁が少し考える。

 

「それは合理的ですな」

 

「ようやく分かっていただけましたか」

 

「では、アルベルト殿へ報告しましょう」

 

 ヴァルトの肩から、ほんの少し力が抜けた。

 

「それが良いです。侯爵家公認の医療と教育の施設として――」

 

「ついでに魔術師育成設備についても相談を」

 

「やめてください!」

 

 ヴァルトは両手で座卓を叩いた。

 

 茶碗が揺れる。

 

 澪が慌てて押さえた。

 

「今は錬金術師だけで十分です!」

 

「魔術師も不足しているのでしょう」

 

「王都を刺激する話をしている最中に、新しい刺激を足さないでください!」

 

 リュシアが堪えきれずに笑い出した。

 

 セルマも口元を押さえている。

 

 ヴァルトは2人を恨めしそうに見た。

 

「笑っていられるのは今だけです」

 

「そうかもしれないね」

 

 リュシアは笑いながらも、目だけは真剣だった。

 

「でも、来るなら来るで商人として準備はするよ。誰が何を欲しがっているか分かれば、売れる物も見えてくる」

 

「戦争の話を商機へ変えないでください」

 

「まだ戦争じゃないよ」

 

「王都の魔術師同士の暗闘は、剣を抜かないだけで戦争です」

 

 ヴァルトは深く息を吐いた。

 

 六畳間の天井を見上げる。

 

 本名のオスヴァルト・クラインとして王都魔術院にいた頃、彼は派閥争いを避けるため研究室へ籠もっていた。

 

 その結果、今は肥料を運び、薬草温室を見て胃を痛めている。

 

 逃げた先で、以前より大きな火種へ出会うとは思わなかった。

 

 

 

 

 

 王都の黒鎖商会本店では、夜になっても灯りが消えなかった。

 

 会頭ヘルムート・グライフの執務室に、4人の男女が並んでいる。

 

 服装は商人、旅人、薬材買付人、行商人。

 

 どこにでもいる者たちに見えた。

 

「侯爵領へ入れ」

 

 ヘルムートは机の上へ、小さなポーション瓶を置いた。

 

「工房を見ろ。弟子の数を調べろ。薬草の仕入先を探せ」

 

 別の瓶を指で転がす。

 

「この容器も集めろ。新品でなくて構わん。使用済みを買え」

 

「製造元は」

 

「分かれば報告しろ。分からなければ、誰がどれだけ持っているかを調べろ」

 

 密偵の1人が瓶を持ち上げ、蓋を回した。

 

「確かに、よくできています」

 

「感想は要らん」

 

 ヘルムートの声は低い。

 

「侯爵領の新工房へ近づく際は、無理をするな。今は情報だけでよい」

 

「弟子へ接触は」

 

「まだするな」

 

「引き抜きも?」

 

「命令があるまで待て」

 

 ヘルムートは4人を順に見た。

 

「相手が何者か分からぬうちに手を出す者は、商人ではない」

 

 密偵たちは頭を下げ、部屋を出た。

 

 扉が閉じたあと、ヘルムートは机上の瓶を見つめる。

 

 透明なガラス越しに、燭台の炎が歪みもせず見えていた。

 

 

 

 

 

 その頃、六畳間では、真壁が床へ木箱を置いていた。

 

「何ですか、それ」

 

 澪が嫌な予感を覚えながら尋ねる。

 

「ポーション容器です」

 

 蓋が開く。

 

 中には、同じ形の小瓶が整然と並んでいた。

 

 透明なガラス。

 

 同じ寸法。

 

 スクリュー式の蓋。

 

「地下倉庫に1万本ありましたよね」

 

「需要が増えております」

 

「まさか」

 

「追加で1万本用意しました」

 

 ヴァルトの顔から血の気が引いた。

 

「増やしたんですか」

 

「不足してからでは遅い」

 

「今、王都でその瓶が問題になると説明したばかりです!」

 

「だからこそ供給が必要でしょう」

 

「違います!」

 

 澪も思わず声を上げた。

 

「増やさなくていいです!」

 

「需要があります」

 

 真壁は、当然のことを説明するように答えた。

 

 リュシアは瓶を1本手に取り、商人の目で蓋と厚みを確かめている。

 

「王都で空き瓶が売れるなら、容器だけでも商売になるね」

 

「リュシアさんまで!」

 

 ヴァルトは両手で頭を抱えた。

 

 王都では、密偵が侯爵領へ向けて動き始めていた。

 

 公爵家では、技術と人材を巡る計算が始まっていた。

 

 魔術院では、失った境界魔術師の机がまだ空いていた。

 

 錬金術師ギルドでは、侯爵領の瓶を洗って再利用していた。

 

 そのすべての中心にいる者たちは、六畳間で追加の瓶を数えている。

 

 ヴァルトには、それが嵐の前の静けさには見えなかった。

 

 嵐が来ると説明している横で、真壁が風車を増設しているようにしか見えなかった。

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