王都の朝は、鐘の音より先に紙の音で始まる。
宰相府の長机には、夜のうちに各省庁から運び込まれた報告書が山を作り、その脇では書記官たちが羽根ペンを走らせていた。窓の外では、王城の尖塔をかすめるように薄い雲が流れている。秋の終わりを告げる冷たい風が、分厚いガラス窓を時折鳴らした。
宰相は、机の中央へ置かれた最後の報告書を読み終えると、指先で紙の端を揃えた。
オスヴァルト・クライン捜索報告。
表紙には、同じ題名が何度も書き直された跡があった。
第一捜索隊。
第二捜索隊。
魔術院独自調査。
国境街道調査。
遺跡周辺調査。
転移事故を想定した魔力残滓の追跡。
どれも結果は同じだった。
発見に至らず。
宰相は報告書を閉じ、長机の両側へ座る者たちを見渡した。
王都魔術院の代表者、宮廷魔術師団の幹部、財務官、内務官。それぞれの前には、自分たちの部署が費やした金額と人員が並んでいる。
「本日をもって、王都としてのオスヴァルト・クライン師の探索を終了する」
静かな声だった。
だからこそ、その一言は会議室の隅まで届いた。
王都魔術院から出席していた老魔術師が、椅子を軋ませて身を乗り出した。
「お待ちください。クライン師は境界魔術の第一人者です。まだ生存の可能性は――」
「あるかもしれん」
宰相は否定しなかった。
老魔術師の顔へ、一瞬だけ希望が浮かぶ。
「しかし、可能性だけで国家予算を使い続けることはできぬ」
希望はすぐに消えた。
財務官が伏せていた目を僅かに上げる。机上の数字を最も正確に理解しているのは彼だった。捜索に使われた金額は、地方の橋を数本架け直せるほどに膨らんでいる。
「境界課からは、さらに半年の延長申請が出ております」
内務官が慎重に口を挟んだ。
「却下する」
宰相は即答した。
「納得できぬ者は、自家の予算で探せ。魔術院の研究費でも、貴族家の私費でも構わん。王家の金は、これ以上使わぬ」
誰かが小さく息を呑んだ。
国家としての捜索終了。
それは、オスヴァルト・クラインが死亡したと認定されたわけではない。
しかし、王国が彼を探すことを諦めたという意味ではあった。
「異論がある者は」
宰相が見渡す。
何人かは口を開きかけた。
だが、その者たちの視線は、机の上に並ぶ支出額へ落ちたままだった。
「いないようだな」
宰相は捜索終了の命令書へ署名した。
羽根ペンの先が紙を擦る音だけが、会議室に響いた。
王都魔術院の境界課には、空いたままの机が1つあった。
主を失って数か月が経っているにもかかわらず、誰もそこを使おうとはしなかった。
積まれていた研究資料は整理され、私物も箱へ納められている。それでも机そのものだけは、以前の位置に残されていた。
王都魔術院長コンラート・アイゼンフェルトは、その机の前で足を止めた。
「宰相命令が下りました」
背後から声を掛けたのは、境界課長マティアス・ヘルナーだった。
「公式捜索は終了です」
「そうか」
コンラートは短く答えた。
驚きはなかった。
いつか来ると分かっていた日である。
それでも、実際に言葉にされると、机の周りだけ空気が冷えたように感じられた。
「課長としては、どうする」
「後任を育てます」
マティアスの返事には、苦いものが混じっていた。
「育つのか」
「育てなければなりません」
「質問を変えよう。何年かかる」
マティアスは答えなかった。
机の上には、途中で止まった古代結界式の解析図が置かれている。オスヴァルトが最後に手を入れた箇所から先へ進められる者は、まだ現れていない。
結界式の解析だけではない。
古代転移陣の構造確認。
封印魔術の安全検証。
若手への境界感知訓練。
オスヴァルトが何気なく引き受けていた仕事は、失ってから初めて、その量が見えた。
「惜しい人材でした」
コンラートが呟く。
マティアスは眉を寄せた。
「惜しい、では済みません」
声を荒らげたわけではない。
それでも、普段は感情を表へ出さない男の言葉としては十分に強かった。
「若手の訓練が3か月遅れています。第7結界室の改修も止まりました。北部遺跡から届いた転移板は、梱包を解くことすらできていません」
「分かっている」
「分かっているなら、なぜ捜索継続を――」
「私が宰相なら、同じ判断をする」
コンラートは空いた机から視線を外した。
「研究者としては探したい。院長としては、戻る保証のない1人へ全てを費やせない」
マティアスは口を閉じた。
正しい。
正しいからこそ、腹が立つ。
廊下の向こうで、靴音が近づいてきた。
黒い外套を着た男が、境界課の入口で立ち止まる。
ジークフリート・ライナー。
ローゼンベルク公爵家の魔術顧問であり、かつて王都魔術院にも席を置いていた魔術師だった。
「取り込み中でしたかな」
「見れば分かるでしょう」
マティアスの返答は冷たい。
ジークフリートは気にした様子もなく、空いた机を一瞥した。
「探索が終わったそうですな」
「公爵家は続けるのですか」
コンラートが尋ねる。
「それを決めるのは公爵閣下です」
ジークフリートは答えを濁し、懐から折り畳まれた紙を取り出した。
「ただ、興味深い噂が届いております」
机へ置かれた紙には、地方商人から集めた情報が簡潔にまとめられていた。
侯爵領で高品質のポーション流通が増加。
同領内に大型錬金工房が建設されたとの噂。
複数の弟子を受け入れる教育設備を有する可能性。
マティアスが紙を読み、表情を険しくした。
「錬金術師の話でしょう。境界課と何の関係がある」
「今のところは、何も」
ジークフリートは穏やかに答えた。
「ですが、地方の侯爵家が独自に技術者を育て始めた。その事実へ、王都が無関心でいられるでしょうか」
「育成施設を作ることは罪ではない」
コンラートが紙を裏返す。
「もちろん」
ジークフリートは笑った。
「だからこそ、見ておく必要があるのです」
その笑顔には、研究者の好奇心と、公爵家に仕える者の計算が同居していた。
王都錬金術師ギルドの鑑定室には、12本の小瓶が並んでいた。
同じ高さ。
同じ太さ。
同じ色。
同じ容量。
瓶の中には、淡い赤色のポーションが満たされている。
ギルド長フリードリヒ・クラマーは、瓶の列の前で腕を組んでいた。
「もう一度」
鑑定担当の錬金術師が、緊張した面持ちで結果を読み上げる。
「薬効は基準値を上回っています。12本すべて、ばらつきは測定誤差の範囲内。沈殿なし。濁りなし。密閉状態も良好です」
「保存期間は」
「従来品より長いと考えられます。少なくとも、運ばれてきた時点で劣化は確認できません」
「価格は」
隣に立つ書記が帳票を見る。
「王都の同等品より2割ほど高値です」
フリードリヒは、そこで初めて僅かに息を吐いた。
「ならば、すぐには市場を奪われん」
会議室にいた古参錬金術師たちも、ほんの少しだけ表情を緩める。
高品質でも、高ければ買える者は限られる。
王都には王都の市場がある。
「今は、です」
若い声がした。
フリードリヒが視線を向ける。
発言したのは、若手錬金術師ルーカス・フェルナーだった。
「何が言いたい」
「この品質で生産量が増えれば、価格は下がります」
ルーカスは机上の瓶へ手を伸ばした。
古参の1人が止めるより早く、蓋を摘まんで回す。
小さな音を立てて、蓋が外れた。
「何度開けても、口が欠けません。閉めれば同じ力で密閉できる。コルクのように品質差もない」
「中身の話をしている」
「容器も商品の一部です」
ルーカスは蓋を戻し、軽く締めた。
瓶を横へ倒しても、液は漏れない。
「王都で同じものを作れる工房はありません」
「ガラス瓶なら作れる」
古参錬金術師が反論する。
「同じ寸法で1万本作れますか」
ルーカスが問い返す。
答えはなかった。
王都のガラス工房でも、透明な瓶は作れる。
だが、1本ずつ職人が吹いて作る以上、厚みも口径も僅かに違う。蓋まで同一規格に揃えることは難しい。
フリードリヒは、12本の瓶を端から眺めた。
まるで1本を写して増やしたようだった。
「市場では、使用済みの瓶が買い取られているそうです」
書記が別の紙を差し出した。
「何に使う」
「再利用です。洗浄後、自家製ポーションや薬液を詰めています」
古参錬金術師が気まずそうに顔を逸らした。
フリードリヒは見逃さなかった。
「まさか、お前の工房もか」
「……瓶が良いので」
「中身を作る者が、容器を買い戻してどうする」
「ですから、瓶が良いのです」
妙に力のこもった返事だった。
鑑定室の隅で、誰かが咳払いする。
笑いそうになったのを誤魔化したのだろう。
フリードリヒは笑えなかった。
「価格では、まだ我々が勝っている」
自分へ言い聞かせるように繰り返す。
「今だけです」
ルーカスは退かなかった。
「侯爵領側が品質を維持したまま量を増やせば、こちらは価格を下げるしかありません。ですが、同じ品質へ上げるには原料も工程も見直す必要があります」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。だから問題なのです」
室内が静まり返った。
机上には、高品質のポーションが12本。
そのうち中身だけを見ている者は、もう誰もいなかった。
ローゼンベルク公爵家の会議室には、王都の喧騒が届かなかった。
厚い絨毯が靴音を吸い、窓には重い深紅の幕が掛けられている。壁には歴代当主の肖像画が並び、部屋の中央では長い燭台の炎が揺れていた。
エアハルト・フォン・ローゼンベルク公爵は、黒鎖商会から提出された報告書を最後まで読んだ。
向かいには、家令ディートリヒ・ヴァイス、魔術顧問ジークフリート・ライナー、黒鎖商会会頭ヘルムート・グライフが座っている。
「高品質のポーション」
公爵は紙面へ指を置いた。
「均一な容器」
次の行へ移る。
「大型工房。弟子の育成。薬草栽培の改良」
最後まで読み、報告書を机へ落とした。
「侯爵は、いつから錬金術へ熱心になった」
「侯爵本人の発案とは限りません」
家令ディートリヒが答える。
「領内に入った新興商人が関与している可能性があります」
「押入商会か」
公爵は、その名を不快そうに口にした。
地方で家具を作り、珍しい商品を扱う商会。
当初はその程度の報告だった。
ところが今は、橋を直し、町を救い、工房を建て、薬草の生産まで変え始めている。
「商人が、錬金術師を育てるのか」
「正確には、既存の錬金術師へ設備を与えたものと思われます」
ジークフリートが補足する。
「教育施設が事実なら、問題はポーションだけではありません。5年後、10年後に育つ人材の数が変わる」
「王都魔術院より優れた教育をするとでも」
「見なければ判断できません」
ジークフリートは安易に否定しなかった。
その態度へ、公爵の眉が僅かに動く。
「お前は興味があるようだな」
「あります」
「正直だ」
「魔術師ですので」
「私の顧問でもある」
「承知しております」
ジークフリートは平然と頭を下げた。
ヘルムートが低い声で口を挟む。
「放置は勧められません」
黒鎖商会の会頭は、他の3人より服装こそ控えめだったが、目だけは鋭かった。
「現時点では価格が高い。しかし、生産量が増えれば王都へ入る量も増えます。薬材、ポーション、容器。いずれも我々の取引へ影響する」
「黒鎖商会の問題か」
「公爵家の収入にも影響します」
言い換えが早い。
公爵は椅子へ深く腰掛けた。
「何をする」
「まず情報を集めます」
ヘルムートは即答した。
「工房の規模。弟子の数。原料の供給元。容器の製造場所。生産量。侯爵家との契約内容」
「技術者を引き抜けるかも調べろ」
ディートリヒが加える。
「無理なら」
公爵が続きを待つ。
家令はすぐには言わなかった。
「まず、無理かどうかを確認いたします」
公爵は薄く笑った。
「よろしい。調べろ」
視線がヘルムートへ向く。
「まだ手は出すな」
「承知しました」
「私は、無能な騒ぎを望んでいるのではない」
「心得ております」
ヘルムートは深く頭を下げた。
公爵が欲しいのは破壊ではない。
利用できるなら利用する。
奪えるなら奪う。
危険なら潰す。
順序を間違えるほど、彼らは愚かではなかった。
同じ頃、ヴァルトは肥料袋を荷車から下ろしていた。
王都で本名のオスヴァルト・クラインを探す国家事業が終了したことなど、知る由もない。
彼の目の前にある問題は、袋へ付けた札が1つ剥がれかけていることだった。
「こちらが液肥用の固形肥料。こちらは発酵槽へ入れる材料。薬草の搾りかすは別にしてあります」
リュシア商会の荷捌き場で、ヴァルトは納品物を確認する。
「セルマ先生の工房へ運ぶ分ですね」
店員が頷いた。
「お願いします。混ぜると用途が変わりますので」
ヴァルトは剥がれかけた札を結び直し、荷車を押して町へ出た。
行商訓練を始めた頃と比べれば、荷の扱いにもすっかり慣れた。
肥料。
液肥材料。
薬草残渣。
特別なものではない。
いつもの納品だった。
セルマの工房がある通りへ入るまでは。
ヴァルトは荷車を押したまま、立ち止まった。
白い5階建ての建物が、通りの奥に立っている。
大きな窓。
屋上の風車。
見慣れない黒い板。
入口へ人が出入りし、荷車が脇の搬入口へ吸い込まれていく。
「……場所を間違えましたか」
ヴァルトは周囲を確認した。
道は合っている。
リュシア商会からの距離も間違っていない。
隣の建物も、向かいの井戸も記憶どおりだ。
では、セルマの工房はどこへ消えたのか。
「あら、ヴァルトさん」
入口からセルマが出てきた。
ヴァルトはセルマを見た。
建物を見た。
またセルマを見た。
「セルマ先生」
「なに?」
「工房は、どこへ」
セルマは背後の建物を親指で示した。
「これよ」
ヴァルトはしばらく動かなかった。
「全部ですか」
「全部よ」
「上から下まで」
「地下もあるわ」
ヴァルトは目を閉じた。
地下まである。
聞かなければよかった。
「真壁さんですか」
「真壁さんよ」
やはり聞く必要はなかった。
工房を一巡するたび、ヴァルトの顔色は悪くなった。
最初に案内された教室には、20人ほどが座れる机と黒板がある。
「ここで弟子へ基礎を教えるの」
セルマは嬉しそうに説明した。
「薬草の見分け方、調合、安全管理。今までは作業台の横で1人ずつ教えていたけれど、これなら全員へ同時に話せるわ」
「全員」
ヴァルトが呟く。
「弟子は何人の予定ですか」
「最初は少なく始めるわ。通いの子もいるし」
「最初は」
「ええ」
将来増やす前提だった。
共用錬金室には、同じ寸法の作業台が並んでいる。失敗が隣へ広がらない仕切りと、薬液を処理する排水設備まである。
図書室には、セルマが集めてきた本と資料が整理され、空いた棚が将来の記録を待っていた。
住居。
食堂。
男女別の浴場。
地下倉庫。
容器の備蓄。
施設を見れば見るほど、ヴァルトの中で「工房」という言葉が剥がれ落ちていった。
これは工房ではない。
教育施設。
研究施設。
生産施設。
生活施設。
1つの組織を育てるための器である。
王都魔術院の教育課が、何年も予算を求めて実現できなかったものが、地方の町に立っている。
「ヴァルトさん、顔色が悪いけれど大丈夫?」
セルマが心配そうに覗き込む。
「大丈夫ではありません」
「建物が高いから?」
「政治的に高すぎます」
セルマが首を傾げた。
「政治?」
「弟子を継続的に育てる設備です。薬草もポーションも容器も、同じ場所で管理できる。侯爵領が独自に錬金術師を養成していると見られます」
「実際、育てるけれど」
「だから困るんです」
「人を育てるのは悪いことではないでしょう?」
「悪くありません。悪くないからこそ、止める側は別の理由を作ります」
セルマの笑顔が少し曇った。
「軍用ポーションの生産拠点。技術者の囲い込み。王都ギルドへの対抗組織。好きな言い方を選べます」
「そんなつもりはないわ」
「政治では、本人のつもりは最後に確認されます」
ヴァルトは額を押さえた。
まだ工房だけなら、説明の仕方はあったかもしれない。
優秀な錬金術師が、生産量を増やすため設備を拡張した。
弟子を数人教える場所を作った。
そう言い張ることもできる。
「そういえば、薬草園も見ていく?」
セルマが明るい声で言った。
ヴァルトは嫌な予感がした。
「何かしたのですか」
「冬越し用の温室を1台だけ」
「1台だけですね」
「ええ」
ヴァルトは僅かに安堵した。
真壁が関わって1台で済んだなら、被害は軽い。
そう考えた自分を、薬草園へ着いてから殴りたくなった。
薬草園には、車輪の付いた畑があった。
腰ほどの高さに土を載せ、その上を透明な板で覆っている。北側の白い壁へ方解石板から光が回り、脇には木枠で囲まれた発酵槽が置かれていた。
園主が足踏み式の送風機を踏むと、発酵熱で温められた空気が床下の陶管へ流れ、薬草の根を包む土を暖める。
温度計は5本。
暖気の調整板。
巻き取り式の藁覆い。
水害時には発酵槽との接続を外し、台車ごと高台へ移動できる。
さらに、その周りを子どもたちが走っていた。
「じいちゃん、踏んでいい?」
「順番だ。強く踏みすぎるな」
「昨日より葉が開いてる!」
「触る前に手を洗え」
園主は子どもたちを叱りながら、どこか楽しそうだった。
ヴァルトは可搬式温室を見た。
発酵槽を見た。
薬草を見た。
最後に、温室の脇で平然と園主へ説明している真壁を見た。
「……真壁さん」
低い声が出た。
真壁が振り返る。
「ヴァルト君。納品ですかな」
「何をやっているんですか」
「薬草を育てております」
「そういう話じゃありません!」
薬草園に声が響いた。
孫たちが一斉にヴァルトを見る。
園主まで足踏みを止めた。
真壁だけが、なぜ怒鳴られたのか理解できない顔をしている。
「希少薬草の親株と春用の苗を越冬させる設備です」
「説明が正確になっても、問題は減りません!」
ヴァルトは頭を抱えた。
「工房で錬金術師を育てる。薬草園で希少薬草の生産を改善する。規格容器を大量生産する。これが王都へどう見えるか分かっていますか」
「地方産業の振興でしょう」
「技術勢力の形成です!」
真壁が僅かに眉を上げる。
それでも焦った様子はなかった。
「随分と大げさですな」
「私は王都魔術院にいたんです!」
思わず口走り、ヴァルトは周囲を見た。
セルマも園主も、事情を知っている。孫たちは意味を理解していない。
秘密が漏れたわけではない。
それでも胃が痛んだ。
「王都では、小さな研究室を1つ増やすだけで派閥が動きます。新しい講座を作れば、誰の予算を削ったかで争いになる。地方の侯爵家が、これだけの育成施設を突然作った。無視されるはずがありません」
「必要なので作りました」
「王都の人間は、必要性より誰が力を持つかを見ます!」
園主が真壁へ顔を向ける。
「面倒なところだな、王都は」
「その感想で済ませないでください」
ヴァルトの胃は、納品前より確実に悪化していた。
六畳間へ集まった頃には、ヴァルトは正座したまま動かなくなっていた。
座卓には澪が淹れた茶が並び、リュシアとセルマも向かい側へ座っている。
真壁だけは、ヴァルトの訴えを聞きながらポーション瓶の蓋を確認していた。
「まず、必ず王都へ伝わります」
ヴァルトは両手を膝へ置き、1人ずつ顔を見た。
「なぜですか?」
澪が尋ねる。
「ポーションが王都へ流れているからです。品質が高ければ、錬金術師ギルドが調べます。容器が珍しければ、商人が製造元を探します。弟子募集の噂が出れば、魔術院や貴族家も動きます」
「弟子を募集するだけで?」
「優秀な錬金術師は、国家資源です」
「人を資源扱いするのは嫌ですね」
「私も好きではありません。ですが、王都はそう見ます」
ヴァルトは茶へ手を伸ばし、途中で止めた。
胃に入れて大丈夫か考えたらしい。
「侯爵家とローゼンベルク公爵家は、以前から政治的に距離があります。公爵派は、侯爵領が技術者を囲い込んでいると考えるでしょう」
「囲い込んでいません」
セルマが反論する。
「弟子になりたい人を育てるだけよ」
「その説明を信じる人もいます。信じない人もいます。信じていても、都合が悪ければ別の話を作る人もいます」
リュシアが腕を組み、感心したように頷いた。
「商売と同じだね。商品そのものより、誰が売っているかで話が変わる」
「笑い事ではありません」
「笑ってないよ」
リュシアは笑っていた。
「王都魔術院も動きます」
ヴァルトが続ける。
「錬金術の教育施設であっても、地方で人材育成が始まれば関心を持つ。共同研究を申し込む者もいるでしょう。引き抜こうとする者も。潰したい者も」
「魔術院は研究する場所でしょう?」
澪が首を傾げる。
「研究者だけなら平和でした」
ヴァルトの返事へ、六畳間が少し静かになった。
「魔術院には研究者もいます。貴族の派閥もあります。予算を取る者、地位を守る者、若手を育てたい者、他人の成果を奪いたい者。全員が同じ方向を見ているわけではありません」
「公爵派が動く。王都魔術院も動く。錬金術師ギルドも動く」
澪が指を折りながら確認する。
「そんなにですか」
「そんなにです!」
ヴァルトの声が裏返った。
真壁が瓶を置く。
「いずれ知れることです」
「だから困るんですよ!」
ヴァルトはとうとう茶を飲んだ。
一気に半分ほど飲み、熱かったのか顔をしかめる。
「隠せと言っているのではありません。先に侯爵家へ説明しておくべきです。施設の目的、規模、教育方針、ポーションの用途。公的な立場を決めておかなければ、相手が勝手に意味を付けます」
真壁が少し考える。
「それは合理的ですな」
「ようやく分かっていただけましたか」
「では、アルベルト殿へ報告しましょう」
ヴァルトの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「それが良いです。侯爵家公認の医療と教育の施設として――」
「ついでに魔術師育成設備についても相談を」
「やめてください!」
ヴァルトは両手で座卓を叩いた。
茶碗が揺れる。
澪が慌てて押さえた。
「今は錬金術師だけで十分です!」
「魔術師も不足しているのでしょう」
「王都を刺激する話をしている最中に、新しい刺激を足さないでください!」
リュシアが堪えきれずに笑い出した。
セルマも口元を押さえている。
ヴァルトは2人を恨めしそうに見た。
「笑っていられるのは今だけです」
「そうかもしれないね」
リュシアは笑いながらも、目だけは真剣だった。
「でも、来るなら来るで商人として準備はするよ。誰が何を欲しがっているか分かれば、売れる物も見えてくる」
「戦争の話を商機へ変えないでください」
「まだ戦争じゃないよ」
「王都の魔術師同士の暗闘は、剣を抜かないだけで戦争です」
ヴァルトは深く息を吐いた。
六畳間の天井を見上げる。
本名のオスヴァルト・クラインとして王都魔術院にいた頃、彼は派閥争いを避けるため研究室へ籠もっていた。
その結果、今は肥料を運び、薬草温室を見て胃を痛めている。
逃げた先で、以前より大きな火種へ出会うとは思わなかった。
王都の黒鎖商会本店では、夜になっても灯りが消えなかった。
会頭ヘルムート・グライフの執務室に、4人の男女が並んでいる。
服装は商人、旅人、薬材買付人、行商人。
どこにでもいる者たちに見えた。
「侯爵領へ入れ」
ヘルムートは机の上へ、小さなポーション瓶を置いた。
「工房を見ろ。弟子の数を調べろ。薬草の仕入先を探せ」
別の瓶を指で転がす。
「この容器も集めろ。新品でなくて構わん。使用済みを買え」
「製造元は」
「分かれば報告しろ。分からなければ、誰がどれだけ持っているかを調べろ」
密偵の1人が瓶を持ち上げ、蓋を回した。
「確かに、よくできています」
「感想は要らん」
ヘルムートの声は低い。
「侯爵領の新工房へ近づく際は、無理をするな。今は情報だけでよい」
「弟子へ接触は」
「まだするな」
「引き抜きも?」
「命令があるまで待て」
ヘルムートは4人を順に見た。
「相手が何者か分からぬうちに手を出す者は、商人ではない」
密偵たちは頭を下げ、部屋を出た。
扉が閉じたあと、ヘルムートは机上の瓶を見つめる。
透明なガラス越しに、燭台の炎が歪みもせず見えていた。
その頃、六畳間では、真壁が床へ木箱を置いていた。
「何ですか、それ」
澪が嫌な予感を覚えながら尋ねる。
「ポーション容器です」
蓋が開く。
中には、同じ形の小瓶が整然と並んでいた。
透明なガラス。
同じ寸法。
スクリュー式の蓋。
「地下倉庫に1万本ありましたよね」
「需要が増えております」
「まさか」
「追加で1万本用意しました」
ヴァルトの顔から血の気が引いた。
「増やしたんですか」
「不足してからでは遅い」
「今、王都でその瓶が問題になると説明したばかりです!」
「だからこそ供給が必要でしょう」
「違います!」
澪も思わず声を上げた。
「増やさなくていいです!」
「需要があります」
真壁は、当然のことを説明するように答えた。
リュシアは瓶を1本手に取り、商人の目で蓋と厚みを確かめている。
「王都で空き瓶が売れるなら、容器だけでも商売になるね」
「リュシアさんまで!」
ヴァルトは両手で頭を抱えた。
王都では、密偵が侯爵領へ向けて動き始めていた。
公爵家では、技術と人材を巡る計算が始まっていた。
魔術院では、失った境界魔術師の机がまだ空いていた。
錬金術師ギルドでは、侯爵領の瓶を洗って再利用していた。
そのすべての中心にいる者たちは、六畳間で追加の瓶を数えている。
ヴァルトには、それが嵐の前の静けさには見えなかった。
嵐が来ると説明している横で、真壁が風車を増設しているようにしか見えなかった。