王都錬金術師ギルドの鑑定室には、朝から妙な緊張が漂っていた。
窓の外では荷馬車が石畳を鳴らし、市場へ向かう商人たちの呼び声が行き交っている。普段なら、その騒がしさが分厚い壁を越えてくることはない。ところが今日は、室内が静かすぎるせいで、遠くの車輪の音まで耳についた。
長机の上には、赤い液体を満たした小瓶が12本並んでいる。
どれも同じ高さ。
同じ太さ。
同じ形。
薄い朝日を受けた瓶の列は、1本を魔法で複製したように見えた。
ギルド長フリードリヒ・クラマーは、腕を組んだままその列を見下ろしていた。
「もう一度、結果を」
鑑定担当の錬金術師は、手元の紙へ目を落とした。
「薬効は、王都で流通している同種ポーションの基準を上回っています。12本とも、効能の差は測定誤差の範囲です。沈殿、濁り、変色はありません」
「保存状態は」
「良好です。運搬中の劣化も確認できません」
「価格は」
書記が別の紙をめくる。
「王都の標準品より、およそ2割高値です」
室内の空気が僅かに緩んだ。
高品質でも、高価なら客は限られる。全ての薬師や冒険者が、常に最高級品を求めるわけではない。
フリードリヒも小さく息を吐いた。
「ならば、現時点では市場への影響は限定的だ」
「中身だけなら、です」
若い声がした。
部屋の端に立っていたルーカス・フェルナーが、机へ近づいてくる。
古参の錬金術師たちは、露骨に眉をひそめた。若手がギルド長の結論へ口を挟むことを快く思っていない。
ルーカスは気にせず、1本の瓶を手に取った。
「問題はこちらです」
「瓶がどうした」
古参の1人が鼻を鳴らす。
「ガラス瓶など、王都にもいくらでもある」
「同じ瓶を12本、並べてください」
ルーカスは静かに返した。
「高さも、厚みも、口の広さも、重さも揃えて」
「職人を選べばできる」
「何本までですか」
古参の男が黙る。
ルーカスは瓶の蓋を摘まんだ。
くるりと回す。
小さな音を立て、蓋が外れる。
「コルクではありません」
再び蓋を載せ、逆方向へ回す。
ぴたりと止まった。
「開けても欠けない。閉めれば同じ位置で止まる。横にしても漏れません」
瓶を机の上へ寝かせる。
赤い液体は、蓋の隙間から1滴も滲まなかった。
「飲み残したポーションを持ち運べる。洗えば別の薬液にも使える。口径が同じですから、蓋も使い回せます」
「容器の便利さで薬効は上がらん」
「売り物としての価値は上がります」
ルーカスの声は穏やかだったが、引く気はなかった。
「中身の品質が同じなら、扱いやすい方を選ぶ者が出ます。中身の品質まで上なら、なおさらです」
フリードリヒは、机の上の瓶へ手を伸ばした。
1本を持ち上げ、指先で回す。
歪みがない。
気泡もほとんど見えない。
底の厚さまで均一だった。
「製造元は」
「不明です」
「侯爵領のガラス工房ではないのか」
「既存の工房へ確認しましたが、どこも否定しています」
書記が答える。
「最近、使用済み瓶の買い取りが始まっています」
別の紙が差し出された。
「買い取り?」
「薬師、錬金術師、香油商、香辛料商。用途は様々です。洗って再利用しています」
フリードリヒは紙へ目を落とした。
空瓶の買い取り価格。
中身の入っていない瓶へ払う額としては、異常に高い。
「ここまで出すのか」
「新品の細口瓶を注文するより安く、しかも密閉性が高いそうです」
室内の隅で、誰かが咳払いした。
フリードリヒが顔を上げる。
古参錬金術師の1人が視線を逸らした。
「お前の工房でも使っているのか」
「……3本ほど」
「買ったのか」
「空になったものを、弟子が」
「買ったのだな」
「瓶が良いので」
悪びれた様子がない。
むしろ職人として当然の判断をした顔だった。
「中身を作る側が、他領の瓶を買い戻してどうする」
「ですから、瓶が良いのです」
先ほどと同じ答えが返ってきた。
何人かが口元を押さえる。
笑い話のようでいて、フリードリヒには笑えなかった。
王都の錬金術師が、地方から来たポーションの空瓶をありがたがっている。
技術の優劣を、これほど分かりやすく突きつける光景はなかった。
「王都のガラス職人へ依頼する」
フリードリヒは瓶を立て直した。
「同じものを作らせろ」
「すでに依頼しております」
書記の返事に、ルーカスが僅かに目を伏せた。
「今日、結果が出る予定です」
王都でも名の知れたガラス工房では、親方の怒鳴り声が朝から途切れていなかった。
「違う! 口が広い!」
火床の前で、弟子が肩をすくめる。
長い吹き竿の先には、まだ赤く熱を持った小瓶が付いていた。
「見本に合わせました!」
「合わせたつもりで合わせられるなら、苦労はせん!」
親方は弟子の手から竿を奪い、台の上へ転がした。
隣には、侯爵領製の空瓶が1本置かれている。
さらに、その横には試作品が10本ほど並んでいた。
高さが違う。
底の厚さが違う。
肩の丸みが違う。
細口部分も僅かずつ歪んでいる。
遠目なら似ている。
しかし、同じ蓋を付けようとすれば差が出た。
閉まらない。
途中で引っ掛かる。
最後まで回しても、液が漏れる。
「蓋の方を1本ずつ合わせれば使えます」
弟子が恐る恐る言う。
「それでは意味がない」
親方は吐き捨てた。
「この瓶の価値は、どの瓶にも同じ蓋が使えることだ」
見本の蓋を試作品へ載せる。
半分も回らず止まった。
「口の太さだけじゃない。溝も同じ深さで、同じ角度だ。職人が1本ずつ削った跡じゃねぇ」
「型ですか」
「型だけで、この透明さと薄さを揃えられるものか」
親方は侯爵領の瓶を光へ透かした。
火床の光が、歪まず向こう側へ抜ける。
「砂が違う。火が違う。作り方も違う」
「全部違うじゃないですか」
「だから腹が立っている」
弟子は口を閉じた。
親方は別の試作品へ蓋を載せ、無理に回した。
甲高い音がして、瓶の口が欠ける。
「くそっ」
破片を炉の脇へ投げる。
これまで、王都で作れぬガラス製品はないと思っていた。
王侯貴族の食卓を飾る杯。
魔道具へ使う薄板。
色ガラスの装飾窓。
難しい品はいくらでもあったが、どれも職人の腕で作ってきた。
それが今、手のひらへ収まる小瓶1本に負けている。
「親方」
「なんだ」
「同じものが作れないなら」
弟子は見本の瓶を指差した。
「瓶だけ買えませんかね」
親方の拳が弟子の頭へ落ちた。
「職人がそんなことを言うな!」
「痛い!」
「作れないなら作れるまで試すんだ!」
怒鳴ったあと、親方は見本の瓶を布で丁寧に包み、棚の奥へ戻した。
弟子は頭を押さえながら、その手つきを見ていた。
「大事にしていますよね」
「見本だからだ」
「買う気ですよね」
「黙って火を見ろ!」
黒鎖商会本店の執務室には、王都の市場から集められた空瓶が5本並べられていた。
会頭ヘルムート・グライフは、ギルドや職人とは違う目で瓶を見ていた。
薬効には興味がない。
美しさにも興味がない。
いくらで仕入れられ、いくらで売れ、誰が欲しがり、どの市場を奪うか。
彼にとって、技術とは利益へ変換される前の資源だった。
「回収数は」
向かいに座る副会頭ブルーノ・アイゼンが帳票を開く。
「王都内で確認できた侯爵領製の瓶は、およそ240本。そのうち78本を確保しました」
「少ないな」
「買い取り価格が上がっています。薬師だけでなく、香油商や貴族家の侍女まで集め始めています」
「中身より空瓶の方が競りになるとはな」
ヘルムートは蓋を回した。
滑らかに外れる。
何度見ても、単純な仕組みに見えた。
単純だからこそ厄介だった。
仕組みが分かることと、作れることは違う。
「ガラス工房は」
「再現不能との回答です」
「職人の腕ではない」
ヘルムートが呟く。
「設備か、原料か。あるいは、その両方」
壁際に立つ情報責任者ヴィルヘルム・クロイツが、折り畳んだ地図を机へ広げた。
「侯爵領内で瓶を製造していると見られる工房は、まだ確認できていません」
「ガラス職人を探せ」
「既存工房は全て洗いました。最近、急に規模を拡大した所もありません」
「ならば、表にない」
ヘルムートは即座に判断した。
「侯爵家直轄か、あの商会が持つ技術か」
「押入商会ですか」
ブルーノが嫌そうに名を口にする。
黒鎖商会にとって、最近その名は報告書へ頻繁に現れるようになっていた。
家具。
食料。
橋。
鉱石。
町の再建。
錬金工房。
薬草園。
商会という言葉で括るには、関わる分野が広すぎる。
「瓶の流れを追え」
ヘルムートはヴィルヘルムへ命じた。
「どこからセルマ工房へ入る。誰が受け取る。空箱はどこへ戻る。全てだ」
「工房への潜入は」
「まだ要らん」
「弟子への接触も?」
「するな」
ヘルムートは瓶を机へ戻した。
「相手が何を持っているか分からぬ段階で、欲を出すな」
ヴィルヘルムが頷く。
彼の後ろには、4人の男女が並んでいた。
薬材商の助手。
旅の薬師。
小口の行商人。
荷運び人夫。
どこにでもいる姿へ整えられている。
「見るだけだ」
ヴィルヘルムが4人へ言う。
「聞け。覚えろ。金を使っても構わん。ただし、盗むな。脅すな。誰にも傷を付けるな」
「瓶は回収しますか」
薬師姿の男が尋ねる。
「市場へ出た物だけだ。工房の中へ手を出すな」
「製造者を見つけた場合は」
「報告しろ」
ヘルムートが答えた。
「近づくのは、それからだ」
4人は頭を下げた。
静かな命令だった。
しかし、その静けさの底には、王都最大級の商会が動き始める重さがあった。
「最近、瓶が返ってこないんだよ」
リュシアは木箱の中を覗き込み、空いた仕切りを指で数えた。
リュシア商会の荷捌き場には、セルマ工房へ運ぶ薬材と、出来上がったポーションを入れる箱が積まれている。
以前なら、納品先で中身を使い終えた瓶が、ある程度まとまって戻ってきていた。
最近は、それが少ない。
「割れているのかしら」
セルマが首を傾げる。
「この瓶、そう簡単には割れないだろう?」
「落とせば割れるわよ」
「落とさなければ割れない」
「それはどんな瓶も同じでしょう」
2人が言い合う横で、ヴァルトは箱の仕切りを見つめていた。
返ってこない理由へ、心当たりがありすぎる。
「ヴァルトさんは、どう思う?」
セルマに呼ばれ、僅かに肩が跳ねた。
「ええと……大事に使われているのではないでしょうか」
「空瓶を?」
「再利用できますから」
リュシアが目を細める。
「売れてると思うかい」
「可能性はあります」
「空瓶が?」
「はい」
リュシアの商人の目が光った。
「中身を飲み終えた後まで価値が残るなら、容器代を別に取れるね」
「取らないでください」
「何でさ」
「王都をこれ以上刺激しないためです」
「空瓶代で王都が怒るのかい?」
「空瓶だから怒るんです」
ヴァルトは額を押さえた。
「王都では、同じ物を作れない可能性があります」
セルマが手元の瓶を持ち上げる。
「これを?」
「透明なガラスの材料も、蓋付きの瓶を同じ寸法で作る設備も、こちらにはありません」
「でも、作り方を盗まれる心配はないだろう?」
リュシアは瓶を光へ透かしながら言った。
「透明なペレットを作る所から、真壁がやっているんだから」
「そうです」
ヴァルトは頷いた。
「技術が流出する可能性は低いです」
澪が少し安心したように息を吐いた。
「では、大丈夫なんですね」
「違います」
ヴァルトは即座に否定した。
澪の表情が固まる。
「技術を盗めないからこそ、狙われます」
「誰がですか」
ヴァルトは真壁を見た。
当の本人は、箱へ入れる瓶の数を確認している。
「真壁さんです」
真壁が顔を上げた。
「私をですか」
本気で不思議そうだった。
「はい」
ヴァルトは続け、今度は澪へ視線を向けた。
「澪さんもです」
「私も?」
「収納、鑑定、ゲンダイの知識、真壁さんとの関係。瓶だけではありません。工房も、薬草園も、家具も、全てお2人が関わっています」
荷捌き場の空気が少し変わった。
セルマが瓶を置く。
「攫われる、ということ?」
「最悪の場合は」
ヴァルトは言葉を選んだ。
「最初は勧誘でしょう。金、地位、研究環境、貴族家の保護。それで動かなければ、家族や周囲を調べる者も出ます」
「面倒だねえ」
リュシアの感想は軽かった。
「真壁は、荒事になったところで一掃するだろうけど」
ヴァルトが思わず真壁を見た。
「……そうなんですか」
真壁は瓶を箱へ戻し、静かに蓋を閉じた。
「元軍人です」
それだけでは足りないと思ったのか、ヴァルトへ視線を向ける。
「危険を予測し、備え、排除する。それが仕事でした」
ヴァルトは一瞬、言葉を失った。
行商人としての真壁。
工房を建てる真壁。
薬草園を改造する真壁。
巨大牛を穴へ落とし、レールガンを撃ち、空を飛ぶ乗り物で魔物の群れへ突っ込んだ真壁。
考えてみれば、元軍人と聞いて納得できる材料は揃いすぎていた。
「リスク管理は、お手の物ですよ。ヴァルト君」
真壁が落ち着いた声で付け加える。
「その言い方が、一番安心できません」
ヴァルトは素直な感想を漏らした。
六畳間へ場所を移しても、ヴァルトの不安は減らなかった。
座卓には湯飲みと菓子が並び、澪、真壁、リュシア、セルマが座っている。
見た目だけなら、少し人数の多いお茶会だった。
話題は誘拐と政治的暗闘である。
「つまり、瓶は盗まれない」
澪が確認するように言った。
「製造設備そのものがありませんから」
ヴァルトは頷く。
「真壁さんが収納内で原料を加工し、同じ形へ成形している。外から見ても再現できません」
「では、見学させても問題ないのでは」
「何も分からないことが分かります」
「それだけですか?」
「そして、作れる人間を欲しがります」
澪は湯飲みへ視線を落とした。
自分が狙われるという実感が、まだ持てないのだろう。
真壁も似たようなものだった。
「私を連れて行ったところで、彼らの望む物を作るとは限りませんが」
「相手は、断られてから考えます」
ヴァルトは疲れた声で答えた。
「その前に諦める人ばかりなら、王都はもっと平和でした」
「真壁を無理やり連れていこうとするなら、その人たちの方が気の毒だね」
リュシアが菓子を摘まむ。
「連れていく途中で、人生から退場するだろうさ」
「軽く言わないでください」
「でも事実だろう?」
ヴァルトは否定できなかった。
真壁が何者か知らずに荒事へ出れば、痛い目を見るのは相手である。
知っていて出れば、なお悪い。
「しかし」
真壁は湯飲みを静かに置いた。
「まずは敵を知る」
一同の視線が集まる。
「話はそこからですな」
ヴァルトは目を丸くした。
「……孫子ですか」
「ええ」
真壁は僅かに頷いた。
「優れた兵法です」
異世界の六畳間で、元王都魔術院の魔術師と元軍人が孫子を共有している。
澪には、その光景だけが妙に現実離れして見えた。
「王都魔術院にもあるんですか?」
「翻訳本がありました。兵法研究室の蔵書です」
「魔術院に兵法研究室まであるんですね」
「戦争へ魔術師を出す国ですから」
ヴァルトの返答には、少し苦いものが混じっていた。
真壁がその表情を見て、話を戻す。
「ヴァルト君」
「はい」
「その前に、相手の公爵について何か知っていることはありませんか」
ヴァルトは少し考え込んだ。
「ローゼンベルク公爵家ですか」
「ええ」
「敵を知るには、まず相手を知ることです」
ヴァルトは湯飲みを置き直した。
「分かりました。私が知る範囲で、お話しします」
リュシアが身を乗り出す。
「どんな公爵なんだい?」
「現当主はエアハルト・フォン・ローゼンベルク。王都でも古い家です。王家との婚姻も多く、軍務と魔術師団へ強い影響力を持っています」
「侯爵家とは仲が悪いの?」
澪が尋ねる。
「露骨に敵対しているわけではありません。ですが、政治的な考え方が違います」
「どう違うのかしら」
セルマも真剣な顔になった。
「ローゼンベルク公爵家は、王都へ権限と技術を集めるべきだと考えています。地方の貴族家が独自に強くなれば、王国全体がまとまらなくなる、と」
「一理はありますね」
澪が言う。
「あります」
ヴァルトは否定しなかった。
「辺境の領主が勝手に軍を増やし、独自の魔術研究を始めれば、反乱へつながる危険もあります。公爵家の主張が全て間違っているわけではありません」
「なら、侯爵領の工房を警戒する理由も分からなくはないわね」
セルマが難しい顔をする。
「私たちは人を治す薬を作りたいだけだけれど」
「セルマ先生の目的と、公爵家から見える形は別です」
ヴァルトは言葉を選びながら続けた。
「大規模な育成施設。薬草の安定供給。高品質ポーション。規格容器。将来、軍へ大量供給できる条件が揃っているように見えます」
「軍へ売る予定はないわ」
「予定がなくとも、能力があることを警戒されます」
真壁が小さく頷く。
「相手の立場なら、当然の判断ですな」
ヴァルトは少し驚いた。
「理解されるんですか」
「理解と同意は別です」
真壁は湯飲みへ手を伸ばす。
「相手が合理的なら、合理的に動く。予測しやすい」
「合理的じゃない部分もあります」
「例えば」
「面子です」
ヴァルトの答えに、リュシアが笑う。
「商人にもあるね。儲けより意地を選ぶ馬鹿が」
「貴族は、その意地へ兵士と魔術師を付けられます」
「笑えないね」
「先ほどからずっと笑っていますよ」
「癖さ」
リュシアは悪びれなかった。
「公爵本人は、感情だけで動く人ではありません」
ヴァルトは話を戻した。
「慎重です。自分の家へ利益があるなら、敵対相手とも取引します。ただし、自分の影響下へ入らない力を嫌う」
「家令は?」
真壁が尋ねる。
「ディートリヒ・ヴァイス。実務を仕切る人物です。公爵より表へ出ませんが、命令を具体的な手段へ変えるのは彼です」
「危険ですか」
澪の質問へ、ヴァルトは少し考えた。
「有能です。感情で失敗する種類ではありません。必要なら商人を使い、魔術師を使い、役人を使う。自分の名は出さないでしょう」
「黒鎖商会との関係は」
真壁が続ける。
「公式には、有力な取引先です」
「公式ではない方は?」
「分かりません」
ヴァルトははっきり答えた。
「王都では、黒鎖商会が公爵派の資金や物流を支えているという噂があります。しかし証拠を見たことはありません」
「知らないことは知らない、か」
リュシアが感心したように言う。
「噂を事実として扱えば、相手と同じになります」
「魔術顧問は、ジークフリートという人でしたね」
澪が設定を思い出すように尋ねた。
ヴァルトの表情が僅かに変わった。
「ジークフリート・ライナー。元は王都魔術院の研究者です」
「知り合いですか」
「何度か指導を受けました」
「恩師?」
「そこまで近くはありません。ただ、研究者としては尊敬しています」
「公爵派なのに?」
セルマが不思議そうに言う。
「公爵家へ仕えているからといって、全員が同じ考えではありません」
ヴァルトは答えた。
「ジークフリート先生は、政治より魔術研究を優先します。侯爵領の工房を潰せと言われれば、反対する可能性があります」
「こちらへ来る可能性も?」
「見学には来たがるでしょう」
ヴァルトは想像し、さらに顔を曇らせた。
「来たら帰らないかもしれません」
「そんなに研究好きなんですか」
「王都魔術院の資料庫で3日寝た人です」
「それはヴァルトさんも似たようなものでは?」
澪の言葉に、ヴァルトが目を逸らした。
「私は2日です」
「競うところではありません」
六畳間に小さな笑いが広がった。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
「王都魔術院そのものは、敵ですか」
セルマが尋ねた。
「違います」
ヴァルトは即答した。
「敵になる者もいます。味方になる者もいる。何も関わりたくない者も。魔術院は1つの意思で動く組織ではありません」
「院長は」
「コンラート・アイゼンフェルト院長は研究者です。侯爵領へ興味は持つでしょうが、破壊を命じるような人ではありません」
「公爵派は魔術院にもいる」
真壁が確認する。
「はい。予算、役職、研究室。それぞれに派閥があります」
「黒鎖商会は公爵家の目と耳」
「そう考えた方がよいでしょう。ただし、黒鎖商会は公爵家のためだけに動く商会ではありません」
「利益があれば、公爵も売る?」
リュシアが面白そうに言う。
ヴァルトはすぐには答えなかった。
「可能性はあります」
「商人だねえ」
「一緒にしないでください」
「私は味方を売らないよ」
「黒鎖商会も、利益が続く間は売らないでしょう」
真壁は静かに聞いていた。
質問するたび、相手の輪郭が少しずつ形になる。
巨大な公爵家。
その実務を担う家令。
研究を優先する魔術顧問。
利害で結び付く黒鎖商会。
派閥に分かれた王都魔術院。
誰もが同じ敵ではない。
誰もが味方でもない。
「なるほど」
真壁は最後に短く言った。
「まずは相手を知る」
湯飲みを静かに置く。
「良い収穫でした」
ヴァルトは少しだけ肩の力を抜いた。
話を理解してもらえた。
少なくとも、いきなり公爵家へ突撃する気はないらしい。
その安心は、長く続かなかった。
王都を出た荷馬車が、夕暮れの街道を南へ進んでいた。
御者台には、小口の薬材商を装った男。
荷台には、旅の薬師、行商人、荷運び人夫。
荷物の中には、空の木箱と買い付け用の金、王都で集めた侯爵領製の瓶が収められている。
「まずは見るだけだ」
薬師姿の男が、ヴィルヘルムから受けた命令を繰り返した。
「分かっている」
御者が答える。
「余計なことをするなよ」
「そちらこそ」
馬車は街道を進む。
目的地は侯爵領。
遠く離れた町で、巨大な錬金工房が夕日を受けて白く輝いていた。
同じ夕方、六畳間では真壁が収納から木箱を取り出していた。
「それは何ですか」
澪は尋ねる前から答えを予想していた。
「ポーション容器です」
木箱の蓋が開く。
同じ形の透明な小瓶が、整然と並んでいる。
「この前、追加で1万本出しましたよね」
「需要が増えております」
「まさか、また作ったんですか」
「5,000本ほど」
ヴァルトが固まった。
「増やしたんですか」
「不足してからでは遅い」
「今、瓶が王都を刺激していると説明したばかりです!」
真壁は1本を取り出し、光へ透かした。
「品質に問題はありません」
「品質が良すぎるのが問題なんです!」
リュシアが瓶を受け取り、蓋を回す。
「空瓶だけ売るのも悪くないね」
「リュシアさん!」
「需要があるんだろう?」
「ありますが、売らないでください!」
「商人へ売れる物を売るなと言うのかい」
「今だけは!」
澪も木箱を覗き込み、頭を抱えた。
「増やさなくていいです!」
「備えあれば憂いなし」
真壁は蓋を戻し、箱へ収める。
「その備えが王都を刺激しているんです!」
ヴァルトの声が六畳間へ響いた。
窓の外では、押し入れの向こう側の町へ夜が下り始めている。
王都から来た密偵を乗せた荷馬車が近づいていることを、まだ誰も知らない。
敵を知るための話し合いを終えたその日に、敵もまた、彼らを知るために動き始めていた。