王都魔術院の境界課には、誰も使わない机が1つあった。
失踪から数か月が過ぎ、机の引き出しに残されていた私物の大半は、すでに木箱へ移されている。使い込まれた筆記具も、欠けた魔力石も、冷めた茶を何度も置いた染みのある小皿も、今は資料保管庫の棚に収められていた。
それでも、机そのものだけは元の場所に残っている。
机上には、途中まで解析された古代結界式が広げられていた。中央を横切る境界線には、同じ場所を何度も書き直した跡がある。規定の書式では使わない略号が余白を埋め、若手へ渡す予定だった訓練資料には、赤い筆で細かな注意が書き込まれていた。
境界課長マティアス・ヘルナーは、その机の前へ若い魔術師を立たせた。
「今日から、ここを使え」
命じられた青年は、椅子を見たまま動かなかった。
「聞こえなかったか」
「聞こえました」
「なら座れ」
青年は手にしていた資料を抱え直した。指が紙の端を強く押さえている。
「課長。別の机では駄目でしょうか」
「空いているのは、ここだけだ」
「ですが……」
青年の視線が、机上の結界式へ落ちる。
その紙に触れただけで、残された仕事まで肩へ載せられると思っている顔だった。
「クライン師の机へ座れば、私が後任だと思われます」
「お前に境界課全てを任せるとは言っていない」
「周囲はそう見ません」
別の若手が、離れた机から顔を上げた。
「それに、まだ戻るかもしれません」
誰も笑わなかった。
希望というより、空席を埋めることへのためらいだった。
机を誰かへ渡せば、もう戻らないと認めることになる。そんな理屈があるはずはない。それでも誰も、椅子を引こうとはしなかった。
「仕事場だ。墓ではない」
マティアスは厳しく言った。
しかし、自分の手は椅子の背へ伸びなかった。
廊下から規則正しい靴音が近づき、境界課の入口で止まる。王城の紋章が入った外套を着た書記官が、封蝋の付いた書面を両手で差し出した。
「宰相府からの通達です」
境界課の空気が変わった。
マティアスは封を切り、文面を一度だけ目で追った。
予想していた。
来ることも分かっていた。
それでも、自分で読む気にはなれなかった。
「読み上げろ」
書記官が書面を開く。
「オスヴァルト・クライン師に関する、王家予算による探索は、本日をもって終了する。今後、探索を継続する組織および貴族家は、それぞれの予算と責任において実施するものとする」
窓の外で風が鳴った。
古い窓枠が震え、机上の紙が僅かにめくれる。
「では」
先ほどの青年が、喉を鳴らした。
「死亡扱いになるのですか」
「違う」
マティアスは通達書を折った。
「国が探すのをやめただけだ」
青年は口を閉じた。
その違いは救いにはならなかった。
死んだとは決めない。
生きているとも確認しない。
ただ、探す者がいなくなる。
マティアスは、空いた椅子を机の中へ押し戻した。
「今日のところは、別の机を使え」
青年が安堵した顔を見せたことへ腹が立った。
同時に、自分が最も安堵していることにも気づいていた。
境界課の奥には、入室を禁じられた区画が3つ増えていた。
1つ目の扉には、赤い札が下がっている。北部遺跡から運び込まれた古代転移板が、封印箱へ収められたまま置かれていた。
安全確認が終わるまで、箱を開けてはならない。
問題は、その安全確認を担当するはずだった人物がいないことだった。
「まだ封も切っていないのですか」
教育課主任オットー・ライヒが、札を指で持ち上げた。
「切れば、誰が責任を取る」
隣を歩くマティアスは足を止めない。
「転移式が暴走した場合、境界を閉じられる者は」
「私だ」
「課長は、王城外縁結界の改修も担当しています」
「分かっている」
「第7結界室の更新も」
「分かっている」
「封印庫の補修も」
「分かっていると言っている」
オットーはそれ以上言わなかった。
次の角を曲がると、廊下の中央へ足場が組まれていた。壁の一部には新しい魔術線が引かれているものの、途中で止まっている。
若い魔術師が足場の下で待っていた。
「課長」
「何だ」
「この境界線を旧式へ接続する位置ですが、クライン師の資料では2通り示されています。どちらを採用すれば」
「後で見る」
「いつ頃でしょう」
マティアスは答えられなかった。
後で見る資料が、机の上に積み上がっている。
若手の質問。
地方からの解析依頼。
王城からの補修要請。
未確認の魔術具。
オスヴァルトが失踪する前は、仕事が多いと思っていた。
今になってみれば、多い仕事の一部を彼へ押しつけ、見えなくしていただけだった。
「クライン師が優秀すぎたのではありません」
オットーが、再び歩き始めながら言った。
「1人へ集めすぎたのです」
「今さら言っても戻らん」
「だから、次を育てるのです」
「誰が教える」
「仕組みで補います」
マティアスは足を止め、オットーを振り返った。
「境界感知は本を読んで身につくものではない」
「本だけとは言っていません」
「実地で教える者が必要だ」
「では、なぜ実地で教えられる者を1人しか育てなかったのです」
廊下にいた若手たちが、聞こえないふりをして視線を伏せた。
マティアスは言い返しかけ、口を閉じた。
教育課が何度も設備拡張を申請していたことは知っている。
共用の実習室。
安全に失敗できる訓練区画。
若手用の資料室。
地方出身者のための住居。
どれも予算不足で削られ、派閥間の調整で止まり、会議のたびに翌年へ送られた。
「理想論だ」
「理想を設備へ変えるのが、組織の仕事です」
オットーは脇に抱えていた書類の束から、1枚を抜き出した。
「その組織の仕事を、地方の錬金術師が先に行いました」
「何の話だ」
「侯爵領です」
渡された報告書には、簡素な見取り図が添えられていた。
教室。
図書室。
共用錬金室。
弟子の住居。
食堂。
浴場。
薬草栽培設備。
地下倉庫。
マティアスは途中まで読み、眉をひそめた。
「錬金術師の工房だ」
「人を育てる仕組みです」
「境界魔術とは違う」
「教える内容は違います」
オットーは報告書の図面へ指を置いた。
「しかし、教える場所を作り、同じ道具を揃え、生活まで支え、失敗しても他へ被害が及ばないよう区画を分けている。私たちが何年も申請しているものと、考え方は同じです」
「地方の工房を魔術院の手本にしろと言うのか」
「良いものなら」
即答だった。
マティアスは報告書を持ったまま黙った。
腹立たしかった。
侯爵領に対してではない。
教室1つ増やすために7枚の申請書と3つの派閥の承認を必要とする、この場所に対してだった。
「誰が建てた」
「押入商会とあります」
「商会が教育施設を?」
「そう書かれています」
オットーは、報告書を取り返さなかった。
「クライン師を探すことと、次を育てることは別です。戻ってくるまで止める理由にはなりません」
マティアスは再び歩き出した。
手にした報告書だけは返さなかった。
魔術院長室の会議机には、侯爵領に関する資料が重ねられていた。
高品質ポーション。
規格の揃った小瓶。
大型の錬金工房。
薬草栽培の改良。
押入商会という新興商会。
それぞれ単独なら、地方で起きた珍しい出来事で済む。
並べると、別の形が見え始める。
「侯爵領が、オスヴァルト師を匿っている可能性があります」
公爵派から出向している魔術師が、机へ両手を置いた。
院長コンラート・アイゼンフェルトは、椅子へ背を預けたまま表情を変えなかった。
「根拠は」
「侯爵領内で、高度な境界処理が確認されています」
「高度というだけでは、クライン師のものとは限らん」
「転移に関する噂もあります」
「噂だ」
「押入商会の発展速度は、地方商会の範囲を越えています」
「商会の発展と、魔術師の失踪を結びつける証拠は」
公爵派の魔術師は、僅かに言葉を詰まらせた。
「まだありません」
「ならば、可能性だ」
「可能性がある以上、確認すべきです」
境界課長マティアスが口を挟む。
コンラートは彼を見る。
「生存している可能性があるなら、私も確認には賛成です」
「強制捜索にも?」
「そこまでは言っていません」
マティアスの声には、自分でも整理できていない感情が混じっていた。
連れ戻したい。
生きているなら、戻ってほしい。
しかし、オスヴァルトが自分の意思で王都を離れたのだとすれば、何を理由に連れ戻すのか。
「魔術院の研究者を地方侯爵が囲っているなら、国家への背信です」
公爵派の魔術師が語気を強めた。
「本人が自ら去った可能性もある」
窓際に立っていたジークフリート・ライナーが静かに言った。
ローゼンベルク公爵家の魔術顧問でありながら、その口調には公爵派を援護する気配がない。
「クライン師が王都を捨てる理由がありません」
「理由がなかったのではなく」
ジークフリートは窓の外へ向けていた顔を戻した。
「我々が知らなかっただけかもしれない」
会議室が静まった。
マティアスは、オスヴァルトの空いた机を思い出した。
山積みの仕事。
後任のいない教育。
派閥調整。
失踪する前の彼へ、最後に何を言っただろうか。
解析を急げ。
新人を見てやれ。
今月中に報告を出せ。
思い出せるのは仕事の指示ばかりだった。
「仮に本人の意思で侯爵領にいるとしても、魔術院の研究成果を持ち出したなら問題です」
公爵派の魔術師が言う。
「それも確認すればよい」
ジークフリートは答える。
「本人へ聞かずに、犯罪者と決める必要はない」
「随分と擁護されますね」
「私は研究者を道具だと思っていないだけです」
「公爵閣下の顧問であることを、お忘れでは」
「忘れておりません」
ジークフリートの声は変わらなかった。
「公爵閣下の利益と、無意味な技術破壊が同じだとも考えていない」
院長コンラートが机を指先で2度叩いた。
「強制捜索は認めない」
公爵派の魔術師が口を開く前に、続ける。
「侯爵家への正式な照会。施設への視察要請。オスヴァルト・クライン本人がいる場合は、本人の意思確認。それならば検討する」
「拒否された場合は」
「拒否された事実を得てから考える」
公爵派の魔術師は不満を隠さなかったが、それ以上は押さなかった。
オットーは会議資料の中から工房の見取り図を抜き取り、もう一度眺めている。
「教育設備の視察も含めてよろしいでしょうか」
「オットー」
マティアスが呆れた声を出す。
「重要です」
「オスヴァルトの生存確認をしているのだぞ」
「人を失った理由を学ぶことも、生存確認と同じくらい重要です」
ジークフリートが、初めて僅かに笑った。
「私も、その工房は見てみたい」
「あなたまで」
「教室と図書室と共用作業室。それに薬草栽培設備。報告書が正しければ、錬金術工房というより小さな学術院です」
コンラートは額へ指を当てた。
「視察団の人数は絞る」
「賛成です」
ジークフリートの返事だけが妙に早かった。
会議を終えて境界課へ戻ると、マティアスの机へ封筒が置かれていた。
差出人は、魔術院の地方調査係。
中には、侯爵領周辺で回収されたという魔術痕跡の写しが入っている。
完全な術式ではなかった。
破損した結界札の一部。
境界線の末端。
転移地点を隠すために魔力を逃がした跡。
封印式の切れ端。
マティアスは立ったまま眺め、最初は机へ置きかけた。
珍しい処理ではある。
しかし、境界魔術師が同じ理論へ辿り着くことはある。
偶然だ。
そう考えたところで、手が止まった。
本来1本で済む補助線が、2本引かれている。
魔力が衝突した際、外へ逃がすための余白。
規定より少し左へ寄せた境界角。
封印式の終端だけ、線が深い。
マティアスは写しを持ったまま、空いた机へ歩いた。
机上に残された古代結界式を開く。
2つの紙を並べる。
同じではない。
だが、似ている。
特に、安全確認用の小さな印が、規定位置より僅かに下へ置かれていた。
「そこへ置くな。見落とすぞ」
以前、何度も注意した。
そのたびにオスヴァルトは、
「上へ置くと主線と重なるでしょう」
と譲らなかった。
マティアスは椅子を引いた。
座りはしない。
空席の前に立ったまま、写しへ指を置く。
「生きているのか……」
声は、誰もいない境界課へ吸い込まれた。
彼は写しを封筒へ戻した。
公爵派へ渡す前に、院長へ見せる。
そう決めた自分が、公平なのか、情報を隠しているのかは分からなかった。
一方その頃、真壁と私は、現代側の倉庫で11月分の納品を終えようとしていた。
大きな搬入口から冷たい風が入り、金属の匂いとフォークリフトの音が混じっている。今回から白金も納品対象になり、純チタンと合わせての検品はいつもどおり進み、私は担当者が示す数字を確認していた。
何度目かの納品である。
以前のように、桁を見て心臓が跳ねることは少なくなった。
慣れたというより、金額の向こうにある支出先を考えるようになったのだと思う。
担当者が、最後に残ったタングステン系素材の箱だけは、自分で蓋を開けた。
保護材を外し、重量を確かめ、検査担当へ合図する。
「こちらですが」
結果表を見た担当者が、真壁さんへ向き直った。
「今回は前月より高い条件で買い取れます」
「価格が上がったんですか?」
私が尋ねると、担当者は嬉しそうには見えない顔で頷いた。
「入手しづらくなっています。国際情勢が不安定で、供給元も限られていますから」
タングステンは、工具や耐熱材料、半導体関連などに使われる。私でも知っている程度の用途だけではなく、取引先にとって代替の難しい素材らしい。
「確保できるだけでも助かります」
担当者の言葉に、真壁さんは箱の中を見た。
「高くなったというより、足りなくなったのでしょう」
「そういうことです」
担当者は苦笑した。
「今後、さらに価格が動く可能性もあります」
「価格上昇は、必ずしも良い知らせではありませんな」
真壁さんの声は静かだった。
売る側としては利益が増える。
けれど必要な場所へ材料が届かなくなれば、喜んでばかりもいられない。
検品が終わり、前月より上乗せされた入金予定額が示された。私は数字を見て、反射的に口元を緩めたあと、慌てて表情を戻した。
真壁さんは気づいていたらしい。
「喜んで構いません」
「でも、良い知らせではないんですよね」
「我々にとっての利益と、情勢の悪化は別の話です」
どちらか一方だけを選ぶ必要はない。
利益は利益として受け取り、危険は危険として見る。
真壁さんらしい考え方だった。
帰りのハイエースは、赤と黄色に染まった街路樹の間を走っていた。
低い日差しがフロントガラスへ入り、信号で止まるたびに影の位置が変わる。
「いつもより高く買ってもらえましたね」
私はハンドルを握ったまま言った。
「ええ」
「少しくらい、贅沢してもいいんじゃないですか?」
「例えば」
「高級ワインとか」
半分は冗談だった。
ワイナリーで樽を見た時、真壁さんが珍しく長く酒の香りを確かめていたことを覚えている。
真壁さんは助手席で窓の外を見た。
返事が遅い。
本当に考えているのかもしれない。
「悪くありません」
「買います?」
「後にしましょう」
予想どおりの答えに、私は少し笑った。
「何か必要な物がありますか?」
真壁さんは、すぐには答えなかった。
リュシアさんが売り場で値札を直している姿。
セルマさんが新しい工房で、弟子へ本を渡している姿。
侯爵家の食卓で、アルベルト様が難しい顔をしながら報告を読む姿。
葡萄畑で家族が肩を並べ、樽を運んでいた姿。
押入家具で職人たちが木屑まみれになり、子どもたちが道具を磨いていた姿。
薬草園で園主さんが孫へ水差しを渡す姿。
そんな光景を、真壁さんが思い出しているように見えた。
「通信機器と監視設備を」
「王都の件ですか?」
「王都だけではありません」
真壁さんは前を見た。
「守るものが増えました」
短い言葉だった。
けれど、その中に誰が含まれているのか、私には分かった。
以前なら、危なくなれば押し入れを閉じて逃げることもできた。
今は、向こう側へ残したままにはできない人たちがいる。
「高級ワインは後ですね」
「いずれ、良いものを」
「その『いずれ』、ずっと先になりませんか?」
「備えが整えば」
「備えって、完成するものなんですか?」
真壁さんは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
採石場秘密基地の一角が、その日のうちに別の部屋へ変わり始めた。
真壁さんが収納から出したのは、大型モニター、通信機器棚、監視用サーバー、予備電源、光ケーブル、カメラ、赤外線対応ドローンだった。
床へ置かれた機材を見ているうちに、私の中の「少し設備を増やす」という想像が崩れていく。
「全部、今日使うんですか?」
「中枢だけです」
真壁さんは壁の寸法を測っている。
「領都へ伸ばすには、侯爵家の許可が要ります」
それを聞いて、少しだけ安心した。
最近の真壁さんなら、私が目を離した間に領都の地面へ光ケーブルを埋めていても不思議ではない。
「勝手にやらないんですね」
真壁さんの手が止まった。
「当然です」
「すみません」
「何を想像していたのですかな」
「聞かないでください」
大型モニターが壁へ固定され、機器棚の中へ黒い箱が次々と収まっていく。ドローン用の棚には、予備バッテリーと交換用の羽根が整理された。
秘密基地は以前から、倉庫や加工場という規模ではなかった。
そこへ監視室まで加わり、ますます名前と中身が合わなくなっている。
「秘密基地というより、司令室ですね」
「監視室です」
「言い換えても小さくなりません」
モニターの1つに、簡単な接続図が映った。
採石場秘密基地。
領都。
侯爵家。
リュシア商会。
セルマ工房。
押入家具。
線はまだ灰色で、つながっていない。
「町全部を監視するんですか?」
「いいえ」
真壁さんは、図の上で施設の入口と道路だけを示した。
「道と入口を見ます」
「生活を覗く必要はありません」
防犯。
火災。
事故。
魔物の侵入。
行方不明者の捜索。
必要な時に、誰がどこへ向かったかを確認できる。
便利なのは分かる。
同時に、使い方を間違えれば怖いものにもなる。
「映像を見られる人は、決めた方がいいですね」
「ええ」
「保存する期間も」
「必要です」
「勝手に誰かの家を映さないことも」
「当然です」
真壁さんは、私の言葉を面倒がらずに受け止めた。
「道具より、使い方を先に決めるべきでしょうな」
それを聞いて、ようやく胸の奥の引っ掛かりが少し取れた。
日が落ちてから、秘密基地周辺だけで赤外線対応ドローンの試験を行った。
操縦席へ座った私は、画面と送信機を交互に見る。
ドローンは音も軽く、思ったより素直に浮き上がった。
「高度を上げます」
「壁との距離を」
「分かっています」
画面の端へ採石場の岩壁が迫る。
「近い、近いです!」
「高度と距離を確認してください」
「見ています!」
「では、操縦へ反映を」
「今しています!」
どうにか機体を離し、私は息を吐いた。
真壁さんは叱りもしなかったが、褒めてもくれなかった。
その無言が一番悔しい。
夜間映像へ切り替えると、世界の見え方が変わった。
暗い地面の上に、私と真壁さんの姿が明るく浮かぶ。少し離れたところでは番犬が歩き、森の端に小動物らしい小さな熱が動いている。
「誰かいます」
岩場の陰に、白く光る大きな塊があった。
「岩です」
「岩がこんなに明るいんですか?」
「昼間の熱が残っています」
人影にしか見えなかった。
赤外線なら何でも分かると思っていた自分が恥ずかしい。
「壁の向こうも見えるんですか?」
「見えません」
「幌馬車の中は?」
「常に人の形が見えるわけではありません」
真壁さんは画面へ、昼に撮影した試験映像を出した。
布の幌を張った荷車。
中に人がいる映像では、輪郭までは見えない。ただ、幌の一部が周囲より暖かく、隙間から熱が漏れている。
「内側の熱で布の温度が変わる。呼気が漏れる。不自然な暖まり方をする。そのような差を見ます」
「誘拐された人が幌馬車にいたら、分かりますか?」
「可能性はあります」
真壁さんは映像の御者台を指した。
「御者1人と申告し、荷台から複数の熱反応が出れば、確認対象です」
「服の下のナイフも見えますか?」
「赤外線だけでは難しい」
真壁さんは即答した。
「可視光で服の膨らみを見る。片側だけ重い歩き方。腰を庇う動作。重要施設では金属探知器を使う。衛兵の検査、荷物確認、鑑定、ヴァルト君の境界感知」
「たくさん使うんですね」
「一つの装置へ頼れば、必ず抜けます」
真壁さんは、明るく映る岩を指した。
「今も、人と間違えたでしょう」
「それは言わなくていいです」
「情報は重ねて判断するものです」
私は画面に映る番犬を追いながら、少し考えた。
「でも、ナイフを持っているだけでは敵ではないですよね」
異世界では、旅人も商人も護身用の刃物を持つ。
「その通りです」
「持っていることではなく、隠す理由と行動を見ます」
真壁さんは、何でも見つけて捕まえたいのではない。
見落とさないための目を増やし、その後の判断を人が行う。
それが少し分かってきた。
ドローンを戻した頃、ヴァルトさんが秘密基地へやって来た。
別の資材を届けに来たらしい。
入口を抜け、大型モニターが並ぶ一角へ入ったところで、足が止まった。
「……また何を作っているんですか」
「情報網です」
真壁さんは、何でもないことのように答えた。
ヴァルトさんは通信機器棚を見て、赤外線映像を見て、ドローンの充電棚を見た。
「どこまでつなぐつもりですか」
真壁さんが、モニターへ構想図を表示する。
採石場秘密基地から領都へ。
侯爵家。
リュシア商会。
セルマ工房。
押入家具。
ヴァルトさんの顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「国家ですか?」
「防犯設備です」
「もう王都魔術院より広い範囲を見ようとしています」
「比較する必要はありません」
「比較されるんです!」
聞き慣れたやり取りになってきた。
ヴァルトさんは頭を抱えかけ、途中で手を止めた。
画面には、秘密基地周辺の赤外線映像が映っている。
「これが完成すれば」
声が少し低くなる。
「密偵が領都へ入った時点で見つかります」
「見つけるのではありません」
真壁さんが訂正した。
「確認対象へ上げるだけです」
「違いがありますか?」
「旅人を敵と決めつければ、こちらが悪人になります」
真壁さんは、まだ灰色の接続線を見た。
「不自然な点を拾い、その後を見ます」
ヴァルトさんは黙った。
王都から来た者を入口で捕らえれば、背後関係は分からない。
誰へ会い、何を尋ね、どこへ報告するのか。
泳がせるためにも、見失わない目が必要になる。
「有効です」
ヴァルトさんは認めた。
「非常に有効です」
「何か問題が?」
「有効すぎることです」
また胃が痛み始めた顔をしていた。
その夜、真壁さんと私は、侯爵家へ説明する内容を整理した。
どこへ光ケーブルを通すのか。
どの施設をつなぐのか。
監視するのは公共道路と施設入口だけ。
映像を見られる者は限る。
記録を残す期間も決める。
緊急時の指揮権は侯爵家に置く。
私はノートパソコンへ項目を打ち込みながら、真壁さんへ確認した。
「衛兵さんへの訓練も必要ですね」
「ええ」
「映像を見て、すぐ敵だと決めないことも」
「重要です」
「ドローンを勝手に飛ばさないことも」
「当然です」
隣で構想図を見ていたヴァルトさんが、小さく呟く。
「王都では、この規則を決めるだけで半年かかります」
「半年も?」
「どの部署が映像を見るかで争います」
私は手を止めた。
「では、先に決めておいた方がいいですね」
「その通りです」
ヴァルトさんは頷いたあと、自分が真壁さん側の準備へ協力していることへ気づいたような顔をした。
「どうしました?」
「いえ」
額を押さえる。
「王都へ知られたら問題になる設備を、私が使いやすく整えているなと」
「使いにくい方がいいんですか?」
「良くありません」
「では問題ないですね」
「澪さんまで真壁さんのようなことを言わないでください」
秘密基地のモニターには、採石場周辺の暗い景色が映っていた。
人影も、馬車も、魔物もいない。
「今夜は何もいませんね」
私が言うと、真壁さんは画面を見たまま頷いた。
「それでよいのです」
「何も起きていないと確認できる」
同じ頃、王都魔術院の境界課では、マティアスが再び空いた机の前に立っていた。
夜の魔術院は静かだった。
昼間に聞こえていた若手の声も、魔力灯を調整する足音も消えている。
机上には、オスヴァルトが残した古代結界式。
その横には、侯爵領から届いた魔術痕跡の写し。
似ている。
だが証拠ではない。
マティアスは2枚の紙を見比べ、写しへ手を置いた。
「どこにいる、オスヴァルト」
問いかけへ答える者はいなかった。
遠く離れた採石場秘密基地では、ヴァルトがモニターへ表示された通信網の構想図を見上げていた。
王都の机は、今夜も空いている。
その主は、自分の空席を埋められずに困っている人々がいることも知らず、まだつながっていない灰色の線を前に、真壁さんへ質問していた。
「この線、本当に全て光を通すんですか」
「ええ」
「魔力なしで?」
「必要ありません」
ヴァルトは、また難しい顔になった。
「王都が知ったら、今度こそ大変です」
何も起きていない夜の監視画面を見ながら、真壁さんは静かに答えた。
「では、起きる前に整えましょう」