ローゼンベルク公爵家の大会議室では、暖炉の火が静かに薪を崩していた。
厚いカーテンの隙間から見える庭は、晩秋の色へ沈んでいる。枝に残った葉は少なく、風が通るたび、赤茶けた1枚が石畳へ落ちていった。
磨き上げられた長机の中央には、小さなガラス瓶が置かれている。
エアハルト・フォン・ローゼンベルクは、それを指先でつまみ上げた。
中身はすでに使われている。王都の薬店から回収された、侯爵領製ポーションの空き瓶だった。透明度が高く、口の太さも、底の厚みも、隣に並べられた瓶とほとんど変わらない。
窓から差す鈍い光へ透かすと、ガラスの中に歪みらしい歪みが見つからなかった。
「同じ物か」
公爵の問いに、主席錬金術師カスパル・ノイマンが椅子から身を乗り出した。
「少なくとも、職人が目分量で1本ずつ作った物ではありません」
カスパルは机上の3本を順に手へ取った。指先で口をなぞり、底を並べ、最後に細い計測具を当てる。
「容量差は、王都の一般的な薬瓶より遥かに小さい。密閉具の寸法も揃っています。これなら、同じ量を詰め、同じ条件で保管し、劣化の差を比較できる」
「瓶の話をしているのか、薬の話をしているのか分からんな」
騎士団長エルンスト・バウアーが腕を組んだ。
「同じ話です」
カスパルは顔を上げずに答えた。
「中身だけ良くても、容器が不揃いなら品質は揃いません。薬量が違えば効き方が変わる。密閉が甘ければ保管期間も変わる。運ぶ途中で割れれば、良薬もただの濡れた荷です」
彼は瓶をそっと戻した。
「これは、良い薬を作ったという話ではありません。良い薬を、同じ品質で作り続けようとしている話です」
エアハルトは、瓶の隣へ置かれた報告書へ目を移した。
王都錬金術師ギルドの品質評価。
薬草園の改良に関する商人の証言。
新設された錬金術師育成工房の見取り図。
押入商会の取引先と、短期間で広がった活動範囲。
別々の者が集めた情報であり、書式も精度も揃ってはいない。だが、机の上へ並べれば、1つの流れが見えてくる。
薬草を育てる者がいる。
薬を作る者がいる。
容器を用意する者がいる。
弟子へ技術を教える場所がある。
弟子が生活する住居があり、食事も浴場も備えられている。
完成品を運び、売る商会がある。
珍しい薬師が1人現れたのではない。
薬師が増える仕組みが生まれようとしている。
「問題は、良い薬が作られたことではない」
エアハルトは瓶を机へ戻した。
小さな音だったが、会議室にいた全員の視線が集まった。
「良い薬を作る者が、増え続ける仕組みが生まれたことだ」
魔術顧問ジークフリート・ライナーが、工房の見取り図へ目を落とす。
「報告どおりの設備なら、5年後の生産量は現在とは比較になりません」
「5年も必要か」
家令ディートリヒ・ヴァイスが問うた。
「弟子の数と教育内容によります。ただ、教室と共用作業室を分け、材料庫まで管理している。思いつきで建てた工房ではないでしょう」
ジークフリートは、図面の一角を指した。
「図書室もあります。技術を口伝だけにしないつもりです」
カスパルの表情が僅かに険しくなる。
「それが最も厄介です」
「厄介、か」
「王都にとっては」
カスパルは言葉を選びながら続けた。
「優れた職人が技術を抱えたまま死ねば、次の世代は最初からやり直します。記録し、教え、同じ道具を使わせるなら、失敗も蓄積される。王都が師弟ごとに分かれて競っている間に、あちらは工房全体で技術を積み上げるでしょう」
エルンストが眉を寄せた。
「薬師が増えること自体は、悪いことではあるまい」
「悪くありません」
エアハルトが答えた。
「だからこそ問題になる」
エルンストは公爵を見た。
「良い物が生まれ、領民が豊かになる。それがなぜ問題なのです」
「ヴァルディス侯爵領だけで完結するからだ」
エアハルトは資料を1枚引き寄せた。
「薬草、容器、薬師、流通。外へ頭を下げずに揃う。しかも、これを作ったのは侯爵家の古い官僚機構ではない。数年前まで名もなかった商会と、突然現れた者たちだ」
押入商会。
報告書の表題に、その名がある。
家具。
鉱物。
食品。
酒。
薬。
教育施設。
扱う分野が広すぎる。
それぞれに専門家がいるのならまだ分かる。だが報告の多くは、真壁と澪という2人の名へ行き着いていた。
ディートリヒが指を組んだ。
「正面から問い詰めれば、相手へ警戒する理由を与えるだけです」
「では、放置するか」
「いいえ」
家令の声に迷いはなかった。
「相手が何を持つか分からない段階で、敵だと名乗る必要はありません。まず価値を測ります」
ディートリヒは、押入商会の人物相関が記された紙を机の中央へ滑らせた。
「この真壁という男が、どこまで技術へ関わっているのか。澪という娘が、単なる商会員なのか。工房の弟子は何人で、誰が教えているのか。瓶は領内で作っているのか、それとも別の土地から運び込んでいるのか」
指先が紙の上を移動する。
「侯爵家と商会の契約も確認すべきです。商会が侯爵家の庇護下にあるだけなのか、それとも領政そのものへ入り込んでいるのか」
「入り込んでいる、とは随分な言い方です」
ジークフリートが静かに口を挟んだ。
「事実が分からぬから調べるのです」
「調べることには反対しません」
「では何に」
ジークフリートの視線が、机の端に置かれた魔術院の報告へ移った。
オスヴァルト・クライン。
公式捜索は終了した。
しかし侯爵領周辺で確認された魔術式に、本人の癖と似た処理があったという。
確証ではない。
それでも、王都の一部では生存説が囁かれ始めている。
「オスヴァルトが生きていた場合です」
ジークフリートは言った。
「まず本人へ聞くべきでしょう」
「魔術院へ戻る意思がないと言えば、そのまま認めるのですか」
ディートリヒの問いに、ジークフリートはすぐ答えなかった。
暖炉の薪が小さく爆ぜる。
「理由を聞きます」
「理由」
「王都を去った理由です」
ジークフリートは机上の魔術院報告へ手を伸ばさなかった。
「理由も聞かずに鎖を付けるのは、研究者を道具と考える者の仕事です」
ディートリヒの眉が僅かに動いた。
「公爵家の利益より、研究者の気分を優先すると」
「人材を壊さないことが、公爵家の利益にならないとお考えですか」
2人の間へ冷たいものが落ちた。
エアハルトは、どちらも止めなかった。
ジークフリートは公爵家へ忠誠を誓っている。ただし、未知の技術を恐れ、技術者を拘束し、使えなくなるまで追い詰めることを利益とは考えない。
ディートリヒもまた、無用に人を傷つけたいわけではなかった。彼が守ろうとしているのは、公爵家の地位と選択肢である。
「セルマの工房についても同じです」
カスパルが口を開いた。
「王都より優れているなら、学ぶべきです」
「学ばせてもらえると?」
「頼みもせず、盗む話を先にする必要はありません」
カスパルは不愉快そうに空瓶を指で押さえた。
「技術を盗めば、王都の錬金術師全体が、地方工房を恐れたことになります。しかも再現できなければ、信用まで失う」
「断られたら」
「条件を変えて頼みます」
「それでも断られたら」
「なぜ断られたのかを考えます」
ディートリヒは小さく息を吐いた。
「技術者は気長ですな」
「盗人よりは」
エルンストの口元が僅かに動いたが、笑いはしなかった。
彼は椅子の背から体を起こした。
「調査は必要でしょう。しかし、商人や弟子へ剣を向ける話なら、私は反対します」
「まだ誰も剣とは言っていない」
「今、言っておくのです」
エルンストは公爵へ向いた。
「相手が剣を抜かぬ限り、こちらからは抜きません」
騎士団長の言葉は頑固だったが、臆病ではなかった。
武力を扱う者だからこそ、抜いた後に戻れないことを知っている。
エアハルトは机上の資料を見渡した。
学びたい者。
調べたい者。
守りたい者。
公爵家の地位を維持したい者。
意見は割れている。
それでも、誰も侯爵領を無視してよいとは考えていなかった。
「まず見る」
エアハルトが告げた。
「まだ手は出すな」
ディートリヒが僅かに頭を下げる。
「承知しました」
「相手が敵かどうかも、決まっていない」
エアハルトは再び小瓶を持ち上げた。
透明なガラスの向こうで、暖炉の火が歪まず揺れた。
「だからこそ、敵になる前に知れ」
会議が終わって半刻後、ディートリヒの執務室には、黒鎖商会会頭ヘルムート・グライフが座っていた。
彼の前には、使い込まれた革鞄が置かれている。
鞄から出されたのは、王都の薬店で回収した空瓶、購入記録、売買価格の推移、侯爵領へ向かう商人たちの名簿だった。
「すでに動いているようだな」
「瓶が高く売れると分かった時点で、商人は動きます」
ヘルムートは回収した瓶の1つを指先で転がした。
「私が命じなくてもです」
「だから、誰より先にまとめた」
「商会は、他人が動いてから理由を考えていては遅れます」
ディートリヒは、持参された報告をめくった。
侯爵領へ薬材を運ぶ者。
ポーションを買い付けたい者。
職を求めて領都へ向かう職人。
旅程だけ見れば、どこにでもいる商人ばかりである。
「瓶の作り方だけを探すな」
ディートリヒは報告書を閉じた。
「誰が作れるのかを探せ」
ヘルムートの指が止まる。
「誰が守っているのかもだ」
「工房へ潜らせますか」
「早い」
「私もそう思います」
ヘルムートは瓶を机へ置いた。
「最初から塀を越えれば、塀の高さしか分かりません」
「では」
「客として入ります」
会頭は、名簿から数枚を抜いた。
「薬材商なら、薬草園へ行く理由がある。買い付け人ならポーションの数量と納期を尋ねられる。瓶を大量注文すれば、供給元を探ろうとするのは商売として不自然ではない」
別の紙を机へ置く。
「錬金術師なら工房を見たがる。弟子志願者なら教育内容を聞ける。職人なら押入家具へ近づける。王都魔術院が正式視察を出すなら、その動きへ商人を合わせることもできます」
「魔術院の者は我々の命令で動かん」
「ですから、利用するのではなく、同じ時期へ重ねるのです」
ヘルムートは穏やかに笑った。
「客が1組なら、店は客を見る。客が5組なら、店は順番を見る」
ディートリヒは、笑い返さなかった。
「敵として近づけば、敵の顔しか見えません」
ヘルムートは続ける。
「客として近づけば、店の中まで見せてもらえます」
「見せられた物だけだ」
「最初は、それで十分です」
ディートリヒは椅子へ深く座った。
「盗難は認めない」
「承知しています」
「誘拐も、破壊も、暗殺もだ」
ヘルムートの笑みが消えた。
「そこまで命じられるとは思っておりませんでした」
「思っていない者が、利益を目の前にして思いつくことがある」
家令は名簿を指で押さえた。
「失敗すれば、公爵家の名へつながる。欲を出すな」
「承知しました」
返事に軽さはなかった。
ヘルムートもまた、公爵家の威を借りて無謀な賭けへ出るつもりはない。
壊してしまえば、価値は測れない。
人を攫えば、残った者は口を閉ざす。
剣より金。
脅しより商談。
秘密を暴く前に、秘密を持つ者が何を望んでいるかを知る。
商人にとって、それは特別な技術ではなかった。
クララ・ローゼンベルクが父の執務室を訪れた時、廊下へ出てきた2人の男と鉢合わせた。
家令ディートリヒと、黒鎖商会会頭ヘルムート。
2人はすぐ足を止め、礼をした。
「クララ様」
「お仕事中でしたか」
「ただの商談でございます」
ディートリヒの返答は滑らかだった。
それでも、普段の商談を終えた時とは空気が違う。
ヘルムートの革鞄は膨らんでおり、表情には愛想が戻っている。だが執務室の扉が閉まるまで、2人とも会話を再開しなかった。
クララは、抱えていた本を胸元へ寄せた。
「父上はいらっしゃる?」
「会議室でございます。じきにお戻りになります」
「では、本だけ置いていくわ」
ディートリヒは扉を開け、道を譲った。
クララは執務室へ入り、父の机へ近づいた。
無断で書類を読むつもりはない。
借りていた本を置き、すぐ出るつもりだった。
けれど机上には、閉じられていない資料が残っていた。
錬金術師育成工房。
薬草園。
セルマ。
押入商会。
目へ入ったのは、それだけである。
紙の端には、何人かの名と、施設を結ぶ線が描かれていた。
クララは本を置いた。
薬を作る工房。
そこで学ぶ弟子。
薬草を育てる家族。
その薬を必要とする患者。
父が何を恐れているのか、クララにはまだ分からない。
ただ、机上の名前は全て、人が暮らしている場所へつながっていた。
「人を治す薬を作ることまで、争いになるの……?」
小さな声へ答える者はいない。
クララは紙へ触れず、執務室を出た。
扉を閉めたあとも、押入商会という見慣れない名だけが頭に残った。
採石場秘密基地の大型モニターには、夜の岩場が映っていた。
赤外線映像では、昼の熱が残った岩がぼんやりと明るい。別の画面には、通信機器の稼働状態が並び、その隣では見慣れた現代側の文字が次々と表示されている。
真壁さんはノートパソコンの前で、同じような質問を何度も入力していた。
答えが出る。
条件を変える。
また答えが出る。
保存する。
別の条件を追加する。
私は少し離れた椅子から眺めていたが、さすがに何をしているのか分からなくなった。
「生成AIに、敵が何をするか聞いているんですか?」
「未来を聞いているのではありません」
真壁さんは画面から目を離さなかった。
「見落としを減らします」
入力欄には、王都の組織や人物について、ヴァルトさんから聞いた情報が整理されている。
ローゼンベルク公爵家は慎重。
家令は実務を重視。
黒鎖商会は利益を優先。
魔術院は一枚岩ではない。
錬金術師ギルドは、侯爵領の品質向上へ危機感を持っている。
真壁さんは、それらを1つの大きな敵としてまとめなかった。
公爵家が合理的に動いた場合。
黒鎖商会が独自の利益を追った場合。
魔術院が正式な照会を出した場合。
こちらが接触を拒んだ場合。
高額な勧誘を断った場合。
弟子や職人が相手の話へ乗った場合。
条件を変えるたび、画面上の確率も動いた。
「また変わりました」
私は、先ほどまで55%だった正式視察の数字が上がったことに気づいた。
「同じ相手なのに、どうしてですか?」
「入力した条件が違います」
真壁さんは、複数の予測結果を横へ並べた。
正規の商談や買い付けは、多くの条件で高い。
商人や旅人を装った市場調査も、ほぼ同じ位置にある。
正式視察は条件によって大きく動き、買収や人材勧誘はその少し下。
盗難はさらに低く、誘拐や暗殺は初期段階ではかなり低い。
「確率は答えではありません」
真壁さんは言った。
「備える順番を決める材料です」
向かい側で画面を読んでいたヴァルトさんが、腕を組む。
「使うけれど、信じないのですね」
「いかにも」
「ずいぶん便利なような、不便なような」
「予測に従うのではありません」
真壁さんは、別条件の結果を開いた。
「予測を疑うために使います」
ヴァルトさんは、しばらく画面を見比べていた。
やがて、正式視察の項目を指す。
「これは、もう少し高いと思います」
「理由を」
「魔術院長が、直接密偵を送るとは考えにくいからです」
ヴァルトさんの声から、先ほどまでの軽い戸惑いが消える。
「最初は正式な文書で来るでしょう。施設を見せてほしい。技術交流をしたい。オスヴァルト・クラインについて確認したい。名目はいくつか作れます」
自分の本名を口にしても、ヴァルトさんの表情は変わらない。
けれど指先だけが、机を1度叩いた。
「正式な視察者なら、全員が敵なんですか?」
私が尋ねると、ヴァルトさんは首を振った。
「それが難しいところです」
「善意の人もいる?」
「教育施設に興味を持つ者。新しい魔術理論を見たい者。私を心配している元同僚。公爵家の意向を受けている者」
ヴァルトさんは画面の組織名を順に見た。
「同じ視察団に、全く違う目的の者が混ざることもあります」
「公爵家と魔術院は、一緒ではないんですね」
「公爵家、黒鎖商会、魔術院、錬金術師ギルド。全てが同じ命令で動くとは限りません」
ヴァルトさんは、今度は商談の項目を指した。
「表では正式な買い付け。裏では取引先や弟子を調べる。断れば、別の商人が来る。こちらから見れば別々の客ですが、結果として同じ情報を集めることになります」
真壁さんが頷く。
「単一の敵組織として扱えば、見誤る」
「はい」
ヴァルトさんの返事は早かった。
「味方になり得る者まで、敵へ追いやります」
真壁さんは、生成AIへ条件を追加した。
正式視察を全面拒否。
勧誘者を拘束。
公爵家へ公然と抗議。
調査員の身分を暴露。
再計算された結果では、誘拐や強制連行、破壊工作の確率が上がっていた。
「最初が低くても、安心できないんですね」
「相手の選択肢を狭めれば、残る手段は強くなります」
真壁さんの声は平坦だった。
「何でも拒否すればよいわけではありません」
ヴァルトさんが付け加えた。
「通すべき者を通し、見せてよい物を見せる。それでも探ろうとする者を見分ける必要があります」
私は、壁一面のモニターへ目を向けた。
今は秘密基地周辺しか映っていない。
けれど予定どおりなら、領都の門、侯爵家、リュシア商会、セルマさんの工房、押入家具へもつながる。
画面が増える。
連絡が増える。
見るべき相手も増える。
「これ、誰が全部見るんですか?」
何気なく聞いたつもりだった。
真壁さんの手が止まった。
ヴァルトさんもモニターを見上げる。
「以前、似たような監視網を構築し、運用したことがあります」
真壁さんが椅子から立った。
「軍で、ですか?」
「軍だけではありません」
ヴァルトさんの問いへ短く答え、壁際のホワイトボードへ向かう。
「味方の区域へ、敵の目が入り込んだ時期がありました」
真壁さんは、それ以上を話さなかった。
誰と戦ったのか。
どこで行ったのか。
何人を使ったのか。
私は聞かなかった。
話したくないから黙ったというより、今回必要な部分だけを取り出そうとしているように見えた。
ホワイトボードへ、真壁さんが言葉を書いていく。
監視。
その下へ矢印。
発見。
確認。
分析。
報告。
判断。
現場対応。
「カメラを置けば、監視できるわけではありません」
真壁さんはペンを置いた。
「映像を見る者。異常かどうか確認する者。複数の情報を照らし合わせる者。誰へ報告するか決める者。現場を動かす者」
白い板に並んだ言葉が、さっきまでの画面より重く見えた。
「全て必要です」
「ドローンだけでは足りませんか」
ヴァルトさんが尋ねる。
「ドローンは眠りません」
真壁さんは、赤外線映像に映る岩を見た。
「しかし、考えません」
「生成AIは考えるんじゃないんですか?」
「整理します。候補を出します。見落としを減らします」
真壁さんは私を見た。
「最後に責任を負う判断は、人が行います」
それから、監視組織の仮案作りが始まった。
最初に真壁さんが書いた人数を見て、私は思わず聞いた。
「6人で足りますか?」
「監視担当だけです」
「3交代で2人ずつですよね。休みはどうするんですか?」
真壁さんのペンが止まる。
「交代要員を2名」
「体調不良が重なったら?」
「さらに予備を」
「増えましたね」
「必要です」
最初の数字が、私の質問1つで早くも変わった。
ヴァルトさんが、別の紙へ魔術記号を書きながら口を挟む。
「映像だけでは、魔術的な異常を判断できません」
「例えば」
「結界反応。魔力隠蔽。偽装札。転移痕跡。魔道具の作動」
ヴァルトさんは数えながら、表情を曇らせた。
「普通の商人に見えても、認識阻害が使われていれば別です」
「では分析担当に魔術知識を持つ者を」
真壁さんが書き加える。
「常時必要ですか?」
私が聞くと、ヴァルトさんは考え込んだ。
「全時間帯に高度な術者を置くのは難しいでしょう。一次判定ができる者を配置し、異常時に専門担当を呼ぶ方が現実的です」
真壁さんが頷いた。
「日中2名。夜間呼び出し」
「私も入っています?」
「当然です」
ヴァルトさんは胃の辺りへ手を置いた。
「王都から離れたのに、王都より働いている気がします」
「まだ人員案を作っているだけです」
「その段階で名前が入っています」
「適任ですので」
ヴァルトさんは反論しようとしたが、やがて諦めたように椅子へ座った。
「……魔術的な判定基準は、私が作ります」
「お願いします」
真壁さんの返事は早い。
「引き受けるまで待っていたんですか?」
私が聞くと、真壁さんは何も答えなかった。
通信担当。
分析担当。
現場連絡担当。
監督責任者。
役割を書き分けていくと、必要な人はさらに増えた。
全員を新しく雇うのではない。
侯爵家の衛兵。
門番。
文官。
伝令。
魔術師。
それぞれの中から向いた者を選ぶ。
「誰を選ぶんですか?」
ヴァルトさんが尋ねた。
「目が良い者より、思い込みを疑える者です」
真壁さんは即答した。
「異常を見つけて喜ぶ者は向きません」
「でも、異常を見つける仕事ですよね」
「何もない場所から、敵を作ります」
真壁さんは、秘密基地の画面へ目を向けた。
「何もなかったと確認できる者が必要です」
前の夜に聞いた言葉だった。
監視とは、何かを見つけ続ける仕事だと思っていた。
けれど、普通の旅人を普通の旅人だと確認するのも、同じくらい大事なのだろう。
「映像を見る人が、知り合いを勝手に追いかけることもできますよね」
私が言うと、ヴァルトさんの顔がさらに真剣になった。
「王都なら、派閥が映像を欲しがります」
「そんなに価値がありますか?」
「誰が誰の屋敷へ入ったか。それだけでも十分です」
貴族の訪問。
商人の出入り。
密談の時間。
本人たちが何も悪いことをしていなくても、見る者が意味を付ければ噂になる。
真壁さんは、別紙へ規則を書き始めた。
「監視室への出入りは記録します」
「映像を持ち出させないことも」
「ええ」
「1人だけで重要映像を判断しない方がいいです」
「2名確認」
「誰かをずっと追う時は、許可が必要ですね」
「責任者承認」
私が問題を思いつくたび、真壁さんが短い言葉へ変えていく。
ヴァルトさんも、王都で起こりそうな悪用を追加した。
「事件が解決したあとも、映像を残したがる者が出ます」
「保存期間を定めます」
「公爵家の使者だからという理由で、記録を消せと言う者も」
「操作履歴を残す」
「監視担当へ金を渡す者もいます」
「交代時に記録を照合」
書くほど、規則が増える。
「機械を置くより、人の方が大変ですね」
「人を使う設備は、いつもそうです」
真壁さんは最後に1行を書き加えた。
「監視する者も、見られている必要があります」
ヴァルトさんがそれを読み、ゆっくり頷いた。
「そこまでして、初めて信用できる仕組みになります」
侯爵家の会議室へ持ち込まれた資料は、2種類あった。
1つは「王都関係勢力・接触予測」。
もう1つは「通信監視体制・試験運用案」。
アルベルト様は最初の資料を開き、数字の並ぶページで手を止めた。
隣にはレオンハルト様と、侯爵家の警備を担当する文官が座っている。
「最も可能性が高いのは」
「正規の商談と、その裏での情報収集です」
真壁さんが答えた。
「商人として来るか」
「ええ。正規に品を買い、その際に価格、数量、納期、製造場所、人員を尋ねる。商売として自然です」
ヴァルトさんが資料の別項目を示す。
「別々に来る可能性もあります」
「別々に?」
「公爵家の使者、黒鎖商会の商人、魔術院の研究者です。互いの行動を知らない場合もあります」
アルベルト様の眉が寄る。
「こちらが1つの命令系統と思って対応すれば、混乱するか」
「はい」
ヴァルトさんは頷いた。
「正式な視察者の中にも、公爵家の意向を受けた者と、純粋に教育施設へ関心を持つ者が混ざるかもしれません」
レオンハルト様が腕を組む。
「最初から剣を持って来る者は少ないと」
「剣を抜くより、金を出す方が安い」
真壁さんの声は落ち着いていた。
「金で動かなければ、地位を出す。それでも動かなければ、別の手段を考えるでしょう」
「暗殺は」
アルベルト様が問う。
「初期段階では低い」
真壁さんは資料へ視線を落とさず答えた。
「私を殺しても、瓶の作り方は得られません」
「でも、邪魔なら消そうとする人もいます」
私が口を挟むと、真壁さんは否定しなかった。
「その段階へ上げないことが重要です」
「拒否の仕方を間違えれば、確率は上がります」
ヴァルトさんが続けた。
「公爵家の面子を公に潰す。正式視察を理由もなく拒む。調査員と決めつけて正規商人を拘束する。そのような対応を重ねれば、穏当な選択肢を選ぶ者が減ります」
アルベルト様は、机上の数字をもう一度見た。
「これは、その生成AIとやらが出した数字か」
「基礎はそうです」
真壁さんは答えた。
「ヴァルト君の知識で修正し、私の経験と照合しました」
「つまり、どの数字も確定ではない」
「ええ」
「では、何のためにある」
「優先順位を決めるためです」
真壁さんは、最も高い項目を指した。
「全てへ同じ人員と費用を割くことはできません。まず起こりやすい接触へ備える。その備えが相手の行動を変えれば、数字も変わります」
レオンハルト様が資料を閉じかけ、もう1つの束へ目を向けた。
「機械は真壁殿が用意するとして、人はどうする」
真壁さんは、試験運用案を開いた。
「設備を置くより、人を選ぶ方が難しい」
「兵を出せばよいのではないか」
「兵士全員が監視員に向くとは限りません」
レオンハルト様は少し考え、具体的な名は出さず、衛兵の性格を挙げ始めた。
「目が良く、遠くの紋章まで見分ける者がいる。ただ、功を焦るところがある」
「不向きです」
真壁さんの返事は早かった。
「何でも敵へ見せます」
「では、門番を長く務め、人の顔をよく覚える男は」
「記録は」
「細かい。交代時の引き継ぎも欠かさない」
「候補です」
「腕は立たんぞ」
「監視室で剣は振りません」
レオンハルト様の口元が僅かに緩んだ。
「無口な文官もいる。報告書は正確だが、判断が遅い」
「一次分析へ」
「魔力反応の差へ敏感な若い魔術師は」
真壁さんがヴァルトさんを見る。
「知識量を確認します」
ヴァルトさんが答えた。
「映像へ映らないものもあります。結界、認識阻害、偽装札、転移痕跡。魔術的な基準は別に必要です」
「そのためのヴァルト君です」
真壁さんが言う。
「私も正式に人員へ入っているんですか?」
「当然です」
侯爵家の会議室でまで同じやり取りになり、私は笑いをこらえた。
ヴァルトさんは胃の辺りへ手を置いたものの、すぐ資料を引き寄せる。
「……魔術的な判定基準は、私が作ります」
「頼む」
アルベルト様が先に答えた。
ヴァルトさんは一瞬だけ目を見開き、それから姿勢を正した。
「承知しました」
私は、監視体制の権限について書かれたページを開いた。
「犯罪の疑いがない人まで、ずっと追うことはしませんよね」
「そのために規則を作る」
アルベルト様は、私の質問を軽く扱わなかった。
「衛兵の都合だけで使わせるつもりもない」
レオンハルト様も続ける。
「設備は我々の権限下に置く。ただし、勝手に誰かを調べる道具にはさせん」
真壁さんが役割分担を確認する。
「指揮権は侯爵家。設備保守は押入商会。運用担当は侯爵家が任命する。分析には我々とヴァルト君が協力します」
「逮捕と捜索は我々が行う」
レオンハルト様が言った。
「商会が勝手に人を拘束することはありません」
「それでよい」
アルベルト様は資料へ署名するのではなく、基本方針の部分へ印を付けた。
「人選はレオンハルトに任せる。正式運用の前に、候補者を真壁殿とヴァルト殿へ見せる」
「承知しました」
監視網は、押入商会の私兵組織にはならない。
侯爵家へ全てを渡して終わるのでもない。
互いの役割を残したまま、同じ仕組みを使う。
その形が、ようやく見え始めた。
アルベルト様は接触予測の資料を閉じた。
「相手が来る方法は分かった」
真壁さんを見る。
「では、どう迎える」
真壁さんは、足元へ置いていた別の資料を机へ載せた。
それまでの2冊より、明らかに厚い。
表紙には、
「接触手段別対応計画」
と印刷されている。
「いつ作ったんですか?」
「予測と並行して」
真壁さんは平然としている。
ヴァルトさんが、厚みを横から確認した。
「何ページあります?」
「現在128ページです」
「現在?」
私とヴァルトさんの声が重なった。
「まだ増えます」
ヴァルトさんは額へ手を当てた。
「敵より先に、この資料と戦うことになる気がします」
レオンハルト様が表紙を開く。
最初のページは目次だった。
正規の商人。
正式視察者。
技術交流希望者。
弟子入り希望者。
人材勧誘者。
身元調査員。
密偵。
窃盗者。
誘拐実行者。
暗殺者。
「同じ対応ではいけません」
真壁さんは、開かれた目次へ手を置いた。
「正規の客を密偵として拘束すれば、こちらが敵を作ります」
指が次の項目へ移る。
「密偵を客として通し続ければ、守るべきものを失います」
「どこで線を引く」
アルベルト様が問う。
「次は、その線を決めます」
真壁さんは資料を閉じなかった。
「誰を通すか。誰を見張るか。誰を泳がせるか。どの段階で拘束するか」
会議室にいた者の視線が、厚い資料へ集まる。
「侯爵家の権限と、我々の役割を分けます」
夜のローゼンベルク公爵家では、ディートリヒが自室の机へ候補者の経歴書を並べていた。
侯爵領調査対象一覧。
真壁。
澪。
セルマ。
リュシア。
押入商会。
錬金術師育成工房。
薬草園。
規格瓶。
そして、所在確認対象として記されたオスヴァルト・クライン。
誰へ、どの立場の者を近づけるか。
商人。
職人。
錬金術師。
弟子志願者。
ディートリヒは、最初の候補者の経歴を開いた。
同じ頃、ヴァルディス侯爵家の会議室では、真壁さんが監視組織案の最後へ1行を書き加えていた。
「監視対象を、最初から敵と決めつけないこと」
隣ではヴァルトさんが、接触予測資料へ注意書きを加える。
「王都魔術院、公爵家、黒鎖商会、錬金術師ギルドを、同一組織として扱わないこと」
私は2つの文章を読み比べた。
誰が敵で、誰が味方になるのかは、まだ決まっていない。
公爵家は、誰へ近づくかを選ぼうとしている。
私たちは、どのような者が近づいてくるかを考えている。
まだ誰も剣を抜いていない。
だからこそ、最初の判断を誤れば、それだけで相手へ剣を握らせることになる。
「次は、迎え方を決めます」
真壁さんの言葉に、アルベルト様が頷いた。
「こちらから敵を増やさぬためにも、必要なことだ」
机の上には、閉じられていない対応計画が残っていた。
最初の項目は、正規の商人。
剣を持たず、笑顔で門をくぐる者から、戦いは始まる。