押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第185話 弟子を盗む者

 

 接触手段別対応計画の目次には、正規の商人、正式視察者、技術交流希望者、弟子入り希望者、人材勧誘者と、表向きには何の罪もない肩書が並んでいた。

 

 侯爵家の会議室で、セルマはその文字を上から順に読み、弟子入り希望者のところで指を止めた。

 

「ここからですか」

 

「最も入りやすい」

 

 真壁さんが答えた。

 

 前に置かれた資料は、昨日見た時より厚くなっている。128ページだったはずなのに、背表紙が明らかに膨らんでいた。

 

 私は尋ねるべきか迷った。

 

 聞けば、また「増えました」と返ってくる気がする。

 

 横に座るヴァルトさんも同じことを考えているらしく、資料の厚みを見ないようにしていた。

 

 アルベルト様が、弟子入り希望者の項目を開く。

 

「工房へ入り込むなら、商人より弟子の方が都合がよいということか」

 

「ええ」

 

 真壁さんは、セルマ工房の簡単な見取り図へ指を置いた。

 

「商人が見られるのは売り場と応接室までです。弟子なら作業場、宿舎、搬入口、場合によっては材料庫へも近づける」

 

 レオンハルト様の眉が寄った。

 

「なら、しばらく弟子を取らなければよい」

 

「それは困ります」

 

 セルマの返事は早かった。

 

 会議室にいた者たちの視線が集まる。

 

 セルマは一瞬だけ気圧されたように背筋を伸ばしたが、言葉を引っ込めなかった。

 

「工房は、弟子を育てるために作っていただいた場所です。誰かが怪しいかもしれないからといって、受け入れを止めたら、相手に何もされていないのに私たちから工房の役目を捨てることになります」

 

 アルベルト様は怒らなかった。

 

「では、誰でも入れるのか」

 

「それも困ります」

 

「どちらだ」

 

「私が選びます」

 

 セルマは、資料の弟子入り希望者という文字を見た。

 

「守るという理由で、弟子を選ぶ権利まで取り上げないでください」

 

 声は強くなかった。

 

 それでも工房長として譲れないものがあることは伝わった。

 

 真壁さんが頷く。

 

「そのつもりはありません」

 

「では、どうします」

 

「役割を分けます」

 

 真壁さんは空いた紙へ線を引いた。

 

「侯爵家は身元と安全を確認する。セルマ君は技能と学ぶ意思を見る。我々は鑑定を行う。ヴァルト君は王都側の経歴と魔術的な偽装を確認する」

 

「私の仕事が自然に増えていますね」

 

 ヴァルトさんが呟く。

 

「適任ですので」

 

「理由まで前回と同じです」

 

 真壁さんは聞き流し、最後にレオンハルト様へ視線を向けた。

 

「拘束、捜索、追放など、公権力が必要な判断は侯爵家へ上げます」

 

 レオンハルト様が頷いた。

 

「商会や工房が勝手に裁かない。それならよい」

 

 アルベルト様は見取り図を眺めた。

 

「正体が分かるまで、工房へ入れないのか」

 

「入れます」

 

 真壁さんの答えに、今度はセルマまで顔を上げた。

 

「入れるんですか」

 

「入れなければ、何を見たがっているか分かりません」

 

「ですが、材料庫まで見られたら」

 

「最初から入れる必要はありません」

 

 セルマは少し考えたあと、自分の指で図面上の区画をなぞった。

 

「作業場の手前。洗浄室。薬草選別室。共同の講義室。宿舎」

 

 指が奥の区画で止まる。

 

「材料庫、調合記録室、液肥の保管庫は入れません」

 

「妥当です」

 

 真壁さんが答える。

 

「弟子志願者は全員密偵ではないのですね」

 

 私が確認すると、真壁さんは首を横へ振った。

 

「敵が弟子へ化けるとは限りません」

 

 それから、資料を閉じずに続ける。

 

「弟子になりたい者へ、敵が仕事を頼むこともあります」

 

 セルマの表情が僅かに曇った。

 

 工房へ来る者を、最初から偽物と決めつけない。

 

 だが、本当に学びたい者だから安全とも限らない。

 

 その両方を同時に考えなければならないらしい。

 

 

 

 

 

 王都の黒鎖商会が所有する建物の一室には、暖炉がなかった。

 

 壁は厚く、窓も小さい。商談室というより、書類を外へ持ち出さずに済ませるための場所だった。

 

 ルーカス・ハイネは、椅子へ浅く腰を下ろしていた。

 

 膝の上には、擦り切れた革鞄がある。中に入っているのは、錬金術師として使ってきた道具と、師匠の工房を離れるまで付けていた調合記録だった。

 

 向かいに座るヴィルヘルムは、記録の1冊を開いている。

 

「字は読みやすい」

 

「師匠に、他人が読めない記録は記録ではないと言われました」

 

「良い師だ」

 

 ルーカスは答えなかった。

 

 師匠は死んだ。

 

 工房は借金のために売られ、弟子たちは散った。

 

 新しい働き口を探したが、王都の工房は紹介状と所属を求めた。紹介してくれる師匠はもういない。所属していた工房もなくなった。

 

 最後に残った金は、宿代を払えばほとんど消える。

 

「侯爵領に新しい工房がある」

 

 ヴィルヘルムが記録を閉じた。

 

「弟子を受け入れているそうだ」

 

「聞いています」

 

 ルーカスは顔を上げた。

 

 その話だけは、王都の錬金術師たちの間でも広がっていた。

 

 教室がある。

 

 弟子用の作業場がある。

 

 住居も食事も用意される。

 

 師匠の気分次第で雑用だけをさせられる工房ではなく、最初から育てるために作られた場所。

 

 どこまで本当か分からない。

 

 それでも、行ってみたいと思った。

 

「弟子になれれば、お前にも利益がある」

 

 ヴィルヘルムは、机の上へ紹介状を置いた。

 

「我々は、見たものを報告してもらうだけだ」

 

 ルーカスの目が紹介状へ落ちる。

 

「何を見れば」

 

「工房の人数。どのように教えているか。材料をどこへ置くか。瓶がどこから来るか。液肥という物をどう扱っているか」

 

 ヴィルヘルムは淡々と続けた。

 

「セルマという工房長が、判断に迷った時に誰へ相談するか。真壁と澪という者が、どの程度工房へ出入りするか」

 

「盗めということですか」

 

「盗むな」

 

 即答だった。

 

「物も書類も持ち出すな。誰かを傷つけるな。扉を壊すな。鍵へ触れるな」

 

 ヴィルヘルムは、ルーカスの目を見た。

 

「見たものを覚え、報告する。それだけだ」

 

「それで、報酬を」

 

「払う」

 

 示された金額は、ルーカスが数か月は食べられる額だった。

 

「弟子になれなくても、紹介料は払う。弟子になれれば、追加する」

 

「なぜ、私なんです」

 

「学びたいからだ」

 

 ルーカスは僅かに身を固くした。

 

「訓練した密偵を送れば、工房に興味がないことが分かる。お前なら、道具を見る目も、薬を見る目も本物だ」

 

「利用しやすいということですね」

 

「そうとも言う」

 

 ヴィルヘルムは否定しなかった。

 

 ルーカスは紹介状へ手を伸ばした。

 

 誰も傷つけない。

 

 物も盗まない。

 

 ただ見て、報告する。

 

 弟子になれれば、自分も学べる。

 

 そう考えれば、悪い話ではないように思えた。

 

 思おうとした、と言った方が正しかった。

 

 

 

 

 

 セルマ工房を初めて見た時、ルーカスは足を止めた。

 

 大きい。

 

 王都で見てきた錬金工房の多くは、師匠の作業場へ弟子が押し込まれる形だった。古い建物へ棚を足し、釜を増やし、空いた隅へ寝台を置く。

 

 目の前の工房は違う。

 

 講義室と作業場の入口が分かれている。搬入口は人の出入りと重ならず、排気口が屋根の上へ伸びていた。水場の近くには器具洗浄専用の台まである。

 

 薬材商から預かった紹介状を受付へ渡すと、程なくしてセルマが現れた。

 

 まだ若い。

 

 王都で聞いた「工房長」という呼び名から、もっと年嵩の錬金術師を想像していたのだろう。ルーカスは一瞬だけ目を見開き、すぐに頭を下げた。

 

「ルーカス・ハイネと申します」

 

「紹介状は読みました」

 

 セルマは、彼の革鞄へ視線を落とした。

 

「持ってきた物を見せてもらえますか」

 

 面談は応接室ではなく、小さな実習室で行われた。

 

 私と真壁さんは、少し離れた机に座っていた。ヴァルトさんはルーカスが持参した記録をめくり、王都式の記号や配合表を確認している。

 

 セルマは、ルーカスが持ってきた薬を光へ透かした。

 

「これは何に使う物ですか」

 

「軽い火傷と、擦り傷に」

 

「保存期間は」

 

「寒い場所なら20日ほどです」

 

「常温では」

 

「10日を越えると、匂いが変わります」

 

「なぜです」

 

 質問が続く。

 

 薬草の選別。

 

 煮出す温度。

 

 焦がした場合の修正。

 

 量を間違えた時に捨てる基準。

 

 ルーカスは答えられるものと、答えられないものがあった。

 

 分からないことを取り繕おうとはしない。

 

「その配合は経験がありません」

 

「では、似た薬で失敗したことは」

 

「あります」

 

 ルーカスは失敗記録を開いた。

 

 文字は細かいが、日付と材料、途中の変化、失敗した理由の推測が分けて書かれている。

 

 セルマはページをめくりながら、僅かに頷いた。

 

 技能は突出していない。

 

 けれど、教えられる土台はある。

 

 私にも、セルマがそう判断したことが分かった。

 

「なぜ王都を離れたんですか」

 

「師匠が亡くなり、工房が売られました」

 

「別の工房へ入らなかった理由は」

 

「紹介者がいません」

 

 ルーカスの声が少し硬くなる。

 

「それに、弟子を取り直す工房でも、前の工房で覚えたやり方を嫌がられました」

 

「うちを選んだのは」

 

「教室があると聞いたからです」

 

 今度の答えには、迷いがなかった。

 

「弟子を働き手ではなく、育てる者として扱う工房だと」

 

 セルマは一度、視線を落とした。

 

 褒められて照れたのではない。

 

 自分が作ろうとしている工房が、遠い王都までそのように伝わっている重さを受け止めていた。

 

 面談が終わりかけた頃、ルーカスは室内に並ぶ瓶へ目を向けた。

 

「この瓶も、工房で作っているんですか」

 

「いいえ」

 

 セルマは短く答えた。

 

「外から届きます」

 

「どこから」

 

 質問した直後、ルーカスは僅かに表情を変えた。

 

 聞きすぎたと気づいたらしい。

 

「すみません。王都では見たことがないほど揃っていたので」

 

「珍しい物を見ると、気になりますよね」

 

 セルマは怒らなかった。

 

 ルーカスは少し安心したように続ける。

 

「液肥も使っていると聞きました。あれも外から届くんですか」

 

「その質問は、弟子になってからですね」

 

 セルマは笑った。

 

 柔らかい笑顔だったが、それ以上は答えないという線が見えた。

 

 ルーカスは頷き、今度は搬入口へ目をやった。

 

「最初は試用期間です」

 

 セルマが告げた。

 

「住み込みになります」

 

「構いません」

 

「掃除も器具洗浄もあります。いきなり薬は作らせません」

 

「承知しています」

 

「質問は歓迎します。ただし、入ってはいけない場所へは入らないでください」

 

 ルーカスは姿勢を正した。

 

「はい」

 

 返事だけを聞けば、真面目な弟子志願者だった。

 

 実際、真面目なのだと思う。

 

 だからこそ、どこまで疑えばよいのか分からなくなる。

 

 

 

 

 

 初日の仕事は、器具洗浄と薬草選別だった。

 

 ルーカスは嫌な顔をしなかった。

 

 洗い残しがないか瓶を光へ向け、乾燥棚へ置く時も口の向きを揃える。薬草選別では、傷んだ葉を除きながら、隣の弟子へ違いを尋ねていた。

 

「この葉は色が薄いだけでは?」

 

「裏を見てください」

 

「白い筋が多い」

 

「乾かすと苦みが強くなります」

 

 教えられると、ルーカスはすぐ記録する。

 

 その目は真剣だった。

 

 けれど、時折別のものも見ていた。

 

 搬入口へ届いた空箱。

 

 壁に下がる鍵。

 

 セルマが職員と話す位置。

 

 奥の廊下へ入っていく者。

 

 視線は一瞬で戻る。

 

 見ていたと決めつけるには短すぎる。

 

 私は自分でも気づかないうちに、ルーカスの顔ばかり追っていたらしい。

 

「澪君」

 

 真壁さんが小さく呼んだ。

 

「はい」

 

「桶を見ただけです」

 

「分かっています」

 

 返事をしたものの、自信はなかった。

 

 ルーカスが桶を見れば、何かの材料が入っていたのではと思う。

 

 廊下を振り返れば、材料庫を探しているのではと考える。

 

 疑っている相手の行動は、何でも疑わしく見える。

 

「昼間の行動だけで決めません」

 

 真壁さんはそれだけ言って、作業場へ視線を戻した。

 

 決める手段がある。

 

 だから、無理に目つきや仕草から答えを作らなくてよい。

 

 それでも、人が眠るのを待って中身を見ることに、後ろめたさがないわけではなかった。

 

 

 

 

 

 宿舎の灯りが全て消えたのは、夜も深くなってからだった。

 

 弟子たちは朝が早い。

 

 話し声が止まり、廊下を歩く音もなくなったあと、私たちは裏口から入った。

 

 セルマが先導し、真壁さんと私が続く。

 

 ヴァルトさんは廊下の入口に立ち、周囲へ薄い結界を張った。

 

「音を消すだけです」

 

 小声で説明する。

 

「起きた者がいれば、すぐ知らせます」

 

 寝室には、弟子用の寝台が並んでいた。

 

 ルーカスは一番端で眠っている。

 

 使い込まれた革鞄は寝台の下。上着は椅子の背に掛け、靴もきちんと揃えてあった。

 

 眠っている顔は、昼間より幼く見えた。

 

 生活に困り、ようやく入れそうな工房へ来た若者。

 

 そう見える。

 

 同時に、黒鎖商会から何かを頼まれているかもしれない相手でもある。

 

「澪君」

 

 真壁さんの声に促され、私はルーカスへ意識を向けた。

 

 鑑定する。

 

 視界に情報が浮かんだ。

 

----------------------------------

氏名:ルーカス・ハイネ

職業:錬金術師見習い

状態:睡眠/疲労/緊張残留

所属:なし

接触組織:黒鎖商会

現在の依頼:

 セルマ工房内部の確認

 弟子数および教育内容の確認

 材料搬入経路の確認

 規格瓶供給元の確認

 液肥に関する情報収集

 セルマ・真壁・澪の関係確認

報酬:依頼達成内容に応じて支払い

弟子入りの本心:あり

情報提供意思:あり

敵対意思:低い

盗難命令:なし

破壊命令:なし

誘拐命令:なし

暗殺命令:なし

所持危険物:なし

----------------------------------

 

 文字を追うほど、胸の中がすっきりするどころか複雑になった。

 

「弟子になりたいのは、嘘ではありません」

 

 声を落として伝える。

 

 セルマが眠るルーカスを見た。

 

「情報を渡す気もあるんですね」

 

「あります」

 

 自分の声が硬くなった。

 

「でも、誰かを傷つける命令は受けていません。盗むようにも言われていません」

 

「だから選ばれたのでしょう」

 

 真壁さんが言った。

 

「本当に学びたい者なら、工房を見る目も自然です」

 

 セルマは何も言わなかった。

 

 怒っているようにも、安心しているようにも見えない。

 

 眠るルーカスと、鑑定結果が見えるはずのない空間を交互に見ている。

 

 やがて、布団から出ていたルーカスの手を見た。

 

 指先には、薬草を扱う者の染みが残っている。

 

「利用されたんですね」

 

「利用されることを、本人も選んでいます」

 

 真壁さんの言葉は甘くなかった。

 

「困っていたから、全て仕方がないとは言えません」

 

 セルマが小さく頷く。

 

「分かっています」

 

 私たちは、ルーカスを起こさず宿舎を出た。

 

 本人は、自分の正体も迷いも、すでに見られたことを知らない。

 

 

 

 

 

 翌朝の押入商会侯爵領事業所は、開店前の静けさに包まれていた。

 

 売り場の棚には布が掛けられ、入口の札もまだ裏返ったまま。奥の会議室では、夜の鑑定結果をまとめた紙が机の中央へ置かれていた。

 

 リュシアさんは商会の朝仕事があるため、最初だけ顔を出して報告書へ目を通し、売り場へ戻っている。

 

 残ったのは、真壁さん、私、ヴァルトさん、セルマ。

 

「追い返しますか」

 

 私が聞くと、ヴァルトさんも腕を組んだ。

 

「侯爵家へ引き渡すこともできます」

 

「まだです」

 

 真壁さんは即答した。

 

「彼を捕らえても、依頼した者は見えません」

 

「でも、工房の中へ置いたままにするんですよね」

 

「ええ」

 

 私の不安を否定するような言い方ではなかった。

 

 危険がないとは言わない。

 

 危険を見た上で置くと決めている。

 

 セルマは報告書の一文を指で押さえた。

 

「学びたい気持ちはあるんですね」

 

「ええ」

 

 真壁さんが答える。

 

「同時に、情報を売る気もあります」

 

 セルマはしばらく黙った。

 

 昨夜より表情は落ち着いている。

 

 眠るルーカスを見ていた時には、怒りと同情が混ざっていた。今は工房長として考えている顔だった。

 

「なら、弟子として教えます」

 

 ヴァルトさんが顔を上げる。

 

「よろしいのですか」

 

「何も教えなければ、弟子にした意味がありません」

 

 セルマは報告書を閉じた。

 

「何でも見せれば、工房長ではありません」

 

「危険ではありませんか」

 

 私が尋ねると、セルマは私へ向き直った。

 

「危険です」

 

 即答だった。

 

「ですから、見せてよいものを決めます。ほかの弟子へ危害を加えるなら、その時は工房から出します」

 

「情報を渡すことは」

 

「裏切りです」

 

 セルマはその言葉を曖昧にしなかった。

 

「でも、裏切ったから何も教えないのでは、この人がいつまでも黒鎖商会へ頼る理由を減らせません」

 

 ヴァルトさんが報告書へ目を落とした。

 

「報酬を受け取る以上、本人の責任もあります」

 

「はい」

 

「知らずに利用されているわけではありません」

 

「それも分かっています」

 

 セルマは頷いた。

 

 許すのではない。

 

 何をしたかを忘れるのでもない。

 

 その上で、弟子として扱う。

 

「本人も敵なんでしょうか」

 

 私は真壁さんへ尋ねた。

 

「敵対行為をしています」

 

 返事は短かった。

 

「ですが、命令した者と同じではありません」

 

「分けるんですね」

 

「分けなければ、戻れる者まで敵へ送ります」

 

 真壁さんは工房の図面を開いた。

 

「報告先は追う。本物の情報は渡さない。盗難や破壊へ進めば止める。本人が依頼を断る余地も残します」

 

「断らなかったら」

 

「見続けます」

 

「いつまでですか」

 

「選ぶまでです」

 

 セルマが、図面の上へ手を置いた。

 

「工房の人へ危害を加えようとした時は、私が止めます」

 

「ええ」

 

 真壁さんは頷いた。

 

「そこは迷う必要がありません」

 

 

 

 

 

 偽情報を作る会議は、想像していたより錬金術の話が多くなった。

 

 真壁さんが最初に出した案は、山間部の秘密工房、特別な白砂、希少な魔物素材、特殊触媒、月1回の搬入商人。

 

 ヴァルトさんは、その紙を読んだ途端に首を横へ振った。

 

「この触媒名は駄目です」

 

「理由は」

 

「王都の初学者向け教本に、存在しない素材の例として載っています」

 

「そんな例があるんですか」

 

 私が聞くと、ヴァルトさんはため息をついた。

 

「昔、偽薬商人が売った名前です。錬金術師なら笑います」

 

 セルマも紙を覗き込む。

 

「こちらの魔物素材も不自然です。薬効が強すぎます」

 

「強ければ信じるのでは」

 

「液肥へ使ったら、薬草が枯れます」

 

「では、何なら」

 

 セルマは少し考え、別の素材名を書いた。

 

「これなら、直接薬効を出すのではなく、土の魔力を整えると言われても不思議ではありません」

 

 ヴァルトさんが頷く。

 

「王都でも希少です。高値で取引されます」

 

「実在するんですか」

 

「実在します」

 

「本物を探されたら困りませんか」

 

 私が聞くと、真壁さんが答えた。

 

「存在しない物だけでは、嘘だと分かりやすい」

 

 偽情報は、全て嘘にしてはいけないらしい。

 

 実在する素材。

 

 存在しそうな工房。

 

 王都で知られた理論。

 

 それらを組み合わせ、肝心なところだけを間違える。

 

「瓶の原料は白砂だけでは弱いですね」

 

 セルマが言う。

 

「どこにでもあります」

 

「山間部の青白砂では」

 

 ヴァルトさんが提案した。

 

「ガラスへ青みが出るとされています。透明瓶へ使うなら、色抜きの工程が必要だと考えるでしょう」

 

「秘密工房が、その工程を持っていることにしますか」

 

「自然です」

 

 2人は、架空の工房を本物らしく整えていく。

 

 私は横で聞きながら、何だか存在しない工房へ本当に注文できそうな気がしてきた。

 

「嘘を直接教えたら、疑われませんか」

 

「教えません」

 

 真壁さんが言う。

 

「本人に見つけさせます」

 

 工房図面の一部へ印を付ける。

 

 本物の材料庫とは別の保管室。

 

 そこへ、架空の工房名が書かれた納品札を置く。

 

 希少素材の名を記した空箱。

 

 特殊触媒を使ったように見える試作記録。

 

 月1回の搬入予定表。

 

「わざと会話を聞かせるんですか」

 

「短く」

 

「芝居が下手な人がやると怪しくなりませんか」

 

 私が言うと、全員の視線が真壁さんへ向いた。

 

「私にはさせないでください」

 

 セルマが先に言った。

 

「嘘をつく顔になります」

 

「私もです」

 

 ヴァルトさんも続いた。

 

「魔術院で隠し事をした時、いつも課長に見つかりました」

 

「自慢になっていませんよ」

 

 私が言うと、ヴァルトさんは口を閉じた。

 

 真壁さんは少し考えた。

 

「会話は最小限にします」

 

「誰がするんですか」

 

「自然に話せる職員へ」

 

「その人に本当の作戦を教えるんですか」

 

「必要な部分だけです」

 

 情報を流すための仕掛けまで、知る人間を増やしすぎない。

 

 偽情報を作る側も、情報管理が必要になる。

 

「人は、自分で見つけた情報を最も信じます」

 

 真壁さんが、納品札の位置を決めた。

 

「偽物だと見抜かれたら?」

 

「その場合は、相手の分析能力が分かります」

 

 成功しても情報が得られる。

 

 失敗しても情報が得られる。

 

 真壁さんが過去に似たことをした経験があるのだろうと、手順の迷いのなさから分かった。

 

 

 

 

 

 ルーカスは、2日目から計量の訓練へ入った。

 

 セルマは疑っていることを顔へ出さない。

 

 重さの違う薬草を量らせ、同じ分量へ揃えさせる。器具を洗わせ、乾燥後に水滴跡が残っていればやり直させる。

 

「そこまで洗うんですか」

 

「前に入っていた薬が残れば、次の結果が変わります」

 

「王都では、水ですすいで終わりでした」

 

「何を作った後でも?」

 

「強い毒物でなければ」

 

 セルマの眉が上がった。

 

「では、うちでは忘れてください」

 

 弟子たちが小さく笑う。

 

 ルーカスも気まずそうに笑い、もう一度瓶を洗った。

 

 失敗した調合は捨てる前に記録する。

 

 結果は弟子同士で共有する。

 

 セルマが不在でも、同じ基準で作業できるようにする。

 

 ルーカスはその方法へ驚いていた。

 

「失敗まで見せるんですか」

 

「隠したら、次の人が同じ失敗をします」

 

「自分の評価が下がります」

 

「工房全体が同じ失敗を繰り返す方が困ります」

 

 セルマの答えに、ルーカスはしばらく黙った。

 

 やがて、記録へ自分の失敗を書き加えた。

 

 その姿を見れば、本当にここで学びたいのだと分かる。

 

 だからこそ、その日の午後、ルーカスが空箱の印を確認している姿を見ると胸が痛んだ。

 

 箱の側面には、架空の素材名が書かれている。

 

 ルーカスは指で文字をなぞり、何気ない顔で蓋を開けた。

 

 中は空。

 

 ただし底には、セルマとヴァルトさんが調整した微量の粉が残されていた。

 

 実在する安価な鉱物粉と、薬草の灰を混ぜたもの。

 

 架空の素材に予想される性質と似た反応を示すよう作ってある。

 

 ルーカスは指先へ少量取り、匂いを確かめた。

 

 すぐには信じない。

 

 翌日には、納品札の日付と予定表を見比べていた。

 

 別の弟子へも自然な口調で尋ねる。

 

「この箱、毎月来るのか」

 

「さあ。搬入は職員がやるから」

 

「山の工房から?」

 

「どこだったかな」

 

 教えられている弟子も、作戦の全ては知らない。

 

 曖昧な答えだけが返る。

 

 ルーカスはそれを疑い、別の手掛かりを探す。

 

 試作記録。

 

 触媒名。

 

 月1回の搬入予定。

 

 架空の工房名。

 

 1つだけなら疑う。

 

 複数がつながった時、自分で見つけた情報として形になる。

 

 ルーカスは夜、寝台の上で小さな紙へ何かを書いた。

 

 宿舎の中を覗くことはしない。

 

 外へ持ち出す時を見る。

 

 それが決めた線だった。

 

 

 

 

 

 試験運用中の監視体制は、まだモニターだけで全てを見られる状態ではなかった。

 

 セルマ工房の出入り記録。

 

 宿舎の外出申請。

 

 領都門の通行記録。

 

 衛兵の巡回報告。

 

 商会の店員が覚えていた買い物。

 

 それらが押入商会侯爵領事業所へ集められる。

 

 監視担当候補として選ばれた古参門番は、初めて事業所の会議室へ入った時、大型の紙へ描かれた流れを見て困った顔をした。

 

「私は字が得意ではありません」

 

「顔と馬車を覚えるのが得意だと聞きました」

 

 真壁さんが言う。

 

「それは、まあ」

 

「なら十分です。時刻は文官が書きます」

 

 隣に座る若い文官は、反対に人の顔を覚えるのが苦手だった。

 

「私は、昨日会った方でも服が変わると分かりません」

 

「記録は正確です」

 

「それだけは」

 

「では、組み合わせます」

 

 真壁さんは2人を見た。

 

「1人で全てできる必要はありません」

 

 門番が顔と馬車を見る。

 

 文官が時刻と経路を整理する。

 

 衛兵が現場の様子を伝える。

 

 ヴァルトさんが魔術的な不自然さを確認する。

 

 ばらばらの小さな得意が、1つの監視へつながっていく。

 

「ルーカスさんをずっと尾行するんですか」

 

 門番が尋ねた。

 

「しません」

 

「では、どう見れば」

 

「誰へ会うかではなく、情報がどこへ動くかを見ます」

 

 真壁さんは、領都の簡単な地図へ市場と門を記した。

 

「普通に買い物をする。食事をする。書店へ行く。それは記録する必要がありません」

 

「紙を渡したら」

 

「相手を確認します」

 

「その相手が門を出たら」

 

「馬車と時刻を記録します」

 

 門番は頷いた。

 

「人を捕まえるためではないんですね」

 

「命令を出す者へ近づくためです」

 

 

 

 

 

 数日後、ルーカスへ半日の休みが与えられた。

 

 市場へ出た彼は、まず石鹸を買った。

 

 次に安い靴下を2足。

 

 書店の前でしばらく立ち止まり、中古の錬金術書を手に取ったが、値段を見て戻した。

 

 昼には屋台で煮込みを食べた。

 

 どれも普通の若者の休日だった。

 

 監視担当は近づかない。

 

 市場の端に設置された試験用カメラと、門番からの報告だけを使う。

 

 ルーカスは食事を終えると、薬材を扱う店へ入った。

 

 店主と少し話し、乾燥薬草を1袋買う。

 

 その際、注文書らしい紙を渡した。

 

 受け取ったのは、ルーカスを工房へ紹介した薬材商だった。

 

 商人は紙をその場で開かない。

 

 薬草袋を渡し、代金を受け取り、ほかの客と同じようにルーカスを送り出した。

 

 それだけなら、普通の取引に見える。

 

 ルーカスは宿舎へ戻る。

 

 薬材商は店を閉めたあと、裏手の馬車へ乗った。

 

 古参門番が、その顔を覚えていた。

 

「灰色の幌です」

 

 領都門で文官へ伝える。

 

「左後ろの車輪に、黒い縄が巻いてあります。御者は前にも見ました」

 

 文官が記録を探した。

 

「8日前にも出ています。行き先は北東の中継町」

 

「今日も同じだ」

 

「時刻を」

 

 門番が門の外へ消える馬車を見送り、文官が数字を書き込む。

 

 その記録は、伝令を通じて侯爵領事業所へ届いた。

 

 

 

 

 

「ルーカスさんを捕まえなくていいんですか」

 

 報告書を読みながら、私はもう一度尋ねた。

 

 本人が紙を渡したことは、ほぼ間違いない。

 

 鑑定で依頼内容も分かっている。

 

 証拠として十分ではないとしても、こちらは真実を知っている。

 

「目的は彼ではありません」

 

 真壁さんは、薬材商の馬車が向かった中継町へ印を付けた。

 

「報告を受け取る者」

 

 ヴァルトさんが続ける。

 

「その報告をまとめる者」

 

「命令を出す者」

 

 真壁さんが最後を引き取った。

 

 文官が過去の記録を広げる。

 

 同じ特徴の馬車は、これまでにも複数回、王都方面へ向かっている。

 

 毎回、直接王都まで行くわけではない。

 

 中継町で荷を積み替え、別の商人へ渡している可能性がある。

 

「黒鎖商会まで、もう分かったんですよね」

 

「鑑定では」

 

 ヴァルトさんが答えた。

 

「ですが、誰が途中で受け取り、どの経路を使っているかは分かりません」

 

「そこを知る必要があるんですか」

 

「黒鎖商会だけが使う経路とは限りません」

 

 ヴァルトさんは地図へ複数の線を引いた。

 

「公爵家へ報告する者。ギルドへ情報を売る者。独自に利益を取る者。同じ連絡役が、複数へ情報を渡しているかもしれません」

 

 真壁さんが頷く。

 

「ルーカス君を捕らえれば、相手は経路を変えます」

 

 セルマは、工房から来たばかりだった。

 

 ルーカスが今日も真面目に器具を洗い、計量の訓練をしていたことを知っている。

 

「いつか、自分からやめられるでしょうか」

 

 誰へともなく尋ねる。

 

 真壁さんは、地図から顔を上げた。

 

「選ぶ機会は残します」

 

「選ぶまでは」

 

「見ます」

 

 セルマは小さく頷いた。

 

 その返事に安心したわけではない。

 

 けれど、今すぐ道を閉じられないことは理解しているようだった。

 

 

 

 

 

 ルーカスの報告は、2つの中継地点を経て、黒鎖商会のヴィルヘルムへ届いた。

 

 紙は薬材の注文書を装っていた。

 

 表には乾燥葉と樹皮の数量。

 

 裏の文字を薬液で浮かせると、工房で見つけたという情報が現れる。

 

 瓶は領内北部の山間工房で生産。

 

 原料は青みを帯びた白砂。

 

 液肥には希少な魔物素材を使用。

 

 ポーションの品質安定には特殊触媒が必要。

 

 触媒と瓶は月1回、同じ商人が搬入。

 

 ヴィルヘルムは、読み終えても表情を変えなかった。

 

「随分と早いですね」

 

 側にいた部下が言う。

 

「早すぎる」

 

 ヴィルヘルムは紙を机へ置いた。

 

「偽情報でしょうか」

 

「分からん」

 

 彼は、工房名と素材名を別紙へ書き写した。

 

「だから裏を取る」

 

「ルーカスへ確認させますか」

 

「同じ者へ確認させても、同じ答えしか出ない」

 

 ヴィルヘルムは部下へ紙を渡した。

 

「秘密工房を探せ。白砂の産地を調べろ。月1回領都へ入る商人を洗え」

 

「人員を何名」

 

「まず3組」

 

 存在しない工房。

 

 使われていない砂。

 

 来ることのない商人。

 

 黒鎖商会は、その全てを探すために人と金を動かし始めた。

 

 

 

 

 

 押入商会侯爵領事業所では、監視担当から届いた新しい報告が机へ置かれた。

 

 中継町で、薬材商が別の馬車へ小包を渡した。

 

 その馬車は王都方面へ向かった。

 

 同じ頃、別の2組が領内北部の山道と、青白い砂の採れる場所を尋ね始めた。

 

 真壁さんは、偽情報の項目と報告を1つずつ照合した。

 

「食いつきました」

 

 ヴァルトさんが地図を覗き込む。

 

「ルーカスではありません」

 

「その先が、です」

 

 真壁さんは、中継町の印から王都方面へ線を伸ばした。

 

「次は、誰が受け取るかを見ます」

 

 私は、工房で学んでいるルーカスの姿を思い出した。

 

 彼は、自分が見つけたと思った情報を売った。

 

 その情報は偽物だった。

 

 けれど、学びたい気持ちまで偽物ではない。

 

 親切にすることと、無防備になることは違う。

 

 疑うことと、相手の将来を潰すことも違う。

 

 その間へ引かれた細い線の上を、私たちは歩き始めていた。

 

 地図の上では、存在しない秘密工房へ向かう線が増えている。

 

 黒鎖商会は、私たちが置いた影を追う。

 

 私たちは、その影を追う者の背中を見る。

 

 まだ誰も捕まえていない。

 

 けれど諜報戦は、もう始まっていた。

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