押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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お気楽コメディのはずなのに、なんでこんなサスペンス展開になってるんだろう。


第186話 死なない標的

 

 

 街道沿いの古い納屋には、麦藁ではなく人の気配が詰め込まれていた。

 

 戸板の隙間から差し込む夕方の光が、床へ細い線を作っている。その線を避けるように、6人の男たちが粗末な卓を囲んでいた。

 

 卓上に広げられているのは、領都西側の倉庫街、押入家具の工房、セルマの錬金術師育成工房、それらを結ぶ街道を描いた地図だった。

 

 実働隊長は、倉庫街を指で軽く叩いた。

 

「最初は火だ」

 

 向かいに座る男が、油を詰めた小瓶を布で包み直す。

 

「倉庫2か所。井戸の綱も切る」

 

「燃え広がるまで残るな。相手が来る前に離れろ」

 

 隊長の指が、次に工房近くの路地へ移った。

 

「火が上がってから、子どもを取る」

 

「騎士が残っていた場合は?」

 

「取れなければ逃げろ。巡回の数と動きを見ればいい」

 

 誘拐を担当する男は、荷運び人が使う上着を膝へ置いていた。胸元には侯爵家のものに似せた札が付いている。よく見れば封蝋の色も刻印の深さも違うが、夕暮れの路上で子どもが見破れるような差ではない。

 

 隊長は最後に、領都外縁を通る道へ指を滑らせた。

 

「本命はここだ」

 

 毒物担当の男が、小さな革鞘を開く。

 

 中には細身の短剣が収められていた。刃先に光沢はなく、薄い灰色の膜が付いている。

 

「深く刺す必要はない」

 

「承知している」

 

「救援が来るまで持てばよい。誰が来るか、何を使うか、どれほど早いか。全て送れ」

 

 通信担当が、掌に収まる黒い魔道具を確認した。石の表面には、短距離通信のための術式が刻まれている。

 

「救命できなかった場合は」

 

 誰かが尋ねた。

 

 隊長は地図から目を上げなかった。

 

「それも結果だ」

 

 納屋の中で、誰も反応しなかった。

 

 火が住宅へ回る可能性も、子どもが戻らない可能性も、毒を受けた者が死ぬ可能性も、作戦の失敗には含まれていない。

 

 目的は相手を見ること。

 

 そのために誰かが死ぬなら、それも情報だった。

 

「失敗した場合、通信具と命令の痕跡を残すな」

 

 隊長は全員を見渡した。

 

「捕まるくらいなら、自分で処理しろ」

 

 何人かが、首飾りや奥歯へ舌を触れた。

 

 自害用の毒が、そこにある。

 

 隊長は地図を畳んだ。

 

「日が落ちてから始める」

 

 

 

 

 

 押入商会侯爵領事業所の会議室では、納屋とは違う地図が机いっぱいに広げられていた。

 

 地図の上には、色の違う小さな札が置かれている。

 

 青は門番からの報告。

 

 白は文官が整理した通行記録。

 

 赤はヴァルトさんが拾った魔術反応。

 

 黄色は、押入家具やセルマ工房から上がってきた小さな違和感だった。

 

「昨日も、同じ荷車が西門から入っています」

 

 若い文官が記録簿を開いた。

 

「荷は乾燥豆。申告上は市場へ向かっていますが、市場の荷下ろし記録にはありません」

 

 隣の古参門番が、地図の西側へ札を置く。

 

「その御者なら見ました。市場へは行かず、井戸を2か所見て回っていた」

 

「水を探していた可能性は」

 

 レオンハルト様が尋ねた。

 

「水桶は持っていませんでした」

 

 門番は少し考え、付け足した。

 

「井戸の深さより、綱の結び目を見ていたように思います」

 

 それだけでは罪にならない。

 

 旅人が井戸を見ることも、荷車が道を間違えることもある。

 

 けれど、別の報告が重なる。

 

 セルマ工房近くで、子どもたちの帰宅時刻を尋ねた荷運び人。

 

 押入家具の納品経路を知りたがった酒場の客。

 

 同じ宿へ泊まりながら、一度も会話を交わさない4人の旅人。

 

 夕方になると、ほんの一瞬だけ反応する通信系魔道具。

 

 ヴァルトさんは赤い札を、宿と街道の間へ置いた。

 

「発信は長くても2呼吸ほどです」

 

「送り先は分からないのか」

 

 アルベルト様の問いに、ヴァルトさんは首を横へ振った。

 

「中継を挟んでいます。短すぎて、今の設備では方向まで絞れません」

 

 真壁さんは、地図へ置かれた札を順に見た。

 

 どれか1つだけなら、見過ごしても不思議ではない。

 

 誰か1人だけなら、勘違いで終わる。

 

 それを人が持ち寄り、同じ机へ載せたことで、初めて形が見え始めていた。

 

「複数の事案を重ねるでしょう」

 

 真壁さんが言った。

 

「火災か事故で人員を動かし、その間に別の場所へ接触する」

 

「止められないのか」

 

 レオンハルト様の声は低かった。

 

「疑わしいというだけで捕らえれば、別の者へ替わります」

 

「だからといって、領民に手を出させるわけにはいかん」

 

 アルベルト様は机へ片手を置いた。

 

 怒鳴ってはいない。

 

 それでも、領民を餌にする判断は認めないという意思が、会議室の空気を固くした。

 

「事件を起こさせるのではありません」

 

 真壁さんはアルベルト様を正面から見た。

 

「起こそうとした時に、止められる位置へ人を置きます」

 

「位置が外れれば」

 

「即応します」

 

「全て外れれば」

 

「その時は、被害を最小にします」

 

 万能だとは言わなかった。

 

 予測が外れる可能性も、守り切れない場所が出る可能性も、最初から含めている。

 

 だからこそ、役割を分けていた。

 

「火災は澪君」

 

 突然名前を呼ばれ、私は地図から顔を上げた。

 

「私ですか?」

 

「ワッパを貸します」

 

 真壁さんが収納から、小型のホバーバイクを出した。

 

 会議室の床すれすれで、車体が静かに浮く。

 

「上空から火元を確認し、延焼を止めてください」

 

「真壁さんは乗らないんですか?」

 

「私は全体を見ます」

 

 言われてみれば、火災現場へ2人で行けば、ほかの連絡を受けた時に動けなくなる。

 

「水は収納してあります」

 

「放水は一度に行わず、火元と風下を分けてください」

 

「はい」

 

 返事をすると、喉が少し乾いた。

 

 試験では飛んだ。

 

 空中で止まる練習も、旋回も、収納した水を少量ずつ落とす練習もした。

 

 だが、燃えている町へ向かう練習はしていない。

 

 真壁さんは、私の不安を消そうとはしなかった。

 

 代わりに、確認する。

 

「火を止める。逃げる者は追わない。住民を巻き込む量の水は落とさない」

 

「分かっています」

 

「では、お願いします」

 

 それだけだった。

 

 ヴァルトさんは逃走路と通信の封鎖。

 

 レオンハルト様は騎士団の巡回と身柄確保。

 

 真壁さんは全体指揮と救命、証拠保全。

 

 監視担当と通信担当は、見た事実と推測を混ぜずに報告する。

 

 決め終えた頃、窓の外はもう薄暗くなっていた。

 

 

 

 

 

 最初の警報は、夕食前に鳴った。

 

「西側倉庫街から黒煙!」

 

 通信担当が立ち上がった。

 

「風は東寄り。住宅側へ流れています。火消し井戸の1つが使用不能!」

 

 レオンハルト様が椅子を引く。

 

「西の巡回を――」

 

「予定配置を維持してください」

 

 真壁さんの声が先に飛んだ。

 

「火災は澪君」

 

「はい!」

 

 待機させていたワッパへ飛び乗る。

 

 防護上着の留め具を締め、操縦桿を握った。

 

 床が遠ざかる。

 

 事業所の裏口から外へ出ると、夕闇の向こうに赤い光が見えた。

 

 ワッパが高度を上げる。

 

 領都の屋根が下へ広がり、黒煙が風に押されて住宅地へ伸びている。

 

「澪、聞こえるか」

 

 通信具から真壁さんの声がした。

 

「聞こえます」

 

「倉庫内の人影を先に確認」

 

「はい」

 

 煙の上へ回り込み、赤外線映像へ切り替える。

 

 倉庫内部に、人間ほどの熱反応はない。

 

 だが、火元が1か所ではなかった。

 

「火元、2か所です」

 

 離れた壁際と、屋根に近い藁置き場。

 

 自然に燃え移ったのではない。間にまだ炎の届いていない場所が残っている。

 

「井戸の綱が切られています。倉庫内に人はいません」

 

「放火と判断。消火を優先してください」

 

「了解です」

 

 上空から風向きを確認する。

 

 全部の水を一度に落とせば、火は消えるかもしれない。

 

 だが屋根が崩れ、下にいる火消し組を巻き込む。

 

 最初に風下側の屋根へ薄く水を走らせる。

 

 乾いた板材が濡れ、火の粉が落ちても燃え移りにくくなる。

 

 次に、壁際の火元へ絞って放水した。

 

 水が炎へ当たり、白い蒸気が一気に立ち上る。

 

 熱気がワッパまで押し寄せた。

 

「近い、近い……」

 

 思わず口に出しながら高度を上げる。

 

 操縦へ反映を、と真壁さんに言われた試験の時を思い出し、自分で少し腹が立った。

 

 今は言われる前に離れられた。

 

 屋根側の火元へ回る。

 

 ここは藁が多い。

 

 一度では奥まで届かないため、細く長く水を落とし、表面の火を潰してから量を増やした。

 

 下では町の火消し組が、濡らした布を頭へ巻き、倉庫へ近づいている。

 

「西壁の火は落ちました!」

 

「こちらから入るぞ!」

 

「屋根がまだ熱い、下がってください!」

 

 上空から声を張る。

 

 その時、倉庫裏の路地を走る人影が見えた。

 

 黒い上着。

 

 片手に空の油瓶らしいものを持っている。

 

 一瞬、追えば捕まえられると思った。

 

 だが屋根の端で、火がまた赤く膨らんだ。

 

「逃走者1名。倉庫北裏路地から東へ。黒い上着、肩掛け袋あり」

 

 私は通信具へ特徴だけを伝え、ワッパを火元へ戻した。

 

 追わない。

 

 今ここを離れれば、住宅側へ火が回る。

 

 火を止めるのが私の役目だった。

 

 

 

 

 

 火災の警鐘が鳴った頃、セルマ工房近くの帰宅路では、3人の子どもが職員と一緒に歩いていた。

 

「侯爵家から迎えに来た」

 

 路地の角で、荷運び人の上着を着た男が声を掛けた。

 

 胸元には札がある。

 

「火事が起きた。大通りは危ない。裏道から連れていく」

 

 職員が足を止める。

 

「どなたからの指示ですか」

 

「レオンハルト様だ」

 

「合言葉を」

 

 男の目が僅かに動いた。

 

「急いでいる。そんな暇はない」

 

「合言葉をお願いします」

 

 子どもたちは、職員の後ろへ下がった。

 

 男は舌打ちし、腕を伸ばす。

 

 その手が子どもの肩へ届く前に、横から騎士の籠手が手首を打った。

 

「そこまでだ」

 

 巡回騎士が2人、路地の両側から現れた。

 

 男は腕を振りほどき、裏路地へ走る。

 

 もう1人、荷車の陰に潜んでいた男も飛び出した。

 

「追え! 子どもはその場から動かすな!」

 

 騎士の叫びが響く。

 

 誘拐犯は狭い路地を抜け、待機させていた小型荷車へ向かった。

 

 御者台へ飛び乗ろうとした瞬間、反対側から回り込んだ別の巡回隊が槍を横へ構えた。

 

「止まれ!」

 

 荷車は急に方向を変え、壁へ車輪を擦った。

 

 1人は飛び降りて逃げる。

 

 もう1人は騎士へ短剣を抜いた。

 

 刃が届く前に、槍の柄が手首を打ち、短剣が石畳へ落ちた。

 

 男は肩から地面へ倒され、背中へ膝を当てられる。

 

「拘束!」

 

「もう1人は南路地!」

 

 逃げた男の行き先は、すぐ通信担当へ送られた。

 

 子どもたちは無傷だった。

 

 だが荷車の内部には、外から見えないよう布で囲われた空間と、口を塞ぐための布、眠り薬の瓶が用意されていた。

 

 もし巡回騎士が火災へ向かっていれば、子どもたちはそこへ押し込まれていた。

 

 

 

 

 

 押入家具の荷馬車では、トルが納品札の束を膝へ置いていた。

 

「曲がり角の前には、荷台を見るんだ」

 

 向かいに座る若い職人のエーミルが、工具箱の留め具を確認する。

 

「どうしてです?」

 

「曲がった後だと、落ちてから気づく」

 

「でも、ちゃんと縛ってあります」

 

「縛った人間が、絶対に間違えないならな」

 

 トルは少し考え、荷台の奥を見た。

 

 木材も金具箱も動いていない。

 

「大丈夫です」

 

「よし。戻ったら納品札をマルテさんへ渡す。工具は工房へ戻す前に数える」

 

「刃物は鞘へ」

 

「分かってきたな」

 

 エーミルが笑った。

 

 御者台から、馬をなだめる声が聞こえる。

 

 夕暮れの道は静かだった。

 

 前方に、車輪を外した荷車が横たわっているのが見えるまでは。

 

「すまない! 手を貸してくれ!」

 

 道端の男が両手を上げた。

 

 御者が手綱を引く。

 

 馬が速度を落とした。

 

 エーミルは、荷車を見た。

 

 外れているはずの車輪は、軸へ斜めに掛かったままだ。荷台は傾いているのに、積み荷が片側へ寄っていない。

 

 助けを求める男の手も、車輪を触った者とは思えないほどきれいだった。

 

「止めるな」

 

 エーミルの声が変わった。

 

「え?」

 

「走れ!」

 

 御者が鞭を上げる。

 

 同時に、後方の茂みから2人の男が飛び出した。

 

 1人が馬の前へ縄を投げる。

 

 もう1人が荷台へ手を掛けた。

 

 前方の男も、助けを求めていた顔を捨て、短剣を抜く。

 

「トル、奥へ!」

 

 エーミルがトルの胸を押した。

 

 トルの体が工具箱へぶつかる。

 

 次の瞬間、荷台へ上がった男の刃が閃いた。

 

 エーミルは腕で受ける。

 

 刃は深く入らなかった。

 

 上着を裂き、前腕へ細い傷を作っただけだった。

 

 男はそれ以上斬ろうとせず、すぐ身を引く。

 

「浅い――」

 

 エーミルが言いかけた。

 

 その手から力が抜けた。

 

 膝が荷台へ落ちる。

 

「エーミルさん?」

 

 顔色が、見る間に変わった。

 

 唇が青黒くなり、息を吸おうとしても胸が動かない。

 

 エーミルは何か言おうとしたが、声にならなかった。

 

 トルの頭の中が真っ白になる。

 

 目の前で人が倒れる。

 

 外では御者と護衛が男たちへ抵抗している。

 

 荷台の縁へ別の手が掛かった。

 

 逃げなければ。

 

 隠れなければ。

 

 それより先に、押入家具で何度も教えられた言葉が戻ってきた。

 

 事故が起きたら、場所と人数。

 

 分からないことは、分からないと言う。

 

 通信具。

 

 トルは腰の小さな端末を掴んだ。

 

 手が震え、最初はうまく押せない。

 

 2度目で警報が入った。

 

「押入家具の荷馬車です!」

 

 声が裏返った。

 

「人が刺されました! 息が、おかしいです!」

 

『場所は』

 

「領都の外、南へ行く道です! 曲がった先に壊れた荷車があります! 男が、前に2人、後ろに――」

 

 荷台へ上がろうとした男が、通信具へ手を伸ばした。

 

 トルは端末を胸へ抱え、エーミルの体の陰へ潜る。

 

 護衛が横から男へ体当たりした。

 

 荷台が大きく揺れる。

 

「傷を押さえろ!」

 

 御者の声が飛ぶ。

 

 トルは自分の上着の裾を破り、エーミルの腕へ押し当てた。

 

 傷は小さい。

 

 なのに息が止まりかけている。

 

「エーミルさん、起きてください」

 

 返事はなかった。

 

「今、来ますから」

 

 誰が来るのかも分からないまま、トルは傷を押さえ続けた。

 

 

 

 

 

「押入家具の荷馬車から緊急通信!」

 

 通信担当の声が会議室を切り裂いた。

 

「成人1名が刺傷。呼吸異常。襲撃者は複数。位置確認、領都南外縁!」

 

 真壁さんが地図へ手を置く。

 

「通信魔道具反応あり!」

 

 ヴァルトさんが顔を上げた。

 

「荷馬車の東側、高所です。観察役がいます」

 

 誘拐未遂の報告も、ほぼ同時に届いた。

 

 子どもは無事。

 

 犯人1名拘束、1名逃走。

 

 火災は私が対応中。

 

 真壁さんは迷わなかった。

 

「本命は荷馬車です」

 

「先に境界を閉じます」

 

 ヴァルトさんが立つ。

 

 最寄りの登録拠点は、領都側の拠点だった。

 

 2人はそこへ転移し、用意していた高速移動具で南へ向かった。

 

 現場中央へ突然現れたわけではない。

 

 それでも、通常の馬より遥かに早い。

 

 街道の向こうに、止まった荷馬車と、林へ散ろうとする人影が見えた。

 

 

 

 

 

 真壁が現場へ着いた時、最初に見たのは逃げる男ではなかった。

 

 荷台の中で、血に濡れた布を腕へ押し当てているトルだった。

 

「そのまま押さえてください」

 

 真壁は荷台へ上がった。

 

「よく連絡しました」

 

 トルは顔を上げた。

 

 涙と泥で汚れている。

 

「息が、もう……」

 

「見ます」

 

 真壁はエーミルの傷と顔色を鑑定した。

 

----------------------------------

対象:エーミル

状態:重篤/呼吸停止直前/循環不全

原因:神経・心肺阻害性複合毒

毒量:致死量

通常解毒:間に合わない

推奨処置:エリクサー即時投与

----------------------------------

 

 逃走者の足音が林へ遠ざかっていく。

 

 真壁はそちらを見なかった。

 

 収納から、小さな瓶を取り出す。

 

 エリクサー。

 

 エーミルは飲み込める状態ではない。

 

 真壁は顎を支え、少量ずつ口内へ入れた。喉が動かない分は無理に流し込まず、傷口にも使う。

 

「頼む」

 

 誰へ向けた言葉か分からなかった。

 

 エリクサーが傷へ触れた。

 

 変化は、派手な光ではなかった。

 

 灰色に変わっていた傷の周りから、ゆっくり色が戻っていく。

 

 動かなかった喉が、一度大きく震えた。

 

 胸が僅かに持ち上がる。

 

 それだけでは足りない。

 

 もう一度、空気を求めるように胸が動いた。

 

 青黒かった唇へ血色が差す。

 

 エーミルの体が跳ね、喉の奥から激しい咳が出た。

 

「息をした……」

 

 トルの声が震えた。

 

 エーミルは咳き込みながら、細く空気を吸った。

 

「まだ動かしてはいけません」

 

 真壁は脈を確認する。

 

「治療担当へ引き渡します。トル君、布はそのままで」

 

「はい」

 

 トルは泣きながら頷いた。

 

 その手は最後まで傷口から離れなかった。

 

 

 

 

 

 逃走者の1人は林へ駆け込もうとした。

 

 木々の間へ体を滑り込ませた瞬間、目の前の空気が硬い壁へ変わる。

 

 男は肩から透明な境界へ衝突し、後ろへよろめいた。

 

「何だ!」

 

 別方向へ走る。

 

 そこにも壁が生まれる。

 

 ヴァルトは街道脇へ立ち、片手で複数の術式を組み替えていた。

 

 林へ向かう境界。

 

 馬へ続く道。

 

 高所にいた通信役の退路。

 

 それぞれを同時に閉じる。

 

 馬へ飛び乗った男は手綱を引いた。

 

 馬は走り出したが、進路が緩やかに曲げられ、街道脇の草地で止まる。転倒させない。馬ごと潰せば証拠も人も失う。

 

 通信担当が黒い魔道具を握る。

 

 魔力を流した瞬間、淡い光が男の周囲を巡り、そのまま戻ってきた。

 

「発信できない!」

 

「結界内で反射させています」

 

 ヴァルトの声は落ち着いていた。

 

「殺す必要はありません」

 

 毒物担当が袖を振った。

 

 細い針が飛ぶ。

 

 ヴァルトの前で軌道が横へ逸れ、地面へ突き立った。

 

「そこにいてください」

 

 男たちは結界を力任せに叩いた。

 

 魔道具を取り出す者。

 

 味方を押し出して隙間を作ろうとする者。

 

 別々の方向へ同時に走る者。

 

 ヴァルトは結界を1枚の大壁にはしなかった。

 

 逃走者ごとに小さく区切り、互いを利用できないよう分断する。

 

 隊長らしい男が、首元へ手を伸ばした。

 

 自害毒。

 

 その腕だけが、途中で見えない枠へ挟まれたように止まる。

 

 指先は首飾りまで届かない。

 

「それも認めません」

 

 ヴァルトは術式を狭め、男の関節が動ける範囲だけを封じた。

 

 骨を折らない。

 

 だが、毒へは触れさせない。

 

 

 

 

 

 エーミルの呼吸が戻ったことを確認すると、真壁は実働隊へ向き直った。

 

 ヴァルトの結界内で、男たちはまだ抵抗している。

 

 真壁の視線が、1人ずつをなぞった。

 

 鑑定。

 

 腰の短剣。

 

 袖の毒針。

 

 靴底の刃物。

 

 首飾りの毒。

 

 奥歯の裏へ仕込まれた小さな毒嚢。

 

 通信魔道具。

 

 信号用魔石。

 

 紙を燃やす薬品。

 

 全ての位置が見える。

 

 最初の男の腰から、短剣が消えた。

 

 次に袖の毒針。

 

 靴底の刃。

 

 首飾り。

 

 男が舌を動かした瞬間、奥歯の裏にあった毒嚢も消える。

 

「何をした!」

 

 隊長が叫ぶ。

 

 通信担当の手の中から、黒い魔道具が消えた。

 

 魔力が流れた状態のまま、収納内の隔離区画へ移される。

 

 毒物は毒物ごとに分ける。

 

 武器は所持者ごと。

 

 通信具は作動状態を保つ区画。

 

 薬品も、拘束具も、偽装書類も混ぜない。

 

「自害も、証拠隠滅も認めません」

 

 真壁の声に怒鳴り返す者はいなかった。

 

 今まで身につけていた物が、何の手応えもなく消えていく。

 

 それが男たちにとって、結界より不気味だった。

 

 街道の向こうから馬蹄の音が近づいた。

 

 レオンハルト率いる騎士団が到着する。

 

「侯爵家の名において拘束する!」

 

 騎士たちが結界の外へ展開する。

 

 ヴァルトが1人ずつ動きを制限したまま結界を緩め、騎士が腕を取り、正式に枷を掛けていく。

 

 真壁は、回収した物の所持者と位置、時刻を文官へ伝えた。

 

 襲撃者を倒して終わりではない。

 

 誰が何を持っていたかが崩れれば、後で証拠として使えなくなる。

 

 

 

 

 

 火災現場では、最後の炎が濡れた藁の間でくすぶっていた。

 

 私はワッパを低く浮かせ、火消し組が壁際へ入るのを上空から確認した。

 

「屋根裏、熱反応なし。西側の壁に残り火があります」

 

「分かった!」

 

 火消し組がそこへ水を掛ける。

 

 倉庫そのものは傷んだが、住宅への延焼は止まった。

 

 地上へ降りると、切られた井戸綱と、油の入っていた小瓶が見えた。

 

 触らない。

 

 位置だけを衛兵へ伝え、周囲へ人が入らないよう頼む。

 

「黒い上着の男は東へ逃げました。肩掛け袋を持っています」

 

「手配する」

 

 衛兵へ現場を引き継いだところで、新しい連絡が入った。

 

『荷馬車襲撃。負傷者1名、救命済み。実働犯を拘束中』

 

「救命済み……」

 

 息が抜けた。

 

 ワッパへ乗り直し、南の街道へ向かう。

 

 現場が見えた時、最初に目へ入ったのは結界内の男たちではなかった。

 

 荷台の横へ座るトル。

 

 手も服も血と泥で汚れている。

 

 そのそばでは、治療担当がエーミルを担架へ移していた。

 

「間に合ったんですね」

 

 真壁さんの近くへワッパを下ろす。

 

「ええ」

 

 短い返事だった。

 

 エーミルは眠ったままだが、胸は上下している。

 

 トルがその動きを見つめていた。

 

 私は安心すると同時に、傷の小ささを見た。

 

 あれだけ小さな傷で、人を死なせようとした。

 

 火を放ち、子どもへ手を伸ばし、誰かを毒で倒す。

 

 怒りが遅れて胸へ上がってきた。

 

「誘拐未遂の方は」

 

 レオンハルト様へ報告が届く。

 

「子どもは全員無事。1名拘束。1名逃走、門と街道へ手配済みです。偽造札、拘束布、眠り薬を所持。荷車内に隠し区画あり」

 

 レオンハルト様が深く息を吐いた。

 

「火へ全員を向かわせていたら、連れ去られていたな」

 

「巡回がなければ、そうなっていました」

 

 真壁さんが答える。

 

「予測が当たったか」

 

「備えが間に合ったのです」

 

 真壁さんは、自分の地図や生成AIの数字を誇らなかった。

 

 実際に子どもを守ったのは巡回騎士。

 

 火を止めたのは火消し組と私。

 

 通信したのはトル。

 

 敵を封じたのはヴァルトさん。

 

 身柄を確保したのは騎士団だった。

 

 

 

 

 

 セルマ工房からも、遠くの煙が見えていた。

 

 作業場では、弟子たちが窓へ集まりかけている。

 

「持ち場を離れないでください」

 

 セルマが声を掛けたものの、その声にも緊張があった。

 

 騎士団が路地を走る。

 

 子どもが狙われたという知らせ。

 

 押入家具の職人が毒を受けたという話。

 

 ルーカスは、手にしていた計量匙を落とした。

 

 金属音が床へ響く。

 

「すみません」

 

 拾おうとしても、指がうまく動かない。

 

 黒鎖商会は、見るだけだと言った。

 

 物を盗むな。

 

 誰も傷つけるな。

 

 工房で知ったことを報告するだけ。

 

 だが外では火が上がり、子どもが狙われ、人が毒で死にかけている。

 

 自分が渡した情報のせいなのか。

 

 あの紙が誰かへ届き、その結果として人が襲われたのか。

 

 違うと証明する手段はない。

 

「ルーカス」

 

 セルマに呼ばれ、肩が跳ねた。

 

「はい」

 

「今日の作業は終わりです。宿舎へ戻ってください」

 

「でも、片付けが」

 

「こちらでやります」

 

 セルマは問い詰めなかった。

 

 ルーカスが何を恐れているか知っているはずなのに、知らない顔をしている。

 

「工房長、俺は――」

 

 謝りかけた言葉が喉へ詰まる。

 

 何を謝るのか。

 

 なぜ謝るのか。

 

 言えば、自分が情報を渡したことまで認めることになる。

 

「今日は休みなさい」

 

 セルマはそれだけ言った。

 

 ルーカスは床へ落とした計量匙を拾い、深く頭を下げた。

 

 宿舎へ戻る背中は、来た日より小さく見えた。

 

 

 

 

 

 事件後の証拠確認は、侯爵家の一室で行われた。

 

 真壁さんの収納から出された物は、机へ直接置かれなかった。

 

 毒物は1つずつ封印容器へ。

 

 武器は所持者ごとに番号を付けた布の上へ。

 

 通信魔道具は、ヴァルトさんが張った結界箱の中。

 

 火付け道具、拘束具、偽造札も、回収場所と時刻を文官が記録している。

 

「毒刃、襲撃者2番。右腰から回収」

 

 真壁さんが言う。

 

 文官が書き込む。

 

「自害毒、同人物。首飾り内部」

 

「確認しました」

 

 次の品が出る。

 

 通信具。

 

 火災現場で使われたものと同じ部材を持つ着火具。

 

 誘拐犯が持っていた眠り薬の容器。

 

 毒襲撃側の容器と封蝋の形が似ている。

 

「別々に用意したようには見えません」

 

 レオンハルト様が封印容器を見比べた。

 

「同じ調合所か、同じ支給元です」

 

 ヴァルトさんが通信魔道具へ手をかざす。

 

「王都魔術院の正式な通信具ではありません」

 

「商会の物か」

 

 アルベルト様が尋ねた。

 

「商会系の短距離中継用です。ただし、所有者までは刻まれていません。複数の中継石を経ています」

 

 ヴァルトさんは術式の端へ指を近づけた。

 

「消去機構があります」

 

「動いたのか」

 

「動く前に収納されました。発信履歴の一部が残っています」

 

 アルベルト様は、並べられた証拠を見た。

 

「これだけあれば、黒鎖商会を問えるか」

 

「まだ商会本体へ直接つながる証拠ではありません」

 

 ヴァルトさんは慎重に答えた。

 

「実行犯が名乗ったとしても、別組織を装う可能性があります」

 

「だが、3件が同じ指揮を受けた証拠にはなる」

 

 レオンハルト様が言う。

 

「通信先を調べます」

 

 真壁さんは結界箱を見た。

 

「生きた実行犯もいます」

 

 拷問という言葉は出なかった。

 

 鑑定。

 

 押収品。

 

 通信履歴。

 

 侯爵家による正式な尋問。

 

 1つの証言だけへ頼らず、事実を重ねる。

 

 

 

 

 

 エーミルは治療室で眠っていた。

 

 毒は消えている。

 

 傷も塞がり始めている。

 

 それでも、死にかけた体はすぐ元へ戻らない。

 

 トルは寝台の横へ置かれた椅子に座り、離れようとしなかった。

 

「もう休んでいい」

 

 治療担当に言われても、首を横へ振る。

 

「起きた時、1人だと困るから」

 

 血を洗った手はきれいになっていたが、指先にはまだ赤い色が残っている気がした。

 

 会議室へ戻ると、実働隊員も全員生きていると報告された。

 

 自害毒は使えなかった。

 

 ヴァルトさんは誰も殺さず封じた。

 

 騎士団が身柄を確保した。

 

「全員、助かったんですね」

 

 私が言うと、真壁さんが頷いた。

 

「ええ」

 

「実行犯まで、ですが」

 

 ヴァルトさんの声には、少し複雑なものがあった。

 

「死なれては困ります」

 

「口を割らせるためか」

 

 レオンハルト様が問う。

 

「それだけではありません」

 

 真壁さんは、文官がまとめた記録へ目を落とした。

 

「生きていれば、選べます」

 

「誰に命じられたかを話すことも」

 

「話さないことも」

 

「命令した者から離れることも」

 

 罪が消えるわけではない。

 

 侯爵家の法で裁かれる。

 

 だが、黒鎖商会が口封じのために死を選ばせることまでは許さない。

 

 標的は死ななかった。

 

 襲撃者も死ねなかった。

 

 証拠も消えなかった。

 

 真壁さんは、結界箱の中に置かれた通信具を見つめた。

 

「向こうは、こちらの対応を見るために人を送りました」

 

「おかげで、こちらも見ることができます」

 

 アルベルト様が視線を向ける。

 

「何をだ」

 

「命令が戻る先です」

 

 その時だった。

 

 黒い通信具の表面に刻まれた線が、ほんの僅かに明滅した。

 

 ヴァルトさんが身を乗り出す。

 

 魔力の流れを追い、結界を細く調整する。

 

「向こうから、つなぎ直してきました」

 

 報告が途絶えた実働隊へ、確認信号を送っている。

 

 真壁さんは通信具へ触れなかった。

 

「切らないでください」

 

 ヴァルトさんが頷く。

 

「追います」

 

 敵は、こちらを見るために人を送った。

 

 火を放ち、子どもへ手を伸ばし、人を毒で殺そうとした。

 

 その結果、こちらには生きた実行犯と、毒物と、武器と、火付け道具と、誘拐用の装備と、通信具が残った。

 

 そして今、向こうから線をつなぎ直している。

 

 結界箱の中で、微かな光がもう一度明滅した。

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