街道沿いの古い納屋には、麦藁ではなく人の気配が詰め込まれていた。
戸板の隙間から差し込む夕方の光が、床へ細い線を作っている。その線を避けるように、6人の男たちが粗末な卓を囲んでいた。
卓上に広げられているのは、領都西側の倉庫街、押入家具の工房、セルマの錬金術師育成工房、それらを結ぶ街道を描いた地図だった。
実働隊長は、倉庫街を指で軽く叩いた。
「最初は火だ」
向かいに座る男が、油を詰めた小瓶を布で包み直す。
「倉庫2か所。井戸の綱も切る」
「燃え広がるまで残るな。相手が来る前に離れろ」
隊長の指が、次に工房近くの路地へ移った。
「火が上がってから、子どもを取る」
「騎士が残っていた場合は?」
「取れなければ逃げろ。巡回の数と動きを見ればいい」
誘拐を担当する男は、荷運び人が使う上着を膝へ置いていた。胸元には侯爵家のものに似せた札が付いている。よく見れば封蝋の色も刻印の深さも違うが、夕暮れの路上で子どもが見破れるような差ではない。
隊長は最後に、領都外縁を通る道へ指を滑らせた。
「本命はここだ」
毒物担当の男が、小さな革鞘を開く。
中には細身の短剣が収められていた。刃先に光沢はなく、薄い灰色の膜が付いている。
「深く刺す必要はない」
「承知している」
「救援が来るまで持てばよい。誰が来るか、何を使うか、どれほど早いか。全て送れ」
通信担当が、掌に収まる黒い魔道具を確認した。石の表面には、短距離通信のための術式が刻まれている。
「救命できなかった場合は」
誰かが尋ねた。
隊長は地図から目を上げなかった。
「それも結果だ」
納屋の中で、誰も反応しなかった。
火が住宅へ回る可能性も、子どもが戻らない可能性も、毒を受けた者が死ぬ可能性も、作戦の失敗には含まれていない。
目的は相手を見ること。
そのために誰かが死ぬなら、それも情報だった。
「失敗した場合、通信具と命令の痕跡を残すな」
隊長は全員を見渡した。
「捕まるくらいなら、自分で処理しろ」
何人かが、首飾りや奥歯へ舌を触れた。
自害用の毒が、そこにある。
隊長は地図を畳んだ。
「日が落ちてから始める」
押入商会侯爵領事業所の会議室では、納屋とは違う地図が机いっぱいに広げられていた。
地図の上には、色の違う小さな札が置かれている。
青は門番からの報告。
白は文官が整理した通行記録。
赤はヴァルトさんが拾った魔術反応。
黄色は、押入家具やセルマ工房から上がってきた小さな違和感だった。
「昨日も、同じ荷車が西門から入っています」
若い文官が記録簿を開いた。
「荷は乾燥豆。申告上は市場へ向かっていますが、市場の荷下ろし記録にはありません」
隣の古参門番が、地図の西側へ札を置く。
「その御者なら見ました。市場へは行かず、井戸を2か所見て回っていた」
「水を探していた可能性は」
レオンハルト様が尋ねた。
「水桶は持っていませんでした」
門番は少し考え、付け足した。
「井戸の深さより、綱の結び目を見ていたように思います」
それだけでは罪にならない。
旅人が井戸を見ることも、荷車が道を間違えることもある。
けれど、別の報告が重なる。
セルマ工房近くで、子どもたちの帰宅時刻を尋ねた荷運び人。
押入家具の納品経路を知りたがった酒場の客。
同じ宿へ泊まりながら、一度も会話を交わさない4人の旅人。
夕方になると、ほんの一瞬だけ反応する通信系魔道具。
ヴァルトさんは赤い札を、宿と街道の間へ置いた。
「発信は長くても2呼吸ほどです」
「送り先は分からないのか」
アルベルト様の問いに、ヴァルトさんは首を横へ振った。
「中継を挟んでいます。短すぎて、今の設備では方向まで絞れません」
真壁さんは、地図へ置かれた札を順に見た。
どれか1つだけなら、見過ごしても不思議ではない。
誰か1人だけなら、勘違いで終わる。
それを人が持ち寄り、同じ机へ載せたことで、初めて形が見え始めていた。
「複数の事案を重ねるでしょう」
真壁さんが言った。
「火災か事故で人員を動かし、その間に別の場所へ接触する」
「止められないのか」
レオンハルト様の声は低かった。
「疑わしいというだけで捕らえれば、別の者へ替わります」
「だからといって、領民に手を出させるわけにはいかん」
アルベルト様は机へ片手を置いた。
怒鳴ってはいない。
それでも、領民を餌にする判断は認めないという意思が、会議室の空気を固くした。
「事件を起こさせるのではありません」
真壁さんはアルベルト様を正面から見た。
「起こそうとした時に、止められる位置へ人を置きます」
「位置が外れれば」
「即応します」
「全て外れれば」
「その時は、被害を最小にします」
万能だとは言わなかった。
予測が外れる可能性も、守り切れない場所が出る可能性も、最初から含めている。
だからこそ、役割を分けていた。
「火災は澪君」
突然名前を呼ばれ、私は地図から顔を上げた。
「私ですか?」
「ワッパを貸します」
真壁さんが収納から、小型のホバーバイクを出した。
会議室の床すれすれで、車体が静かに浮く。
「上空から火元を確認し、延焼を止めてください」
「真壁さんは乗らないんですか?」
「私は全体を見ます」
言われてみれば、火災現場へ2人で行けば、ほかの連絡を受けた時に動けなくなる。
「水は収納してあります」
「放水は一度に行わず、火元と風下を分けてください」
「はい」
返事をすると、喉が少し乾いた。
試験では飛んだ。
空中で止まる練習も、旋回も、収納した水を少量ずつ落とす練習もした。
だが、燃えている町へ向かう練習はしていない。
真壁さんは、私の不安を消そうとはしなかった。
代わりに、確認する。
「火を止める。逃げる者は追わない。住民を巻き込む量の水は落とさない」
「分かっています」
「では、お願いします」
それだけだった。
ヴァルトさんは逃走路と通信の封鎖。
レオンハルト様は騎士団の巡回と身柄確保。
真壁さんは全体指揮と救命、証拠保全。
監視担当と通信担当は、見た事実と推測を混ぜずに報告する。
決め終えた頃、窓の外はもう薄暗くなっていた。
最初の警報は、夕食前に鳴った。
「西側倉庫街から黒煙!」
通信担当が立ち上がった。
「風は東寄り。住宅側へ流れています。火消し井戸の1つが使用不能!」
レオンハルト様が椅子を引く。
「西の巡回を――」
「予定配置を維持してください」
真壁さんの声が先に飛んだ。
「火災は澪君」
「はい!」
待機させていたワッパへ飛び乗る。
防護上着の留め具を締め、操縦桿を握った。
床が遠ざかる。
事業所の裏口から外へ出ると、夕闇の向こうに赤い光が見えた。
ワッパが高度を上げる。
領都の屋根が下へ広がり、黒煙が風に押されて住宅地へ伸びている。
「澪、聞こえるか」
通信具から真壁さんの声がした。
「聞こえます」
「倉庫内の人影を先に確認」
「はい」
煙の上へ回り込み、赤外線映像へ切り替える。
倉庫内部に、人間ほどの熱反応はない。
だが、火元が1か所ではなかった。
「火元、2か所です」
離れた壁際と、屋根に近い藁置き場。
自然に燃え移ったのではない。間にまだ炎の届いていない場所が残っている。
「井戸の綱が切られています。倉庫内に人はいません」
「放火と判断。消火を優先してください」
「了解です」
上空から風向きを確認する。
全部の水を一度に落とせば、火は消えるかもしれない。
だが屋根が崩れ、下にいる火消し組を巻き込む。
最初に風下側の屋根へ薄く水を走らせる。
乾いた板材が濡れ、火の粉が落ちても燃え移りにくくなる。
次に、壁際の火元へ絞って放水した。
水が炎へ当たり、白い蒸気が一気に立ち上る。
熱気がワッパまで押し寄せた。
「近い、近い……」
思わず口に出しながら高度を上げる。
操縦へ反映を、と真壁さんに言われた試験の時を思い出し、自分で少し腹が立った。
今は言われる前に離れられた。
屋根側の火元へ回る。
ここは藁が多い。
一度では奥まで届かないため、細く長く水を落とし、表面の火を潰してから量を増やした。
下では町の火消し組が、濡らした布を頭へ巻き、倉庫へ近づいている。
「西壁の火は落ちました!」
「こちらから入るぞ!」
「屋根がまだ熱い、下がってください!」
上空から声を張る。
その時、倉庫裏の路地を走る人影が見えた。
黒い上着。
片手に空の油瓶らしいものを持っている。
一瞬、追えば捕まえられると思った。
だが屋根の端で、火がまた赤く膨らんだ。
「逃走者1名。倉庫北裏路地から東へ。黒い上着、肩掛け袋あり」
私は通信具へ特徴だけを伝え、ワッパを火元へ戻した。
追わない。
今ここを離れれば、住宅側へ火が回る。
火を止めるのが私の役目だった。
火災の警鐘が鳴った頃、セルマ工房近くの帰宅路では、3人の子どもが職員と一緒に歩いていた。
「侯爵家から迎えに来た」
路地の角で、荷運び人の上着を着た男が声を掛けた。
胸元には札がある。
「火事が起きた。大通りは危ない。裏道から連れていく」
職員が足を止める。
「どなたからの指示ですか」
「レオンハルト様だ」
「合言葉を」
男の目が僅かに動いた。
「急いでいる。そんな暇はない」
「合言葉をお願いします」
子どもたちは、職員の後ろへ下がった。
男は舌打ちし、腕を伸ばす。
その手が子どもの肩へ届く前に、横から騎士の籠手が手首を打った。
「そこまでだ」
巡回騎士が2人、路地の両側から現れた。
男は腕を振りほどき、裏路地へ走る。
もう1人、荷車の陰に潜んでいた男も飛び出した。
「追え! 子どもはその場から動かすな!」
騎士の叫びが響く。
誘拐犯は狭い路地を抜け、待機させていた小型荷車へ向かった。
御者台へ飛び乗ろうとした瞬間、反対側から回り込んだ別の巡回隊が槍を横へ構えた。
「止まれ!」
荷車は急に方向を変え、壁へ車輪を擦った。
1人は飛び降りて逃げる。
もう1人は騎士へ短剣を抜いた。
刃が届く前に、槍の柄が手首を打ち、短剣が石畳へ落ちた。
男は肩から地面へ倒され、背中へ膝を当てられる。
「拘束!」
「もう1人は南路地!」
逃げた男の行き先は、すぐ通信担当へ送られた。
子どもたちは無傷だった。
だが荷車の内部には、外から見えないよう布で囲われた空間と、口を塞ぐための布、眠り薬の瓶が用意されていた。
もし巡回騎士が火災へ向かっていれば、子どもたちはそこへ押し込まれていた。
押入家具の荷馬車では、トルが納品札の束を膝へ置いていた。
「曲がり角の前には、荷台を見るんだ」
向かいに座る若い職人のエーミルが、工具箱の留め具を確認する。
「どうしてです?」
「曲がった後だと、落ちてから気づく」
「でも、ちゃんと縛ってあります」
「縛った人間が、絶対に間違えないならな」
トルは少し考え、荷台の奥を見た。
木材も金具箱も動いていない。
「大丈夫です」
「よし。戻ったら納品札をマルテさんへ渡す。工具は工房へ戻す前に数える」
「刃物は鞘へ」
「分かってきたな」
エーミルが笑った。
御者台から、馬をなだめる声が聞こえる。
夕暮れの道は静かだった。
前方に、車輪を外した荷車が横たわっているのが見えるまでは。
「すまない! 手を貸してくれ!」
道端の男が両手を上げた。
御者が手綱を引く。
馬が速度を落とした。
エーミルは、荷車を見た。
外れているはずの車輪は、軸へ斜めに掛かったままだ。荷台は傾いているのに、積み荷が片側へ寄っていない。
助けを求める男の手も、車輪を触った者とは思えないほどきれいだった。
「止めるな」
エーミルの声が変わった。
「え?」
「走れ!」
御者が鞭を上げる。
同時に、後方の茂みから2人の男が飛び出した。
1人が馬の前へ縄を投げる。
もう1人が荷台へ手を掛けた。
前方の男も、助けを求めていた顔を捨て、短剣を抜く。
「トル、奥へ!」
エーミルがトルの胸を押した。
トルの体が工具箱へぶつかる。
次の瞬間、荷台へ上がった男の刃が閃いた。
エーミルは腕で受ける。
刃は深く入らなかった。
上着を裂き、前腕へ細い傷を作っただけだった。
男はそれ以上斬ろうとせず、すぐ身を引く。
「浅い――」
エーミルが言いかけた。
その手から力が抜けた。
膝が荷台へ落ちる。
「エーミルさん?」
顔色が、見る間に変わった。
唇が青黒くなり、息を吸おうとしても胸が動かない。
エーミルは何か言おうとしたが、声にならなかった。
トルの頭の中が真っ白になる。
目の前で人が倒れる。
外では御者と護衛が男たちへ抵抗している。
荷台の縁へ別の手が掛かった。
逃げなければ。
隠れなければ。
それより先に、押入家具で何度も教えられた言葉が戻ってきた。
事故が起きたら、場所と人数。
分からないことは、分からないと言う。
通信具。
トルは腰の小さな端末を掴んだ。
手が震え、最初はうまく押せない。
2度目で警報が入った。
「押入家具の荷馬車です!」
声が裏返った。
「人が刺されました! 息が、おかしいです!」
『場所は』
「領都の外、南へ行く道です! 曲がった先に壊れた荷車があります! 男が、前に2人、後ろに――」
荷台へ上がろうとした男が、通信具へ手を伸ばした。
トルは端末を胸へ抱え、エーミルの体の陰へ潜る。
護衛が横から男へ体当たりした。
荷台が大きく揺れる。
「傷を押さえろ!」
御者の声が飛ぶ。
トルは自分の上着の裾を破り、エーミルの腕へ押し当てた。
傷は小さい。
なのに息が止まりかけている。
「エーミルさん、起きてください」
返事はなかった。
「今、来ますから」
誰が来るのかも分からないまま、トルは傷を押さえ続けた。
「押入家具の荷馬車から緊急通信!」
通信担当の声が会議室を切り裂いた。
「成人1名が刺傷。呼吸異常。襲撃者は複数。位置確認、領都南外縁!」
真壁さんが地図へ手を置く。
「通信魔道具反応あり!」
ヴァルトさんが顔を上げた。
「荷馬車の東側、高所です。観察役がいます」
誘拐未遂の報告も、ほぼ同時に届いた。
子どもは無事。
犯人1名拘束、1名逃走。
火災は私が対応中。
真壁さんは迷わなかった。
「本命は荷馬車です」
「先に境界を閉じます」
ヴァルトさんが立つ。
最寄りの登録拠点は、領都側の拠点だった。
2人はそこへ転移し、用意していた高速移動具で南へ向かった。
現場中央へ突然現れたわけではない。
それでも、通常の馬より遥かに早い。
街道の向こうに、止まった荷馬車と、林へ散ろうとする人影が見えた。
真壁が現場へ着いた時、最初に見たのは逃げる男ではなかった。
荷台の中で、血に濡れた布を腕へ押し当てているトルだった。
「そのまま押さえてください」
真壁は荷台へ上がった。
「よく連絡しました」
トルは顔を上げた。
涙と泥で汚れている。
「息が、もう……」
「見ます」
真壁はエーミルの傷と顔色を鑑定した。
----------------------------------
対象:エーミル
状態:重篤/呼吸停止直前/循環不全
原因:神経・心肺阻害性複合毒
毒量:致死量
通常解毒:間に合わない
推奨処置:エリクサー即時投与
----------------------------------
逃走者の足音が林へ遠ざかっていく。
真壁はそちらを見なかった。
収納から、小さな瓶を取り出す。
エリクサー。
エーミルは飲み込める状態ではない。
真壁は顎を支え、少量ずつ口内へ入れた。喉が動かない分は無理に流し込まず、傷口にも使う。
「頼む」
誰へ向けた言葉か分からなかった。
エリクサーが傷へ触れた。
変化は、派手な光ではなかった。
灰色に変わっていた傷の周りから、ゆっくり色が戻っていく。
動かなかった喉が、一度大きく震えた。
胸が僅かに持ち上がる。
それだけでは足りない。
もう一度、空気を求めるように胸が動いた。
青黒かった唇へ血色が差す。
エーミルの体が跳ね、喉の奥から激しい咳が出た。
「息をした……」
トルの声が震えた。
エーミルは咳き込みながら、細く空気を吸った。
「まだ動かしてはいけません」
真壁は脈を確認する。
「治療担当へ引き渡します。トル君、布はそのままで」
「はい」
トルは泣きながら頷いた。
その手は最後まで傷口から離れなかった。
逃走者の1人は林へ駆け込もうとした。
木々の間へ体を滑り込ませた瞬間、目の前の空気が硬い壁へ変わる。
男は肩から透明な境界へ衝突し、後ろへよろめいた。
「何だ!」
別方向へ走る。
そこにも壁が生まれる。
ヴァルトは街道脇へ立ち、片手で複数の術式を組み替えていた。
林へ向かう境界。
馬へ続く道。
高所にいた通信役の退路。
それぞれを同時に閉じる。
馬へ飛び乗った男は手綱を引いた。
馬は走り出したが、進路が緩やかに曲げられ、街道脇の草地で止まる。転倒させない。馬ごと潰せば証拠も人も失う。
通信担当が黒い魔道具を握る。
魔力を流した瞬間、淡い光が男の周囲を巡り、そのまま戻ってきた。
「発信できない!」
「結界内で反射させています」
ヴァルトの声は落ち着いていた。
「殺す必要はありません」
毒物担当が袖を振った。
細い針が飛ぶ。
ヴァルトの前で軌道が横へ逸れ、地面へ突き立った。
「そこにいてください」
男たちは結界を力任せに叩いた。
魔道具を取り出す者。
味方を押し出して隙間を作ろうとする者。
別々の方向へ同時に走る者。
ヴァルトは結界を1枚の大壁にはしなかった。
逃走者ごとに小さく区切り、互いを利用できないよう分断する。
隊長らしい男が、首元へ手を伸ばした。
自害毒。
その腕だけが、途中で見えない枠へ挟まれたように止まる。
指先は首飾りまで届かない。
「それも認めません」
ヴァルトは術式を狭め、男の関節が動ける範囲だけを封じた。
骨を折らない。
だが、毒へは触れさせない。
エーミルの呼吸が戻ったことを確認すると、真壁は実働隊へ向き直った。
ヴァルトの結界内で、男たちはまだ抵抗している。
真壁の視線が、1人ずつをなぞった。
鑑定。
腰の短剣。
袖の毒針。
靴底の刃物。
首飾りの毒。
奥歯の裏へ仕込まれた小さな毒嚢。
通信魔道具。
信号用魔石。
紙を燃やす薬品。
全ての位置が見える。
最初の男の腰から、短剣が消えた。
次に袖の毒針。
靴底の刃。
首飾り。
男が舌を動かした瞬間、奥歯の裏にあった毒嚢も消える。
「何をした!」
隊長が叫ぶ。
通信担当の手の中から、黒い魔道具が消えた。
魔力が流れた状態のまま、収納内の隔離区画へ移される。
毒物は毒物ごとに分ける。
武器は所持者ごと。
通信具は作動状態を保つ区画。
薬品も、拘束具も、偽装書類も混ぜない。
「自害も、証拠隠滅も認めません」
真壁の声に怒鳴り返す者はいなかった。
今まで身につけていた物が、何の手応えもなく消えていく。
それが男たちにとって、結界より不気味だった。
街道の向こうから馬蹄の音が近づいた。
レオンハルト率いる騎士団が到着する。
「侯爵家の名において拘束する!」
騎士たちが結界の外へ展開する。
ヴァルトが1人ずつ動きを制限したまま結界を緩め、騎士が腕を取り、正式に枷を掛けていく。
真壁は、回収した物の所持者と位置、時刻を文官へ伝えた。
襲撃者を倒して終わりではない。
誰が何を持っていたかが崩れれば、後で証拠として使えなくなる。
火災現場では、最後の炎が濡れた藁の間でくすぶっていた。
私はワッパを低く浮かせ、火消し組が壁際へ入るのを上空から確認した。
「屋根裏、熱反応なし。西側の壁に残り火があります」
「分かった!」
火消し組がそこへ水を掛ける。
倉庫そのものは傷んだが、住宅への延焼は止まった。
地上へ降りると、切られた井戸綱と、油の入っていた小瓶が見えた。
触らない。
位置だけを衛兵へ伝え、周囲へ人が入らないよう頼む。
「黒い上着の男は東へ逃げました。肩掛け袋を持っています」
「手配する」
衛兵へ現場を引き継いだところで、新しい連絡が入った。
『荷馬車襲撃。負傷者1名、救命済み。実働犯を拘束中』
「救命済み……」
息が抜けた。
ワッパへ乗り直し、南の街道へ向かう。
現場が見えた時、最初に目へ入ったのは結界内の男たちではなかった。
荷台の横へ座るトル。
手も服も血と泥で汚れている。
そのそばでは、治療担当がエーミルを担架へ移していた。
「間に合ったんですね」
真壁さんの近くへワッパを下ろす。
「ええ」
短い返事だった。
エーミルは眠ったままだが、胸は上下している。
トルがその動きを見つめていた。
私は安心すると同時に、傷の小ささを見た。
あれだけ小さな傷で、人を死なせようとした。
火を放ち、子どもへ手を伸ばし、誰かを毒で倒す。
怒りが遅れて胸へ上がってきた。
「誘拐未遂の方は」
レオンハルト様へ報告が届く。
「子どもは全員無事。1名拘束。1名逃走、門と街道へ手配済みです。偽造札、拘束布、眠り薬を所持。荷車内に隠し区画あり」
レオンハルト様が深く息を吐いた。
「火へ全員を向かわせていたら、連れ去られていたな」
「巡回がなければ、そうなっていました」
真壁さんが答える。
「予測が当たったか」
「備えが間に合ったのです」
真壁さんは、自分の地図や生成AIの数字を誇らなかった。
実際に子どもを守ったのは巡回騎士。
火を止めたのは火消し組と私。
通信したのはトル。
敵を封じたのはヴァルトさん。
身柄を確保したのは騎士団だった。
セルマ工房からも、遠くの煙が見えていた。
作業場では、弟子たちが窓へ集まりかけている。
「持ち場を離れないでください」
セルマが声を掛けたものの、その声にも緊張があった。
騎士団が路地を走る。
子どもが狙われたという知らせ。
押入家具の職人が毒を受けたという話。
ルーカスは、手にしていた計量匙を落とした。
金属音が床へ響く。
「すみません」
拾おうとしても、指がうまく動かない。
黒鎖商会は、見るだけだと言った。
物を盗むな。
誰も傷つけるな。
工房で知ったことを報告するだけ。
だが外では火が上がり、子どもが狙われ、人が毒で死にかけている。
自分が渡した情報のせいなのか。
あの紙が誰かへ届き、その結果として人が襲われたのか。
違うと証明する手段はない。
「ルーカス」
セルマに呼ばれ、肩が跳ねた。
「はい」
「今日の作業は終わりです。宿舎へ戻ってください」
「でも、片付けが」
「こちらでやります」
セルマは問い詰めなかった。
ルーカスが何を恐れているか知っているはずなのに、知らない顔をしている。
「工房長、俺は――」
謝りかけた言葉が喉へ詰まる。
何を謝るのか。
なぜ謝るのか。
言えば、自分が情報を渡したことまで認めることになる。
「今日は休みなさい」
セルマはそれだけ言った。
ルーカスは床へ落とした計量匙を拾い、深く頭を下げた。
宿舎へ戻る背中は、来た日より小さく見えた。
事件後の証拠確認は、侯爵家の一室で行われた。
真壁さんの収納から出された物は、机へ直接置かれなかった。
毒物は1つずつ封印容器へ。
武器は所持者ごとに番号を付けた布の上へ。
通信魔道具は、ヴァルトさんが張った結界箱の中。
火付け道具、拘束具、偽造札も、回収場所と時刻を文官が記録している。
「毒刃、襲撃者2番。右腰から回収」
真壁さんが言う。
文官が書き込む。
「自害毒、同人物。首飾り内部」
「確認しました」
次の品が出る。
通信具。
火災現場で使われたものと同じ部材を持つ着火具。
誘拐犯が持っていた眠り薬の容器。
毒襲撃側の容器と封蝋の形が似ている。
「別々に用意したようには見えません」
レオンハルト様が封印容器を見比べた。
「同じ調合所か、同じ支給元です」
ヴァルトさんが通信魔道具へ手をかざす。
「王都魔術院の正式な通信具ではありません」
「商会の物か」
アルベルト様が尋ねた。
「商会系の短距離中継用です。ただし、所有者までは刻まれていません。複数の中継石を経ています」
ヴァルトさんは術式の端へ指を近づけた。
「消去機構があります」
「動いたのか」
「動く前に収納されました。発信履歴の一部が残っています」
アルベルト様は、並べられた証拠を見た。
「これだけあれば、黒鎖商会を問えるか」
「まだ商会本体へ直接つながる証拠ではありません」
ヴァルトさんは慎重に答えた。
「実行犯が名乗ったとしても、別組織を装う可能性があります」
「だが、3件が同じ指揮を受けた証拠にはなる」
レオンハルト様が言う。
「通信先を調べます」
真壁さんは結界箱を見た。
「生きた実行犯もいます」
拷問という言葉は出なかった。
鑑定。
押収品。
通信履歴。
侯爵家による正式な尋問。
1つの証言だけへ頼らず、事実を重ねる。
エーミルは治療室で眠っていた。
毒は消えている。
傷も塞がり始めている。
それでも、死にかけた体はすぐ元へ戻らない。
トルは寝台の横へ置かれた椅子に座り、離れようとしなかった。
「もう休んでいい」
治療担当に言われても、首を横へ振る。
「起きた時、1人だと困るから」
血を洗った手はきれいになっていたが、指先にはまだ赤い色が残っている気がした。
会議室へ戻ると、実働隊員も全員生きていると報告された。
自害毒は使えなかった。
ヴァルトさんは誰も殺さず封じた。
騎士団が身柄を確保した。
「全員、助かったんですね」
私が言うと、真壁さんが頷いた。
「ええ」
「実行犯まで、ですが」
ヴァルトさんの声には、少し複雑なものがあった。
「死なれては困ります」
「口を割らせるためか」
レオンハルト様が問う。
「それだけではありません」
真壁さんは、文官がまとめた記録へ目を落とした。
「生きていれば、選べます」
「誰に命じられたかを話すことも」
「話さないことも」
「命令した者から離れることも」
罪が消えるわけではない。
侯爵家の法で裁かれる。
だが、黒鎖商会が口封じのために死を選ばせることまでは許さない。
標的は死ななかった。
襲撃者も死ねなかった。
証拠も消えなかった。
真壁さんは、結界箱の中に置かれた通信具を見つめた。
「向こうは、こちらの対応を見るために人を送りました」
「おかげで、こちらも見ることができます」
アルベルト様が視線を向ける。
「何をだ」
「命令が戻る先です」
その時だった。
黒い通信具の表面に刻まれた線が、ほんの僅かに明滅した。
ヴァルトさんが身を乗り出す。
魔力の流れを追い、結界を細く調整する。
「向こうから、つなぎ直してきました」
報告が途絶えた実働隊へ、確認信号を送っている。
真壁さんは通信具へ触れなかった。
「切らないでください」
ヴァルトさんが頷く。
「追います」
敵は、こちらを見るために人を送った。
火を放ち、子どもへ手を伸ばし、人を毒で殺そうとした。
その結果、こちらには生きた実行犯と、毒物と、武器と、火付け道具と、誘拐用の装備と、通信具が残った。
そして今、向こうから線をつなぎ直している。
結界箱の中で、微かな光がもう一度明滅した。