押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

187 / 191
第187話 裏帳簿の鎖

 

 結界箱の中で、黒い通信魔道具がまた明滅した。

 

 短く1度。

 

 少し間を置いて、長く1度。

 

 さらに短く2度。

 

 侯爵家の証拠確認室には、紙と封蝋と薬品の匂いが混じっていた。壁際の燭台は炎を小さく揺らしている。誰も声を上げないまま、卓上の魔道具だけを見つめていた。

 

 澪には、それが何かを催促する指先のように見えた。

 

「同じ間隔ではありません」

 

 ヴァルトが結界箱へ顔を寄せた。直接触れず、薄く展開した魔力の膜で反応を拾っている。

 

「単なる呼び出しではないのか」

 

 レオンハルトが尋ねた。

 

「おそらく確認符号です。班ごとに決められた返答を求めています」

 

 ヴァルトは机の端へ置かれていた紙へ、明滅の長短を書きつけた。その指先に迷いはなかったが、眉間には深い皺が寄っている。

 

「通信具がまだ本人たちの手元にあるか。敵へ奪われていないか。任務がどこまで進んだか。それを短い応答だけで確かめる仕組みでしょう」

 

「なら、返事をして誘い出せばいい」

 

 レオンハルトの言葉に、真壁はすぐには頷かなかった。

 

 通信具の向こう側では、こちらの返事を待っている。だが、何を返すべきか分からないまま動けば、向こうへ異常を知らせるだけになる。

 

「相手が求める答えを知らないまま返せば、押収したことを教えるだけです」

 

 真壁は結界箱の側面へ視線を落とした。

 

「返信しなければ」

 

 アルベルトが問う。

 

「中継を切るでしょう」

 

「どちらにしても時間はないか」

 

「ええ。ただし、まだ相手も事情を知りません」

 

 ヴァルトが通信具の術式へ細い魔力を通した。内部に残った魔力の流れが、古い墨の上へ水を垂らしたように浮かぶ。

 

「未送信の列があります」

 

「読めますか」

 

 澪が尋ねると、ヴァルトはしばらく目を閉じた。

 

「第2行動開始。そこまでです」

 

 部屋の空気が、ほんの僅かに動いた。

 

 火災。

 

 誘拐未遂。

 

 毒襲撃。

 

 そのうち、どこまでを第2行動と呼ぶのかは分からない。だが少なくとも、実働隊が拘束されたことも、エーミルが救命されたことも伝わっていなかった。

 

「成功とも失敗とも伝わっていない」

 

 真壁が言った。

 

「向こうは、続きを求めています」

 

 ヴァルトが結界を少し緩めた。

 

 その瞬間だけ、通信具から伸びる魔力の糸が細く浮かび上がる。

 

 真壁が地図を広げ、ヴァルトが指で辿る。

 

 王都ではない。

 

 領都北東。

 

 街道宿の多い一帯。

 

 そこから先へ、さらに薄い反応が一度だけ伸びた。だが形を取る前に消えた。

 

「ここまでです」

 

 ヴァルトは最初の中継点へ印を付けた。

 

「本店ではないのだな」

 

「最初の中継に過ぎません」

 

 アルベルトは地図を見たまま、低く息を吐いた。

 

「では、線を切らせずに、こちらも調べる」

 

「その前に」

 

 真壁が言った。

 

「眠った者から確認します」

 

 

 

 

 

 侯爵家の拘置施設は、夜になると石壁の冷たさが増した。

 

 昼間は詰所の声や足音が絶えないが、深夜には鉄格子の向こうで寝返りの音まで聞こえる。

 

 拘束された実働隊員たちは、互いに顔を合わせられないよう別々の房へ収容されていた。武器も毒も、通信具もない。真壁が回収した自害用の毒まで、全て所持者別に隔離されている。

 

 侯爵家の治療担当が、眠った男の瞼と脈を確認した。

 

「自然な睡眠です。薬は使っていません」

 

 澪は頷いた。

 

 寝台の男は、昼間に見た時より若く見えた。放火役だった。火をつけ、井戸の綱を切り、住宅へ炎を流そうとした男。

 

 眠っていれば、ただ疲れ果てた旅人にも見える。

 

 澪は一度息を整えた。

 

 必要なことだと分かっている。

 

 それでも、相手が閉じているはずの扉を、自分だけが開けて中を見るような感覚は消えなかった。

 

 背後で記録文官が筆を構えている。

 

 レオンハルトも、真壁も何も急かさない。

 

 澪は男へ鑑定を使った。

 

----------------------------------

氏名:クラウス・メルツ

役割:放火担当

所属認識:黒鎖商会外郭実働班

指示内容:

・領都西側倉庫への着火

・火消し井戸の使用妨害

・延焼方向の誘導

油受取場所:灰橋町系統の荷扱所

逃走先:北東街道宿付近

報酬:分割支給

死亡時補償:家族へ送金予定

拘束時指示:自害

上位連絡役:不明

----------------------------------

 

 澪は最後の2行で目を止めた。

 

「家族への補償……」

 

 文官の筆先が止まる。

 

 真壁は眠る男を見下ろしたが、憐れむ言葉も、怒りの言葉も口にしなかった。

 

「次を見ましょう」

 

 別の房。

 

 誘拐担当。

 

 その男は、子どもを隠す荷車の引き渡し場所と、眠り薬の供給元を知っていた。

 

 毒物担当は、刃へ塗られた毒の調整役と、標的が死んでも構わないという指示を受けていた。

 

 通信担当は、中継符号と破棄手順を知っていた。

 

 誰も全体を知らない。

 

 放火担当は誘拐の合流場所を知らず、誘拐担当は毒の供給元を知らない。通信担当ですら、最終的な報告先を「鎖持ち」と呼ぶだけだった。

 

 それでも、共通する項目が少しずつ重なっていく。

 

 灰橋町系統からの報酬。

 

 石場町経由の装備。

 

 ブルーノからの最終命令。

 

 拘束された場合の自害。

 

 そして、死後に家族へ払われるはずだった補償。

 

「この人たちは、死ねば家族へ金が届くと思っていたんですね」

 

 澪は眠る通信担当の顔を見た。

 

「だから毒を持たされた」

 

 レオンハルトの声は低かった。

 

 真壁は記録用紙の家族補償欄へ視線を落とした。

 

「死なせる仕組みまで、帳簿で管理している」

 

 その言葉に感情はほとんどなかった。

 

 だからこそ、澪には冷たく響いた。

 

 

 

 

 

 ブルーノは、夜が明ける間際になってようやく眠った。

 

 他の実働隊員より警戒が強かった。

 

 物音がするたびに目を開け、足音が止まれば体を起こそうとした。枷を付けられ、自害手段を失ってなお、誰かが助けに来る可能性を捨てていないようだった。

 

 疲労が勝ち、呼吸が深くなったところで治療担当が合図を出した。

 

 澪は鉄格子の内側へ入った。

 

 真壁とレオンハルト、記録文官が続く。

 

 ブルーノの顔には、頬を打った痣と、結界へ何度も体をぶつけた時の擦り傷が残っている。

 

 澪は鑑定した。

 

----------------------------------

氏名:ブルーノ・ケストナー

役割:地方実働班統括

所属認識:黒鎖商会外郭実働部門

直属連絡役:鎖持ち「第4環」

会頭ヘルムートとの直接面識:あり

今回の依頼名:侯爵領対応能力確認

作戦費受領系統:

・灰橋町

・石場町

・中継町

報酬管理符号:黒4・石7・灰3

地方帳簿回収周期:7日

帳簿回収経路:

・薬材商

・石材商

・街道宿

部下死亡時補償:分割送金

失敗時処理:

・実働班登録抹消

・連絡口閉鎖

・補償停止

家令府関係資金符号:上環

ディートリヒとの関係:

・正規調査時に面識あり

・裏仕事の直接命令なし

公爵本人の関与:不明

裏帳簿本体の所在:不明

解読可能範囲:一部

----------------------------------

 

 澪は表示を見つめた。

 

 名前が出た。

 

 ディートリヒ。

 

 だが、その名の横には、直接命令なしとある。

 

 資金符号は知っている。

 

 人の顔も知っている。

 

 それでも、誰が毒や放火を決めたのかまでは知らない。

 

「知っているようで、全部は知らないんですね」

 

「知りすぎた者を現場へ出さない仕組みです」

 

 真壁はブルーノではなく、記録された符号を見ていた。

 

「上環……」

 

 ヴァルトがいれば、王都の会計符号と照らせる。

 

 だが今はまだ、ただの断片に過ぎない。

 

 澪は鑑定を終えた。

 

 眠るブルーノは、何も知らないままだった。

 

 自分の中に隠していた情報の一部が、すでに紙へ移されたことも。

 

 

 

 

 

 押入商会侯爵領事業所の会議室には、朝から帳簿が積み上げられていた。

 

 灰橋町の押収資料。

 

 石場町の旧計量所から運ばれた記録。

 

 第186話でブルーノから回収した小型帳面。

 

 侯爵家の会計文官が、革表紙へ指を滑らせた。

 

「これは帳簿ではありません」

 

「数字が並んでいますが」

 

 澪が言うと、文官は困った顔で首を振った。

 

「金額と一致しないのです」

 

 小型帳面には、数字と鎖のような印しかなかった。

 

 黒い輪。

 

 白抜きの輪。

 

 三角を抱えた輪。

 

 横線を含む輪。

 

 最後だけ逆向きになった鎖。

 

 数字の横には、黒、石、灰という短い符号がある。

 

「商会暗号ですか」

 

 真壁がヴァルトを見る。

 

「一般的なものではありません」

 

 ヴァルトは帳面を傾け、光の角度を変えた。

 

「金額そのものではなく、別の記録を指しているように見えます」

 

 文官が灰橋町の帳簿を開いた。

 

「小型帳面の『43』に近い支出はありません」

 

「近いではなく、分けてみてください」

 

 真壁が言った。

 

「分ける?」

 

「同じ時期の支出を」

 

 文官は該当する週を調べた。

 

 渡し場補修費18。

 

 荷車損失補填12。

 

 臨時警備費13。

 

 指で1つずつ追い、最後に顔を上げる。

 

「43……」

 

 部屋の空気が少し変わった。

 

 別の数字。

 

「61」

 

 今度は石場町の記録を開く。

 

 石粉処理費20。

 

 工具修繕費16。

 

 臨時運送費25。

 

 合計61。

 

「1件を3件へ分けている」

 

 真壁が小型帳面と表帳簿を並べた。

 

「しかも、別の部署へ」

 

 文官は唇を引き結んだ。

 

「各支出は単独なら不自然ではありません。帳簿上の合計も合っています」

 

「金も実際に動いているのでしょう」

 

「はい」

 

「では、嘘なのは金額ではない」

 

 真壁の指が、支出名目を順に叩いた。

 

「用途です」

 

 ヴァルトが鎖印を見つめた。

 

「この帳面は、裏支出を直接書いていない」

 

「では何を」

 

 澪の問いに、ヴァルトは灰橋町と石場町の記録を近づけた。

 

「どの表帳簿を足せば、本当の支出になるかを示す索引です」

 

 裏帳簿が別にあるのではない。

 

 表帳簿同士が、見えない鎖でつながっている。

 

 その事実が見えた瞬間、積み上がった紙の重さまで変わったように感じられた。

 

 

 

 

 

 灰橋町の記録には、何度も見た名目が並んでいた。

 

 橋脚補修。

 

 渡し舟維持。

 

 夜間警備。

 

 泥濘対策。

 

 荷車損失補填。

 

 どれも、橋と街道を管理する町なら必要になり得る支出だった。

 

 だが、小型帳面の横線を含む鎖印と数字を合わせると、別の姿が現れた。

 

「この補修費と警備費を足すと、鎖帳面の灰3になります」

 

 文官が読み上げる。

 

 ヴァルトは以前の供述書を開いた。

 

「灰3は、案内役と口止めへ使う符号です」

 

 泥場へ荷車を誘導した者。

 

 渡し場の事故を広めた者。

 

 役人へ口止め料を渡した者。

 

 黒鎖商会の連絡員。

 

 町外へ情報を運ぶ者。

 

 以前の捜査では、それぞれの支出が不自然だとは分かっていた。だが、どの金が誰へ渡ったのか、線を引けなかった。

 

 小型帳面は、その欠けていた線だった。

 

「灰橋町の件は、地方商人の独断ではなかった」

 

 レオンハルトが言う。

 

「少なくとも、今回と同じ資金管理方式を使っています」

 

 真壁は断定を少しだけ狭めた。

 

 澪は、その慎重さが必要だと分かっていた。

 

 似ている。

 

 つながっている。

 

 だが、同じ命令者とはまだ限らない。

 

 

 

 

 

 石場町の資料を開くと、紙の間から石粉が落ちた。

 

 旧計量所で保管されていた帳簿には、砕石運送、石臼交換、警備塔修理、害獣対策、工具修繕といった項目が並んでいた。

 

 鎖印の三角形を含む輪と照合する。

 

 壊れた石臼の交換費。

 

 警備塔修理費。

 

 害獣対策費。

 

 それらを組み合わせると、魔物寄せ魔道具の購入と設置に使われた金額になる。

 

「こちらは灰橋町からの繰越です」

 

 文官が余白の数字を示した。

 

 灰橋町で使い切らなかった資金が、石場町へ移されている。

 

 石場町で使い切らなかった資金が、さらに別の鎖へ移る。

 

 毒物。

 

 火付け油。

 

 眠り薬。

 

 通信具。

 

 第186話の実働作戦で使われた装備費へ。

 

「事件が終わっても、お金は残っていたんですね」

 

 澪は余白に記された繰越額を見つめた。

 

「組織にとって、失敗した作戦も残高です」

 

 真壁の声は淡々としていた。

 

 灰橋町で誰かが道を失い、石場町で魔物が引き寄せられ、領都でエーミルが毒に倒れた。

 

 別々の事件に見えていたものが、残高という冷たい数字でつながっていた。

 

 

 

 

 

 ヴァルトは、通信魔道具の認証日を帳簿の横へ書き並べた。

 

「7日です」

 

 澪が覗き込む。

 

「何がですか」

 

「帳簿の回収。中継石の認証。地方商会の締め日。全部7日ごとです」

 

 灰橋町。

 

 石場町。

 

 中継町。

 

 名目の違う支出が7日間隔で締められている。

 

 その翌日、黒鎖商会王都支店の帳簿へ、預り金、共同仕入れ精算、運送差額調整という名目でまとめ直されていた。

 

「鎖の輪は、1回の精算です」

 

 ヴァルトが小型帳面の印へ指を置いた。

 

「場所ではなく、周期ですか」

 

「場所と周期の両方です。輪を1つ通るごとに名義と用途が変わる」

 

 輪の数は中継回数。

 

 黒い輪は黒鎖商会内部。

 

 白抜きの輪は代理商会。

 

 三角は石場町。

 

 横線は灰橋町。

 

 そして最後だけ逆向きになった輪。

 

「これは」

 

 澪が尋ねる。

 

「外部から資金が入った印だと思います」

 

 ヴァルトの声が少し低くなった。

 

「黒鎖商会の売上だけではありません」

 

「別の出資元がいる」

 

 真壁が言った。

 

 ヴァルトは頷いた。

 

 

 

 

 

 王都の黒鎖商会本店では、ヘルムートが報告を待っていた。

 

 確認信号を3度送った。

 

 返事はない。

 

 街道宿の中継石も、正規の符号を返さなかった。

 

 ブルーノ班が死んだか、捕らえられたか、通信具を失ったか。

 

 どれであっても、同じ判断になる。

 

「ブルーノ班の符号を失効させろ」

 

 帳簿担当が顔を上げた。

 

「未払い報酬は」

 

「凍結」

 

「家族補償は」

 

「別帳簿へ移せ」

 

「支払いますか」

 

 ヘルムートは一度だけ視線を向けた。

 

「任務は完了していない」

 

「ですが、拘束された者が自害した場合は」

 

「完了報告がない」

 

 帳簿担当は口を閉じた。

 

「支払い理由がない」

 

 冷たい判断だった。

 

 だがヘルムートにとっては、感情ではなく損失処理だった。

 

 街道宿の石箱を撤去。

 

 灰橋町系統の支払口を閉鎖。

 

 石場町系の帳簿を焼却。

 

 第4環を王都から移動。

 

 地方商人へ、ブルーノは黒鎖商会の者ではないと証言させる。

 

 命令は短く、次々に出された。

 

 最後に、ディートリヒへ送る報告書を自ら確認する。

 

 毒。

 

 放火。

 

 誘拐。

 

 自害命令。

 

 それらは全て削った。

 

 残したのは2行だけ。

 

 侯爵領調査班との連絡途絶。

 

 地方協力者拘束の可能性。

 

 ヘルムートは封蝋を押した。

 

 証拠を切る時、最初に切るのは人間だった。

 

 

 

 

 

 ブルーノは、面談室へ連れてこられた時も顔を上げなかった。

 

 両手は枷でつながれ、背後には騎士が2人立っている。

 

 机の向こうにはレオンハルト。

 

 その隣に真壁と澪。

 

 文官は壁際で記録を取る。

 

「所属と命令者を答えろ」

 

 レオンハルトが尋ねた。

 

 ブルーノは黙ったままだった。

 

 真壁は急かさず、机へ報酬袋を置いた。

 

 次に通信具。

 

 小型帳面。

 

 自害毒。

 

 灰橋町の支払記録。

 

 石場町の支払記録。

 

 1つずつ、間を置いて並べていく。

 

「会頭はあなたを切りました」

 

 ブルーノが鼻で笑った。

 

「そう思わせたいのか」

 

「思わせる必要はありません」

 

 真壁は通信具の認証番号を示した。

 

「あなたの班符号は失効しています」

 

 ブルーノの笑みは消えなかった。

 

「偽造だ」

 

「報酬口も閉じています」

 

「それも作れる」

 

「第4環は移動しました」

 

 ブルーノの目が僅かに動いた。

 

 真壁は小型帳面の更新印を指した。

 

「次回の家族補償も停止しています」

 

 今度は、ブルーノが何も言わなかった。

 

 認証番号。

 

 更新印。

 

 補償符号。

 

 どれも外部の人間が簡単に作れるものではない。

 

「あなたは、自分だけでなく部下にも約束した」

 

 真壁は声を荒らげない。

 

「その約束を、会頭は支払わない」

 

「黙れ」

 

 ブルーノが初めて強い声を出した。

 

 真壁はそれ以上責めなかった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 ブルーノの指が、枷の中でゆっくり握られた。

 

 毒を渡した部下。

 

 自害用の小瓶を受け取った通信担当。

 

 家族へ金が行くなら、と笑った放火役。

 

 ブルーノは彼らへ約束した。

 

 自分たちは捨て駒ではないと。

 

 死んでも残るものがあると。

 

「侯爵家では、全員を同じ罪として扱わない」

 

 レオンハルトが言った。

 

「毒を使った者。火を放った者。子どもをさらおうとした者。命令を出した者。それぞれの行為を分けて審理する」

 

 ブルーノは顔を上げた。

 

「協力すれば、無罪になると?」

 

「ならない」

 

 レオンハルトは即答した。

 

「犯した罪は残る。ただし、捜査協力と正式証言は量刑判断へ明記する」

 

「死刑を免れると約束するのか」

 

「約束はしない。減刑を侯爵へ上申する」

 

 できることだけを示す。

 

 できないことは言わない。

 

「部下は」

 

「個別に審理する」

 

「家族は」

 

「罪人として扱わない。黒鎖商会から報復される危険があれば、侯爵領内にいる者は守る。領外については可能な範囲で保護する」

 

 ブルーノは条件書へ目を落とした。

 

 長い沈黙だった。

 

 澪には、部屋の外で騎士が歩く音まで聞こえた。

 

「部下の家族へ手を出させないこと」

 

 ブルーノが言った。

 

「侯爵領内なら守る」

 

「外は」

 

「できない約束はしない」

 

 レオンハルトの返答に、ブルーノは目を閉じた。

 

 やがて、枷の鎖が小さく鳴った。

 

「……話す」

 

 

 

 

 

 ブルーノは、枷を付けたまま証拠確認室へ連れてこられた。

 

 小型帳面が目の前へ置かれる。

 

 真壁、澪、ヴァルト、レオンハルト、会計文官、記録文官。

 

 誰も彼を信用してはいない。

 

 だからこそ、1つ説明するたびに別の資料と照合する。

 

「黒い輪は商会内部の金だ」

 

 ブルーノが指を動かす。

 

「白抜きは代理商会。三角は石場町系統。横線は灰橋町系統」

 

「点は」

 

「2つなら実働費。3つなら役人か貴族家関係者への支払い」

 

 文官が記録する。

 

「最後だけ逆向きの輪は」

 

「外から入った金だ」

 

 ヴァルトが顔を上げる。

 

「外部出資元」

 

「そうだ」

 

「輪の外側の短い刻みは」

 

 ブルーノは少し迷った。

 

「承認者の役職だ」

 

「これは会頭の印ではありませんね」

 

 ヴァルトが最上位の刻みを示した。

 

 ブルーノは頷いた。

 

「会頭の印は別にある」

 

「この印がある時は」

 

 真壁が尋ねる。

 

「会頭は残高を気にしない」

 

「損失を商会が負わない」

 

「依頼主が別にいる」

 

 部屋が静まった。

 

 ヴァルトは刻みを見つめた。

 

「王都の貴族家会計で、家令決裁を示す省略記号に似ています」

 

「ディートリヒですか」

 

 澪が尋ねる。

 

「まだ断定できません。複数の家で似た形式を使います」

 

 ヴァルトは慎重だった。

 

「正式な支払記録と照合する必要があります」

 

 

 

 

 

 ヴァルディス侯爵家が正規の経路で入手していた王都側の支払資料が運び込まれた。

 

 ローゼンベルク公爵家家令府から黒鎖商会へ支払われた名目は、どれも合法に見えた。

 

 市場調査費。

 

 街道流通調査費。

 

 侯爵領技術調査費。

 

 魔術師所在確認費。

 

 薬材価格調査費。

 

「これだけなら、問題はありません」

 

 会計文官が言う。

 

「公爵家が商会へ調査を依頼すること自体はあり得ます」

 

 だが、支払日の翌日から7日以内に、同額が細分化されていた。

 

 灰橋町。

 

 石場町。

 

 中継町。

 

 実働班装備費。

 

 毒物調達費。

 

 偽造札作成費。

 

 数字が一致する。

 

 7日周期も一致する。

 

 家令決裁符号。

 

 逆向きの鎖印。

 

 ブルーノの供述。

 

 通信具の認証更新日。

 

 地方帳簿の精算日。

 

 1つずつでは弱い。

 

 だが、全てを重ねると、同じ方向へ線が伸びた。

 

「資金は家令府から出ている」

 

 アルベルトが資料を見た。

 

「だが、毒や誘拐を命じた証拠ではない」

 

 レオンハルトが言う。

 

「ええ」

 

 真壁は頷いた。

 

「金の鎖はつながりました」

 

 彼はまだ何も書かれていない余白へ視線を移した。

 

「命令の鎖は、まだ途中です」

 

 

 

 

 

 ディートリヒは、ヘルムートから届いた報告書を読み終えると、別の支出表を引き寄せた。

 

 侯爵領調査班との連絡途絶。

 

 地方協力者拘束の可能性。

 

 調査継続には追加費用が必要。

 

 文章は簡潔だった。

 

 簡潔すぎた。

 

 調査費の内訳へ目を移す。

 

 特殊通信石。

 

 油。

 

 毒材。

 

 偽造札用の封蝋。

 

 眠り薬。

 

 拘束布。

 

 市場調査に必要な量ではない。

 

「何をした」

 

 向かいに座るヘルムートは、表情を変えなかった。

 

「侯爵領の警備能力を確認しました」

 

「私は調査を命じた」

 

 ディートリヒの指が、支出表の上で止まる。

 

「戦争を始めろとは言っていない」

 

「調査に必要な範囲です」

 

「毒もか」

 

 ヘルムートは答えなかった。

 

 答えないことが、答えになっていた。

 

 ディートリヒは椅子の背へ身を預けた。

 

 公爵家の金が使われた。

 

 自分の決裁印がある。

 

 だが、どこまでが調査で、どこからがヘルムートの独断なのか。

 

 今ここでヘルムートを切れば、黒鎖商会は証拠を抱えたまま暴れる。

 

 庇えば、公爵家ごと沈む。

 

 ブルーノを切った男が、今度は自分の前で切られる側へ回ろうとしていた。

 

「帳簿を持ってこい」

 

 ディートリヒが言った。

 

「どの帳簿でしょう」

 

「全てだ」

 

 ヘルムートの目が、初めて僅かに細くなった。

 

 

 

 

 

 ヴァルディス侯爵家の会議室では、資金経路図が机いっぱいに広げられていた。

 

 確定した線。

 

 帳簿で確認できた線。

 

 通信記録で確認できた線。

 

 ブルーノの供述しかない線。

 

 合理的推定。

 

 未確認。

 

 色と線種を分けている。

 

 灰橋町。

 

 石場町。

 

 中継町。

 

 黒鎖商会地方拠点。

 

 王都本店。

 

 ローゼンベルク公爵家家令府。

 

「すぐ抗議すれば、証拠を消される」

 

 アルベルトが言った。

 

「はい」

 

 真壁は複数の地点へ同じ印を付けた。

 

「一か所だけ押さえれば、残りが逃げます」

 

「鎖は1つずつ切らない、か」

 

 レオンハルトが地図を見た。

 

「ええ」

 

 真壁は灰橋町、石場町、街道宿、地方倉庫、帳簿回収役へ順に指を置く。

 

「切る前に、両端を持ちます」

 

「同時捜索の準備を」

 

 アルベルトが命じた。

 

「作戦を知る者は絞る。王都側へも漏らすな」

 

 レオンハルトが頷く。

 

 帳簿の鎖は見えた。

 

 次は、それを握っている者が逃げる前に押さえる。

 

 

 

 

 

 ルーカスの線も、同じ中継町へつながっていた。

 

 情報収集班と実働班は別系統。

 

 ルーカスは毒も放火も誘拐も知らなかった。

 

 だが、報告も経費も、最後には同じ7日周期の鎖帳簿へ集まっている。

 

「本人へ伝えるべきではありませんか」

 

 セルマは押入商会侯爵領事業所の会議室で、真壁を見た。

 

「知らないまま、また報告させるんですか」

 

「いつまでも利用するつもりはありません」

 

「では」

 

「次の報告までは待ちます」

 

 セルマの表情は硬いままだった。

 

「その間に、あの子がまた何かを渡したら」

 

「本物の情報は渡りません」

 

「そういう問題ではありません」

 

 セルマの声には、工房長としての怒りがあった。

 

 真壁は否定しなかった。

 

「選ぶ機会は残します」

 

「ですが、選ばせる時はこちらが決めます」

 

「あなたが?」

 

「侯爵家と、あなたと相談して」

 

 セルマはすぐには納得しなかった。

 

 それでも、今動けば報告経路が切れることは理解している。

 

「次の報告までです」

 

「ええ」

 

「それ以上は待ちません」

 

「承知しました」

 

 

 

 

 

 真壁と澪が現代側へ戻った時、六畳間は妙に静かだった。

 

 異世界では、毒物、裏帳簿、司法取引、公爵家家令府の資金まで扱っていた。

 

 こちらでは、冷蔵庫の低い音と、外を走る車の音がする。

 

 澪が鞄を置いたところで、スマートフォンの通知に気づいた。

 

 明石税理士事務所。

 

 留守番電話を再生する。

 

『篠原さん、お疲れ様です。もうすぐ12月です。11月分の納品書と領収書、それから年内購入予定の設備一覧をお願いします』

 

 澪は画面を見たまま固まった。

 

「……領収書」

 

 真壁が上着を脱ぎながら振り返る。

 

「年末ですな」

 

「さっきまで裏帳簿を追っていたんですよ」

 

「こちらは表帳簿です」

 

「逃げられない点は同じですね……」

 

 真壁は机の上に積まれた現代側の書類を見た。

 

「帳簿からは逃げられません」

 

 澪は、異世界の鎖印よりも先に、鞄の底へ押し込んだ領収書の束を思い出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。