押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第188話 魔術師たちの選択

 

 

 押入商会侯爵領事業所の会議室には、夜になっても紙と蝋燭の匂いが残っていた。

 

 灰橋町、石場町、北東街道宿、黒鎖商会の地方拠点、そして王都。机いっぱいに広げられた地図の上を、色の違う細紐が幾重にも走っている。確実な支払い、帳簿上の一致、通信記録、ブルーノの供述。証拠の強さによって紐の色を変えた結果、机の上には複雑な蜘蛛の巣ができていた。

 

 会議はすでに終わっている。

 

 アルベルトとレオンハルトは、一斉捜索の準備を進めるため侯爵邸へ戻った。澪も、翌朝の商会業務と監視担当への引き継ぎを確認するため席を外している。

 

 ヴァルトは、王都へ伸びる最後の紐を指先で押さえていた。

 

 細い。

 

 細いが、切れてはいない。

 

 家令府から黒鎖商会へ流れた調査費。その後に細分化され、地方へ送られた資金。金の流れは追える。だが、その金を受け取った王都側の人間が何を知り、何を隠し、何を消そうとしているのかまでは分からなかった。

 

 扉が閉まる音がした。

 

 ヴァルトが顔を上げると、真壁が会議室へ戻ってきたところだった。片手には新しい紙筒を抱えている。

 

「まだ休まれていなかったのですか」

 

「君もでしょう」

 

 真壁は机の空いた部分へ紙筒を置き、中から王都の市街図を取り出した。

 

 王都魔術院。

 

 ローゼンベルク公爵邸。

 

 黒鎖商会本店。

 

 主要な市場と宿場。

 

 ヴァルトには、見慣れた名が多すぎた。

 

 胸の奥へ、古い冷気が戻ってくる。

 

 王都の冬の朝。魔術院の石廊下。書類を抱えて急ぐ若手。研究室の扉を開けても、誰もこちらを見なかった日。自分がいなくなれば仕事が止まると知りながら、その仕事を分ける相手を育てられなかった年月。

 

「王都へ行きます」

 

 真壁は地図を見たまま言った。

 

 ヴァルトの指が、王都魔術院の紋章の上で止まった。

 

「侯爵家の正式な使者として、ですか」

 

「いいえ」

 

 真壁は短く答えた。

 

「調べに行きます」

 

 蝋燭の炎が揺れた。机上の細紐が、黒い影を伸ばす。

 

「正規の照会を出せば、帳簿を整理する時間を与えます。捜索命令を待てば、連絡役が消える。先に、何が残っているかを確認したい」

 

「潜入ですか」

 

「ええ」

 

 真壁はそこで初めてヴァルトを見た。

 

 いつもなら、必要なことを決め、相手の役割を告げる。その声に迷いはほとんどない。

 

 だが今夜は、言葉を置くまでに僅かな間があった。

 

「君を誘うのは、心苦しい」

 

 ヴァルトは返事をしなかった。

 

 真壁の口から、そのような言葉が出るとは思っていなかった。

 

「王都は君の過去です。会いたくない者もいるでしょう。顔を知られている者も多い。正体が露見すれば、侯爵領へ戻れない可能性もある」

 

 真壁の視線が地図へ落ちる。王都の輪郭を指でなぞることもせず、ただそこにある危険を確かめるように見ていた。

 

「断って構いません。アルベルト殿にも、別の手段を探すと伝えます」

 

 断っていい。

 

 その言葉に安堵するはずだった。

 

 王都へ戻りたくない。その気持ちは偽りではない。ようやく手に入れた名前と仕事と居場所を、昔の自分へ引き戻されたくなかった。

 

 だが、真壁は地図を巻き戻さなかった。

 

「ですが」

 

 静かな声が続いた。

 

「君なしではできません」

 

 ヴァルトは真壁を見た。

 

「私には、王都の魔術師がどの言葉を恐れ、どの印を信用し、どの沈黙を隠蔽と呼ぶのか分からない。商会の帳簿も、貴族家の決裁符号も、魔術院の保管規則も知らない」

 

 真壁は、言いにくいことを飾らなかった。

 

「境界魔術も必要です。しかし、それだけではありません」

 

 ヴァルトの胸が強く打った。

 

「王都で、誰が命令に従っているだけなのか。誰が利益を求めているのか。誰が本当に迷っているのか。それを見分けられるのは君です」

 

 才能を求められたことはある。

 

 解析結果を求められたこともある。

 

 誰も解けない術式を押しつけられ、「クライン師ならできる」と言われたことも何度もあった。

 

 だが、それはヴァルトでなくてもよかった。

 

 同じ能力を持つ誰かがいれば、そちらでもよかったはずだ。

 

 今、真壁は魔術ではなく、自分が見てきたもの、自分が傷ついた場所、自分が持つ判断そのものを必要だと言っている。

 

「力を貸してください」

 

 真壁が頭を下げた。

 

 ヴァルトは、すぐに答えられなかった。

 

 喉の奥が狭くなり、息が熱を持つ。王都で失ったものを、侯爵領で拾い直したつもりだった。だが本当は、失ったと思い込んだまま、見ないようにしていただけなのかもしれない。

 

「……そこまで言われて、断れると思いますか」

 

 声が少し掠れた。

 

 真壁が顔を上げる。

 

「参ります」

 

 ヴァルトは王都の地図へ手を置いた。指先は震えていたが、引っ込めなかった。

 

「私も、王都に残したものを見なければなりません」

 

 真壁は短く頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし」

 

 ヴァルトは目元の熱をごまかすように、わざと厳しい声を作った。

 

「絶対に死なないでください。私を王都へ連れて行って、途中でいなくなるのは認めません」

 

「そのつもりです」

 

「私も死にません」

 

「ええ。帰るまでが仕事です」

 

 あまりにも真壁らしい返事だった。

 

 ヴァルトは笑った。胸の奥に残っていた冷気が、少しだけ薄くなった。

 

 

 

 

 

 翌朝、採石場秘密基地の作業台には、武器よりも衣服が多く並んでいた。

 

 くたびれた外套。染め直した革帽子。王都の中級商人が好む灰褐色の上着。使い込まれた帳面袋。荷物の重さを誤魔化すための空箱。市場で買ったばかりには見えない靴。

 

 真壁は服を選びながら、縫い目と汚れの位置まで確認していた。

 

「変装というより、生活歴を作っているように見えます」

 

 ヴァルトが言うと、真壁は外套の袖口を指で擦った。

 

「新しい服を着た旅商人は目立ちます。荷を扱う者なら、袖の内側が先に擦れる」

 

「王都の衛兵は、そこまで見ませんよ」

 

「見ない者が多いだけです」

 

 隣では澪が、小型ドローンの羽根を1枚ずつ確認していた。黒く塗られた機体は手のひらへ収まるほど小さく、灯りを落とした場所では輪郭さえ見失いそうだった。

 

「予備バッテリーは収納の右側です。映像記録は本体と収納内端末の両方へ残るようにしてあります」

 

「助かります」

 

 真壁が受け取る。

 

 澪は手を離した後も機体を見ていた。

 

「私も行った方がよくないですか。鑑定も使えますし」

 

「侯爵領側の確認役が必要です」

 

「それは分かっていますけど」

 

 澪の視線がヴァルトへ移る。

 

「無理をしないでくださいね」

 

「はい」

 

「真壁さんが無理を始めたら止めてください」

 

「それは私の役目ですか」

 

「王都ではヴァルトさんの方が詳しいでしょう」

 

 真壁が口を挟む。

 

「私は無理をしません」

 

 澪とヴァルトが同時に真壁を見た。

 

 僅かな沈黙の後、澪がドローンの予備部品をもう1組収納へ入れた。

 

「念のため増やします」

 

「なぜでしょう」

 

「念のためです」

 

 真壁は反論しなかった。

 

 装備の確認が終わると、ヴァルトは境界魔術の準備へ移った。

 

「姿そのものを作り替えるわけではありません」

 

 ヴァルトは真壁の周囲へ、糸のように細い魔力線を巡らせた。

 

「人は、見たものを全て正確に覚えているわけではない。髪の色、声、背丈、服装、歩き方。いくつかの特徴をまとめて、同じ人物だと判断します」

 

「その結び付きを切る」

 

「少しずらします」

 

 ヴァルトが指を動かすたび、真壁の輪郭は変わらないのに、受ける印象だけが曖昧になっていく。黒髪はそのままのはずなのに、灯りの下では濃い灰色にも見えた。姿勢も変えていないはずなのに、背丈が少し低くなったように感じる。

 

 澪が目を細めた。

 

「真壁さんだと分かるのに、似ている別の人にも見えます」

 

「それが境界です。見えているものと、認識するものの間に境目を作る」

 

「触れば分かりますか」

 

「骨格は変わりません。長く見続けられれば違和感も積み上がります。鑑定にも耐えません」

 

 真壁は鏡の前で顔の角度を変えた。

 

「十分です」

 

「維持する私の負担は、十分ではありませんが」

 

「休憩を入れます」

 

「潜入中に言ってください」

 

 ヴァルト自身にも境界を重ねる。

 

 王都魔術院のオスヴァルト・クラインではない。少し猫背で、髪の薄い旅商人。声は低く、視線を合わせるのが苦手そうな男。

 

 鏡に映る自分を見ても、ヴァルトには奇妙な感覚しかなかった。

 

 顔を変えて王都へ戻る。

 

 以前なら、それを逃亡の続きだと思っただろう。

 

 今は違う。

 

 隠れるためではない。持ち帰るためだ。

 

 

 

 

 

 転移の光が消えた時、王都近郊の古い荷置き場には、乾いた藁と土の匂いが満ちていた。

 

 壁の一部が崩れ、朝の光が斜めに差し込んでいる。登録されていた安全地点は、以前ヴァルトが境界課の調査で使った施設だった。今は使われていないらしく、床には新しい足跡がない。

 

 ヴァルトは息を吸った。

 

 冷たい。

 

 王都の冬は侯爵領より乾いている。石壁と煤煙が混じった匂い。遠くから聞こえる朝鐘。その響き方まで覚えていた。

 

「大丈夫ですか」

 

 真壁が尋ねた。

 

「はい」

 

 答えた声は、境界で変えた他人の声だった。

 

 荷置き場を出ると、王都の外郭街が広がっていた。

 

 パンを運ぶ荷車。水桶を担ぐ少年。門前で旅人の荷を調べる衛兵。煤で黒くなった煙突から、朝の煙が幾筋も上がっている。

 

 王都は何も変わっていないように見えた。

 

 それが、かえって苦しかった。

 

 自分が消えても、露店は開き、鐘は鳴り、魔術院の学生は遅刻しそうな顔で坂を走る。

 

 青い縁取りの制服が目に入った。

 

 若い境界課の学生だった。

 

 抱えた紙束を落とし、友人に笑われながら拾っている。その姿に、ヴァルトは思わず足を止めかけた。

 

 昔の自分も、同じ坂を走った。

 

 初めて古代結界式を読めた日。徹夜で研究室へ戻り、誰かに話したくて仕方がなかった。だが扉を開けると、皆は別の議論をしていて、ヴァルトは結局、朝まで一人で補助線を書き続けた。

 

 真壁は振り返らなかった。

 

 立ち止まったヴァルトを急かしもしない。ただ一定の歩幅で、少し先を歩いている。

 

 待っていないようで、離れすぎない。

 

 ヴァルトは息を吐き、歩き直した。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「魔術院を見る道は避けられます」

 

「必要なら避けましょう」

 

「いいえ」

 

 ヴァルトは王都中央へ続く坂を見上げた。

 

「通ります」

 

 真壁はそれ以上尋ねなかった。

 

 

 

 

 

 午前の終わり、王都魔術院の会議室では、冷えた紅茶が誰にも飲まれないまま置かれていた。

 

 ジークフリートは、提出された報告書の同じ頁を3度読んでいた。

 

 侯爵領で増えたポーションの出荷量。

 

 薬草園の収穫改善。

 

 錬金術師育成工房の設備。

 

 弟子用宿舎と食堂。

 

 地方の職人や若い錬金術師が、王都ではなく侯爵領を選び始めているという記録。

 

「技術の囲い込みです」

 

 公爵派の出向魔術師が言った。

 

「このまま放置すれば、王都の錬金術師は材料も弟子も失います」

 

 オットーは、報告書から顔を上げた。

 

「王都へ残りたいと思わせられない側の問題ではありませんか」

 

 会議室の空気が硬くなる。

 

「地方へ人材が流れるのを喜べと?」

 

「喜べとは言っていません。原因を調べるべきだと言っています」

 

 オットーは、侯爵領の工房配置図を指で押さえた。

 

「住居、食堂、浴場、共用作業室、図書室。弟子が学ぶために必要なものが揃っている。王都では、工房へ入れなかった若者が何年も材料運びだけをさせられることもある」

 

「地方の宣伝を信じるのですか」

 

「だから視察が必要です」

 

 マティアスが間へ入った。

 

「強制介入ではなく、共同調査を提案する。教育設備とポーション生産を確認し、問題があれば王国へ報告する」

 

「オスヴァルト・クライン師がいる可能性もあります」

 

 その名が出た瞬間、マティアスの表情が僅かに強張った。

 

「ならば、本人へ確認する」

 

「魔術院の研究者です」

 

「人間だ」

 

 短い言葉が、広い会議室へ落ちた。

 

 ジークフリートは紅茶の表面に浮いた薄い膜を見た。公爵家から受けた役目。魔術顧問として守るべき利益。研究者として守りたいもの。

 

「侯爵領が技術者を強制的に拘束している証拠はありません」

 

 ジークフリートは報告書を閉じた。

 

「証拠がないまま制裁を求める意見には同意できない」

 

 出向魔術師の視線が鋭くなる。

 

「公爵家の意向に逆らうのですか」

 

「私は、分からないものを壊すために魔術を学んだのではありません」

 

 会議室の沈黙が、それまでとは違う質へ変わった。

 

 後戻りのできない言葉だった。

 

 マティアスも、オットーも目を逸らさなかった。

 

 

 

 

 

 真壁が最初のドローンを飛ばしたのは、昼の市場に人が増えた頃だった。

 

 果物商の荷車の陰。真壁は値札を眺めるふりをしながら、掌の中から小さな機体を放つ。

 

 羽音は市場のざわめきに紛れた。

 

 ドローンは布屋の庇を越え、煙突の脇を抜け、鐘楼の高さまで上がる。

 

 収納内の端末に、王都の屋根が映った。

 

 灰色と赤褐色の瓦。細い路地。商館の中庭。公爵邸の高い塀。王都魔術院の白い塔。

 

「あの黒い屋根が黒鎖商会本店です」

 

 ヴァルトは端末を覗き込み、迷わず指した。

 

「正面の紋章は表向きのもの。実務部門は西棟です。帳簿室は日当たりを避けるため北側に置く」

 

「窓が少ない建物ですか」

 

「ええ。あの細長い棟です」

 

 真壁が映像を拡大する。

 

 荷車が裏門へ入っていく。積み荷は薬材箱に見えるが、御者は商会の制服を着ていない。

 

「あの印は」

 

 箱の隅に、小さな白い輪が描かれていた。

 

「代理商会です。黒鎖商会の名を表へ出さずに荷を動かす時の印です」

 

「昨夜の帳面と同じですな」

 

「はい」

 

 ドローンだけでは、白い輪が何を意味するか分からない。

 

 ヴァルトだけなら、裏門へ入った荷車の行き先を見られない。

 

 二人の間で、映像が情報へ変わっていく。

 

 真壁は市場の人波から自然に離れた。

 

「今夜、北棟へ入ります」

 

「正面ではなく、隣の印刷工房から屋根へ上がれます。昔、帳票用紙を納める業者が使っていました」

 

「今も使えるでしょうか」

 

「確かめます」

 

 ヴァルトは、自分が役に立っていることを嬉しいと思った。

 

 その感情に気づき、少し戸惑う。

 

 王都の知識は、ずっと捨てたい過去だった。

 

 今は真壁と並んで歩くための地図になっている。

 

 

 

 

 

 ローゼンベルク公爵邸では、クララが侍女の指へ薬を塗っていた。

 

「お嬢様、ご自分でなさらなくても」

 

「紙で切った傷は痛むでしょう」

 

「ですが」

 

「このくらいはできます」

 

 クララは小さな陶器の蓋を閉じた。机には魔術史の本と、途中まで解いた術式問題が広がっている。午前中は魔術院で講義を受け、午後は公爵家の来客名簿を読む予定だった。

 

 父の仕事を理解したい。

 

 いつか、公爵令嬢として領地の役に立ちたい。

 

 幼い頃からそう思っていた。

 

「また家令室から書類が来ています」

 

 侍女が机の隅へ封筒を置く。

 

「私宛てですか」

 

「いいえ。お間違えになったようです」

 

 封蝋には家令府の印があった。宛名は黒鎖商会会頭ヘルムート。

 

 侍女が持ち帰ろうとした時、クララは封筒の端に付いた黒い汚れへ気づいた。

 

 焼け焦げ。

 

「これは何でしょう」

 

「さあ……」

 

 最近、家令室では書類の焼却が増えている。

 

 夜遅くまで人が残り、使用人が近づくと扉を閉める。父へ尋ねても、「家令へ任せている」と穏やかに笑うだけだった。

 

 父を疑いたくはない。

 

 エアハルトは厳しい人だが、無意味に人を傷つける人物ではない。幼いクララが熱を出した夜、政務を止めて朝まで側にいた。その父が、誰かへ毒や火を向けるとは思えなかった。

 

 だからこそ、家令室で何が起きているのかを知らなければならない。

 

「私が届けます」

 

「お嬢様が?」

 

「間違って届いたのです。持っていくだけです」

 

 侍女は止めようとしたが、クララは封筒を手に取った。

 

 その紙の冷たさが、妙に手へ残った。

 

 

 

 

 

 夜の黒鎖商会北棟は、昼より静かだった。

 

 静かだからこそ、遠くの扉が閉まる音も、巡回員の靴底が床を擦る音も鮮明に聞こえる。

 

 ヴァルトは境界を薄く展開していた。

 

 透明になるわけではない。

 

 廊下の端に誰かがいると気づいても、視線がそこへ留まらない。商会の使用人か、夜番か、書類を運ぶ者か。判断する前に、意識が別のものへ流れる。

 

 維持するたび、こめかみの奥が重くなる。

 

 真壁が手を上げた。

 

 止まれ。

 

 角の向こうを巡回員が横切る。

 

 真壁は呼吸さえ変えない。目だけが動き、足音の間隔と、腰の鍵束と、戻る方向を見ていた。

 

 足音が遠ざかる。

 

「次は7分後です」

 

 ヴァルトが囁いた。

 

「なぜ分かります」

 

「黒鎖商会は巡回票を鐘の刻みで組みます。今の男は北棟と西倉庫を往復する役です。西倉庫で記録を付ける時間を入れると、そのくらいです」

 

「では6分で済ませます」

 

 帳簿室の鍵は真壁が収納した。

 

 鍵穴へ差し込む必要もない。扉から錠前だけが一瞬消え、音もなく開く。中へ入ると、真壁は同じ位置へ戻した。

 

 紙と革と防虫香の匂い。

 

 棚は天井近くまで続き、帳簿が年度と部門ごとに並んでいる。

 

 真壁は目の前の一冊へ手を伸ばしかけたが、ヴァルトが首を振った。

 

「それは見せる帳簿です」

 

「分かりますか」

 

「革紐が新しい。棚の埃も薄い。監査で出すために置かれています」

 

 ヴァルトは奥へ進み、棚板の高さが一段だけ違う場所で止まった。

 

「王都の商会は、支店間精算を通常帳簿と分けます。頻繁に出すので、腰より少し上へ置く」

 

 その棚には、地味な灰色の帳面が並んでいた。

 

 真壁が一冊ずつ収納へ移す。

 

 帳面は消えたままにしない。収納内の撮影台で頁を固定し、小型カメラが高速で記録する。撮影が終わると、革の向き、紐の結び目、頁の開き癖まで合わせて戻す。

 

 ヴァルトは決裁印を確認した。

 

 黒鎖商会内部資金。

 

 代理商会。

 

 地方精算。

 

 そして、外部から入った金を示す逆向きの輪。

 

「あります」

 

 ヴァルトの声が僅かに震えた。

 

 真壁が隣へ来る。

 

 帳面の端に、家令府決裁で使う古い省略刻みがある。ただし、誰が押したかを示す個人印はない。

 

「家令府の資金であることは補強できます」

 

「命令内容は」

 

「ここにはありません」

 

「十分です。帳簿は金の流れを語らせればよい」

 

 廊下で音がした。

 

 予定より早い。

 

 ヴァルトが振り返る。巡回員の魔力反応が近づいている。1人ではない。

 

「何か起きています」

 

 真壁は最後の帳面を戻し、撮影機材を収納した。

 

 扉の外で男の声がする。

 

「会頭命令だ。今夜中に北棟の記録を移す」

 

「どこへ」

 

「家令府の確認が入る前に西倉庫へ」

 

 真壁とヴァルトは顔を見合わせた。

 

 証拠隠滅が始まっている。

 

 真壁は窓へ視線を向けた。

 

 外側には細い庇があり、その先は隣の印刷工房の屋根へ続く。

 

「出ます」

 

 ヴァルトが境界を強める。

 

 扉が開く直前、2人は窓から庇へ移った。冷たい夜風が外套を叩く。真壁が窓枠を元の状態へ戻した時、帳簿室へ複数の男が入った。

 

 屋根の上で、ヴァルトは息を吐いた。

 

「あと少し遅ければ」

 

「遅くありませんでした」

 

 真壁は伏せた姿勢のまま、小型ドローンを放つ。

 

「彼らがどこへ運ぶか見ます」

 

 

 

 

 

 帳簿を積んだ荷車は、黒鎖商会の倉庫へ向かわなかった。

 

 ドローン映像の中で、車は公爵邸の裏手へ続く通りへ入っていく。

 

「家令府の通用門です」

 

 ヴァルトが言った。

 

「黒鎖商会が証拠を預けに行くのですか」

 

「逆かもしれません。家令府が、自分たちの支払記録と照合するために呼んだ可能性もあります」

 

「どちらにせよ、見る必要があります」

 

 2人は地上へ降り、距離を保って荷車を追った。

 

 路地を2つ曲がったところで、ドローンの映像に別の動きが映った。

 

 公爵邸の側門から、若い女性が出てくる。

 

 上質だが目立たない外套。侍女も護衛もいない。胸元には公爵家の小さな紋章。

 

 ヴァルトは歩みを止めた。

 

「クララ様です」

 

「公爵令嬢の」

 

「はい。なぜお一人で」

 

 クララは手に封筒を持ち、荷車が入った通用門へ近づいていた。

 

 門前にいた家令府の男が、彼女を見て表情を変える。

 

 クララが何かを尋ねる。

 

 男は笑顔で答えたが、背後へ回した手で別の者へ合図した。

 

「危険です」

 

 ヴァルトは声を低くした。

 

「まだです」

 

 真壁はドローン映像を見ている。

 

 男たちはクララをその場で襲わない。丁寧に頭を下げ、裏庭側の通路へ案内しようとしていた。

 

 クララは一歩進み、そこで止まった。

 

 何かに気づいたらしい。

 

 封筒を胸へ抱き、首を横に振る。

 

 男の手が彼女の腕へ伸びた。

 

「助けます」

 

 真壁の判断は早かった。

 

 

 

 

 

 クララは、家令府の男の笑顔が急に薄くなった瞬間、自分が間違えたと悟った。

 

「父上へお渡しします」

 

「閣下はお休みです。こちらで預かります」

 

「では明日にします」

 

「せっかくです。中で確認を」

 

 腕を掴まれる。

 

 強い力ではない。だが逃がすつもりがないことは分かった。

 

 クララは小さな防護魔術を展開し、男の手を弾いた。

 

 背後から別の足音が近づく。

 

 通りへ戻ろうとしたが、荷車が横付けされ、道を塞いだ。御者が荷台から降りる。顔を布で隠している。

 

「お嬢様、騒がれませんよう」

 

「父上は、このことをご存じなのですか」

 

 返事はなかった。

 

 それが何より恐ろしかった。

 

 クララは走った。

 

 裏庭から細い路地へ出る。石畳で靴が滑り、外套の裾が荷箱へ引っかかった。後ろの男たちは叫ばない。声を上げれば、公爵令嬢を追っていると周囲へ知られるからだ。

 

 無言の追跡が、かえって恐怖を増した。

 

 前方から空の荷車が来る。

 

 避ける場所がない。

 

 その時、頭上で何かが低く飛んだ。

 

 虫より大きく、鳥より小さい黒い影。

 

 次の瞬間、荷車の積み箱が1つだけ消えた。

 

 空いた隙間からクララの体が引かれる。

 

 誰かの手が肩へ触れた。

 

「こちらです」

 

 知らない男の声だった。

 

 クララが振り向くより先に、路地の景色が歪んだ。

 

 追手は真っ直ぐ走っているはずなのに、何度も同じ酒樽の横を通り過ぎる。クララからは、男たちがすぐ近くを走っているのに、こちらへ顔を向けないように見えた。

 

 煙が路地へ流れ込む。

 

 どこかで陶器が割れる音。

 

 追手の1人が短剣を抜いた。

 

 その短剣が手から消える。

 

「何だ」

 

 別の男が袖から毒針を出す。やはり消えた。

 

 屋根の上を黒い影が走り、男たちの位置を追っている。

 

 クララの横にいた人物が、彼女を荷車の陰へ導いた。

 

「走れますか」

 

「はい」

 

「大通りへ出れば、公爵家の紋章を見せて衛兵を呼んでください」

 

「あなた方は」

 

「今はお急ぎを」

 

 別の男が煙の向こうへ手を伸ばした。空だったはずの場所へ木箱が戻り、追手の進路を塞ぐ。

 

 クララは助けた者の顔を見ようとした。

 

 だが、目を向けても印象が定まらない。背が高かったようにも、低かったようにも見える。声も若いのか年を取っているのか分からない。

 

 ただ、2人いる。

 

 1人は周囲の全てを見ている。

 

 もう1人は、見えない何かを守るように手を広げている。

 

「行ってください」

 

 その声に押され、クララは大通りへ走った。

 

 振り返った時には、路地には煙と倒れた荷箱しか残っていなかった。

 

 

 

 

 

 境界を解いた瞬間、ヴァルトは壁へ手をついた。

 

 こめかみの奥が脈打ち、視界の端が白い。

 

「維持しすぎました」

 

 真壁が肩を支える。

 

「まだ歩けます」

 

「休みます」

 

「追手が」

 

「追っていません」

 

 真壁はドローンの映像を見せた。

 

 クララは大通りで衛兵へ保護されている。追手は武器を失い、路地で互いの責任を押し付け合っていた。

 

「クララ様は無事です」

 

 ヴァルトは息を整えた。

 

「正体を明かさなくてよかったのですか」

 

「今、彼女へ接触すれば選択を誘導します」

 

「助けた恩を使わないと」

 

「ええ」

 

 真壁は冷たい石壁へ背を預けた。

 

「彼女が何を見て、誰を信じるかは、彼女が決めることです」

 

 その言葉は、ヴァルト自身へも向けられているように聞こえた。

 

 王都へ来るかどうか。

 

 過去へ向き合うかどうか。

 

 真壁は必要だと言った。

 

 だが最後に選ばせた。

 

「真壁さんは、人を使うのが上手いのか、下手なのか分かりません」

 

「使った覚えはありません」

 

「そういうところです」

 

 ヴァルトは笑い、壁から体を離した。

 

「戻りましょう。撮影した資料を確認しなければ」

 

「歩けますか」

 

「君なしではできないのでしょう」

 

 真壁は僅かに目を細めた。

 

「ええ」

 

 その一言で、ヴァルトはもう一度歩けた。

 

 

 

 

 

 クララは自室へ戻った後も、外套を脱げずにいた。

 

 侍女が泣きそうな顔で肩や腕を確かめる。

 

「怪我はありません」

 

「お一人で出られるなんて」

 

「ごめんなさい」

 

 クララは素直に謝った。

 

 机の上には、届けるはずだった封筒が残っている。逃げる途中で落とさないよう、胸へ抱えていた。

 

 家令府の男たちは、なぜ自分を連れ込もうとしたのか。

 

 父は知っているのか。

 

 知らないのか。

 

 父へすぐ話すべきか。

 

 だが、家令府を信じている父へ、証拠もなく訴えて何になる。

 

 助けた2人は誰だったのか。

 

 あの見えない境界。

 

 消えた短剣。

 

 屋根を飛んだ小さな黒い影。

 

 分からないことばかりだった。

 

 クララは封筒を開けなかった。

 

 代わりに、封蝋の印と、紙の焦げ跡と、宛名を自分の帳面へ写す。

 

 次に、最近家令室へ出入りした商人の名を、記憶の限り書き出した。

 

 黒鎖商会。

 

 薬材商。

 

 街道流通調査。

 

 侯爵領。

 

 書き終えた時、指が震えていた。

 

 父を疑うためではない。

 

 父を信じ続けるためにも、何が起きているかを知らなければならない。

 

 クララは新しい頁を開いた。

 

 

 

 

 

 その夜、王都魔術院の会議室では、まだ灯りが消えていなかった。

 

 公爵派の出向魔術師が退出した後、ジークフリート、マティアス、オットーの3人が残っている。

 

「これで公爵家へ戻れば、私は顧問を外されるでしょう」

 

 ジークフリートは窓の外を見た。

 

「後悔していますか」

 

 オットーが尋ねる。

 

「研究者へ鎖を付ける側に立つよりは」

 

 マティアスは、机に置かれた共同調査の提案書を見た。

 

「オスヴァルトが侯爵領にいるとして」

 

 言葉が続かない。

 

 戻ってきてほしい。

 

 空いた机を埋めてほしい。

 

 止まった仕事を進めてほしい。

 

 その願いが、本人の意思を無視する理由になるのか。

 

「私は連れ戻したい」

 

 マティアスは正直に言った。

 

「だが、本人が戻らないと言った時に、拘束する側には立てない」

 

 オットーが提案書へ署名した。

 

「では、それも含めて確認しましょう」

 

「共同調査を正式に要求する」

 

 ジークフリートも署名する。

 

 最後にマティアスが筆を取った。

 

 3人の名が並ぶ。

 

 魔術院で働き続けるためには、黙っていた方が安全だった。

 

 それでも彼らは、知らないものを敵と決める道を選ばなかった。

 

 

 

 

 

 真壁とヴァルトが侯爵領へ戻った時、採石場秘密基地の時計は深夜を回っていた。

 

 澪が監視室で待っていた。

 

「遅いです」

 

「申し訳ありません」

 

「無事ならいいですけど」

 

 澪は2人の姿を見回し、ヴァルトの顔色で眉を寄せた。

 

「境界を使いすぎましたね」

 

「少しだけです」

 

「少しの顔ではありません」

 

 温かい飲み物を渡され、ヴァルトは両手で受け取った。王都では冷たい風と石の匂いばかりだった。湯気の向こうに澪と真壁がいるだけで、帰ってきたことが実感できる。

 

 撮影した資料を大型モニターへ映す。

 

 黒鎖商会の精算帳。

 

 外部資金の印。

 

 家令府の決裁刻み。

 

 帳簿移送の命令書。

 

 そして、家令府側が黒鎖商会へ全記録の提出を求めた短い文書。

 

「家令府が証拠を消そうとしているんでしょうか」

 

 澪が尋ねる。

 

「まだ分かりません」

 

 ヴァルトは文書の書式を見た。

 

「この文面は、焼却命令ではありません。帳簿を確認する命令です。ディートリヒ自身も、黒鎖商会が何をしたか調べ始めた可能性があります」

 

「公爵家内部も一枚岩ではない」

 

 真壁が言った。

 

「魔術院もです」

 

 ヴァルトは、遠くから見た白い塔を思い出した。

 

 誰が味方かは、まだ分からない。

 

 だが、王都にいる全員が敵ではなかった。

 

 クララは、自分で調べるだろう。

 

 ジークフリートたちも、黙り続ける人物ではない。

 

 真壁は、彼らを今すぐこちらへ引き込もうとはしなかった。

 

 選ぶ時間を残した。

 

「王都へ戻って、どうでしたか」

 

 澪が静かに尋ねた。

 

 ヴァルトは飲み物の表面に揺れる灯りを見た。

 

「怖かったです」

 

 正直に答えた。

 

「でも、行ってよかった」

 

 真壁は何も言わず、次の資料をモニターへ映した。

 

 ヴァルトはその横顔を見た。

 

 王都へ戻る勇気を与えたのは真壁だった。

 

 だが、歩いたのは自分だ。

 

 それでよかった。

 

 モニターの端で、王都魔術院からヴァルディス侯爵家宛ての正式文書が受信待ちを示していた。

 

 差出人は、院長名義。

 

 件名は、侯爵領に関する共同調査および王都査問会への出席要請。

 

 ヴァルトは、もう目を逸らさなかった。

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