押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第189話 王都査問会

 

 

 ヴァルディス侯爵家の会議室には、まだ朝の冷えが残っていた。

 

 磨かれた長机の上に、王都魔術院の封蝋が置かれている。赤い蝋へ押された院長印は、蝋燭の光を受けて鈍く光っていた。アルベルトは封を切った文書をゆっくりと読み進め、頁をめくるたびに、紙の擦れる音だけが室内へ落ちた。

 

 セルマは、椅子の端へ座っていた。普段なら薬瓶や調合器具を前にすると落ち着く手が、今は膝の上で硬く組まれている。文書の中に自分の工房の名が出たと分かった時、その指先がわずかに動いた。

 

 澪は、文書を覗き込まずに、アルベルトの表情を見ていた。規格瓶、薬草園、ポーション生産。そうした言葉が出るたび、胸の奥に小さな不安が積もっていく。どこまで答えてよくて、どこから先は答えてはいけないのか。異世界側の言葉だけで済む話と、済まない話がある。

 

 ヴァルトは、頁の半ばで自分の名を見つけた。

 

 侯爵領に滞在する境界魔術師ヴァルト。

 

 その横に、もう1つの名が添えられている。

 

 オスヴァルト・クライン。

 

 指が紙の端へ触れたまま止まった。薄い羊皮紙のざらつきが、思ったより冷たい。

 

「……私の名も、ありますね」

 

 ヴァルトの声は静かだった。だが、その静けさを澪は不安のないものとは思わなかった。

 

 アルベルトは文書から顔を上げた。

 

「王都魔術院としては、所在確認を求める形だ。身柄の引き渡し要求ではない」

 

 それでも、と言外に続いた。

 

 王都魔術院が名を出した以上、査問会で問われる可能性は高い。ヴァルトが誰なのか。なぜ侯爵領にいるのか。本人の意思か。隠されたのか。王都側は、それを確認せずには済ませない。

 

「本名を明かすかどうかは、ヴァルト殿が決める」

 

 アルベルトは文書を机へ置いた。領主としての声だったが、命令ではなかった。

 

「侯爵家から、本人の同意なく明かすことはない」

 

 ヴァルトは、すぐには返事をしなかった。

 

 視線の端に真壁がいる。真壁は、腕を組まず、机へもたれず、ただ文書とヴァルトの手元を見ていた。決めろとも、黙っていろとも言わない。

 

「質問された時に、君が決めてください」

 

 それだけだった。

 

 王都へ戻る時もそうだった。真壁は必要だと言った。だが最後に選ばせた。

 

 ヴァルトは紙から指を離した。

 

「分かりました」

 

 セルマが、息を整えるように小さく肩を動かした。

 

「私は……何を話せばいいのでしょう。政治の話は分かりません。私は薬を作って、弟子へ教えているだけです」

 

 その言い方は、言い訳ではなかった。自分の場所を間違えないために、確かめている声だった。

 

 真壁はセルマの方へ向き直る。

 

「政治を話す必要はありません」

 

「でも、王都の貴族や魔術師が相手でしょう」

 

「ええ。だからこそ、工房のことを話してください」

 

 真壁は机に置かれた白紙を1枚引き寄せた。

 

「何を作っているか。誰へ教えているか。なぜ食堂を作ったか。なぜ宿舎を作ったか。なぜ失敗記録を書かせるか。それを話せば十分です」

 

 セルマは、少しだけ目を伏せた。

 

 緊張は消えていない。けれど、膝の上で固まっていた指がほどける。

 

「それなら、話せます」

 

 澪はそこで口を開いた。

 

「規格瓶の供給元や、詳しい作り方を聞かれた場合はどうしますか」

 

 室内の空気が一段、実務へ戻った。

 

 真壁は白紙へ短く線を引く。答える範囲と、答えない範囲。その線は、思ったより太く見えた。

 

「嘘は作りません。必要な範囲だけ答えます」

 

 真壁は紙の左側へ書き込む。

 

 薬量が揃うこと。保存条件が揃うこと。薬草の安定供給。弟子の教育。侯爵領内での販売と治療。

 

 右側には、何も書かない。だが、澪にはそこに並ぶ言葉が見えていた。

 

 現代側。収納の詳細。秘密の拠点。登録された移動先。公開していない供給経路。

 

「今回の査問は、侯爵領の薬と教育、黒鎖商会の資金網が中心です」

 

 真壁は筆を置いた。

 

「議題ではない機密へは答えません。答えない理由は、営業上、領防衛上の非公開事項で足ります」

 

 レオンハルトが頷く。

 

「公的な場で、聞かれたこと全てに答える義務はない。だが、答えない部分で事実を誤魔化しているように見えないよう、答える部分は正確にする」

 

 澪は小さく息を吐いた。

 

 嘘で隠すのではない。

 

 話すべきことを、話せる形へ整える。

 

 会議室の寒さが、少しだけ薄くなった気がした。

 

 

 

 

 

 証拠確認室には、紙と革と薬品の匂いが混じっていた。

 

 床へ置かれた木箱には、1つずつ封印札が貼られている。毒刃、毒針、自害用毒、火付け油、眠り薬、偽造職員札。箱には所持者名、回収時刻、回収場所、立会人の名が細かく記されていた。

 

 澪は、その文字を見て、エーミルが倒れた時の顔色を思い出した。

 

 青白い唇。浅くなる息。トルの泣きそうな声。真壁が敵を追わず、救命を選んだ瞬間。

 

 証拠箱へ貼られた札は乾いている。けれど、その札の向こうにあるものは乾いていなかった。

 

 真壁は王都で複写した帳簿を机へ広げていた。写真を印刷した紙は綺麗すぎて、かえって証拠らしく見えない。ヴァルトはその隣で、王都式の帳簿番号を1つずつ確認している。

 

「この写しだけで有罪を求めません」

 

 真壁が言った。

 

 侯爵家法務担当が顔を上げる。

 

「原本を押さえるための索引、という扱いですな」

 

「ええ。帳簿番号、綴じ方、決裁印、保管棚、対応頁。それを示せば、王国側が正式に押収した時に照合できます」

 

 ヴァルトは、薄く笑った。

 

「王都の商会は、見せる帳簿ほど綺麗に並べます。隠す帳簿は、よく使うため手元に置く。紙の傷み方も違う」

 

 会計文官が感心したように身を乗り出す。

 

「この印の順番も意味があるのですか」

 

「あります。支店間精算は通常、受取、代理商会、地方精算、最終承認の順です。ところが、ここは代理商会より先に外部資金の輪が入っています」

 

 ヴァルトの指が、写しの端へ触れた。

 

「帳簿を作った者が急いだか、後から挿入したか。いずれにせよ、原本を見れば筆圧と墨の乾きで確認できます」

 

 真壁1人では届かない場所だった。

 

 会計文官だけでも届かない。

 

 王都式の帳簿、商会の癖、貴族家の決裁刻み。ヴァルトが王都で積み上げ、そして逃げたいと思っていた知識が、今は証拠を原本へ導く道筋になっている。

 

 澪は、自分の手元にある小さな束へ目を落とした。

 

 鑑定記録。

 

 眠った実働隊員やブルーノから得た断片が、整理されている。何を知っていたか。何を知らなかったか。誰へ報告する予定だったか。

 

 それを証拠箱の横へ置こうとして、手が止まった。

 

 レオンハルトが気づく。

 

「それは提出しない」

 

 澪は顔を上げた。

 

「でも、重要な内容です」

 

「重要だ。だから捜査の方向を決める補助記録として保管する」

 

 レオンハルトは、証拠箱の封印札を確かめながら続けた。

 

「裁きの根拠として出すのは、物証、帳簿、通信、通行記録、正式供述だ。眠っている人間から得たものを、そのまま公の場へさらして有罪を決めることはしない」

 

 澪の指から、少し力が抜けた。

 

 鑑定は便利だ。便利すぎる。だからこそ、どこかで線を引かなければいけない。

 

「分かりました」

 

 澪は鑑定記録を別の封筒へ入れた。

 

 その封筒は、証拠箱の中ではなく、捜査補助記録の棚へ置かれた。

 

 

 

 

 

 王都門へ近づく馬車の中で、ヴァルトは窓の外を見ていた。

 

 前にこの門を通った時は、ただの旅商人として、真壁の後ろを歩いていた。目立たず、記憶へ残らず、通り過ぎるために。

 

 今は違う。

 

 馬車の扉には、ヴァルディス侯爵家の紋章が掲げられている。門番は通行証を両手で受け取り、確認が終わると姿勢を正した。周囲の旅人や商人が、何事かとこちらを見る。

 

 隠れていない。

 

 その事実が、喉を狭くした。

 

 石壁の上には、王都の旗が冷たい風を受けて揺れている。遠くから鐘の音が聞こえた。王都魔術院の鐘だ。朝の講義が始まる時刻に、何度も聞いた音。

 

「大丈夫ですか」

 

 隣の澪が、小さな声で尋ねた。

 

 ヴァルトは窓から目を逸らさないまま答えた。

 

「大丈夫ではありません」

 

 澪は、余計な言葉を重ねなかった。

 

 その沈黙がありがたかった。

 

「ですが、ここで降りる方が、後で後悔します」

 

 馬車が門をくぐる。

 

 石畳の揺れが変わった。王都の中の石は、外よりもよく磨かれている。車輪の音も少し高い。

 

 通りの先に、白い塔が見えた。

 

 王都魔術院。

 

 境界課の塔は、その東側にある。ヴァルトは一度だけ目を逸らしかけた。けれど、次の瞬間には正面から見ていた。

 

 逃げるためではない。

 

 戻るためでもない。

 

 今の自分が、侯爵領の一員としてここへ来た。

 

 真壁は向かいの席で資料を確認している。視線を上げずに言った。

 

「呼吸が浅い」

 

「見ていましたか」

 

「聞こえました」

 

 澪が少しだけ笑いかけた。

 

 緊張の中に、ほんの少しだけ人の温度が戻る。

 

 ヴァルトは息を吸い直した。

 

 

 

 

 

 査問会場は、王都魔術院の大講堂を王国法務官が借り受けた形で設けられていた。

 

 高い天井。白い石壁。長机。証拠台。壁際に並ぶ記録官の机。部屋の中央には、宰相と王国法務官、会計官が座る席が置かれている。

 

 片側にはローゼンベルク公爵家。

 

 エアハルト・フォン・ローゼンベルクは、背筋を崩さず座っていた。隣には家令ディートリヒ。資料の束は寸分違わず揃えられている。主席錬金術師カスパルは、薬瓶を見るための小型拡大鏡を持参していた。騎士団長エルンストは、剣を帯びず、騎士礼装だけで席に着いている。

 

 反対側にはヴァルディス侯爵家。

 

 アルベルト、レオンハルト、真壁、澪、ヴァルト、セルマ。侯爵家の会計文官と法務担当が、証拠箱の番号を再確認している。

 

 中立席には、王都魔術院長コンラート、マティアス、オットー、そしてジークフリートが座っていた。

 

 ヴァルトは、その配置に気づいた。

 

 ジークフリートは公爵家側ではない。

 

 魔術院席にいる。

 

 エアハルトはその事実を見ていたが、何も言わなかった。言わないことで、かえって空気が重くなる。

 

 証言席の脇には、1つ空いた席があった。

 

 エアハルトの視線が一瞬だけそこへ流れた。

 

 クララの席だ。

 

 まだ来ていない。

 

 ヴァルトは資料を揃えながら、誰かの視線を感じた。顔を上げると、マティアスと目が合う。

 

 長くはない。

 

 マティアスはすぐ資料へ視線を落とした。だが、顔ではなく、ヴァルトの手元を見ていた。

 

 紙の端を揃える癖。

 

 ヴァルトは、その手を机の下へ下ろしたくなった。

 

 宰相が立った。

 

 会場のざわめきが消える。

 

「本日は、技術の優劣を競う場ではない」

 

 声は大きくない。だが高い天井へよく響いた。

 

「王国の秩序を損なう行為があったか。あったなら、誰がどの責任を負うか。それを確認する」

 

 証拠台の木目が、ヴァルトの目に入る。

 

 ここから先は、誰かが叫んで勝つ場ではない。

 

 紙と石と薬と沈黙が、人を動かす場だった。

 

 

 

 

 

 最初に立ったのはディートリヒだった。

 

 彼は深く一礼し、資料を1枚ずつ王国法務官へ渡した。指の動きに乱れはない。長年、公爵家の金と文書を扱ってきた者の手だった。

 

「ローゼンベルク公爵家が黒鎖商会へ調査を依頼した理由を申し上げます」

 

 提出された資料には、王都でのポーション価格、侯爵領製品の流通量、薬草買い付け価格、中古の規格瓶価格、そして若い錬金術師の移動記録が並んでいた。

 

 会計官が資料を受け取り、目だけで素早く追う。

 

「地方の発展そのものを罪としているのではありません」

 

 ディートリヒは、言葉を選んだ。

 

「しかし、一商会と一工房が、王都の薬、農業、職人育成、流通へ短期間で影響を与え始めている。王国全体への影響を確認する必要があった」

 

 エアハルトが続ける。

 

「侯爵領を衰退させる意図はない」

 

 彼の声は低く、感情を抑えていた。

 

「だが技術と人材が一領地へ集中するなら、王国として確認は必要だ。調査を命じたこと自体は、今も間違いとは思っていない」

 

 ヴァルトは、その言葉を聞きながら、王都で何度も耳にした論理を思い出していた。

 

 管理する側の言葉。

 

 危険を防ぐため。均衡を保つため。王国全体のため。

 

 全てが嘘ではない。

 

 だから危険なのだ。

 

 間違った者が、正しい理由を使った時、人は止めにくくなる。

 

 真壁は反論しなかった。

 

 アルベルトも遮らない。

 

 最後まで聞く。

 

 会場に、その沈黙が広がった。

 

 

 

 

 

 セルマが証言席へ立った時、手元の資料が小さく震えていた。

 

 宰相は、その震えを責めるような目で見なかった。

 

「セルマ殿。あなたの工房は、弟子に修業後の移動を禁じているか」

 

「いいえ」

 

 最初の声は硬かった。

 

「残るか、別の町へ行くかは、本人が決めます」

 

「製法を持ち出すことは」

 

「未完成の製法を完成品として売ることは止めます。患者へ害が出ますから」

 

 セルマは一度、資料から顔を上げた。

 

「ですが、基礎技術を私だけのものにするつもりはありません」

 

 公爵家側の法務担当が、宿舎や食堂、浴場、図書室について尋ねた。人材を囲い込むための設備ではないか、と。

 

 セルマはそこで、資料を閉じた。

 

 紙を見るより、思い出す方が早かったのだろう。

 

「昔、食費が足りずに、乾燥薬草を噛んでいた弟子がいました」

 

 会場の空気がわずかに変わる。

 

「器具を買えなくて、割れた瓶を使い続けた子もいました。失敗を書けば追い出されると思って、焦げた薬を隠した子もいました。寝る場所がなくて、工房の床で朝まで丸くなっていた子も」

 

 セルマの声は、最初より低く落ち着いていた。

 

「腹を空かせたまま、正しい量を測れと言っても無理です」

 

 彼女は、証言席の縁を握る指へ力を込めた。

 

「明日眠る場所がない者に、失敗を正直に書けと言っても、追い出されるのが怖くて隠します」

 

 宰相は黙って聞いている。

 

 カスパルは、腕を組んでいた手をほどいていた。

 

「だから食べさせます。眠らせます。失敗を書かせます」

 

 セルマは、自分の言葉で言い切った。

 

「工房は薬を作る場所ですが、弟子を壊す場所ではありません」

 

 その言葉の後、誰もすぐには発言しなかった。

 

 政治的な演説ではない。

 

 数字でもない。

 

 だが、工房が何のために作られたのかは、資料より強く伝わっていた。

 

 

 

 

 

 次に証拠台へ並べられたのは、小瓶に入ったポーションと製造記録だった。

 

 カスパルは、瓶を手に取る前に手袋を替えた。指先の動きは無駄がなく、瓶口の封を確認し、光へ透かし、色、粘度、沈殿を確かめる。

 

 公爵家主席錬金術師としてではなく、1人の技術者としての顔だった。

 

「全て同じ品質ではありませんな」

 

 公爵家側の者が、少し身を乗り出す。

 

 だがカスパルは、そこで瓶を置かなかった。

 

「ただし、定められた範囲には収まっている」

 

 記録をめくる音がした。

 

「作成者が違う。日付も違う。だが計量、加熱時間、冷却後の保存条件が揃っている。これは、セルマ殿だけが感覚で作った薬ではない」

 

 カスパルは、セルマを見る。

 

「弟子が、教えられた手順と計量によって再現できている」

 

 セルマは唇を引き結んだ。誇るというより、ほっとした顔だった。

 

 規格瓶も証拠台へ置かれた。

 

 カスパルは指で瓶の底を叩き、口径を測り、封の閉まりを確かめる。

 

「容量が揃う。密閉性を比べられる。保存日数ごとの変化が追える。輸送時の破損率も調べられる」

 

 彼は公爵家側の席を一度見た。

 

「製法や供給元の話ではありません。品質管理の基盤として、この瓶は意味がある」

 

 公爵家へ不利な証言だった。

 

 だが、カスパルは目を逸らさなかった。

 

「優れているものを、劣っているとは証言できません」

 

 エアハルトは表情を変えない。

 

 しかし、カスパルの言葉を遮らなかった。

 

 

 

 

 

 王都から若い技術者が侯爵領へ流れている問題について、オットーが立った。

 

 教育課主任としての肩書きが読み上げられると、会場の空気が少し硬くなった。王都魔術院の内側の問題へ踏み込むことになるからだ。

 

「侯爵領が奪ったのではありません」

 

 オットーは最初にそう言った。

 

「我々が育てられなかった者へ、学ぶ場所が用意されたのです」

 

 王都魔術院側の席に、わずかな動揺が走る。

 

「設備拡張の申請は、何年も止まっています。共用作業室も、弟子用宿舎も、若手の実習予算も、必要だと分かっていながら後回しにしてきました」

 

 オットーは資料を握り直した。

 

「優秀な研究者はいます。優れた制度もあります。しかし、若手がそこへ届く前に辞めてしまう。雑務だけを任され、住む場所を失い、食費が尽きる」

 

 彼はセルマの方を見なかった。

 

 見れば、同情に見えると思ったのかもしれない。

 

「人が残らない理由を調べず、残らなかった人間だけを責めることはできません」

 

 魔術院長コンラートは、目を閉じて聞いていた。

 

 この場で自らの組織の弱さを認めることは、痛みを伴う。

 

 だが、その痛みを避けて侯爵領を責めれば、同じことを繰り返すだけだった。

 

 

 

 

 

「侯爵領に滞在する境界魔術師ヴァルト殿と、オスヴァルト・クライン師には関係があるのか」

 

 マティアスの質問は、思ったより静かだった。

 

 それでも、会場中の視線がヴァルトへ集まった。

 

 ヴァルトは喉の渇きを感じた。指先が紙の端を探す。無意識に揃えようとして、途中で止めた。

 

 空席の机。

 

 途中まで書いた古代結界解析。

 

 後輩へ渡せなかった訓練書。

 

 王都を出た夜の冷たい空気。

 

 その全てが、一瞬だけ胸の奥へ戻ってくる。

 

 立ち上がろうとした時、アルベルトが先に口を開いた。

 

「本人の身元を、本人の同意なく侯爵家から明かすことはない」

 

 公爵派の法務担当が身を乗り出す。

 

「王都魔術院の研究者を侯爵家が隠しているなら、重大な問題です」

 

「研究者は、魔術院や貴族家の所有物ではありません」

 

 ジークフリートの声が、横から差し込んだ。

 

 公爵家の席にいた者たちがそちらを見る。

 

 ジークフリートは視線を受け止めたまま、動かなかった。

 

 マティアスは、ヴァルトを見ていた。

 

「私は、オスヴァルト・クライン師が生きているなら、戻ってきてほしいと思っている」

 

 その声に、ヴァルトの胸が強く打った。

 

「止まった仕事がある。聞きたいこともある」

 

 マティアスはそこで、ほんの少し息を吸った。

 

「だが、本人の意思を無視して拘束することを求めているのではない」

 

 ヴァルトは、ゆっくり立った。

 

 足元の石床が、昔と同じ冷たさを返してくる。

 

「オスヴァルト・クライン本人がこの場にいるなら」

 

 声は震えていなかった。

 

「本人が答えるべきことです」

 

 宰相は短く頷いた。

 

「身柄引き渡しは本日の議題としない。本人の意思確認を優先する。強制的な連行は認めない」

 

 ヴァルトは座った。

 

 まだ名乗っていない。

 

 だが、逃げているだけでもなかった。

 

 

 

 

 

 証拠台へ石臼が運ばれた時、会場の空気は明らかに変わった。

 

 2人がかりで置かれた石臼は、鈍い音を立てて台へ沈んだ。表面には使い古した擦れがあり、普通に見れば古い道具にしか見えない。

 

 レオンハルトが封印を解かせる。

 

 内側の偽装板が外されると、刻まれた術式が現れた。

 

 魔術師たちの視線が一斉に集まる。

 

 ヴァルトは証拠台へ進み、術式の端を指した。

 

「ここが獣型魔物への呼び声です」

 

 マティアスが身を乗り出す。

 

「害獣避けの反転か」

 

「いいえ」

 

 ヴァルトは別の線を示した。

 

「反転だけなら、呼び声は散ります。これは、集めた後の流れを作っています」

 

 ジークフリートが石臼の反対側へ回る。

 

「ゴブリンにも反応するよう調整されている」

 

「はい。複数種を同時に動かす構造です」

 

 会場の誰かが息を呑んだ。

 

 ヴァルトは、石臼の中心から外縁へ伸びる刻みを指で追った。

 

「町の外縁へ集め、門と街道の方向へ流す。呼び声を長く残す魔力循環もある」

 

 マティアスの顔色が変わった。

 

「警報装置の誤作動ではないな」

 

「ありません」

 

 ヴァルトは短く答えた。

 

「人が住む町へ魔物を向けるために調整されています」

 

 レオンハルトが、石場町の配置図を広げた。

 

 森側の狼群。

 

 採石場外れのゴブリン群。

 

 灰橋町方面の混成群。

 

 町へ向かう進行線。

 

 図面の線が見えた瞬間、査問会の重心が変わった。

 

 ポーション価格でも、教育制度でもない。

 

 人の住む町へ魔物を呼び寄せた行為。

 

 アルベルトが立つ。

 

「発見が半日遅れていれば、石場町は複数方向から襲われていた」

 

 声は怒鳴っていない。

 

 だからこそ重かった。

 

「これは価格調査でも、流通調査でもない。町へ魔物を向けた行為です」

 

 エアハルトの表情が、初めてはっきりと硬くなった。

 

 

 

 

 

 帳簿が重ねられていく。

 

 灰橋町。

 

 石場町。

 

 黒鎖商会地方精算。

 

 侯爵家会計文官が頁を示し、王国会計官が別の紙へ数字を書き写す。算盤の珠が乾いた音を立てた。

 

 ヴァルトは鎖印の輪を示す。

 

「これは場所ではありません。精算の中継数です。輪を通るたびに、帳簿名義と支出名目が変わる」

 

 王国会計官が、別の頁を開いた。

 

「灰橋町の補修費、警備費、損失補填。合計が小型帳面の数字と一致する」

 

 侯爵家会計文官が、次の帳簿を差し出す。

 

「こちらは石場町です。工具修繕、石臼交換、害獣対策」

 

 また算盤が鳴る。

 

 同じ数字へ届いた時、会場の沈黙は重くなった。

 

 真壁が、そこで初めて短く補った。

 

「1つの支出を3つへ割っています。別々に見れば通常経費です。合わせると裏支出になる」

 

 ヴァルトが続ける。

 

「最後の輪だけ逆向きです。外部資金を示します。通信認証の更新日と精算日も、同じ7日周期です」

 

 王国会計官が顔を上げた。

 

「侯爵家側の解釈だけではない。こちらの計算でも一致する」

 

 ディートリヒは沈黙していた。

 

 宰相が問う。

 

「家令府から黒鎖商会へ調査費を支払ったことは認めるか」

 

「認めます」

 

 ディートリヒの声は乱れなかった。

 

「市場調査、流通調査、技術調査、所在確認のための費用です。魔物誘引、毒、放火、誘拐への転用は承認しておりません」

 

 真壁は、そこで踏み込まなかった。

 

「金の出所と、具体的な作戦の命令者が同じとは限りません」

 

 会場が真壁を見る。

 

「ですが、調査費が工作資金へ入ったことは、帳簿上確認できます」

 

 ディートリヒを逃がす言葉ではない。

 

 証拠を越えない言葉だった。

 

 

 

 

 

 押収品の箱が開かれた。

 

 毒刃。毒針。自害用毒。火付け油。眠り薬。拘束具。偽造職員札。通信魔道具。

 

 それぞれの箱に、回収時刻と所持者が記されている。

 

 真壁は証拠保全記録を提出した。どこで収納し、誰の所持品で、どの箱へ封印し、誰が立ち会ったか。感情のない記録が、かえって現場の緊迫を残していた。

 

 澪が証言席へ立つ。

 

 手の中で、資料の端が少し曲がっていた。

 

「押入家具の成人職人、エーミルさんは、トルを庇って毒を受けました」

 

 その名を口にすると、澪の喉が詰まりそうになった。

 

 倒れた体。

 

 青白い唇。

 

 細くなる呼吸。

 

 トルの声。

 

「通常の治療では間に合いませんでした。希少な救命薬を使用し、命をつなぎました」

 

 公爵家側の法務担当が静かに尋ねる。

 

「結果として、死者は出ていない」

 

 澪の手が一瞬止まった。

 

 レオンハルトが立つ。

 

「死ななかったのは、襲撃が軽かったからではありません」

 

 その声は会場の奥まで届いた。

 

「救命が間に合ったからです」

 

 法務担当は、それ以上続けなかった。

 

 澪は証言席から戻る時、ほんの少しだけ真壁を見た。

 

 真壁は頷かなかった。

 

 ただ、証拠箱から目を逸らさなかった。

 

 

 

 

 

 ブルーノは枷を付けたまま証言台へ立った。

 

 髪は整えられていない。だが、目は死んでいなかった。自分が何をしたかを知り、その上で何を話すか決めている者の目だった。

 

 宰相は最初に確認した。

 

「あなたは黒鎖商会外郭実働部門の責任者として、減刑上申を求めて捜査協力している。虚偽が判明すれば、その上申は取り消される。相違ないか」

 

「相違ありません」

 

 ブルーノは淡々と答えた。

 

 毒、放火、誘拐の役割分担。

 

 灰橋町、石場町、中継町からの作戦費。

 

 連絡役、第4環。

 

 部下への家族補償。

 

 失敗時の登録抹消。

 

 ルーカスを使った情報収集班とは別系統だったこと。

 

 ブルーノは、自分に不利なことも話した。けれど、都合よく公爵家へ罪を寄せることはしなかった。

 

「ディートリヒ殿から直接、魔物誘引や毒、放火、誘拐を命じられたことはない」

 

 ディートリヒの手が、資料の上でわずかに動いた。

 

「ただし、作戦費の一部が家令府系の資金符号だったことは知っていました」

 

 ブルーノは、エアハルトの方を見なかった。

 

「実働隊には、公爵家の調査だと説明されていた。失敗しても商会が守る。家族補償も支払われる。そう言われていた」

 

 沈黙が降りる。

 

 公爵家の名は、命令書ではなく信用として使われた。

 

 自害毒を持たせるための信用として。

 

 戻らない任務へ人を連れていくための信用として。

 

 エアハルトの顔から、わずかに血の気が引いた。

 

 

 

 

 

 空いていた証言席側の扉が開いた。

 

 会場の視線が集まる。

 

 クララは侍女と王国側護衛に付き添われて入ってきた。公爵令嬢としての姿勢は崩れていない。けれど、その手に抱えた帳面の角は、強く握られて白くなっていた。

 

 エアハルトが立ちかける。

 

「クララ。なぜ来た」

 

 クララは父を見た。

 

 恐れではない。

 

 悲しみでもない。

 

 信じたい相手へ、事実を差し出すための目だった。

 

「私が見たことを、私以外の者に説明させないためです」

 

 会場が静まり返る。

 

 クララは帳面を提出した。

 

 家令室へ出入りした黒鎖商会関係者。

 

 黒鎖商会会頭宛て封書。

 

 家令府の封蝋。

 

 夜間に増えた書類焼却。

 

 焦げ跡のある封書。

 

 帳簿を積んだ荷車が裏門へ入った日時。

 

 家令府の者に別室へ連れ込まれそうになった経緯。

 

 宰相が問う。

 

「あなたを助けた者の名は」

 

「分かりません」

 

 クララは正直に答えた。

 

「顔も、声も、はっきり覚えていません。ただ、誰かが私を逃がしました」

 

 ヴァルトは視線を伏せた。

 

 真壁も動かなかった。

 

 名乗り出ない。

 

 それでいい。

 

 クララは恩返しをしに来たのではない。

 

「父上が何を命じたか、私は知りません」

 

 クララは父の方を向いた。

 

「ですから、知っているとは申しません」

 

 エアハルトの指が、椅子の背へかかったまま動かない。

 

「ですが、私の家で隠されていたことを、なかったことにもできません」

 

 エアハルトは娘を叱らなかった。

 

 遮らなかった。

 

 その沈黙は、公爵としての判断であり、父親として受け止めるしかない痛みでもあった。

 

 

 

 

 

 エルンストは騎士らしく、背筋を伸ばして証言した。

 

 公爵家騎士団へ、侯爵領侵攻、商人襲撃、職人誘拐、魔物誘引、毒殺、放火の命令は出ていない。

 

「知っていれば拒否しました」

 

 その言葉に迷いはない。

 

 だが、彼はそこで終わらせなかった。

 

「ただし、黒鎖商会の調査活動を、公爵家の仕事として受け入れていたことは事実です。公爵家の名がどこまで使われているか、確認しなかった」

 

 エルンストはエアハルトへ向けて頭を下げた。

 

「武力部門へ命令が来ていないから安全だと考えた。その甘さは、騎士団長である私の責任です」

 

 続いてジークフリートが立った。

 

 公爵家魔術顧問として、オスヴァルトの所在確認と侯爵領技術の調査を求められたことを認める。

 

 だが、研究者本人の意思を無視した強制連行や、教育施設の破壊には同意していない。

 

「私は公爵家へ仕えています」

 

 ジークフリートは、エアハルトを見た。

 

「だからこそ、公爵家の名で研究者を鎖につなぐことには同意できません」

 

 公爵家側の席に、重い沈黙が落ちる。

 

「魔術顧問職を辞します。この件が決着するまでは、王国の調査へ協力します」

 

 それは寝返りではなかった。

 

 罵倒でもない。

 

 研究者として、魔術師として、どこに線を引くかを選んだ言葉だった。

 

 

 

 

 

 ディートリヒは、家令府から黒鎖商会へ調査費を出したことを認めた。

 

 市場調査。

 

 流通調査。

 

 技術調査。

 

 所在確認。

 

 それらの名目を1つずつ述べる声は、最後まで崩れなかった。

 

「魔物誘引、毒襲撃、放火、誘拐を具体的に命じたことはありません」

 

 エアハルトも立つ。

 

「市場調査を承認した。だが民間人への襲撃や、町へ魔物を向ける行為は命じていない」

 

 宰相は、2人を見比べた。

 

 怒鳴らない。

 

 断罪もしない。

 

 その冷静さが、かえって逃げ道を狭くしていた。

 

「家令は公爵家の印で金を出した」

 

 宰相の声が、石壁に反響する。

 

「黒鎖商会は、公爵家の仕事であることを人集めと信用に使った」

 

 証拠台の毒刃、魔物寄せ、帳簿が、同じ部屋に置かれている。

 

「その金が、町へ魔物を向け、人へ毒を使い、子どもをさらうために流れた」

 

 エアハルトは黙って聞いていた。

 

「当主が一つ一つの刃を選んだかどうかだけが、責任ではない」

 

「私は命じていない」

 

 エアハルトの声は低い。

 

 宰相は頷いた。

 

「では、公爵家の印と権威を使った結果に、誰が当主として責任を負うのか」

 

 会場に、長い沈黙が落ちた。

 

 エアハルトは、証言席のクララを見た。

 

 娘は目を逸らさなかった。

 

 次にエルンストを見た。騎士団長は、頭を垂れたまま動かない。

 

 ジークフリートは、もう公爵家の席にいない。

 

「公爵家当主としての責任は負う」

 

 エアハルトは言った。

 

「だが、命じた者と、止められなかった者の罪を混同しない審理を求める」

 

 宰相はその言葉を受けた。

 

「認める。実行責任、命令責任、管理責任、統治責任を分けて審理する」

 

 誰か1人を黒幕として差し出して終わる場ではない。

 

 それぞれの責任が、それぞれの重さで机の上へ置かれた。

 

 

 

 

 

 宰相は最終判決を下さなかった。

 

 代わりに、記録官へ複数の封書を用意させた。

 

 封蝋が温められ、王国印が押される。法務官が宛先を確認し、会計官が封印札の番号を読み上げる。伝令が扉の外で待っていた。

 

「黒鎖商会王都本店、支店、地方倉庫を王国管理下へ置く」

 

 宰相の声に合わせ、記録官が封書を1つ分ける。

 

「灰橋町旧連絡口、石場町帳簿保管先、北東街道宿、中継商会、代理商会を同時捜索する」

 

 レオンハルトが侯爵家側の作戦表へ印を付けた。

 

「公爵家家令府の関連帳簿と決裁記録を封印する。ディートリヒの家令権限を一時停止する」

 

 ディートリヒは何も言わなかった。

 

「ヘルムートおよび黒鎖商会幹部へ王国拘束令を出す」

 

 封書が伝令へ渡される。

 

 扉が開く。

 

 走る足音が廊下へ消えていく。

 

 黒鎖商会へ対応時間を与えない。

 

 ここで終わりではない。

 

 ここから始まる。

 

 

 

 

 

 査問会後の廊下は、思ったより静かだった。

 

 ヴァルトは真壁と並んで歩いていた。窓の外に境界課の塔が見える。若い魔術師が資料を抱えて通り過ぎ、ヴァルトの横顔を少し見て、すぐに前を向いた。

 

 昔と同じ石床。

 

 昔と同じ紙の匂い。

 

 だが、自分は同じではない。

 

「ヴァルト殿」

 

 背後から呼ばれた。

 

 ヴァルトは足を止めた。

 

 マティアスが立っている。手には査問会の資料。顔ではなく、ヴァルトの手元を見ていた。

 

「以前、境界課にいた者が、同じように紙の端を揃えていた」

 

 ヴァルトの指が止まる。

 

「……オスヴァルトなのか」

 

 真壁は少し先で足を止めた。

 

 振り返らない。

 

 代わりに答えない。

 

 選択は、ヴァルトへ返された。

 

 ヴァルトは、呼吸を1つ整えた。

 

「今は、侯爵領でヴァルトと名乗っています」

 

 否定ではなかった。

 

 マティアスの表情が、ゆっくり変わる。

 

「生きていたのか」

 

「はい」

 

 それだけで、十分だった。

 

 マティアスは近づきすぎなかった。

 

「話せる時に、話してくれ」

 

 ヴァルトは頷いた。

 

 そして真壁の方へ歩いた。

 

「よろしいのですか」

 

 真壁が尋ねる。

 

「逃げませんでした」

 

 ヴァルトは、廊下の先を見た。

 

「今日は、それで十分です」

 

 真壁は短く頷いた。

 

 

 

 

 

 王都の鐘が鳴った。

 

 時刻を告げる鐘ではない。

 

 命令の発効を知らせる連鐘だった。

 

 黒鎖商会王都本店の前には、王国騎士の列が進んでいた。先頭の騎士が令状を掲げ、門番が口を開いたまま固まる。背後では会計官が封印札の箱を抱えている。

 

 灰橋町の旧連絡口では、侯爵家の捜索班が倉庫の扉を囲んでいた。古い木扉の隙間から、防虫香と湿った紙の匂いが漏れている。

 

 石場町では、帳簿保管場所の窓に衛兵が立ち、裏口へ逃げようとした男が足を止めた。

 

 北東街道宿へ向かう騎馬隊は、泥を跳ね上げながら進む。宿の裏庭には、中継石を隠した石箱があるはずだった。

 

 中継商会の裏口では、文官が帳面を抱え、騎士が通行人の顔を確かめていた。

 

 公爵家家令府では、王国会計官が帳簿室の扉へ封印札を貼る。ディートリヒの部下は、その札へ手を伸ばしかけ、騎士の視線で止まった。

 

 黒鎖商会本店の上階で、ヘルムートは窓から騎士の列を見下ろしていた。

 

「帳簿を焼きますか」

 

 部下が震える声で尋ねる。

 

 ヘルムートはすぐ答えなかった。

 

 王都本店だけではない。支店も、地方倉庫も、街道宿も、家令府も同時に動かれている。

 

 情報が漏れたのではない。

 

 資金網全体を読まれたのだ。

 

「裏口は」

 

「見られています」

 

「第4環への通信は」

 

「つながりません」

 

 ヘルムートは、窓枠へ置いた指を動かした。

 

 逃げるか。

 

 帳簿を消すか。

 

 ディートリヒへ責任を押しつけるか。

 

 最後の通信経路を使うか。

 

 まだ選択肢はある。そう思おうとしている顔だった。

 

 

 

 

 

 査問会場を出たアルベルトのもとへ、レオンハルトが通信文を持って来た。

 

「全班、配置につきました」

 

 アルベルトは短く頷いた。

 

「始めろ」

 

 真壁は王都地図を広げ、黒鎖商会本店へ指を置いた。

 

「鎖の両端を押さえます」

 

 ヴァルトは、王都に響く鐘を聞いていた。

 

 かつて、その鐘は自分の学びと仕事の一日を始める音だった。

 

 今は、黒い鎖の終わりを始める音に聞こえた。

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