押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第19話 豆は足りない

 

 リュシアの屋台裏には、湯気と豆の匂いが混じっていた。

 

 小鍋では、澪が持ち込んだ大豆もやしがさっと湯通しされている。水を切ったそれを、リュシアが木べらでスープの鍋へ落とすと、白い太い芽が汁の中でふわりと沈んだ。豆そのものより軽く、野菜ほど頼りなくもない。見慣れない姿の食べ物に、トトたちは全員、少し距離を取っていた。

 

「豆草だ」

 

 トトが言った。

 

「もやしです」

 

 澪は即座に訂正した。

 

「豆なのに草じゃん」

 

「豆の芽です」

 

「じゃあ豆草で合ってる」

 

「もやしです」

 

 リュシアは笑いながら、器へスープをよそった。少し前に作った潰し豆のスープに比べると、今日の鍋は見た目が少し賑やかだった。湯通しした大豆もやしが入っただけで、汁の中に噛むものが増える。トトは器を受け取り、疑いながら口へ運んだ。

 

 噛んだ瞬間、目が少し開く。

 

「豆なのに、歯ごたえがある」

 

「もやしです」

 

「豆草の方が分かりやすい」

 

「もやしです」

 

 同じ会話を何度もする自分に、澪は少し疲れてきた。だが、トトが二口目を飲んだので、負けではない。年下の子たちも、恐る恐る食べて、噛んだ時のしゃきっとした感じに顔を見合わせた。

 

 エレナも器を持っていた。少年服姿のまま、少し真面目な顔で口に運ぶ。

 

「畑から来た野菜とは違うのだな」

 

「はい。町の中でも、水を替えて、暗いところで育てられます」

 

「なら、屋敷でも作れるではないか」

 

 護衛がすぐに身構えた。

 

 リュシアは、鍋の湯気を見ながら言った。

 

「作れるでしょうね。でも、屋敷で作ったら屋敷の食べ物になります。市場の子どもには届きません」

 

 エレナは器を持ったまま黙った。

 

 澪はその沈黙に少し驚いた。以前なら、エレナは珍しいものをまず屋敷へ持ち帰ろうとした。今は、その前に誰が食べるのかを考えている。

 

 リュシアは、湯通しした器を見て眉を寄せた。

 

「澪、これはうちだけで抱えたら駄目だね」

 

「ですよね……」

 

 澪も、洗い場に並んだ器を見た。豆を洗う器、浸す器、布をかける器、湯通しする鍋、捨てるかどうか見分けるための鼻と目。リュシアの屋台裏は便利だが、店もあり、火もあり、客も来る。大豆もやしを毎日ここだけで育てるには、場所も人手も足りない。

 

「水を替えるだけなら子どもでもできます。でも、ぬめっているか、嫌な匂いがするかを子どもに決めさせるのは怖いです」

 

「そうだね。捨てる時に惜しむ子も出る」

 

「食べられそうに見えたら、食べちゃいますよね」

 

 澪がそう言うと、トトが器を持ったまま目を逸らした。

 

 リュシアはトトを見た。

 

「トト」

 

「まだ何もしてない」

 

「その返事をする時は、だいたい何かする気だね」

 

 トトはスープを飲んでごまかした。

 

 

 

 

 

 リュシアは、鍋の蓋をずらして火加減を見たあと、澪へ向き直った。

 

「これは司祭様に話した方がいい」

 

「司祭様に、ですか」

 

「子どもの身体を鑑定で見たんだろう。なら、司祭様に話すのが筋だよ」

 

 澪は少し肩を縮めた。

 

「栄養状態を見たって、言っていいんでしょうか」

 

「隠して抱えるよりいい。孤児院の子にも関わる話だ」

 

 その言い方には、責める響きはなかった。ただ、澪ひとりやリュシアの屋台だけで抱える話ではない、という重さがあった。

 

 エレナが器を置いた。

 

「孤児院で作るのか」

 

「水替えと洗い物ができれば、町中でも作れます」

 

「なら屋敷より先に孤児院だな」

 

 澪は思わずエレナを見た。

 

 エレナは、少し不満そうに顎を上げた。

 

「何だ。その顔は」

 

「いえ、屋敷に持っていきたいって言うかと」

 

「私も言おうとは思った」

 

 護衛が小さく咳をした。

 

 エレナは少しだけむっとしながら続けた。

 

「だが、屋敷で作れば屋敷の者が食べる。孤児院で作れば、孤児院の子が食べる。そういう話なのだろう」

 

 リュシアが静かにうなずいた。

 

「はい。姫様、今回はそういう話です」

 

 護衛は、わずかに表情を緩めた。エレナ本人はそれに気づかず、まだ少し誇らしそうにしていた。

 

 

 

 

 

 教会の部屋は、市場の屋台裏よりずっと静かだった。

 

 古い机、水差し、木の長椅子。外のざわめきは壁越しに薄く聞こえるだけで、澪は少し背筋を伸ばした。以前、鑑定について教えてくれた司祭は、澪が持ってきた器と豆を見ても、すぐに驚いた顔はしなかった。まず澪の話を最後まで聞いた。

 

 澪は器を置き、水に浸した大豆を見せ、別の器に入れた大豆もやしを布の上へ少し出した。

 

「この豆を、水に浸して、暗いところで育てます。水は替えます。嫌な匂いがしたり、ぬめったりしたら食べません。食べる時は、必ず火を通します」

 

 言いながら、澪は手つきで示した。水を替える時は器を傾け、豆を落とさないように手で受ける。布は清潔なものを使い、濡れたまま放っておかない。説明しながら、これを子どもたちにやらせるなら、誰が何を見るのかをもっと決めなければならないと思った。

 

 司祭は、もやしを指でつままず、顔を近づけて見た。

 

「水を替える作業は子どもにもできます。ですが、食べられるかどうかを決めるのは、大人がすべきです」

 

 リュシアがうなずいた。

 

「そこです。捨てる判断を惜しむと腹を壊します」

 

 司祭は澪を見た。

 

「市場の子を鑑定したのですね」

 

 澪は、少し緊張しながら答えた。

 

「はい。水分と塩分は少し改善していました。でも、身体を作るものと、野菜みたいなものが足りていないように見えました」

 

「孤児院にも、似た子はいます」

 

 司祭の声は静かだった。静かだからこそ、澪の胸に重く入ってくる。

 

「食べる量が足りない日だけではありません。食べていても、身体へ届くものが足りない子がいます」

 

 澪は何も言えなかった。

 

 司祭は、大豆もやしの器を見てから、ゆっくり言った。

 

「子どもの手を使うなら、子どもの食事へ返すべきでしょう。孤児院で試しましょう」

 

 エレナは横で静かに聞いていた。

 

 護衛も、今日は口を挟まなかった。

 

 

 

 

 

 孤児院の洗い場は、リュシアの屋台裏より少し広かった。

 

 桶がいくつかあり、古い棚の下は暗い。布を干す紐もある。そこにシスターが立つと、散らかった場所ではなく、仕事を分けられる場所に見えてきた。

 

 子どもたちは、澪たちが持ってきた豆を見るなり集まってきた。小さい手が伸びる。澪が口を開くより早く、シスターの声が飛んだ。

 

「これはまだ食べ物ではありません。食べ物にする途中です」

 

 手を伸ばした子が、びくっとして止まった。

 

 澪はその言い方に、はっとした。

 

 もやしは完成した食べ物ではない。管理して、洗って、見て、火を通して、ようやく食べ物になる。そこを飛ばすと危ない。

 

 トトが澪の横で小声で言った。

 

「俺も止められた」

 

「止められてください」

 

 孤児院の子どもたちが笑った。

 

 シスターは笑わず、けれど厳しすぎもしなかった。子どもたちを呼び、器を一つずつ持たせる。

 

「これは洗い場へ運ぶ器。走らないこと。これは布をかける器。これは水を替えた後に置く場所。匂いを決めるのは私です。食べてよいかを決めるのも私です」

 

 子どもたちは、真剣な顔でうなずいた。

 

 一人が器を持って走り出しそうになり、シスターがすぐ声をかける。

 

「走るものではありません。豆は逃げません」

 

「豆草は逃げない」

 

 トトが得意げに言う。

 

「もやしです」

 

 澪は反射で訂正した。

 

 子どもの一人が、布をそっとかけながら聞いた。

 

「これ、売れるの?」

 

 リュシアはしゃがみ、同じ目の高さで答えた。

 

「まず食べて腹を壊さないことだよ。売るのはその後だね」

 

 子どもは少し残念そうだったが、シスターがうなずくと、素直に器を棚へ置いた。

 

 

 

 

 

 値段の話は、孤児院の台所横で始まった。

 

 澪は、こういう場所でお金の話をすることに少し抵抗があった。だが、リュシアは当たり前の顔で小さな皿を三つ並べた。綺麗な皿ではない。端が少し欠けていて、長く使われた跡がある。そこへ銅貨を置いていく。

 

「豆の値だけなら、ひと袋分で銅貨一枚だね」

 

「安いんですね」

 

「豆だけならね。でも、もやしは豆じゃない。水を替えた手、腐ったら捨てる分、器を洗う分、置き場所の分が乗る」

 

 リュシアは最初の皿に銅貨を三枚置いた。

 

「孤児院の子に出すなら、売る値はこのくらい。三枚。そのうち一枚は豆代として澪へ戻すか、次の豆代として取っておく。残りは、子どもたちの作業、シスターの目、器や布の洗い物、腐って捨てる分だね」

 

 次の皿には銅貨を四枚置く。

 

「市場で売るなら四枚。澪へ戻す豆代は一枚。残りは、水を替えた子、売り場に置く者、器を洗う者、捨てる分、うちの手間」

 

 最後の皿へは五枚置き、少し離してもう一枚をつまんだ。

 

「屋敷や商人に珍しい青いものとして見せるなら、五枚か六枚。その場合は澪へ一枚か二枚戻してもいい」

 

 澪は、三つの皿を見た。

 

「売れたお金、全部が豆代じゃないんですね」

 

「当たり前だよ」

 

 リュシアは少し呆れたように笑った。

 

「水を替えた子、器を洗った子、匂いを見たシスター、腐った時に捨てる分。そこを払わないなら、誰も続けない」

 

「じゃあ、私に戻るのは……」

 

「まずは一袋につき銅貨一枚。孤児院向けなら、それで十分だね。屋敷向けならもう少し戻してもいい。でも最初から取りすぎると広がらない」

 

 澪は、ほっとした。

 

 正直に言えば、思ったより少ない気もした。けれど、孤児院の子どもたちに届いて、しかも次の豆代が戻るなら、それで十分だと思った。

 

 シスターは、リュシアが置いた銅貨を見て静かに言った。

 

「子どもの手を仕事として数えていただけるなら、ありがたいです。ただ、食べる分を先にしてください」

 

「もちろん」

 

 リュシアはすぐ答えた。

 

「腹に入らない仕事は、子どもにはきついですからね」

 

 澪は、銅貨一枚の意味を、その場ではまだ軽く見ていた。

 

 

 

 

 

 孤児院の食堂で、大豆もやし入りのスープが出された。

 

 スープ自体は豪華ではない。豆のスープに、湯通ししたもやしを入れたものだ。けれど、器を受け取った子どもたちは、いつもと違う食感に目を丸くした。

 

「草なのに、噛むと音がする」

 

 小さな子が言った。

 

「豆草だからな」

 

 トトが先輩ぶって言う。

 

「もやしです」

 

 澪は三度目か四度目か分からない訂正をした。

 

 シスターは、子どもたちが食べる様子を見ていた。食べ残しは少ない。嫌がって吐き出す子もいない。むしろ、噛む音が面白いのか、ゆっくり食べている子もいる。

 

「町の中で作れるなら、助かりますね」

 

 シスターは言った。

 

「でも、作れるからといって、余らせて腐らせては意味がありません」

 

 リュシアが腕を組む。

 

「売れそうだからって増やすと腐らせる。腐らせたら全部損だよ」

 

 澪はうなずいた。

 

 売れるかどうかより、作りすぎないこと。食べる日数に合わせること。ぬめったら捨てること。孤児院の子どもたちが喜んで食べているからこそ、そこを間違えると危ない。

 

 エレナは、器を持った子どもたちを見ていた。

 

「屋敷で作れば、もっと綺麗な器で出せる」

 

 護衛が少し緊張した。

 

 だがエレナは、すぐ続けた。

 

「だが、ここで食べる子には届かぬのだな」

 

 澪は小さくうなずいた。

 

「はい」

 

 エレナはそれ以上、屋敷に持ち帰るとは言わなかった。

 

 

 

 

 

 大豆もやしの話は、予想より早く市場へ戻った。

 

 孤児院の子どもたちが食べた。リュシアの屋台裏でトトたちも食べた。豆売りが見た。農家の使いが見た。誰かが「町の中で作れる青いもの」と言い、別の誰かが「畦に植えられるかもしれない豆」と言った。言葉は市場の中を勝手に歩く。

 

 リュシアの屋台前に、農家の使いが一人、また一人と来た。

 

「畦なら少し試せる」

 

 一人目が言った。

 

「山羊が食うか見たい」

 

 二人目が言った。

 

「茎と莢を、麦わらと糞の積みに混ぜる話が気になる」

 

 三人目が言った。

 

 澪は、少しなら大丈夫だと思った。

 

 大豆は百キロある。半分は収納に入っている。六畳間にも残っている。小袋で少しずつなら、配れる気がした。

 

 その考えが顔に出たのだろう。

 

 リュシアがすぐに言った。

 

「澪、配っちゃだめだよ」

 

「でも、育てたいって」

 

「だからこそだよ。食べる豆じゃなくて、増やす豆になった。欲しいと言った家に袋ごと渡してたら、三日で消える」

 

「三日……」

 

 澪は、屋台裏に置いた大豆の袋を見た。

 

 百キロという数字は大きいと思っていた。だが、農家が何軒も来ると、急に心細くなる。十キロ袋は、持つと重い。けれど、配り始めると軽く消えるのかもしれない。

 

 リュシアは小袋を出し、木札を並べた。

 

「売るんじゃない。試しに渡す。まずは小袋だよ」

 

 

 

 

 

 リュシアは、小袋へ大豆を入れながら条件を口にした。

 

「これは売り豆じゃない。試し豆だよ。畦に少し。畑の端でもいい。大きい畑へ入れるのはまだ駄目。芽が出たか、虫がついたか、鳥に食われたか、山羊がかじったか、それを見てくる」

 

 農家の使いたちは、黙って聞いている。

 

 リュシアは小袋の口を縛り、木札へ相手の印をつけた。

 

「育ったら、取れた豆の一部を返す。全部食べない。根も見せる。茎と莢は、麦わらと糞の積みに入れる。そこまでやるなら渡す」

 

 エレナが横から言った。

 

「うちの領地でも試せるな」

 

「姫様も同じです。小袋からです」

 

 リュシアは即答した。

 

「私もか」

 

「当然です」

 

 護衛も即答した。

 

 エレナは不満そうだった。

 

「侯爵家だぞ」

 

「豆には関係ありません」

 

 リュシアが言うと、トトが少し笑った。

 

 エレナはトトを見た。

 

「笑うな。おまえの豆も減るのだぞ」

 

 トトの顔から笑いが消えた。

 

 

 

 

 

 トトは、小袋が増えるほど不満そうになった。

 

「俺たちの豆が減る」

 

「育ててもらえば増える」

 

 リュシアは木札を置きながら答える。

 

「いつ?」

 

「すぐじゃない」

 

「じゃあ今は減る」

 

 リュシアの手が止まった。

 

 澪も、そこで止まった。

 

 トトの言葉は、子どもらしく単純だった。だが、正しかった。育てる豆は未来の豆だ。今、鍋に入る豆ではない。今、もやしになる豆でもない。農家へ渡す小袋が増えれば、今日食べられる分は減る。

 

 澪は、今まで大豆を一つの袋として見ていたことに気づいた。

 

 食べる分。育てる分。絶対に残す分。孤児院へ渡す分。市場へ出す分。屋敷へ見せる分。全部、同じ大豆から出る。でも行き先が違えば、意味が違う。

 

 リュシアは、トトの頭を軽く押した。

 

「いいこと言ったね」

 

「俺、怒ってるんだけど」

 

「怒ってても、いいことは言える」

 

 トトは褒められたのか分からない顔をした。

 

 

 

 

 

 リュシアは屋台裏の木箱の上に、木札と小袋と銅貨を並べた。

 

 澪は、その前に座った。エレナも横からのぞき込む。護衛は、エレナが手を出さない距離を保っている。トトは不満そうに腕を組んでいた。

 

「一日にもやしを何袋作るか」

 

 リュシアは木札を一枚置く。

 

「孤児院にどれだけ出すか」

 

 もう一枚置く。

 

「市場に出すなら、どれだけ残すか。農家へ一軒小袋一つで渡すと、十軒でどれだけ消えるか」

 

 澪は最初、落ち着いて聞いていた。

 

 十軒。二十軒。五十軒。

 

 その数字が出るたびに、大豆袋が軽くなっていくような気がした。

 

「食べるだけなら持つ。増やす話になったら足りない」

 

 リュシアが言った。

 

「百キロもあるのに」

 

「百キロしかないんだよ」

 

 澪は息を呑んだ。

 

 同じ百キロなのに、さっきまでと違って聞こえた。六畳間を圧迫するほど多かった大豆が、急に頼りなくなる。

 

 リュシアは銅貨の皿を指で軽く叩いた。

 

「それに、もやしで銅貨が戻るからって、食べる分まで全部売っちゃだめだよ」

 

「売る分と、食べる分と、植える分……」

 

「そう。豆は一袋でも、行き先が違えば別物だね」

 

 澪は、木札を見た。

 

 全部大豆だ。けれど、全部同じではない。

 

 

 

 

 

 エレナは、しばらく黙って木札を見ていた。

 

「侯爵家で広く試せばよいと思ったが」

 

 リュシアは何も言わずに待った。

 

「大きく配るには、豆が足りないのだな」

 

「はい」

 

 澪が答える。

 

 エレナは、少し悔しそうに眉を寄せた。

 

「つまり、今は豆を見せびらかす時ではないのだな」

 

「はい。増やす準備の時です」

 

「なら、食べ尽くすなということだ」

 

 その言葉に、トトがすぐ反応した。

 

「食べたいのに」

 

「増えれば食べられる」

 

「いつ?」

 

 エレナは口を開けたまま止まった。

 

 護衛が横で少し笑いをこらえた。

 

 エレナは護衛をにらんだ。

 

「笑っていないな」

 

「はい、笑っておりません」

 

「声が笑っている」

 

「失礼しました」

 

 澪は、そのやり取りを見ながら少しだけ肩の力を抜いた。

 

 エレナは正しいことを言った。だが、トトの「いつ?」には答えられなかった。未来の食べ物は、今日の腹を満たさない。そこは、誰にとっても難しい。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻った澪は、大豆袋の横で帳面を開いた。

 

 まだ床には十キロ袋が残っている。相変わらず、地味な顔で場所を取っている。澪は今日リュシアに聞いた値段を思い出しながら、ゆっくり書いた。

 

 大豆もやし一袋二百グラム。原料大豆三十グラム。

 

 売値。孤児院向け、銅貨三枚。市場向け、銅貨四枚。屋敷向け、銅貨五枚から六枚。

 

 そこで、リュシアの声を思い出した。

 

 売れたお金、全部が豆代ではない。

 

 澪は横に書き足した。

 

 澪に戻る分。孤児院向け、銅貨ゼロから一枚。市場向け、銅貨一枚。屋敷向け、銅貨一枚から二枚。

 

 最初は、思ったより少ないと思った。銅貨三枚で売っても、全部が自分のものではない。水替えをした子、器を洗った子、匂いを見たシスター、リュシアの手間、捨てる分。そこを考えれば当然だ。

 

 澪は、ふと現代側の原価を計算した。

 

 大豆百キロで二万円。一キロで二百円。三十グラムなら、約六円。

 

 手が止まった。

 

「……あれ?」

 

 売値全部ではない。

 

 澪に戻るのが銅貨一枚だけでも、原料大豆三十グラムは約六円だ。銅貨一枚は、この世界では豆代として軽く扱われているが、現代側の六円とは比べものにならない。

 

 孤児院向けに安く出しても、赤字ではない。市場向けなら、かなり残る。屋敷向けで銅貨二枚戻るなら、考えたくないくらい残る。

 

 澪は、大豆袋を見た。

 

「もやし、怖い」

 

 さっきまで、豆は足りないと青ざめていた。今度は、銅貨一枚の重さに青ざめている。

 

 床に積まれた大豆袋は、相変わらず地味な顔をしていた。

 

 けれど澪には、それが急に、銅貨の山に見え始めていた。

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