リュシアの屋台裏には、湯気と豆の匂いが混じっていた。
小鍋でさっと湯通しした大豆もやしを、リュシアが木べらですくい上げる。
水を切ってスープの鍋へ落とすと、白く太い芽が汁の中へ沈んだ。
豆そのものより軽く、葉物ほど頼りなくもない。
ただし、見慣れない。
器を待つトトたちは、全員が鍋から少し離れていた。
「豆草だ」
トトが言った。
「もやしです」
澪はすぐに訂正した。
「豆なのに草じゃん」
「豆の芽です」
「じゃあ、豆草で合ってる」
「もやしです」
食べる前から、名前で負けそうだった。
リュシアは笑いながら、潰し豆のスープを器へよそう。
そこへ大豆もやしを加え、最初の1杯をトトへ差し出した。
トトは器の中をのぞき込んだ。
それから澪を見る。
「ミオは食べた?」
「食べました。火も通っています」
「腹は?」
「壊してません」
「変な味は?」
「しません」
トトはまだ疑っていたが、後ろの子どもたちが待っている。
覚悟を決めたように木匙を入れ、白い芽を口へ運んだ。
噛んだ途端、目が少し開く。
「豆なのに、しゃきっとする」
「もやしです」
「豆草の方が分かりやすいよ」
「もやしです」
同じ会話を何度もしている気がした。
それでも、トトは2口目を食べている。
後ろで見ていた子どもたちも器を受け取った。最初は白い芽だけを木匙の先でつついていたが、1人が噛むと、残りも続く。
しゃきっと音がするたび、隣の顔を見ている。
呼び名では負けている。
食べ物としては、たぶん勝っていた。
エレナも少年服姿のまま器を持ち、白い芽を木匙ですくった。
「畑から採る青物とは違うのだな」
「はい。豆を暗い場所へ置いて、毎日水を替えて育てます」
「畑はいらぬのか?」
「いりません。器と水があれば、町の中でも作れます」
エレナの目が輝いた。
「ならば、屋敷でも作れるではないか」
後ろにいたオスカーの肩が動いた。
だが、まだ止める言葉は出ない。
リュシアは鍋の蓋をずらし、火加減を確かめた。
「作れますよ」
蓋を戻してから、エレナへ顔を向ける。
「でも、屋敷で作れば、屋敷の人が食べるでしょう。市場の子どもには届きません」
エレナは木匙を止めた。
器の中へ視線を落とし、そのまま黙っている。
澪も返事を待った。
エレナは何も言わず、もやしをもう1口食べた。
リュシアは湯通しに使った器を持ち上げた。
底に残った水を捨て、洗い場に並ぶ器を見回す。
「澪。これ、うちだけで続けるのは無理だね」
「やっぱり、そうですよね」
豆を洗う器がいる。
水に浸す器も、布をかけて育てる器もいる。湯通しする鍋も必要で、使い終われば全部洗わなければならない。
屋台には客が来る。
火を使う料理もある。
その横で毎日大豆もやしを育てるには、場所も、見る人の手も足りなかった。
「水を替えるだけなら、子どもでもできます。でも、ぬめっているか、嫌な匂いがするかを子どもに決めさせるのは怖いです」
「捨てた方がいい物でも、腹が減ってたら惜しくなるからね」
「食べられそうに見えたら、食べちゃうかもしれません」
トトが器を持ったまま顔をそらした。
その動きを、リュシアは見逃さなかった。
「トト」
「ぼく、まだ何もしてないよ」
「その返事をする時は、だいたい何かする気だね」
トトはスープを飲み、口をふさいだ。
リュシアは鍋の蓋をきちんと閉めた。
「司祭様に話そう」
「司祭様に、ですか?」
「市場の子を鑑定したんだろう?」
「はい。でも、栄養状態を見たことまで話していいんでしょうか」
「澪が黙って抱えて、何人分の食事を見られるんだい」
リュシアは、空になった子どもたちの器を重ねた。
「孤児院の子にも関わる話だよ」
屋台裏の鍋1つで抱えられる人数ではない。
澪がうなずくと、エレナが器を置いた。
「孤児院で作るのか」
「洗える器と水があって、大人が最後に確かめれば、町の中でも育てられます」
「ならば、屋敷より先に孤児院だな」
澪は思わずエレナを見た。
「何だ、その顔は」
「いえ。先に屋敷へ持って帰ると仰るかと」
「言おうとは思った」
オスカーが咳払いをした。
エレナはむっとして護衛を見る。
それでも、言い直しはしなかった。
「屋敷で育てれば、屋敷の者が食べる。孤児院で育てれば、孤児院の子が食べる」
エレナは器をリュシアへ返した。
「ならば、孤児院へ持っていく」
「はい。そうしましょう」
リュシアはすぐに器をまとめ始めた。
エレナは少し得意そうだった。
褒められるのを待たずに歩き出したので、澪も何も言わず、その後を追った。
◇ ◇ ◇
教会の小部屋は、市場の屋台裏よりずっと静かだった。古い机の上には、水差しと木の杯が置かれている。
外のざわめきは壁越しに薄く聞こえるだけで、澪は自然と背筋を伸ばしていた。
持ってきた器を机へ並べる。片方には水に浸した大豆、もう片方には布の上へ広げた大豆もやしが入っている。
司祭様は器を見ても、すぐには口を開かなかった。澪が話し始めると、途中で止めず、最後まで聞いてくれた。
「この豆を水に浸して、暗い場所で育てます」
澪は大豆の器を持ち上げた。
「水は毎日替えます。嫌な匂いがしたり、ぬめったりしたものは食べません」
次にもやしの器を示す。
「食べる時は、必ず火を通します」
言葉だけでは分かりにくいため、水を替える手つきも見せた。器を傾け、豆が流れ落ちないように手で受ける。
布は洗った物を使い、濡れたまま放っておかない。使った器も、そのまま次へ回さずに洗う。
説明を続けるうちに、澪の中で引っかかる箇所が増えていった。
水を替えることも、器を運ぶことも、子どもにできる。
けれど、傷んだ物を捨てる判断まで任せるのは違う。
「子どもたちには、運んだり、水を替えたりするところを手伝ってもらえます。でも、食べられるかどうかは、大人が決めてください」
「捨てる判断もですね」
リュシアが続けた。
「腹が減っていれば、少しくらいなら平気だと思ってしまいます。見た目が悪くなければ、なおさらです」
大豆もやしへ手を伸ばしかけたトトが、その手を引っ込めた。
リュシアは見たが、今は何も言わなかった。
「食べたあとで腹を壊したら、豆より高くつきます」
司祭様はもやしへ顔を寄せた。
指では触れず、色と根の伸び方を見ている。
「市場の子を鑑定したのですね」
「はい」
澪の返事は短くなった。
「水分と塩分は、少し改善していました。でも、身体を作るものと、青物のようなものが足りていませんでした」
「孤児院にも、似た子はおります」
司祭様は大豆の器へ目を移した。
「食べる量が足りない日だけではありません。食事をしていても、身体へ届くものが足りない子がいます」
澪は大豆もやしを見た。白い芽は、机の上で布に包まれている。
屋台では変わった食感の食べ物だった。それを必要とする子が、この建物の向こうにいる。
「これが町の中で育てられるのであれば、試す価値はあるでしょう」
司祭様の言葉を聞き、エレナが机へ身を乗り出した。
「では、孤児院で作るのだな」
後ろに控えたオスカーは何も言わず、司祭様の返事を待っている。
「子どもの手を借りるのであれば、食べる分を先にしましょう」
司祭様の視線が、エレナから澪へ移った。
「売ることは、その後です」
「はい」
澪がうなずく。隣では、リュシアがもう器を持ち上げていた。
澪も残った器を抱え、孤児院の洗い場へ移った。
洗い場には桶がいくつか置かれ、古い棚の下は日が当たらない。布を干すための紐もある。
シスターは器の数を確かめてから棚へ近づき、空いている場所を手で示す。
「ここなら置けます。水を替えるのは、朝の洗い物と一緒にできますね」
「毎日、忘れずにできますか?」
「朝と夕方なら、必ず誰かがここにいます」
シスターは答えたあと、器の置き場所と洗い場までの間を歩いた。
「子どもが運ぶには、少し遠いでしょうか」
「走らなければ大丈夫だと思います」
澪も同じ道を歩き、床の出っ張りを確かめた。
話を聞きつけた子どもたちが洗い場へ集まってくる。見慣れない豆の器を囲み、何人もの手が伸びた。
「これは、まだ食べ物ではありません」
シスターの声で、手が止まった。
「食べ物にする途中です。勝手に口へ入れてはいけません」
伸ばしかけた指が、名残惜しそうに引っ込む。澪は器へ目を落とした。
豆を水に浸せば、もやしになる。知っている自分には、その途中も食べ物に見えていた。
だが、水を替え、器を洗い、傷んでいないか確かめ、火を通さなければ、この子たちへ渡す物にはならない。
「ぼくも止められた」
横からトトが言った。
「トトは、今も止められてください」
「もう食べたよ」
「食べる前の話です」
孤児院の子どもたちが笑い、トトは不服そうに口を尖らせた。
シスターは笑っている子どもたちを順に呼ぶ。
「この器は洗い場へ運びます。両手で持って、走らないこと」
最初の子へ器を渡した。
「布をかけた器は、棚の下へ置きます。水を替えたら、元の場所へ戻してください」
次の子にも器を持たせる。
最後に、自分の胸へ手を置いた。
「匂いを確かめるのは私です。捨てるかどうかも、食べてよいかも、私が決めます」
子どもたちは真剣な顔でうなずいた。
さっそく1人が器を抱え、駆け出しかける。
「走りません。豆は逃げませんよ」
シスターの声に、その子は1歩目で踏みとどまった。
「豆草は逃げない」
トトが先輩らしい顔で言う。
「もやしです」
澪の訂正だけは、考えるより先に出た。
布をかけた器が棚へ収まると、子どもの1人が名残惜しそうに手を引っ込めた。
「これ、売れるの?」
リュシアは、その子と目の高さが揃うまで腰を落とした。
「食べても腹を壊さないって分かってからだね」
膝に手を置き、棚の器を顎で示す。
「売るのは、その後だよ」
子どもは口を尖らせた。それでもシスターが見ていることに気づくと、器へ伸ばしかけていた指を背中へ隠した。
値段の話は、台所の脇ですることになった。
食べるものにも困る子がいる場所で、お金の相談をしてよいのだろうか。澪は落ち着かず、食堂から聞こえる子どもたちの声を振り返った。
リュシアは迷わなかった。棚から端の欠けた小皿を3枚借り、作業台へ横一列に並べる。長く使われた皿には、細かな傷が幾筋も走っていた。
「大豆だけなら、もやし1袋分で銅貨1枚だね」
最初の皿へ銅貨を1枚置く。
硬い音が、台所の壁へ小さく返った。
「そんなに安いんですか?」
「豆だけならね」
リュシアはもう2枚つまみ、同じ皿へ落とした。
「でも、もやしは豆じゃない。水を替える手がいる。器と布を洗う手もいる。置く場所も使うし、傷んだら捨てなきゃならない」
銅貨3枚を、指先で扇のように広げる。
「孤児院の子に出すなら、売る値はこのくらい。銅貨3枚だ」
そのうちの1枚を、皿の端へ分けた。
「これは豆代として澪へ戻すか、次の豆を買うために残す」
中央に残った2枚を、今度は左右へ離す。
「こっちは水を替えた子、器を洗った子、傷みを見分けるシスターの仕事。それと、腐って売れなかった分だね」
澪は3枚の銅貨を見つめた。
並んでいる時は同じ銅貨だったのに、置かれた場所ごとに違う人の手へ見えてくる。
「私に1枚、ですか?」
「戻さない袋があってもいいよ。孤児院で使うなら、その1枚を次の豆代に取っておくやり方もある」
リュシアは澪を見上げた。
「毎回、あんたが豆をただで持ち込むつもりかい?」
澪は答えられなかった。子どもたちに食べてもらうことばかり考えて、その次の豆がどこから来るかまでは考えていなかった。
リュシアは2枚目の皿へ、銅貨を4枚置いた。
「市場で売るなら4枚」
1枚を澪の側へ寄せる。
「豆代は1枚。残りは水替え、洗い物、売り場に立つ者、うちの手間、捨てる分」
売れた時の4枚だけではない。
売れなかった時に消える豆と、そこまでに動いた手も、値段の中に入っている。
「屋敷へ売る時は?」
エレナが3枚目の皿を覗き込んだ。
リュシアは銅貨を5枚置き、6枚目だけを指で挟んだまま止める。
「屋敷や商人へ、珍しい青物として出すなら5枚か6枚でしょうね」
挟んでいた1枚を、皿へ立てかける。
「その時は、澪へ1枚か2枚戻してもいい。綺麗な器へ盛って料理にするなら、その先の値段は屋敷で決めてください」
「同じ豆草なのに、値段が違うのだな」
「もやしです」
澪の訂正に、エレナは聞こえないふりをした。
「食べる人も、売る場所も、かかる手間も違いますから」
リュシアは3枚の皿を順に指した。
「安く届けたい場所と、高く買える場所へ同じ値をつける必要はありません。ただし、誰かの働きをただにして安くするのは駄目です」
澪の視線が、孤児院向けの皿へ戻る。
「思ったより、私の分は少ないんですね」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
リュシアは笑わなかった。
「最初から取りすぎると広がらないよ。作っても子どもの腹に入らないんじゃ、続ける意味もない」
シスターが、小皿の銅貨を1枚ずつ確かめるように見た。
「子どもの手も、仕事として数えていただけるのですね」
「水替えも洗い物も、手を動かすのは同じです」
リュシアは、孤児院向けの皿をシスターの側へ押した。
「ただし、食べる分が先です。働いたのに腹には入らない、じゃあ子どもにはきついですからね」
「はい。それなら、お願いします」
シスターの指が欠けた皿の縁へ触れる。澪には、そこに載った銅貨3枚が最初よりずっと重く見えた。
試食用に育てた大豆もやしは、その日の昼のスープへ入れられた。潰した豆のとろりとした汁に、湯通しされた白い芽が浮かんでいる。
豪華な料理ではない。器も、普段使っている木の器だった。
けれど、列に並んだ子どもたちは、器を受け取った途端に首を伸ばした。
「白いのが入ってる」
「朝の豆?」
「まだ食べるなと言われたやつだ」
「今は食べてよいものです」
シスターが念を押すと、小さな木匙が一斉に動いた。最初の1人が、白い芽を前歯で噛む。
しゃくり、と小さな音がした。
「草なのに、噛むと音がする」
「豆草だからだよ」
トトが自分で育てたような顔をして、胸を張った。
「もやしです」
「ミオ、まだ言ってる」
「名前は大事です」
「みんな豆草って言ってるよ」
澪が食卓を見回すと、隣の子へ味を説明する声にも、もう豆草という言葉が混じっていた。
多数決を採った覚えはない。それでも、完敗している。
シスターは食卓の間をゆっくり歩き、子どもたちの顔と器の減り方を確かめる。口から出す子はいない。食べ残しも少ない。
歯触りが面白いのか、白い芽だけを匙で探し、わざとゆっくり噛んでいる子までいた。
「町の中で作れるなら、助かりますね」
空になった器を受け取りながら、シスターが言った。
「作る量は、食べる人数と日数に合わせましょう。余ったものを翌日へ回すのは怖いです」
「売れそうだからって、1度に増やすのも駄目だね」
リュシアが洗い場へ運ぶ器を重ねる。
「ぬめったら捨てる。嫌な匂いがしても捨てる。惜しんで腹を壊したら、豆も働いた手も、全部なくなるよ」
澪も器を受け取り、重ねた山を両手で支えた。空の器は軽い。
子どもたちが嬉しそうに食べたあとだからこそ、作りすぎて捨てる器にはしたくなかった。
エレナは、匙についた最後の1本まで食べ終えた子どもを眺めていた。
「屋敷で作れば、もっと綺麗な器で出せる」
オスカーの肩が、わずかに強張った。
だが、エレナは自分の器へ目を落として続けた。
「だが、それではここで食べる子には届かぬのだな」
オスカーの肩から力が抜ける。
「はい」
澪が答えると、エレナは空の器をシスターへ両手で返した。
「ならば、ここで作る分を先に覚えればよい」
◇ ◇ ◇
大豆もやしの話は、澪たちより先に市場へ戻っていた。
孤児院の子どもが食べた。リュシアの屋台でも出た。町の中で、土がなくても作れる青物らしい。
豆売りから荷運び人へ、荷運び人から農家の使いへ。人の口を渡るたびに話は少しずつ形を変え、昼前には屋台の前へ戻ってきた。
「畦なら、少し試せる」
最初に来た男が、日に焼けた指で屋台の外を指した。
「畑の真ん中は無理でも、端なら空いてる。土に合うか見たいんだ」
その後ろから、別の男が首を伸ばす。
「うちは山羊が食うか見たい。人の口に合わなくても、山羊が太るなら使える」
「茎と莢はどうする?」
さらに後ろの男が声を上げた。
「麦わらと糞の山へ混ぜる話があるだろ。腐らせて畑へ戻せるなら、豆だけの話じゃない」
気づけば、農家の使いたちが屋台の前に列を作っていた。誰も芽の伸びたもやしだけを見ていない。
畑へ植える豆、山羊へ食べさせる葉、土へ戻す茎と莢。それぞれが、自分の家で使える姿を思い浮かべている。
澪は、屋台裏に置いた大豆袋を振り返った。大豆は100kgある。
半分は収納へ入れ、残りは江古田の六畳間と屋台裏へ分けてある。畦へ植えるだけなら、小袋を1つずつ渡しても困らないように思えた。
「少しずつなら――」
「澪、配っちゃ駄目だよ」
リュシアの声が、澪の手より先に飛んだ。
「でも、育てたいと言ってくれてます」
「だから止めるんだよ」
リュシアは屋台裏へ入り、澪と大豆袋の間へ立った。
「これはもう、食べる豆だけじゃない。増やす豆になったんだ」
袋の口を軽く叩く。
「欲しいと言う家へ袋で渡してたら、3日でなくなるよ」
「3日……」
10kgの袋は、持ち上げれば両腕へ重さが食い込む。江古田の六畳間へ置けば、足を引っかけそうになるほど邪魔だった。
その重い袋が、農家の軒数で割るだけで消える。澪が列を数える間にも、最後尾へまた1人加わった。
リュシアは大袋ではなく、片手に収まる小袋を取り出した。その横へ木札を重ね、炭の欠片を置く。
「売り豆じゃない。試し豆だよ」
列の先頭へ向き直り、小袋を1つ持ち上げた。
「渡すのは、1軒に1袋だけ」
「これだけか?」
「これだけだから試せるんだよ」
リュシアの声から、屋台で客を呼ぶ時の笑いが消えた。
「畦か、畑の端へ植える。いきなり大きな畑へ入れない。芽が出たか、虫がついたか、鳥に食われたか、山羊がかじったか。見たことを隠さず持ってくる」
小袋へ豆を入れる。
乾いた粒が布へ当たり、ぱらぱらと鳴った。
「育ったら、採れた豆の一部を返す。全部食べない」
袋の口を紐で縛る。
「根も持ってくる。茎と莢を麦わらと糞へ混ぜたなら、土へ戻すまで様子を見る」
木札へ相手の印をつけ、小袋の紐へ通した。
「そこまでやれる家にだけ渡すよ」
先頭の男は軽くなった声を引っ込め、木札の印を確かめた。
「分かった。芽が出なかった時も言いに来る」
「それが一番大事だね」
次の男も、その次の男も、小袋を受け取ると自分の印を確かめた。
誰も、もっと寄越せとは言わなかった。
「うちの領地でも試せるな」
横から見ていたエレナが、当然のように手を差し出した。
リュシアは次の小袋を持ったまま、その手を見下ろす。
「姫様も1袋からです」
「私もか?」
「当然です」
答えたのはオスカーだった。
エレナは手を差し出した姿勢のまま、護衛を振り返る。
「侯爵家だぞ」
「豆には関係ありません」
リュシアにも重ねて言われ、エレナの眉が寄った。
トトが堪えきれずに吹き出す。
「笑うな。おまえの豆も減るのだぞ」
トトの笑いがぴたりと止まった。
列へ渡されていく小袋を数える。1つ、また1つと増えるたび、口元が下がり、腕が胸の前で固く組まれた。
「ぼくたちの豆が減る」
「農家に育ててもらえば増えるよ」
リュシアは新しい木札へ印をつけながら答えた。
「いつ?」
「すぐには増えないね」
「じゃあ、今は減る」
リュシアの炭が木札の上で止まり、澪の指も豆を量る途中で止まる。
農家へ渡した豆は、次の収穫まで鍋へ入らない。暗い器へ入れて、もやしにすることもできない。
芽が出なければ戻らない。鳥に食べられても、虫に負けても戻らない。うまく育って初めて、今より多くなるかもしれない豆だった。
リュシアは炭を置き、トトの頭へ手を伸ばした。
「いいことを言ったね」
「ぼく、怒ってるんだけど」
「怒ってても、いいことは言える」
トトは眉を吊り上げたまま、口元だけを少し緩めた。褒められた顔をするべきか、まだ怒っている顔を守るべきか、決めかねているらしい。
農家の使いたちが帰ると、リュシアは屋台裏の木箱を空けた。
木箱の上へ用途を書いた木札を1枚ずつ並べていく。今日食べる分、孤児院へ回す分、市場で売る分、屋敷へ見せる分、農家へ渡す分。そして、減らしてはいけない予備。
同じ色、同じ形の豆なのに、札が置かれるたび別のものへ変わって見えた。
澪は木箱の前へしゃがみ込んだ。エレナも裾を気にせず横から覗き込み、オスカーはその手が大豆袋へ伸びない距離に立っている。
トトだけは、まだ不満そうに腕を組んでいた。
「1日に、もやしを何袋作る?」
リュシアが、最初の木札を指で叩いた。
「孤児院で食べる人数から決めます」
「市場へ出すなら?」
「余る量は作りません」
「屋敷へ見せる分は?」
「毎日でなくてもいいと思います」
リュシアは頷き、農家の札を手前へ出した。
「農家が10軒、20軒、50軒と増えたら?」
澪の返事が遅れた。数字が増えるたびに、屋台裏の大袋がしぼんでいくように見える。
食べる分を増やせば、植える分が減る。植える分を増やせば、孤児院へ出せるもやしが減る。
市場で売り切れば銅貨は増えるが、次に育てる豆がなくなる。
「食べるだけなら持つ」
リュシアは木札を、指先で2つに分けた。
「増やす分まで一緒に出したら、足りないよ」
「100kgもあるのに」
「100kgしかないんだよ」
澪は大豆袋を見た。江古田の六畳間を圧迫していた100kgが、同じ数字のまま急に頼りなくなった。
エレナも木札から目を離さない。
「侯爵家で広く試せば、早く増やせると思ったのだが」
「広く植える豆がありません」
澪が答えると、エレナは自分に渡された小袋を持ち上げた。
片手で隠せそうな量しか入っていない。
「大きく配るには、豆が足りないのだな」
「はい。今は、これを増やす準備からです」
エレナは悔しそうに唇を結び、小袋を胸元へ抱えた。
「ならば、今ある豆を食べ尽くしてはならぬ」
「でも、食べたい」
トトが即座に言った。
「増えれば食べられる」
「いつ?」
エレナの口が、答えを出せないまま開いて止まった。
隣で、オスカーの息が小さく漏れる。
「笑っていないな」
「はい、笑っておりません」
「声が笑っている」
「失礼しました」
エレナは小袋を抱えたまま、オスカーを睨んだ。
未来に増える豆は、今日の鍋には入らない。
トトはまだ納得していない顔だったが、農家へ渡す小袋に手を伸ばすことはなかった。
◇ ◇ ◇
江古田の六畳間へ戻った澪は、大豆袋の隣へ座り込んだ。押し入れの前には、まだ10kg袋が1つ残っている。
持ち上げれば腰へくるほど重い。部屋を横切る時には邪魔で、蹴らないように避けなければならない。
農家へ配る小袋を見たあとでは、それでも心細かった。
澪はローテーブルへ帳面を広げ、リュシアと決めた数字を1つずつ書き出していく。
大豆もやし1袋、200g。必要な大豆、30g。
売値は、孤児院向けが銅貨3枚。市場向けは4枚。屋敷向けなら銅貨5枚から6枚。
3つの値を縦に揃えたところで、澪の筆が止まった。売れた銅貨を、全部自分の売上にしてはいけない。
孤児院向けの3枚には、水を替えた子の手が入っている。器や布を洗った子の手も、食べられるか確かめるシスターの目も、傷んで捨てる分も入っている。
市場向けの4枚には、それを売り場へ運び、客へ渡す手間が増える。
澪は、売値の隣へ小さく書き足した。
澪へ戻る分は、孤児院向けが銅貨0枚から1枚。市場向けが銅貨1枚。屋敷向けは銅貨1枚から2枚。
銅貨3枚で売っても、自分へ戻るのは多くて1枚。最初に聞いた時は、少ないと思った。
だが、皿へ分けられた銅貨を思い出せば、残りが消えるわけではない。もやしを食べ物にするまで動いた人へ渡るのだ。
澪は新しい行を空け、農家へ渡した試し豆の数も書いた。その横へ、食べる分、孤児院の分、市場の分、屋敷の分、植える分、予備と並べる。
1つの袋から、いくつもの行へ線が伸びていく。100kgもあると思っていた豆が、紙の上ではあっという間に分かれてしまった。
澪は筆を置き、大豆袋へ手を伸ばした。布越しに触れた粒は、硬くて小さい。
この1粒を食べればなくなる。暗いところで育てれば、もやしになる。畑へ植えてうまく育てば、先の豆が増える。
同じ豆なのに、選んだ行き先で今日の食事にも、明日の売り物にも、先の種にもなる。
澪は帳面へ戻り、余白にゲンダイで買った大豆の値段を書いた。
100kgで約2万円。1kgなら200円。もやし1袋に使う30gは――約6円。
「……あれ?」
筆の尻で頭を掻き、もう1度計算した。200円を1000gで割り、それに30gを掛ける。
何度見ても、6円だった。
孤児院向けで、自分へ銅貨が1枚も戻らない袋があっても構わない。次の豆代として銅貨1枚を残せるだけで、原料の6円は軽く超えてしまう。
市場向けなら銅貨1枚、屋敷向けなら1枚か2枚が戻る。
銅貨の価値を日本円へ乱暴に置き換えることはできない。それでも、30gで約6円という数字と並べるには、差が大きすぎた。
澪は帳面から顔を上げた。部屋の隅には、地味な布袋が変わらない顔で積まれている。
さっきまでは、何食分に分ければなくなるのかを考えるのが怖かった。
今度は、あの袋から何枚の銅貨が生まれるのか、数えるほうが怖い。
「もやし、怖い」
六畳間で場所を取っているだけだった大豆袋が、澪の目には急に銅貨の山へ見えた。