押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第19話 豆は足りない

 リュシアの屋台裏には、湯気と豆の匂いが混じっていた。

 

 小鍋でさっと湯通しした大豆もやしを、リュシアが木べらですくい上げる。

 

 水を切ってスープの鍋へ落とすと、白く太い芽が汁の中へ沈んだ。

 

 豆そのものより軽く、葉物ほど頼りなくもない。

 

 ただし、見慣れない。

 

 器を待つトトたちは、全員が鍋から少し離れていた。

 

「豆草だ」

 

 トトが言った。

 

「もやしです」

 

 澪はすぐに訂正した。

 

「豆なのに草じゃん」

 

「豆の芽です」

 

「じゃあ、豆草で合ってる」

 

「もやしです」

 

 食べる前から、名前で負けそうだった。

 

 リュシアは笑いながら、潰し豆のスープを器へよそう。

 

 そこへ大豆もやしを加え、最初の1杯をトトへ差し出した。

 

 トトは器の中をのぞき込んだ。

 

 それから澪を見る。

 

「ミオは食べた?」

 

「食べました。火も通っています」

 

「腹は?」

 

「壊してません」

 

「変な味は?」

 

「しません」

 

 トトはまだ疑っていたが、後ろの子どもたちが待っている。

 

 覚悟を決めたように木匙を入れ、白い芽を口へ運んだ。

 

 噛んだ途端、目が少し開く。

 

「豆なのに、しゃきっとする」

 

「もやしです」

 

「豆草の方が分かりやすいよ」

 

「もやしです」

 

 同じ会話を何度もしている気がした。

 

 それでも、トトは2口目を食べている。

 

 後ろで見ていた子どもたちも器を受け取った。最初は白い芽だけを木匙の先でつついていたが、1人が噛むと、残りも続く。

 

 しゃきっと音がするたび、隣の顔を見ている。

 

 呼び名では負けている。

 

 食べ物としては、たぶん勝っていた。

 

 エレナも少年服姿のまま器を持ち、白い芽を木匙ですくった。

 

「畑から採る青物とは違うのだな」

 

「はい。豆を暗い場所へ置いて、毎日水を替えて育てます」

 

「畑はいらぬのか?」

 

「いりません。器と水があれば、町の中でも作れます」

 

 エレナの目が輝いた。

 

「ならば、屋敷でも作れるではないか」

 

 後ろにいたオスカーの肩が動いた。

 

 だが、まだ止める言葉は出ない。

 

 リュシアは鍋の蓋をずらし、火加減を確かめた。

 

「作れますよ」

 

 蓋を戻してから、エレナへ顔を向ける。

 

「でも、屋敷で作れば、屋敷の人が食べるでしょう。市場の子どもには届きません」

 

 エレナは木匙を止めた。

 

 器の中へ視線を落とし、そのまま黙っている。

 

 澪も返事を待った。

 

 エレナは何も言わず、もやしをもう1口食べた。

 

 リュシアは湯通しに使った器を持ち上げた。

 

 底に残った水を捨て、洗い場に並ぶ器を見回す。

 

「澪。これ、うちだけで続けるのは無理だね」

 

「やっぱり、そうですよね」

 

 豆を洗う器がいる。

 

 水に浸す器も、布をかけて育てる器もいる。湯通しする鍋も必要で、使い終われば全部洗わなければならない。

 

 屋台には客が来る。

 

 火を使う料理もある。

 

 その横で毎日大豆もやしを育てるには、場所も、見る人の手も足りなかった。

 

「水を替えるだけなら、子どもでもできます。でも、ぬめっているか、嫌な匂いがするかを子どもに決めさせるのは怖いです」

 

「捨てた方がいい物でも、腹が減ってたら惜しくなるからね」

 

「食べられそうに見えたら、食べちゃうかもしれません」

 

 トトが器を持ったまま顔をそらした。

 

 その動きを、リュシアは見逃さなかった。

 

「トト」

 

「ぼく、まだ何もしてないよ」

 

「その返事をする時は、だいたい何かする気だね」

 

 トトはスープを飲み、口をふさいだ。

 

 リュシアは鍋の蓋をきちんと閉めた。

 

「司祭様に話そう」

 

「司祭様に、ですか?」

 

「市場の子を鑑定したんだろう?」

 

「はい。でも、栄養状態を見たことまで話していいんでしょうか」

 

「澪が黙って抱えて、何人分の食事を見られるんだい」

 

 リュシアは、空になった子どもたちの器を重ねた。

 

「孤児院の子にも関わる話だよ」

 

 屋台裏の鍋1つで抱えられる人数ではない。

 

 澪がうなずくと、エレナが器を置いた。

 

「孤児院で作るのか」

 

「洗える器と水があって、大人が最後に確かめれば、町の中でも育てられます」

 

「ならば、屋敷より先に孤児院だな」

 

 澪は思わずエレナを見た。

 

「何だ、その顔は」

 

「いえ。先に屋敷へ持って帰ると仰るかと」

 

「言おうとは思った」

 

 オスカーが咳払いをした。

 

 エレナはむっとして護衛を見る。

 

 それでも、言い直しはしなかった。

 

「屋敷で育てれば、屋敷の者が食べる。孤児院で育てれば、孤児院の子が食べる」

 

 エレナは器をリュシアへ返した。

 

「ならば、孤児院へ持っていく」

 

「はい。そうしましょう」

 

 リュシアはすぐに器をまとめ始めた。

 

 エレナは少し得意そうだった。

 

 褒められるのを待たずに歩き出したので、澪も何も言わず、その後を追った。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 教会の小部屋は、市場の屋台裏よりずっと静かだった。古い机の上には、水差しと木の杯が置かれている。

 

 外のざわめきは壁越しに薄く聞こえるだけで、澪は自然と背筋を伸ばしていた。

 

 持ってきた器を机へ並べる。片方には水に浸した大豆、もう片方には布の上へ広げた大豆もやしが入っている。

 

 司祭様は器を見ても、すぐには口を開かなかった。澪が話し始めると、途中で止めず、最後まで聞いてくれた。

 

「この豆を水に浸して、暗い場所で育てます」

 

 澪は大豆の器を持ち上げた。

 

「水は毎日替えます。嫌な匂いがしたり、ぬめったりしたものは食べません」

 

 次にもやしの器を示す。

 

「食べる時は、必ず火を通します」

 

 言葉だけでは分かりにくいため、水を替える手つきも見せた。器を傾け、豆が流れ落ちないように手で受ける。

 

 布は洗った物を使い、濡れたまま放っておかない。使った器も、そのまま次へ回さずに洗う。

 

 説明を続けるうちに、澪の中で引っかかる箇所が増えていった。

 

 水を替えることも、器を運ぶことも、子どもにできる。

 

 けれど、傷んだ物を捨てる判断まで任せるのは違う。

 

「子どもたちには、運んだり、水を替えたりするところを手伝ってもらえます。でも、食べられるかどうかは、大人が決めてください」

 

「捨てる判断もですね」

 

 リュシアが続けた。

 

「腹が減っていれば、少しくらいなら平気だと思ってしまいます。見た目が悪くなければ、なおさらです」

 

 大豆もやしへ手を伸ばしかけたトトが、その手を引っ込めた。

 

 リュシアは見たが、今は何も言わなかった。

 

「食べたあとで腹を壊したら、豆より高くつきます」

 

 司祭様はもやしへ顔を寄せた。

 

 指では触れず、色と根の伸び方を見ている。

 

「市場の子を鑑定したのですね」

 

「はい」

 

 澪の返事は短くなった。

 

「水分と塩分は、少し改善していました。でも、身体を作るものと、青物のようなものが足りていませんでした」

 

「孤児院にも、似た子はおります」

 

 司祭様は大豆の器へ目を移した。

 

「食べる量が足りない日だけではありません。食事をしていても、身体へ届くものが足りない子がいます」

 

 澪は大豆もやしを見た。白い芽は、机の上で布に包まれている。

 

 屋台では変わった食感の食べ物だった。それを必要とする子が、この建物の向こうにいる。

 

「これが町の中で育てられるのであれば、試す価値はあるでしょう」

 

 司祭様の言葉を聞き、エレナが机へ身を乗り出した。

 

「では、孤児院で作るのだな」

 

 後ろに控えたオスカーは何も言わず、司祭様の返事を待っている。

 

「子どもの手を借りるのであれば、食べる分を先にしましょう」

 

 司祭様の視線が、エレナから澪へ移った。

 

「売ることは、その後です」

 

「はい」

 

 澪がうなずく。隣では、リュシアがもう器を持ち上げていた。

 

 澪も残った器を抱え、孤児院の洗い場へ移った。

 

 洗い場には桶がいくつか置かれ、古い棚の下は日が当たらない。布を干すための紐もある。

 

 シスターは器の数を確かめてから棚へ近づき、空いている場所を手で示す。

 

「ここなら置けます。水を替えるのは、朝の洗い物と一緒にできますね」

 

「毎日、忘れずにできますか?」

 

「朝と夕方なら、必ず誰かがここにいます」

 

 シスターは答えたあと、器の置き場所と洗い場までの間を歩いた。

 

「子どもが運ぶには、少し遠いでしょうか」

 

「走らなければ大丈夫だと思います」

 

 澪も同じ道を歩き、床の出っ張りを確かめた。

 

 話を聞きつけた子どもたちが洗い場へ集まってくる。見慣れない豆の器を囲み、何人もの手が伸びた。

 

「これは、まだ食べ物ではありません」

 

 シスターの声で、手が止まった。

 

「食べ物にする途中です。勝手に口へ入れてはいけません」

 

 伸ばしかけた指が、名残惜しそうに引っ込む。澪は器へ目を落とした。

 

 豆を水に浸せば、もやしになる。知っている自分には、その途中も食べ物に見えていた。

 

 だが、水を替え、器を洗い、傷んでいないか確かめ、火を通さなければ、この子たちへ渡す物にはならない。

 

「ぼくも止められた」

 

 横からトトが言った。

 

「トトは、今も止められてください」

 

「もう食べたよ」

 

「食べる前の話です」

 

 孤児院の子どもたちが笑い、トトは不服そうに口を尖らせた。

 

 シスターは笑っている子どもたちを順に呼ぶ。

 

「この器は洗い場へ運びます。両手で持って、走らないこと」

 

 最初の子へ器を渡した。

 

「布をかけた器は、棚の下へ置きます。水を替えたら、元の場所へ戻してください」

 

 次の子にも器を持たせる。

 

 最後に、自分の胸へ手を置いた。

 

「匂いを確かめるのは私です。捨てるかどうかも、食べてよいかも、私が決めます」

 

 子どもたちは真剣な顔でうなずいた。

 

 さっそく1人が器を抱え、駆け出しかける。

 

「走りません。豆は逃げませんよ」

 

 シスターの声に、その子は1歩目で踏みとどまった。

 

「豆草は逃げない」

 

 トトが先輩らしい顔で言う。

 

「もやしです」

 

 澪の訂正だけは、考えるより先に出た。

 

 布をかけた器が棚へ収まると、子どもの1人が名残惜しそうに手を引っ込めた。

 

「これ、売れるの?」

 

 リュシアは、その子と目の高さが揃うまで腰を落とした。

 

「食べても腹を壊さないって分かってからだね」

 

 膝に手を置き、棚の器を顎で示す。

 

「売るのは、その後だよ」

 

 子どもは口を尖らせた。それでもシスターが見ていることに気づくと、器へ伸ばしかけていた指を背中へ隠した。

 

 値段の話は、台所の脇ですることになった。

 

 食べるものにも困る子がいる場所で、お金の相談をしてよいのだろうか。澪は落ち着かず、食堂から聞こえる子どもたちの声を振り返った。

 

 リュシアは迷わなかった。棚から端の欠けた小皿を3枚借り、作業台へ横一列に並べる。長く使われた皿には、細かな傷が幾筋も走っていた。

 

「大豆だけなら、もやし1袋分で銅貨1枚だね」

 

 最初の皿へ銅貨を1枚置く。

 

 硬い音が、台所の壁へ小さく返った。

 

「そんなに安いんですか?」

 

「豆だけならね」

 

 リュシアはもう2枚つまみ、同じ皿へ落とした。

 

「でも、もやしは豆じゃない。水を替える手がいる。器と布を洗う手もいる。置く場所も使うし、傷んだら捨てなきゃならない」

 

 銅貨3枚を、指先で扇のように広げる。

 

「孤児院の子に出すなら、売る値はこのくらい。銅貨3枚だ」

 

 そのうちの1枚を、皿の端へ分けた。

 

「これは豆代として澪へ戻すか、次の豆を買うために残す」

 

 中央に残った2枚を、今度は左右へ離す。

 

「こっちは水を替えた子、器を洗った子、傷みを見分けるシスターの仕事。それと、腐って売れなかった分だね」

 

 澪は3枚の銅貨を見つめた。

 

 並んでいる時は同じ銅貨だったのに、置かれた場所ごとに違う人の手へ見えてくる。

 

「私に1枚、ですか?」

 

「戻さない袋があってもいいよ。孤児院で使うなら、その1枚を次の豆代に取っておくやり方もある」

 

 リュシアは澪を見上げた。

 

「毎回、あんたが豆をただで持ち込むつもりかい?」

 

 澪は答えられなかった。子どもたちに食べてもらうことばかり考えて、その次の豆がどこから来るかまでは考えていなかった。

 

 リュシアは2枚目の皿へ、銅貨を4枚置いた。

 

「市場で売るなら4枚」

 

 1枚を澪の側へ寄せる。

 

「豆代は1枚。残りは水替え、洗い物、売り場に立つ者、うちの手間、捨てる分」

 

 売れた時の4枚だけではない。

 

 売れなかった時に消える豆と、そこまでに動いた手も、値段の中に入っている。

 

「屋敷へ売る時は?」

 

 エレナが3枚目の皿を覗き込んだ。

 

 リュシアは銅貨を5枚置き、6枚目だけを指で挟んだまま止める。

 

「屋敷や商人へ、珍しい青物として出すなら5枚か6枚でしょうね」

 

 挟んでいた1枚を、皿へ立てかける。

 

「その時は、澪へ1枚か2枚戻してもいい。綺麗な器へ盛って料理にするなら、その先の値段は屋敷で決めてください」

 

「同じ豆草なのに、値段が違うのだな」

 

「もやしです」

 

 澪の訂正に、エレナは聞こえないふりをした。

 

「食べる人も、売る場所も、かかる手間も違いますから」

 

 リュシアは3枚の皿を順に指した。

 

「安く届けたい場所と、高く買える場所へ同じ値をつける必要はありません。ただし、誰かの働きをただにして安くするのは駄目です」

 

 澪の視線が、孤児院向けの皿へ戻る。

 

「思ったより、私の分は少ないんですね」

 

 口にしてから、少し恥ずかしくなった。

 

 リュシアは笑わなかった。

 

「最初から取りすぎると広がらないよ。作っても子どもの腹に入らないんじゃ、続ける意味もない」

 

 シスターが、小皿の銅貨を1枚ずつ確かめるように見た。

 

「子どもの手も、仕事として数えていただけるのですね」

 

「水替えも洗い物も、手を動かすのは同じです」

 

 リュシアは、孤児院向けの皿をシスターの側へ押した。

 

「ただし、食べる分が先です。働いたのに腹には入らない、じゃあ子どもにはきついですからね」

 

「はい。それなら、お願いします」

 

 シスターの指が欠けた皿の縁へ触れる。澪には、そこに載った銅貨3枚が最初よりずっと重く見えた。

 

 試食用に育てた大豆もやしは、その日の昼のスープへ入れられた。潰した豆のとろりとした汁に、湯通しされた白い芽が浮かんでいる。

 

 豪華な料理ではない。器も、普段使っている木の器だった。

 

 けれど、列に並んだ子どもたちは、器を受け取った途端に首を伸ばした。

 

「白いのが入ってる」

 

「朝の豆?」

 

「まだ食べるなと言われたやつだ」

 

「今は食べてよいものです」

 

 シスターが念を押すと、小さな木匙が一斉に動いた。最初の1人が、白い芽を前歯で噛む。

 

 しゃくり、と小さな音がした。

 

「草なのに、噛むと音がする」

 

「豆草だからだよ」

 

 トトが自分で育てたような顔をして、胸を張った。

 

「もやしです」

 

「ミオ、まだ言ってる」

 

「名前は大事です」

 

「みんな豆草って言ってるよ」

 

 澪が食卓を見回すと、隣の子へ味を説明する声にも、もう豆草という言葉が混じっていた。

 

 多数決を採った覚えはない。それでも、完敗している。

 

 シスターは食卓の間をゆっくり歩き、子どもたちの顔と器の減り方を確かめる。口から出す子はいない。食べ残しも少ない。

 

 歯触りが面白いのか、白い芽だけを匙で探し、わざとゆっくり噛んでいる子までいた。

 

「町の中で作れるなら、助かりますね」

 

 空になった器を受け取りながら、シスターが言った。

 

「作る量は、食べる人数と日数に合わせましょう。余ったものを翌日へ回すのは怖いです」

 

「売れそうだからって、1度に増やすのも駄目だね」

 

 リュシアが洗い場へ運ぶ器を重ねる。

 

「ぬめったら捨てる。嫌な匂いがしても捨てる。惜しんで腹を壊したら、豆も働いた手も、全部なくなるよ」

 

 澪も器を受け取り、重ねた山を両手で支えた。空の器は軽い。

 

 子どもたちが嬉しそうに食べたあとだからこそ、作りすぎて捨てる器にはしたくなかった。

 

 エレナは、匙についた最後の1本まで食べ終えた子どもを眺めていた。

 

「屋敷で作れば、もっと綺麗な器で出せる」

 

 オスカーの肩が、わずかに強張った。

 

 だが、エレナは自分の器へ目を落として続けた。

 

「だが、それではここで食べる子には届かぬのだな」

 

 オスカーの肩から力が抜ける。

 

「はい」

 

 澪が答えると、エレナは空の器をシスターへ両手で返した。

 

「ならば、ここで作る分を先に覚えればよい」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 大豆もやしの話は、澪たちより先に市場へ戻っていた。

 

 孤児院の子どもが食べた。リュシアの屋台でも出た。町の中で、土がなくても作れる青物らしい。

 

 豆売りから荷運び人へ、荷運び人から農家の使いへ。人の口を渡るたびに話は少しずつ形を変え、昼前には屋台の前へ戻ってきた。

 

「畦なら、少し試せる」

 

 最初に来た男が、日に焼けた指で屋台の外を指した。

 

「畑の真ん中は無理でも、端なら空いてる。土に合うか見たいんだ」

 

 その後ろから、別の男が首を伸ばす。

 

「うちは山羊が食うか見たい。人の口に合わなくても、山羊が太るなら使える」

 

「茎と莢はどうする?」

 

 さらに後ろの男が声を上げた。

 

「麦わらと糞の山へ混ぜる話があるだろ。腐らせて畑へ戻せるなら、豆だけの話じゃない」

 

 気づけば、農家の使いたちが屋台の前に列を作っていた。誰も芽の伸びたもやしだけを見ていない。

 

 畑へ植える豆、山羊へ食べさせる葉、土へ戻す茎と莢。それぞれが、自分の家で使える姿を思い浮かべている。

 

 澪は、屋台裏に置いた大豆袋を振り返った。大豆は100kgある。

 

 半分は収納へ入れ、残りは江古田の六畳間と屋台裏へ分けてある。畦へ植えるだけなら、小袋を1つずつ渡しても困らないように思えた。

 

「少しずつなら――」

 

「澪、配っちゃ駄目だよ」

 

 リュシアの声が、澪の手より先に飛んだ。

 

「でも、育てたいと言ってくれてます」

 

「だから止めるんだよ」

 

 リュシアは屋台裏へ入り、澪と大豆袋の間へ立った。

 

「これはもう、食べる豆だけじゃない。増やす豆になったんだ」

 

 袋の口を軽く叩く。

 

「欲しいと言う家へ袋で渡してたら、3日でなくなるよ」

 

「3日……」

 

 10kgの袋は、持ち上げれば両腕へ重さが食い込む。江古田の六畳間へ置けば、足を引っかけそうになるほど邪魔だった。

 

 その重い袋が、農家の軒数で割るだけで消える。澪が列を数える間にも、最後尾へまた1人加わった。

 

 リュシアは大袋ではなく、片手に収まる小袋を取り出した。その横へ木札を重ね、炭の欠片を置く。

 

「売り豆じゃない。試し豆だよ」

 

 列の先頭へ向き直り、小袋を1つ持ち上げた。

 

「渡すのは、1軒に1袋だけ」

 

「これだけか?」

 

「これだけだから試せるんだよ」

 

 リュシアの声から、屋台で客を呼ぶ時の笑いが消えた。

 

「畦か、畑の端へ植える。いきなり大きな畑へ入れない。芽が出たか、虫がついたか、鳥に食われたか、山羊がかじったか。見たことを隠さず持ってくる」

 

 小袋へ豆を入れる。

 

 乾いた粒が布へ当たり、ぱらぱらと鳴った。

 

「育ったら、採れた豆の一部を返す。全部食べない」

 

 袋の口を紐で縛る。

 

「根も持ってくる。茎と莢を麦わらと糞へ混ぜたなら、土へ戻すまで様子を見る」

 

 木札へ相手の印をつけ、小袋の紐へ通した。

 

「そこまでやれる家にだけ渡すよ」

 

 先頭の男は軽くなった声を引っ込め、木札の印を確かめた。

 

「分かった。芽が出なかった時も言いに来る」

 

「それが一番大事だね」

 

 次の男も、その次の男も、小袋を受け取ると自分の印を確かめた。

 

 誰も、もっと寄越せとは言わなかった。

 

「うちの領地でも試せるな」

 

 横から見ていたエレナが、当然のように手を差し出した。

 

 リュシアは次の小袋を持ったまま、その手を見下ろす。

 

「姫様も1袋からです」

 

「私もか?」

 

「当然です」

 

 答えたのはオスカーだった。

 

 エレナは手を差し出した姿勢のまま、護衛を振り返る。

 

「侯爵家だぞ」

 

「豆には関係ありません」

 

 リュシアにも重ねて言われ、エレナの眉が寄った。

 

 トトが堪えきれずに吹き出す。

 

「笑うな。おまえの豆も減るのだぞ」

 

 トトの笑いがぴたりと止まった。

 

 列へ渡されていく小袋を数える。1つ、また1つと増えるたび、口元が下がり、腕が胸の前で固く組まれた。

 

「ぼくたちの豆が減る」

 

「農家に育ててもらえば増えるよ」

 

 リュシアは新しい木札へ印をつけながら答えた。

 

「いつ?」

 

「すぐには増えないね」

 

「じゃあ、今は減る」

 

 リュシアの炭が木札の上で止まり、澪の指も豆を量る途中で止まる。

 

 農家へ渡した豆は、次の収穫まで鍋へ入らない。暗い器へ入れて、もやしにすることもできない。

 

 芽が出なければ戻らない。鳥に食べられても、虫に負けても戻らない。うまく育って初めて、今より多くなるかもしれない豆だった。

 

 リュシアは炭を置き、トトの頭へ手を伸ばした。

 

「いいことを言ったね」

 

「ぼく、怒ってるんだけど」

 

「怒ってても、いいことは言える」

 

 トトは眉を吊り上げたまま、口元だけを少し緩めた。褒められた顔をするべきか、まだ怒っている顔を守るべきか、決めかねているらしい。

 

 農家の使いたちが帰ると、リュシアは屋台裏の木箱を空けた。

 

 木箱の上へ用途を書いた木札を1枚ずつ並べていく。今日食べる分、孤児院へ回す分、市場で売る分、屋敷へ見せる分、農家へ渡す分。そして、減らしてはいけない予備。

 

 同じ色、同じ形の豆なのに、札が置かれるたび別のものへ変わって見えた。

 

 澪は木箱の前へしゃがみ込んだ。エレナも裾を気にせず横から覗き込み、オスカーはその手が大豆袋へ伸びない距離に立っている。

 

 トトだけは、まだ不満そうに腕を組んでいた。

 

「1日に、もやしを何袋作る?」

 

 リュシアが、最初の木札を指で叩いた。

 

「孤児院で食べる人数から決めます」

 

「市場へ出すなら?」

 

「余る量は作りません」

 

「屋敷へ見せる分は?」

 

「毎日でなくてもいいと思います」

 

 リュシアは頷き、農家の札を手前へ出した。

 

「農家が10軒、20軒、50軒と増えたら?」

 

 澪の返事が遅れた。数字が増えるたびに、屋台裏の大袋がしぼんでいくように見える。

 

 食べる分を増やせば、植える分が減る。植える分を増やせば、孤児院へ出せるもやしが減る。

 

 市場で売り切れば銅貨は増えるが、次に育てる豆がなくなる。

 

「食べるだけなら持つ」

 

 リュシアは木札を、指先で2つに分けた。

 

「増やす分まで一緒に出したら、足りないよ」

 

「100kgもあるのに」

 

「100kgしかないんだよ」

 

 澪は大豆袋を見た。江古田の六畳間を圧迫していた100kgが、同じ数字のまま急に頼りなくなった。

 

 エレナも木札から目を離さない。

 

「侯爵家で広く試せば、早く増やせると思ったのだが」

 

「広く植える豆がありません」

 

 澪が答えると、エレナは自分に渡された小袋を持ち上げた。

 

 片手で隠せそうな量しか入っていない。

 

「大きく配るには、豆が足りないのだな」

 

「はい。今は、これを増やす準備からです」

 

 エレナは悔しそうに唇を結び、小袋を胸元へ抱えた。

 

「ならば、今ある豆を食べ尽くしてはならぬ」

 

「でも、食べたい」

 

 トトが即座に言った。

 

「増えれば食べられる」

 

「いつ?」

 

 エレナの口が、答えを出せないまま開いて止まった。

 

 隣で、オスカーの息が小さく漏れる。

 

「笑っていないな」

 

「はい、笑っておりません」

 

「声が笑っている」

 

「失礼しました」

 

 エレナは小袋を抱えたまま、オスカーを睨んだ。

 

 未来に増える豆は、今日の鍋には入らない。

 

 トトはまだ納得していない顔だったが、農家へ渡す小袋に手を伸ばすことはなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 江古田の六畳間へ戻った澪は、大豆袋の隣へ座り込んだ。押し入れの前には、まだ10kg袋が1つ残っている。

 

 持ち上げれば腰へくるほど重い。部屋を横切る時には邪魔で、蹴らないように避けなければならない。

 

 農家へ配る小袋を見たあとでは、それでも心細かった。

 

 澪はローテーブルへ帳面を広げ、リュシアと決めた数字を1つずつ書き出していく。

 

 大豆もやし1袋、200g。必要な大豆、30g。

 

 売値は、孤児院向けが銅貨3枚。市場向けは4枚。屋敷向けなら銅貨5枚から6枚。

 

 3つの値を縦に揃えたところで、澪の筆が止まった。売れた銅貨を、全部自分の売上にしてはいけない。

 

 孤児院向けの3枚には、水を替えた子の手が入っている。器や布を洗った子の手も、食べられるか確かめるシスターの目も、傷んで捨てる分も入っている。

 

 市場向けの4枚には、それを売り場へ運び、客へ渡す手間が増える。

 

 澪は、売値の隣へ小さく書き足した。

 

 澪へ戻る分は、孤児院向けが銅貨0枚から1枚。市場向けが銅貨1枚。屋敷向けは銅貨1枚から2枚。

 

 銅貨3枚で売っても、自分へ戻るのは多くて1枚。最初に聞いた時は、少ないと思った。

 

 だが、皿へ分けられた銅貨を思い出せば、残りが消えるわけではない。もやしを食べ物にするまで動いた人へ渡るのだ。

 

 澪は新しい行を空け、農家へ渡した試し豆の数も書いた。その横へ、食べる分、孤児院の分、市場の分、屋敷の分、植える分、予備と並べる。

 

 1つの袋から、いくつもの行へ線が伸びていく。100kgもあると思っていた豆が、紙の上ではあっという間に分かれてしまった。

 

 澪は筆を置き、大豆袋へ手を伸ばした。布越しに触れた粒は、硬くて小さい。

 

 この1粒を食べればなくなる。暗いところで育てれば、もやしになる。畑へ植えてうまく育てば、先の豆が増える。

 

 同じ豆なのに、選んだ行き先で今日の食事にも、明日の売り物にも、先の種にもなる。

 

 澪は帳面へ戻り、余白にゲンダイで買った大豆の値段を書いた。

 

 100kgで約2万円。1kgなら200円。もやし1袋に使う30gは――約6円。

 

「……あれ?」

 

 筆の尻で頭を掻き、もう1度計算した。200円を1000gで割り、それに30gを掛ける。

 

 何度見ても、6円だった。

 

 孤児院向けで、自分へ銅貨が1枚も戻らない袋があっても構わない。次の豆代として銅貨1枚を残せるだけで、原料の6円は軽く超えてしまう。

 

 市場向けなら銅貨1枚、屋敷向けなら1枚か2枚が戻る。

 

 銅貨の価値を日本円へ乱暴に置き換えることはできない。それでも、30gで約6円という数字と並べるには、差が大きすぎた。

 

 澪は帳面から顔を上げた。部屋の隅には、地味な布袋が変わらない顔で積まれている。

 

 さっきまでは、何食分に分ければなくなるのかを考えるのが怖かった。

 

 今度は、あの袋から何枚の銅貨が生まれるのか、数えるほうが怖い。

 

「もやし、怖い」

 

 六畳間で場所を取っているだけだった大豆袋が、澪の目には急に銅貨の山へ見えた。

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