押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第190話 黒い鎖の終わり

 

 王都に鳴った鐘は、朝を告げるものではなかった。

 

 高い塔の上で打たれる音が、石造りの街路に落ち、壁に当たり、屋根を渡って広がっていく。市場へ向かう荷車の御者が手綱を引き、パン屋の前で袋を抱えた女が顔を上げ、役所の門番が槍の柄を握り直した。

 

 1つ目の鐘で、人々は首を傾げた。

 

 2つ目の鐘で、商家の戸口に立つ者が黙った。

 

 3つ目の鐘で、王国騎士が動き出した。

 

 黒鎖商会王都本店の正面通りには、王国騎士の隊列が静かに入ってきた。磨かれた鎧ではない。雨に濡れても泥に沈んでも使える、実務のための鎧だった。先頭の騎士は抜剣していない。代わりに、王国法務官の署名と宰相府の封蝋が押された令状を掲げていた。

 

 別の通りでは、黒鎖商会の王都支店の裏口に会計官が回った。帳簿箱を運び出せる幅の扉に、封印札が貼られる。札の端を押さえた若い官吏の指先が、緊張で白くなっていた。

 

 灰橋町の旧連絡口では、古い倉の扉が開かれた。湿気を吸った木箱の中から、泥の匂いのする帳簿が引き出される。

 

 石場町の帳簿保管先では、石粉を被った机の上に、王国会計官が布を広げた。そこへ、石臼交換名目の伝票が1枚、また1枚と置かれていく。

 

 北東街道の宿では、宿主が震える手で鍵束を差し出した。騎士は受け取りながら、責めるような顔をしなかった。ただ、奥の部屋に置かれていた中継石を指さした。

 

 公爵家家令府の帳簿室では、古い真鍮の鍵が回った。扉が開く音を、ディートリヒの部下たちは息を殺して聞いていた。

 

 そして王都魔術院会計局では、院務長ベルンハルトが、机の上の書類へ両手を置いたまま動かなくなっていた。

 

 王都の鐘は、同じ音で全ての場所へ届いた。

 

 だが、その音を聞いた者の胸に落ちる重さは、それぞれ違っていた。

 

 真壁は表通りにはいなかった。

 

 王国通信官の小さな作業室で、壁に掛けられた王都周辺図と通信経路表を見ていた。窓は細く、外の鐘は石壁に削られて鈍い音になる。机の上には、王国側が正式に押さえた通信認証記録と、黒鎖商会から押収された通信具の写しが並んでいた。

 

 ヴァルトはその横で、紙片の端に書かれた符号を追っている。

 

「これは、境界課の古い切替印です」

 

 声は低かった。懐かしさではなく、苦さが混じっている。

 

「ただし、正規のものではありません。記録形式だけをまねています。7日周期で認証をずらし、外側の商会名だけ変える。見た目は輸送連絡ですが、中身は実働班向けです」

 

 王国通信官が顔を上げた。

 

「第4環につながるか」

 

「つながります」

 

 ヴァルトは短く答えた。紙片の上で指を止める。

 

「そして、もう塞げます」

 

 真壁は、地図上の3箇所へ目を移した。

 

「逃走指示が先に出るなら、王都本店からではなく、中継宿経由でしょう。会頭が直接送った形を残したくない」

 

 通信官が頷き、封鎖命令書へ署名を入れた。

 

 鐘はまだ鳴っていた。

 

 しかし、その音が終わる前に、黒鎖商会の鎖は、いくつもの場所で同時に締め上げられていた。

 

 

 

 

 ヘルムートは、黒鎖商会王都本店の上階から通りを見下ろしていた。

 

 厚い硝子窓の向こうで、王国騎士が正面玄関の前に並んでいる。通行人は遠巻きに足を止め、近隣の商家は戸口を半分だけ開けたまま様子を見ていた。

 

 ヘルムートは、すぐには慌てなかった。

 

 王国騎士が来ること自体は予想していた。査問会の直後である。侯爵家が騒ぎ立て、王国法務が顔を立てるために一度踏み込む。その程度のことは、王都で商会を構えていればいくらでもある。

 

「令状の名義は」

 

 机の横に控えていた支配人が、乾いた唇を舐めた。

 

「宰相府、王国法務、王国会計官の連名です」

 

「仰々しいな」

 

 ヘルムートは椅子の背に手を置いた。

 

「公爵家からの調査依頼だったと言えばいい。市場調査だ。侯爵領の急拡大が王都流通へ及ぼす影響を調べるのは、商会として当然の責務だ」

 

 自分の声は落ち着いていた。少なくとも、部下にはそう聞こえたはずだった。

 

「地方担当が行き過ぎたなら切る。実働班が勝手に動いたなら、外部委託の管理不備で済む。公爵家との関係は、調査費の受領にすぎない」

 

 支配人は頷こうとした。

 

 しかし、部屋の外から別の職員が駆け込んできた。顔から血の気が引いている。

 

「会頭、王都支店にも王国騎士が入りました」

 

 ヘルムートの指が、椅子の背を軽く叩いた。

 

「支店は構わん。帳簿は本店で管理している」

 

「それが……灰橋町の旧連絡口にも、王国会計官が入ったと」

 

 部屋の空気が、少しだけ変わった。

 

 灰橋町。

 

 その名は本店帳簿には濃く残していない。地方連絡員と代理商会を挟み、通行不安を広げるための小口払いは別名目に散らしてある。

 

「誰からの報告だ」

 

「北東街道宿からです。ただ、途中で通信が切れました」

 

 ヘルムートは窓から離れた。

 

 その時、さらに別の部下が入ってきた。今度は走ることすら忘れたような足取りだった。

 

「石場町の帳簿保管先にも捜索が入っています。あと、公爵家家令府の帳簿室にも王国会計官が」

 

「家令府だと」

 

 ヘルムートの声が、初めて低く沈んだ。

 

 支配人が息を呑む。ヘルムートはそれに構わず、机の上に広げられた王都地図を見た。王都本店、支店、街道宿、灰橋町、石場町、公爵家家令府。点が頭の中で結ばれていく。

 

 一箇所の密告ではない。

 

 裏切り者が1人出た程度ではない。

 

 資金の流れを読まれている。通信の周期を読まれている。地方で使った符号と、本店の承認印を照合されている。

 

 黒鎖商会は、鎖であることによって強かった。

 

 商会、代理商会、地方倉、街道宿、家令府、実働班。1つが問われても、別の環が受け流す。責任は回り、名目は変わり、金は消えない。ただ形を変える。

 

 だが、鎖は両端を押さえられれば、逃げられない。

 

「裏帳簿室を焼け」

 

 ヘルムートは静かに命じた。

 

 支配人の顔が強張った。

 

「会頭」

 

「焼け。第4環もだ。補償台帳も、登録抹消名簿も、地方別支出もだ。今すぐ」

 

 外の鐘が、また鳴った。

 

 その音は、窓硝子を震わせるほど近くはない。

 

 それでもヘルムートには、王都全体が自分の商会を見ているように聞こえた。

 

 

 

 

 裏帳簿室は、黒鎖商会本店の奥にあった。

 

 客も取引先も通らない廊下の先、古い鉄板を貼った扉の向こうである。表向きは長期保管書類の置き場。実際には、本店が直接手を汚していないことにするための帳簿が、箱ごとに分けられていた。

 

 若い帳簿整理係のリネックは、その部屋へ駆け込んだ時、何を焼けばよいのか分からなかった。

 

 命じられた箱は7つある。

 

 第4環連絡簿。

 

 実働班補償台帳。

 

 家族補償予定表。

 

 登録抹消名簿。

 

 地方拠点別支出表。

 

 家令府照合符号。

 

 代理商会接続台帳。

 

 名は知っている。保管棚も知っている。だが、それらが何のために使われているかまでは、知らされていなかった。

 

 帳簿は帳簿だった。

 

 支払いは支払いだった。

 

 リネックにとって黒鎖商会は、田舎から出てきた自分を雇ってくれた大きな商会だった。字が読め、数字を間違えなければ、食っていける場所だった。

 

 毒。

 

 誘拐。

 

 魔物。

 

 そんなものは帳簿の欄外に書かれていない。

 

「早くしろ!」

 

 上役が怒鳴った。廊下の奥で足音が重なっている。王国騎士が近づいているのだ。

 

 リネックは両腕で帳簿箱を抱えた。重い。紙と革表紙の重さが、胸を圧迫する。焼却炉は隣の小部屋にある。そこへ運び込めばいい。上役の命令だ。会頭の命令だ。

 

 その時、帳簿室の扉の前に、王国会計官が立った。

 

 年配の男だった。鎧は着ていない。灰色の外套に、王国会計局の徽章を留めている。横には騎士が2人いたが、剣には手をかけていなかった。

 

 会計官は、リネックの腕の中の帳簿を見た。

 

「その帳簿を置きなさい」

 

 声は大きくなかった。

 

 怒鳴られたわけでもない。

 

 それなのに、リネックの足は止まった。

 

 背後で上役が叫ぶ。

 

「運べ! 何をしている!」

 

 会計官は、懐から封印札を取り出した。白い札に王国法務と会計局の印が重なっている。それを扉の縁へ貼り、指で押さえた。

 

「この部屋は、王国共同捜索命令により封印される。封印後に書類を移動、破棄、改竄した者は、王国法違反として拘束される」

 

 リネックは上役を見た。

 

 上役は真っ赤な顔で口を開けていたが、言葉が続かなかった。

 

 商会の命令。

 

 王国の封印。

 

 帳簿の重さ。

 

 自分の生活。

 

 何もかもが腕の中で重なり、リネックは耐えられなくなった。抱えていた帳簿箱を、床へ置いた。革表紙が木床に当たり、鈍い音を立てた。

 

 その音で、部屋の中の職員たちが動きを止めた。

 

 誰も、すぐにはリネックを責めなかった。

 

 責める言葉を発するには、王国封印札があまりに近かった。

 

 会計官は、床に置かれた帳簿箱の上へ視線を落とし、静かに頷いた。

 

「確認する。名は」

 

「リネック、です」

 

「よろしい。命令された内容も、後で聞く」

 

 リネックは喉を鳴らした。自分が助かったのか、終わったのか、まだ分からなかった。

 

 ただ1つだけ分かった。

 

 黒鎖商会の中で一番弱い自分が、今、初めて商会の命令ではなく王国法の方を選んだ。

 

 そして、その選択は自分だけではなかった。

 

 隣の棚にいた別の職員も、手にしていた紙束をゆっくり机へ戻した。

 

 

 

 

 第4環への通信は、返ってこなかった。

 

 ヘルムートは通信具の小さな石板を睨んだ。黒く磨かれた石面に、薄い線が浮かぶ。通常なら、暗号文を送れば一呼吸遅れて受領符号が返る。王都本店から直接出した形を残さぬよう、街道宿を経由し、代理商会へ回り、実働班の残存者へ落ちる。

 

 そのための第4環だった。

 

 実働班を逃がす。

 

 隠し資金を動かす。

 

 証人になりそうな者を消す。

 

 地方の帳簿を焼く。

 

 そして、ヘルムート自身の逃走路を確保する。

 

 黒鎖商会が黒鎖であるための、最後の環だった。

 

「もう一度送れ」

 

 支配人が震える手で石板へ触れた。

 

 石面に短い符号が走る。

 

 返答はない。

 

「中継宿は」

 

「応答ありません」

 

「代理商会は」

 

「第2、第3とも応答なし。第4は……封鎖符号です」

 

 支配人の声が途中でかすれた。

 

 ヘルムートは、掌の中で印章を握り込んだ。金属の角が皮膚に食い込む。痛みはあったが、怒りの方が勝った。

 

「なぜだ。第4環は本店帳簿にも残していない」

 

「通信認証を読まれたのだと思われます」

 

「誰が読める」

 

 支配人は答えられなかった。

 

 その頃、王国通信官の作業室では、ヴァルトが古い認証表の端を指で押さえていた。

 

「ここです」

 

 紙片の端には、一見すると荷物の受領確認に見える符号が並んでいる。王国通信官は眉を寄せた。

 

「これが第4環か」

 

「表では第3倉庫の保存瓶扱いです。ただ、7日ごとに境界印だけが切り替わっています。王都式の記録形式ですが、正規の境界課ではもう使っていません」

 

 マティアスが、部屋の隅で目を閉じた。

 

 彼はその形式を知っていた。古い。懐かしい。だが、懐かしさだけで済ませてよいものではない。古い形式を知る者が、商会の逃走網に使った。あるいは、記録だけを盗んだ。

 

 ヴァルトの指は、震えていなかった。

 

「この経路を封じれば、実働班への逃走指示は落ちません」

 

 王国通信官が封鎖命令書を差し出す。王国法務官の印が押され、会計官の確認欄が空いていた。

 

 真壁は、地図を見たまま言った。

 

「本店から直接消せない証人がいる場合、次は家族補償台帳を使います。登録抹消名簿と合わせて押さえてください。逃走指示が出ないなら、口封じは金で動く」

 

 通信官が短く頷く。

 

「会計官へ回す」

 

 部屋の空気が詰まる中、アルベルトが口を開いた。

 

「確認しておきたい」

 

 その一言で、紙をめくる音が止まった。

 

「王都魔術院および王国は、今ここにいるヴァルトへ、過去の制度不備の責任を負わせる意図はないな」

 

 声は荒くなかった。だが、誰も軽く受け流せない声だった。

 

 コンラート院長は、すぐには答えなかった。沈黙は短かったが、アルベルトの視線はその沈黙を逃さなかった。

 

 宰相の代理として同席していた法務官が、コンラートを見た。

 

「院長」

 

「……ございません」

 

 コンラートは低く答えた。

 

「オスヴァルト・クラインが魔術院を去った件について、本人の責任を問うものではありません。問われるべきは、去らせた制度と、見つけられなかった我々の側です」

 

 マティアスが、一歩前へ出た。

 

「境界課としても、同じです。戻れとは言いません。戻せるものでもありません」

 

 ヴァルトは紙片から顔を上げられなかった。

 

 澪は、部屋の端でその横顔を見ていた。ヴァルトは責められると思って王都へ来たのだろう。帰れと言われることも、戻れと言われることも、どちらも恐れていたのだろう。

 

 アルベルトは、そこでようやく頷いた。

 

「ならばよい」

 

 短い言葉だった。

 

 だが、侯爵家側に立つ者には、それが何より重要な確認だと分かった。

 

 ヴァルトは、紙片へ視線を戻した。

 

「第4環、封鎖できます」

 

 声はまだ硬かった。

 

 しかし、そこには先ほどまでとは違う芯があった。

 

 

 

 

 灰橋町の旧連絡口は、橋から少し離れた古い倉だった。

 

 雨に濡れた土の匂いがしみつき、床板の隙間には乾いた泥が残っている。王国騎士が扉を開けると、中にいた男が肩を跳ねさせた。逃げようとはしなかった。逃げるには、扉の外に立つ騎士が多すぎた。

 

 会計官は、倉の隅に積まれた麻袋を見た。

 

「穀物ではないな」

 

 同行していた侯爵家の文官が頷き、袋の口を開いた。中から出てきたのは、古い板札と帳面だった。湿気で角が歪み、紙の端が波打っている。

 

「灰橋、泥場、荷車誘導」

 

 文官が読み上げると、騎士の1人が顔をしかめた。

 

 帳面には小額の支払いが並んでいた。大きな金額ではない。だからこそ、長く続けられる金だった。

 

 泥場の端へ石を置いた者。

 

 荷車を悪い轍へ誘導した者。

 

 通行不安の噂を酒場で広めた者。

 

 代官所の下役へ渡した口止め金。

 

 橋が危ない、荷が消える、灰橋町を通るな。そうした小さな言葉と小さな作業が、1枚の帳面に細い字で並んでいた。

 

 侯爵家文官は、手袋をした指で頁の端を押さえた。

 

「黒鎖商会地方連絡員の符号があります」

 

 会計官が別の紙を取り出した。王都本店で押さえた代理商会接続台帳の写しだった。符号を重ねる。

 

 合う。

 

 倉の隅に座らされていた男が、顔を上げた。

 

「俺は、荷を預かっただけだ」

 

 声は震えていた。

 

「帳面の中身なんて知らねえ。黒鎖の連絡員が来て、置いていけって。俺は、倉代をもらっただけだ」

 

 騎士は責めなかった。

 

 ただ、会計官が静かに言った。

 

「知っていたことと、知らなかったことを分けて聞く。だが、受け取った金は記録する」

 

 男はうなだれた。

 

 その背中には、悪党の大仰な影はなかった。生活のために目を逸らし、目を逸らした分だけ深く関わってしまった者の丸い背中だった。

 

 文官は帳面を閉じ、証拠袋へ入れた。

 

 灰橋町の泥は、ただの泥ではなかった。

 

 そこに沈んだ車輪も、流れた噂も、代官所の鈍い対応も、黒鎖商会の資金網へつながっていた。

 

 遠くで橋の方から人の声がした。

 

 いつもの町の声だった。

 

 だが、その町を不安へ沈めていた細い鎖が、今、倉の中で1本引き出されていた。

 

 

 

 

 石場町の帳簿保管先は、白い石粉の匂いがした。

 

 古い計量所の裏手にある小部屋で、窓枠にも机にも、細かな粉が薄く積もっている。王国騎士が足を踏み入れると、床板がきしみ、白い埃がわずかに舞った。

 

 王国会計官は、持ち込まれた帳簿を1冊ずつ布の上に置いた。

 

「石臼交換名目」

 

 侯爵家の文官が読み上げる。

 

「害獣対策備品」

 

「警備灯油補充」

 

「外縁見回り謝礼」

 

 名目だけを聞けば、採石場の管理費に見える。石臼は摩耗する。害獣対策は必要だ。外縁見回りに謝礼を出すこともある。

 

 だが、帳簿の横に置かれた押収品が、その名目を歪ませていた。

 

 石臼の軸に偽装された魔道具部品。

 

 獣型魔物を誘う術式片。

 

 ゴブリンの嗅覚に触れる薬材の空袋。

 

 警備配置を示す略図。

 

 そして、石場町の外縁へ運び込まれた荷の記録。

 

 会計官は、魔道具部品を直接触らなかった。布越しに形を確認し、同席した魔術院側の検査役へ視線を向ける。

 

 カスパルは、顔を強張らせたまま部品を見ていた。

 

 彼は公爵家主席錬金術師としてこの場にいるのではない。王国調査に協力する技術評価者として立っている。立場が変われば、見えるものも変わる。自分の所属が何であれ、これは言い逃れできる魔道具ではなかった。

 

「誘引です」

 

 カスパルは言った。

 

「害獣を遠ざけるものではありません。引き寄せるものです。獣型だけではない。調整次第で、ゴブリンにも効く」

 

 騎士の1人が息を呑んだ。

 

「町へ向けたのか」

 

「外縁の配置記録を見る限り、採石場の外から町側へ流す意図があります」

 

 カスパルの声は苦かった。技術者として、術式の精度が分かる。だからこそ、余計に嫌悪が強くなる。

 

 会計官は、石臼交換名目の帳簿と魔道具部品の番号を照合した。

 

「商業妨害では済まないな」

 

 その言葉に、部屋の中の空気が沈んだ。

 

 商売敵の評判を落とす。

 

 通行を不安にさせる。

 

 警備を混乱させる。

 

 それだけでも罪だ。

 

 だが、これは違う。

 

 魔物を町へ向けた。

 

 人が住み、働き、子どもが走る場所へ、意図して危険を流した。

 

 侯爵家の文官は、押収品目録へ筆を入れた。手元の紙に落ちた石粉が、墨に混じって灰色になる。

 

 石場町の白い粉の下から、黒鎖商会の黒い支払いが浮かび上がっていた。

 

 

 

 

 北東街道宿の奥部屋は、旅人用の寝室にしては妙に整っていた。

 

 壁際に小さな棚があり、棚の奥に中継石が置かれている。宿帳は表の受付にあるものとは別に、革紐で閉じられていた。王国騎士が革紐を切ると、宿主の喉が小さく鳴った。

 

「これは、ただの荷預かりで」

 

「荷の名は」

 

 王国会計官が問うた。

 

 宿主は答えられなかった。

 

 会計官は革表紙を開く。中には日付、部屋番号、馬の数、荷の大きさ、そして短い符号が並んでいた。7日ごとに同じ印が現れ、次の頁で王都方面、灰橋町方面、石場町方面へ分かれている。

 

 同行した侯爵家の若い文官が、中継石を見た。

 

「通信記録、残っています」

 

 石の面には薄い傷が刻まれていた。魔術師でなければ読めないが、記録を消しきれていない。王国通信官が手袋をはめ、慎重に布へ包む。

 

 宿主は肩を落とした。

 

「黒鎖の代理商会だと聞いていました。王都の大きな商会だと。荷を預かって、言われた日に石を置けばいいと」

 

「報酬は」

 

「受け取りました」

 

「多かったか」

 

 宿主は唇を噛んだ。

 

 それが答えだった。

 

 騎士は怒鳴らなかった。会計官も、すぐには罪を決めつけなかった。だが、書き留める筆は止まらない。

 

 知っていた者。

 

 知らずに運んだ者。

 

 見ないふりをした者。

 

 その境目は、帳簿の線よりも曖昧だった。だが、金を受け取り、部屋を貸し、中継石を置いた事実は消えない。

 

 宿主の妻が戸口で泣いていた。幼い子どもがその裾を握っている。

 

 澪がこの場にいたなら、きっと顔を歪めただろう。

 

 誰かの悪意だけで世の中が壊れるなら、話は簡単だった。

 

 けれど実際には、少し多い報酬、少し怪しい荷、少しだけ逸らした目が、黒い鎖の一部になる。

 

 会計官は宿帳を閉じた。

 

「全部聞く。知っていたことも、知らなかったこともだ」

 

 宿主は床へ膝をついた。

 

 中継石は布に包まれ、王国騎士の手に渡った。

 

 7日ごとに鳴っていた見えない通信は、その日を境に途切れた。

 

 

 

 

 王国会計官は、押収原本を机いっぱいに広げた。

 

 本店帳簿。

 

 灰橋町の湿った帳面。

 

 石場町の石粉を被った伝票。

 

 北東街道宿の宿帳。

 

 家族補償予定表。

 

 登録抹消名簿。

 

 そして、ブルーノが差し出した小型帳面。

 

 1つ1つは細い線だった。だが、会計官が日付と符号と金額を重ねていくと、線は網になった。網は形を持ち、形は名を持つ。

 

 黒鎖商会。

 

 会計官は、最後の頁に黒鎖商会本店承認印を見つけた時、筆を置いた。

 

「一致」

 

 短い言葉だった。

 

 部屋にいた者たちは、それだけで十分だった。

 

 毒刃と眠り薬の購入記録は、実働班補償台帳の支払い日と重なった。火付け油の支出は、押入家具襲撃の直前に増えている。灰橋町の泥場工作費は、代官所への口止め金と同じ周期で落ちていた。石場町の魔物寄せ魔道具設置費は、害獣対策名目で偽装されている。

 

 そして、その根に公爵家家令府から流れた調査費があった。

 

 拘束室のブルーノにも、その報告は伝えられた。

 

 彼は石壁にもたれて座っていた。手には枷がある。顔には疲労が濃く、善人の顔ではない。救われた者の顔でもない。

 

 王国騎士が告げる。

 

「本店原本が押さえられた。お前の帳面と照合が取れた」

 

 ブルーノは、少しだけ口の端を動かした。

 

「本店まで届いたなら、俺の証言だけじゃねえな」

 

「罪は消えない」

 

「分かってる」

 

 ブルーノは枷のついた手を見た。

 

 彼は実働班を動かした。人を傷つける命令を運んだ。毒も火も眠り薬も、知らなかったとは言えない。

 

 ただ、黒鎖商会はいつもそうだった。

 

 実働班が捕まれば、登録を抹消する。死ねば家族補償で黙らせる。失敗すれば外部委託の暴走にする。本店は帳簿の奥で、きれいな指のまま残る。

 

 その構造が、初めて崩れた。

 

「下の連中だけ切って終わりじゃねえなら、話した意味はあったか」

 

 騎士は答えなかった。

 

 答えられる立場でもなかった。

 

 ブルーノは天井を見た。石の隙間に染みがある。そこに救いはなかった。だが、自分だけが黒鎖商会の罪を背負わされるわけでもない。

 

 それは、ほんの少しだけ、息をしやすくする事実だった。

 

 

 

 

 ヘルムートは、地下の古い商品搬入口へ向かった。

 

 上階では王国騎士が帳簿室を封印し、支配人が拘束され、職員たちが1人ずつ名を問われている。正面から出ることはできない。裏口も押さえられている。残る道は、王都本店がまだ小さな商会だった頃に作られた地下通路だけだった。

 

 手には小型帳簿。

 

 懐には印章と宝石。

 

 腰の内側には非常用資金。

 

 通信具は応答しないが、捨てるわけにはいかなかった。持っていれば、どこかでまだ使えるかもしれない。

 

「黒鎖商会を潰せば、王都流通が乱れる」

 

 ヘルムートは、誰に言うでもなく呟いた。

 

「侯爵領の異常発展を調べる者がいなくなる。地方の小商会など、すぐに食い荒らされる。私は秩序を守ったのだ」

 

 護衛が2人、先に立つ。

 

 地下通路は湿っていた。壁の石の間から水が染み、足元の板が軋む。古い商品搬入口は、王都本店の裏手にある馬車置き場へ抜ける。そこから代理商会の倉へ移れば、まだ手はある。

 

 階段を上がった。

 

 扉を押した。

 

 外の空気が入る。

 

 その先に、王国騎士がいた。

 

 そして、レオンハルトが立っていた。

 

 侯爵家の騎士服ではあるが、抜剣していない。手にしているのは拘束令だった。後ろには王国法務官と会計官。逃げ道ではなく、手続きが待っていた。

 

 ヘルムートは、唇を薄く開いた。

 

「侯爵家は、商人の道まで塞ぐのか」

 

 レオンハルトは表情を変えなかった。

 

「王国共同捜索令発効後の逃走未遂。帳簿隠匿未遂。通信具の持ち出し。拘束理由が増えたな」

 

「私は商人だ。流通を扱う者だ。私を潰せば、王都の流れが止まるぞ」

 

 レオンハルトは、拘束令を広げた。

 

「魔物誘引工作への資金供給。毒襲撃、放火、誘拐作戦への関与。証拠隠滅命令。実働部門登録抹消。家族補償制度を利用した犯罪組織維持。王国捜索令発効後の逃走未遂。帳簿隠匿未遂」

 

 読み上げる声は平らだった。

 

 ヘルムートは苛立った。

 

「言葉を並べるだけなら、どの商会でも罪人にできる。王都は黒鎖商会の荷で動いている。流通を止めれば、困るのは民だ」

 

 レオンハルトは、そこで初めてヘルムートをまっすぐ見た。

 

「流通ではない。鎖だ」

 

 短い言葉だった。

 

 ヘルムートの顔から、商人としての余裕が消えた。

 

 騎士が一歩出る。護衛たちは抵抗しなかった。ここで剣を抜けば、ただの暴力になる。ヘルムートは最後まで商人でいようとした。だからこそ、剣ではなく書類で縛られた。

 

 手首に拘束具がかかる。

 

 黒鎖商会本店の職員たちは、裏口からその様子を見ていた。恐怖の顔。安堵の顔。これから自分たちはどうなるのか分からず、ただ立ち尽くす顔。

 

 王国会計官が、職員たちへ告げた。

 

「一般従業員を一括処罰するものではない。知っていたこと、命じられたこと、受け取った金をそれぞれ聞く。虚偽は重くなる。正直に答えよ」

 

 その言葉に、誰かが泣き出した。

 

 ヘルムートは振り返らなかった。

 

 鎖の中心にいた男は、鎖が外れる音を聞かないまま、王国騎士に連れていかれた。

 

 

 

 

 ローゼンベルク公爵家家令府の帳簿室は、静まり返っていた。

 

 重い棚に並んだ帳簿は、黒鎖商会のものよりずっと整っている。革表紙の色、年度別の金具、決裁印の位置。公爵家の格式は、書類の並びにも表れていた。

 

 ディートリヒは、その部屋の中央に立っていた。

 

 王国会計官が机の上に置いた決裁帳を開く。家令府の印がある。黒鎖商会への調査費。追加調査費。地方情報収集費。危険地域確認費。名目は、どれも公爵家が侯爵領を探るためのものとして通る。

 

 だが、その下で金は変わっていた。

 

「私は、毒を使えとは命じておりません」

 

 ディートリヒの声は、まだ整っていた。

 

「魔物を誘引せよとも、子どもをさらえとも命じていない。黒鎖商会が調査費を工作費へ転用したのであれば、それは黒鎖側の逸脱です」

 

 王国会計官は、頁をめくった。

 

「調査費の増額は、何度も承認されている」

 

「侯爵領の動きが想定以上に早かったためです」

 

「支出先の確認は」

 

「黒鎖商会から報告を受けております」

 

「その報告の原本は、なぜ移送された」

 

 ディートリヒの目が、わずかに細くなった。

 

 部屋の隅に立つクララは、その表情を見逃さなかった。父の家で何度も見た顔だった。相手の問いの意味を測り、答えられる範囲だけを選ぶ顔。

 

「家令府内の整理です」

 

 ディートリヒは言った。

 

「焼却された書類は」

 

「期限切れの写しです」

 

「クララ殿の記録では、黒鎖商会の封蝋が残っている書類が含まれていた」

 

 その名が出た時、ディートリヒは初めてクララを見た。

 

 クララは目を逸らさなかった。

 

 王国騎士が、ディートリヒの机から鍵束を取り上げた。次に印章。最後に決裁帳。

 

 ディートリヒの指が、ほんの少し動いた。

 

 その3つは、彼の権力そのものだった。部屋へ入る鍵。金を動かす印。公爵家の名で命令を下す帳。剣よりも、宝石よりも、彼にとって重いものだった。

 

 王国法務官が告げる。

 

「ディートリヒ。家令職を剥奪する。審理拘束、資産調査、黒鎖商会との関係追及を行う。家令府は王国監督下で再編される」

 

「私は命じていない」

 

 ディートリヒは言った。

 

「それは審理で扱う」

 

 法務官は、同じ調子で返した。

 

「だが、家令府の印で金が出た。公爵家の信用が使われた。異常な支出を止めなかった。書類焼却と帳簿移送を見逃した。それだけで、家令としての任には堪えない」

 

 ディートリヒは沈黙した。

 

 椅子は目の前にある。

 

 だが、もう座ることは許されなかった。

 

 

 

 

 エアハルト公爵は、臨時審理室の中央に立っていた。

 

 豪奢な広間ではない。王国法務のために用意された、石壁の冷たい部屋だった。そこに宰相、王国法務官、会計官、公爵家関係者、侯爵家の代表者が並んでいる。

 

 エアハルトの衣は整っていた。

 

 顔色も崩れていない。

 

 公爵家当主として、最後まで立つ姿を選んでいる。その姿勢自体は立派だった。だが、立派な姿勢であれば罪が軽くなるわけではない。

 

「私は、毒を選んではおりません」

 

 エアハルトは言った。

 

「魔物を町へ向けよとも命じておりません。子どもをさらえとも命じていない。家令府と黒鎖商会の間で起きた逸脱について、当主として監督責任は認めます。しかし、実行者と命令者は分けて審理されるべきです」

 

 宰相は、しばらく答えなかった。

 

 机の上には、黒鎖商会の帳簿、家令府の決裁帳、魔物寄せ魔道具の目録、毒刃の押収記録、クララの記録帳が置かれていた。

 

 別々の物だった。

 

 しかし、向かう先は同じだった。

 

 ローゼンベルク公爵家。

 

「知らなかった、と言うのだな」

 

「はい」

 

 エアハルトは答えた。

 

 宰相は、ゆっくり息を吐いた。

 

「知らなかったことは、命じていない証明にはなるかもしれぬ」

 

 その言葉に、エアハルトの眉がわずかに動いた。

 

「だが、統治者として無罪である証明にはならぬ」

 

 部屋の空気が沈んだ。

 

「家令が公爵家の印で金を出した。黒鎖商会は、公爵家の仕事であることを信用に使った。その信用で人を集め、その金で魔物を呼び、毒を買い、子どもをさらおうとした」

 

 宰相の声は荒くない。

 

 だからこそ、逃げ場がなかった。

 

「そなたは刃を選んでいないかもしれぬ。だが、刃を持つ者に、公爵家の名を預けた」

 

 エアハルトは反論しようとした。

 

 その時、視界の端にクララが入った。

 

 娘は泣いていなかった。

 

 怒ってもいなかった。

 

 ただ、見ていた。

 

 父がどこで責任を取るのかを。

 

「ローゼンベルク公爵エアハルト」

 

 宰相は名を呼んだ。

 

「そなたを、当主としての任に堪えぬものと認める」

 

 その言葉で、部屋の空気が変わった。

 

 処罰ではない。

 

 失脚だった。

 

 政治家としての死だった。

 

「ローゼンベルク公爵家の統治権は、当面、王国監督下へ置く。家令府は解体再編。黒鎖商会関係資産は凍結。領地収益の一部は、被害地および被害者への賠償へ充てる。中央政治での発言権は停止し、後継については王国監督下で審査する」

 

 エアハルトは立ったまま動かなかった。

 

「私は……命じていない」

 

「それは審理で扱う」

 

 宰相は答えた。

 

「だが、そなたが知らぬまま、公爵家の金と名で町が襲われた。その時点で、そなたは当主として終わっている」

 

 クララが目を伏せた。

 

 エアハルトは、その沈黙の意味を理解した。

 

 娘に責められたのではない。

 

 娘に見届けられたのだ。

 

 自分が滅びるところを。

 

 

 

 

 クララは、父の隣には残らなかった。

 

 王都にも、公爵家にも戻らないことが決められた。

 

 罪人としてではない。だが、無傷の令嬢として公爵家再建の旗印にされることもない。王国教会預かり。表向きは、王都査問会後の混乱から守るための保護措置であり、公爵家残党からの隔離であり、証人保護であり、心身の静養だった。

 

 行き先を聞いた時、澪は少しだけ瞬きをした。

 

 古い燭台の神さまがいる教会。

 

 その名が出た途端、政治の話の中に、押入商会だけが知っている別の線が差し込まれた気がした。

 

 クララは、出立前にエアハルトと短く向き合った。

 

 父は、もう当主としての権限を失っている。それでも立ち姿は公爵だった。娘の前で崩れることを、自分に許していないのだろう。

 

「見ていたのだな」

 

 エアハルトが言った。

 

 クララは頷かなかった。

 

 ただ、まっすぐ父を見た。

 

「見ないふりはできませんでした」

 

 それだけだった。

 

 責める言葉ではない。

 

 慰める言葉でもない。

 

 エアハルトは目を伏せた。自分の娘が何を失い、何を選んだのか、ようやく分かったような顔だった。

 

 クララは背を向けた。

 

 泣き崩れない。父に駆け寄らない。公爵家の娘としての礼を崩さず、しかし父の影には戻らず、王国教会の馬車へ向かった。

 

 その日の夕方、澪が燭台を鑑定すると、見慣れた表示が浮かんだ。

 

----------------------------------

【預かり】公爵令嬢について【観察対象】

 001:燭台

  到着予定を確認。

 002:澪

  クララさんのことですか。

 003:燭台

  そう。

 004:燭台

  父の罪と家の名を背負う者。

 005:燭台

  ただし、本人の罪ではない。

 006:真壁

  保護対象という扱いですな。

 007:燭台

  保護。

 008:燭台

  それと観察。

 009:澪

  観察って言い方、怖くないですか。

 010:燭台

  神なので。

----------------------------------

 

 澪はしばらく表示を見てから、小さく息を吐いた。

 

「神さま、もうちょっと言い方ありませんか」

 

 燭台は答えなかった。

 

 真壁は、表示を見てわずかに目を細めた。

 

「少なくとも、目の届く場所ではあります」

 

 澪は頷いた。

 

 クララは罰を受けるために行くのではない。

 

 だが、慰められるためだけに行くのでもない。

 

 父の名から離れ、自分が見たものを、自分の目で整理するために、神さまのいる教会へ向かうのだった。

 

 

 

 

 王都魔術院の会計局には、黒鎖商会のような怒号はなかった。

 

 だからこそ、重かった。

 

 棚に並ぶ帳簿は整っている。支出名目も正しい。封蝋も印章も揃っている。どこかの商会のように、毒や火付け油の名があからさまに並んでいるわけではない。

 

 研究室維持費。

 

 講堂修繕費。

 

 上級研究補助費。

 

 儀礼用備品。

 

 貴族子弟向け特別講義費。

 

 古い塔の維持費。

 

 魔術院行事費。

 

 全て、魔術院に必要な支出として説明できた。

 

 院務長ベルンハルトは、その正しさに長く守られてきた男だった。銀縁の眼鏡を直し、帳簿の頁を丁寧に揃えながら言う。

 

「不正支出はありません。教育費は、魔術院全体の教育環境維持のために適正に配分されています」

 

 王国会計官は、帳簿を閉じた。

 

「弟子用宿舎への支出は」

 

 ベルンハルトの指が止まった。

 

「今年度は、塔の修繕を優先しました。宿舎は各研究室が」

 

「食費補助は」

 

「師弟制度上、弟子の生活は師匠の裁量で」

 

「共用実習器具は」

 

「高位研究室の設備更新が終わり次第、順次」

 

 会計官は、そこで黙った。

 

 沈黙が、ベルンハルトの説明を薄くしていく。

 

 コンラート院長は、椅子に座っていなかった。立ったまま、帳簿と会計官を見ていた。その顔には、怒りよりも疲労があった。自分たちの院が壊れていたことを、ようやく数字で突きつけられた者の顔だった。

 

 宰相が口を開いた。

 

「教育費は盗まれていなかった」

 

 誰も答えなかった。

 

「だが、弟子へ届いていなかった」

 

 ベルンハルトが何か言おうとした。だが、会計官が弟子支援費の頁を開き、実際の支出先を指で押さえると、言葉が消えた。

 

「研究室は残った。塔は直された。儀礼の備品は磨かれた。貴族子弟の講義は整えられた」

 

 宰相の視線が、コンラートへ移る。

 

「その間に、食えぬ弟子が去り、眠れぬ若手が倒れ、器具を持てぬ者が学ぶ前に消えた」

 

 コンラートは、ゆっくり頭を下げた。

 

「院長としての責任を取ります」

 

 その声は、抵抗の声ではなかった。

 

 ベルンハルトが顔を上げる。

 

「院長、これは制度上の配分であり」

 

「その制度を維持した責任は、私にある」

 

 コンラートは、ベルンハルトを見なかった。

 

 宰相が告げる。

 

「コンラートは王都魔術院長を退く。ベルンハルトは院務長を解任し、教育予算の再監査を受ける。若手育成費と研究室維持費は分離する」

 

 ベルンハルトの顔から色が抜けた。

 

 魔術院は黒鎖商会ではない。

 

 だが、責任がないわけではなかった。

 

 

 

 

 オットーは、証言台の前で帳簿を閉じた。

 

 教育課主任として、彼にも責任があった。会計局だけを責めれば済む話ではない。弟子たちが食べられていないこと、寝床が足りないこと、実習器具が古いこと、平民や地方出身の若手が雑務で潰れていくことを、彼は知らなかったわけではない。

 

 知っていた。

 

 だが、変えられなかった。

 

 変える前に、毎年の配分会議で負けた。研究室の維持が先だと言われ、塔の修繕が先だと言われ、貴族子弟の講義を乱せないと言われた。そうしているうちに、若手は1人、また1人と消えていった。

 

「教育費は、なかったのではありません」

 

 オットーは言った。

 

「ありました。毎年、計上されていました。ですが、弟子の食費にも、寝床にも、共用実習室にも届いていない」

 

 会場の誰かが息を呑んだ。

 

「では、どこへ消えた」

 

 王国会計官が問う。

 

「消えてはいません」

 

 オットーの声は苦かった。

 

「研究室維持費、講堂修繕費、特別講義費、上級研究補助費、儀礼用備品。名目は正しいのです。支出もあります。帳簿だけ見れば、盗まれてはいない」

 

 彼は、証拠台の上の帳簿から目を離さなかった。

 

「ですが、弟子の皿と寝台には届いていない」

 

 セルマは少し離れた席で聞いていた。

 

 王都魔術院の偉い者たちが、弟子の皿と寝台という言葉を使う。それだけで、どこか奇妙に聞こえた。彼らはようやく、若者が食べ、眠り、手を動かして失敗する場所を教育と呼び始めたのだ。

 

「我々は、若手を育てる金を、魔術院の形を保つ金として使ってきました。壊れた塔を直し、名のある研究室を守り、貴族子弟の講義を整えた。その間に、地方出身の弟子や平民の若手は、食べられず、眠れず、器具も持てずに去っていった」

 

 オットーは、セルマの方を見なかった。

 

 見れば、自分たちの敗北を彼女へ押しつけるように思えたからだ。

 

「侯爵領が奪ったのではありません」

 

 彼は言った。

 

「我々が、育つ前に落としていたのです」

 

 宰相はしばらく黙っていた。

 

 そして、短く告げた。

 

「責任はある」

 

 オットーは頭を下げた。

 

「はい」

 

「だから逃げるな。辞めて終わるな。お前は、弟子へ届く制度を作れ」

 

 オットーの肩が揺れた。

 

 罷免ではない。

 

 許しでもない。

 

 責任を持ったまま、壊れた制度の前に立たされる処分だった。

 

「……承知しました」

 

 オットーは、深く頭を下げた。

 

 その背中を見ながら、澪は思った。

 

 悪い人を捕まえるだけなら、もう少し簡単だったのかもしれない。

 

 でも、誰も盗んでいない顔をしながら誰かを落としていく仕組みを直すのは、きっとずっと難しい。

 

 

 

 

 王都魔術院の改革方針は、その場で全て決まったわけではなかった。

 

 だが、始めることだけは決まった。

 

 若手育成費は別枠化され、研究室維持費へ流用できなくなる。弟子用宿舎の整備、食費補助、共用実習室、基礎教材費、失敗記録の義務化。師匠による囲い込みは制限され、貴族子弟向け特別講義費は縮小される。

 

 セルマ工房は、王都に吸収されない。

 

 地方教育施設の成功例として調査される。

 

 その説明を聞いたセルマは、疲れた顔で腕を組んだ。

 

「弟子の飯を見るのが、王都の改革になるとはね」

 

 カスパルは、その言葉に返す言葉を探したが、見つけられなかった。技術評価なら言える。ポーションの品質なら語れる。規格瓶の精度なら測れる。だが、弟子が食べているかどうかを技術の外に置いてきたのは、自分たちも同じだった。

 

 ジークフリートは、公爵家魔術顧問の徽章を外していた。

 

 机の上に置かれた小さな徽章は、軽い音を立てた。

 

「研究者の身柄を、貴族家の都合で動かせるものとして扱うべきではありません」

 

 彼は静かに言った。

 

「今回、私はその境目に立っていました。だからこそ、今後は王国調査協力者として、研究者の独立性を守る側に立ちます」

 

 マティアスは、その言葉を聞きながら、廊下の向こうに立つヴァルトを見ていた。

 

 王都魔術院の塔が見える窓際だった。

 

 光は斜めに入り、古い石床の傷を浮かび上がらせている。ヴァルトは窓の外を見ていた。境界課の塔は、昔と同じ場所にあった。変わっていないようで、戻れないほど遠い。

 

「君が生きていてよかった」

 

 マティアスは言った。

 

 ヴァルトは、すぐには答えなかった。

 

 王都へ戻れば責められると思っていた。

 

 なぜ消えた。

 

 なぜ戻らなかった。

 

 何を持ち出した。

 

 誰の許可で生きている。

 

 そんな言葉を、どこかで予想していた。

 

 だが、返ってきたのは、生きていてよかった、だった。

 

「今の私は」

 

 ヴァルトは、言葉を選んだ。

 

「侯爵領のヴァルトです」

 

 マティアスは頷いた。

 

「ならば、ヴァルト殿として話を聞かせてくれ」

 

 戻れとは言わなかった。

 

 戻せるとも言わなかった。

 

 ヴァルトは、窓硝子に映る自分の顔を見た。オスヴァルト・クラインの名は消えない。だが、今の名を奪われるわけでもない。

 

 少し離れたところで、アルベルトがそのやり取りを見ていた。

 

 ヴァルトが奪われない。

 

 責任を押しつけられない。

 

 それが確認できたなら、侯爵としては十分だった。

 

 

 

 

 侯爵領へ戻ると、王都の石壁の冷たさは少し遠くなった。

 

 押入家具の作業場には、木の匂いが戻っていた。鋸の音はまだ控えめで、いつもより人の声も小さい。それでも、完全な沈黙ではない。誰かが板を運び、誰かが金具を磨き、誰かが失敗した釘を抜いている。

 

 エーミルは奥の寝台で上体を起こしていた。

 

 顔色はまだ悪い。毒の影は残っている。だが、目ははっきりしていた。

 

 トルが寝台の脇に立ち、何度も口を開いては閉じている。

 

「エーミル兄ちゃん、俺」

 

「謝るなら、次に荷物を落とすな」

 

 エーミルは先に言った。

 

 トルの顔がくしゃりと歪む。

 

「でも」

 

「でもじゃない。釘箱を持つ時は底を持て。布だけ持つな。泣くなら外で泣け。木くずがつく」

 

 言い方は乱暴だったが、声は弱かった。トルはますます泣きそうになった。そこへミラとピナが左右から腕を引っ張る。

 

「ほら、仕事」

 

「泣くなら布畳みながら泣いて」

 

 トルは鼻をすすりながら引きずられていった。

 

 澪はその様子を見て、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。

 

 生きている。

 

 それだけのことが、こんなに重い。

 

 エーミルが倒れたあの夜の記憶が、頭の奥にまだ残っている。真壁が救命薬を出し、エーミルの息を繋いだ。もし間に合わなかったら、今この作業場の音は戻らなかったかもしれない。

 

 セルマ工房では、弟子たちがまだ緊張していた。

 

 王都から調査が来る。魔術院の人間が来る。帳簿を見る。作業を見る。失敗記録も見る。

 

 それは怖い。

 

 だが、工房を潰すためではない。

 

 学ぶための調査だと、アルベルトから正式に伝えられていた。

 

 セルマは、薬草を刻む弟子の手元を見ながら、深く息を吐いた。

 

「弟子の飯を見るのが、王都の改革になるとはね」

 

 澪は少し笑った。

 

「でも、大事ですよね」

 

「大事さ。空腹の弟子に、良い薬なんて作れないよ」

 

 セルマはそう言って、弟子の1人が薄く切りすぎた薬草を見つけ、すぐに眉を上げた。

 

「そこ、指まで切るつもりかい。刃を寝かせすぎだ」

 

 弟子が慌てる。

 

 その声を聞きながら、澪はようやく息を吐けた。

 

 あの夜から胸の奥に残っていた冷たい塊が、少しだけ小さくなった気がした。

 

 

 

 

 真壁は、最終報告書を閉じた。

 

 机の上には、王国側へ提出した写しとは別に、押入商会用の控えが置かれている。ヘルムート拘束。黒鎖商会本店帳簿押収。地方拠点封印。第4環通信網停止。実働部門名簿押収。ディートリヒ失脚。エアハルト当主退任。公爵家王国監督。クララ教会預かり。魔術院長退任。院務長解任。魔術院教育改革開始。

 

 並べると、商会の報告書というには、あまりに国の重い名前ばかりが並んでいた。

 

 ヴァルトは椅子に沈み込むように座っていた。王都で気を張り続けた疲れが、ようやく顔に出ている。境界課の塔を見た時よりも、今の方が疲れて見えた。

 

「……商人の仕事でしたよね?」

 

 彼は、半ば確認するように言った。

 

 真壁は少し考えた。

 

「ええ。商いの邪魔をする鎖を、外しただけです」

 

 澪は即座に振り返った。

 

「普通の商人は、王国査問会と黒鎖商会解体と魔術院改革まで行きません」

 

 真壁は否定しなかった。

 

 ヴァルトは机に額をつけそうなほど俯いた。

 

「私、王都に戻るのはもっと別の形だと思っていました」

 

「たとえば?」

 

 澪が尋ねると、ヴァルトは少し考えた。

 

「捕縛、尋問、強制帰還、研究室への連行あたりです」

 

「重いですね」

 

「想定が軽いと、現実が重かった時に耐えられませんので」

 

 澪は返す言葉に困った。

 

 真壁は報告書を鞄へしまいながら、静かに言った。

 

「今回は、帰還ではありません。接続です」

 

「接続」

 

「切れていた線が、別の形でつながった。戻る必要はない。つながっていればよい」

 

 ヴァルトは顔を上げた。

 

 その目には、疲れと、少しの安堵があった。

 

「……少し、休んできます」

 

 ヴァルトは言った。

 

 澪は頷いた。

 

「はい。ちゃんと休んでください」

 

 真壁も短く頷いた。

 

「よろしい。王都は逃げません。書類も、おそらく逃げません」

 

「書類は逃げてほしかったです」

 

 ヴァルトは本気でそう言った。

 

 彼は、侯爵領側での報告を終えると、マールヴェインの自宅へ戻ることになった。

 

 王都魔術院へ戻るのではない。

 

 侯爵領に拘束されるのでもない。

 

 黒鎖商会の後始末に引きずられ続けるのでもない。

 

 久しぶりに自分の家へ戻り、魔物を狩り、湯を沸かし、保存食を整理し、誰にも追われない数日を過ごす。

 

 それが、ヴァルトに与えられた最初の報酬だった。

 

 澪は、それでいいと思った。

 

 王都へ戻って、名を取り戻して、それでも魔術院へ戻らず、自分の家へ帰る。

 

 それは、ヴァルトにとって十分すぎる前進だった。

 

 真壁が鞄を持ち、澪が押し入れの戸を見た。

 

 王都の鐘。黒鎖商会の帳簿。公爵家の処分。魔術院の改革。どれも大きすぎて、まだ自分の中で整理できていない。

 

 けれど今日は、いったん戻りたいと思った。

 

 畳の部屋へ。

 

 古い蛍光灯の下へ。

 

 麦茶のある六畳間へ。

 

 ヴァルトはマールヴェインへ。

 

 澪と真壁は、押し入れのこちら側へ。

 

 

 

 

 六畳間へ戻ると、押し入れの戸を閉める音がやけに軽く聞こえた。

 

 戻ってきたのは、澪と真壁だけだった。

 

 さっきまで王都の石壁、査問会の机、黒鎖商会の封印札、魔術院の帳簿、公爵家の重い沈黙の中にいた。それなのに、目の前には畳があり、ちゃぶ台があり、古い蛍光灯が小さく鳴っている。

 

 冷蔵庫の低い音。

 

 スマートフォンの充電ケーブル。

 

 端に寄せられたコンビニ袋。

 

 領収書を入れた封筒。

 

 六畳間は、何も知らない顔で2人を迎えた。

 

 真壁は報告書を鞄へしまい、ちゃぶ台の脇に座る。珍しく、肩の力が少し抜けていた。

 

 澪は冷蔵庫を開け、麦茶の容器を取り出した。

 

 黒鎖商会は解体へ向かう。審理は続く。公爵家の再編も、魔術院の改革も、黒鎖商会の残務整理も残っている。

 

 それでも、長く続いていた黒い鎖との戦いには、ようやく区切りがついたのだと思えた。

 

 澪がコップへ麦茶を注ごうとした時、ちゃぶ台の上のスマートフォンが震えた。

 

 画面に表示された名前を見て、澪の動きが止まる。

 

 明石税理士。

 

 王都の騎士団より、魔物寄せより、黒鎖商会の帳簿より、この着信の方が嫌な予感がした。

 

「……はい、篠原です」

 

 通話口の向こうから、明石税理士の困惑した声が聞こえた。

 

『篠原さん、すみません。確認したい領収書があるんですが』

 

 澪は、ゆっくり真壁を見た。

 

 真壁は麦茶のコップへ手を伸ばしかけた姿勢で止まっている。

 

『工具、薬品、保存容器、通信機材、あと用途不明の部品が大量にあるんですけど』

 

 六畳間が静かになった。

 

 電話の向こうで、明石税理士が紙をめくる音がした。

 

『真壁さん、これなんですかー』

 

 真壁は、そっと麦茶のコップから手を離した。

 

 王都を揺らした黒い鎖は切れた。

 

 だが、押入商会の領収書は、まだ終わっていなかった。

 

 その夜。

 

 王国査問会でも、黒鎖商会でも、公爵家との応酬でも上がらなかった真壁の交渉スキルが、領収書の説明で10にレベルアップしていた。

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