押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

192 / 197
第192話 動く分類表

 

 11月下旬の朝は、冷え方が変わっていた。

 

 六畳間の窓ガラスには、外の空気の冷たさだけが薄く貼りついている。澪は鞄へゼミの資料を入れながら、ちゃぶ台の上に残った別の紙束を見ないようにした。

 

 明石税理士へ送る通信設備の資料。

 

 食品加工分の領収書。

 

 白金の現物受領評価表。

 

 それから、大学のゼミ対抗研究発表大会へ向けたアンケート集計。

 

 どれも、紙だった。

 

 異世界では、黒鎖商会の鎖が切れた。王都の査問会も、魔術院の処分も、クララの保護も、ひとまず形になった。ヴァルトはマールヴェインの自宅へ戻り、魔物を狩り、湯を沸かし、保存食を整理し、誰にも追われない数日を過ごしているはずだった。

 

 けれど澪の現代側は、休みにならなかった。

 

 12月に行われるゼミ対抗研究発表大会まで、残り2週間。

 

 調査そのものは終わっている。アンケートも集めた。自由記述も読み込んだ。先行研究も三浦が探してきた。あとは、それを発表資料として見せられる形にするだけだった。

 

 その「だけ」が、思ったより重い。

 

 澪は鞄のファスナーを閉めたあと、もう一度ちゃぶ台を見た。

 

 領収書も、自由記述も、似ている。

 

 ただ並べただけでは、意味にならない。

 

 誰かに分かる形に直さなければならない。

 

「澪君」

 

 真壁が、湯呑みを置きながら声をかけた。

 

「大学ですな」

 

「はい。今日はゼミです」

 

「発表資料の確認ですか」

 

「たぶん、かなり詰まると思います」

 

 澪は苦笑した。

 

 王都で公爵家を相手にした時より、大学のパワーポイントの方が怖い気がする。そう思ってから、さすがにそれは言いすぎだと自分で訂正した。

 

 けれど、胸の奥の重さは消えなかった。

 

「分類はできているんです。でも、Excelに入れると表が崩れて、PowerPointに貼ると何を見せたいのか分からなくなって……。Wordも、レジュメにすると改ページが変なところに行きます」

 

 言いながら、澪は自分が少し情けなくなった。

 

 異世界で橋市の客の流れを読み、毒を受けたエーミルの処置を見守り、黒鎖商会の裏帳簿を整理する場面にまで関わったのに、現代側ではExcelとWordに詰まっている。

 

 でも、そこから逃げるわけにはいかなかった。

 

 この発表は、澪だけのものではない。

 

 佐伯も、神谷も、三浦も、それぞれ調べている。澪が分類表を出したことで、班の話は前へ進んだ。だからこそ、それを伝わる形にしなければならない。

 

 真壁は、澪の顔を見てから、静かに言った。

 

「澪君。道具に勝つ必要はありません」

 

「勝つ?」

 

「はい。発表の目的は、Excelを使いこなすことでも、PowerPointを飾ることでもありません。聞き手に、分類の道筋を理解させることです」

 

 澪は、その言葉を鞄の中へ入れるように、小さく頷いた。

 

「……行ってきます」

 

「気をつけて」

 

 玄関を出ると、冷たい空気が頬に当たった。

 

 王都の石畳でも、侯爵領の街道でもない。いつもの大学へ向かう道だった。

 

 それでも澪の頭の中では、紙片が動いていた。

 

 来ない理由。

 

 来たい理由。

 

 不安。

 

 きっかけ。

 

 分類はできている。

 

 問題は、それをどう見せるかだった。

 

 

 

 

 11月下旬のゼミ室には、いつもより少しだけ焦った空気があった。

 

 12月に行われるゼミ対抗研究発表大会まで、残り2週間。

 

 調査そのものは終わっている。アンケートも集めた。自由記述も読み込んだ。先行研究も三浦が探してきた。あとは、それを発表資料として見せられる形にするだけだった。

 

 その「だけ」が、やはり重かった。

 

「本番、再来週だろ。そろそろ形にしないとまずいよな」

 

 佐伯がノートパソコンを開きながら言った。

 

 神谷は配布資料の下書きを見て、少し眉を寄せている。

 

「発表順、うち真ん中くらいだよね。普通にまとめただけだと、埋もれるかも」

 

 三浦は先行研究のメモを横に置き、スクリーンへ視線を向けた。

 

「内容はあると思う。問題は、12月の発表会で聞く側が追える形になっているかどうか」

 

 澪は、膝の上で指を重ねた。

 

 分類はした。

 

 自由記述を読み、似ているものを寄せ、違うものを分けた。来ない理由と来たい理由を混ぜないようにして、不安ときっかけを分けた。そこまでは、澪にもできた。

 

 けれど、それを発表資料にする段階で、手が止まっていた。

 

 ゼミ室のスクリーンに、班の発表資料が映った。

 

 タイトルは入っている。

 

 調査目的もある。調査方法もある。自由記述の分類表もある。棒グラフも一応ある。佐伯が打ち込んだ数字も、三浦が探してきた先行研究の引用も、神谷が選んだ柔らかい色合いも、全部入っていた。

 

 だから、悪くはない。

 

 澪は、そう思いたかった。

 

 けれど、スクリーンの中の表は小さかった。

 

 自由記述の文字は詰まり、分類名は似た言葉で並び、棒グラフは右端へ押し込まれている。発表者が口で説明すれば分かるかもしれない。でも、聞く側が一目で追える資料ではなかった。

 

 佐伯が腕を組んだ。

 

「……なんか、地味だな」

 

 遠慮しきれなかった声だった。

 

 神谷はノートパソコンの画面を覗き込み、眉を寄せる。

 

「内容はあるんだけど、最初に見た時、どこを見ればいいのか分からないかも」

 

 三浦は、スクリーンと手元のメモを見比べていた。

 

「分類自体は悪くないと思う。むしろ、ここが一番大事だと思う。でも、結果だけ出されると、聞く側が置いていかれる」

 

「置いていかれる……」

 

 澪は、膝の上で指を重ねた。

 

 分類はした。

 

 自由記述を読み、似ているものを寄せ、違うものを分けた。来ない理由と来たい理由を混ぜないようにして、不安ときっかけを分けた。そこまでは、澪にもできた。

 

 けれど、スライドに貼ると、ただの表になる。

 

 情報不足。

 

 入りにくさ。

 

 価格不安。

 

 距離・動線。

 

 きっかけ不足。

 

 限定性。

 

 体験性。

 

 安心感。

 

 数字は並んでいる。分類名も並んでいる。けれど、その数字がどうやって出てきたのかが見えない。

 

 澪が収納内で紙片を動かし、迷いながら分類した過程は、スクリーンの中では消えていた。

 

「篠原さんの手書き分類表を見た時は、分かったんだよ」

 

 三浦が言った。

 

「この回答はここに入る、この回答は別の意味もある、っていうのが見えた。でも、スライドにすると、いきなり結果だけになる」

 

 佐伯も頷く。

 

「棒グラフだけだと、普通なんだよな。普通すぎる」

 

「普通じゃだめですか」

 

 澪が聞くと、佐伯は少し困った顔をした。

 

「だめじゃない。だめじゃないけど、大会だろ。ほかの班もそれなりに作ってくる。内容があるのに、見せ方で損するのはもったいない」

 

 神谷が画面を指した。

 

「この表、見る人が読む前提になってる。でも発表中って、そんなに読んでもらえないと思う」

 

 澪は黙った。

 

 言われていることは分かる。

 

 むしろ、分かるから痛い。

 

 分類はできた。

 

 でも、伝わる形になっていない。

 

 それは、澪が思っていたよりも大きな問題だった。

 

「篠原さん、これ、動かせない?」

 

 神谷がふと言った。

 

「動かす、ですか」

 

「うん。ほら、最初は自由記述がばらばらにあって、それが分類ごとに集まる感じ。アニメーションで」

 

 佐伯が手を叩いた。

 

「あ、それいいかも。来ない理由と来たい理由に分かれていく感じにしたら、見やすいんじゃないか」

 

 三浦も頷きかけたが、すぐに首を傾げた。

 

「ただ、PowerPointのアニメーションでそれをやるの、結構大変じゃない?」

 

 澪はノートパソコンの画面を見た。

 

 すでに試していた。

 

 四角い図形を作り、自由記述の短い言葉を入れ、分類名のところへ移動するように設定した。最初の3つくらいまでは動いた。4つ目で順番がずれた。5つ目で矢印が消えた。6つ目で、別の紙片が先に飛び出した。

 

 順番を直すと、位置がずれる。

 

 位置を直すと、今度はタイミングが崩れる。

 

 本番のクリックで、思った通りに動く気がしなかった。

 

「……難しかったです」

 

 澪は小さく言った。

 

 神谷が覗き込む。

 

「やってみたんだ」

 

「はい。でも、動かしたいものが多くなると、順番が分からなくなって」

 

「あるある」

 

 神谷は真顔で頷いた。

 

「PowerPointのアニメーション、慣れてないと急に暴れ出すよね」

 

「暴れますよね」

 

「暴れる」

 

 澪は少しだけ救われた。

 

 自分だけではないらしい。

 

 ただ、それで問題が消えるわけではない。

 

 ゼミ対抗研究発表大会は近づいている。発表資料は、形にしなければならない。

 

 

 

 

 その夜、六畳間のちゃぶ台の上に、澪は印刷したスライドを並べた。

 

 税務用の領収書分類がようやく一段落したと思ったら、今度は大学ゼミの発表資料である。現代側の生活は、異世界の事件が片づいても待ってくれない。

 

 真壁は、紙を一枚ずつ見ていた。

 

 いつものように、急いで褒めも否定もしない。紙の上で、何が起きているかを確かめるように視線を動かしている。

 

「結果だけが見えています」

 

 やがて真壁が言った。

 

「結果だけ、ですか」

 

「はい。澪君が行った作業は、回答を読み、似たものを寄せ、違うものを離し、最後に分類名を与えることでした」

 

「はい」

 

「しかし、この資料では、その過程が見えません」

 

 澪は、昼間の三浦の言葉を思い出した。

 

 聞く側が置いていかれる。

 

「澪君。発表とは、資料を読む場ではありません」

 

「え?」

 

「聞き手の判断を、こちらが用意した順路で進ませる場です」

 

 真壁は、印刷したスライドを1枚ずつ並べ替えた。

 

「これは分類表。これは調査結果。これは提案。役割が混ざっています」

 

「混ざっていると、だめですか」

 

「聞き手が迷います」

 

「でも、全部大事です」

 

「全部大事な時ほど、順番を決めるのです」

 

 澪は、スライドの束を見た。

 

 調査目的。

 

 調査方法。

 

 自由記述。

 

 分類表。

 

 棒グラフ。

 

 提案。

 

 どれも必要なものに見えた。けれど、今のままでは、ただ並んでいるだけだった。

 

「作った順に並べてはいけません」

 

「作った順じゃないんですか」

 

「はい。聞き手が疑問に思う順です」

 

 真壁は、白い紙に短く書いた。

 

 何を調べたのか。

 

 なぜ調べたのか。

 

 どう調べたのか。

 

 何が分かったのか。

 

 だから何をするのか。

 

「この順で進めます」

 

 澪は、その5行を見た。

 

 短い。

 

 けれど、今まで詰まっていたスライドが、急に道のように見えた。

 

「真壁さん、これ……プレゼンの作り方ですか」

 

「交渉資料の基本でもあります」

 

「ゼミ発表を交渉にしないでください」

 

「聞き手の理解を得る点では同じです」

 

 澪は、否定しようとしてやめた。

 

 少しだけ、分かってしまったからだ。

 

 行商でも、税理士への説明でも、王都での査問でも、順番を間違えると相手は迷う。迷えば、不安になる。不安になれば、こちらの話を受け取れなくなる。

 

 ゼミ発表も、聞き手が迷えば終わりなのだ。

 

「結論を最後まで隠すのは、物語では有効です。発表では不利です」

 

「物語じゃないですもんね」

 

「はい。聞き手は敵ではありません。迷わせる必要はありません」

 

 真壁は、分類表の紙を指した。

 

「澪君の結論は何ですか」

 

「来ない理由は、不安が中心。来たい理由は、きっかけが中心。だから、対策は不安を減らすことと、きっかけを作ることの両方が必要、です」

 

「よいでしょう。それを先に示します」

 

「先に言うんですか」

 

「はい。その後で、根拠を渡します」

 

 澪は少しだけ戸惑った。

 

 発表は、最後に結論を出すものだと思っていた。けれど、聞き手の立場で考えれば、先に道の行き先を示された方が安心できる。

 

 どこへ向かうのか分からないまま歩かされるより、ずっといい。

 

「分類表は、全部見せなくてよいでしょう」

 

「せっかく作ったのにですか」

 

「分類表は、澪君が考えた証拠です。しかし、聞き手に全部読ませるものではありません」

 

 真壁は、紙の束を軽く叩いた。

 

「使わないのではありません。背後に置くのです。発表では代表例だけを出します」

 

 澪は、少し唇を尖らせた。

 

 苦労して作ったものを見せたい気持ちはある。だが、昼間のスライドを思い出すと、全部見せることが正しいわけではないのも分かる。

 

 聞き手は、澪の作業量を見に来るわけではない。

 

 何が分かったのかを聞きに来る。

 

「でも、PowerPointのアニメーション機能、うまく使えなくて……」

 

 澪はノートパソコンを開いた。

 

 画面には、途中で崩れたスライドが残っている。紙片を模した四角がいくつも重なり、矢印がずれ、アニメーションの順番は途中から分からなくなっていた。

 

 ひとつ動かすと、別のものが遅れる。

 

 順番を直すと、今度は位置がずれる。

 

 本番でクリックした時に、思った通り動く気がしない。

 

 澪は画面を見ながら、小さく言った。

 

「動かしたいのに、動かせません」

 

 真壁は、しばらく画面を見てから言った。

 

「ならば、PowerPoint上で動かさなければよい」

 

「え?」

 

「動かしたものを、動画として貼ります」

 

 澪は顔を上げた。

 

「動画にしてしまう、ということですか」

 

「はい。発表時に動かすのではなく、事前に動かしておく。本番で制御する対象を減らします」

 

 その言い方は、妙に真壁らしかった。

 

 戦場ではない。ゼミ発表である。けれど、本番の不確定要素を減らすという考え方は、澪にも分かった。

 

「でも、動画をどう作れば」

 

「澪君は、収納内で紙を並べるのが得意です」

 

 真壁は、昼間の手書き分類表を指した。

 

「散らばった回答を、分類ごとに動かす。その工程を一枚ずつ撮ればよい」

 

「パラパラアニメ……」

 

「分類の過程を見せる資料です。装飾ではありません」

 

 澪は、紙の束を見た。

 

 自由記述の回答。

 

 情報不足。

 

 入りにくさ。

 

 価格不安。

 

 限定性。

 

 体験性。

 

 安心感。

 

 それらは、すでに澪の頭の中では動いていた。ばらばらの言葉が、少しずつ集まり、分かれ、対策案へつながっていく。その動きを、画面に出せばいい。

 

「PowerPointで動かせないなら、外で動かしてから入れる」

 

「そうです」

 

「Excelのグラフじゃなくてもいいんでしょうか」

 

「聞き手が理解できるなら、よい資料です」

 

 澪は少しだけ黙った。

 

 昼間、ヘボいと思ったスライドの中で、一番足りなかったものが分かった気がした。

 

 数字ではない。

 

 分類されていく道筋だ。

 

「ただし、澪君」

 

「はい」

 

「全回答を動かす必要はありません」

 

「全部じゃないんですか」

 

「全部見せると、資料ではなく作業記録になります。代表例を選び、流れを示すべきです」

 

 真壁は、スライドの余白を指で示した。

 

「発表資料は、すべてを載せる場所ではありません。聞き手を結論まで運ぶための道です」

 

 澪はその言葉を、ノートに書いた。

 

 聞き手を結論まで運ぶための道。

 

 商談でも、行商でも、税理士への説明でも、同じことをしていた気がした。相手がどこで迷うかを考え、見せる順番を整える。必要なものを、必要な形で出す。

 

 ゼミ発表も、たぶん同じなのだ。

 

「これは飾りではありません」

 

 真壁は、澪がまだ何も作っていない動画の場所を指した。

 

「自由記述と集計結果の間に置く橋です」

 

「橋」

 

「はい。聞き手を、自由記述から分類結果へ渡す橋です」

 

 澪は、橋という言葉を聞いて、灰橋町の泥場を少しだけ思い出した。

 

 道があっても、渡れなければ人は来ない。

 

 資料も同じなのかもしれない。

 

 自由記述という泥場から、分類結果という向こう岸へ、聞き手を渡さなければならない。

 

 

 

 

 収納内に、白い作業台を広げた。

 

 現代側の六畳間では、紙片を60枚も広げれば足の踏み場がなくなる。だが、収納内なら、紙の束を広げてもまだ余裕がある。澪は大きな作業板を出し、白い紙を敷き、そこへ自由記述の紙片を並べた。

 

 全部を動かすと多すぎる。

 

 だから、代表例だけを選ぶことにした。

 

 何が売っているか分からない。

 

 値段が見えなくて入りにくい。

 

 常連向けに見える。

 

 駅から遠い。

 

 営業時間が合わない。

 

 限定品があるなら行きたい。

 

 試食があるなら入りやすい。

 

 店主の話が聞けるなら面白そう。

 

 友達と行けるなら行く。

 

 ついでに寄れるなら行く。

 

 初心者向けの案内がほしい。

 

 掘り出し物がありそうなら見たい。

 

 澪はそれらをばらばらに置いた。

 

 1枚撮る。

 

 少し動かす。

 

 また撮る。

 

 情報不足の紙片が左へ寄る。入りにくさの紙片がその下へ重なる。価格不安が別の束になる。距離や営業時間は、行きにくさの束へ移動する。

 

 右側には、来たい理由の紙片が集まる。限定性。体験性。安心感。ついで性。人の魅力。

 

 澪は紙片を指先で動かしながら、ひとつひとつ確かめた。

 

 これは価格そのものの問題ではない。

 

 値段が見えないことへの不安だ。

 

 これは距離ではなく、ついでがないことだ。

 

 これは商品そのものではなく、入るきっかけの不足だ。

 

 1枚撮る。

 

 また少し動かす。

 

 紙片が寄り、離れ、束になり、分類名の下へ収まっていく。

 

 最後に、中央へ大きく書いた紙を置く。

 

 来ない理由=不安。

 

 来たい理由=きっかけ。

 

 その下に、矢印を伸ばす。

 

 不安を減らす。

 

 きっかけを作る。

 

 澪は最後の1枚を撮り終え、息を吐いた。

 

 手は少し疲れていた。

 

 けれど、Excelの画面を前に固まっていた時とは違う疲れだった。

 

 紙の上なら、動きが見える。

 

 自分が何を考えていたのかも、見える。

 

「澪君」

 

 隣で確認していた真壁が言った。

 

「はい」

 

「最後の1枚は、もう少し余白を取るとよいでしょう」

 

「余白ですか」

 

「結論が詰まって見えます。聞き手が読む時間を残すべきです」

 

 澪は最後の紙を見直した。

 

 たしかに、文字が少し近い。

 

「……真壁さん、PowerPointは使わないのに、こういうのは分かるんですね」

 

「配置は、戦術図と似ています」

 

「ゼミ発表を戦術図にしないでください」

 

「では、商談資料です」

 

「それも少し違います」

 

 澪はそう言いながら、最後の紙を置き直した。

 

 余白を広げる。

 

 矢印を短くする。

 

 結論の文字を少し太くする。

 

 もう1枚撮る。

 

 その写真を見た時、澪はようやく少し納得した。

 

 これなら、見せられるかもしれない。

 

 

 

 

 動画ソフトに写真を読み込むと、紙片はぎこちなく動き始めた。

 

 最初は速すぎた。紙片が一瞬で飛んでしまい、何が起きたのか分からない。次に遅くしすぎると、間延びした。発表中に流すには重い。

 

 澪は何度も再生し、止め、速度を変えた。

 

 32秒。

 

 そこに落ち着いた。

 

 最初の5秒で、自由記述がばらばらにあることを見せる。

 

 次の10秒で、似た内容が寄っていく。

 

 さらに10秒で、来ない理由と来たい理由に分かれる。

 

 最後の7秒で、不安を減らす、きっかけを作る、という結論へつなげる。

 

 PowerPointのアニメーションは使っていない。

 

 ただの動画である。

 

 本番で押すのは、再生ボタンだけ。

 

 澪は、それだけで少し安心した。

 

 動画をPowerPointへ貼る。今度は、画面の中で紙片が暴れない。順番もずれない。クリックの回数も増えない。

 

 澪は、動画の下に一文だけ入れた。

 

 自由記述は「不安」と「きっかけ」に分けて読む必要がある。

 

 それ以上は書かない。

 

 説明は発表者がする。

 

 画面は、聞き手が追えるだけにする。

 

 真壁はそのスライドを見て、小さく頷いた。

 

「よいでしょう」

 

「本当にですか」

 

「はい。結果ではなく、判断の道筋が見えます」

 

 澪は、ようやく背中の力を抜いた。

 

「Excelが得意になったわけじゃないです」

 

「その必要はありません」

 

「PowerPointのアニメーションも、使えてません」

 

「本番で崩れない方法を選んだのです。よい判断です」

 

「……逃げじゃないですか」

 

「逃げではありません。達成条件を満たす手段の選択です」

 

 真壁は、画面を見たまま言った。

 

「道具に合わせて失敗するより、目的に合わせて道具を選ぶ方がよい」

 

 澪は、その言葉をしばらく聞いていた。

 

 自分は、ExcelやPowerPointに勝ちたかったのかもしれない。使いこなせないとだめだと思っていた。だが、必要だったのは、分類を伝えることだった。

 

 勝つ相手を間違えていたのだ。

 

 

 

 

 翌日のゼミ室で、澪は動画を再生した。

 

 時間は32秒。

 

 最初に、手書きの紙片が散らばっている。

 

 そこから、似た回答がゆっくり寄っていく。左に「来ない理由」。右に「来たい理由」。さらに、不安ときっかけへ分かれる。最後に、対策案へ矢印が伸びた。

 

 再生が終わったあと、佐伯が画面を見たまま言った。

 

「これ、昨日の分類表?」

 

「はい」

 

「同じ内容?」

 

「同じです」

 

 神谷が、ぱっと顔を上げた。

 

「全然違う。こっちの方が見てられる」

 

 三浦も頷いた。

 

「分類の妥当性が説明しやすい。結果だけじゃなくて、過程が見える」

 

 澪は少しだけ視線を落とした。

 

「PowerPointのアニメーションがうまく使えなかったので、手書きで1枚ずつ動かして、動画にしました」

 

 佐伯が目を丸くした。

 

「逆にすごくない?」

 

「手間はかかりましたけど、本番で崩れないので」

 

「それ大事」

 

 神谷が笑った。

 

「手書きなのもいいと思う。調査して、読んで、分けた感じが出てる」

 

 三浦は動画をもう一度再生した。

 

 紙片が動き、束になり、矢印へつながる。

 

「これ、発表の最初の方に入れよう。分類結果を出す前に、どう読んだかを見せた方がいい」

 

 佐伯が頷く。

 

「じゃあ、俺がこのあと数字の説明に入る。神谷は見せ方のところ調整できる?」

 

「できる。動画の前後だけ、文字少なめにする」

 

 三浦がメモを取る。

 

「レジュメには、分類基準を書く。動画は発表用、根拠は紙に残す」

 

 話が進み始めた。

 

 澪は、それを見ていた。

 

 昨日までは、表もグラフもスライドの中で詰まっていた。今日は、動画が1つ入っただけで、誰が何を説明するかが見えてきた。

 

 動いたのは紙片だけではなかった。

 

 班の作業も、動き出していた。

 

「篠原さん」

 

 佐伯が言った。

 

「この分類のところ、発表で少し話してくれる?」

 

 澪は固まった。

 

「私ですか」

 

「作った本人が一番分かってるだろ」

 

 神谷も頷く。

 

「長くなくていいよ。動画のあとに、“来ない理由は不安、来たい理由はきっかけとして分けました”って言うだけでも強いと思う」

 

 三浦が補足する。

 

「その後の数字説明は佐伯ができる。先行研究との接続は僕がやる。篠原さんは分類の考え方だけでいい」

 

 澪は、スクリーンを見た。

 

 紙片が止まっている。

 

 来ない理由=不安。

 

 来たい理由=きっかけ。

 

 自分で書いた文字だった。

 

 会話は得意ではない。人前で話すのも得意ではない。けれど、この分類なら、自分で説明できる。

 

 そう思えたのは、紙片が動くところを自分で見ていたからだった。

 

「……短くなら、話します」

 

 澪が言うと、佐伯が笑った。

 

「十分」

 

 神谷がすぐにスライドの担当欄を書き換える。

 

 三浦はレジュメの構成を直し始めた。

 

 澪は、ノートの端に発表用の言葉を書いた。

 

 自由記述には、来ない理由と来たい理由が混ざっていました。

 

 来ない理由は、不安が中心でした。

 

 来たい理由は、きっかけが中心でした。

 

 だから、対策は不安を減らすことと、きっかけを作ることの両方が必要だと考えました。

 

 短い。

 

 でも、これなら言える。

 

 澪はペンを置き、小さく息を吐いた。

 

 Excelが得意になったわけではない。

 

 PowerPointのアニメーションを使いこなしたわけでもない。

 

 けれど、伝えたいものを動かす方法は見つかった。

 

 紙片が動けば、分類も動いて見える。

 

 分類が見えれば、話も前へ進む。

 

 そのことに、澪は少しだけ救われていた。

 

 

 

 

 その夜、澪は六畳間で真壁に報告した。

 

「動画、使うことになりました」

 

「よい判断です」

 

「あと、少しだけ発表で話すことになりました」

 

「避けられませんな」

 

「そこを避ける方法を考えてほしかったです」

 

「聞き手を道へ乗せた以上、案内人は必要です」

 

「案内人……」

 

「澪君が分類した道です。最初の案内は、澪君が行うのが自然でしょう」

 

 澪は黙った。

 

 言い返せない。

 

 真壁は湯呑みを置き、静かに言った。

 

「長く話す必要はありません。最初の橋を渡せばよい」

 

 澪は、今日書いた短い原稿を見る。

 

 自由記述には、来ない理由と来たい理由が混ざっていました。

 

 来ない理由は、不安が中心でした。

 

 来たい理由は、きっかけが中心でした。

 

 だから、対策は不安を減らすことと、きっかけを作ることの両方が必要だと考えました。

 

 それだけなら、言えるかもしれない。

 

 澪は紙を畳み、ノートに挟んだ。

 

 前の話では、押入商会の領収書を税務署に出せる言葉へ直した。

 

 今度は、自分の分類表を、ゼミで伝わる言葉と動きへ直した。

 

 現代側にも、異世界側とは違う難しさがある。戦う相手は魔物ではない。資料と、言葉と、聞き手の視線だ。

 

 そして、その相手に対しても、澪は少しずつ戦い方を覚えている。

 

 ちゃぶ台の上には、まだ領収書の束が残っている。

 

 その横に、ゼミ発表用のノートがある。

 

 紙ばかりだ。

 

 澪は小さく笑った。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「次は、食品加工分の領収書でしたよね」

 

「はい」

 

「……発表が終わってからにしてください」

 

 真壁は少しだけ考えた。

 

「明石殿への提出期限があります」

 

「発表が終わってからにしてください」

 

「承知しました」

 

 真壁は静かに頷いた。

 

 王都でも、公爵家でも、税理士でも崩れなかった真壁が、澪の発表前だけは少し譲った。

 

 それが分かって、澪は少しだけ肩の力を抜いた。

 

 12月の発表会までは、あと2週間。

 

 紙片は、もう動き始めている。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。