11月下旬の朝は、冷え方が変わっていた。
六畳間の窓ガラスには、外の空気の冷たさだけが薄く貼りついている。澪は鞄へゼミの資料を入れながら、ちゃぶ台の上に残った別の紙束を見ないようにした。
明石税理士へ送る通信設備の資料。
食品加工分の領収書。
白金の現物受領評価表。
それから、大学のゼミ対抗研究発表大会へ向けたアンケート集計。
どれも、紙だった。
異世界では、黒鎖商会の鎖が切れた。王都の査問会も、魔術院の処分も、クララの保護も、ひとまず形になった。ヴァルトはマールヴェインの自宅へ戻り、魔物を狩り、湯を沸かし、保存食を整理し、誰にも追われない数日を過ごしているはずだった。
けれど澪の現代側は、休みにならなかった。
12月に行われるゼミ対抗研究発表大会まで、残り2週間。
調査そのものは終わっている。アンケートも集めた。自由記述も読み込んだ。先行研究も三浦が探してきた。あとは、それを発表資料として見せられる形にするだけだった。
その「だけ」が、思ったより重い。
澪は鞄のファスナーを閉めたあと、もう一度ちゃぶ台を見た。
領収書も、自由記述も、似ている。
ただ並べただけでは、意味にならない。
誰かに分かる形に直さなければならない。
「澪君」
真壁が、湯呑みを置きながら声をかけた。
「大学ですな」
「はい。今日はゼミです」
「発表資料の確認ですか」
「たぶん、かなり詰まると思います」
澪は苦笑した。
王都で公爵家を相手にした時より、大学のパワーポイントの方が怖い気がする。そう思ってから、さすがにそれは言いすぎだと自分で訂正した。
けれど、胸の奥の重さは消えなかった。
「分類はできているんです。でも、Excelに入れると表が崩れて、PowerPointに貼ると何を見せたいのか分からなくなって……。Wordも、レジュメにすると改ページが変なところに行きます」
言いながら、澪は自分が少し情けなくなった。
異世界で橋市の客の流れを読み、毒を受けたエーミルの処置を見守り、黒鎖商会の裏帳簿を整理する場面にまで関わったのに、現代側ではExcelとWordに詰まっている。
でも、そこから逃げるわけにはいかなかった。
この発表は、澪だけのものではない。
佐伯も、神谷も、三浦も、それぞれ調べている。澪が分類表を出したことで、班の話は前へ進んだ。だからこそ、それを伝わる形にしなければならない。
真壁は、澪の顔を見てから、静かに言った。
「澪君。道具に勝つ必要はありません」
「勝つ?」
「はい。発表の目的は、Excelを使いこなすことでも、PowerPointを飾ることでもありません。聞き手に、分類の道筋を理解させることです」
澪は、その言葉を鞄の中へ入れるように、小さく頷いた。
「……行ってきます」
「気をつけて」
玄関を出ると、冷たい空気が頬に当たった。
王都の石畳でも、侯爵領の街道でもない。いつもの大学へ向かう道だった。
それでも澪の頭の中では、紙片が動いていた。
来ない理由。
来たい理由。
不安。
きっかけ。
分類はできている。
問題は、それをどう見せるかだった。
11月下旬のゼミ室には、いつもより少しだけ焦った空気があった。
12月に行われるゼミ対抗研究発表大会まで、残り2週間。
調査そのものは終わっている。アンケートも集めた。自由記述も読み込んだ。先行研究も三浦が探してきた。あとは、それを発表資料として見せられる形にするだけだった。
その「だけ」が、やはり重かった。
「本番、再来週だろ。そろそろ形にしないとまずいよな」
佐伯がノートパソコンを開きながら言った。
神谷は配布資料の下書きを見て、少し眉を寄せている。
「発表順、うち真ん中くらいだよね。普通にまとめただけだと、埋もれるかも」
三浦は先行研究のメモを横に置き、スクリーンへ視線を向けた。
「内容はあると思う。問題は、12月の発表会で聞く側が追える形になっているかどうか」
澪は、膝の上で指を重ねた。
分類はした。
自由記述を読み、似ているものを寄せ、違うものを分けた。来ない理由と来たい理由を混ぜないようにして、不安ときっかけを分けた。そこまでは、澪にもできた。
けれど、それを発表資料にする段階で、手が止まっていた。
ゼミ室のスクリーンに、班の発表資料が映った。
タイトルは入っている。
調査目的もある。調査方法もある。自由記述の分類表もある。棒グラフも一応ある。佐伯が打ち込んだ数字も、三浦が探してきた先行研究の引用も、神谷が選んだ柔らかい色合いも、全部入っていた。
だから、悪くはない。
澪は、そう思いたかった。
けれど、スクリーンの中の表は小さかった。
自由記述の文字は詰まり、分類名は似た言葉で並び、棒グラフは右端へ押し込まれている。発表者が口で説明すれば分かるかもしれない。でも、聞く側が一目で追える資料ではなかった。
佐伯が腕を組んだ。
「……なんか、地味だな」
遠慮しきれなかった声だった。
神谷はノートパソコンの画面を覗き込み、眉を寄せる。
「内容はあるんだけど、最初に見た時、どこを見ればいいのか分からないかも」
三浦は、スクリーンと手元のメモを見比べていた。
「分類自体は悪くないと思う。むしろ、ここが一番大事だと思う。でも、結果だけ出されると、聞く側が置いていかれる」
「置いていかれる……」
澪は、膝の上で指を重ねた。
分類はした。
自由記述を読み、似ているものを寄せ、違うものを分けた。来ない理由と来たい理由を混ぜないようにして、不安ときっかけを分けた。そこまでは、澪にもできた。
けれど、スライドに貼ると、ただの表になる。
情報不足。
入りにくさ。
価格不安。
距離・動線。
きっかけ不足。
限定性。
体験性。
安心感。
数字は並んでいる。分類名も並んでいる。けれど、その数字がどうやって出てきたのかが見えない。
澪が収納内で紙片を動かし、迷いながら分類した過程は、スクリーンの中では消えていた。
「篠原さんの手書き分類表を見た時は、分かったんだよ」
三浦が言った。
「この回答はここに入る、この回答は別の意味もある、っていうのが見えた。でも、スライドにすると、いきなり結果だけになる」
佐伯も頷く。
「棒グラフだけだと、普通なんだよな。普通すぎる」
「普通じゃだめですか」
澪が聞くと、佐伯は少し困った顔をした。
「だめじゃない。だめじゃないけど、大会だろ。ほかの班もそれなりに作ってくる。内容があるのに、見せ方で損するのはもったいない」
神谷が画面を指した。
「この表、見る人が読む前提になってる。でも発表中って、そんなに読んでもらえないと思う」
澪は黙った。
言われていることは分かる。
むしろ、分かるから痛い。
分類はできた。
でも、伝わる形になっていない。
それは、澪が思っていたよりも大きな問題だった。
「篠原さん、これ、動かせない?」
神谷がふと言った。
「動かす、ですか」
「うん。ほら、最初は自由記述がばらばらにあって、それが分類ごとに集まる感じ。アニメーションで」
佐伯が手を叩いた。
「あ、それいいかも。来ない理由と来たい理由に分かれていく感じにしたら、見やすいんじゃないか」
三浦も頷きかけたが、すぐに首を傾げた。
「ただ、PowerPointのアニメーションでそれをやるの、結構大変じゃない?」
澪はノートパソコンの画面を見た。
すでに試していた。
四角い図形を作り、自由記述の短い言葉を入れ、分類名のところへ移動するように設定した。最初の3つくらいまでは動いた。4つ目で順番がずれた。5つ目で矢印が消えた。6つ目で、別の紙片が先に飛び出した。
順番を直すと、位置がずれる。
位置を直すと、今度はタイミングが崩れる。
本番のクリックで、思った通りに動く気がしなかった。
「……難しかったです」
澪は小さく言った。
神谷が覗き込む。
「やってみたんだ」
「はい。でも、動かしたいものが多くなると、順番が分からなくなって」
「あるある」
神谷は真顔で頷いた。
「PowerPointのアニメーション、慣れてないと急に暴れ出すよね」
「暴れますよね」
「暴れる」
澪は少しだけ救われた。
自分だけではないらしい。
ただ、それで問題が消えるわけではない。
ゼミ対抗研究発表大会は近づいている。発表資料は、形にしなければならない。
その夜、六畳間のちゃぶ台の上に、澪は印刷したスライドを並べた。
税務用の領収書分類がようやく一段落したと思ったら、今度は大学ゼミの発表資料である。現代側の生活は、異世界の事件が片づいても待ってくれない。
真壁は、紙を一枚ずつ見ていた。
いつものように、急いで褒めも否定もしない。紙の上で、何が起きているかを確かめるように視線を動かしている。
「結果だけが見えています」
やがて真壁が言った。
「結果だけ、ですか」
「はい。澪君が行った作業は、回答を読み、似たものを寄せ、違うものを離し、最後に分類名を与えることでした」
「はい」
「しかし、この資料では、その過程が見えません」
澪は、昼間の三浦の言葉を思い出した。
聞く側が置いていかれる。
「澪君。発表とは、資料を読む場ではありません」
「え?」
「聞き手の判断を、こちらが用意した順路で進ませる場です」
真壁は、印刷したスライドを1枚ずつ並べ替えた。
「これは分類表。これは調査結果。これは提案。役割が混ざっています」
「混ざっていると、だめですか」
「聞き手が迷います」
「でも、全部大事です」
「全部大事な時ほど、順番を決めるのです」
澪は、スライドの束を見た。
調査目的。
調査方法。
自由記述。
分類表。
棒グラフ。
提案。
どれも必要なものに見えた。けれど、今のままでは、ただ並んでいるだけだった。
「作った順に並べてはいけません」
「作った順じゃないんですか」
「はい。聞き手が疑問に思う順です」
真壁は、白い紙に短く書いた。
何を調べたのか。
なぜ調べたのか。
どう調べたのか。
何が分かったのか。
だから何をするのか。
「この順で進めます」
澪は、その5行を見た。
短い。
けれど、今まで詰まっていたスライドが、急に道のように見えた。
「真壁さん、これ……プレゼンの作り方ですか」
「交渉資料の基本でもあります」
「ゼミ発表を交渉にしないでください」
「聞き手の理解を得る点では同じです」
澪は、否定しようとしてやめた。
少しだけ、分かってしまったからだ。
行商でも、税理士への説明でも、王都での査問でも、順番を間違えると相手は迷う。迷えば、不安になる。不安になれば、こちらの話を受け取れなくなる。
ゼミ発表も、聞き手が迷えば終わりなのだ。
「結論を最後まで隠すのは、物語では有効です。発表では不利です」
「物語じゃないですもんね」
「はい。聞き手は敵ではありません。迷わせる必要はありません」
真壁は、分類表の紙を指した。
「澪君の結論は何ですか」
「来ない理由は、不安が中心。来たい理由は、きっかけが中心。だから、対策は不安を減らすことと、きっかけを作ることの両方が必要、です」
「よいでしょう。それを先に示します」
「先に言うんですか」
「はい。その後で、根拠を渡します」
澪は少しだけ戸惑った。
発表は、最後に結論を出すものだと思っていた。けれど、聞き手の立場で考えれば、先に道の行き先を示された方が安心できる。
どこへ向かうのか分からないまま歩かされるより、ずっといい。
「分類表は、全部見せなくてよいでしょう」
「せっかく作ったのにですか」
「分類表は、澪君が考えた証拠です。しかし、聞き手に全部読ませるものではありません」
真壁は、紙の束を軽く叩いた。
「使わないのではありません。背後に置くのです。発表では代表例だけを出します」
澪は、少し唇を尖らせた。
苦労して作ったものを見せたい気持ちはある。だが、昼間のスライドを思い出すと、全部見せることが正しいわけではないのも分かる。
聞き手は、澪の作業量を見に来るわけではない。
何が分かったのかを聞きに来る。
「でも、PowerPointのアニメーション機能、うまく使えなくて……」
澪はノートパソコンを開いた。
画面には、途中で崩れたスライドが残っている。紙片を模した四角がいくつも重なり、矢印がずれ、アニメーションの順番は途中から分からなくなっていた。
ひとつ動かすと、別のものが遅れる。
順番を直すと、今度は位置がずれる。
本番でクリックした時に、思った通り動く気がしない。
澪は画面を見ながら、小さく言った。
「動かしたいのに、動かせません」
真壁は、しばらく画面を見てから言った。
「ならば、PowerPoint上で動かさなければよい」
「え?」
「動かしたものを、動画として貼ります」
澪は顔を上げた。
「動画にしてしまう、ということですか」
「はい。発表時に動かすのではなく、事前に動かしておく。本番で制御する対象を減らします」
その言い方は、妙に真壁らしかった。
戦場ではない。ゼミ発表である。けれど、本番の不確定要素を減らすという考え方は、澪にも分かった。
「でも、動画をどう作れば」
「澪君は、収納内で紙を並べるのが得意です」
真壁は、昼間の手書き分類表を指した。
「散らばった回答を、分類ごとに動かす。その工程を一枚ずつ撮ればよい」
「パラパラアニメ……」
「分類の過程を見せる資料です。装飾ではありません」
澪は、紙の束を見た。
自由記述の回答。
情報不足。
入りにくさ。
価格不安。
限定性。
体験性。
安心感。
それらは、すでに澪の頭の中では動いていた。ばらばらの言葉が、少しずつ集まり、分かれ、対策案へつながっていく。その動きを、画面に出せばいい。
「PowerPointで動かせないなら、外で動かしてから入れる」
「そうです」
「Excelのグラフじゃなくてもいいんでしょうか」
「聞き手が理解できるなら、よい資料です」
澪は少しだけ黙った。
昼間、ヘボいと思ったスライドの中で、一番足りなかったものが分かった気がした。
数字ではない。
分類されていく道筋だ。
「ただし、澪君」
「はい」
「全回答を動かす必要はありません」
「全部じゃないんですか」
「全部見せると、資料ではなく作業記録になります。代表例を選び、流れを示すべきです」
真壁は、スライドの余白を指で示した。
「発表資料は、すべてを載せる場所ではありません。聞き手を結論まで運ぶための道です」
澪はその言葉を、ノートに書いた。
聞き手を結論まで運ぶための道。
商談でも、行商でも、税理士への説明でも、同じことをしていた気がした。相手がどこで迷うかを考え、見せる順番を整える。必要なものを、必要な形で出す。
ゼミ発表も、たぶん同じなのだ。
「これは飾りではありません」
真壁は、澪がまだ何も作っていない動画の場所を指した。
「自由記述と集計結果の間に置く橋です」
「橋」
「はい。聞き手を、自由記述から分類結果へ渡す橋です」
澪は、橋という言葉を聞いて、灰橋町の泥場を少しだけ思い出した。
道があっても、渡れなければ人は来ない。
資料も同じなのかもしれない。
自由記述という泥場から、分類結果という向こう岸へ、聞き手を渡さなければならない。
収納内に、白い作業台を広げた。
現代側の六畳間では、紙片を60枚も広げれば足の踏み場がなくなる。だが、収納内なら、紙の束を広げてもまだ余裕がある。澪は大きな作業板を出し、白い紙を敷き、そこへ自由記述の紙片を並べた。
全部を動かすと多すぎる。
だから、代表例だけを選ぶことにした。
何が売っているか分からない。
値段が見えなくて入りにくい。
常連向けに見える。
駅から遠い。
営業時間が合わない。
限定品があるなら行きたい。
試食があるなら入りやすい。
店主の話が聞けるなら面白そう。
友達と行けるなら行く。
ついでに寄れるなら行く。
初心者向けの案内がほしい。
掘り出し物がありそうなら見たい。
澪はそれらをばらばらに置いた。
1枚撮る。
少し動かす。
また撮る。
情報不足の紙片が左へ寄る。入りにくさの紙片がその下へ重なる。価格不安が別の束になる。距離や営業時間は、行きにくさの束へ移動する。
右側には、来たい理由の紙片が集まる。限定性。体験性。安心感。ついで性。人の魅力。
澪は紙片を指先で動かしながら、ひとつひとつ確かめた。
これは価格そのものの問題ではない。
値段が見えないことへの不安だ。
これは距離ではなく、ついでがないことだ。
これは商品そのものではなく、入るきっかけの不足だ。
1枚撮る。
また少し動かす。
紙片が寄り、離れ、束になり、分類名の下へ収まっていく。
最後に、中央へ大きく書いた紙を置く。
来ない理由=不安。
来たい理由=きっかけ。
その下に、矢印を伸ばす。
不安を減らす。
きっかけを作る。
澪は最後の1枚を撮り終え、息を吐いた。
手は少し疲れていた。
けれど、Excelの画面を前に固まっていた時とは違う疲れだった。
紙の上なら、動きが見える。
自分が何を考えていたのかも、見える。
「澪君」
隣で確認していた真壁が言った。
「はい」
「最後の1枚は、もう少し余白を取るとよいでしょう」
「余白ですか」
「結論が詰まって見えます。聞き手が読む時間を残すべきです」
澪は最後の紙を見直した。
たしかに、文字が少し近い。
「……真壁さん、PowerPointは使わないのに、こういうのは分かるんですね」
「配置は、戦術図と似ています」
「ゼミ発表を戦術図にしないでください」
「では、商談資料です」
「それも少し違います」
澪はそう言いながら、最後の紙を置き直した。
余白を広げる。
矢印を短くする。
結論の文字を少し太くする。
もう1枚撮る。
その写真を見た時、澪はようやく少し納得した。
これなら、見せられるかもしれない。
動画ソフトに写真を読み込むと、紙片はぎこちなく動き始めた。
最初は速すぎた。紙片が一瞬で飛んでしまい、何が起きたのか分からない。次に遅くしすぎると、間延びした。発表中に流すには重い。
澪は何度も再生し、止め、速度を変えた。
32秒。
そこに落ち着いた。
最初の5秒で、自由記述がばらばらにあることを見せる。
次の10秒で、似た内容が寄っていく。
さらに10秒で、来ない理由と来たい理由に分かれる。
最後の7秒で、不安を減らす、きっかけを作る、という結論へつなげる。
PowerPointのアニメーションは使っていない。
ただの動画である。
本番で押すのは、再生ボタンだけ。
澪は、それだけで少し安心した。
動画をPowerPointへ貼る。今度は、画面の中で紙片が暴れない。順番もずれない。クリックの回数も増えない。
澪は、動画の下に一文だけ入れた。
自由記述は「不安」と「きっかけ」に分けて読む必要がある。
それ以上は書かない。
説明は発表者がする。
画面は、聞き手が追えるだけにする。
真壁はそのスライドを見て、小さく頷いた。
「よいでしょう」
「本当にですか」
「はい。結果ではなく、判断の道筋が見えます」
澪は、ようやく背中の力を抜いた。
「Excelが得意になったわけじゃないです」
「その必要はありません」
「PowerPointのアニメーションも、使えてません」
「本番で崩れない方法を選んだのです。よい判断です」
「……逃げじゃないですか」
「逃げではありません。達成条件を満たす手段の選択です」
真壁は、画面を見たまま言った。
「道具に合わせて失敗するより、目的に合わせて道具を選ぶ方がよい」
澪は、その言葉をしばらく聞いていた。
自分は、ExcelやPowerPointに勝ちたかったのかもしれない。使いこなせないとだめだと思っていた。だが、必要だったのは、分類を伝えることだった。
勝つ相手を間違えていたのだ。
翌日のゼミ室で、澪は動画を再生した。
時間は32秒。
最初に、手書きの紙片が散らばっている。
そこから、似た回答がゆっくり寄っていく。左に「来ない理由」。右に「来たい理由」。さらに、不安ときっかけへ分かれる。最後に、対策案へ矢印が伸びた。
再生が終わったあと、佐伯が画面を見たまま言った。
「これ、昨日の分類表?」
「はい」
「同じ内容?」
「同じです」
神谷が、ぱっと顔を上げた。
「全然違う。こっちの方が見てられる」
三浦も頷いた。
「分類の妥当性が説明しやすい。結果だけじゃなくて、過程が見える」
澪は少しだけ視線を落とした。
「PowerPointのアニメーションがうまく使えなかったので、手書きで1枚ずつ動かして、動画にしました」
佐伯が目を丸くした。
「逆にすごくない?」
「手間はかかりましたけど、本番で崩れないので」
「それ大事」
神谷が笑った。
「手書きなのもいいと思う。調査して、読んで、分けた感じが出てる」
三浦は動画をもう一度再生した。
紙片が動き、束になり、矢印へつながる。
「これ、発表の最初の方に入れよう。分類結果を出す前に、どう読んだかを見せた方がいい」
佐伯が頷く。
「じゃあ、俺がこのあと数字の説明に入る。神谷は見せ方のところ調整できる?」
「できる。動画の前後だけ、文字少なめにする」
三浦がメモを取る。
「レジュメには、分類基準を書く。動画は発表用、根拠は紙に残す」
話が進み始めた。
澪は、それを見ていた。
昨日までは、表もグラフもスライドの中で詰まっていた。今日は、動画が1つ入っただけで、誰が何を説明するかが見えてきた。
動いたのは紙片だけではなかった。
班の作業も、動き出していた。
「篠原さん」
佐伯が言った。
「この分類のところ、発表で少し話してくれる?」
澪は固まった。
「私ですか」
「作った本人が一番分かってるだろ」
神谷も頷く。
「長くなくていいよ。動画のあとに、“来ない理由は不安、来たい理由はきっかけとして分けました”って言うだけでも強いと思う」
三浦が補足する。
「その後の数字説明は佐伯ができる。先行研究との接続は僕がやる。篠原さんは分類の考え方だけでいい」
澪は、スクリーンを見た。
紙片が止まっている。
来ない理由=不安。
来たい理由=きっかけ。
自分で書いた文字だった。
会話は得意ではない。人前で話すのも得意ではない。けれど、この分類なら、自分で説明できる。
そう思えたのは、紙片が動くところを自分で見ていたからだった。
「……短くなら、話します」
澪が言うと、佐伯が笑った。
「十分」
神谷がすぐにスライドの担当欄を書き換える。
三浦はレジュメの構成を直し始めた。
澪は、ノートの端に発表用の言葉を書いた。
自由記述には、来ない理由と来たい理由が混ざっていました。
来ない理由は、不安が中心でした。
来たい理由は、きっかけが中心でした。
だから、対策は不安を減らすことと、きっかけを作ることの両方が必要だと考えました。
短い。
でも、これなら言える。
澪はペンを置き、小さく息を吐いた。
Excelが得意になったわけではない。
PowerPointのアニメーションを使いこなしたわけでもない。
けれど、伝えたいものを動かす方法は見つかった。
紙片が動けば、分類も動いて見える。
分類が見えれば、話も前へ進む。
そのことに、澪は少しだけ救われていた。
その夜、澪は六畳間で真壁に報告した。
「動画、使うことになりました」
「よい判断です」
「あと、少しだけ発表で話すことになりました」
「避けられませんな」
「そこを避ける方法を考えてほしかったです」
「聞き手を道へ乗せた以上、案内人は必要です」
「案内人……」
「澪君が分類した道です。最初の案内は、澪君が行うのが自然でしょう」
澪は黙った。
言い返せない。
真壁は湯呑みを置き、静かに言った。
「長く話す必要はありません。最初の橋を渡せばよい」
澪は、今日書いた短い原稿を見る。
自由記述には、来ない理由と来たい理由が混ざっていました。
来ない理由は、不安が中心でした。
来たい理由は、きっかけが中心でした。
だから、対策は不安を減らすことと、きっかけを作ることの両方が必要だと考えました。
それだけなら、言えるかもしれない。
澪は紙を畳み、ノートに挟んだ。
前の話では、押入商会の領収書を税務署に出せる言葉へ直した。
今度は、自分の分類表を、ゼミで伝わる言葉と動きへ直した。
現代側にも、異世界側とは違う難しさがある。戦う相手は魔物ではない。資料と、言葉と、聞き手の視線だ。
そして、その相手に対しても、澪は少しずつ戦い方を覚えている。
ちゃぶ台の上には、まだ領収書の束が残っている。
その横に、ゼミ発表用のノートがある。
紙ばかりだ。
澪は小さく笑った。
「真壁さん」
「はい」
「次は、食品加工分の領収書でしたよね」
「はい」
「……発表が終わってからにしてください」
真壁は少しだけ考えた。
「明石殿への提出期限があります」
「発表が終わってからにしてください」
「承知しました」
真壁は静かに頷いた。
王都でも、公爵家でも、税理士でも崩れなかった真壁が、澪の発表前だけは少し譲った。
それが分かって、澪は少しだけ肩の力を抜いた。
12月の発表会までは、あと2週間。
紙片は、もう動き始めている。