押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第193話 シスタークララ

 

 ローゼンベルク公爵家本邸の門に、王国監督官の馬車が入った翌朝、別の門には分家筋の馬車が集まり始めていた。

 

 誰も、クララを責めに来たとは言わなかった。

 

 誰も、クララを罰すると口にしなかった。

 

 彼らは皆、守るためだと言った。

 

「クララ様は、一門でお守りいたします」

 

 年配の男が、丁寧に頭を下げた。

 

 言葉だけなら、礼を尽くした申し出だった。だがクララは、その声を聞いた瞬間、喉の奥が冷えていくのを感じた。

 

 守る。

 

 公爵家では、その言葉が、ときに扉を閉める意味で使われることを知っていた。

 

 守るために外へ出さない。守るために誰にも会わせない。守るために言葉を整える。守るために、何を見たのかを、誰にどう話すのかを決められる。

 

 クララは、膝の上で手を重ねた。

 

 父の部屋は封じられた。家令府の扉にも王国の封印札が貼られた。ディートリヒの名で動いていた者たちは、一人ずつ呼び出されている。黒鎖商会との契約書も、信用供与の控えも、通信記録も、すでに王国監督官の管理下にあった。

 

 公爵家は、潰されたわけではない。

 

 けれど、以前のまま残されたわけでもない。

 

 だからこそ、分家筋はクララを必要としていた。

 

 ローゼンベルクの血筋。王国査問会で見た者。家令府の空気を知る者。本家を切り離すにも、本家を守るにも、クララの名は便利だった。

 

「未婚の令嬢を教会預かりなど、外聞が悪うございます」

 

 別の分家筋の男が、王国監督官へ低い声で言った。

 

 王国監督官は、封印札の貼られた扉を背にしていた。

 

「外聞を論じる段階ではありません」

 

 その声は、怒ってはいなかった。ただ、動かなかった。

 

「クララ嬢は証言者であり、保護対象です。公爵家一門の管理下へ戻すことはできません」

 

「ですが」

 

「王国教会が預かります」

 

 中庭へ、黒く塗られた馬車が入ってきた。

 

 華やかな紋ではない。金細工でもない。扉に小さく王国教会の印があるだけの、静かな馬車だった。

 

 そこから降りた司祭様は、クララの前で深く礼をした。

 

「クララ様。お迎えに上がりました」

 

 クララは立ち上がった。

 

 自分が救われたのかどうかは、分からなかった。

 

 ただ、あの分家筋の馬車へ乗れば、もう一度、公爵家の名の中に閉じ込められるのだと分かった。

 

 王国教会の馬車へ乗る時、クララは一度だけ屋敷を振り返った。

 

 高い窓。白い石。整えられた庭。長い廊下。

 

 生まれてからずっと、そこは自分を守る場所だった。

 

 けれど今は、静かに閉じる扉の音が、檻のように聞こえた。

 

 

 

 

 侯爵領の教会に着いた時、クララは最初に石床の冷たさを覚えた。

 

 公都の礼拝堂とは違う。

 

 床は磨かれているが、飾りは少ない。窓も大きくない。香の匂いは薄く残っているだけで、その奥からは、煮込みの湯気と焼いたパンの匂いが流れてきた。

 

 遠くで子どもが泣いている。

 

 別の子どもが走り、誰かに叱られ、すぐに笑った。

 

 司祭様は、クララを小さな応接室へ案内した。

 

「クララ様。ここは牢ではありません」

 

 クララは顔を上げた。

 

「ですが、公爵家の客間でもありません。手紙、訪問、外出には制限があります。それは罰ではなく、あなたを守るためでもあります」

 

「守る……」

 

 クララは、その言葉に少しだけ身を固くした。

 

 司祭様は、それに気づいたように声を和らげた。

 

「あなたを利用しようとする者が、まだ残っております。あなたの言葉を欲しがる者も、あなたの沈黙を欲しがる者もおります」

 

 クララは、膝の上の指を見る。

 

 沈黙。

 

 それは、公爵家でよく求められたものだった。

 

「ここでは、ローゼンベルクの名は使いません」

 

 クララは息を止めた。

 

 名を奪われるのだと思った。

 

 けれど、司祭様は静かに続けた。

 

「名を奪う、という意味ではありません。その名を使えば、あなたを担ぎたい者も、黙らせたい者も寄ってきます。調査が終わるまで、ここではシスタークララ。それで通します」

 

「シスター……クララ」

 

「はい」

 

 司祭様は頷いた。

 

「正式な修道誓願ではありません。王国教会預かりの身として、ここで生活するための呼び名です」

 

 その時、扉が控えめに叩かれた。

 

 入ってきたのは、落ち着いた顔の女性だった。年は若くも老いても見えない。ただ、袖をまくった手に、洗い物と針仕事の跡があった。

 

「シスターサリアです。今日から同じ部屋で休んでいただきます」

 

「クララです」

 

 そう名乗ってから、クララは一瞬遅れて、自分で言い直した。

 

「……シスタークララ、です」

 

 サリアは大げさに褒めもせず、ただ頷いた。

 

「では、まず食事にしましょう」

 

「食事、ですか」

 

「はい。ここでは、まず眠ること。次に食べること。それから、手を動かすことです」

 

 クララは返事に迷った。

 

 事情を話すのではないのか。罪について問われるのではないのか。父のことを聞かれるのではないのか。

 

 サリアは、そんなクララの迷いを急かさなかった。

 

「話は、そのあとで十分です」

 

 その言葉に、クララはようやく小さく頷いた。

 

 

 

 

 侯爵領の冬支度は、思っていたよりも早く始まった。

 

 朝の鐘が鳴る前から、孤児院の廊下には小さな足音が増える。赤ん坊が泣き、幼い子が毛布を蹴り、年長の子どもたちは針箱を抱えて食堂へ向かう。

 

 クララは、その足音で目を覚ますようになった。

 

 公都の屋敷では、朝は侍女がカーテンを開けるものだった。温められた水が用意され、着替えが整えられ、食事は既に別室に運ばれている。寒さは窓の外にあるもので、自分の手で水桶に触れるものではなかった。

 

 ここでは違う。

 

 水は冷たい。床も冷たい。幼い子の鼻はすぐに赤くなる。毛布は足りているように見えても、夜中に蹴飛ばされれば足が冷える。袖のほつれは放っておくと広がり、古い靴下は小さな足の指を覗かせる。

 

「シスタークララ、針は急がなくていいですよ。曲がったまま縫う方があとで困ります」

 

 サリアは、布を畳みながら言った。

 

「申し訳ありません」

 

「謝るより先に、糸を結び直してください」

 

「……はい」

 

 クララは、針先を見つめた。

 

 叱責ではない。評価でもない。失敗したから終わりではなく、失敗したら直す。

 

 その単純さに、最初は戸惑った。

 

 食堂では、年長の子どもたちが小さい子の椀を並べる。泣く赤ん坊の背を、別の子が慣れた手つきで叩く。シスターサリアは鍋の火を見ながら、洗濯物と針仕事と幼児の鼻水を同時に気にしている。

 

 司祭様は、薪の束と粉袋と薬草の箱を確認していた。

 

 数字は小さい。

 

 だが、その数字の向こうに、食べる子どもがいる。

 

 クララはそれを、まだうまく受け止められずにいた。

 

 夕方になると、日が早く暮れた。

 

 庭先へ出ると、セルマ工房の塔の影が長く伸びている。公都の塔は、人を見下ろすものだった。高く、遠く、近づきがたいものだった。

 

 けれど、あの塔からは薬草を煮る匂いが流れてくる。

 

 子どもが転べば軟膏が届き、咳が続けば薬草茶が届く。高い建物なのに、見下ろしている感じがしない。

 

 不思議な塔だと、クララは思った。

 

 教会の敷地の端には、子どもたちのために建てられた離れもあった。

 

 こちらも、塔のような建物だった。

 

 聞けば、押入商会の細身の男性が建てたものだという。

 

 クララはその名を聞いて、すぐには顔を思い浮かべられなかった。

 

 ただ、時折教会へ来る黒髪の若い女性のそばに、長身で細身の男性が立っていることは覚えていた。

 

 商人というには静かで、騎士というには剣を見せない。部屋の入口と窓と子どもたちの動きを、一度に見ているような人だった。

 

 どこかで見た気がする。

 

 そう思うたび、王都の査問会の重い空気が胸の奥へ戻ってくる。父の横顔、封印札、声を抑えた大人たち。

 

 クララは、それ以上思い出すのをやめた。

 

 

 

 

 押入商会の会長は、黒髪の若い女性だった。

 

 初めて見た時、クララは侍女の一人かと思った。だが、シスターサリアが深く礼をし、司祭様が布施の目録を受け取ったことで、彼女が商会の中心にいる人だと分かった。

 

 澪、という名だと聞いた。

 

 まだ学校に通っているらしい。

 

 それなのに、商会を持ち、侯爵家と話し、孤児院へ布や食品を運んでくる。

 

 別の王国の貴族か、あるいは姫君なのではないかと、クララはしばらく本気で考えていた。

 

「足りないものはありませんか」

 

 澪は毎回、そう聞いた。

 

 言い方は強くない。むしろ、こちらが遠慮しないかを気にしているようだった。

 

 隣では、リュシアという女性が、荷の確認をしている。

 

「針は前より多めに入れたよ。糸は太さ別。小さい子の服に使うなら、こっちの方がいい。石鹸は小分けだ。いっぺんに出すと、子どもが遊ぶからね」

 

 リュシアは、慰めの言葉を多く言わなかった。

 

 その代わり、必要なものを見落とさない。

 

 毛布。布。糸。針。小分け石鹸。干し芋。豆。小麦粉。古い靴の修理に使う革紐。

 

 クララは、荷が並ぶのを見ているだけで、少し胸が詰まった。

 

 公都では、贈り物には差出人の名がつき、返礼がつき、意味がついた。

 

 ここでは、荷に「クララ様へ」とは書かれていない。

 

 教会へ。孤児院へ。冬支度へ。

 

 その中に、クララが使えるものも混じっている。

 

 返礼を考えなくてよい布。

 

 そのことが、ありがたく、少し怖かった。

 

 時折、押入商会の人々と一緒に、領主の長女も訪れた。

 

 エレナ様。

 

 クララより少し年上にも、少し年下にも見える、不思議な落ち着きのある少女だった。彼女は毎回、布や油や小さな菓子を持ってきて、必ず同じことを聞いた。

 

「不自由はありませんか。困っていることは、隠さず教えてください」

 

 クララはそのたび、礼をして答える。

 

「特にございません」

 

 そう答えるたび、エレナ様の視線が少しだけ柔らかくなる。

 

 信じていないのだ、とクララは思った。

 

 けれど、問い詰めることもしなかった。

 

 その距離が、かえって逃げ場になった。

 

 エレナ様は、ゴブリンの襲撃の時に町の指揮を取ったらしい。

 

 その話を年長の子が得意そうに教えてくれた時、クララは針を持つ手を止めた。

 

 公都にいた頃、クララはそのようなことを考えたことがなかった。

 

 町に危険が近づけば、騎士団が動く。令嬢は奥に下がり、窓から煙を見ないようにする。それが当然だと思っていた。

 

 けれど、この侯爵領では違うらしい。

 

 領主の娘が町へ出る。

 

 商会長が孤児院へ来る。

 

 薬師が工房を開き、子どもたちが針を持つ。

 

 水害があったという。森から魔物が溢れたという。ゴブリンが襲ってきたという。

 

 それでも人々は、冬が来るのをただ待っていない。

 

 布を縫い、薪を数え、鍋を煮て、壊れた窓枠を直し、明日の分の針仕事を残す。

 

 王都よりも、ここは騒がしい。

 

 けれど、なぜか生きている感じがした。

 

 

 

 

 その夜、幼い子が熱を出した。

 

 最初は、寝苦しそうに毛布を蹴っただけだった。

 

 シスターサリアが額に触れ、すぐに表情を変えた。

 

「シスタークララ、布を濡らしてください。熱い額を冷やします」

 

「はい」

 

 クララは水桶へ向かった。

 

 手が少し震えていた。

 

 公都では、病人が出れば侍医が来た。侍女が水を運び、薬師が薬を選び、家の者は報告を待つ。クララは、心配する側ではあったが、動く側ではなかった。

 

 ここでは、サリアが一人で全部を見るわけにはいかない。

 

 赤ん坊も泣いている。別の幼児も起きかけている。年長の子どもたちは不安そうに入口から覗いている。

 

 クララは布を濡らし、絞った。

 

 強く絞りすぎて、指が痛くなる。

 

「額へ。冷たすぎる時は、少し手で温めてから」

 

「はい」

 

 幼い子の額は熱かった。

 

 息が早い。

 

 クララは、額の布を置きながら、自分の胸まで苦しくなるのを感じた。

 

「水を、少しずつ」

 

 サリアが匙を渡す。

 

「無理に飲ませないでください。むせたら止めます」

 

「はい」

 

 クララは匙を持った。

 

 幼い子の唇に、少しだけ水を含ませる。半分はこぼれた。クララの袖が濡れる。

 

「申し訳……」

 

「謝らなくていいです。次を」

 

 サリアの声は穏やかだったが、迷いがなかった。

 

 クララは頷き、もう一度水を含ませた。

 

 熱はなかなか下がらなかった。

 

 衣を緩め、毛布を調整し、額の布を替える。幼い子が吐きそうになると、クララは受け皿を差し出した。赤ん坊が泣くと、年長の子に毛布を持ってくるよう頼んだ。

 

 自分が頼む声を出せたことに、クララ自身が少し驚いた。

 

 夜が深くなっても、幼い子は眠れなかった。

 

 サリアは小さな箱を開けた。

 

 中には、丁寧に包まれた薬が入っている。

 

「ヤナギの熱さましを使います」

 

「薬、ですか」

 

 クララの声が強張った。

 

 サリアは薬匙を持ったまま、クララをまっすぐ見た。

 

「シスタークララ、よく聞いてください」

 

「はい」

 

「これは熱を下げる薬です。ただし、子どもに使う時は、効いたかどうかだけを見てはいけません」

 

「効いたかどうかだけでは、ないのですか」

 

「顔色、呼吸、吐き気、腹の痛み、眠り方、手足の冷え。少しでもおかしいと思ったら、すぐに私を呼びなさい」

 

 サリアは、薬をほんの少量だけ湯に溶かした。

 

「迷ったら、呼びなさい。迷わなくても、不安なら呼びなさい」

 

「はい」

 

「ヒールも、ポーションもあります。毒や悪い病の兆しがあれば、キュアも考えます。薬で無理を押し通す必要はありません」

 

 クララは、幼い子の顔を見た。

 

 熱い。苦しそうだ。

 

 でも、ただ苦しそうだと思うだけでは足りないのだと、サリアの声が教えていた。

 

「シスタークララ。子どもや幼い子は、常によく見なければなりません」

 

「常に、ですか」

 

「はい。昨日から今日。今日から明日。さっきから今。何が変わったかを見ます」

 

 サリアは、幼い子の額に置いた布を替えた。

 

「昨日は食べられたものが、今日は喉を通らないことがあります。昨日は眠れた子が、今日は眠れないこともあります。泣き方、息の速さ、手足の冷え、目の動き、汗の出方。小さな変化を見落とさないことです」

 

「変化に気づいたら……」

 

「夜でも報告してください」

 

「夜でも、ですか」

 

「夜だからこそです。子どもは、朝まで待ってくれません」

 

 クララは、幼い子の胸の上下を見た。

 

 公爵家で学んだ「見る」は、相手の家格を読むことだった。失礼がないか、怒っていないか、何を望んでいるか、誰の目を気にしているか。

 

 けれど、今ここで求められているのは違う。

 

 評価するためではない。

 

 守るために見るのだ。

 

 クララは椅子に座り、幼い子の横に残った。

 

 額の布がぬるくなる。替える。

 

 手足に触れる。冷えすぎていない。

 

 呼吸を数える。早い。けれど、先ほどより浅くはない。

 

 水を含ませる。少しだけ飲んだ。

 

 眠りかける。苦しんでいるだけなのか、少し楽になったのか、顔を見て確かめる。

 

 蝋燭を近づけると、幼い子が眉を寄せた。

 

 クララは慌てて火を遠ざける。

 

 暗い。

 

 けれど、強い灯りは嫌がる。

 

 手元だけ、少し見えればいいのに。

 

 そう思った時、クララの指先に、ほんの薄い光が宿った。

 

 蝋燭ほど明るくはない。

 

 だが、幼い子の唇の色を見るには足りた。

 

 クララは驚いて声を上げそうになったが、寝かけた子を起こしてはいけないと思い、唇を結んだ。

 

 光はすぐ弱くなった。

 

 それでも、クララは手を引かなかった。

 

「水を少し飲みました。呼吸は早いですが、先ほどより浅くありません。手足は冷えすぎていません」

 

 サリアが振り向いた。

 

「よく見ています」

 

 その一言に、クララの胸の奥が少しだけ熱くなった。

 

 褒められたのではない。

 

 次も見続けてよいと、言われた気がした。

 

 夜明け前、熱は少し引いた。

 

 幼い子の呼吸が、深くなった。

 

 クララは椅子に座ったまま、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。怖かったのだと、その時になって分かった。

 

 けれど、逃げなかった。

 

 呼ばれたら返事をし、水を替え、布を絞り、息を数えた。

 

 ただそれだけだった。

 

 

 

 

 翌朝、エレナが押入商会の荷とともに訪れた。

 

 澪も、リュシアも、細身の男性も一緒だった。荷の中には、布、糸、豆、干し芋、小分けの石鹸がある。

 

 エレナは、いつものようにクララへ向いた。

 

「不自由はありませんか。困っていることは、隠さず教えてください」

 

 クララは、いつもの言葉を口にしかけた。

 

 特にございません。

 

 その一言は、身についた礼儀だった。相手を煩わせないための言葉。自分の弱さを見せないための言葉。公爵令嬢として、困りごとを自分の口で言わないための言葉。

 

 けれど、昨夜の幼い子の熱を思い出した。

 

 額の布は、何度も替えた。

 

 柔らかい布は、すぐ足りなくなった。

 

 清潔な手拭いも、幼い子用の下着も、数がぎりぎりだった。

 

 針も足りない。ほつれを直すものが遅れれば、寒さはその隙間から入る。

 

 クララは、膝の上で指を重ねた。

 

「……針が、足りません」

 

 言ってから、自分で驚いた。

 

 エレナは、少しも驚いた顔をしなかった。

 

「針ですね」

 

「それから、幼い子用の柔らかい布も。昨夜、熱を出した子がいて、替えが足りませんでした」

 

「分かりました。針と、幼い子用の柔らかい布ですね」

 

 クララは慌てて続けた。

 

「私のためではありません」

 

「ええ」

 

 エレナは静かに頷いた。

 

「冬支度と、子どもたちのためです」

 

 その言い方に、クララは胸の力が少し抜けるのを感じた。

 

 リュシアが横で荷の目録に印をつける。

 

「針は追加だね。柔らかい布は、肌着用と手拭い用で分けた方がいい。澪、現代側で赤ん坊用の布って、どれが肌にいいんだい」

 

「確認します。柔らかくて洗いやすいものですよね」

 

「そう。高級品じゃなくていい。毎日洗って、何度も使えるやつだ」

 

 澪は真剣な顔で頷いた。

 

 クララは、そのやり取りを見ていた。

 

 自分が言った不足が、ただの言葉で終わらず、荷の種類へ変わっていく。

 

 それが不思議だった。

 

 サリアが、司祭様へ小さく頷いた。

 

「昨夜、シスタークララは子どものそばを離れませんでした。薬を与えて終わりにせず、顔色、呼吸、手足の冷え、水を飲めたかを見て、変化を報告しました」

 

 司祭様は、クララを見た。

 

「クララ様」

 

 その呼び方に、クララは少し身を固くした。

 

 司祭様は続ける。

 

「ここで、何を望みますか」

 

「望み、ですか」

 

「公爵家の名を戻すことでも、罪を洗い流すことでもありません。今、目の前にいる者へ、あなたがどう向き合うかです」

 

 クララは答えられなかった。

 

 許されたいのかと聞かれれば、分からない。

 

 父を憎むのかと聞かれても、分からない。

 

 ローゼンベルクの名を捨てたいのかと聞かれても、分からない。

 

 分からないことばかりだった。

 

 けれど、昨夜の幼い子の額の熱さは、手に残っている。

 

「昨日から今日、今日から明日……」

 

 クララは、ゆっくり言葉を選んだ。

 

「変化を、見落とさないようにしたいです」

 

 司祭様は頷いた。

 

「聖職者とは、許された者の名ではありません」

 

 その声は、静かだった。

 

「祈り、見て、支える者の名です。あなたがその道を望むなら、王国教会は見習いとして受け入れます」

 

「私に、資格があるのでしょうか」

 

「資格ではなく、覚悟を問うています」

 

 クララは、深く息を吸った。

 

「まだ、分かりません」

 

 正直にそう言うと、サリアが少しだけ目を細めた。

 

「ですが、昨日の夜、目を離すのが怖いと思いました。怖いのに、離れたくありませんでした」

 

 司祭様は、小さな聖印を机の上に置いた。

 

「では、そこから始めましょう」

 

 クララは聖印の前に立った。

 

 公爵家の礼拝堂で捧げていた祈りとは違う。あれは家のための祈りだった。今日の祈りは、目の前の子どもの呼吸を思い出しながらの祈りだった。

 

 司祭様が祈りの言葉を唱える。

 

 強い光は出なかった。

 

 朝の窓から差す薄い光に混ざれば、見落としてしまいそうなほどの、小さな光だった。

 

 けれど、クララの指先は、その温かさを確かに感じた。

 

「シスタークララ」

 

 司祭様が呼んだ。

 

 今度は、その呼び名が少しだけ近く聞こえた。

 

「はい」

 

 クララは返事をした。

 

 遅れずに。

 

「確認してもいいですか」

 

 澪が、司祭様とクララを交互に見た。

 

 司祭様が頷く。

 

「お願いします。記録にも残しておきましょう」

 

 澪はクララを鑑定し、少しだけ表情を和らげた。

 

「出ています。聖職者 Lv1です」

 

 クララは、自分の胸元を見た。

 

 何かが劇的に変わった感じはしない。体が軽くなったわけでも、罪の重さが消えたわけでもない。

 

 ただ、今朝より少しだけ、自分の立っている場所が分かった気がした。

 

----------------------------------

クララ

旧称:クララ・フォン・ローゼンベルク

現在ジョブ:聖職者 Lv1

状態:王国教会預かり/見習い/家名使用制限

----------------------------------

基礎能力値

体力:32

筋力:18

器用:61

知力:88

判断:74

精神:69

集中:72

----------------------------------

スキル一覧

礼法:7

読解:6

帳簿読解:4

筆記:5

観察:1

生活介助:1

祈り:1

微光:1

ヒール:芽あり

鑑定:芽あり

----------------------------------

取得スキルポイント:0

----------------------------------

 

「レベルは上がっていません」

 

 澪は慎重に付け加えた。

 

「でも、ジョブが変わっています。あと、観察と微光が出ています。ヒールと鑑定は、芽ありです」

 

「芽あり……」

 

 クララは、その言葉を小さく繰り返した。

 

「まだ、できるというより、これから伸びるかもしれない、という表示だと思います」

 

「私は、治したわけではありません」

 

 クララの声は、少し小さかった。

 

 サリアは、濡れ布を干しながら答えた。

 

「治したのは薬と、この子の力です。支えたのは、あなたです」

 

「支えた……」

 

「一晩、見捨てなかったでしょう」

 

 クララは黙った。

 

 聖職者 Lv1。

 

 それは、許された証ではない。

 

 ローゼンベルクの罪が消えた印でもない。

 

 ただ、目の前の子どもの変化を見ようとした手が、次に伸びる道を示しただけだった。

 

 

 

 

 昼過ぎ、クララは針箱を両手で持った。

 

 公爵家の印章より軽い。

 

 けれど、今のクララには、その小さな箱の方が重かった。

 

「シスタークララ」

 

 幼い子が、毛布の中から呼んだ。

 

「はい」

 

 クララは返事をした。

 

 少し遅れてではなく、今度はすぐに。

 

 幼い子は眠そうな顔で、毛布の端を握っていた。

 

「水」

 

「はい。少しずつですよ」

 

 クララは椀を持ち、匙で水を含ませた。

 

 子どもは少し飲んで、また目を閉じた。

 

 その寝息を見てから、クララは額の布を替えた。熱はまだ残っている。だが、呼吸は昨夜より深い。手足も冷えすぎてはいない。

 

 昨日から今日。

 

 今日から明日。

 

 何が変わったかを見る。

 

 サリアの言葉を、クララは胸の中で繰り返した。

 

 夕方、セルマ工房の塔の影が、教会の庭先まで長く伸びた。

 

 薬草茶の匂いが風に混じる。

 

 食堂では、年長の子どもたちが針仕事を片づけていた。誰かが糸を絡ませ、別の子が笑う。赤ん坊が泣き、サリアが振り向く。司祭様が薪の数を数え、リュシアが置いていった目録に印をつける。

 

 忙しい。

 

 騒がしい。

 

 けれど、暗くはなかった。

 

 冬は来る。

 

 それでも、この場所では誰も冬をただ待っていない。

 

 クララは針箱を棚へ戻した。

 

 その時、毛布を抱えた子どもが、そっと近づいてきた。

 

「ねえ、シスタークララ」

 

「はい」

 

「昨日の夜、物置で誰か泣いてた」

 

 クララの指が、針箱の上で止まった。

 

「物置、ですか」

 

「古い揺り籠があるところ」

 

 子どもは、声を少し潜めた。

 

「赤ちゃんじゃないのに、赤ちゃんみたいに泣いてた」

 

 クララは、食堂の向こうにいるサリアを見た。

 

 変化に気づいたら、夜でも報告すること。

 

 子どもの熱だけではない。

 

 子どもの怖がり方も、孤児院の変化だった。

 

 クララは針箱から手を離し、子どもの目の高さまで膝を折った。

 

「教えてくれて、ありがとうございます」

 

 子どもは、少し安心した顔をした。

 

「怖くても、言ってよかったですか」

 

「はい」

 

 クララは頷いた。

 

「言ってよかったです」

 

 その返事は、自分に向けたものでもあった。

 

 見なかったことには、できない。

 

 けれど、見たからといって、一人で抱え込まなくてもよい。

 

 クララは立ち上がり、シスターサリアの方へ歩いた。

 

 窓の外では、セルマ工房の塔の影がゆっくり伸びている。

 

 その影の先で、冬支度の鐘が小さく鳴った。

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