ローゼンベルク公爵家本邸の門に、王国監督官の馬車が入った翌朝、別の門には分家筋の馬車が集まり始めていた。
誰も、クララを責めに来たとは言わなかった。
誰も、クララを罰すると口にしなかった。
彼らは皆、守るためだと言った。
「クララ様は、一門でお守りいたします」
年配の男が、丁寧に頭を下げた。
言葉だけなら、礼を尽くした申し出だった。だがクララは、その声を聞いた瞬間、喉の奥が冷えていくのを感じた。
守る。
公爵家では、その言葉が、ときに扉を閉める意味で使われることを知っていた。
守るために外へ出さない。守るために誰にも会わせない。守るために言葉を整える。守るために、何を見たのかを、誰にどう話すのかを決められる。
クララは、膝の上で手を重ねた。
父の部屋は封じられた。家令府の扉にも王国の封印札が貼られた。ディートリヒの名で動いていた者たちは、一人ずつ呼び出されている。黒鎖商会との契約書も、信用供与の控えも、通信記録も、すでに王国監督官の管理下にあった。
公爵家は、潰されたわけではない。
けれど、以前のまま残されたわけでもない。
だからこそ、分家筋はクララを必要としていた。
ローゼンベルクの血筋。王国査問会で見た者。家令府の空気を知る者。本家を切り離すにも、本家を守るにも、クララの名は便利だった。
「未婚の令嬢を教会預かりなど、外聞が悪うございます」
別の分家筋の男が、王国監督官へ低い声で言った。
王国監督官は、封印札の貼られた扉を背にしていた。
「外聞を論じる段階ではありません」
その声は、怒ってはいなかった。ただ、動かなかった。
「クララ嬢は証言者であり、保護対象です。公爵家一門の管理下へ戻すことはできません」
「ですが」
「王国教会が預かります」
中庭へ、黒く塗られた馬車が入ってきた。
華やかな紋ではない。金細工でもない。扉に小さく王国教会の印があるだけの、静かな馬車だった。
そこから降りた司祭様は、クララの前で深く礼をした。
「クララ様。お迎えに上がりました」
クララは立ち上がった。
自分が救われたのかどうかは、分からなかった。
ただ、あの分家筋の馬車へ乗れば、もう一度、公爵家の名の中に閉じ込められるのだと分かった。
王国教会の馬車へ乗る時、クララは一度だけ屋敷を振り返った。
高い窓。白い石。整えられた庭。長い廊下。
生まれてからずっと、そこは自分を守る場所だった。
けれど今は、静かに閉じる扉の音が、檻のように聞こえた。
侯爵領の教会に着いた時、クララは最初に石床の冷たさを覚えた。
公都の礼拝堂とは違う。
床は磨かれているが、飾りは少ない。窓も大きくない。香の匂いは薄く残っているだけで、その奥からは、煮込みの湯気と焼いたパンの匂いが流れてきた。
遠くで子どもが泣いている。
別の子どもが走り、誰かに叱られ、すぐに笑った。
司祭様は、クララを小さな応接室へ案内した。
「クララ様。ここは牢ではありません」
クララは顔を上げた。
「ですが、公爵家の客間でもありません。手紙、訪問、外出には制限があります。それは罰ではなく、あなたを守るためでもあります」
「守る……」
クララは、その言葉に少しだけ身を固くした。
司祭様は、それに気づいたように声を和らげた。
「あなたを利用しようとする者が、まだ残っております。あなたの言葉を欲しがる者も、あなたの沈黙を欲しがる者もおります」
クララは、膝の上の指を見る。
沈黙。
それは、公爵家でよく求められたものだった。
「ここでは、ローゼンベルクの名は使いません」
クララは息を止めた。
名を奪われるのだと思った。
けれど、司祭様は静かに続けた。
「名を奪う、という意味ではありません。その名を使えば、あなたを担ぎたい者も、黙らせたい者も寄ってきます。調査が終わるまで、ここではシスタークララ。それで通します」
「シスター……クララ」
「はい」
司祭様は頷いた。
「正式な修道誓願ではありません。王国教会預かりの身として、ここで生活するための呼び名です」
その時、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、落ち着いた顔の女性だった。年は若くも老いても見えない。ただ、袖をまくった手に、洗い物と針仕事の跡があった。
「シスターサリアです。今日から同じ部屋で休んでいただきます」
「クララです」
そう名乗ってから、クララは一瞬遅れて、自分で言い直した。
「……シスタークララ、です」
サリアは大げさに褒めもせず、ただ頷いた。
「では、まず食事にしましょう」
「食事、ですか」
「はい。ここでは、まず眠ること。次に食べること。それから、手を動かすことです」
クララは返事に迷った。
事情を話すのではないのか。罪について問われるのではないのか。父のことを聞かれるのではないのか。
サリアは、そんなクララの迷いを急かさなかった。
「話は、そのあとで十分です」
その言葉に、クララはようやく小さく頷いた。
侯爵領の冬支度は、思っていたよりも早く始まった。
朝の鐘が鳴る前から、孤児院の廊下には小さな足音が増える。赤ん坊が泣き、幼い子が毛布を蹴り、年長の子どもたちは針箱を抱えて食堂へ向かう。
クララは、その足音で目を覚ますようになった。
公都の屋敷では、朝は侍女がカーテンを開けるものだった。温められた水が用意され、着替えが整えられ、食事は既に別室に運ばれている。寒さは窓の外にあるもので、自分の手で水桶に触れるものではなかった。
ここでは違う。
水は冷たい。床も冷たい。幼い子の鼻はすぐに赤くなる。毛布は足りているように見えても、夜中に蹴飛ばされれば足が冷える。袖のほつれは放っておくと広がり、古い靴下は小さな足の指を覗かせる。
「シスタークララ、針は急がなくていいですよ。曲がったまま縫う方があとで困ります」
サリアは、布を畳みながら言った。
「申し訳ありません」
「謝るより先に、糸を結び直してください」
「……はい」
クララは、針先を見つめた。
叱責ではない。評価でもない。失敗したから終わりではなく、失敗したら直す。
その単純さに、最初は戸惑った。
食堂では、年長の子どもたちが小さい子の椀を並べる。泣く赤ん坊の背を、別の子が慣れた手つきで叩く。シスターサリアは鍋の火を見ながら、洗濯物と針仕事と幼児の鼻水を同時に気にしている。
司祭様は、薪の束と粉袋と薬草の箱を確認していた。
数字は小さい。
だが、その数字の向こうに、食べる子どもがいる。
クララはそれを、まだうまく受け止められずにいた。
夕方になると、日が早く暮れた。
庭先へ出ると、セルマ工房の塔の影が長く伸びている。公都の塔は、人を見下ろすものだった。高く、遠く、近づきがたいものだった。
けれど、あの塔からは薬草を煮る匂いが流れてくる。
子どもが転べば軟膏が届き、咳が続けば薬草茶が届く。高い建物なのに、見下ろしている感じがしない。
不思議な塔だと、クララは思った。
教会の敷地の端には、子どもたちのために建てられた離れもあった。
こちらも、塔のような建物だった。
聞けば、押入商会の細身の男性が建てたものだという。
クララはその名を聞いて、すぐには顔を思い浮かべられなかった。
ただ、時折教会へ来る黒髪の若い女性のそばに、長身で細身の男性が立っていることは覚えていた。
商人というには静かで、騎士というには剣を見せない。部屋の入口と窓と子どもたちの動きを、一度に見ているような人だった。
どこかで見た気がする。
そう思うたび、王都の査問会の重い空気が胸の奥へ戻ってくる。父の横顔、封印札、声を抑えた大人たち。
クララは、それ以上思い出すのをやめた。
押入商会の会長は、黒髪の若い女性だった。
初めて見た時、クララは侍女の一人かと思った。だが、シスターサリアが深く礼をし、司祭様が布施の目録を受け取ったことで、彼女が商会の中心にいる人だと分かった。
澪、という名だと聞いた。
まだ学校に通っているらしい。
それなのに、商会を持ち、侯爵家と話し、孤児院へ布や食品を運んでくる。
別の王国の貴族か、あるいは姫君なのではないかと、クララはしばらく本気で考えていた。
「足りないものはありませんか」
澪は毎回、そう聞いた。
言い方は強くない。むしろ、こちらが遠慮しないかを気にしているようだった。
隣では、リュシアという女性が、荷の確認をしている。
「針は前より多めに入れたよ。糸は太さ別。小さい子の服に使うなら、こっちの方がいい。石鹸は小分けだ。いっぺんに出すと、子どもが遊ぶからね」
リュシアは、慰めの言葉を多く言わなかった。
その代わり、必要なものを見落とさない。
毛布。布。糸。針。小分け石鹸。干し芋。豆。小麦粉。古い靴の修理に使う革紐。
クララは、荷が並ぶのを見ているだけで、少し胸が詰まった。
公都では、贈り物には差出人の名がつき、返礼がつき、意味がついた。
ここでは、荷に「クララ様へ」とは書かれていない。
教会へ。孤児院へ。冬支度へ。
その中に、クララが使えるものも混じっている。
返礼を考えなくてよい布。
そのことが、ありがたく、少し怖かった。
時折、押入商会の人々と一緒に、領主の長女も訪れた。
エレナ様。
クララより少し年上にも、少し年下にも見える、不思議な落ち着きのある少女だった。彼女は毎回、布や油や小さな菓子を持ってきて、必ず同じことを聞いた。
「不自由はありませんか。困っていることは、隠さず教えてください」
クララはそのたび、礼をして答える。
「特にございません」
そう答えるたび、エレナ様の視線が少しだけ柔らかくなる。
信じていないのだ、とクララは思った。
けれど、問い詰めることもしなかった。
その距離が、かえって逃げ場になった。
エレナ様は、ゴブリンの襲撃の時に町の指揮を取ったらしい。
その話を年長の子が得意そうに教えてくれた時、クララは針を持つ手を止めた。
公都にいた頃、クララはそのようなことを考えたことがなかった。
町に危険が近づけば、騎士団が動く。令嬢は奥に下がり、窓から煙を見ないようにする。それが当然だと思っていた。
けれど、この侯爵領では違うらしい。
領主の娘が町へ出る。
商会長が孤児院へ来る。
薬師が工房を開き、子どもたちが針を持つ。
水害があったという。森から魔物が溢れたという。ゴブリンが襲ってきたという。
それでも人々は、冬が来るのをただ待っていない。
布を縫い、薪を数え、鍋を煮て、壊れた窓枠を直し、明日の分の針仕事を残す。
王都よりも、ここは騒がしい。
けれど、なぜか生きている感じがした。
その夜、幼い子が熱を出した。
最初は、寝苦しそうに毛布を蹴っただけだった。
シスターサリアが額に触れ、すぐに表情を変えた。
「シスタークララ、布を濡らしてください。熱い額を冷やします」
「はい」
クララは水桶へ向かった。
手が少し震えていた。
公都では、病人が出れば侍医が来た。侍女が水を運び、薬師が薬を選び、家の者は報告を待つ。クララは、心配する側ではあったが、動く側ではなかった。
ここでは、サリアが一人で全部を見るわけにはいかない。
赤ん坊も泣いている。別の幼児も起きかけている。年長の子どもたちは不安そうに入口から覗いている。
クララは布を濡らし、絞った。
強く絞りすぎて、指が痛くなる。
「額へ。冷たすぎる時は、少し手で温めてから」
「はい」
幼い子の額は熱かった。
息が早い。
クララは、額の布を置きながら、自分の胸まで苦しくなるのを感じた。
「水を、少しずつ」
サリアが匙を渡す。
「無理に飲ませないでください。むせたら止めます」
「はい」
クララは匙を持った。
幼い子の唇に、少しだけ水を含ませる。半分はこぼれた。クララの袖が濡れる。
「申し訳……」
「謝らなくていいです。次を」
サリアの声は穏やかだったが、迷いがなかった。
クララは頷き、もう一度水を含ませた。
熱はなかなか下がらなかった。
衣を緩め、毛布を調整し、額の布を替える。幼い子が吐きそうになると、クララは受け皿を差し出した。赤ん坊が泣くと、年長の子に毛布を持ってくるよう頼んだ。
自分が頼む声を出せたことに、クララ自身が少し驚いた。
夜が深くなっても、幼い子は眠れなかった。
サリアは小さな箱を開けた。
中には、丁寧に包まれた薬が入っている。
「ヤナギの熱さましを使います」
「薬、ですか」
クララの声が強張った。
サリアは薬匙を持ったまま、クララをまっすぐ見た。
「シスタークララ、よく聞いてください」
「はい」
「これは熱を下げる薬です。ただし、子どもに使う時は、効いたかどうかだけを見てはいけません」
「効いたかどうかだけでは、ないのですか」
「顔色、呼吸、吐き気、腹の痛み、眠り方、手足の冷え。少しでもおかしいと思ったら、すぐに私を呼びなさい」
サリアは、薬をほんの少量だけ湯に溶かした。
「迷ったら、呼びなさい。迷わなくても、不安なら呼びなさい」
「はい」
「ヒールも、ポーションもあります。毒や悪い病の兆しがあれば、キュアも考えます。薬で無理を押し通す必要はありません」
クララは、幼い子の顔を見た。
熱い。苦しそうだ。
でも、ただ苦しそうだと思うだけでは足りないのだと、サリアの声が教えていた。
「シスタークララ。子どもや幼い子は、常によく見なければなりません」
「常に、ですか」
「はい。昨日から今日。今日から明日。さっきから今。何が変わったかを見ます」
サリアは、幼い子の額に置いた布を替えた。
「昨日は食べられたものが、今日は喉を通らないことがあります。昨日は眠れた子が、今日は眠れないこともあります。泣き方、息の速さ、手足の冷え、目の動き、汗の出方。小さな変化を見落とさないことです」
「変化に気づいたら……」
「夜でも報告してください」
「夜でも、ですか」
「夜だからこそです。子どもは、朝まで待ってくれません」
クララは、幼い子の胸の上下を見た。
公爵家で学んだ「見る」は、相手の家格を読むことだった。失礼がないか、怒っていないか、何を望んでいるか、誰の目を気にしているか。
けれど、今ここで求められているのは違う。
評価するためではない。
守るために見るのだ。
クララは椅子に座り、幼い子の横に残った。
額の布がぬるくなる。替える。
手足に触れる。冷えすぎていない。
呼吸を数える。早い。けれど、先ほどより浅くはない。
水を含ませる。少しだけ飲んだ。
眠りかける。苦しんでいるだけなのか、少し楽になったのか、顔を見て確かめる。
蝋燭を近づけると、幼い子が眉を寄せた。
クララは慌てて火を遠ざける。
暗い。
けれど、強い灯りは嫌がる。
手元だけ、少し見えればいいのに。
そう思った時、クララの指先に、ほんの薄い光が宿った。
蝋燭ほど明るくはない。
だが、幼い子の唇の色を見るには足りた。
クララは驚いて声を上げそうになったが、寝かけた子を起こしてはいけないと思い、唇を結んだ。
光はすぐ弱くなった。
それでも、クララは手を引かなかった。
「水を少し飲みました。呼吸は早いですが、先ほどより浅くありません。手足は冷えすぎていません」
サリアが振り向いた。
「よく見ています」
その一言に、クララの胸の奥が少しだけ熱くなった。
褒められたのではない。
次も見続けてよいと、言われた気がした。
夜明け前、熱は少し引いた。
幼い子の呼吸が、深くなった。
クララは椅子に座ったまま、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。怖かったのだと、その時になって分かった。
けれど、逃げなかった。
呼ばれたら返事をし、水を替え、布を絞り、息を数えた。
ただそれだけだった。
翌朝、エレナが押入商会の荷とともに訪れた。
澪も、リュシアも、細身の男性も一緒だった。荷の中には、布、糸、豆、干し芋、小分けの石鹸がある。
エレナは、いつものようにクララへ向いた。
「不自由はありませんか。困っていることは、隠さず教えてください」
クララは、いつもの言葉を口にしかけた。
特にございません。
その一言は、身についた礼儀だった。相手を煩わせないための言葉。自分の弱さを見せないための言葉。公爵令嬢として、困りごとを自分の口で言わないための言葉。
けれど、昨夜の幼い子の熱を思い出した。
額の布は、何度も替えた。
柔らかい布は、すぐ足りなくなった。
清潔な手拭いも、幼い子用の下着も、数がぎりぎりだった。
針も足りない。ほつれを直すものが遅れれば、寒さはその隙間から入る。
クララは、膝の上で指を重ねた。
「……針が、足りません」
言ってから、自分で驚いた。
エレナは、少しも驚いた顔をしなかった。
「針ですね」
「それから、幼い子用の柔らかい布も。昨夜、熱を出した子がいて、替えが足りませんでした」
「分かりました。針と、幼い子用の柔らかい布ですね」
クララは慌てて続けた。
「私のためではありません」
「ええ」
エレナは静かに頷いた。
「冬支度と、子どもたちのためです」
その言い方に、クララは胸の力が少し抜けるのを感じた。
リュシアが横で荷の目録に印をつける。
「針は追加だね。柔らかい布は、肌着用と手拭い用で分けた方がいい。澪、現代側で赤ん坊用の布って、どれが肌にいいんだい」
「確認します。柔らかくて洗いやすいものですよね」
「そう。高級品じゃなくていい。毎日洗って、何度も使えるやつだ」
澪は真剣な顔で頷いた。
クララは、そのやり取りを見ていた。
自分が言った不足が、ただの言葉で終わらず、荷の種類へ変わっていく。
それが不思議だった。
サリアが、司祭様へ小さく頷いた。
「昨夜、シスタークララは子どものそばを離れませんでした。薬を与えて終わりにせず、顔色、呼吸、手足の冷え、水を飲めたかを見て、変化を報告しました」
司祭様は、クララを見た。
「クララ様」
その呼び方に、クララは少し身を固くした。
司祭様は続ける。
「ここで、何を望みますか」
「望み、ですか」
「公爵家の名を戻すことでも、罪を洗い流すことでもありません。今、目の前にいる者へ、あなたがどう向き合うかです」
クララは答えられなかった。
許されたいのかと聞かれれば、分からない。
父を憎むのかと聞かれても、分からない。
ローゼンベルクの名を捨てたいのかと聞かれても、分からない。
分からないことばかりだった。
けれど、昨夜の幼い子の額の熱さは、手に残っている。
「昨日から今日、今日から明日……」
クララは、ゆっくり言葉を選んだ。
「変化を、見落とさないようにしたいです」
司祭様は頷いた。
「聖職者とは、許された者の名ではありません」
その声は、静かだった。
「祈り、見て、支える者の名です。あなたがその道を望むなら、王国教会は見習いとして受け入れます」
「私に、資格があるのでしょうか」
「資格ではなく、覚悟を問うています」
クララは、深く息を吸った。
「まだ、分かりません」
正直にそう言うと、サリアが少しだけ目を細めた。
「ですが、昨日の夜、目を離すのが怖いと思いました。怖いのに、離れたくありませんでした」
司祭様は、小さな聖印を机の上に置いた。
「では、そこから始めましょう」
クララは聖印の前に立った。
公爵家の礼拝堂で捧げていた祈りとは違う。あれは家のための祈りだった。今日の祈りは、目の前の子どもの呼吸を思い出しながらの祈りだった。
司祭様が祈りの言葉を唱える。
強い光は出なかった。
朝の窓から差す薄い光に混ざれば、見落としてしまいそうなほどの、小さな光だった。
けれど、クララの指先は、その温かさを確かに感じた。
「シスタークララ」
司祭様が呼んだ。
今度は、その呼び名が少しだけ近く聞こえた。
「はい」
クララは返事をした。
遅れずに。
「確認してもいいですか」
澪が、司祭様とクララを交互に見た。
司祭様が頷く。
「お願いします。記録にも残しておきましょう」
澪はクララを鑑定し、少しだけ表情を和らげた。
「出ています。聖職者 Lv1です」
クララは、自分の胸元を見た。
何かが劇的に変わった感じはしない。体が軽くなったわけでも、罪の重さが消えたわけでもない。
ただ、今朝より少しだけ、自分の立っている場所が分かった気がした。
----------------------------------
クララ
旧称:クララ・フォン・ローゼンベルク
現在ジョブ:聖職者 Lv1
状態:王国教会預かり/見習い/家名使用制限
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基礎能力値
体力:32
筋力:18
器用:61
知力:88
判断:74
精神:69
集中:72
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スキル一覧
礼法:7
読解:6
帳簿読解:4
筆記:5
観察:1
生活介助:1
祈り:1
微光:1
ヒール:芽あり
鑑定:芽あり
----------------------------------
取得スキルポイント:0
----------------------------------
「レベルは上がっていません」
澪は慎重に付け加えた。
「でも、ジョブが変わっています。あと、観察と微光が出ています。ヒールと鑑定は、芽ありです」
「芽あり……」
クララは、その言葉を小さく繰り返した。
「まだ、できるというより、これから伸びるかもしれない、という表示だと思います」
「私は、治したわけではありません」
クララの声は、少し小さかった。
サリアは、濡れ布を干しながら答えた。
「治したのは薬と、この子の力です。支えたのは、あなたです」
「支えた……」
「一晩、見捨てなかったでしょう」
クララは黙った。
聖職者 Lv1。
それは、許された証ではない。
ローゼンベルクの罪が消えた印でもない。
ただ、目の前の子どもの変化を見ようとした手が、次に伸びる道を示しただけだった。
昼過ぎ、クララは針箱を両手で持った。
公爵家の印章より軽い。
けれど、今のクララには、その小さな箱の方が重かった。
「シスタークララ」
幼い子が、毛布の中から呼んだ。
「はい」
クララは返事をした。
少し遅れてではなく、今度はすぐに。
幼い子は眠そうな顔で、毛布の端を握っていた。
「水」
「はい。少しずつですよ」
クララは椀を持ち、匙で水を含ませた。
子どもは少し飲んで、また目を閉じた。
その寝息を見てから、クララは額の布を替えた。熱はまだ残っている。だが、呼吸は昨夜より深い。手足も冷えすぎてはいない。
昨日から今日。
今日から明日。
何が変わったかを見る。
サリアの言葉を、クララは胸の中で繰り返した。
夕方、セルマ工房の塔の影が、教会の庭先まで長く伸びた。
薬草茶の匂いが風に混じる。
食堂では、年長の子どもたちが針仕事を片づけていた。誰かが糸を絡ませ、別の子が笑う。赤ん坊が泣き、サリアが振り向く。司祭様が薪の数を数え、リュシアが置いていった目録に印をつける。
忙しい。
騒がしい。
けれど、暗くはなかった。
冬は来る。
それでも、この場所では誰も冬をただ待っていない。
クララは針箱を棚へ戻した。
その時、毛布を抱えた子どもが、そっと近づいてきた。
「ねえ、シスタークララ」
「はい」
「昨日の夜、物置で誰か泣いてた」
クララの指が、針箱の上で止まった。
「物置、ですか」
「古い揺り籠があるところ」
子どもは、声を少し潜めた。
「赤ちゃんじゃないのに、赤ちゃんみたいに泣いてた」
クララは、食堂の向こうにいるサリアを見た。
変化に気づいたら、夜でも報告すること。
子どもの熱だけではない。
子どもの怖がり方も、孤児院の変化だった。
クララは針箱から手を離し、子どもの目の高さまで膝を折った。
「教えてくれて、ありがとうございます」
子どもは、少し安心した顔をした。
「怖くても、言ってよかったですか」
「はい」
クララは頷いた。
「言ってよかったです」
その返事は、自分に向けたものでもあった。
見なかったことには、できない。
けれど、見たからといって、一人で抱え込まなくてもよい。
クララは立ち上がり、シスターサリアの方へ歩いた。
窓の外では、セルマ工房の塔の影がゆっくり伸びている。
その影の先で、冬支度の鐘が小さく鳴った。