冬支度の用事は、ひとつ済むと、すぐ次が見つかった。
教会の食料蔵には豆袋が積まれ、廊下の端には薪束が置かれ、食堂の長机には縫いかけの布と針箱が並んでいる。小さい子は布を畳むつもりで両手いっぱいに抱え、結局そのまま自分ごと転びそうになって、年長の子に襟首をつかまれていた。
「布は持ち上げすぎない。前が見えなくなるでしょう」
シスターサリアがそう言うと、布に顔を埋めた子どもが、もごもごと返事をした。
「見えてる」
「床だけ見えても足りません」
食堂に小さな笑いが起きた。
クララは針箱の蓋を閉めながら、その声を聞いていた。以前なら、子どもたちの笑い声は少し近すぎるものに感じたかもしれない。公爵家の屋敷では、笑い声は廊下の向こうに控えめに置かれるものだった。けれど、ここでは鍋の湯気や薪の匂いと同じように、笑い声も生活の中に混ざっている。
暗くなるのが早くなった。
窓の外では、セルマ工房の塔の影が教会の庭先へ長く伸びている。まだ夕方なのに、物置へ続く廊下の奥は、夜が先に座り込んでいるように暗い。
その日、司祭様とシスターサリアは外へ出ることになっていた。
町外れの老人宅へ薬草茶と薪を届け、戻りにセルマ工房で軟膏を受け取り、侯爵家から回された冬支度の配給数を確認する。発熱した幼い子のために、柔らかい布の追加も相談してくるとサリアは言った。
「すぐ戻りますが、日暮れが早いです。留守の間は、食堂を中心にしてください」
サリアは外套の紐を結びながら、クララを見た。
クララは背を伸ばした。
「はい」
「何か変化があれば、戻るまで待たずに記録してください」
「はい」
「危ないと思ったら、子どもたちを食堂へ集めなさい。迷ったら、まず子どもを離すこと」
クララは、胸の中でその順番を繰り返した。
子どもを離す。食堂へ集める。記録する。確認する。
公爵家で学んだ作法とは違う。だが、昨夜から今日にかけて、その順番が子どもを守るための作法なのだと、少しずつ分かり始めていた。
「それから」
サリアは食器棚の横にある小さな戸棚を指した。
「棚の奥に、神殿管理の聖水があります」
「聖水、ですか」
クララは思わず聞き返した。
教会で聖水と聞けば、儀礼に使うものという印象が強い。見習いになったばかりの自分が触れてよいものとは思えなかった。
「強い魔物を倒すものではありません。ですが、場を清めるには使えます」
「私が使ってもよいものなのでしょうか」
「本来は司祭かシスターが扱うものです。ただし、私たちが不在で、子どもを離す必要がある時は、少量だけ使って構いません」
「少量だけ」
「はい。撒くのではありません。清潔な布に含ませて、入口か対象のそばに置くこと」
サリアはそこで、少しだけ目を細めた。
「怖いからといって、瓶ごと投げてはいけません」
クララは一瞬、返事を忘れた。
「瓶ごと……投げる発想はありませんでした」
「ないならよろしいです」
真面目な顔でそう返され、食堂の端にいた年長の子が吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。
クララも、少しだけ肩の力が抜けた。
サリアは最後に、聖水の瓶が置かれた棚の位置と、小皿、清潔な布の場所を確認させた。司祭様はその様子を静かに見ていたが、出発前にクララへ短く言った。
「一人で解決しようとしないことです」
「はい」
「見たこと、聞いたこと、使ったものを残しておく。それも教会の仕事です」
クララは頷いた。
扉が閉まり、司祭様とサリアの足音が遠ざかる。
孤児院が、少し広くなった気がした。
食堂では、冬支度の片づけが続いた。
年長の子どもたちは慣れている。針箱を閉める子、布を種類ごとに分ける子、赤ん坊の籠を暖炉から近すぎない場所へずらす子。小さい子は手伝っているつもりで布を別の山へ運び、運んだ先で自分の上に掛けて、毛布の怪物のようになっていた。
「それは畳む布です」
クララが言うと、布の下から声が返る。
「おばけよけ」
「おばけは出ません」
そう言いかけて、クララは少し止まった。
物置の泣き声。
昨夜、子どもが教えてくれた言葉が、胸の奥で小さく鳴った。
気のせいだと笑うことはできた。
公爵家の屋敷なら、子どもの怖がりなど使用人が宥めて終わったかもしれない。けれど、ここでは違う。
子どもは、昨日と今日で同じ場所を怖がっている。
それは変化だった。
クララが布の山を直していると、袖を小さく引かれた。
「シスタークララ」
昨日の子だった。
毛布を両手で抱え、顔だけこちらへ向けている。声は小さいが、ふざけてはいなかった。
「はい」
「また、聞こえた」
クララは手を止めた。
「何がですか」
「物置の泣き声」
食堂の音が、少し遠くなった。
鍋の湯気、針箱の蓋、子どもの足音。すべてはそこにあるのに、クララの耳には、その子の声だけが残った。
「どこで聞こえましたか」
「古い揺り籠がある物置」
「いつですか」
「さっき」
子どもは唇を結び、それから小さく言った。
「赤ちゃんじゃないのに、赤ちゃんみたいに泣いてた」
クララは、廊下の奥へ目を向けた。
物置の扉は閉まっている。
その向こうに何があるのか、知らないわけではない。壊れた椅子、古い箱、使わなくなった布袋、冬支度で一度出して戻した道具。古い揺り籠も、その中にあると聞いている。
怖い。
クララはそれを、まず認めた。
怖くないふりをすれば、声は震える。震えた声で命じれば、子どもたちはもっと怖がる。
だから、順番にする。
「年長の子は、こちらへ来てください」
クララは、声を大きくしすぎないようにした。
食堂の中の子どもたちが振り向く。
「小さい子を食堂へ集めます。扉を閉めます」
「え、何かあったの」
「確認します。確認するまでは、物置へ行きません」
年長の子が、すぐ赤ん坊の籠へ向かった。別の子が、廊下へ出ようとしていた小さい子の手をつかむ。
クララは指示を続けた。
「赤ん坊の籠は暖炉の近くへ。ただし近づけすぎないでください。毛布は一枚だけ足します」
「物置見に行く?」
「行きません」
「でも泣き声」
「聞きに行かないこと。怖いと思ったら、私か年長の子に言ってください」
年長の子が、クララの顔を覗き込んだ。
「シスタークララ、大丈夫?」
クララは、すぐに「大丈夫」とは言えなかった。
大丈夫かどうかは、まだ分からない。
「大丈夫、とはまだ言えません」
「え」
「だから、順番にします」
年長の子は目を丸くしたあと、なぜか少し安心したように頷いた。
「じゃあ、順番」
「はい。順番です」
食堂の扉を閉めると、廊下の暗さが少し遠ざかった。子どもたちの視線が背中に集まっているのを感じながら、クララは棚へ向かった。
棚の奥に、布で包まれた瓶があった。
小さな管理札が下がっている。
クララは両手で瓶を取り出した。手が少し震える。物置の泣き声も怖い。だが、神殿管理対象の瓶を落として割ることも、同じくらい怖かった。
呼吸をひとつ整える。
小皿を出す。
瓶の栓を開ける。
中の水は透明だった。特別な光を放っているわけではない。だが、濁りがなく、匂いもない。見ているだけで、静かな井戸の底を覗いているような感じがした。
クララには鑑定はまだ使えない。
けれど、管理札には、司祭様の手で写された簡単な記録が添えられていた。
----------------------------------
聖水
透明度:高
異臭:なし
清浄度:高
微弱な浄化性:あり
用途:飲用候補/儀礼用/食品洗浄用
注意:神殿管理対象
----------------------------------
ミナという子が、昔作ったものだと聞いている。
綺麗な水だけを分けた水。
それがなぜ聖水になるのか、クララにはまだ分からない。ただ、今この瓶は、司祭様でもサリアでもない自分の手の中にある。
強い魔物を倒すものではない。
場を清めるには使える。
少量だけ。
撒かない。
布に含ませる。
瓶ごと投げない。
クララは小皿へほんの少し移し、清潔な布へ含ませた。瓶は栓を戻し、棚へ戻す。小皿は洗わない。あとで確認してもらえるよう、棚の前に残す。
聖印を胸元にかけた。
指先に意識を向ける。
昨夜、幼い子の唇の色を見ようとした時に生まれた微かな光。まだ頼りない。蝋燭ほど明るくない。それでも、暗い廊下で足元を見るには足りた。
指先に薄い光が宿る。
クララは聖水を含ませた布を持ち、物置へ向かった。
食堂の扉の向こうから、子どもたちの小声が聞こえた。
「シスタークララ、遅いね」
「まだ行ったばっかり」
「呼びに行く?」
「行くなって言われた」
「じゃあ、ここにいる」
「赤ちゃん起きちゃうから、静かに」
その声に、クララは足を止めそうになった。
自分が怖がっている間にも、子どもたちは言いつけを守っている。
なら、クララも守らなければならない。
順番を。
物置の前は冷えていた。
廊下全体が寒いわけではない。床の近く、扉の隙間から、細い冷気が流れてくる。
クララはすぐ扉を開けず、耳を澄ませた。
泣き声が聞こえる。
赤ん坊のような声だった。
けれど、生きている赤ん坊の泣き方ではない。息継ぎがない。同じ高さで、同じ長さで、繰り返している。苦しさを訴えるというより、泣いているという形だけが残っているような声だった。
クララの喉が乾いた。
怖い。
扉から離れたい。
食堂へ戻って、子どもたちと一緒に司祭様たちの帰りを待ちたい。
だが、泣き声は扉の向こうに残っている。
昨日から今日。
今日から明日。
さっきから今。
何が変わったかを見る。
クララは、扉を少しだけ開けた。
微光が、物置の床を薄く照らす。
壊れた椅子。古い箱。布袋。使われなくなった木札。破れた毛布。空の小さな薬瓶。
奥に、古い揺り籠があった。
冬支度で物置を整理した時に動かされたのだろう。揺り籠の脚の下には、積もっていた埃の跡が残っている。位置が少しずれていた。
風はない。
それでも、揺り籠がわずかにきしんだ。
泣き声は、揺り籠の中からではない。
揺り籠のまわりにある。
破れた毛布の端、落ちた木札、空の薬瓶。そこに残った冷たさが、声の形をしている。
クララは、奥へ踏み込みすぎないように、入口近くで膝を折った。
いるのではない。
残っている。
そう思った瞬間、恐怖の形が少しだけ変わった。
敵が待っているのではない。誰かを襲おうとしているのでもない。怒っているのでもない。
ただ、泣き声だけが残っている。
「寒かったのですね」
口から出た言葉は、とても小さかった。
泣き声が、一瞬だけ途切れた。
クララは聖水を含ませた布を、揺り籠のそばへ置いた。撒かない。投げない。サリアに言われた通り、布に含ませて置く。
冷気が布の周囲で少し揺れた。
泣き声が、今度は少し弱くなる。
クララは一度食堂へ戻りかけ、途中で棚から柔らかい布を一枚取った。昨日、自分がエレナに「足りません」と言えた布と同じものだ。幼い子の肌に触れても痛くないよう、何度も洗えるように選んでもらった布。
それを持って、再び物置へ戻る。
古い揺り籠の上に、そっとかけた。
「ここには、今も子どもたちがいます」
クララは、聖印を握った。
「けれど、あなたはもう、泣き続けなくてよいのです」
微光が少しだけ強くなった。
強い光ではない。物置を明るく照らすほどでもない。ただ、揺り籠の縁と新しい布の端が、淡く浮かび上がる。
泣き声が、赤ん坊の声から、風が隙間を抜けるような細い音へ変わった。
クララはその場に立っていた。
勝ったわけではない。倒したわけでもない。
ただ、声が少し休んだ。
そう感じた。
食堂では、小さい子が毛布を頭からかぶっていた。
「それ、おばけよけ?」
別の子が聞くと、年長の子がため息をついた。
「毛布だよ」
「でも、かぶると怖くない」
「前が見えない」
「見えないから怖くない」
「それは違うと思う」
赤ん坊が小さく声を上げると、年長の子は慌てて籠を揺らした。
「起きちゃだめ。今、シスタークララが順番にしてるから」
「順番ってなに」
「知らない。でも、順番」
子どもたちは怖がっていたが、食堂から出なかった。
扉の向こうの廊下で、クララの足音が戻ってくる。
その音に、何人かが一斉に顔を上げた。
クララは扉を少し開けた。
「まだ出ないでください。司祭様とシスターサリアが戻るまで、ここにいます」
「泣いてる?」
毛布をかぶった子が聞いた。
クララは少し考えた。
「小さくなりました」
「小さく?」
「はい。大きくはなっていません」
それだけで、子どもたちは少し息を吐いた。
大丈夫と言い切らない。
だが、大きくなっていないと分かる。
クララは、それを伝えられたことに、自分でも少し驚いた。
司祭様とシスターサリアが戻ったのは、それから間もなくだった。
玄関の扉が開き、外の冷たい空気と一緒に薪の匂いが入ってくる。サリアは食堂の子どもたちを見て、すぐ物置の方を見た。
「シスタークララ」
呼び声は鋭かったが、怒鳴ってはいなかった。
クララは物置の前で立ち上がった。
「子どもたちは?」
「食堂に集めました」
「怪我は?」
「ありません」
「聖水は?」
「少量だけ、布に含ませました」
「瓶は?」
「棚に戻してあります。小皿は洗っていません。確認していただこうと思って」
サリアはそこで、ほんの少しだけ息を吐いた。
「よく順番を守りました」
その言葉を聞いた瞬間、クララの膝から力が抜けそうになった。
「勝手なことをいたしました」
「勝手に倒そうとしたのではありません」
サリアは、クララの言葉を静かに止めた。
「子どもを離し、道具を使い、報告できる形を残しました。よく考えています」
司祭様が物置の中へ入った。
クララは一歩下がる。
聖水を含ませた布。新しい柔らかい布のかかった揺り籠。落ちた木札。空の薬瓶。まだわずかに残る冷気。
司祭様は、揺り籠の前で膝を折った。
「早く気づいてよかった」
クララは胸元の聖印を握った。
「倒したのでしょうか」
司祭様は首を横に振った。
「いいえ。鎮めました。倒す必要のないものもあります」
サリアが続ける。
「ただし、放っておけば悪くなるものもあります」
クララは揺り籠を見た。
泣き声はもう、ほとんど聞こえない。けれど、完全に何もなかったことになったわけではなかった。古い布と薬瓶と木札はそこにあり、誰かがここで冬を越せなかったことまで消えたわけではない。
司祭様は聖印を置いた。
サリアが聖水を含ませた布の位置を整える。
クララは横に立った。
司祭様の祈りは、強い声ではなかった。物置の奥まで無理に押し込むような祈りではなく、固まった空気を少しずつほどくような祈りだった。
揺り籠のきしみが止まる。
床近くの冷たさが薄れる。
物置の空気が、古い部屋を掃除したあとのように軽くなった。
クララは、ようやく息を吐いた。
怖さが消えたわけではない。
それでも、もう逃げたいだけではなかった。
翌朝、押入商会が針と柔らかい布を届けに来た。
澪、リュシア、真壁が教会へ入り、少し遅れてエレナも姿を見せた。子どもたちは、昨日のことを話したくて仕方がない様子だったが、サリアに「順番」と言われると、なぜか得意げに口を閉じた。
「順番、覚えたんだ」
リュシアが笑うと、年長の子が胸を張った。
「食堂にいる。物置に行かない。赤ちゃん起こさない」
「三つ目が一番難しそうだね」
「難しかった」
小さい子が真剣に頷き、赤ん坊の籠を覗き込む。
クララはそのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。
司祭様が澪へ向いた。
「確認をお願いできますか」
「はい」
澪はクララを見た。
第193話の時と違い、これはジョブ変更ではない。司祭様が行う手続きではなく、昨夜の経験がどう反映されたかの確認だった。
クララは、背を伸ばした。
澪の目が、少しだけ開かれる。
「クララさん、聖職者Lv2です」
「レベルが、上がったのですか」
「はい。ゴーストへの対処が、聖職者としての経験になったんだと思います」
クララは物置の方を見た。
倒したわけではない。剣を振るったわけでもない。ただ、子どもを食堂へ集め、聖水を少し使い、泣き声を見なかったことにしなかった。
それが経験になるのだと、まだうまく飲み込めなかった。
サリアが、クララの迷いを読んだように言った。
「聖職者の実戦は、剣で倒すことばかりではありません」
クララは顔を上げる。
「怖い時に順番を守ること。子どもを離すこと。場を見て、必要な道具を使うこと。それも実戦です」
澪が鑑定結果を読み上げる。
----------------------------------
クララ
旧称:クララ・フォン・ローゼンベルク
現在ジョブ:聖職者 Lv2
状態:王国教会預かり/見習い/家名使用制限
----------------------------------
基礎能力値
体力:32 → 33
筋力:18 → 18
器用:61 → 62
知力:88 → 89
判断:74 → 77
精神:69 → 72
集中:72 → 75
----------------------------------
スキル一覧
礼法:7
読解:6
帳簿読解:4
筆記:5
観察:1 → 2
生活介助:1
祈り:1 → 2
微光:1 → 2
ヒール:芽あり
鑑定:芽あり
浄化:芽あり
----------------------------------
取得スキルポイント:1
----------------------------------
「筋力は変わっていません。でも、判断、精神、集中が大きく伸びています」
「判断、精神、集中……」
「怖い中で順番を守ったからだと思います」
澪は少し考えながら言った。
「あと、聖水を使う時に、ちゃんと少量にしたこととか、子どもたちを先に離したこととか」
サリアが頷く。
「聖職者の力は、腕力だけでは測れません」
クララは、表示を見つめた。
体力が少し上がっている。器用も、知力も。けれど大きく伸びたのは、判断、精神、集中。
怖かった。
それでも逃げなかった。
その事実を、数字が静かに示していた。
澪は表示の最後へ目を落とした。
「取得スキルポイントが1あります」
クララは瞬きをした。
「何かをレベル1にすることができます。何を望みますか?」
「望む……」
その言葉は、第193話で司祭様に問われた時のことを思い出させた。
何を望むか。
クララは、自分の手を見る。
ヒールがあれば、発熱した幼い子を支えられるかもしれない。
鑑定があれば、子どもの変化をもっと正確に見られるかもしれない。
浄化があれば、物置の泣き声のように、残ってしまったものを休ませられるかもしれない。
どれも必要だった。
だからこそ、すぐには選べなかった。
「ヒールを選べば、昨夜のような子を助けられますか」
澪は即答しなかった。
「助ける力にはなると思います。でも、ヒールだけで全部が治るわけではありません。サリアさんみたいに、観察や薬の判断も必要だと思います」
クララは頷いた。
昨日の発熱は、薬だけでも、祈りだけでもなかった。額の布、水、呼吸、手足の冷え、眠れたかどうか。全部を見ていた。
「鑑定を選べば、変化が分かりますか」
「分かることは増えると思います」
澪は少し困ったように眉を寄せた。
「でも、鑑定に頼りきると、見て覚える力が育たないかもしれません」
クララは、サリアの言葉を思い出した。
昨日から今日。
今日から明日。
さっきから今。
何が変わったかを見る。
鑑定は便利だろう。けれど、目の前の子どもを見る前に表示だけを見るようになってしまえば、きっと違う。
クララは物置の方を見た。
古い揺り籠には、新しい柔らかい布がかかっている。
「浄化を選べば……あのような泣き声を、休ませることができますか」
澪は、物置の方を一度見た。
「泣き声を消す力、というより、場を整える力だと思います。残ってしまったものが、これ以上こじれないようにする力、というか」
「場を整える力」
「はい」
クララは、昨日の冷たい物置を思い出した。
赤ん坊のような泣き声。破れた毛布。空の薬瓶。古い揺り籠。
怖いものを消したかったのではない。
泣き続けなくてよい場所にしたかった。
「では、浄化を」
澪は確認するように聞いた。
「浄化でいいんですね」
「はい」
クララは、今度は迷わなかった。
「怖いものを消すためではなく、休める場所を作るために」
澪は小さく頷いた。
「分かりました。浄化をレベル1にします」
表示が変わる。
----------------------------------
クララ
旧称:クララ・フォン・ローゼンベルク
現在ジョブ:聖職者 Lv2
状態:王国教会預かり/見習い/家名使用制限
----------------------------------
基礎能力値
体力:32 → 33
筋力:18 → 18
器用:61 → 62
知力:88 → 89
判断:74 → 77
精神:69 → 72
集中:72 → 75
----------------------------------
スキル一覧
礼法:7
読解:6
帳簿読解:4
筆記:5
観察:1 → 2
生活介助:1
祈り:1 → 2
微光:1 → 2
浄化:1
ヒール:芽あり
鑑定:芽あり
----------------------------------
取得スキルポイント:0
----------------------------------
「よい選び方です」
サリアが言った。
クララは顔を上げる。
「ヒールを選ばなかったことを、後悔するかもしれません」
「後悔する日もあるかもしれません。鑑定を選ばなかったことを、不便に思う日もあるでしょう」
「それでも、よいのですか」
「今のあなたが何を見たかで選んだのなら、それでよいのです」
司祭様も静かに言った。
「スキルは逃げ道ではありません。何を避けたいかではなく、何に向き合うかで選ぶものです」
クララは、物置の方へもう一度目を向けた。
古い揺り籠。
新しい布。
休んだ泣き声。
自分が選んだものの意味が、そこに残っている気がした。
物置の古い揺り籠には、新しい柔らかい布がかかっていた。
聖水を含ませた布は片づけられ、司祭様の祈りのあと、部屋の空気は少しだけ軽くなっている。
倒したわけではない。
勝ったわけでもない。
ただ、泣き続けていたものが、休む場所を得た。
「シスタークララ、もう泣いてない?」
幼い子が聞いた。
クララは物置の方を見てから答えた。
「はい。今は、休んでいます」
「寝たの?」
「そうですね。休んでいます」
「じゃあ、物置行っていい?」
「今日はだめです」
「えー」
「明るい時間に、シスターサリアと一緒なら」
「シスタークララも?」
クララは少し迷ってから、頷いた。
「はい。私も一緒に行きます」
子どもは安心したように笑い、食堂へ走って戻っていった。
クララはその背中を見送った。
もう怖くない、とは言えない。
けれど、一緒に行くことはできる。
そのくらいの強さなら、今のクララにも持てる気がした。
澪は、手元の鑑定結果を真壁へ見せた。
真壁は、クララの表示を一度だけ見た。
指先が、浄化:1のところで止まる。
「ふむ」