押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第194話 物置の泣き声

 

 冬支度の用事は、ひとつ済むと、すぐ次が見つかった。

 

 教会の食料蔵には豆袋が積まれ、廊下の端には薪束が置かれ、食堂の長机には縫いかけの布と針箱が並んでいる。小さい子は布を畳むつもりで両手いっぱいに抱え、結局そのまま自分ごと転びそうになって、年長の子に襟首をつかまれていた。

 

「布は持ち上げすぎない。前が見えなくなるでしょう」

 

 シスターサリアがそう言うと、布に顔を埋めた子どもが、もごもごと返事をした。

 

「見えてる」

 

「床だけ見えても足りません」

 

 食堂に小さな笑いが起きた。

 

 クララは針箱の蓋を閉めながら、その声を聞いていた。以前なら、子どもたちの笑い声は少し近すぎるものに感じたかもしれない。公爵家の屋敷では、笑い声は廊下の向こうに控えめに置かれるものだった。けれど、ここでは鍋の湯気や薪の匂いと同じように、笑い声も生活の中に混ざっている。

 

 暗くなるのが早くなった。

 

 窓の外では、セルマ工房の塔の影が教会の庭先へ長く伸びている。まだ夕方なのに、物置へ続く廊下の奥は、夜が先に座り込んでいるように暗い。

 

 その日、司祭様とシスターサリアは外へ出ることになっていた。

 

 町外れの老人宅へ薬草茶と薪を届け、戻りにセルマ工房で軟膏を受け取り、侯爵家から回された冬支度の配給数を確認する。発熱した幼い子のために、柔らかい布の追加も相談してくるとサリアは言った。

 

「すぐ戻りますが、日暮れが早いです。留守の間は、食堂を中心にしてください」

 

 サリアは外套の紐を結びながら、クララを見た。

 

 クララは背を伸ばした。

 

「はい」

 

「何か変化があれば、戻るまで待たずに記録してください」

 

「はい」

 

「危ないと思ったら、子どもたちを食堂へ集めなさい。迷ったら、まず子どもを離すこと」

 

 クララは、胸の中でその順番を繰り返した。

 

 子どもを離す。食堂へ集める。記録する。確認する。

 

 公爵家で学んだ作法とは違う。だが、昨夜から今日にかけて、その順番が子どもを守るための作法なのだと、少しずつ分かり始めていた。

 

「それから」

 

 サリアは食器棚の横にある小さな戸棚を指した。

 

「棚の奥に、神殿管理の聖水があります」

 

「聖水、ですか」

 

 クララは思わず聞き返した。

 

 教会で聖水と聞けば、儀礼に使うものという印象が強い。見習いになったばかりの自分が触れてよいものとは思えなかった。

 

「強い魔物を倒すものではありません。ですが、場を清めるには使えます」

 

「私が使ってもよいものなのでしょうか」

 

「本来は司祭かシスターが扱うものです。ただし、私たちが不在で、子どもを離す必要がある時は、少量だけ使って構いません」

 

「少量だけ」

 

「はい。撒くのではありません。清潔な布に含ませて、入口か対象のそばに置くこと」

 

 サリアはそこで、少しだけ目を細めた。

 

「怖いからといって、瓶ごと投げてはいけません」

 

 クララは一瞬、返事を忘れた。

 

「瓶ごと……投げる発想はありませんでした」

 

「ないならよろしいです」

 

 真面目な顔でそう返され、食堂の端にいた年長の子が吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。

 

 クララも、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 サリアは最後に、聖水の瓶が置かれた棚の位置と、小皿、清潔な布の場所を確認させた。司祭様はその様子を静かに見ていたが、出発前にクララへ短く言った。

 

「一人で解決しようとしないことです」

 

「はい」

 

「見たこと、聞いたこと、使ったものを残しておく。それも教会の仕事です」

 

 クララは頷いた。

 

 扉が閉まり、司祭様とサリアの足音が遠ざかる。

 

 孤児院が、少し広くなった気がした。

 

 

 

 

 食堂では、冬支度の片づけが続いた。

 

 年長の子どもたちは慣れている。針箱を閉める子、布を種類ごとに分ける子、赤ん坊の籠を暖炉から近すぎない場所へずらす子。小さい子は手伝っているつもりで布を別の山へ運び、運んだ先で自分の上に掛けて、毛布の怪物のようになっていた。

 

「それは畳む布です」

 

 クララが言うと、布の下から声が返る。

 

「おばけよけ」

 

「おばけは出ません」

 

 そう言いかけて、クララは少し止まった。

 

 物置の泣き声。

 

 昨夜、子どもが教えてくれた言葉が、胸の奥で小さく鳴った。

 

 気のせいだと笑うことはできた。

 

 公爵家の屋敷なら、子どもの怖がりなど使用人が宥めて終わったかもしれない。けれど、ここでは違う。

 

 子どもは、昨日と今日で同じ場所を怖がっている。

 

 それは変化だった。

 

 クララが布の山を直していると、袖を小さく引かれた。

 

「シスタークララ」

 

 昨日の子だった。

 

 毛布を両手で抱え、顔だけこちらへ向けている。声は小さいが、ふざけてはいなかった。

 

「はい」

 

「また、聞こえた」

 

 クララは手を止めた。

 

「何がですか」

 

「物置の泣き声」

 

 食堂の音が、少し遠くなった。

 

 鍋の湯気、針箱の蓋、子どもの足音。すべてはそこにあるのに、クララの耳には、その子の声だけが残った。

 

「どこで聞こえましたか」

 

「古い揺り籠がある物置」

 

「いつですか」

 

「さっき」

 

 子どもは唇を結び、それから小さく言った。

 

「赤ちゃんじゃないのに、赤ちゃんみたいに泣いてた」

 

 クララは、廊下の奥へ目を向けた。

 

 物置の扉は閉まっている。

 

 その向こうに何があるのか、知らないわけではない。壊れた椅子、古い箱、使わなくなった布袋、冬支度で一度出して戻した道具。古い揺り籠も、その中にあると聞いている。

 

 怖い。

 

 クララはそれを、まず認めた。

 

 怖くないふりをすれば、声は震える。震えた声で命じれば、子どもたちはもっと怖がる。

 

 だから、順番にする。

 

「年長の子は、こちらへ来てください」

 

 クララは、声を大きくしすぎないようにした。

 

 食堂の中の子どもたちが振り向く。

 

「小さい子を食堂へ集めます。扉を閉めます」

 

「え、何かあったの」

 

「確認します。確認するまでは、物置へ行きません」

 

 年長の子が、すぐ赤ん坊の籠へ向かった。別の子が、廊下へ出ようとしていた小さい子の手をつかむ。

 

 クララは指示を続けた。

 

「赤ん坊の籠は暖炉の近くへ。ただし近づけすぎないでください。毛布は一枚だけ足します」

 

「物置見に行く?」

 

「行きません」

 

「でも泣き声」

 

「聞きに行かないこと。怖いと思ったら、私か年長の子に言ってください」

 

 年長の子が、クララの顔を覗き込んだ。

 

「シスタークララ、大丈夫?」

 

 クララは、すぐに「大丈夫」とは言えなかった。

 

 大丈夫かどうかは、まだ分からない。

 

「大丈夫、とはまだ言えません」

 

「え」

 

「だから、順番にします」

 

 年長の子は目を丸くしたあと、なぜか少し安心したように頷いた。

 

「じゃあ、順番」

 

「はい。順番です」

 

 食堂の扉を閉めると、廊下の暗さが少し遠ざかった。子どもたちの視線が背中に集まっているのを感じながら、クララは棚へ向かった。

 

 

 

 

 棚の奥に、布で包まれた瓶があった。

 

 小さな管理札が下がっている。

 

 クララは両手で瓶を取り出した。手が少し震える。物置の泣き声も怖い。だが、神殿管理対象の瓶を落として割ることも、同じくらい怖かった。

 

 呼吸をひとつ整える。

 

 小皿を出す。

 

 瓶の栓を開ける。

 

 中の水は透明だった。特別な光を放っているわけではない。だが、濁りがなく、匂いもない。見ているだけで、静かな井戸の底を覗いているような感じがした。

 

 クララには鑑定はまだ使えない。

 

 けれど、管理札には、司祭様の手で写された簡単な記録が添えられていた。

 

----------------------------------

聖水

 透明度:高

 異臭:なし

 清浄度:高

 微弱な浄化性:あり

 用途:飲用候補/儀礼用/食品洗浄用

 注意:神殿管理対象

----------------------------------

 

 ミナという子が、昔作ったものだと聞いている。

 

 綺麗な水だけを分けた水。

 

 それがなぜ聖水になるのか、クララにはまだ分からない。ただ、今この瓶は、司祭様でもサリアでもない自分の手の中にある。

 

 強い魔物を倒すものではない。

 

 場を清めるには使える。

 

 少量だけ。

 

 撒かない。

 

 布に含ませる。

 

 瓶ごと投げない。

 

 クララは小皿へほんの少し移し、清潔な布へ含ませた。瓶は栓を戻し、棚へ戻す。小皿は洗わない。あとで確認してもらえるよう、棚の前に残す。

 

 聖印を胸元にかけた。

 

 指先に意識を向ける。

 

 昨夜、幼い子の唇の色を見ようとした時に生まれた微かな光。まだ頼りない。蝋燭ほど明るくない。それでも、暗い廊下で足元を見るには足りた。

 

 指先に薄い光が宿る。

 

 クララは聖水を含ませた布を持ち、物置へ向かった。

 

 食堂の扉の向こうから、子どもたちの小声が聞こえた。

 

「シスタークララ、遅いね」

 

「まだ行ったばっかり」

 

「呼びに行く?」

 

「行くなって言われた」

 

「じゃあ、ここにいる」

 

「赤ちゃん起きちゃうから、静かに」

 

 その声に、クララは足を止めそうになった。

 

 自分が怖がっている間にも、子どもたちは言いつけを守っている。

 

 なら、クララも守らなければならない。

 

 順番を。

 

 

 

 

 物置の前は冷えていた。

 

 廊下全体が寒いわけではない。床の近く、扉の隙間から、細い冷気が流れてくる。

 

 クララはすぐ扉を開けず、耳を澄ませた。

 

 泣き声が聞こえる。

 

 赤ん坊のような声だった。

 

 けれど、生きている赤ん坊の泣き方ではない。息継ぎがない。同じ高さで、同じ長さで、繰り返している。苦しさを訴えるというより、泣いているという形だけが残っているような声だった。

 

 クララの喉が乾いた。

 

 怖い。

 

 扉から離れたい。

 

 食堂へ戻って、子どもたちと一緒に司祭様たちの帰りを待ちたい。

 

 だが、泣き声は扉の向こうに残っている。

 

 昨日から今日。

 

 今日から明日。

 

 さっきから今。

 

 何が変わったかを見る。

 

 クララは、扉を少しだけ開けた。

 

 微光が、物置の床を薄く照らす。

 

 壊れた椅子。古い箱。布袋。使われなくなった木札。破れた毛布。空の小さな薬瓶。

 

 奥に、古い揺り籠があった。

 

 冬支度で物置を整理した時に動かされたのだろう。揺り籠の脚の下には、積もっていた埃の跡が残っている。位置が少しずれていた。

 

 風はない。

 

 それでも、揺り籠がわずかにきしんだ。

 

 泣き声は、揺り籠の中からではない。

 

 揺り籠のまわりにある。

 

 破れた毛布の端、落ちた木札、空の薬瓶。そこに残った冷たさが、声の形をしている。

 

 クララは、奥へ踏み込みすぎないように、入口近くで膝を折った。

 

 いるのではない。

 

 残っている。

 

 そう思った瞬間、恐怖の形が少しだけ変わった。

 

 敵が待っているのではない。誰かを襲おうとしているのでもない。怒っているのでもない。

 

 ただ、泣き声だけが残っている。

 

「寒かったのですね」

 

 口から出た言葉は、とても小さかった。

 

 泣き声が、一瞬だけ途切れた。

 

 クララは聖水を含ませた布を、揺り籠のそばへ置いた。撒かない。投げない。サリアに言われた通り、布に含ませて置く。

 

 冷気が布の周囲で少し揺れた。

 

 泣き声が、今度は少し弱くなる。

 

 クララは一度食堂へ戻りかけ、途中で棚から柔らかい布を一枚取った。昨日、自分がエレナに「足りません」と言えた布と同じものだ。幼い子の肌に触れても痛くないよう、何度も洗えるように選んでもらった布。

 

 それを持って、再び物置へ戻る。

 

 古い揺り籠の上に、そっとかけた。

 

「ここには、今も子どもたちがいます」

 

 クララは、聖印を握った。

 

「けれど、あなたはもう、泣き続けなくてよいのです」

 

 微光が少しだけ強くなった。

 

 強い光ではない。物置を明るく照らすほどでもない。ただ、揺り籠の縁と新しい布の端が、淡く浮かび上がる。

 

 泣き声が、赤ん坊の声から、風が隙間を抜けるような細い音へ変わった。

 

 クララはその場に立っていた。

 

 勝ったわけではない。倒したわけでもない。

 

 ただ、声が少し休んだ。

 

 そう感じた。

 

 

 

 

 食堂では、小さい子が毛布を頭からかぶっていた。

 

「それ、おばけよけ?」

 

 別の子が聞くと、年長の子がため息をついた。

 

「毛布だよ」

 

「でも、かぶると怖くない」

 

「前が見えない」

 

「見えないから怖くない」

 

「それは違うと思う」

 

 赤ん坊が小さく声を上げると、年長の子は慌てて籠を揺らした。

 

「起きちゃだめ。今、シスタークララが順番にしてるから」

 

「順番ってなに」

 

「知らない。でも、順番」

 

 子どもたちは怖がっていたが、食堂から出なかった。

 

 扉の向こうの廊下で、クララの足音が戻ってくる。

 

 その音に、何人かが一斉に顔を上げた。

 

 クララは扉を少し開けた。

 

「まだ出ないでください。司祭様とシスターサリアが戻るまで、ここにいます」

 

「泣いてる?」

 

 毛布をかぶった子が聞いた。

 

 クララは少し考えた。

 

「小さくなりました」

 

「小さく?」

 

「はい。大きくはなっていません」

 

 それだけで、子どもたちは少し息を吐いた。

 

 大丈夫と言い切らない。

 

 だが、大きくなっていないと分かる。

 

 クララは、それを伝えられたことに、自分でも少し驚いた。

 

 

 

 

 司祭様とシスターサリアが戻ったのは、それから間もなくだった。

 

 玄関の扉が開き、外の冷たい空気と一緒に薪の匂いが入ってくる。サリアは食堂の子どもたちを見て、すぐ物置の方を見た。

 

「シスタークララ」

 

 呼び声は鋭かったが、怒鳴ってはいなかった。

 

 クララは物置の前で立ち上がった。

 

「子どもたちは?」

 

「食堂に集めました」

 

「怪我は?」

 

「ありません」

 

「聖水は?」

 

「少量だけ、布に含ませました」

 

「瓶は?」

 

「棚に戻してあります。小皿は洗っていません。確認していただこうと思って」

 

 サリアはそこで、ほんの少しだけ息を吐いた。

 

「よく順番を守りました」

 

 その言葉を聞いた瞬間、クララの膝から力が抜けそうになった。

 

「勝手なことをいたしました」

 

「勝手に倒そうとしたのではありません」

 

 サリアは、クララの言葉を静かに止めた。

 

「子どもを離し、道具を使い、報告できる形を残しました。よく考えています」

 

 司祭様が物置の中へ入った。

 

 クララは一歩下がる。

 

 聖水を含ませた布。新しい柔らかい布のかかった揺り籠。落ちた木札。空の薬瓶。まだわずかに残る冷気。

 

 司祭様は、揺り籠の前で膝を折った。

 

「早く気づいてよかった」

 

 クララは胸元の聖印を握った。

 

「倒したのでしょうか」

 

 司祭様は首を横に振った。

 

「いいえ。鎮めました。倒す必要のないものもあります」

 

 サリアが続ける。

 

「ただし、放っておけば悪くなるものもあります」

 

 クララは揺り籠を見た。

 

 泣き声はもう、ほとんど聞こえない。けれど、完全に何もなかったことになったわけではなかった。古い布と薬瓶と木札はそこにあり、誰かがここで冬を越せなかったことまで消えたわけではない。

 

 司祭様は聖印を置いた。

 

 サリアが聖水を含ませた布の位置を整える。

 

 クララは横に立った。

 

 司祭様の祈りは、強い声ではなかった。物置の奥まで無理に押し込むような祈りではなく、固まった空気を少しずつほどくような祈りだった。

 

 揺り籠のきしみが止まる。

 

 床近くの冷たさが薄れる。

 

 物置の空気が、古い部屋を掃除したあとのように軽くなった。

 

 クララは、ようやく息を吐いた。

 

 怖さが消えたわけではない。

 

 それでも、もう逃げたいだけではなかった。

 

 

 

 

 翌朝、押入商会が針と柔らかい布を届けに来た。

 

 澪、リュシア、真壁が教会へ入り、少し遅れてエレナも姿を見せた。子どもたちは、昨日のことを話したくて仕方がない様子だったが、サリアに「順番」と言われると、なぜか得意げに口を閉じた。

 

「順番、覚えたんだ」

 

 リュシアが笑うと、年長の子が胸を張った。

 

「食堂にいる。物置に行かない。赤ちゃん起こさない」

 

「三つ目が一番難しそうだね」

 

「難しかった」

 

 小さい子が真剣に頷き、赤ん坊の籠を覗き込む。

 

 クララはそのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。

 

 司祭様が澪へ向いた。

 

「確認をお願いできますか」

 

「はい」

 

 澪はクララを見た。

 

 第193話の時と違い、これはジョブ変更ではない。司祭様が行う手続きではなく、昨夜の経験がどう反映されたかの確認だった。

 

 クララは、背を伸ばした。

 

 澪の目が、少しだけ開かれる。

 

「クララさん、聖職者Lv2です」

 

「レベルが、上がったのですか」

 

「はい。ゴーストへの対処が、聖職者としての経験になったんだと思います」

 

 クララは物置の方を見た。

 

 倒したわけではない。剣を振るったわけでもない。ただ、子どもを食堂へ集め、聖水を少し使い、泣き声を見なかったことにしなかった。

 

 それが経験になるのだと、まだうまく飲み込めなかった。

 

 サリアが、クララの迷いを読んだように言った。

 

「聖職者の実戦は、剣で倒すことばかりではありません」

 

 クララは顔を上げる。

 

「怖い時に順番を守ること。子どもを離すこと。場を見て、必要な道具を使うこと。それも実戦です」

 

 澪が鑑定結果を読み上げる。

 

----------------------------------

クララ

旧称:クララ・フォン・ローゼンベルク

現在ジョブ:聖職者 Lv2

状態:王国教会預かり/見習い/家名使用制限

----------------------------------

基礎能力値

体力:32 → 33

筋力:18 → 18

器用:61 → 62

知力:88 → 89

判断:74 → 77

精神:69 → 72

集中:72 → 75

----------------------------------

スキル一覧

礼法:7

読解:6

帳簿読解:4

筆記:5

観察:1 → 2

生活介助:1

祈り:1 → 2

微光:1 → 2

ヒール:芽あり

鑑定:芽あり

浄化:芽あり

----------------------------------

取得スキルポイント:1

----------------------------------

 

「筋力は変わっていません。でも、判断、精神、集中が大きく伸びています」

 

「判断、精神、集中……」

 

「怖い中で順番を守ったからだと思います」

 

 澪は少し考えながら言った。

 

「あと、聖水を使う時に、ちゃんと少量にしたこととか、子どもたちを先に離したこととか」

 

 サリアが頷く。

 

「聖職者の力は、腕力だけでは測れません」

 

 クララは、表示を見つめた。

 

 体力が少し上がっている。器用も、知力も。けれど大きく伸びたのは、判断、精神、集中。

 

 怖かった。

 

 それでも逃げなかった。

 

 その事実を、数字が静かに示していた。

 

 澪は表示の最後へ目を落とした。

 

「取得スキルポイントが1あります」

 

 クララは瞬きをした。

 

「何かをレベル1にすることができます。何を望みますか?」

 

「望む……」

 

 その言葉は、第193話で司祭様に問われた時のことを思い出させた。

 

 何を望むか。

 

 クララは、自分の手を見る。

 

 ヒールがあれば、発熱した幼い子を支えられるかもしれない。

 

 鑑定があれば、子どもの変化をもっと正確に見られるかもしれない。

 

 浄化があれば、物置の泣き声のように、残ってしまったものを休ませられるかもしれない。

 

 どれも必要だった。

 

 だからこそ、すぐには選べなかった。

 

「ヒールを選べば、昨夜のような子を助けられますか」

 

 澪は即答しなかった。

 

「助ける力にはなると思います。でも、ヒールだけで全部が治るわけではありません。サリアさんみたいに、観察や薬の判断も必要だと思います」

 

 クララは頷いた。

 

 昨日の発熱は、薬だけでも、祈りだけでもなかった。額の布、水、呼吸、手足の冷え、眠れたかどうか。全部を見ていた。

 

「鑑定を選べば、変化が分かりますか」

 

「分かることは増えると思います」

 

 澪は少し困ったように眉を寄せた。

 

「でも、鑑定に頼りきると、見て覚える力が育たないかもしれません」

 

 クララは、サリアの言葉を思い出した。

 

 昨日から今日。

 

 今日から明日。

 

 さっきから今。

 

 何が変わったかを見る。

 

 鑑定は便利だろう。けれど、目の前の子どもを見る前に表示だけを見るようになってしまえば、きっと違う。

 

 クララは物置の方を見た。

 

 古い揺り籠には、新しい柔らかい布がかかっている。

 

「浄化を選べば……あのような泣き声を、休ませることができますか」

 

 澪は、物置の方を一度見た。

 

「泣き声を消す力、というより、場を整える力だと思います。残ってしまったものが、これ以上こじれないようにする力、というか」

 

「場を整える力」

 

「はい」

 

 クララは、昨日の冷たい物置を思い出した。

 

 赤ん坊のような泣き声。破れた毛布。空の薬瓶。古い揺り籠。

 

 怖いものを消したかったのではない。

 

 泣き続けなくてよい場所にしたかった。

 

「では、浄化を」

 

 澪は確認するように聞いた。

 

「浄化でいいんですね」

 

「はい」

 

 クララは、今度は迷わなかった。

 

「怖いものを消すためではなく、休める場所を作るために」

 

 澪は小さく頷いた。

 

「分かりました。浄化をレベル1にします」

 

 表示が変わる。

 

----------------------------------

クララ

旧称:クララ・フォン・ローゼンベルク

現在ジョブ:聖職者 Lv2

状態:王国教会預かり/見習い/家名使用制限

----------------------------------

基礎能力値

体力:32 → 33

筋力:18 → 18

器用:61 → 62

知力:88 → 89

判断:74 → 77

精神:69 → 72

集中:72 → 75

----------------------------------

スキル一覧

礼法:7

読解:6

帳簿読解:4

筆記:5

観察:1 → 2

生活介助:1

祈り:1 → 2

微光:1 → 2

浄化:1

ヒール:芽あり

鑑定:芽あり

----------------------------------

取得スキルポイント:0

----------------------------------

 

「よい選び方です」

 

 サリアが言った。

 

 クララは顔を上げる。

 

「ヒールを選ばなかったことを、後悔するかもしれません」

 

「後悔する日もあるかもしれません。鑑定を選ばなかったことを、不便に思う日もあるでしょう」

 

「それでも、よいのですか」

 

「今のあなたが何を見たかで選んだのなら、それでよいのです」

 

 司祭様も静かに言った。

 

「スキルは逃げ道ではありません。何を避けたいかではなく、何に向き合うかで選ぶものです」

 

 クララは、物置の方へもう一度目を向けた。

 

 古い揺り籠。

 

 新しい布。

 

 休んだ泣き声。

 

 自分が選んだものの意味が、そこに残っている気がした。

 

 

 

 

 物置の古い揺り籠には、新しい柔らかい布がかかっていた。

 

 聖水を含ませた布は片づけられ、司祭様の祈りのあと、部屋の空気は少しだけ軽くなっている。

 

 倒したわけではない。

 

 勝ったわけでもない。

 

 ただ、泣き続けていたものが、休む場所を得た。

 

「シスタークララ、もう泣いてない?」

 

 幼い子が聞いた。

 

 クララは物置の方を見てから答えた。

 

「はい。今は、休んでいます」

 

「寝たの?」

 

「そうですね。休んでいます」

 

「じゃあ、物置行っていい?」

 

「今日はだめです」

 

「えー」

 

「明るい時間に、シスターサリアと一緒なら」

 

「シスタークララも?」

 

 クララは少し迷ってから、頷いた。

 

「はい。私も一緒に行きます」

 

 子どもは安心したように笑い、食堂へ走って戻っていった。

 

 クララはその背中を見送った。

 

 もう怖くない、とは言えない。

 

 けれど、一緒に行くことはできる。

 

 そのくらいの強さなら、今のクララにも持てる気がした。

 

 澪は、手元の鑑定結果を真壁へ見せた。

 

 真壁は、クララの表示を一度だけ見た。

 

 指先が、浄化:1のところで止まる。

 

「ふむ」

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