12月に入ると、現代側の空気は急に乾いた。
窓の外の光は薄く、大学へ行く朝の道も、押入商会の帳面を開く夜も、どこか紙の端を撫でるような冷たさがあった。
澪は机の上にノートパソコンと帳面を広げ、明石さんとの通話をつないでいた。
「それで、12月の支給なんですが……」
言いながら、澪は自分で書いた数字をもう一度見直した。
現代側の売上は、月によって揺れはあるものの、今はおおよそ1,000万円から1,500万円の範囲に収まっている。普通の大学生が夜に見ていい数字ではない。しかも、それが異世界側の小金貨や品物の流れと絡んで、押入商会の帳面に並んでいる。
慣れた。
慣れたはずだった。
けれど、自分の名前の近くに「社長」と書かれていると、まだ少し喉が詰まる。
画面の向こうの明石さんは、澪の迷いを数字の上から淡々と整理した。
「出せない金額ではありません」
「本当ですか」
「はい。ただし、売上と使っていいお金は違います」
その一言で、澪の背筋が少し伸びた。
明石さんの声は、いつも現実側に錨を下ろしてくれる。異世界で金貨が動き、真壁が妙な鉱石を現代側に持ち込み、売上が何桁も増えても、税金と仕入れと翌年の運転資金は逃げてくれない。
「税金、仕入れ、来年の運転資金。ここは必ず残してください。あと、最初の年に出しすぎると、翌年以降の基準が崩れます」
「基準……」
「はい。毎年それが当然になると、下げる時に説明が苦しくなります」
澪は手元の紙に、線を引いた。
社長。
相談役。
その横に、月額給与80万円と書く。さらに12月賞与300万円。
「社長と相談役は、月額80万円に、12月賞与300万円。12月の支給はそれぞれ380万円で整理できます」
「2人で760万円……」
口に出すと、やはり重い。
明石さんは少しだけ声を和らげた。
「会社の利益、業務内容、今後の見込みから見て、説明できる範囲です。ただし、無限に出せるわけではありません」
「はい」
「それから、私の分ですが」
澪は姿勢を正した。
「年末特別相談料として100万円までにしてください」
「えっ、でも、明石さんにはかなり無理をお願いしてますし」
「だから100万円です。それ以上は、私から止めます。説明しやすい線を越える必要はありません」
澪はペン先を止めた。
明石さんは、貰えるものを増やそうとはしない。むしろ、出してはいけない線を先に引く。
それがありがたく、同時に少し怖い。こちらの世界の帳面は、善意や勢いだけでは済まないのだと、何度でも思い知らされる。
「では、合計は860万円ですね」
「はい。社長、相談役、私の年末分を合わせて860万円。これで処理しましょう」
「分かりました」
澪は数字を囲んだ。
860万円。
金額だけを見れば大きい。けれど、それは押入商会が現代側で走り続けるための、会社としての支払いでもある。
通話を終えた澪は、椅子の背に体を預けた。
机の上には、賞与の数字が整然と並んでいる。明石さんの言葉も、帳面の端にきれいに残っている。
その時、澪はふと気づいた。
静かすぎる。
いつもなら、真壁が横から何かを見ている。数字を見ているのか、別のものを見ているのか分からない顔で、気づけば話を別の方向へ曲げている。
けれど、今は姿がない。
「……真壁さん?」
返事はなかった。
澪は嫌な予感を覚えた。
真壁が静かな時は、だいたい何かを考えている。
そして真壁が何かを考えている時、それはすでに帳面の外へ出ている。
真壁は、押入の向こう側ではなく、現代側の部屋に立っていた。
部屋の隅では、白い加湿空気清浄機が低い音を立てている。
真壁は、その前で腕を組んでいた。
ただ家電を見ているのではない。
前話の山を思い返していた。
クララが浄化した魔力だまり。
灰色に濁っていた空気が、少しずつ薄れた。茸の山の腐ったような気配が消え、虫の魔物化の兆しが弱まった。あれは祈りとして見れば、たしかに聖職者の技だった。
だが、現象として見れば違う。
魔力だまりが削れた。
淀みがほどけた。
腐敗の傾きが止まった。
真壁は目の前の白い箱を見つめた。
浄化を術式化できたら、何ができる。
魔力だまりを掃除できる。
臭気を消せる。
腐敗を抑えられる。
消毒。
そこで、真壁の思考が一度止まった。
消毒できるなら、病の予防にも使える。
「予防……」
声に出すと、言葉は細い糸のように伸びた。
澪君が心配していたな。
孤児院の冬。
窓を開けにくい寝室。子どもたちの体温で重くなる空気。湿った寝具。乾いた喉。咳。発熱。熱冷ましの話。子どもに使える薬が限られること。病気になってから慌てるのではなく、病気になりにくい環境を作ること。
それは、薬ではない。
生活の側を変える話だ。
真壁は加湿空気清浄機の前面に手を置いた。
吸入口がある。
フィルターがある。
内部で空気を通す。
上から清浄な風を戻す。
給水口があり、水を保持し、水蒸気を含んだ風を室内へ送る。
空気を動かし、処理し、戻す。
部屋全体に術を撒く必要はない。箱の中へ空気を通せばよい。風魔法で流れを作り、浄化で淀みを削り、布と炭で埃や臭気を受ける。さらに水槽を持たせれば、冬に必要な湿気も足せる。
真壁は静かに頷いた。
「とりあえず、ヴァルト君に相談してみるか」
そう言ってから、少しだけ間を置いた。
「澪君の為だ」
その言葉に、自分で異論はなかった。
澪が心配していた。
ならば、形にする理由はある。
真壁は、同型に近い加湿空気清浄機を1台購入し、収納へ入れた。
家電量販店の店員が聞けば、保証書の扱いを心配したかもしれない。
だが、押入商会では収納に入るものは、だいたい資料になる。
ヴァルト邸の作業机の上に、白い箱が置かれた。
ヴァルトは、それを見てしばらく黙った。
現代側の品物には、何度か触れている。けれど、これは武器でも食料でも工具でもない。白く、なめらかで、用途が一目では分からない。
「真壁さん」
「何かね」
「これは、何ですか」
「空気清浄機だ」
「空気を、清める機械ですか」
「そうだ」
ヴァルトは白い箱を見つめ直した。
驚きよりも先に、理解しようとする目になっている。元魔術院境界課の習性なのか、未知のものを見ると、まず境界と流れを探すらしい。
真壁は前面を指した。
「ここから空気を吸う」
次に上部を指す。
「ここから清浄な風を戻す」
さらに蓋を開け、給水口を見せる。
「これは加湿機能付きだ。給水口があり、水を内部に保持し、水蒸気を含んだ清浄な風を室内へ送る」
ヴァルトの目が変わった。
珍しい道具を見る目ではない。
仕組みを見る目だった。
「……部屋全体を清めるのではなく、箱の中を通した空気だけを処理する」
「そうだ」
「流路を限定するわけですね」
「そうだ」
ヴァルトは白い箱の周囲をゆっくり歩いた。
「風魔法で吸気と排気を作る。布と炭で埃や臭気を受ける。浄化で淀みを削る。水を通せば、冬の乾燥も抑えられる」
「結構」
「ただし、浄化の性質を知らなければ危険です。部屋に置く道具なら、人が吸う空気に触れます」
「承知している」
真壁は淡々と答えた。
「浄化を術式化できれば、魔力だまりを掃除できる。臭気を消せる。腐敗を抑えられる。消毒もできる可能性がある」
「消毒」
ヴァルトが顔を上げた。
真壁は頷く。
「病の予防だ」
その言葉で、ヴァルトの表情が少し変わった。
「孤児院ですか」
「澪君が心配していた」
ヴァルトは黙った。
真壁がただ新しい魔道具を作りたがっているだけなら、軽くため息をつけばよい。だが、そこに孤児院の冬があるなら、話は変わる。
あの子どもたちは、冬になると窓を開けにくい部屋で眠る。暖房は弱く、寝具は古く、咳をする子が出れば、同じ部屋の子にも移る。薬は限られ、子どもに使えるものはさらに少ない。
病気になる前に、空気を変える。
ヴァルトはもう一度、白い箱を見た。
「真壁さん」
「何かね」
「これは、作れます」
「結構だ」
「ですが、先ほど言った通り、浄化の性質を見なければなりません。聖職者の祈りとしてではなく、魔術式としての性質です」
「そのために来た」
真壁は、少しもためらわずに言った。
「ヴァルト君。私が浄化を繰り返す。鑑定しながら観察してみてくれ」
ヴァルトは一瞬だけ、白い箱と真壁を見比べた。
「はい、真壁さん」
答えた時点で、彼はもう巻き込まれていた。
最初は玄関だった。
外から入り込む冷えた空気、靴に残った土の匂い、湿気、細かな埃。ヴァルトは鑑定を重ね、空気の層を見るように目を細めた。
真壁が指先に淡い光を宿す。
浄化。
光は明るく照らすほどではない。ただ、そこにある淀みへ触れ、ほどくように消えていった。
「埃は消えませんね」
「そうだな」
「臭気と淀みだけが薄くなっています。空気そのものを削っているのではありません」
「結構」
ヴァルトは紙に書きつけた。
次は便所だった。
ヴァルトは戸口で少しだけ止まった。
「ここもですか」
「重要だ」
「……反応が濃い場所の方が、差は見えます」
「結構」
「結構、なのでしょうか」
「結構だ」
便所の空気は、玄関より分かりやすかった。臭気、湿り、こもり、排水の気配。真壁が浄化をかけると、鼻につく部分だけが先に薄くなる。石や木材そのものの匂いは残る。必要なものまで消しているわけではない。
ヴァルトは眉間に皺を寄せながら、それでも目を逸らさなかった。
「臭いを消しているというより、臭いを作る淀みを崩しています」
「使えるか」
「使えます。ただし、強さを誤ると、空気が不自然になります」
「弱く、長く、一定に」
「はい」
次は風呂場だった。
湿気が壁に残り、排水口の奥に冷たい匂いが沈んでいる。黴の気配もあった。
真壁が浄化をかける。
湿気そのものは消えない。
だが、重く傷んだような匂いが薄れる。
ヴァルトはそこで少し首を傾げた。
「湿気を消しているわけではありません」
「湿気……」
真壁が止まった。
ヴァルトが顔を上げる。
「真壁さん?」
「そうだ。湿気は冬場必要だな、ヴァルト君」
ヴァルトは、少し嫌な予感がした顔になった。
「今、空気清浄の話をしていました」
「空気の管理だ」
「範囲が広がりましたね」
「冬に乾きすぎれば喉を傷める」
「……それは、そうです」
「水槽が要る」
「空気清浄機から、加湿空気清浄機になりました」
「冬仕様だ」
ヴァルトは諦めたように紙へ書き足した。
水槽。
弱浄化。
湿度調整。
最後は地下室だった。
空気が動きにくく、古い木箱と土の匂いが沈んでいる。魔力だまりというほどではないが、停滞した薄い淀みが隅に残っていた。
真壁は何度か浄化を繰り返した。
ヴァルトは鑑定と魔術式解析を重ねる。
紆余曲折はあった。
臭気と埃の違い。湿気と腐敗の違い。魔力の淀みと、ただの古い空気の違い。浄化が何を消し、何を残すのか。ヴァルトはひとつずつ切り分け、紙の上に線を引いていった。
やがて、彼の手が止まった。
「真壁さん」
「何かね」
「これ、光魔法の一種みたいです」
真壁は黙って続きを待った。
「聖職者の祈りとしては浄化です。ですが、魔術式として見ると、光魔法に近いです」
「照明か」
「違います。照らす光ではありません。腐敗、淀み、細菌やウイルスのような微細なもの、魔力の濁りに反応して構造を崩す光です」
「紫外線か」
「現代側の言葉に近づけるなら、殺菌灯に近い作用かもしれません。ただし、紫外線そのものではありません。人体を焼くような光でもありません」
「選択性がある」
「あります。有害な淀み、腐敗、病の種に反応しています。生きた人間や、必要なものへ無差別に刺さるものではなさそうです」
真壁は短く頷いた。
「結構」
ヴァルトは、まだ紙を見ていた。
その指先に、薄い光が宿る。
本人が気づくより先に、真壁が見た。
「どうかね」
ヴァルトは自分の指を見る。
淡い、淡い光だった。クララの祈りの光とは違う。もっと細く、魔術式の端に引っかかったような、芽のような光。
「芽生えました」
真壁は頷いた。
「結構」
「結構、なのですか」
「結構だ」
ヴァルトはしばらく自分の指先を見つめていた。
空気清浄機の相談を受けたはずだった。
気づけば、自分のスキル欄に新しい芽が出ている。
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ヴァルト
追加スキル:浄化:芽あり
----------------------------------
「真壁さん」
「何かね」
「私は、空気を清める箱の相談を受けていたはずです」
「前処理だ」
「技能取得が前処理」
「結構だ」
ヴァルトは返す言葉を探したが、見つからなかった。
押入商会では、必要という言葉が強い。
強すぎる。
採石場秘密基地の作業台には、場違いなほど白い加湿空気清浄機が置かれていた。
その横には、木材、布、炭、魔石、金具、水を入れるための陶器、細い格子、紙の束が並んでいる。
澪は、賞与の帳面を抱えたまま、作業台の前で固まった。
「真壁さん」
「はい」
「ボーナスの話をしていたはずですよね」
「していた」
「なぜ秘密基地で空気清浄機が魔道具化されかけているんですか」
「分解はしていない」
「そこではありません」
ヴァルトが、少し申し訳なさそうに紙を押さえた。
「澪さん。まだ魔道具化されかけている段階です」
「そこも安心材料ではないです」
澪は作業台を見る。
白い空気清浄機。
その隣に、ヴァルトの描いた断面図。
吸入口。
風の小陣。
布と炭の層。
浄化光陣。
水槽。
水槽側の弱浄化。
湿度調整。
排出口。
魔石。
転倒防止。
子どもが触れない格子。
完全に何かを作る図だった。
「浄化を術式化できれば、魔力だまりを掃除できる」
真壁が言った。
「臭気を消せる。腐敗を抑えられる。消毒できる。病の予防にも使える」
澪は、その言葉で口を閉じた。
「予防……」
「澪君が心配していた。孤児院の冬だ」
そこを出されると、澪は弱い。
孤児院の冬。
年少の子どもたちの寝室。薄い布団。窓を開けると寒く、閉めると空気がこもる部屋。咳をする子が出れば、隣の子もまた咳をする。熱冷ましの薬も、子どもに使うには考えなければならない。
病気になってからでは遅い。
それは、澪がずっと気にしていたことだった。
「……そう言われると、反対しづらいです」
「反対する理由がない」
「あります。真壁さんがまた大きな話を始める理由になります」
「必要な話だ」
ヴァルトは断面図を指した。
「風魔法で空気を吸い、浄化の陣を通して戻す。仕組みとしては、これで動きます」
「結構」
「ただし、浄化を強くしすぎると、部屋の空気が不自然になります」
「弱く、長く、一定に」
「はい。聖職者が一気に清めるのではなく、空気を少しずつ通す魔道具です」
澪は図面を覗き込んだ。
「本当に空気清浄機ですね」
「冬仕様だ」
「加湿空気清浄機ですね」
「浄化加湿循環器だ」
「名前が業務用です」
真壁は気にしていない。
ヴァルトも、すでに名称より構造を見ている。
「水槽部の浄化と、空気流路の浄化は分けた方がよいです」
「理由は」
「水を清めすぎると不自然になります。弱すぎると腐ります。空気側は臭気と淀みを削る。水側は腐敗を抑える。作用を分けるべきです」
「結構」
「風の小陣も強すぎてはいけません。子どもの寝室で風が強ければ体が冷えます」
「弱く、安定」
「はい。魔石の消費量も記録します」
澪は帳面を開いた。
開いてしまった。
自分で分かっていて、ペンを持っていた。
「記録項目が増えるやつですね」
「健康な生活には記録が必要だ」
「記録という言葉が出ると、また帳面が増えます」
ヴァルトが少し真面目な顔で頷いた。
「使用者向けの簡単な記録表は必要です」
「ヴァルトさんまで」
「必要です。咳、発熱、喉の痛み、寝つき、部屋の臭気、湿気、寝具の乾き具合、換気回数、水槽の汚れ、布と炭の交換頻度、魔石消費量」
澪はそのまま書いた。
書きながら、負けた気がした。
真壁は作業台の白い箱を指で軽く叩いた。
「風魔法と浄化を組み合わせて作った空気清浄機を、孤児院の各部屋に置いて、今年の冬のデータを取ってみないかね」
「言い方が完全に実証実験です」
「実証実験です」
「孤児院ですよ」
「だから弱く、安全に作る」
真壁は当然のように言った。
澪は反論しかけて、また止まった。
弱く、安全に。
そして、病気になる前に。
それは確かに、孤児院に必要な発想だった。
「置くとしたら、どこですか」
澪が聞くと、真壁は迷わなかった。
「乳児室、年少組寝室、年長組寝室、食堂」
「4台ですか」
「最初はな」
「最初は」
「比較が必要だ」
「本当に実証実験ですね」
ヴァルトが図面の隅に、使用場所を書き込んでいく。
乳児室。
年少組寝室。
年長組寝室。
食堂。
その横に、出力差、風量、湿度、魔石容量。
澪はペンを持ったまま、白い箱を見た。
現代側では、ただの家電だった。
家電量販店に並んでいる、冬場によく売れる白い箱。
それが異世界側では、孤児院の子どもたちの咳を減らすかもしれない魔道具になる。
真壁の発想は飛ぶ。
けれど、飛んだ先にいるのは、いつも誰かの生活だった。
孤児院へ持ち込む話になった時、シスターサリアは図面をしばらく見ていた。
便利そうですね、とは言わなかった。
まず、危ないところを探していた。
「子どもが指を入れられない形にしてください」
「結構」
「倒れないこと」
「固定します」
「熱くならないこと」
「出力を絞る」
「音が大きくないこと。夜に光りすぎないこと。水をこぼされても危なくないこと。掃除しやすいこと」
ヴァルトが真剣に頷いた。
「全部、必要です」
澪は少しだけほっとした。
サリアがいると、話が現場に戻る。
神聖でも、便利でも、子ども部屋に置くものは子ども部屋の基準で見られる。
「冬に喉を傷める子は多いです」
サリアは図面から顔を上げた。
「窓を開けると寒い。閉めると空気がこもる。夜に咳が続く子がいると、同じ部屋の子も眠れません。空気が軽くなって、乾きすぎないなら助かります」
司祭様も静かに頷いた。
「咳や熱が減るなら、試す価値はありますな。ただし、子どもたちの負担にならぬように」
「当然です」
真壁は短く答えた。
サリアは、そこで少しだけ目を細めた。
「記録は誰がつけるのですか」
澪とヴァルトが同時に真壁を見た。
真壁は澪を見た。
澪は首を振った。
「私は大学があります」
「簡単な表にする」
「そういう問題では」
サリアが息をついた。
「毎晩の咳、発熱、喉の痛み、寝つき、部屋の匂い、水の減り方。これくらいなら、こちらで見られます」
「ありがとうございます」
澪は頭を下げた。
サリアは淡々と答える。
「子どものためです。ただし、増やしすぎないでください」
真壁は頷いた。
「結構」
澪は横から小さく言った。
「真壁さんの『結構』、最近とても危ないです」
「何がかね」
「その後、だいたい何かが増えます」
「必要なら増える」
「必要なら、で済ませないでください」
ヴァルトは視線を少し逸らした。
自分の指先には、まだ薄い浄化の芽が残っている。
その夜、澪は現代側の机で帳面を閉じる前に、もう一度中身を見た。
最初のページには、明石さんと相談した数字が並んでいる。
社長、12月支給380万円。
相談役、12月支給380万円。
明石さん、年末特別相談料100万円。
合計860万円。
そこまではよかった。
そこまでは、年末らしい会社の話だった。
だが、その横には別の項目が増えている。
浄化。
空気清浄機。
風魔法。
湿気。
消毒。
風邪予防。
孤児院。
冬季データ。
浄化加湿循環器。
澪はペンを置いた。
「真壁さん」
「はい」
「ボーナスの帳面だったはずですよね」
「はい」
「なぜ孤児院の風邪予防と空気清浄機が並んでいるんですか」
「澪君の為だ」
「私のせいにしないでください」
「君が心配していた」
澪はそこで言葉に詰まった。
確かに、心配していた。
孤児院の冬を。
子どもたちの熱を。
薬だけではどうにもならない生活の部分を。
真壁は、それを忘れていなかった。
忘れていなかった上で、空気清浄機を買い、ヴァルトに浄化を芽生えさせ、秘密基地で魔道具化し、孤児院で冬季データを取るところまで進めていた。
進みすぎている。
だが、向いている先は間違っていない。
「……健康な生活を皆送れるんだぞ、澪君、でしたっけ」
「そうだ」
「その言い方はずるいです」
「事実だ」
真壁は帳面の端に、短く一行を書いた。
効果確認後、作り方を売る。
澪はその文字を見て、嫌な予感を覚えた。
「真壁さん」
「何かね」
「今、また大きくなりましたよね」
「健康な生活は、広げなければ意味がない」
「次の話になりそうなことを、さらっと書かないでください」
「次にする」
澪は額に手を当てた。
12月。
押入商会は、年末賞与を決めるはずだった。
だが気づけば、孤児院の冬の空気まで、帳面の中へ入り込んでいた。
清浄な風と、ほどよい湿気。
それは、ただの魔道具ではない。
子どもたちが寒い季節を少しでも健やかに越すための、白い箱から始まった、新しい生活の種だった。