押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

196 / 210
第196話 浄化は空気清浄機

 

 12月に入ると、現代側の空気は急に乾いた。

 

 窓の外の光は薄く、大学へ行く朝の道も、押入商会の帳面を開く夜も、どこか紙の端を撫でるような冷たさがあった。

 

 澪は机の上にノートパソコンと帳面を広げ、明石さんとの通話をつないでいた。

 

「それで、12月の支給なんですが……」

 

 言いながら、澪は自分で書いた数字をもう一度見直した。

 

 現代側の売上は、月によって揺れはあるものの、今はおおよそ1,000万円から1,500万円の範囲に収まっている。普通の大学生が夜に見ていい数字ではない。しかも、それが異世界側の小金貨や品物の流れと絡んで、押入商会の帳面に並んでいる。

 

 慣れた。

 

 慣れたはずだった。

 

 けれど、自分の名前の近くに「社長」と書かれていると、まだ少し喉が詰まる。

 

 画面の向こうの明石さんは、澪の迷いを数字の上から淡々と整理した。

 

「出せない金額ではありません」

 

「本当ですか」

 

「はい。ただし、売上と使っていいお金は違います」

 

 その一言で、澪の背筋が少し伸びた。

 

 明石さんの声は、いつも現実側に錨を下ろしてくれる。異世界で金貨が動き、真壁が妙な鉱石を現代側に持ち込み、売上が何桁も増えても、税金と仕入れと翌年の運転資金は逃げてくれない。

 

「税金、仕入れ、来年の運転資金。ここは必ず残してください。あと、最初の年に出しすぎると、翌年以降の基準が崩れます」

 

「基準……」

 

「はい。毎年それが当然になると、下げる時に説明が苦しくなります」

 

 澪は手元の紙に、線を引いた。

 

 社長。

 相談役。

 

 その横に、月額給与80万円と書く。さらに12月賞与300万円。

 

「社長と相談役は、月額80万円に、12月賞与300万円。12月の支給はそれぞれ380万円で整理できます」

 

「2人で760万円……」

 

 口に出すと、やはり重い。

 

 明石さんは少しだけ声を和らげた。

 

「会社の利益、業務内容、今後の見込みから見て、説明できる範囲です。ただし、無限に出せるわけではありません」

 

「はい」

 

「それから、私の分ですが」

 

 澪は姿勢を正した。

 

「年末特別相談料として100万円までにしてください」

 

「えっ、でも、明石さんにはかなり無理をお願いしてますし」

 

「だから100万円です。それ以上は、私から止めます。説明しやすい線を越える必要はありません」

 

 澪はペン先を止めた。

 

 明石さんは、貰えるものを増やそうとはしない。むしろ、出してはいけない線を先に引く。

 

 それがありがたく、同時に少し怖い。こちらの世界の帳面は、善意や勢いだけでは済まないのだと、何度でも思い知らされる。

 

「では、合計は860万円ですね」

 

「はい。社長、相談役、私の年末分を合わせて860万円。これで処理しましょう」

 

「分かりました」

 

 澪は数字を囲んだ。

 

 860万円。

 

 金額だけを見れば大きい。けれど、それは押入商会が現代側で走り続けるための、会社としての支払いでもある。

 

 通話を終えた澪は、椅子の背に体を預けた。

 

 机の上には、賞与の数字が整然と並んでいる。明石さんの言葉も、帳面の端にきれいに残っている。

 

 その時、澪はふと気づいた。

 

 静かすぎる。

 

 いつもなら、真壁が横から何かを見ている。数字を見ているのか、別のものを見ているのか分からない顔で、気づけば話を別の方向へ曲げている。

 

 けれど、今は姿がない。

 

「……真壁さん?」

 

 返事はなかった。

 

 澪は嫌な予感を覚えた。

 

 真壁が静かな時は、だいたい何かを考えている。

 

 そして真壁が何かを考えている時、それはすでに帳面の外へ出ている。

 

 

 

 

 真壁は、押入の向こう側ではなく、現代側の部屋に立っていた。

 

 部屋の隅では、白い加湿空気清浄機が低い音を立てている。

 

 真壁は、その前で腕を組んでいた。

 

 ただ家電を見ているのではない。

 

 前話の山を思い返していた。

 

 クララが浄化した魔力だまり。

 

 灰色に濁っていた空気が、少しずつ薄れた。茸の山の腐ったような気配が消え、虫の魔物化の兆しが弱まった。あれは祈りとして見れば、たしかに聖職者の技だった。

 

 だが、現象として見れば違う。

 

 魔力だまりが削れた。

 

 淀みがほどけた。

 

 腐敗の傾きが止まった。

 

 真壁は目の前の白い箱を見つめた。

 

 浄化を術式化できたら、何ができる。

 

 魔力だまりを掃除できる。

 

 臭気を消せる。

 

 腐敗を抑えられる。

 

 消毒。

 

 そこで、真壁の思考が一度止まった。

 

 消毒できるなら、病の予防にも使える。

 

「予防……」

 

 声に出すと、言葉は細い糸のように伸びた。

 

 澪君が心配していたな。

 

 孤児院の冬。

 

 窓を開けにくい寝室。子どもたちの体温で重くなる空気。湿った寝具。乾いた喉。咳。発熱。熱冷ましの話。子どもに使える薬が限られること。病気になってから慌てるのではなく、病気になりにくい環境を作ること。

 

 それは、薬ではない。

 

 生活の側を変える話だ。

 

 真壁は加湿空気清浄機の前面に手を置いた。

 

 吸入口がある。

 

 フィルターがある。

 

 内部で空気を通す。

 

 上から清浄な風を戻す。

 

 給水口があり、水を保持し、水蒸気を含んだ風を室内へ送る。

 

 空気を動かし、処理し、戻す。

 

 部屋全体に術を撒く必要はない。箱の中へ空気を通せばよい。風魔法で流れを作り、浄化で淀みを削り、布と炭で埃や臭気を受ける。さらに水槽を持たせれば、冬に必要な湿気も足せる。

 

 真壁は静かに頷いた。

 

「とりあえず、ヴァルト君に相談してみるか」

 

 そう言ってから、少しだけ間を置いた。

 

「澪君の為だ」

 

 その言葉に、自分で異論はなかった。

 

 澪が心配していた。

 

 ならば、形にする理由はある。

 

 真壁は、同型に近い加湿空気清浄機を1台購入し、収納へ入れた。

 

 家電量販店の店員が聞けば、保証書の扱いを心配したかもしれない。

 

 だが、押入商会では収納に入るものは、だいたい資料になる。

 

 

 

 

 ヴァルト邸の作業机の上に、白い箱が置かれた。

 

 ヴァルトは、それを見てしばらく黙った。

 

 現代側の品物には、何度か触れている。けれど、これは武器でも食料でも工具でもない。白く、なめらかで、用途が一目では分からない。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「これは、何ですか」

 

「空気清浄機だ」

 

「空気を、清める機械ですか」

 

「そうだ」

 

 ヴァルトは白い箱を見つめ直した。

 

 驚きよりも先に、理解しようとする目になっている。元魔術院境界課の習性なのか、未知のものを見ると、まず境界と流れを探すらしい。

 

 真壁は前面を指した。

 

「ここから空気を吸う」

 

 次に上部を指す。

 

「ここから清浄な風を戻す」

 

 さらに蓋を開け、給水口を見せる。

 

「これは加湿機能付きだ。給水口があり、水を内部に保持し、水蒸気を含んだ清浄な風を室内へ送る」

 

 ヴァルトの目が変わった。

 

 珍しい道具を見る目ではない。

 

 仕組みを見る目だった。

 

「……部屋全体を清めるのではなく、箱の中を通した空気だけを処理する」

 

「そうだ」

 

「流路を限定するわけですね」

 

「そうだ」

 

 ヴァルトは白い箱の周囲をゆっくり歩いた。

 

「風魔法で吸気と排気を作る。布と炭で埃や臭気を受ける。浄化で淀みを削る。水を通せば、冬の乾燥も抑えられる」

 

「結構」

 

「ただし、浄化の性質を知らなければ危険です。部屋に置く道具なら、人が吸う空気に触れます」

 

「承知している」

 

 真壁は淡々と答えた。

 

「浄化を術式化できれば、魔力だまりを掃除できる。臭気を消せる。腐敗を抑えられる。消毒もできる可能性がある」

 

「消毒」

 

 ヴァルトが顔を上げた。

 

 真壁は頷く。

 

「病の予防だ」

 

 その言葉で、ヴァルトの表情が少し変わった。

 

「孤児院ですか」

 

「澪君が心配していた」

 

 ヴァルトは黙った。

 

 真壁がただ新しい魔道具を作りたがっているだけなら、軽くため息をつけばよい。だが、そこに孤児院の冬があるなら、話は変わる。

 

 あの子どもたちは、冬になると窓を開けにくい部屋で眠る。暖房は弱く、寝具は古く、咳をする子が出れば、同じ部屋の子にも移る。薬は限られ、子どもに使えるものはさらに少ない。

 

 病気になる前に、空気を変える。

 

 ヴァルトはもう一度、白い箱を見た。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「これは、作れます」

 

「結構だ」

 

「ですが、先ほど言った通り、浄化の性質を見なければなりません。聖職者の祈りとしてではなく、魔術式としての性質です」

 

「そのために来た」

 

 真壁は、少しもためらわずに言った。

 

「ヴァルト君。私が浄化を繰り返す。鑑定しながら観察してみてくれ」

 

 ヴァルトは一瞬だけ、白い箱と真壁を見比べた。

 

「はい、真壁さん」

 

 答えた時点で、彼はもう巻き込まれていた。

 

 

 

 

 最初は玄関だった。

 

 外から入り込む冷えた空気、靴に残った土の匂い、湿気、細かな埃。ヴァルトは鑑定を重ね、空気の層を見るように目を細めた。

 

 真壁が指先に淡い光を宿す。

 

 浄化。

 

 光は明るく照らすほどではない。ただ、そこにある淀みへ触れ、ほどくように消えていった。

 

「埃は消えませんね」

 

「そうだな」

 

「臭気と淀みだけが薄くなっています。空気そのものを削っているのではありません」

 

「結構」

 

 ヴァルトは紙に書きつけた。

 

 次は便所だった。

 

 ヴァルトは戸口で少しだけ止まった。

 

「ここもですか」

 

「重要だ」

 

「……反応が濃い場所の方が、差は見えます」

 

「結構」

 

「結構、なのでしょうか」

 

「結構だ」

 

 便所の空気は、玄関より分かりやすかった。臭気、湿り、こもり、排水の気配。真壁が浄化をかけると、鼻につく部分だけが先に薄くなる。石や木材そのものの匂いは残る。必要なものまで消しているわけではない。

 

 ヴァルトは眉間に皺を寄せながら、それでも目を逸らさなかった。

 

「臭いを消しているというより、臭いを作る淀みを崩しています」

 

「使えるか」

 

「使えます。ただし、強さを誤ると、空気が不自然になります」

 

「弱く、長く、一定に」

 

「はい」

 

 次は風呂場だった。

 

 湿気が壁に残り、排水口の奥に冷たい匂いが沈んでいる。黴の気配もあった。

 

 真壁が浄化をかける。

 

 湿気そのものは消えない。

 

 だが、重く傷んだような匂いが薄れる。

 

 ヴァルトはそこで少し首を傾げた。

 

「湿気を消しているわけではありません」

 

「湿気……」

 

 真壁が止まった。

 

 ヴァルトが顔を上げる。

 

「真壁さん?」

 

「そうだ。湿気は冬場必要だな、ヴァルト君」

 

 ヴァルトは、少し嫌な予感がした顔になった。

 

「今、空気清浄の話をしていました」

 

「空気の管理だ」

 

「範囲が広がりましたね」

 

「冬に乾きすぎれば喉を傷める」

 

「……それは、そうです」

 

「水槽が要る」

 

「空気清浄機から、加湿空気清浄機になりました」

 

「冬仕様だ」

 

 ヴァルトは諦めたように紙へ書き足した。

 

 水槽。

 弱浄化。

 湿度調整。

 

 最後は地下室だった。

 

 空気が動きにくく、古い木箱と土の匂いが沈んでいる。魔力だまりというほどではないが、停滞した薄い淀みが隅に残っていた。

 

 真壁は何度か浄化を繰り返した。

 

 ヴァルトは鑑定と魔術式解析を重ねる。

 

 紆余曲折はあった。

 

 臭気と埃の違い。湿気と腐敗の違い。魔力の淀みと、ただの古い空気の違い。浄化が何を消し、何を残すのか。ヴァルトはひとつずつ切り分け、紙の上に線を引いていった。

 

 やがて、彼の手が止まった。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「これ、光魔法の一種みたいです」

 

 真壁は黙って続きを待った。

 

「聖職者の祈りとしては浄化です。ですが、魔術式として見ると、光魔法に近いです」

 

「照明か」

 

「違います。照らす光ではありません。腐敗、淀み、細菌やウイルスのような微細なもの、魔力の濁りに反応して構造を崩す光です」

 

「紫外線か」

 

「現代側の言葉に近づけるなら、殺菌灯に近い作用かもしれません。ただし、紫外線そのものではありません。人体を焼くような光でもありません」

 

「選択性がある」

 

「あります。有害な淀み、腐敗、病の種に反応しています。生きた人間や、必要なものへ無差別に刺さるものではなさそうです」

 

 真壁は短く頷いた。

 

「結構」

 

 ヴァルトは、まだ紙を見ていた。

 

 その指先に、薄い光が宿る。

 

 本人が気づくより先に、真壁が見た。

 

「どうかね」

 

 ヴァルトは自分の指を見る。

 

 淡い、淡い光だった。クララの祈りの光とは違う。もっと細く、魔術式の端に引っかかったような、芽のような光。

 

「芽生えました」

 

 真壁は頷いた。

 

「結構」

 

「結構、なのですか」

 

「結構だ」

 

 ヴァルトはしばらく自分の指先を見つめていた。

 

 空気清浄機の相談を受けたはずだった。

 

 気づけば、自分のスキル欄に新しい芽が出ている。

 

----------------------------------

ヴァルト

追加スキル:浄化:芽あり

----------------------------------

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「私は、空気を清める箱の相談を受けていたはずです」

 

「前処理だ」

 

「技能取得が前処理」

 

「結構だ」

 

 ヴァルトは返す言葉を探したが、見つからなかった。

 

 押入商会では、必要という言葉が強い。

 

 強すぎる。

 

 

 

 

 採石場秘密基地の作業台には、場違いなほど白い加湿空気清浄機が置かれていた。

 

 その横には、木材、布、炭、魔石、金具、水を入れるための陶器、細い格子、紙の束が並んでいる。

 

 澪は、賞与の帳面を抱えたまま、作業台の前で固まった。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「ボーナスの話をしていたはずですよね」

 

「していた」

 

「なぜ秘密基地で空気清浄機が魔道具化されかけているんですか」

 

「分解はしていない」

 

「そこではありません」

 

 ヴァルトが、少し申し訳なさそうに紙を押さえた。

 

「澪さん。まだ魔道具化されかけている段階です」

 

「そこも安心材料ではないです」

 

 澪は作業台を見る。

 

 白い空気清浄機。

 

 その隣に、ヴァルトの描いた断面図。

 

 吸入口。

 風の小陣。

 布と炭の層。

 浄化光陣。

 水槽。

 水槽側の弱浄化。

 湿度調整。

 排出口。

 魔石。

 転倒防止。

 子どもが触れない格子。

 

 完全に何かを作る図だった。

 

「浄化を術式化できれば、魔力だまりを掃除できる」

 

 真壁が言った。

 

「臭気を消せる。腐敗を抑えられる。消毒できる。病の予防にも使える」

 

 澪は、その言葉で口を閉じた。

 

「予防……」

 

「澪君が心配していた。孤児院の冬だ」

 

 そこを出されると、澪は弱い。

 

 孤児院の冬。

 

 年少の子どもたちの寝室。薄い布団。窓を開けると寒く、閉めると空気がこもる部屋。咳をする子が出れば、隣の子もまた咳をする。熱冷ましの薬も、子どもに使うには考えなければならない。

 

 病気になってからでは遅い。

 

 それは、澪がずっと気にしていたことだった。

 

「……そう言われると、反対しづらいです」

 

「反対する理由がない」

 

「あります。真壁さんがまた大きな話を始める理由になります」

 

「必要な話だ」

 

 ヴァルトは断面図を指した。

 

「風魔法で空気を吸い、浄化の陣を通して戻す。仕組みとしては、これで動きます」

 

「結構」

 

「ただし、浄化を強くしすぎると、部屋の空気が不自然になります」

 

「弱く、長く、一定に」

 

「はい。聖職者が一気に清めるのではなく、空気を少しずつ通す魔道具です」

 

 澪は図面を覗き込んだ。

 

「本当に空気清浄機ですね」

 

「冬仕様だ」

 

「加湿空気清浄機ですね」

 

「浄化加湿循環器だ」

 

「名前が業務用です」

 

 真壁は気にしていない。

 

 ヴァルトも、すでに名称より構造を見ている。

 

「水槽部の浄化と、空気流路の浄化は分けた方がよいです」

 

「理由は」

 

「水を清めすぎると不自然になります。弱すぎると腐ります。空気側は臭気と淀みを削る。水側は腐敗を抑える。作用を分けるべきです」

 

「結構」

 

「風の小陣も強すぎてはいけません。子どもの寝室で風が強ければ体が冷えます」

 

「弱く、安定」

 

「はい。魔石の消費量も記録します」

 

 澪は帳面を開いた。

 

 開いてしまった。

 

 自分で分かっていて、ペンを持っていた。

 

「記録項目が増えるやつですね」

 

「健康な生活には記録が必要だ」

 

「記録という言葉が出ると、また帳面が増えます」

 

 ヴァルトが少し真面目な顔で頷いた。

 

「使用者向けの簡単な記録表は必要です」

 

「ヴァルトさんまで」

 

「必要です。咳、発熱、喉の痛み、寝つき、部屋の臭気、湿気、寝具の乾き具合、換気回数、水槽の汚れ、布と炭の交換頻度、魔石消費量」

 

 澪はそのまま書いた。

 

 書きながら、負けた気がした。

 

 真壁は作業台の白い箱を指で軽く叩いた。

 

「風魔法と浄化を組み合わせて作った空気清浄機を、孤児院の各部屋に置いて、今年の冬のデータを取ってみないかね」

 

「言い方が完全に実証実験です」

 

「実証実験です」

 

「孤児院ですよ」

 

「だから弱く、安全に作る」

 

 真壁は当然のように言った。

 

 澪は反論しかけて、また止まった。

 

 弱く、安全に。

 

 そして、病気になる前に。

 

 それは確かに、孤児院に必要な発想だった。

 

「置くとしたら、どこですか」

 

 澪が聞くと、真壁は迷わなかった。

 

「乳児室、年少組寝室、年長組寝室、食堂」

 

「4台ですか」

 

「最初はな」

 

「最初は」

 

「比較が必要だ」

 

「本当に実証実験ですね」

 

 ヴァルトが図面の隅に、使用場所を書き込んでいく。

 

 乳児室。

 年少組寝室。

 年長組寝室。

 食堂。

 

 その横に、出力差、風量、湿度、魔石容量。

 

 澪はペンを持ったまま、白い箱を見た。

 

 現代側では、ただの家電だった。

 

 家電量販店に並んでいる、冬場によく売れる白い箱。

 

 それが異世界側では、孤児院の子どもたちの咳を減らすかもしれない魔道具になる。

 

 真壁の発想は飛ぶ。

 

 けれど、飛んだ先にいるのは、いつも誰かの生活だった。

 

 

 

 

 孤児院へ持ち込む話になった時、シスターサリアは図面をしばらく見ていた。

 

 便利そうですね、とは言わなかった。

 

 まず、危ないところを探していた。

 

「子どもが指を入れられない形にしてください」

 

「結構」

 

「倒れないこと」

 

「固定します」

 

「熱くならないこと」

 

「出力を絞る」

 

「音が大きくないこと。夜に光りすぎないこと。水をこぼされても危なくないこと。掃除しやすいこと」

 

 ヴァルトが真剣に頷いた。

 

「全部、必要です」

 

 澪は少しだけほっとした。

 

 サリアがいると、話が現場に戻る。

 

 神聖でも、便利でも、子ども部屋に置くものは子ども部屋の基準で見られる。

 

「冬に喉を傷める子は多いです」

 

 サリアは図面から顔を上げた。

 

「窓を開けると寒い。閉めると空気がこもる。夜に咳が続く子がいると、同じ部屋の子も眠れません。空気が軽くなって、乾きすぎないなら助かります」

 

 司祭様も静かに頷いた。

 

「咳や熱が減るなら、試す価値はありますな。ただし、子どもたちの負担にならぬように」

 

「当然です」

 

 真壁は短く答えた。

 

 サリアは、そこで少しだけ目を細めた。

 

「記録は誰がつけるのですか」

 

 澪とヴァルトが同時に真壁を見た。

 

 真壁は澪を見た。

 

 澪は首を振った。

 

「私は大学があります」

 

「簡単な表にする」

 

「そういう問題では」

 

 サリアが息をついた。

 

「毎晩の咳、発熱、喉の痛み、寝つき、部屋の匂い、水の減り方。これくらいなら、こちらで見られます」

 

「ありがとうございます」

 

 澪は頭を下げた。

 

 サリアは淡々と答える。

 

「子どものためです。ただし、増やしすぎないでください」

 

 真壁は頷いた。

 

「結構」

 

 澪は横から小さく言った。

 

「真壁さんの『結構』、最近とても危ないです」

 

「何がかね」

 

「その後、だいたい何かが増えます」

 

「必要なら増える」

 

「必要なら、で済ませないでください」

 

 ヴァルトは視線を少し逸らした。

 

 自分の指先には、まだ薄い浄化の芽が残っている。

 

 

 

 

 その夜、澪は現代側の机で帳面を閉じる前に、もう一度中身を見た。

 

 最初のページには、明石さんと相談した数字が並んでいる。

 

 社長、12月支給380万円。

 相談役、12月支給380万円。

 明石さん、年末特別相談料100万円。

 合計860万円。

 

 そこまではよかった。

 

 そこまでは、年末らしい会社の話だった。

 

 だが、その横には別の項目が増えている。

 

 浄化。

 空気清浄機。

 風魔法。

 湿気。

 消毒。

 風邪予防。

 孤児院。

 冬季データ。

 浄化加湿循環器。

 

 澪はペンを置いた。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「ボーナスの帳面だったはずですよね」

 

「はい」

 

「なぜ孤児院の風邪予防と空気清浄機が並んでいるんですか」

 

「澪君の為だ」

 

「私のせいにしないでください」

 

「君が心配していた」

 

 澪はそこで言葉に詰まった。

 

 確かに、心配していた。

 

 孤児院の冬を。

 

 子どもたちの熱を。

 

 薬だけではどうにもならない生活の部分を。

 

 真壁は、それを忘れていなかった。

 

 忘れていなかった上で、空気清浄機を買い、ヴァルトに浄化を芽生えさせ、秘密基地で魔道具化し、孤児院で冬季データを取るところまで進めていた。

 

 進みすぎている。

 

 だが、向いている先は間違っていない。

 

「……健康な生活を皆送れるんだぞ、澪君、でしたっけ」

 

「そうだ」

 

「その言い方はずるいです」

 

「事実だ」

 

 真壁は帳面の端に、短く一行を書いた。

 

 効果確認後、作り方を売る。

 

 澪はその文字を見て、嫌な予感を覚えた。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「今、また大きくなりましたよね」

 

「健康な生活は、広げなければ意味がない」

 

「次の話になりそうなことを、さらっと書かないでください」

 

「次にする」

 

 澪は額に手を当てた。

 

 12月。

 

 押入商会は、年末賞与を決めるはずだった。

 

 だが気づけば、孤児院の冬の空気まで、帳面の中へ入り込んでいた。

 

 清浄な風と、ほどよい湿気。

 

 それは、ただの魔道具ではない。

 

 子どもたちが寒い季節を少しでも健やかに越すための、白い箱から始まった、新しい生活の種だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。