浄化加湿循環器の1号機は、白くなかった。
現代側の加湿空気清浄機は、つるりとした白い箱だった。角は丸く、前面は平らで、上から風が出る。どこに置いても家電量販店の匂いがする。
だが、秘密基地の作業台に並んだ試作機は、どう見ても異世界側の箱だった。
外側は木。
角には金具。
吸入口には細かな格子。
背面には魔石を入れる小さな扉。
内側には布と炭を重ねた層があり、その奥にヴァルトが刻んだ風の小陣と、薄い光を帯びた浄化陣がある。下部には陶器の水槽が収まり、水槽の近くにも弱い浄化の印が刻まれていた。
澪はそれを見て、少し困った顔をした。
「真壁さん」
「はい」
「空気清浄機というより、神棚と小型家具の間みたいです」
「試作だ」
「試作で済ませる顔じゃないです」
真壁は試作機の上面を指で軽く叩いた。
木箱の中で、風の小陣がゆっくりと動く。吸入口に近づけた薄い布が、ふわりと内側へ引かれた。
ヴァルトが慎重に魔石の位置を調整する。
「風量はかなり弱くしています。子どもの寝室で使う前提なら、強い風は避けるべきです」
「結構」
「浄化陣も弱めです。部屋全体を一気に清めるのではなく、箱の中を通る空気だけを少しずつ処理します」
「結構だ」
ヴァルトは頷いたが、その顔には少し緊張があった。
自分に芽生えたばかりの浄化を、魔術式として紙へ落とし、木箱の中へ刻む。理屈ではできる。だが、子どもの部屋に置くとなると、ただ動けばよいものではない。
澪は、その緊張を感じた。
だから、からかうのを少しだけやめた。
「ヴァルトさん、大丈夫そうですか」
「大丈夫と言えるまで試します」
答えは真面目だった。
「風は弱く。浄化も弱く。水槽側はさらに弱く。子どもが触る場所には陣を出さない。魔石は奥に固定。倒れても水が外へ流れにくいようにする」
「完全に現場仕様ですね」
「シスターサリアさんの条件が、かなり具体的でしたから」
ヴァルトの視線の先には、サリアが書かせた確認項目がある。
子どもが指を入れられないこと。
倒れないこと。
熱くならないこと。
音が大きくないこと。
夜に光りすぎないこと。
水をこぼしても危なくないこと。
掃除しやすいこと。
澪はその文字を見て、小さく息を吐いた。
神聖な浄化も、魔術式も、生活の場に置くなら、最後はそこへ戻る。
子どもが指を入れないか。
倒さないか。
夜に怖がらないか。
そこを見ない便利は、便利ではない。
真壁は試作機を4台、収納へ入れた。
「行くか」
「もうですか」
「試験は現場で始まる」
「言い方が本当に実証実験です」
「実証実験だ」
澪は反論しようとして、やめた。
この場合、真壁は間違っていない。
問題は、だいたい間違っていない時ほど、話が大きくなることだった。
孤児院の食堂に、最初の1台が置かれた。
子どもたちは、遠巻きにそれを見ていた。
木箱である。
だが、ただの木箱ではない。前面に格子があり、上に小さな排出口があり、横には水を入れる蓋がある。背面には魔石の扉があり、底には転倒防止の脚が付いている。
ミナが最初に近づきかけ、サリアに首根っこをつかまれた。
「まだ触ってはいけません」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、も駄目です」
ミナは口を尖らせたが、サリアの手から逃げなかった。
クララは、食堂の隅で記録用の板を抱えて立っていた。
澪が近づくと、少し緊張した顔で頭を下げる。
「澪さん。記録表、これでよろしいでしょうか」
板には、日付と部屋名、咳、発熱、喉の痛み、寝つき、部屋の匂い、水の減り、布と炭の汚れ、魔石の減りが並んでいた。
字は丁寧だった。
丁寧すぎて、少し固い。
サリアが横から見て言った。
「きれいな字より、昨日と違うところを書いてください」
クララは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく頷いた。
「はい。昨日と違うところですね」
「子どもは数字どおりにはなりません。咳の音、顔色、眠れたかどうか。見たことを書けばいいのです」
「はい」
クララは板を抱え直した。
その表情から、少しだけ力が抜ける。
澪は、それを見てほっとした。
クララはもう、ただ庇われるだけの子ではない。子どもたちを見る側へ回ろうとしている。
司祭様は試作機を見下ろし、白い眉をわずかに動かした。
「これが、空気を清め、湿り気も運ぶ箱ですかな」
「はい」
ヴァルトが答える。
「風魔法で空気を箱の中へ通し、布と炭で埃と臭気を受けます。その奥で弱い浄化をかけ、水槽の近くも腐りにくいように弱く清めます」
「術は強くないのですな」
「強くしません。強すぎる浄化は、部屋に置く道具には向きません」
司祭様はゆっくり頷いた。
「弱く、長く、ですか」
「はい」
真壁が補った。
「病気になってから強く治すのではなく、病気になりにくい空気にする」
サリアがその言葉に反応した。
「それができるなら、助かります」
声には実感があった。
「冬は窓を開けると寒い。閉めると空気がこもります。夜に咳が続く子がいると、同じ部屋の子も眠れません」
澪は、サリアの横顔を見た。
この人は、冬の夜の咳を知っている。
布団の中で丸くなる子どもを知っている。
水を飲ませ、背中をさすり、熱が上がらないよう祈る夜を知っている。
だから、真壁の言う実証実験という言葉も、サリアの中では別の重さを持つのだろう。
置く部屋は、最初から全室ではなかった。
乳児室。
年少組寝室。
食堂。
そして、比較のために年長組寝室の一部には置かない。
澪はそこだけ少し引っかかった。
「比較のため、ですか」
「必要だ」
真壁は短く答えた。
ヴァルトがすぐ補足する。
「ただし、具合の悪い子を比較のために置かない部屋へ残すことはしません。体調が悪い子は、清浄機のある部屋へ移してよい条件にします」
サリアも即座に頷いた。
「当然です。苦しい子を戻す必要はありません」
その言葉で、澪の胸の中の硬いものが少し解けた。
実験ではある。
けれど、子どもを実験のために苦しませる話ではない。
「そこは絶対ですね」
「当然だ」
真壁は同じ言葉を返した。
食堂の試作機に、ヴァルトが魔石を入れた。
木箱の中で、低く、小さな音がした。
風が動き始める。
格子の前にいた子どもの髪が、ほんの少し揺れた。
「うごいた」
誰かが言った。
上の排出口から、柔らかな風が出る。
強くない。
冷たくもない。
水蒸気を含んだ、少しだけ湿った風だった。
サリアが手をかざす。
「熱くはありませんね」
「はい。温める道具ではありません」
ヴァルトが答える。
「湿り気を少し足すだけです」
クララも手を近づけた。
その目が、ほんの少し和らぐ。
「……空気が、軽いです」
澪はその言葉を聞いて、試作機を見た。
まだ1日目。
まだ何も分からない。
けれど、何かが始まった感じはあった。
最初に違いを言ったのは、子どもではなかった。
サリアだった。
翌朝、年少組寝室の扉を開けた時、彼女は少しだけ足を止めた。
「この部屋、朝の空気が違います」
クララは記録板を抱えたまま、サリアの横から室内を覗いた。
寝起きの子どもたちが、布団の中で目をこすっている。まだ眠そうで、髪も乱れている。いつもの朝と大きく違うわけではない。
けれど、部屋の匂いが軽かった。
冬の寝室にこもる、体温と寝具と湿りの混ざった匂いが、薄い。
クララは板に書いた。
朝、匂い軽い。
それから、少し考えて、サリアに言われたことを思い出し、もう1行足す。
咳で起きた子、少ない。
その日の昼、食堂の試作機の布を見たヴァルトは、炭の層の手前で止まった細かな汚れを確認した。
「受けていますね」
澪が覗く。
「何をですか」
「空気の中にあったものです。埃、臭気のもと、湿った淀み。布と炭で受けて、奥で浄化が削っています」
「それ、かなりすごいですよね」
「すごいから記録する」
真壁が横から言った。
澪は振り向く。
「そこは真壁さんが言うんですね」
「必要だ」
「必要で済ませるの、便利ですね」
「便利だ」
「認めましたね」
真壁は否定しなかった。
数日が過ぎた。
清浄機を置いた部屋では、朝の匂いが軽い日が続いた。夜中に咳で起きる子は、いなくなったわけではない。ただ、続けて咳き込んで泣く子が減った。
水槽の水は少しずつ減った。
布は汚れた。
炭の層には、澪にはよく分からないが、ヴァルトが見ると分かる程度の変化があった。
魔石の減りは、想定より少ない。
弱く、長く、一定に。
ヴァルトの調整は、効いていた。
一方で、清浄機を置いていない部屋では、いつもの冬が来ていた。
朝の空気は重い。
喉が痛いと言う子がいる。
夜に咳をして、隣の子が起きる。
窓を開ければ寒い。
閉めればこもる。
それは誰かの怠慢ではない。
ただ、冬がそういうものだった。
クララは、その違いを毎日書いた。
最初は字を整えることに気を取られていたが、日が経つにつれて、見る場所が変わっていった。
咳の回数だけではない。
咳の深さ。
顔色。
朝に起き上がる速さ。
水を飲めているか。
食事に手が伸びるか。
夜、布団に入ってから目を閉じるまでの時間。
子どもの具合は、数字だけではなかった。
でも、記録しようとすると、昨日と今日の違いが見える。
「クララ姉ちゃん」
ある夕方、年少の男の子がクララの袖をつかんだ。
「今日は、箱のある部屋で寝てもいい?」
クララは一瞬、返事に詰まった。
その子は、昼から軽い咳をしていた。熱は高くない。だが、目の下が少し赤い。
「どうしてですか」
「こっちの部屋、息が楽」
別の子も言った。
「変な匂いしない」
「喉、痛くならない」
「箱のある部屋がいい」
クララは記録板を抱え直した。
比較のために、部屋は分けている。
真壁は、置いた部屋と置いていない部屋の違いを見ると言っていた。
けれど。
クララはサリアを見た。
サリアは迷わなかった。
「具合の悪い子は、清浄機のある部屋へ移します」
「でも、記録が……」
「記録のために苦しい部屋へ戻す必要はありません」
サリアの声は静かだった。
クララの肩から、少し力が抜けた。
「はい」
男の子はほっとした顔で、クララの袖を離した。
その夜、クララは清浄機のある部屋で子どもたちを見た。
水槽の水を確認し、布を確認し、子どもたちの額に手を当てる。軽く咳をする子には水を飲ませ、背中をさする。眠れずに目を開けている子には、小さく微光を灯した。
強い光ではない。
怖くない程度の、眠りの邪魔にならない光。
子どもが目を細める。
「クララ姉ちゃん、それ、きれい」
「少しだけですよ。眠る時間です」
「うん」
子どもが布団に潜る。
清浄機の木箱から、弱い風が出ていた。
部屋の空気は、いつもより軽い。
乾きすぎてもいない。
クララは記録板に書いた。
咳、少し。
水を飲む。
移動後、眠れた。
書いてから、自分の字を見つめた。
以前の自分なら、何を書けばよいか分からなかった。
苦しそうな子を前に、ただ不安になっていたと思う。貴族の家で学んだ礼法も、きれいな文字も、夜の咳には何もしてくれない。
けれど今は、見ることがある。
触れることがある。
記録することがある。
祈るだけではなく、動くことがある。
クララは、子どもの背をもう一度そっと撫でた。
「大丈夫です。朝まで、ここにいます」
小さな寝息が返ってきた。
1週間が過ぎる頃には、差はさらに分かりやすくなっていた。
完全に風邪がなくなったわけではない。
鼻水の子はいる。
咳をする子もいる。
熱を出す子もいる。
冬は冬だった。
だが、重くならない。
高い熱まで上がる子が少ない。
寝込む日数が短い。
同じ部屋で次々に広がる勢いが弱い。
夜に眠れるため、朝に起きられる子が増えた。
喉を痛めて食事が落ちる子も減った。
司祭様は、クララとサリアの記録を見ながら、長く息を吐いた。
「重くならぬ子が増えましたな」
サリアは頷いた。
「夜に眠れるのが大きいです。咳き込んでも、続かずに眠れる子が増えました」
クララも、記録板を両手で持ったまま言う。
「朝に起きられる子が増えました。食事も、少し残すくらいで済んでいます」
澪は、その言葉を聞いて、やっと肩の力が抜けた。
薬ではない。
奇跡でもない。
箱だ。
木でできていて、布と炭が入り、魔石で風を動かし、弱い浄化で空気を整える箱。
それだけで、子どもたちの冬が少し変わる。
真壁は記録を見ていた。
表情はいつも通りだったが、澪には少しだけ満足しているように見えた。
「効果、出てますね」
「出た」
「嬉しそうですね」
「当然だ」
澪は少し笑った。
真壁が当然だと言う時は、本当に当然だと思っている。
その当然の中に、孤児院の子どもがよく眠れたことが入っているなら、それは悪くない。
ヴァルトは試作機の布を外し、汚れ具合を確認していた。
「交換周期は、部屋によって違います。食堂は早い。寝室は水の減り方が重要です」
「乳児室は」
「風量をさらに弱くした方がよいです。湿り気は必要ですが、風を感じさせすぎない方がいい」
「結構」
「年長組寝室は、人数が多いので吸入口を広げるか、2台置くかです」
「2台だな」
澪がすぐ口を挟んだ。
「真壁さん、台数が増えました」
「必要だ」
「必要なら増える、ですね」
「そうだ」
その時、年少の女の子がクララの手を引いた。
「クララ姉ちゃん、今日は箱の部屋?」
「今日は、こちらですよ」
「やった」
その声に、澪は少しだけ黙った。
子どもは正直だ。
数字より先に、楽な場所へ行く。
苦しい部屋には戻りたがらない。
それだけで、もう結果は出ていた。
澪は記録表を見直した。
清浄機あり。
清浄機なし。
最初は比較のために分けていた。
けれど、咳のある子、喉が痛い子、眠れない子が清浄機のある部屋へ集まるようになり、部屋割りは崩れ始めている。
澪は真壁を見た。
「真壁さん」
「はい」
「実験としては、比較条件が崩れてます」
「生活としては正しい」
澪は黙った。
その通りだった。
子どもが楽な部屋へ行く。
それを止めない。
それでいい。
比較実験としては甘くなる。けれど、生活改善としては正しい。
クララが記録板を抱えたまま、少し不安そうに澪を見た。
「記録、だめになってしまいましたか」
「いいえ」
澪はすぐに答えた。
「これはこれで、大事な記録です。子どもたちが自分から清浄機のある部屋を選んだ、ってことですから」
クララはほっとしたように頷いた。
サリアも静かに言う。
「体が楽な場所は、子どもが一番早く分かります」
司祭様は目を細めた。
「ならば、この箱は、単なる道具ではありませんな」
真壁が答えた。
「冬の守りです」
その言葉は、飾り気がなかった。
だが、孤児院の食堂に置かれた木箱には、その言葉が合っていた。
清浄な風と、ほどよい湿気。
弱い浄化。
それは派手な奇跡ではない。
毎晩の咳を少し減らし、朝の喉を少し楽にし、熱が重くなる前に子どもを休ませるための、生活の守りだった。
その夜、澪は秘密基地の作業台で記録を整理していた。
賞与の帳面とは別に、孤児院冬季記録という紙束ができている。
できてしまった。
澪は自分で見出しを書いた紙を見て、少し遠い目をした。
「また帳面が増えました」
「必要だ」
真壁は当然のように答える。
ヴァルトは横で、試作機の改良項目を書き出していた。
乳児室用。
年少組寝室用。
食堂用。
大部屋用。
風量、浄化出力、水槽容量、布と炭の交換周期、魔石の消費量。
クララの記録から、部屋ごとの差も見えている。
澪は紙をめくった。
「咳のある子が清浄機のある部屋へ移動。移動後、眠れた」
そこに小さな字で、クララの追記がある。
朝、起きられた。
澪はその一文で、しばらく手を止めた。
たったそれだけの記録が、妙に重い。
朝、起きられた。
それは、薬の名前よりも、魔道具の構造よりも、澪の胸に残った。
「真壁さん」
「何かね」
「これ、孤児院はかなり助かります」
「孤児院だけでは足りない」
澪は顔を上げた。
嫌な予感がした。
いや、もう分かっていた。
真壁がここで止まるはずがない。
「診療所、教会、兵舎、宿屋。冬に人が集まる場所は多い」
「これ、孤児院だけで終わる話じゃなくなってきましたね」
「終わらない」
「言い切りましたね」
「必要なのは、台数だ」
澪は額に手を当てた。
「また大きくなりました」
「健康な生活は、広げなければ意味がない」
真壁は、孤児院の記録の横に短く書いた。
効果確認済み。
次、製造手順。
作り方を売る。
澪はその文字を見て、しばらく黙った。
浄化加湿循環器は、孤児院の冬に変化を出した。
子どもたちが、自分の足で清浄な部屋を選ぶほどに。
ならば、次に来るのは、作り続ける話ではない。
作れるようにする話だ。
「真壁さん」
「はい」
「次は、かなり大きな話になりますね」
「そうだ」
「止まりませんね」
「止める理由がない」
ヴァルトが、静かに息を吐いた。
「真壁さん。製造するなら、手順を揃える必要があります。風の小陣、浄化陣、水槽、交換布、炭、魔石。部屋ごとの調整も要ります」
「結構」
「技能者向けのマニュアルも必要です」
「作り給え」
ヴァルトは筆を止めた。
「私がですか」
「君が一番よく分かっている」
「……やはり私ですね」
澪は横から言った。
「ヴァルトさん、楽になりたいなら弟子を取る流れですね」
真壁がすぐ頷いた。
「ヴァルト君。楽になりたいなら、スタッ……弟子を取り給え」
「今、別の言葉を言いかけませんでしたか」
「言い換えた」
「言い換える前の言葉が気になります」
「人員だ」
「弟子を人員扱いしないでください」
「育てれば戦力になる」
「戦力と言いましたね」
澪は笑いそうになり、少しだけ堪えた。
孤児院の記録の上で、また次の仕事が生まれている。
けれど、その仕事は、子どもたちの朝につながっていた。
朝、起きられた。
その一文がある限り、澪は強く止められない。
冬の孤児院で、子どもたちは清浄な部屋を選んだ。
比較のための線は崩れた。
だが、生活のための線は、はっきり見えた。
押入商会の帳面には、また新しい欄が増えていた。
作り方を、どう広げるか。