押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第197話 清浄な部屋

 

 浄化加湿循環器の1号機は、白くなかった。

 

 現代側の加湿空気清浄機は、つるりとした白い箱だった。角は丸く、前面は平らで、上から風が出る。どこに置いても家電量販店の匂いがする。

 

 だが、秘密基地の作業台に並んだ試作機は、どう見ても異世界側の箱だった。

 

 外側は木。

 

 角には金具。

 

 吸入口には細かな格子。

 

 背面には魔石を入れる小さな扉。

 

 内側には布と炭を重ねた層があり、その奥にヴァルトが刻んだ風の小陣と、薄い光を帯びた浄化陣がある。下部には陶器の水槽が収まり、水槽の近くにも弱い浄化の印が刻まれていた。

 

 澪はそれを見て、少し困った顔をした。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「空気清浄機というより、神棚と小型家具の間みたいです」

 

「試作だ」

 

「試作で済ませる顔じゃないです」

 

 真壁は試作機の上面を指で軽く叩いた。

 

 木箱の中で、風の小陣がゆっくりと動く。吸入口に近づけた薄い布が、ふわりと内側へ引かれた。

 

 ヴァルトが慎重に魔石の位置を調整する。

 

「風量はかなり弱くしています。子どもの寝室で使う前提なら、強い風は避けるべきです」

 

「結構」

 

「浄化陣も弱めです。部屋全体を一気に清めるのではなく、箱の中を通る空気だけを少しずつ処理します」

 

「結構だ」

 

 ヴァルトは頷いたが、その顔には少し緊張があった。

 

 自分に芽生えたばかりの浄化を、魔術式として紙へ落とし、木箱の中へ刻む。理屈ではできる。だが、子どもの部屋に置くとなると、ただ動けばよいものではない。

 

 澪は、その緊張を感じた。

 

 だから、からかうのを少しだけやめた。

 

「ヴァルトさん、大丈夫そうですか」

 

「大丈夫と言えるまで試します」

 

 答えは真面目だった。

 

「風は弱く。浄化も弱く。水槽側はさらに弱く。子どもが触る場所には陣を出さない。魔石は奥に固定。倒れても水が外へ流れにくいようにする」

 

「完全に現場仕様ですね」

 

「シスターサリアさんの条件が、かなり具体的でしたから」

 

 ヴァルトの視線の先には、サリアが書かせた確認項目がある。

 

 子どもが指を入れられないこと。

 

 倒れないこと。

 

 熱くならないこと。

 

 音が大きくないこと。

 

 夜に光りすぎないこと。

 

 水をこぼしても危なくないこと。

 

 掃除しやすいこと。

 

 澪はその文字を見て、小さく息を吐いた。

 

 神聖な浄化も、魔術式も、生活の場に置くなら、最後はそこへ戻る。

 

 子どもが指を入れないか。

 

 倒さないか。

 

 夜に怖がらないか。

 

 そこを見ない便利は、便利ではない。

 

 真壁は試作機を4台、収納へ入れた。

 

「行くか」

 

「もうですか」

 

「試験は現場で始まる」

 

「言い方が本当に実証実験です」

 

「実証実験だ」

 

 澪は反論しようとして、やめた。

 

 この場合、真壁は間違っていない。

 

 問題は、だいたい間違っていない時ほど、話が大きくなることだった。

 

 

 

 

 孤児院の食堂に、最初の1台が置かれた。

 

 子どもたちは、遠巻きにそれを見ていた。

 

 木箱である。

 

 だが、ただの木箱ではない。前面に格子があり、上に小さな排出口があり、横には水を入れる蓋がある。背面には魔石の扉があり、底には転倒防止の脚が付いている。

 

 ミナが最初に近づきかけ、サリアに首根っこをつかまれた。

 

「まだ触ってはいけません」

 

「ちょっとだけ」

 

「ちょっとだけ、も駄目です」

 

 ミナは口を尖らせたが、サリアの手から逃げなかった。

 

 クララは、食堂の隅で記録用の板を抱えて立っていた。

 

 澪が近づくと、少し緊張した顔で頭を下げる。

 

「澪さん。記録表、これでよろしいでしょうか」

 

 板には、日付と部屋名、咳、発熱、喉の痛み、寝つき、部屋の匂い、水の減り、布と炭の汚れ、魔石の減りが並んでいた。

 

 字は丁寧だった。

 

 丁寧すぎて、少し固い。

 

 サリアが横から見て言った。

 

「きれいな字より、昨日と違うところを書いてください」

 

 クララは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく頷いた。

 

「はい。昨日と違うところですね」

 

「子どもは数字どおりにはなりません。咳の音、顔色、眠れたかどうか。見たことを書けばいいのです」

 

「はい」

 

 クララは板を抱え直した。

 

 その表情から、少しだけ力が抜ける。

 

 澪は、それを見てほっとした。

 

 クララはもう、ただ庇われるだけの子ではない。子どもたちを見る側へ回ろうとしている。

 

 司祭様は試作機を見下ろし、白い眉をわずかに動かした。

 

「これが、空気を清め、湿り気も運ぶ箱ですかな」

 

「はい」

 

 ヴァルトが答える。

 

「風魔法で空気を箱の中へ通し、布と炭で埃と臭気を受けます。その奥で弱い浄化をかけ、水槽の近くも腐りにくいように弱く清めます」

 

「術は強くないのですな」

 

「強くしません。強すぎる浄化は、部屋に置く道具には向きません」

 

 司祭様はゆっくり頷いた。

 

「弱く、長く、ですか」

 

「はい」

 

 真壁が補った。

 

「病気になってから強く治すのではなく、病気になりにくい空気にする」

 

 サリアがその言葉に反応した。

 

「それができるなら、助かります」

 

 声には実感があった。

 

「冬は窓を開けると寒い。閉めると空気がこもります。夜に咳が続く子がいると、同じ部屋の子も眠れません」

 

 澪は、サリアの横顔を見た。

 

 この人は、冬の夜の咳を知っている。

 

 布団の中で丸くなる子どもを知っている。

 

 水を飲ませ、背中をさすり、熱が上がらないよう祈る夜を知っている。

 

 だから、真壁の言う実証実験という言葉も、サリアの中では別の重さを持つのだろう。

 

 置く部屋は、最初から全室ではなかった。

 

 乳児室。

 

 年少組寝室。

 

 食堂。

 

 そして、比較のために年長組寝室の一部には置かない。

 

 澪はそこだけ少し引っかかった。

 

「比較のため、ですか」

 

「必要だ」

 

 真壁は短く答えた。

 

 ヴァルトがすぐ補足する。

 

「ただし、具合の悪い子を比較のために置かない部屋へ残すことはしません。体調が悪い子は、清浄機のある部屋へ移してよい条件にします」

 

 サリアも即座に頷いた。

 

「当然です。苦しい子を戻す必要はありません」

 

 その言葉で、澪の胸の中の硬いものが少し解けた。

 

 実験ではある。

 

 けれど、子どもを実験のために苦しませる話ではない。

 

「そこは絶対ですね」

 

「当然だ」

 

 真壁は同じ言葉を返した。

 

 食堂の試作機に、ヴァルトが魔石を入れた。

 

 木箱の中で、低く、小さな音がした。

 

 風が動き始める。

 

 格子の前にいた子どもの髪が、ほんの少し揺れた。

 

「うごいた」

 

 誰かが言った。

 

 上の排出口から、柔らかな風が出る。

 

 強くない。

 

 冷たくもない。

 

 水蒸気を含んだ、少しだけ湿った風だった。

 

 サリアが手をかざす。

 

「熱くはありませんね」

 

「はい。温める道具ではありません」

 

 ヴァルトが答える。

 

「湿り気を少し足すだけです」

 

 クララも手を近づけた。

 

 その目が、ほんの少し和らぐ。

 

「……空気が、軽いです」

 

 澪はその言葉を聞いて、試作機を見た。

 

 まだ1日目。

 

 まだ何も分からない。

 

 けれど、何かが始まった感じはあった。

 

 

 

 

 最初に違いを言ったのは、子どもではなかった。

 

 サリアだった。

 

 翌朝、年少組寝室の扉を開けた時、彼女は少しだけ足を止めた。

 

「この部屋、朝の空気が違います」

 

 クララは記録板を抱えたまま、サリアの横から室内を覗いた。

 

 寝起きの子どもたちが、布団の中で目をこすっている。まだ眠そうで、髪も乱れている。いつもの朝と大きく違うわけではない。

 

 けれど、部屋の匂いが軽かった。

 

 冬の寝室にこもる、体温と寝具と湿りの混ざった匂いが、薄い。

 

 クララは板に書いた。

 

 朝、匂い軽い。

 

 それから、少し考えて、サリアに言われたことを思い出し、もう1行足す。

 

 咳で起きた子、少ない。

 

 その日の昼、食堂の試作機の布を見たヴァルトは、炭の層の手前で止まった細かな汚れを確認した。

 

「受けていますね」

 

 澪が覗く。

 

「何をですか」

 

「空気の中にあったものです。埃、臭気のもと、湿った淀み。布と炭で受けて、奥で浄化が削っています」

 

「それ、かなりすごいですよね」

 

「すごいから記録する」

 

 真壁が横から言った。

 

 澪は振り向く。

 

「そこは真壁さんが言うんですね」

 

「必要だ」

 

「必要で済ませるの、便利ですね」

 

「便利だ」

 

「認めましたね」

 

 真壁は否定しなかった。

 

 数日が過ぎた。

 

 清浄機を置いた部屋では、朝の匂いが軽い日が続いた。夜中に咳で起きる子は、いなくなったわけではない。ただ、続けて咳き込んで泣く子が減った。

 

 水槽の水は少しずつ減った。

 

 布は汚れた。

 

 炭の層には、澪にはよく分からないが、ヴァルトが見ると分かる程度の変化があった。

 

 魔石の減りは、想定より少ない。

 

 弱く、長く、一定に。

 

 ヴァルトの調整は、効いていた。

 

 一方で、清浄機を置いていない部屋では、いつもの冬が来ていた。

 

 朝の空気は重い。

 

 喉が痛いと言う子がいる。

 

 夜に咳をして、隣の子が起きる。

 

 窓を開ければ寒い。

 

 閉めればこもる。

 

 それは誰かの怠慢ではない。

 

 ただ、冬がそういうものだった。

 

 クララは、その違いを毎日書いた。

 

 最初は字を整えることに気を取られていたが、日が経つにつれて、見る場所が変わっていった。

 

 咳の回数だけではない。

 

 咳の深さ。

 

 顔色。

 

 朝に起き上がる速さ。

 

 水を飲めているか。

 

 食事に手が伸びるか。

 

 夜、布団に入ってから目を閉じるまでの時間。

 

 子どもの具合は、数字だけではなかった。

 

 でも、記録しようとすると、昨日と今日の違いが見える。

 

「クララ姉ちゃん」

 

 ある夕方、年少の男の子がクララの袖をつかんだ。

 

「今日は、箱のある部屋で寝てもいい?」

 

 クララは一瞬、返事に詰まった。

 

 その子は、昼から軽い咳をしていた。熱は高くない。だが、目の下が少し赤い。

 

「どうしてですか」

 

「こっちの部屋、息が楽」

 

 別の子も言った。

 

「変な匂いしない」

 

「喉、痛くならない」

 

「箱のある部屋がいい」

 

 クララは記録板を抱え直した。

 

 比較のために、部屋は分けている。

 

 真壁は、置いた部屋と置いていない部屋の違いを見ると言っていた。

 

 けれど。

 

 クララはサリアを見た。

 

 サリアは迷わなかった。

 

「具合の悪い子は、清浄機のある部屋へ移します」

 

「でも、記録が……」

 

「記録のために苦しい部屋へ戻す必要はありません」

 

 サリアの声は静かだった。

 

 クララの肩から、少し力が抜けた。

 

「はい」

 

 男の子はほっとした顔で、クララの袖を離した。

 

 その夜、クララは清浄機のある部屋で子どもたちを見た。

 

 水槽の水を確認し、布を確認し、子どもたちの額に手を当てる。軽く咳をする子には水を飲ませ、背中をさする。眠れずに目を開けている子には、小さく微光を灯した。

 

 強い光ではない。

 

 怖くない程度の、眠りの邪魔にならない光。

 

 子どもが目を細める。

 

「クララ姉ちゃん、それ、きれい」

 

「少しだけですよ。眠る時間です」

 

「うん」

 

 子どもが布団に潜る。

 

 清浄機の木箱から、弱い風が出ていた。

 

 部屋の空気は、いつもより軽い。

 

 乾きすぎてもいない。

 

 クララは記録板に書いた。

 

 咳、少し。

 

 水を飲む。

 

 移動後、眠れた。

 

 書いてから、自分の字を見つめた。

 

 以前の自分なら、何を書けばよいか分からなかった。

 

 苦しそうな子を前に、ただ不安になっていたと思う。貴族の家で学んだ礼法も、きれいな文字も、夜の咳には何もしてくれない。

 

 けれど今は、見ることがある。

 

 触れることがある。

 

 記録することがある。

 

 祈るだけではなく、動くことがある。

 

 クララは、子どもの背をもう一度そっと撫でた。

 

「大丈夫です。朝まで、ここにいます」

 

 小さな寝息が返ってきた。

 

 

 

 

 1週間が過ぎる頃には、差はさらに分かりやすくなっていた。

 

 完全に風邪がなくなったわけではない。

 

 鼻水の子はいる。

 

 咳をする子もいる。

 

 熱を出す子もいる。

 

 冬は冬だった。

 

 だが、重くならない。

 

 高い熱まで上がる子が少ない。

 

 寝込む日数が短い。

 

 同じ部屋で次々に広がる勢いが弱い。

 

 夜に眠れるため、朝に起きられる子が増えた。

 

 喉を痛めて食事が落ちる子も減った。

 

 司祭様は、クララとサリアの記録を見ながら、長く息を吐いた。

 

「重くならぬ子が増えましたな」

 

 サリアは頷いた。

 

「夜に眠れるのが大きいです。咳き込んでも、続かずに眠れる子が増えました」

 

 クララも、記録板を両手で持ったまま言う。

 

「朝に起きられる子が増えました。食事も、少し残すくらいで済んでいます」

 

 澪は、その言葉を聞いて、やっと肩の力が抜けた。

 

 薬ではない。

 

 奇跡でもない。

 

 箱だ。

 

 木でできていて、布と炭が入り、魔石で風を動かし、弱い浄化で空気を整える箱。

 

 それだけで、子どもたちの冬が少し変わる。

 

 真壁は記録を見ていた。

 

 表情はいつも通りだったが、澪には少しだけ満足しているように見えた。

 

「効果、出てますね」

 

「出た」

 

「嬉しそうですね」

 

「当然だ」

 

 澪は少し笑った。

 

 真壁が当然だと言う時は、本当に当然だと思っている。

 

 その当然の中に、孤児院の子どもがよく眠れたことが入っているなら、それは悪くない。

 

 ヴァルトは試作機の布を外し、汚れ具合を確認していた。

 

「交換周期は、部屋によって違います。食堂は早い。寝室は水の減り方が重要です」

 

「乳児室は」

 

「風量をさらに弱くした方がよいです。湿り気は必要ですが、風を感じさせすぎない方がいい」

 

「結構」

 

「年長組寝室は、人数が多いので吸入口を広げるか、2台置くかです」

 

「2台だな」

 

 澪がすぐ口を挟んだ。

 

「真壁さん、台数が増えました」

 

「必要だ」

 

「必要なら増える、ですね」

 

「そうだ」

 

 その時、年少の女の子がクララの手を引いた。

 

「クララ姉ちゃん、今日は箱の部屋?」

 

「今日は、こちらですよ」

 

「やった」

 

 その声に、澪は少しだけ黙った。

 

 子どもは正直だ。

 

 数字より先に、楽な場所へ行く。

 

 苦しい部屋には戻りたがらない。

 

 それだけで、もう結果は出ていた。

 

 澪は記録表を見直した。

 

 清浄機あり。

 

 清浄機なし。

 

 最初は比較のために分けていた。

 

 けれど、咳のある子、喉が痛い子、眠れない子が清浄機のある部屋へ集まるようになり、部屋割りは崩れ始めている。

 

 澪は真壁を見た。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「実験としては、比較条件が崩れてます」

 

「生活としては正しい」

 

 澪は黙った。

 

 その通りだった。

 

 子どもが楽な部屋へ行く。

 

 それを止めない。

 

 それでいい。

 

 比較実験としては甘くなる。けれど、生活改善としては正しい。

 

 クララが記録板を抱えたまま、少し不安そうに澪を見た。

 

「記録、だめになってしまいましたか」

 

「いいえ」

 

 澪はすぐに答えた。

 

「これはこれで、大事な記録です。子どもたちが自分から清浄機のある部屋を選んだ、ってことですから」

 

 クララはほっとしたように頷いた。

 

 サリアも静かに言う。

 

「体が楽な場所は、子どもが一番早く分かります」

 

 司祭様は目を細めた。

 

「ならば、この箱は、単なる道具ではありませんな」

 

 真壁が答えた。

 

「冬の守りです」

 

 その言葉は、飾り気がなかった。

 

 だが、孤児院の食堂に置かれた木箱には、その言葉が合っていた。

 

 清浄な風と、ほどよい湿気。

 

 弱い浄化。

 

 それは派手な奇跡ではない。

 

 毎晩の咳を少し減らし、朝の喉を少し楽にし、熱が重くなる前に子どもを休ませるための、生活の守りだった。

 

 

 

 

 その夜、澪は秘密基地の作業台で記録を整理していた。

 

 賞与の帳面とは別に、孤児院冬季記録という紙束ができている。

 

 できてしまった。

 

 澪は自分で見出しを書いた紙を見て、少し遠い目をした。

 

「また帳面が増えました」

 

「必要だ」

 

 真壁は当然のように答える。

 

 ヴァルトは横で、試作機の改良項目を書き出していた。

 

 乳児室用。

 年少組寝室用。

 食堂用。

 大部屋用。

 

 風量、浄化出力、水槽容量、布と炭の交換周期、魔石の消費量。

 

 クララの記録から、部屋ごとの差も見えている。

 

 澪は紙をめくった。

 

「咳のある子が清浄機のある部屋へ移動。移動後、眠れた」

 

 そこに小さな字で、クララの追記がある。

 

 朝、起きられた。

 

 澪はその一文で、しばらく手を止めた。

 

 たったそれだけの記録が、妙に重い。

 

 朝、起きられた。

 

 それは、薬の名前よりも、魔道具の構造よりも、澪の胸に残った。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「これ、孤児院はかなり助かります」

 

「孤児院だけでは足りない」

 

 澪は顔を上げた。

 

 嫌な予感がした。

 

 いや、もう分かっていた。

 

 真壁がここで止まるはずがない。

 

「診療所、教会、兵舎、宿屋。冬に人が集まる場所は多い」

 

「これ、孤児院だけで終わる話じゃなくなってきましたね」

 

「終わらない」

 

「言い切りましたね」

 

「必要なのは、台数だ」

 

 澪は額に手を当てた。

 

「また大きくなりました」

 

「健康な生活は、広げなければ意味がない」

 

 真壁は、孤児院の記録の横に短く書いた。

 

 効果確認済み。

 次、製造手順。

 作り方を売る。

 

 澪はその文字を見て、しばらく黙った。

 

 浄化加湿循環器は、孤児院の冬に変化を出した。

 

 子どもたちが、自分の足で清浄な部屋を選ぶほどに。

 

 ならば、次に来るのは、作り続ける話ではない。

 

 作れるようにする話だ。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「次は、かなり大きな話になりますね」

 

「そうだ」

 

「止まりませんね」

 

「止める理由がない」

 

 ヴァルトが、静かに息を吐いた。

 

「真壁さん。製造するなら、手順を揃える必要があります。風の小陣、浄化陣、水槽、交換布、炭、魔石。部屋ごとの調整も要ります」

 

「結構」

 

「技能者向けのマニュアルも必要です」

 

「作り給え」

 

 ヴァルトは筆を止めた。

 

「私がですか」

 

「君が一番よく分かっている」

 

「……やはり私ですね」

 

 澪は横から言った。

 

「ヴァルトさん、楽になりたいなら弟子を取る流れですね」

 

 真壁がすぐ頷いた。

 

「ヴァルト君。楽になりたいなら、スタッ……弟子を取り給え」

 

「今、別の言葉を言いかけませんでしたか」

 

「言い換えた」

 

「言い換える前の言葉が気になります」

 

「人員だ」

 

「弟子を人員扱いしないでください」

 

「育てれば戦力になる」

 

「戦力と言いましたね」

 

 澪は笑いそうになり、少しだけ堪えた。

 

 孤児院の記録の上で、また次の仕事が生まれている。

 

 けれど、その仕事は、子どもたちの朝につながっていた。

 

 朝、起きられた。

 

 その一文がある限り、澪は強く止められない。

 

 冬の孤児院で、子どもたちは清浄な部屋を選んだ。

 

 比較のための線は崩れた。

 

 だが、生活のための線は、はっきり見えた。

 

 押入商会の帳面には、また新しい欄が増えていた。

 

 作り方を、どう広げるか。

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