押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第198話 冬の守りを広げる

 

 孤児院の食堂には、朝の匂いが残っていた。

 

 麦粥の湯気、木椀に染みた温かい匂い、子どもたちの服に残る外の冷気。冬の空気は窓の隙間から細く入り込み、床板の低いところに溜まっている。

 

 その中で、木箱だけが妙に落ち着いていた。

 

 浄化加湿循環器。

 

 澪はまだ、その名前を口に出すたびに少しだけ長いと思う。だが、食堂の隅で静かに風を吐く木箱を見ると、もうただの試作品とは呼べなかった。

 

 前面の格子の奥で、布と炭の層が薄く影を作っている。上の排出口から出る風は、手を近づけてもほとんど分からないほど弱い。それでも、部屋の匂いは軽かった。

 

 澪は食堂に入ってすぐ、その差に気づいた。

 

 現代側の空気清浄機なら、白い樹脂の箱がランプを点けて、数値や色で状態を知らせてくれる。ここにあるのは、木と金具と布と炭と魔石で作った箱だ。音も控えめで、働いていることを主張しない。

 

 けれど、子どもたちは知っていた。

 

「あっち、箱の部屋?」

 

「今日は食堂にもある」

 

「こっち、喉が楽」

 

 朝食を終えた子どもたちが、椀を片づけながら木箱の近くをちらちら見る。誰かが触ろうとして、すぐにシスターサリアの視線を浴びて手を引っ込めた。

 

 その動きが、澪にはいちばん分かりやすい記録に見えた。

 

 子どもは、説明書を読まない。

 

 理屈も知らない。

 

 けれど、楽な場所には寄る。

 

 サリアは、食堂の奥から記録板を持ってきたクララへ目を向けた。

 

「クララ。昨日の分も持ってきましたか」

 

「はい」

 

 クララは両手で板を抱えていた。以前より背筋は伸びているが、指先には力が入りすぎている。板の端は何度も持ち歩かれたせいで、ほんの少し擦れて丸くなっていた。

 

 老司祭は、その横で穏やかに立っている。白い髭の奥の口元は柔らかいが、目は記録板と子どもたちの両方を見ていた。

 

 ヴァルトは挨拶を終えると、すぐ木箱の前に膝をついた。食堂で膝をつく貴族出身者はなかなかいない、と澪は思いかけて、ヴァルトが今さらその程度で止まる人ではないことを思い出す。

 

「魔石の減りは想定内です。水槽は……昨日より少し減っていますね」

 

 ヴァルトの指が、木箱側面の蓋を外す。陶器の水槽の内側には薄い水の線が残り、昨夜からどれだけ減ったかが見て取れた。布の層は外され、別の布袋に入れられている。炭の匂いと、湿った空気の匂いが混ざった。

 

 真壁はその袋を受け取り、短く眺めた。

 

「食堂用は交換周期を短くする」

 

「はい。人の出入りと食事の匂いがありますので」

 

 ヴァルトは答えながら、紙に数値を書き足す。魔術師というより、器具を見て回る職人に近い顔つきだった。

 

 澪はクララの記録板を見せてもらう。日付、部屋、咳、喉、熱、寝つき、朝。字は丁寧で、ところどころ小さな追記があった。

 

 朝、起きられた。

 

 その一行で、澪の手が止まった。

 

 たったそれだけの言葉なのに、布団の中で咳き込んで眠れなかった子が、翌朝に起き上がれた場面が浮かぶ。薬の名前でも、魔術の名でもない。生活の結果だった。

 

 クララが、少し硬い声を出した。

 

「途中から、咳のある子が清浄機のある部屋へ移ってしまいました。記録としては、崩れてしまったかもしれません」

 

 澪は板から顔を上げた。クララの目は記録板に落ちたままだ。丁寧に書いたものが役に立たないのではないかと、まだ不安が残っている。

 

「いいえ。それが大事な記録です。子どもたちが自分で楽な部屋を選んだんですから」

 

 澪が言うと、クララの指が板の端で止まった。

 

 真壁も袋の口を閉じながら言った。

 

「使用者が選んだ。効果の証拠だ」

 

 言い方はそっけない。だが、クララにはその短さの方が届いたらしい。肩がわずかに下がる。

 

 サリアは子どもたちへ椀を片づけるよう促しながら、静かに続けた。

 

「体が楽な場所は、子どもが一番早く分かります」

 

 老司祭が木箱を見た。

 

「冬の守り、と呼んでよいかもしれませんな」

 

 その言葉で、澪はもう一度木箱を見直した。

 

 冬の守り。

 

 白い機械ではない。暖炉でも薬でもない。部屋の空気を整えるための、木でできた守り。

 

 真壁はもう次を見ていた。

 

「記録をまとめる」

 

「ここで、ですか」

 

「領主家で話す」

 

 澪は一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 嫌な予感というほどではない。だが、真壁が短く言った時は、話がたいてい大きくなる。

 

 今回はすでに、かなり大きくなっていた。

 

 

 

 

 孤児院の離れは、普段は物置と作業部屋の間のように使われているらしかった。

 

 壁際の棚には、洗い替えの布、古い木箱、修理を待つ椅子の脚、畳んだ毛布が積まれている。窓から入る冬の光は斜めで、空気中の埃を細く光らせていた。

 

 その長机の上に、真壁が資料を並べていく。

 

 クララの記録板。

 

 サリアの安全条件を書いた紙。

 

 交換済みの布と炭。

 

 ヴァルトの構造図。

 

 魔石消費の表。

 

 試作機1台。

 

 並べる順番に迷いがない。澪には、それが少し怖い。物を置いているだけなのに、もう会議の流れができていく。

 

「澪君は、目的と事業の話をする」

 

 澪は、思わず顔を上げた。

 

「真壁さんが説明した方が早くないですか」

 

「早いだけでは足りない」

 

「どういう意味ですか」

 

「君は押入商会の社長だ。侯爵家に提案する経験が要る」

 

 澪の口が止まった。

 

 社長。

 

 その言葉は、現代側では会社の肩書きとして聞いていた。税理士に相談し、売上を確認し、役員報酬を決める時に出てくる言葉だ。けれど、この世界で侯爵家を前に話すとなると、急に重さが違う。

 

 ただ真壁の横で驚いているだけでは済まない。

 

 それが分かってしまったから、澪は反論できなかった。

 

 真壁の視線がクララへ移る。

 

「クララ君は、記録を話す」

 

「わ、私もですか」

 

 クララの声が裏返りかけた。記録板を抱える手に力が入る。

 

「君が見た」

 

「私が、マティアス司教様へ……」

 

「見た者が話せ」

 

 短い。

 

 だが、逃げ道も短く閉じられた。

 

 クララは老司祭の方を見た。老司祭は笑わず、ただ静かに頷く。サリアはクララの肩へ手を置いた。

 

「クララ。きれいな言葉より、子どもたちの様子を話しなさい」

 

「……はい」

 

 クララの返事は小さかったが、記録板を抱える手は少しだけ落ち着いた。

 

 ヴァルトは構造図を見ながら、眉間に薄く皺を寄せている。

 

「技術説明は、どこまで話しますか」

 

「作れると思わせるところまで。真似できるほどは話さない」

 

「難しい線ですね」

 

「君ならできる」

 

「また私ですね」

 

「結構だ」

 

 ヴァルトは黙って構造図の端を折り、見せてよい部分と隠す部分を分け始めた。

 

 澪はその手元を見て、少しだけ息を吐く。

 

 真壁は全部を自分で話す気がない。けれど、投げっぱなしでもない。発表する人間、聞く相手、見せる資料、隠す情報、責任の渡し先まで、すでに置き場所を決めている。

 

 それを思うと、文句の言いどころがない。

 

 ただし、心の中でひとつだけ言いたかった。

 

 経験が要る、で済ませるには、相手が大きすぎる。

 

 侯爵家と司教である。

 

 澪は自分の紙に、最初の一文を書いた。

 

 本日は、孤児院で試験している浄化加湿循環器についてご説明します。

 

 文字にすると、急に本当のことになった。

 

 

 

 

 領主館へ向かう道は、冬の午後らしく乾いていた。

 

 車輪が小石を踏む音が、足元から伝わってくる。道端の人々は厚い上着を羽織り、吐く息を白くしながら歩いていた。市場の声は孤児院の近くではまだ賑やかだったが、領主館に近づくにつれて少しずつ整っていく。

 

 澪は膝の上の紙束を何度も見た。

 

 順番は覚えた。

 

 目的。

 

 孤児院の冬。

 

 置いた理由。

 

 結果。

 

 クララへ渡す。

 

 それだけだ。そう分ければ難しくないはずだった。けれど、紙の端を押さえる指に力が入る。

 

「緊張しますね」

 

 思わず言うと、真壁は前を見たまま答えた。

 

「緊張してよい」

 

「いいんですか」

 

「軽く扱う話ではない」

 

 澪は紙束を見下ろした。

 

 軽く扱う話ではない。

 

 その言葉で、胸の中のざわつきが少し形を変えた。失敗したくない緊張ではなく、きちんと届けなければならない緊張だと思えば、まだ持てる。

 

 隣でクララが記録板を押さえている。指先が白い。

 

「私が失敗したら……」

 

 サリアがすぐに言った。

 

「見たことを話しなさい。飾る必要はありません」

 

 クララは息を吸い、ゆっくり吐いた。

 

 ヴァルトは構造図を丸め直しながら、澪とクララの方を見た。

 

「技術質問は、私が受けます」

 

 その声は落ち着いている。

 

 ヴァルトも緊張していないわけではないはずだ。だが、自分の領分がはっきりしている時、この人は強い。魔術院で身につけた知識と、押入商会で増え続ける実物の経験が、今は同じ方向を向いている。

 

 真壁は資料箱に手を置いた。

 

「結構」

 

 たったそれだけで、ヴァルトは頷く。

 

 澪はそのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。

 

 緊張しているのは自分だけではない。クララも、ヴァルトも、それぞれの荷物を持っている。

 

 真壁の収納には、試作機、交換布、炭、資料、構造図が分けて入っている。湿気が移らないように、匂いが混ざらないように、取り出す順番まで決めてあるらしい。

 

 人の役割を分けるのと同じように、収納の中も分けている。

 

 澪はそれに気づき、内心で少しだけ負けた気がした。

 

 この人は、緊張まで工程に入れている。

 

 

 

 

 領主館の小会議室は、暖かいのに冷たかった。

 

 暖炉の火はある。壁の燭台にも火が入っている。厚い絨毯が足音を吸い、磨かれた木机は手入れが行き届いていた。

 

 それでも、石造りの建物特有の冷えが床の奥から伝わってくる。澪は靴底越しにその硬さを感じながら、机の前に立った。

 

 アルベルト侯爵はすでに席についていた。穏やかな表情だが、机の上に置かれるものを見逃していない。

 

 その隣にいる男が、司教マティアス・エルンストだった。

 

 老司祭より若い。だが、位の重さは衣の仕立てや姿勢に表れていた。声を出していなくても、部屋の空気が少し締まる。優しそうに見える目の奥に、教会全体を背負う慎重さがある。

 

 レオンハルトは実務担当として控え、老司祭とサリアは教会側、孤児院側の席に着く。クララはサリアの少し横で記録板を抱え、背筋を伸ばしすぎていた。

 

 真壁が試作機を机の端に置いた。

 

 木箱は、この会議室の中ではかなり素朴だった。磨き上げられた机、厚い布張りの椅子、整えられた燭台。その中で、木目の粗い箱、交換済みの布、黒い炭は、生活の匂いを持ち込んでいる。

 

 澪はその違和感に、少し救われた。

 

 きれいな提案ではない。孤児院の部屋から来た話だ。ならば、これでいい。

 

 アルベルトが試作機へ目を向けた。

 

「これが、孤児院で使われた箱か」

 

「はい。浄化加湿循環器の試作機です」

 

 澪は答えた。声は、思ったより硬い。

 

 司教マティアスが老司祭を見た。

 

「老司祭殿から、孤児院での試験について報告は受けています」

 

 老司祭が静かに頭を下げる。

 

「はい。子どもたちの様子に、はっきり変化がございました」

 

「では、順に聞きましょう」

 

 その言葉で、部屋の視線が澪に集まった。

 

 真壁は何も言わない。

 

 いつもなら、この場で一番早く口を開く人が黙っている。それが、澪には余計に重く感じられた。

 

 だが、真壁の視線は逃げていなかった。

 

 澪は紙の一番上をそっと押さえた。

 

「本日は、その目的と結果を順にご説明します」

 

 

 

 

 最初の一文は、少しだけ喉に引っかかった。

 

「本日は、孤児院で試験している浄化加湿循環器についてご説明します」

 

 澪は自分の声を聞きながら、机の上の木箱を見た。現代側の会議なら、資料を投影して、図表を見せて、数値を出すのだろう。ここには紙と木箱と、汚れた布がある。

 

 だが、伝えたいことは同じだった。

 

 何に困っているのか。

 

 何を試したのか。

 

 結果、何が変わったのか。

 

「これは、風魔法で空気を動かし、浄化で淀みを弱め、水を通して冬に必要な湿気を加える魔道具です」

 

 司教マティアスの目が、わずかに動いた。

 

 浄化。

 

 その言葉に反応したのだと分かる。

 

 澪は、技術へ踏み込みすぎないように息を置いた。ここはヴァルトの役目だ。自分が話すべきなのは、なぜこれが必要だったか。

 

「目的は、病気になってから治すことではありません。病気になりにくい部屋を作ることです」

 

 言いながら、澪は孤児院の寝室を思い出した。閉めきった冬の部屋。布団の中で咳をする子。隣で眠れない子。窓を開ければ寒く、閉めれば空気がこもる。

 

 現代側なら、加湿器、空気清浄機、換気、薬、病院と、いくつも選択肢がある。けれど、ここではその一つ一つが遠い。

 

「孤児院では、冬に窓を開けにくく、寝室の空気がこもります。咳が続く子がいると、同じ部屋の子も眠れません」

 

 サリアの顔が少しだけ動いた。たぶん、同じ夜を思い出したのだろう。

 

 澪の声から硬さが少し抜けた。

 

「この魔道具を置いた部屋では、朝の匂い、咳、喉の痛み、寝つきに変化が出ました」

 

 アルベルトは黙って聞いている。商人の売り込みとしてではなく、領内の生活に関わる話として聞いている目だった。

 

 澪はクララへ視線を向けた。

 

「詳細な記録は、クララさんから説明していただきます」

 

 クララの喉が、小さく動いた。

 

 澪は紙を下ろし、一歩引いた。

 

 心臓はまだ速い。けれど、最初の役目は渡せた。

 

 

 

 

 クララは記録板を抱えて前に出た。

 

 会議室の絨毯は柔らかいはずなのに、足元が妙に遠く感じられた。司教マティアスの視線が向く。老司祭の穏やかな目も、サリアの見守る目もある。

 

 クララは最初、礼法に沿った挨拶を口にしようとした。

 

 けれど、その言葉は喉の手前で止まった。

 

 きれいな言葉より、子どもたちの様子を話しなさい。

 

 サリアの声を思い出す。

 

 クララは記録板を少し持ち直した。板の角が手のひらに当たる。何日も持ち歩いた木の感触が、自分を孤児院へ戻してくれる。

 

「最初は、清浄機のある部屋と、ない部屋を分けて記録していました」

 

 声はまだ細い。

 

 けれど、記録板の文字を見ると、次の言葉は出た。

 

「ですが、途中から、咳のある子、喉の痛い子、眠れない子が、自分から清浄機のある部屋へ行きたがりました」

 

 司教マティアスがわずかに身を乗り出す。

 

「自分から、ですか」

 

「はい。息が楽だと。変な匂いがしないと。喉が痛くなりにくいと」

 

 その言葉を口にすると、子どもたちの声が戻ってくる。

 

 箱の部屋がいい。

 

 こっちが楽。

 

 朝、喉が痛くない。

 

 クララは記録板の端を指で押さえた。

 

「記録としては、比較条件が崩れました」

 

 言った瞬間、胸が縮む。

 

 正しい記録ではないと言われるかもしれない。試験として駄目だと言われるかもしれない。クララは一瞬、目を下げた。

 

 その時、澪が小さく頷いた。

 

 真壁は何も言わない。

 

 サリアも待っている。

 

 クララは息を吸った。

 

「ですが、子どもたちが楽な部屋を選んだことも、記録だと思います」

 

 言えた。

 

 自分の声で。

 

 記録板の文字が、ただの文字ではなくなった気がした。

 

「高い熱まで上がる子が減りました。夜に眠れる子が増えました。朝、起きられる子が増えました」

 

 クララは板の端に書き足した小さな字へ目を落とした。

 

「私は、朝、起きられた、という記録を何度も見ました」

 

 会議室に、短い沈黙が落ちた。

 

 それは重い沈黙ではなかった。誰かが言葉を探すための沈黙だった。

 

 司教マティアスが、クララの記録板へ手を伸ばした。

 

「見せていただけますか」

 

「はい」

 

 クララは両手で渡した。

 

 司教マティアスは、板の文字をしばらく見た。飾りのない記録。咳、眠れた、起きられた。小さな変化が、日付と部屋ごとに並んでいる。

 

「よく見ていましたね、クララ」

 

 クララの背筋が、さらに伸びた。

 

 けれど今度は、緊張で固まったのではない。

 

 認められた重さを、落とさないように伸びたのだった。

 

 

 

 

 クララの報告が終わると、部屋の視線は木箱へ移った。

 

 ヴァルトは構造図を広げる前に、軽く息を整えた。生活の話から、技術の話へ切り替える。ここで言いすぎると、真似だけが先に走る。言わなすぎると、信用されない。

 

 その境目を歩くのは、魔物の出る森を歩くのとは別の緊張がある。

 

「仕組みは単純です」

 

 ヴァルトはそう言ってから、試作機の蓋を少しだけ開けた。中の全部は見せない。浄化陣の細かな刻みは布で隠し、流れだけが分かるようにする。

 

「風魔法で空気を箱の中へ通します。布と炭で埃と臭気を受けます。浄化陣で、有害な淀みを弱く削ります」

 

 構造図の線を、指で順に追う。

 

 吸入口。

 

 布と炭。

 

 浄化陣。

 

 水槽。

 

 排出口。

 

「水槽側にも弱い浄化を入れ、水の腐敗を抑えます」

 

 アルベルトの視線が、魔石消費表へ動いた。

 

「部屋の空気を強く清める道具ではありません。箱の中を通った空気だけを、弱く、長く、一定に整える道具です」

 

 ヴァルトは「強く」を避けたかった。

 

 強い魔術は分かりやすい。分かりやすいものは、権威にも商売にも使われやすい。だが、この木箱の価値はそこではない。弱いこと、長く続くこと、部屋で眠る子どもを怖がらせないことにある。

 

 アルベルトが口を開いた。

 

「危険は」

 

「強く作れば危険です」

 

 ヴァルトはすぐに答えた。曖昧にしない方がよい。

 

「だから、出力の上限、魔石容量、風量、水槽容量、交換部材、設置場所を決める必要があります」

 

 レオンハルトの指が机の上で止まった。実務の項目として拾われたのだと分かる。

 

 司教マティアスが問いを重ねた。

 

「聖職者の浄化を道具にすることへ、教会として慎重であるべき点は」

 

 ヴァルトは一度、老司祭を見た。老司祭は口を挟まない。ならば、技術担当として答える。

 

「神聖な儀式としてではなく、生活のための弱い浄化として扱うべきです。過剰な神聖視を避け、清潔と予防の道具として管理する方がよいと思います」

 

 司教マティアスはすぐには頷かなかった。けれど、拒む目ではない。

 

 ヴァルトは交換布を示した。

 

「これは食堂で使ったものです。人の出入りと食事の匂いがあるため、布の汚れが早い。寝室は水の減り方が重要になります。乳児室では風量をさらに弱くします。大部屋では1台では足りない場合があります」

 

 説明しながら、ヴァルトは自分の言葉がどんどん仕事を増やしているのに気づいた。

 

 部屋別仕様。

 

 交換周期。

 

 検査基準。

 

 使用者向け説明。

 

 技能者向け手順。

 

 魔術院では、術式は研究室の中で完結することが多かった。だが、押入商会では違う。道具は部屋に置かれ、子どもが近づき、サリアが掃除し、クララが記録し、侯爵家が責任を持つ。

 

 術式だけでは足りない。

 

 そのことを説明している自分の声が、いちばん重く自分に返ってきた。

 

 真壁は黙っている。

 

 止めないということは、言いすぎてはいない。

 

 ヴァルトはそう判断し、構造図を閉じた。

 

 

 

 

 説明が終わると、机の上にはすべてが並んでいた。

 

 木箱。

 

 汚れた布。

 

 炭。

 

 クララの記録板。

 

 サリアの安全条件。

 

 ヴァルトの構造図。

 

 魔石の消費表。

 

 それらはひとつひとつなら、どこか不完全に見える。木箱は素朴で、記録板は手書きで、交換布は汚れている。だが、全部が並ぶと、孤児院の冬がここに運ばれてきたようだった。

 

 アルベルトが真壁を見た。

 

「真壁殿。あなたの考えを聞きたい」

 

 澪は、内心で身構えた。

 

 来た。

 

 ここまで黙っていた真壁が、ようやく前へ出る。

 

 真壁は立ち位置を大きく変えなかった。ただ、机の上の資料全体へ視線を向けた。

 

「この魔道具は、生活にイノベーションを起こす」

 

 澪は口を閉じたまま、心の中でだけ言った。

 

 出た。

 

 現代側の言葉を、この会議室でそのまま言う度胸は真壁にしかない。だが、不思議と場違いにはならなかった。なぜなら、机の上には本当に生活を変えた記録がある。

 

「孤児院だけでは終わらない。診療所、教会、兵舎、宿屋、学校、貴族家。冬に人が集まる場所には需要がある」

 

 アルベルトの目が細くなる。

 

「この国以外からも受注があるだろう」

 

 司教マティアスも、今度は商売ではなく広がりの危うさを見る顔になった。

 

 真壁は続けた。

 

「だが、押入商会がこの箱だけを一生作り続けるわけにはいかない」

 

 澪はその言葉で少しだけ肩の力が抜けた。

 

 そこを言ってくれた、と思った。

 

 全部作る。全部売る。全部配る。そんな話になれば、押入商会はすぐに領主の仕事へ踏み込んでしまう。孤児院を助けたい気持ちと、領内全体を背負う責任は別だ。

 

「もっと色々やりたいことがある」

 

 そこは、少し真壁らしすぎた。

 

 澪は視線だけで真壁を見た。真壁は見返さない。

 

「なら、この世界の誰かに委ねる」

 

 真壁は資料を指した。

 

「侯爵家が工房を整え、教会が浄化の信用と記録を支え、押入商会は設計、基準、品質管理、ライセンスを握る」

 

 レオンハルトが小さく反応した。工房、監督、粗悪品対策。たぶん、その辺りが頭の中で動き始めている。

 

「作るのではなく、作れる仕組みを作る」

 

 会議室の空気が変わった。

 

 それは寄付の話ではなく、単なる販売の話でもない。侯爵家、教会、工房、押入商会。それぞれの役割を分けた、領内の仕組みの話だった。

 

 澪は机の上を見た。

 

 クララの記録があるから、生活の変化が伝わった。

 

 ヴァルトの説明があるから、技術の管理が見えた。

 

 サリアの安全条件があるから、現場運用の重さが分かる。

 

 そして真壁が、最後にそれらをつないだ。

 

 真壁が最初から全部話していたら、たぶん、こうはならなかった。

 

 澪は悔しいような、納得するような気持ちで、紙の端を押さえた。

 

 

 

 

 沈黙があった。

 

 長くはない。だが、澪にはずいぶん長く感じられた。

 

 アルベルトの指が、机を一度だけ叩く。司教マティアスはクララの記録板の「朝、起きられた」という文字を見ている。燭台の火が揺れ、交換布の汚れが机に小さな影を作った。

 

 最初に口を開いたのは、アルベルトだった。

 

「これは、領内事業として扱うべき案件だ」

 

 澪の胸の奥で、何かが落ち着いた。

 

 通った。

 

 ただ、通ったから終わりではない。

 

「領内工房で作れるなら、宿屋、診療所、兵舎への導入は考えられる。ただし、粗悪品は許せぬ」

 

 そこは領主の言葉だった。

 

 良い道具だから広げる、では終わらない。誰が作り、誰が検査し、壊れた時に誰が責任を持つのか。アルベルトはすでにそこを見ている。

 

 司教マティアスも顔を上げた。

 

「教会は、孤児院と診療所での使用記録を支えましょう。ただし、浄化を奇跡として売るのではなく、生活を守る道具として扱うべきです」

 

 真壁が短く答えた。

 

「結構」

 

 澪は思わず口を挟んだ。

 

「今の結構は、かなり大きいですね」

 

 真壁は否定しなかった。

 

 アルベルトの口元がわずかに動いた気がしたが、追及はされなかった。

 

「侯爵家で正式に検討する。押入商会には、設計と基準をまとめていただきたい」

 

 レオンハルトが静かに頷く。もう、実務の紙が頭の中で増えている顔だった。

 

 司教マティアスは、クララへ記録板を返した。

 

「教会側では、浄化を扱える者と、記録を取れる者を選びましょう」

 

「はい」

 

 クララは両手で板を受け取った。さきほどより、手が震えていない。

 

 ヴァルトだけが、少し目を伏せた。

 

 澪はそれを見逃さなかった。

 

 技術基準。

 

 設計。

 

 検査。

 

 技能者。

 

 記録。

 

 今の言葉は、全部ヴァルトのところへ落ちる可能性が高い。

 

 案の定、真壁はヴァルトの方を見た。

 

 まだ何も言っていないのに、ヴァルトが小さく息を吐く。

 

 澪は、申し訳なさと笑いを同時にこらえた。

 

 

 

 

 正式な会議が終わると、控えの小部屋は急に現実の温度に戻った。

 

 重い机から離れ、廊下に近い部屋へ移る。窓の外は夕暮れで、石壁に赤い光が滲んでいた。遠くで使用人の足音がする。さきほどまで張りつめていた空気が薄れ、澪の肩から力が抜けた。

 

 クララは記録板を抱えたまま、まだ少し背筋が伸びている。司教マティアスに褒められた言葉が、体のどこかに残っているのだろう。

 

 澪はそれを見て、少し嬉しくなった。

 

 自分も緊張した。けれど、クララはもっと重い相手に向かって話した。貴族家の礼法ではなく、孤児院で見たことを、自分の言葉で。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「プレゼン、ほとんど私たちにやらせましたね」

 

「経験が要る」

 

「私とクララさんのですか」

 

「そうだ」

 

 澪は言い返そうとして、やめた。

 

 間違っていない。

 

 それがいちばん困る。

 

 クララは小さく記録板を抱え直した。恥ずかしそうではあるが、逃げるような顔ではない。澪はその変化だけで、今日は意味があったと思えた。

 

「ヴァルトさんは」

 

 澪が言うと、真壁は即答した。

 

「弟子が要る」

 

 ヴァルトが、静かに顔を上げた。

 

「やはり、そこへ戻るのですね」

 

 その声には、諦めと予感が混ざっている。

 

 ヴァルトは資料を片づけながら、構造図の端に新しい紙を重ねた。

 

「製造するなら、手順を揃える必要があります。風の小陣、浄化陣、水槽、交換布、炭、魔石。部屋ごとの調整も要ります」

 

「結構」

 

「浄化陣の刻印だけは、技能者向けのマニュアルが必要です」

 

「作り給え」

 

 ヴァルトの手が止まった。

 

「私がですか」

 

「君が一番よく分かっている」

 

「……やはり私ですね」

 

 澪は今度こそ少し笑った。

 

 笑ってはいけない場ではない。会議は終わった。ヴァルトには申し訳ないが、流れがあまりにも自然だった。

 

 真壁はさらに言った。

 

「ヴァルト君。楽になりたいなら、スタッ……弟子を取り給え」

 

 ヴァルトの目が細くなる。

 

「今、別の言葉を言いかけませんでしたか」

 

「言い換えた」

 

「言い換える前の言葉が気になります」

 

「人員だ」

 

「弟子を人員扱いしないでください」

 

「育てれば戦力になる」

 

「戦力と言いましたね」

 

 澪は口元を押さえた。

 

「教育まで事業計画に入ってきましたね」

 

「必要だ」

 

 真壁はまったく悪びれない。

 

 ヴァルトは新しい紙に、技能者向け、使用者向け、点検用、と書きかけて、そこで自分の文字を見つめた。

 

「少なくとも3種類、いえ、管理者向けも要りますね」

 

 言った瞬間、自分で自分の仕事を増やした顔になる。

 

 澪はその横で、今日の資料をまとめ直した。澪が話した紙、クララの記録、ヴァルトの構造図、サリアの安全条件。全部が、次の提案書へつながっていく。

 

 最初は、子どもたちが楽に眠れるようにするための箱だった。

 

 それが今、領内の冬を守る仕組みになろうとしている。

 

 窓の外で、夕方の冷たい風が石壁を撫でた。

 

 真壁が試作機を収納する。木箱が消えたあとも、机の上には紙の束が残っていた。

 

 清浄な部屋を増やすには、箱だけでは足りない。

 

 話せる者。

 

 見たことを書ける者。

 

 作れる者。

 

 教えられる者。

 

 そして、それらを逃がさず紙に落とす者。

 

 澪はヴァルトの前に増えていく紙を見て、そっと視線を外した。

 

 冬の守りは、会議室の暖かさの中で、またひとつ形を変えていた。

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