澪の机の上には、大学のゼミ資料と孤児院の記録写しが、同じ向きに揃えられていた。
白い蛍光灯の下で、現代側のノートはいつも通り軽く見える。けれど、その横に置いた紙束には、咳、眠れた、朝に起きられた、という言葉が残っていて、澪は鞄へ手を伸ばしたまま一度止まった。
大学へ行く。それは当たり前のことのはずだった。
経済学部の2年ゼミ。発表準備。班の話し合い。佐伯や神谷や三浦と顔を合わせ、異世界側とは別の顔をして座る。現代側では、それも自分の生活である。
ただ、異世界側の話は、待ってくれない。
浄化加湿循環器のプレゼンが終わったばかりなのに、ヴァルトには技能者向けマニュアルと弟子の話が落ちている。そこまで分かってしまうと、次に何が必要になるかも見えてくる。人を教える場所、実物を見せる場所、安全に失敗できる場所。考えれば考えるほど、大学ノートの端にまで異世界の図面が伸びてくる気がした。
澪は、ノートを鞄に入れながら真壁を見た。
真壁は、いつものように出かける準備をしていた。けれど、ただの外出ではない。収納の中で何かを分けている時の目だった。紙束を入れる角度、札を重ねる順番、取り出す位置まで、すでに頭の中で決まっている。
「今日はゼミがあるので、領都へは行けません」
「承知している」
返事が早すぎた。
澪は鞄のファスナーを閉めかけて、もう一度止める。
「何をするつもりですか」
「ヴァルト君の器を用意する」
「器?」
「拠点だ」
澪は、言葉の表面だけを受け取らないようにした。真壁の言う「拠点」は、普通の工房1つで終わらないことが多い。
「その言い方、広がりそうで怖いです」
「広げるためだ」
「……行く前に不安だけ置いていかないでください」
「不安は記録しておきたまえ」
「記録して済む種類ですか、それ」
真壁は答えず、収納内へ札を入れていく。領主家で見せる紙、候補地を測る道具、商店主の聞き取りに使う白紙、詰所案の図面、リュシアに見せるための屋台導線。その中に、澪説明用とヴァルト説明用の札が混じっているのを、澪は見逃さなかった。
説明用がある。
つまり、まだ説明していないことがある。
「真壁さん」
「はい」
「それ、私に説明する予定があるんですよね」
「ある」
「今ではなく?」
「君はゼミだ」
正しい。
正しいから困る。
澪は時計を見て、追及を諦めた。大学へ遅れるわけにはいかない。押入商会の仕事も大事だが、大学での発表も自分が抱えた現代側の仕事だった。
鞄を持つと、肩紐がいつもより重く感じる。中に入っているのは教科書とノートだけなのに、領都の地図まで一緒に背負っている気がした。
「変な方向に広げすぎないでくださいね」
「器だ」
「それで全部説明できると思ってますね」
「結構」
「結構じゃありません」
言い返しながらも、澪は玄関へ向かった。
ドアを閉める直前、振り返る。
真壁はもう収納の札を入れ替えていた。澪はその姿を見て、短く息を吐く。たぶん、帰ってきた時には何かが増えている。しかも、こちらが想定しているより大きいものが。
領主館の小会議室は、午前の光を受けても冷えていた。
石造りの壁には火が入っているが、机の上へ広げられた領都の区画図には冬の薄い光が落ち、紙の端を白くしている。アルベルトは執務の途中だったらしく、脇には別の書類が重ねられていた。
真壁が来た時点で、アルベルトはすでに何かを察していた。
浄化加湿循環器の続きか。それとも別の案件か。どちらにしても、軽く済む顔ではない。
「ヴァルト君に弟子を取らせるには、領都に拠点が要る」
真壁は挨拶の後、そう切り出した。
アルベルトは、手元の羽根ペンを置いた。
「マールヴェインでは遠い、ということか」
「弟子が哀れですな」
「哀れ、か」
「通えない。住めない。学べない。なら育たない」
言葉は短いが、理屈は通っている。
アルベルトは地図へ視線を落とした。浄化加湿循環器を領内へ広げるには、作れる者、点検できる者、記録できる者が要る。ヴァルト1人に背負わせれば、いずれ詰まる。
「理屈は分かる」
アルベルトは地図上のある区画へ指を置いた。
「候補地ならある。セルマの工房近くだ」
「結構」
「ただし、空き地ではない」
その言葉で、真壁の視線が指先に止まった。
地図の上には、細い道、小さな店、裏路地、セルマ工房へ続く搬入路が描かれている。何もない土地ではない。人が暮らし、商売し、毎日戸を開け閉めしている場所だ。
「いくつかの商店がある。領都内の別地へ一時的に移るか、新しい形で商売を続けられるようにする必要がある」
「交渉ですな」
「押入商会でやってもらう。領主家が命じて追い出す形にはしない」
「承知した」
即答だった。
アルベルトは、少し目を細めた。
「真壁殿。これはヴァルト殿の拠点の話だったな」
「器です」
「……また大きくなりそうな言葉だな」
真壁は、地図の上に小さな印を置いていく。セルマ工房の角、候補地の外周、裏路地の折れ目、商店の並び、通りの幅、詰所を置くなら見える位置。印が増えるたび、アルベルトの視線も動いた。
これはただの建物ではない。
工房、教室、住居、店舗、治安。ひとつの区画に、複数の役割が重なっていく。
「大きな器は、割れた時も大きい」
アルベルトが言うと、真壁は地図から目を上げた。
「だから領主家に先に話している」
アルベルトは短く息を置いた。
勝手に作ってから報告するよりは、ずっとましだった。
「商店主の同意、治安、工事の安全、周辺への影響。この4つは外せぬ」
「結構」
「結構で済むかは、これからだ」
真壁は否定しなかった。
その代わり、図面用の紙を1枚取り出した。
アルベルトは、また羽根ペンを手に取った。今日の執務は、少し長くなりそうだった。
セルマの工房近くの通りには、薬草と生活の匂いが混ざっていた。
乾いた葉を煮るような匂いが工房の方から薄く漂い、その手前には古い商店が並んでいる。雑貨、食料、道具の修理、布。どの店も大きくはないが、軒先には店主の手が入っていた。
看板の金具は錆びている。扉の下には隙間があり、荷車が通ると道端の客が少し身を寄せなければならない。真壁はそこで、最初に店を見なかった。裏路地を見た。
昼前でも、人目が切れる角がある。セルマの工房へ向かう道と、商店裏へ抜ける細い通路が交わる場所。詰所の灯りがあればどこまで届くか。騎士が立てば、客が萎縮するか。それを測るように目が動く。
商店主の1人が、腕を組んで店先に立っていた。
「立ち退けと言う話なら、お断りだ」
「立ち退きではない」
「同じことだろう。ここを出ろという話ならな」
「商売を続ける器を変える」
「器?」
「店と住まいだ」
商店主の眉が寄った。
後ろの店内には、古い棚が詰まり、客が奥まで入りにくい。店主の怒りは土地だけではない。今の店でどうにか続けているものを、外から来た者に崩される恐れだった。
「領主様が言うなら、こっちは逆らえないってことか」
「領主家は命じない。条件を詰めるのは押入商会だ」
「それで安心しろと?」
「安心は、話を聞いてからでよい」
真壁は店の入口を見た。棚の幅、客の足の向き、店主が奥へ行く時に体を横にする場所、売れ残った商品が見えなくなっている棚。見るほどに、問題は土地の有無だけではなかった。
別の店主が、奥から顔を出した。
「うちは移る気はないよ。ここで食い物を売ってきたんだ」
「倉庫は」
「……ない」
「仕入れを増やせない」
「なんで分かる」
「袋が床に近い。湿気を吸う」
食料品店の店主は、口を閉じた。
真壁は、怒りの隙間に困り事があるのを知っている。怒っている者は、失うものがあるから怒る。ならば、その失うものを見ればよい。
道具修理屋では、火鉢と作業台が近かった。油と金属の匂いがこもり、窓は小さい。布屋では、天井に雨染みがある。湿った布の冷たさが、指で触れずとも分かる。
真壁は店を回るたび、紙の端へ短く印を足した。棚の狭さ、湿気、火元、雨漏り、荷の置き場、住居との近さ、裏路地の暗がり。項目ではなく、あとで線になる材料だった。
商店主たちは、警戒を解かなかった。だが、真壁が店を見ずに土地だけを見ているわけではないことには、気づき始めていた。
雑貨屋の中は狭かった。
棚と棚の間を通るだけで、肩が商品に触れそうになる。小物はあるのに、奥の商品が見えない。店主はそれを分かっているから、入口にばかり商品を積む。すると、さらに奥が見えなくなる。
悪循環だった。
「移れと言われて、客が戻る保証があるのか」
店主は、声を荒げるというより、噛みしめるように言った。
「今の店で、客は奥まで入れていない」
真壁は棚の角を見ながら返した。
「……それは、棚が狭いからだ」
「なら、間口を広げる。奥の商品が見える棚にする」
店主の口が止まった。
怒りに来たはずなのに、店の悩みに答えられている。
食料品店では、袋の口を縛った穀物が床に近い位置に積まれていた。冬でも湿気が残る。夏になれば、もっと悪くなる。
「倉庫がないんだよ。仕入れを増やせと言われても置けない」
「地下2階に貯蔵を置く。店頭は売る分だけ出す」
「地下?」
「温度が安定する。湿気は抜く」
店主は、怒るために開いた口を閉じられなくなった。
布屋では、店主の女が天井の染みを指で示した。冬の日差しが布の束をかすめているのに、布の端には冷たい湿り気が残っている。
「うちは雨漏りで布がやられる。新しい場所でも同じなら意味がない」
「布は乾いた区画に置く。上ではなく風下を避ける」
「風下?」
「匂いと湿気が流れる向きを見る」
女店主は目を細めた。
「そこまで見るのかい」
「布は湿ると価値が落ちる」
「……分かってるじゃないか」
道具修理屋では、火を使う作業台と木の棚が近かった。店主は腕に黒い煤をつけたまま、真壁を睨む。火と油と木材の匂いが混じり、狭い窓では煙が抜けきっていない。
「火を使うんだ。隣が食べ物屋なら嫌がられる」
「火を使う区画は石床にする。煙は上へ抜く」
「煙を上へ抜くって、簡単に言うな」
「簡単ではない。だから先に分ける」
真壁は、その場で紙へ線を引いた。修理屋の作業場は通り側ではなく、奥の石床区画。煙は排煙へ。客は表。荷は裏。
商店主が、その線を見て黙る。
説得されているのではない。
自分の文句が、建物の形に変わっていく。
「そんな建物を誰が建てる」
「押入商会が組む」
「金は」
「土地と古い店を、新しい店と住まいに替える」
その言葉で、数人の商店主が顔を見合わせた。
店を失う話ではない。
住まいを奪われる話でもない。
まだ信じたわけではないが、怒りの向きが変わった。どう反対するかではなく、自分の店がどうなるかを聞く顔になっている。
真壁は、紙の端に現代側の言葉を書きかけて、すぐに消した。
この世界で必要なのは、難しい仕組みの名前ではない。
新しい店と住まい。
その一文へ書き直すと、商店主たちの目は、ようやく紙の上で止まった。
午後になると、商店主たちは店先の中庭に集まっていた。
冬の影が伸び、通りの人通りが少し落ち着いている。真壁は石畳の上に大きめの紙を広げ、四隅を金属片で押さえた。風が吹くたびに紙の端が浮き、商店主たちの影が図面へ落ちる。
図面は、最初から商店主たちを黙らせた。
地上だけではない。地下まである。
「立ち退きではない」
真壁は言った。
「では何だ」
「建て替えだ。地下2F、地上5F」
商店主たちが一斉にざわついた。
「地下2F?」
「地上5F?」
「うちの店をどこに入れる気だ」
「1階。通りに面す」
真壁は紙を指で押さえながら、建物の断面を下から上へなぞった。客からは見えない深い階に貯蔵と発酵を置き、その上に雨でも食べられる食品街を入れる。地上の入口には今の商店を通りへ向けて並べ、片側に騎士団詰所を置く。さらに上にはヴァルトの技術拠点と、商店主や弟子たちが暮らす部屋を重ねる。
真壁が言葉にするたび、紙の中で建物が立ち上がっていくようだった。
「食品街って何だ」
「雨でも食べられる場所だ。複数の店が並び、席を共有する」
若い商店主が、思わず身を乗り出した。
「客が来るのか」
「来る。屋台はすでに混んでいる」
その言葉に、数人が黙った。リュシア商会の屋台が混んでいることは、ここにいる者なら知っている。雨が降れば客は逃げる。暑ければ匂いと熱で列が崩れる。だが、屋根と席があれば話は変わる。
食料品店主が、地下の深い方を指した。
「地下はうちが使えるのか」
「貯蔵を分ける。味噌、醤油、酒、食材は混ぜない」
「味噌と醤油も置くのか」
「食べれば欲しくなる」
商店主の何人かが、理解したような、しないような顔になった。
真壁は気にせず線を引く。
通り側に既存商店を並べ、角には客を引きやすい店を置く。片側に騎士団詰所を引き込み、地下への入口は中央と側面に分ける。上階の住居入口は客の出入りと重ならないよう裏側へ回し、荷は商店の裏から入れる。排煙は屋上へ逃がし、水は下で受ける。酒の売り場は詰所から視線が届くが、近すぎて客が固まらない位置へずらす。
布屋の女店主が図面を覗き込む。
「住まいは本当に上にあるんだね」
「ある」
「店と離れすぎると困る」
「階段を分ける。店主用は裏側。客と混ぜない」
「雨漏りは」
「屋上から逃がす」
道具修理屋が腕を組んだ。
「火は」
「石床。煙は上。食品と分ける」
「客が怖がる」
「見えすぎない場所にする」
全員が、反対ではなく質問をしていた。
真壁はそれを見て、図面の端に日付を書き込む。
「工事は来週。おそらく数時間」
商店主たちの目が、今度こそ丸くなった。
「数時間?」
「連絡を済ませておきたまえ」
「いや待て、家族に話す時間がいる」
「だから来週だ」
「来週は早いだろう」
「数時間だ」
「そこじゃない」
商店主たちの声が重なった。
怒りではない。混乱だった。
真壁は紙を畳まず、写しを作るための紙を出した。家族に見せる図が要る、と言いながら、もう次の紙に同じ形を描き始める。
商店主たちは、止める言葉を探す前に、図面のどこが自分の店かを見てしまっていた。
騎士団の訓練場には、冬の夕方とは思えない熱があった。
土の上には足跡が重なり、木剣の打ち合う音が乾いて響く。革鎧の匂い、汗の匂い、白い息。部下たちは肩で息をしているのに、レオンハルトだけが姿勢を崩していない。
「隊長、もう一巡ですか……」
「動きが鈍い。もう一度だ」
「隊長だけ疲れておられません……」
部下の声には、尊敬より先に理不尽が混ざっていた。
真壁は訓練場の端でそれを見た。
「効果は出ているようですな」
レオンハルトがこちらを向く。
「真壁殿。用件は」
部下の1人が、助かった、という顔をした。レオンハルトは見ていないようで見ている。部下はすぐに目を逸らした。
「セルマ工房近くに詰所を置きたい」
真壁が図面を出すと、レオンハルトの顔が訓練から実務へ変わった。
「誘拐未遂の件か」
「再発防止だ。新拠点と食品街も作る。人の流れが増える」
「食品街?」
「地下だ」
レオンハルトの眉が動いた。
「地下に人を集めるなら、なおさら詰所が要る」
「結構」
真壁は図面の1階部分を示す。通りに面した商店、地下へ降りる階段、裏口、セルマ工房へ続く道、酒売り場の位置が、紙の上で近づきすぎないよう並べられている。
レオンハルトは、真壁の指先を追いながら、すぐに人員の顔を思い浮かべるような目になった。
「詰所は通りと裏口の両方が見える位置がいい。地下へ降りる階段も視界に入れる。酒を置くなら、夜の人員を厚くする必要がある」
「人員を要請する」
「侯爵に確認する。だが、必要性は分かった」
訓練場の端で、部下が小声で言った。
「詰所勤務なら、訓練よりは……」
レオンハルトは図面を見たまま言った。
「詰所勤務にも訓練はある」
「……はい」
部下の肩が、さらに落ちた。
真壁はその様子を見ても、特に慰めなかった。疲労耐久が上がった上官に合わせる部下は大変だろう。だが、詰所を任せるなら、動ける者でなければならない。
レオンハルトは図面の端に指を置いた。
「ここに立つと、セルマ工房の搬入口が見える。だが、騎士が目立ちすぎれば客が寄りにくい」
「詰所の入口を少し引く」
「灯りは必要だ。夜の裏路地が暗い」
「屋上と連動する」
「屋上?」
「水槽、排煙、見張りだ」
レオンハルトは一度だけ黙った。
「真壁殿。これは、ヴァルト殿の拠点の話だったか」
「器だ」
「大きいな」
「中身が多い」
レオンハルトは否定しなかった。
否定しない代わりに、訓練場の部下たちへ目を向ける。
「もう1巡だ」
部下たちの顔から、詰所勤務への淡い希望が消えた。
セルマの工房に入ると、薬草の匂いが濃くなった。
乾いた葉、煮出した液体、すり鉢に残る粉、棚に並ぶ瓶。夕方の光は窓から斜めに入り、作業台の上だけを明るくしている。奥の棚は暗く、瓶の中の沈殿が鈍く光った。
セルマは鍋の中を見ていた。
真壁はすぐに話しかけず、作業台から少し離れた位置で待つ。セルマは色と匂いを確かめ、木べらを置いてからようやく顔を上げた。
「今度は何を建てる気だい」
「共同商館だ」
「共同?」
「地下2F、地上5F」
セルマの目が細くなった。
「……うちと同じ規模かい」
「揃える」
「なぜうちの近くで」
「薬、浄化、魔道具、治安。近い方がよい」
セルマは、すぐには頷かなかった。
便利になる、という言葉を簡単には信用しない顔だった。工房には工房の都合がある。薬草の搬入、乾燥に必要な風、患者や相談者の出入り、匂いの流れ、水場への道。大きな建物が隣にできれば、それらは簡単に乱れる。
「うちの搬入路を塞ぐなら、許さないよ」
「塞がない。むしろ広げる」
「詰所も置くって聞こえたけど」
「誘拐未遂の再発防止だ」
その言葉で、セルマの表情がわずかに変わった。
以前の騒ぎは、ただの過去ではない。工房で働く者にとっては、まだ角の影に残っている不安だ。
「それなら、文句は半分にしておく」
「半分で結構」
「残り半分は、図面を見てからだよ」
真壁は図面を広げた。
セルマは椅子に座らず、立ったまま図面を覗き込む。薬草の粉がついた指で、工房の搬入口を指した。
「ここは塞がない。水場へ行く道も残す。乾燥棚の風を遮るなら困る」
「風は上へ抜く」
「食品街の油と酒の匂いがこっちに来るのも困るよ」
「排気を分ける」
「うちの匂いが向こうへ流れすぎても、料理の邪魔になる」
「それも分ける」
セルマは、真壁が紙の上に線を足すのを見ていた。排煙の線は工房の窓から逃げ、水場への道は残り、搬入口はむしろ広がる。詰所は近いが、患者や相談者が騎士の前を必ず通る形にはなっていない。
真壁の線は速いが、雑ではない。工房を飲み込む線ではなく、工房の周りを避けて通る線だった。
「灯りは」
「詰所の灯りは工房の窓へ直に当てない」
「夜の調合作業に邪魔だからね」
「承知している」
セルマは、ようやく腕を組んだ。
「条件付きだ。工事前に、もう一度見せな」
「結構」
「それと、食品街に薬草酒だの薬効料理だのを勝手に出すんじゃないよ」
「出さない」
「本当だね」
「薬は君の領分だ」
セルマは、そこで少しだけ口元を緩めた。
「分かってるならいい」
真壁は図面を畳んだ。
工房の鍋から、また薬草の匂いが立つ。共同商館の大きな線の中に、この匂いだけは勝手に混ぜてはいけない。真壁はそれを、言葉ではなく配置で示していた。
リュシア商会の前は、夕方になっても混んでいた。
屋台の火から上がる湯気が、冬の空気に白く広がる。焼いた肉の匂い、油、香辛料、温かい汁物の香り。客は硬貨を握り、列は道へはみ出しかけている。荷車が通るたびに列が割れ、店員が慌てて客を寄せた。
売れている。
だが、危うい。
真壁はその列を見てから、商会の中へ入った。
リュシアは帳面と棚の間で、店員へ短く指示を出していた。客の残り声、棚を閉める音、硬貨の鳴る音が重なる。真壁を見ると、リュシアはすぐに目を細めた。
「今度は何を動かすんだい」
「地下に食品街を置く」
「地下?」
リュシアの手が帳面の上で止まった。
「雨に濡れない。夏は涼しい。席を共有できる」
「あんた、以前の屋台の相談を覚えてたのかい」
「受けた」
リュシアは帳面を閉じた。
「雨の日は客が食べる場所に困る。暑い日は火と匂いでひどい。列が道に出る。売れてるのに危なくなってる」
「なら、屋根と席と風が要る」
「屋台小屋かい」
「食品街だ」
リュシアは、商人の顔で真壁を見た。意味が分からない言葉を聞いた時の顔ではなく、分かりそうで危ない言葉を聞いた時の顔だった。
「……あんた、屋台を建物に入れる気かい」
「そうだ。味噌と醤油の売り場も置く」
「食べる場所だけじゃないのかい」
「食べれば欲しくなる。欲しくなった時に売り場が要る」
リュシアは少しだけ黙った。
「商売の導線としては正しいね」
「酒も置く」
「待ちな。急に大人向けになったよ」
「売り場は分ける。試飲も分ける。料理用、贈答用、店向けも分ける」
「あんた、屋台街じゃなくて、町の胃袋を作る気だね」
「結構」
「褒めてないよ」
それでも、リュシアは図面を受け取った。
地下の深い階に貯蔵があり、その上に食品街がある。1階には商店と詰所が並び、2階にはヴァルトの技術拠点が入る。上には住まいが重なっている。リュシアは建物の大きさに感心するより先に、地下1階の中央へ指を置いた。
「席はここだけじゃ足りない。雨の日は客が一気に入る」
真壁が線を足す。
「器の返却口は入口近くに置くんじゃないよ。出る客と入る客がぶつかる」
線が変わる。
「洗い場は水場のそば。火を使う店と離しすぎると人が走る」
また変わる。
「酒の試飲は奥。だけど奥すぎると目が届かない。詰所から見える角度にしな」
「結構」
「味噌と醤油は、そのまま売っても最初は分からないよ。食わせてから売る。汁物、焼き串、煮物。料理屋や宿屋には樽。家庭には小瓶。貴族家には贈答箱」
真壁は、図面の横に短く書き込む。食べる場所から売り場へ、売り場から小瓶へ、料理屋や宿屋へ、さらに贈答用へ。言葉は短いが、リュシアには客の腹から財布までの道筋に見えた。
「食べる場所を作るなら、売る店だけじゃ駄目だよ。片づける人、水を運ぶ人、器を洗う人、火を見る人が要る」
「運営費を席料と出店料に入れる」
「言葉は簡単だね」
「実務は君が見る」
「やっぱりそう来たかい」
「商人の仕事だ」
リュシアは腕を組んだ。
怒っているわけではない。計算している顔だった。
リュシア商会の屋台だけで独占すれば、反発が出る。既存商店主にも利益が残る形にしなければ続かない。食材、器、燃料、清掃、席の管理、場所代。売れるだけでは足りない。回る仕組みが要る。
「澪には話したのかい」
「大学だ」
「ヴァルトには」
「まだだ」
リュシアは、ゆっくりと真壁を見た。
「本人の拠点と、その下の食品街を、本人にまだ話してないのかい」
「器がよければ中身も品が出る」
「その器、ずいぶん大皿になってきたね」
真壁は否定しなかった。
リュシアは図面をもう一度見た。外では、屋台の列がまた道へはみ出し、店員が声を張っている。
雨の日でも食べられる。夏でも涼しい。食べたものを、その場で買える。客が増える。店も増える。管理も増える。リュシアは長く息を吐いた。
「やるなら、雑にはできないよ」
「だから来た」
「そこだけは、褒めてやる」
真壁は、わずかに頷いた。
褒められたのか、仕事を増やされたのか。
リュシアはその境目を考えるのをやめ、帳面を開いた。
夜の候補地は、昼より正直だった。
店の戸は閉まり、軒先の影が石畳に落ちている。冬風が古い看板を小さく鳴らし、裏路地の暗さがはっきり見えた。セルマ工房の方には、まだ薄い灯りが残っている。薬草の匂いが、冷えた空気に細く混ざっていた。
真壁は通りの中央に立ち、昼間とは違う角度で見た。
詰所の灯りが届く範囲、地下食品街へ降りる入口、裏の搬入口、セルマ工房へ残す道。さらに頭の中では、屋上から排煙が抜け、地下2階に樽が並び、2階でヴァルトが弟子に術式を教え、上階で商店主の家族が暮らしている。
今は古い店と暗い路地しかない。だが、真壁の地図の上では、すでに人が動いていた。
戸締まりをしていた商店主が、真壁に気づいて声をかけた。
「まだ見てるのかい」
「夜を見ている」
「夜?」
「昼と夜では、危ない場所が違う」
商店主は、裏路地の方を見た。
昼間には文句の勢いで気づかなかった暗さが、夜には見える。詰所の灯りがあれば、確かに変わるかもしれない。
「……そういうもんかね」
「詰所の灯りはここまで届く。地下入口はあちらだ」
「もう建ってるみたいに言うね」
「建つ」
「本当に来週かい」
「連絡を済ませておきたまえ」
商店主は、呆れたように戸を閉めた。
木の戸が閉まる音が、夜の通りに響く。
真壁は地図へ最後の印を入れた。ヴァルトの拠点、騎士団詰所、店舗と住まい、地下の食品街、さらに深い貯蔵階、セルマ工房の搬入路、リュシア商会から流れる屋台の客、酒売り場、排煙塔、屋上水槽、弟子たちの住む部屋。別々の問題だったものが、紙の上でひとつの建物へ収まっていく。
収納の中には、2つの札が残っていた。
澪説明用。
ヴァルト説明用。
朝は空だったそこに、今は紙束が入っている。真壁は封をして、まだ取り出さない位置へ戻した。
冬風が、また看板を鳴らす。
「器がよければ、中身も品が出る」
真壁は短く言い、地図を畳んだ。
その器に入れられる予定のヴァルトと澪は、まだ何も知らなかった。