百円ショップの袋は、いつも軽いようで重かった。
安い皿を1枚、足りなくなった文房具を少し。そこへ、必要だったかどうか怪しい小物が2つ3つ混じる。帰ってから袋を開けて、これは何に使うつもりだったんだろう、と澪はよく思った。
昨日までは、そういう場所だった。
アパートの鉄階段を下りると、靴底の下で薄い錆の混じった音がした。朝の江古田は、いつもの顔をしている。コンビニの前には配送用の台車が置かれ、自転車がブレーキを鳴らして角を曲がっていく。駅へ向かう学生たちは眠そうで、電柱の影はアスファルトの継ぎ目に沿って伸びていた。
澪だけが、ときどき足を止めそうになる。
机の引き出しにしまった銀貨のことを、忘れたふりができなかった。三十センチ定規は、向こうの子どものものになった。爪切りは、大人が硬貨を出して買っていった。
あの時の手の重さと、石畳の感触を思い出すたび、トートバッグの持ち手を握る指に力が入る。
「五千円まで」
歩きながら、小さく口に出した。
昨日の夜、財布の中身と家計簿アプリは何度も見た。口座にはまだ10万円ほどある。数字だけなら、ないわけではない。けれど、家賃を引く。スマホ代を引く。教材費を思い浮かべる。すると、10万円という表示は、急に頼りないものになる。
今日使っていいのは5,000円。
できれば3,000円台。
買わなければ、売るものがない。買って売れなければ、ただ財布が薄くなる。買わずに帰って、あとで「あれは売れたかもしれない」と気づくのも嫌だった。
「商売って、買う前から怖いんですね」
返事はない。
大学で隣の席の子に、押入れの向こうの市場で爪切りが売れたんですけど次は何がいいと思いますか、と相談するわけにはいかない。聞かれた方も困る。たぶん、ものすごく困る。距離を置かれても文句は言えない。
百円ショップの前に着くと、自動ドアが開いた。
白い照明が、棚の奥まで均一に届いている。入口で買い物かごを取って、澪はまず棚の端に貼られた値札を見た。どの商品にも、最初から値段がついている。
昨日の市場では、それだけのことがなかった。
値段を聞くにも勇気がいる。相手が剣を下げていれば、なおさらだった。
澪は息を吐いて、買い物かごの持ち手を握り直した。
店内に入る。
棚はいつも通りなのに、目に入るものが昨日までと違っていた。
爪切りは、小さくて精密な金属刃だった。手鏡は、顔をはっきり映す板だった。裁縫針は、同じ太さでそろった細い金属だった。虫眼鏡は、小さい傷を逃がさない丸いレンズだった。
「……説明が雑」
自分の頭の中の呼び方に、澪は少し落ち込んだ。商品名をつける才能はなさそうだった。
まず爪切りを選ぶ。
昨日売れたものだ。知らないものをいきなり増やすよりは、まだ怖くない。澪は同じ形を3つ、少し大きめを1つ、小さいものを1つ取った。
棚の前で、金属部分が曲がっていないか、刃がきちんと合っているかを確かめる。普段ならそこまで見ない。自分用なら、まあ使えればいいかで済ませている。
今日は違った。
誰かが硬貨を出して買うものだ。
そう思った瞬間、かごの中の爪切りが、少し重くなった気がした。
手鏡の棚では、丸いものと四角いものを見比べた。大きい方が目立つ。価値も伝わりそうだ。けれど持ち運びが怖い。異世界の石畳で落としたら終わる。割れた鏡を前にして返金を求められた時、自分がどんな顔で謝るのかまで想像してしまった。
澪は軽くて、縁がしっかりしているものを2つ選んだ。
3つ目へ伸ばしかけた手を止める。
「五千円まで」
小声で言い、棚へ戻した。
裁縫道具の棚では、針と糸を見比べる。針は細く、まっすぐで、長さがそろっていた。昨日の市場で見た針は、もう少し太く、不揃いだった。向こうにも職人はいる。澪よりずっと上手に道具を使う人もいるはずだ。
それでも、この均一さは目につく。
裁縫針のセットを2つ。糸は派手すぎない色をいくつか。糸切りばさみも1つ。
文房具売り場に行くと、鉛筆とメモ帳の前で足が止まった。
紙はどうなのだろう。
昨日、丸めたレポート用紙を子どもが拾って逃げた。単に珍しかっただけかもしれない。けれど、文字を書くものには使い道がある。商人なら帳面をつける。職人なら寸法を書く。大学生の澪でも、それくらいは分かる。
鉛筆を1袋、メモ帳を2冊。
そのあと、虫眼鏡の前で長く迷った。
百円ショップの虫眼鏡。現代では、あれば便利、なくても困らない。そんな道具だ。小さいものを大きく見られるということは、針の先も、布目も、硬貨の傷も見える。
澪は虫眼鏡を1つ手に取り、天井の照明にかざした。
丸いレンズの向こうで、光が少し歪む。
「……怪しい道具に見えませんように」
祈ってから、かごに入れた。
レジに並ぶころには、買い物かごはいつもの生活用品より落ち着かない重さになっていた。
店員が商品を読み取り、電子音が短く鳴る。合計金額が表示される。澪は財布から千円札を出し、釣り銭を受け取った。
レシートをつまむ指先が、少し湿っていた。
いつもの買い物なら、財布へ押し込んで終わりだ。今日は捨てるのが怖い。いくらで買ったかを覚えておかないと、たぶん失敗する。
百円ショップの袋を提げて外へ出ると、朝の光が少し白く見えた。
部屋に戻ると、澪はちゃぶ台の上に商品を並べた。
爪切り、手鏡、裁縫針、糸、糸切りばさみ、髪留め、小さなステンレス皿、鉛筆、メモ帳、虫眼鏡。
並べてみると、どれも百円ショップの商品だった。透明な袋にはバーコードがついている。裏面には注意書きと会社名が細かく印刷されている。異世界の市場でこのまま広げたら、商品よりも文字の方が目立つ気がした。
澪は爪切りの袋を1つ手に取り、裏を見た。
材質。使用上の注意。会社名。
向こうの人が読めるとは思えない。読めないから大丈夫、とは思えなかった。意味の分からない文字がびっしり並んだ小袋を渡されたら、自分ならかなり警戒する。
「これ、このまま出したら目立ちますよね」
返事はない。
澪は爪切りと手鏡の包装を外した。裁縫針は危ないので台紙を残す。虫眼鏡は傷がつかないよう、薄い布で包んだ。鉛筆は数本だけ取り出し、残りは袋に戻した。
値札のシールを剥がすと、縁に少しだけ粘着の跡が残った。
澪は爪切りを布の上で向きを変え、しばらく見た。
「値札の跡……向こうの人、気にしますかね」
気にしないかもしれない。気にするかもしれない。そもそも、値札の跡を気にする異世界商売とは何なのか。考え始めると、自分がいまどこに立っているのか分からなくなる。
澪はレシートを折り、ノートに挟んだ。捨てられない。買った金額が分からなくなると、売れたのか損したのかも分からない。
リュックの底にタオルを敷き、商品を入れる。金属同士が当たらないように隙間を埋めた。財布と学生証は置いていく。スマホも机の上に伏せた。
押入れの向こうで落としたら終わるものは、持っていかない。
リュックの小さなポケットには、空のポーチを入れた。昨日の銀貨を思い出したからだ。硬貨をそのままポケットへ入れて、歩くたびに鳴らすわけにはいかない。
押入れの前に座ると、息が浅くなった。
昨日も通った。戻ってこられた。頭では分かっている。畳の上に手をつき、襖の取っ手に指をかけると、背中の奥が冷える。
「行って、売って、帰る」
言葉にしてから、澪はうなずいた。
それ以上のことを考えると、足が止まりそうだった。
襖を開ける。
押入れの向こうには、石畳の路地があった。
部屋の蛍光灯とは違う、乾いた光が差している。土と煙と焼いた肉の匂い。人の声。荷車の軋む音。布の日除けが揺れる影。昨日と同じで、昨日より現実味があった。
澪は靴を履き、畳から石畳へ足を移した。
振り返ると、六畳間がある。ちゃぶ台、ギター、彫金工具、大学のプリント。そこに戻れると思うだけで、少し息ができた。
市場の入口には、昨日の大柄な男がいた。
革の胸当てをつけ、腰に短い剣を下げている。目が合った瞬間、澪の背筋が伸びた。百円ショップの自動ドアと白い照明が、ずいぶん遠く感じる。
「また来たのか」
「はい。少しだけ」
「東の旅人」
「……はい。東の旅人です」
男は澪のリュックを見た。
「揉めるなよ」
「努力します」
「努力じゃなく、揉めるな」
「はい」
澪はうなずき、市場へ入った。
音が増える。
焼けたパンの匂いに、干し魚の塩気が混じっていた。革紐を吊るした店の隣では、薬草を束ねた老婆が客と値を言い合っている。木の椀を積んだ台の奥で、色のついた石が朝の光を拾っていた。
昨日よりも少しだけ、見えるものが増えている。
針はどの店にもあるわけではない。鏡は小さく、映りは淡い。金属の小物はあるが、細かいものほど値が張りそうだった。
澪は市場の端、邪魔にならなさそうな場所にしゃがみ、小さな布を広げた。
最初から全部は出さない。
爪切りを2つ。手鏡を1つ。裁縫針のセットを1つ。
布の上の現代の小物は、土埃の混じる市場の中で、何も知らない顔で光っていた。澪は膝の上で手を握る。声を出して客を呼ぶ勇気はない。商品を見てくれる人が来たら説明する。それくらいなら、できる。
最初に来たのは、昨日の商人だった。
髭の濃い、腕の太い男。腰には革袋がいくつも下がっている。手には、昨日買った爪切りが握られていた。
「その爪刃、まだあるか」
「爪切りです」
「爪を切る刃物だろう」
「まあ、そうですけど」
商人は近くの男に爪切りを見せた。ぱちん、と小気味いい音がする。男が目を丸くした。
「何だ、それ」
「爪刃だ」
「爪切りです」
澪の訂正は、かなり弱かった。
商人は布の上の爪切りを1つ手に取り、刃を開いたり閉じたりする。力を入れすぎないか、壊さないか、澪は息を詰めて見ていた。
「いくらだ」
来た。
澪は固まった。
いくら。値段。いちばん考えなければならないことなのに、いちばん分からないことだった。昨日の銀貨は多かったのか少なかったのか。銅貨何枚でパンが買えるのか。銀貨1枚で何日暮らせるのか。何も分からない。
「えっと……」
声が詰まった時、別の女性が手鏡を手に取った。
淡い青い布を頭に巻き、耳に小さな飾りをつけている。野菜の籠を腕にかけたまま、手鏡を覗き込んだ。
「まあ」
女性の声が明るくなる。
「水よりはっきり見えるわ」
その一言で、周りの女性たちが近づいてきた。
「見せて」
「ちょっと、私も」
「髪、変じゃない?」
手鏡は、あっという間に化粧直しの場になった。
順番に覗き込み、髪を押さえ、耳飾りの位置を直し、顔を寄せ合って笑う。澪は布の前で手を出しかけ、引っ込めた。
それ、商品です。
売り物です。
見るための道具ではある。見るだけで終わられると困る。
「あの、買う方は……」
声が市場のざわめきに飲まれた。
見学料を取りたい。
そんなことを言っていいのか分からない。
困っていると、横から声がした。
「そのままだと、安く見られるわ」
澪はびくっとして振り向いた。
木箱の横に、若い女の子が立っていた。澪と同じくらいの年に見える。赤茶色の布を頭に巻き、髪は肩のあたりでゆるく結んでいる。顔立ちは柔らかい。声も、きつくはない。
なのに、澪は一歩引きたくなった。
その子の視線が、澪の顔で止まらなかったからだ。布の上の商品、客の手元、腰に下がった革袋。見る順番に無駄がない。
笑っているのに、見ている場所が甘くない。
「安く、ですか」
「ええ。珍しい物は、値を出す前に触らせすぎると損をするの」
澪は手鏡を囲んでいる女性たちを見た。
たしかに、みんな楽しそうに覗き込んでいる。髪を直し、耳飾りを触り、隣の人と笑っている。楽しそうなのはいい。ただ、誰も買っていない。
澪の胸の中で、さっきまで形のなかった不安に、急に名前がついた気がした。
若い女の子は女性たちに向き直った。
「見るだけなら銅貨1枚。髪を直したなら、もう1枚。買うなら別に値を聞いて」
女性たちは口々に文句を言った。
澪は反射的に身構える。
怒られる。たぶん怒られる。というか、今のは私が言ったことになるのだろうか。
だが、女性たちは文句を言いながら、銅貨を置いた。
布の端に、硬貨が1枚、2枚と増えていく。
「払うんだ……」
思わず漏れた声は、自分でもかなり間抜けだった。
女の子は澪を見た。
「払わない人には見せない。それだけよ」
それだけ。
澪の頭の中で、その言葉が転がった。それだけで済む人と、それだけが言えずに固まる人がいる。もちろん後者が自分だ。
「あの、ありがとうございます」
「まだ礼を言うところじゃないわ。値を決めていないでしょう」
「……はい」
正論が早い。
助けてくれたのに、叱られている気もする。澪は布の端の銅貨を見て、少しだけ背筋を伸ばした。少なくとも、この子は今の人だかりを売り上げに変えた。
つまり、怖い。
「私はリュシア。小物を扱ってる。あなたは?」
「篠原、澪です」
「シノハラミオ?」
「澪でいいです」
「ミオね」
リュシアは音を確かめるように繰り返した。
異世界の市場で自分の名前を呼ばれるのは、不思議だった。大学の教室で呼ばれる時とは、少し響きが違う。逃げ場のない場所で、名前だけ先に馴染んでしまったような感じがした。
リュシアの視線は、すぐに布の上へ戻る。
「ミオ、これはどこから持ってきたの?」
「東の方から」
「東は広いわ」
「かなり東です」
リュシアは少しだけ目を細めた。
澪は自分の答えがひどいことに、言ってから気づいた。かなり東。何だそれは。地図帳の端でも指しているつもりなのか。
「言いたくないなら、そう言って。下手な嘘は値を下げるわ」
怒られた。
いや、怒鳴られたわけではない。声は落ち着いている。だから余計に、言葉がまっすぐ刺さった。
嘘が下手だと、商売では値段まで下がるらしい。
澪は、今後の人生で覚えておきたいような、覚えておきたくないような知識を得た。
「……言えません」
「なら、それでいい」
リュシアはあっさり頷いた。
そこで深追いしないのか、と澪は少し驚いた。聞き出すつもりなら、もっと詰められると思っていた。
だが、リュシアは出どころよりも品物を見ている。
怖い。けれど、話が早い。
「ここでは目立つ。裏へ来て。人に囲まれたまま売る品じゃない」
「全部見せるんですか」
「全部でなくていい。売りたい物だけ。値をつけるには、使い方を聞かないと無理よ」
「値を、つける」
「そう。あなた、品は悪くない。でも売り方を知らない」
澪は言い返せなかった。
品は悪くない。
その一言だけが、少し遅れて胸に残った。褒められたのか、叱られたのか、まだ分からない。たぶん両方だ。リュシアは一言で2つやるタイプらしい。
市場の表は人が多い。このまま広げていると、もっと注目される。知らない人に囲まれる。値段を聞かれる。
それを想像しただけで、喉の奥が詰まった。
澪は布をたたみ、商品をリュックに戻した。
リュシアについて、市場の裏手へ向かう。
表の喧騒が少し遠ざかった。
細い通路の上には布が張られ、光が柔らかく落ちている。木箱が積まれ、革袋と干し草の匂いがした。壁には古い布がかけられ、小さな台の上に秤が置かれている。
安全そう、とは思えない。
だが、表で囲まれるよりはまだ息ができる。
リュシアは台の上を空け、手で示した。
「出して」
短い。
命令ではないのに、命令に近い。
澪は逆らう理由を探したが、見つける前に手が動いていた。
爪切り。手鏡。裁縫針。糸。糸切りばさみ。髪留め。ステンレスの小皿。鉛筆。メモ帳。
最後に、布で包んだ虫眼鏡を置く。
リュシアの手が止まった。
「これは?」
「小さいものの細かいところを見る道具です」
「拡大する道具?」
「見えるだけです。物が大きくなるわけではありません」
「見えるだけ、ね」
リュシアは虫眼鏡を手に取り、丸いレンズを覗き込んだ。
澪は少し緊張した。
百円ショップでは、子どもの観察セットの近くに置かれているようなものだ。それが今、異世界の商人の手の中で妙に立派な道具に見えている。値段を知っているのは自分だけだと思うと、むしろ落ち着かない。
リュシアはすぐに台へ置き直し、腰の袋から古い銅貨を1枚出した。
「これで見せて」
試すのが早い。
澪は銅貨を台に置き、虫眼鏡をかざした。
表面の傷がはっきり見えた。刻印の端が潰れている。文字の溝に黒ずみが入っている。肉眼では曖昧だったものが、急に逃げ場をなくしたように見える。
「ここに傷があります。あと、この文字の端が少し潰れています」
リュシアが覗き込む。
顔つきが変わった。
さっきまでの笑みが消え、目だけが銅貨に近づく。
「……見えるわね」
「はい」
「偽物の硬貨を見るのに使える。薬草の葉も、宝石の欠けも、針の先も見られる」
リュシアは虫眼鏡を台に戻さなかった。
戻さない。
澪はその手元を見て、今さら気づいた。
これは、売れる。
たぶん、思っていたよりずっと。
「これは私が買う」
「え?」
「表に出すには早いわ。値を知らない人に売ると損をする」
「そんなにですか」
「そんなに」
短い返事だった。
怖いくらい、迷いがない。
リュシアは次に爪切りを手に取り、刃を開いて閉じた。
「これは旅人と職人。爪だけじゃなく、細い革の端を整える人も欲しがるかもしれない」
「革にも使うんですか」
「試してから。壊れるなら言わない」
澪は少し感心した。
自分は爪を切る道具としてしか見ていなかった。リュシアは、誰が、どこで、どんなふうに使うかを同時に考えている。
同じ物を見ているはずなのに、見えている棚が違う。
手鏡は、光へかざして映りを確かめる。
「これは女性客。髪結いにも売れる。貴族の侍女に見せるなら、傷をつけずに包んでおくこと」
貴族。
単語だけで、澪の心臓が少し嫌な動きをした。
いきなり客層が遠い。百円ショップの鏡が貴族に行くかもしれない。そんな流通経路は、家計簿アプリには載っていない。
裁縫針は、指先で1本ずつ撫でた。
「針は仕立て屋。細すぎる物は折れるかもしれないから、最初は少なく出す」
リュシアは、褒める前に危ないところを見る。
その方が信用できる気がした。褒められるより安心する、というのも少し変だが。
鉛筆とメモ帳には少し首を傾げる。
「これは説明が要るわね」
「書くものです」
「羽根ペンと違う?」
「インクが要りません」
リュシアの目がまた変わった。
「それを先に言って」
「すみません」
「謝らなくていいわ。売る時に言って」
澪はうなずいた。
謝るより、売る時に言う。
当たり前なのかもしれない。けれど澪には、その順番がまだ身体に入っていなかった。
リュシアの指が商品を動かすたび、澪には見えていなかった客の顔が、少しずつ台の上に並んでいくようだった。
最後に、リュシアは虫眼鏡をもう1度見た。
「ミオ」
「はい」
「あなた、自分の品の値を分かっていないでしょう」
「分かっていません」
即答だった。
リュシアは少しだけ笑った。
「そこは正直でいいわ」
そこは。
澪は心の中で小さく引っかかった。
つまり、さっきの東の方は駄目だったのだ。分かっている。分かっているけれど、改めて採点されるとつらい。
リュシアは台の下から硬貨袋を出した。
銅貨、銀貨、そして小さな金貨が1枚。
澪は、それを見た瞬間に動けなくなった。
銀貨より少し小さい。色が違う。鈍い金色。表面には王冠のような刻印と、小さな竜のような模様がある。
「虫眼鏡、鏡、針、爪切りをまとめて買う。これでどう?」
リュシアが言った。
澪は金貨を見たまま、声を出した。
「金貨」
「小金貨よ」
「小金貨」
「足りない?」
「足りるとか足りないとか、その前に、金貨」
自分でも情けない返しだと思った。
値段の話をしなければならないのに、頭が金色で止まっている。金貨。小金貨。小さい金貨。名前を変えても金貨だ。
リュシアは不思議そうに澪を見る。
「あなたの国には金貨がないの?」
「少なくとも、私の財布にはありません」
「では、扱い方を知らないのね」
「はい」
「なら、袋を分けて。銅貨と一緒に入れない。表で数えない。帰るまで人に見せない」
注意が具体的すぎて、逆にありがたかった。
怖い。でもありがたい。怖いのにありがたい人は、扱いが難しい。
澪は慌てて小さなポーチを出した。
「こうですか」
「底へ入れて。手を離さない」
「はい」
澪は金貨を受け取った。
手が少し震える。
うれしい。
確かにうれしい。
その上から、怖さがかぶさってくる。
銀貨でも扱いに困っているのに、金貨が来た。異世界ではお金。現代では、正体の分からない金属片。もし本当に金なら価値はある。価値があるなら、説明が必要になる。説明できないものは、たいてい面倒なものだ。
リュシアが澪の顔を見た。
「金貨をもらって、その顔をする人は珍しいわ」
「怖いです」
「でしょうね」
「分かるんですか」
「分からない物を持っている顔よ」
澪は言い返せなかった。
たぶん今、自分はかなり分かりやすい顔をしている。異世界で商売をしているつもりだったが、見知らぬ硬貨1枚で全部顔に出る。商人としては、かなり頼りない。
リュシアは虫眼鏡を布に包み、鞄へしまった。
「次も持ってきて。ムシメガネ」
「虫眼鏡です」
「ムシメガネ。あと、鏡と針。爪切りも。数は少なくていいから、同じ物を持ってきて」
「同じ物、ですか」
「同じなら、客に説明しやすい。値も崩れにくい」
「分かりました」
「分からなくても、そうして」
「……はい」
最後の一言が強い。
分かりました、と言った直後に、分かっていないことを見抜かれた気がした。澪は少しだけ笑った。笑わないと、たぶん真面目に落ち込む。
リュシアの名前を、頭の中で1度だけ繰り返す。
まだ、信用したわけではない。
でも次に市場へ来る時、あの赤茶色の布を探してしまう気がした。
押入れへ戻る路地で、澪は三十センチ定規の子どもを見つけた。
7歳くらいのその子は、定規を胸に抱え、ほかの子どもたちに見せていた。昨日よりも堂々としている。まるで戦利品を持つ兵士だった。
「これは、まっすぐを測る板だ」
たぶん、使い方はまだ分かっていない。
澪が近づくと、子どもは定規を少し隠した。
「取りません」
澪が言うと、子どもは目だけで澪を見る。
「大事にしてる?」
「これで、まっすぐの剣を描ける」
「剣」
「まっすぐの家も描ける」
「家」
「まっすぐのパンも」
「パンは、まっすぐじゃなくてもいいと思います」
子どもは真剣に考え込んだ。
考えるんだ、そこ。
澪はリュックからメモ帳を1枚取り、鉛筆で線を引いた。定規に沿わせて、紙の上にまっすぐな線を1本。
子どもたちが息を呑んだ。
「線が逃げない」
誰かが言った。
澪は少し笑った。
顔がはっきり映る。線がまっすぐ引ける。小さな傷が見える。
どれも、澪の部屋では百円で買えるものだった。
子どもたちが定規を見る目を思い出すと、その百円という値段が、急に頼りなくなる。
「次は、もっと長いまっすぐを持ってくる?」
定規の子どもが聞いた。
「1メートル定規は、押入れに入れづらいかな」
「一メートル?」
「今の3倍ちょっと」
子どもたちが、小さく震えた。
「長いまっすぐ……」
澪は、自分が妙な信仰を生みかけている気がして、少し怖くなった。
「いつかね」
そう言って、澪は路地を抜けた。
石畳から畳へ戻ると、空気が変わった。
練馬区江古田の六畳間は、何も知らない顔でそこにある。ギター、ちゃぶ台、彫金工具、大学のプリント。窓の外では自転車のブレーキ音がし、遠くで電車が走る音も聞こえた。
押入れの向こうの市場のざわめきは、襖を閉めると急に遠くなる。
澪はリュックを下ろし、ちゃぶ台の前に座った。
まずレシートを出す。
百円ショップのロゴ。買った品目。合計金額。日本円で減った数字。
次に硬貨を並べる。
銅貨、銀貨、小金貨。
最後の1枚を置いた時、ちゃぶ台の上だけが部屋から少し浮いたように見えた。
小金貨は静かに光っていた。
異世界では、これは確かにお金だった。リュシアは当然のように支払い、市場の商人たちもそれを疑わなかった。
窓の外で、自転車のブレーキが鳴った。
ここは江古田だった。
この金貨ではコンビニのプリンは買えない。学食の券売機にも入らない。スマホ代の引き落としにもならない。家賃の振込用紙に貼りつけるわけにもいかない。
澪は財布を開けた。
中には、いつもの千円札と小銭が少しだけ入っている。そこに異世界の硬貨を入れてみようとして、やめた。財布の中に入れたところで、日本円になるわけではない。
机の上で、小金貨が蛍光灯を鈍く返した。
「売れたのに」
声に出すと、少し情けなかった。
ノートには、今日売れたものの名前を書き留めた。爪切り、鏡、針、虫眼鏡。文字にすればするほど、ちゃんと何かをした気にはなる。
澪は財布を持ち上げた。
軽かった。
銀行口座も増えていない。むしろ、百円ショップの分だけ減っている。
澪はノートの端に、小金貨の模様を描いてみた。王冠のような刻印。竜のような模様。読めない文字。
描き終えてから、顔をしかめる。
「彫金やってるのに、絵が下手」
小金貨は、澪の絵よりずっときれいだった。
そして、ずっと困ったものだった。
澪は財布を閉じた。
ぱちん、という軽い音が、六畳間に落ちる。
その音の方が、今の澪にはよほど現実だった。
リライトしました。
今最新話の方は男同士のバディものになりつつあるのに、こんな可愛らしい話で癒されますなぁ