押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第2話 百円ショップは宝物庫だった

 翌朝、澪は机の上に財布を置き、中身をもう一度確かめた。

 

 確かめたところで増えるわけではない。そんなことは知っている。知っているのだが、金が少ない人間は、ときどき確認しないと、どこかで奇跡が起きているのではないかという都合のいい期待を捨てきれないのである。

 

 もちろん今回も、財布の中身は財布らしく慎ましいままだった。

 

 世の中は、だいたい家賃の引き落とし前にそういう優しさを見せてくれない。

 

 澪はスマホの家計簿アプリを開き、残高と今月の予定を見比べた。

 

 昨日、押入れの向こうに石畳の市場があったことより、こうして並んだ数字の方がよほど露骨に現実味を持って迫ってくるから困る。異世界は襖を開けないと見えないが、口座残高は開いていなくてもこちらを見てくる。現代社会の圧は静かで、しかも逃げ場がない。

 

「今日使っていいのは五千円まで」

 

 口に出すと、少しだけ歯止めになる。なってほしい。

 

 今日は百円ショップへ行くのだ。ただの買い物ではない。昨日売れた爪切りをはじめ、向こうの市場で価値になりそうなものを探しに行く。言い換えれば、百均を異世界向けの商品棚として見に行く。

 

 冷静に考えるとかなりおかしい。

 

 だが、机の引き出しの中にある銀貨が、そのおかしさを全部「でも本当なんだよな」で押し切ってくる。

 

 財布を閉じ、トートバッグを肩にかけて、澪はアパートを出た。

 

 江古田の朝は、昨日までと同じ顔をしていた。駅へ向かう学生、コンビニの前で立ち話をする二人組、商店街の端でシャッターを持ち上げる店主、自転車のベル、遠くの電車の音。空は普通に青く、道路は普通にアスファルトで、押入れの向こうに市場があることなど、この町は何も知らない顔でそこにある。

 

 その無関心さが、少しだけありがたかった。

 

 世界のどこかで妙なことが起きても、駅前のパン屋は朝になればパンを焼く。そういう鈍感さで日常はできているのだと思うと、少しだけ息がしやすい。

 

 とはいえ、落ち着けるわけでもない。

 

 頭の奥には、昨日の光景がまだ居座っていた。石畳の路地を吹き抜けた乾いた風。赤い紐の巻かれた細い手首。三十センチ定規を抱えた子どもの真顔。あの小気味よい爪切りの音。手のひらへ沈んだ銀貨の重み。

 

 夢だと言い張るには、どれも少し具体的すぎた。

 

「これで売れなかったら、さすがにちょっとへこむな……」

 

 へこむ、で済めばいい方かもしれない。

 

 昨日はたしかに売れた。だが、たまたまだった可能性だってある。異世界市場の気まぐれだったかもしれないし、髭の濃い商人がたまたま爪に困っていただけかもしれない。

 

 あの一件だけで「よし、商売だ」と百均へ向かっている自分は、もしかするとだいぶ早まっているのではないか。

 

 その疑念はあった。

 

 あったが、足は止まらなかった。

 

 商店街の角を曲がると、百円ショップの赤い看板が見えた。いつもの店だ。新しくもなく、古くもなく、便利で、安くて、つい余計なものまで買ってしまう、あの百均である。

 

 だが今日は、その見え方が少し違った。

 

 仕入れ先だ、と澪は思った。

 

 そう思ってしまった瞬間、自分で少し引く。

 

 百均を仕入れ先と呼ぶ大学生。

 

 字面だけで、人生のレールが一本増えた感じがする。しかも履修登録もまだまともに整理しきれていない二年生である。商いへ行く前にシラバスを読め、という気もする。

 

 自動ドアが開いた。

 

 白い照明、冷房のひんやりした空気、整然と並んだ棚、全部に付いている値札、控えめな店内音楽。その一歩目だけで、澪はものすごく安心した。値段が書いてある。誰かに値段を聞かなくていい。値切られない。短剣を下げた男も出てこない。

 

 文明国の小売は、本当に強い。

 

 その安心が少し落ち着いた途端、棚の見え方が変わった。

 

 宝物庫だ、と澪は思った。

 

 大げさではない。本気でそう見えた。昨日までただの節約の味方だった棚が、今日だけは全部「向こうで売れるかもしれないもの」に見える。爪切りも、鏡も、針も、髪留めも、小皿も、ただそこに並んでいるだけなのに、急に商品らしい顔をし始める。

 

 しかも全部に値札が付いていて、その値段が軽い。

 

 危険である。

 

 防犯ではなく、財布と発想に対して。

 

 澪は買い物かごを取り、爪切りの棚の前で足を止めた。

 

 これはもう、昨日証明されている。爪を切るためだけの道具、と説明したときの商人の顔や、「ぜいたくだな」と言いながら銀貨を出した手を思い出すと、爪切りだけは候補ではなく実績組だった。

 

 棚には標準サイズのほかに、少し大きいものも、小さめのものも並んでいる。

 

 手の大きさも、爪の厚さも、人によって違う。旅人と職人では好みも違うかもしれない。そこまで考えたところで、澪は自分が百均の爪切り棚の前で顧客層を想像していることに気づき、少しだけ目を細めた。

 

 冷静に見ると、だいぶおかしい。

 

 だが昨日までの自分にはなかった発想が、今日は当たり前みたいに出てくる。

 

「いや、調子に乗るな……」

 

 自分で自分へ釘を刺しつつ、標準サイズを三つ、大きめを一つ、小さめを一つ、かごへ入れた。

 

 鏡の棚へ移る。そこでも昨日の市場が思い出された。少し歪む鏡。角度によって輪郭が流れる鏡。毎朝それで前髪を見たら、たぶん少し嫌になるだろうと思った、あの感じ。

 

 棚には手のひらサイズの丸鏡や折りたたみ式の鏡、縁に装飾の付いた鏡まで並んでいる。

 

 大きい方が価値は伝わりやすそうだが、大きいと重いし、割れたときが怖い。軽くて、持ちやすくて、見た瞬間に用途が分かるもの。そうやって選んでいくと、結局、手のひらサイズの丸鏡がいちばんよく見えた。

 

 澪はそれを三つ手に取り、四つ目へ指が伸びかけたところで、朝の「五千円まで」が脳内で鈍く光るのを感じてそっと戻した。

 

 人はたいてい、欲望より先に予算で大人になる。

 

 裁縫コーナーでは、針の前で少し長く止まった。パッケージの中にきれいに揃った針が並んでいる。細さも長さも先端の尖り方も、見ていて少し気持ちがいいくらいそろっている。

 

 昨日、市場で見た籠の中の針はもっとばらばらだった。太さも違えば、微妙に曲がったものも混ざっていた。縫えないわけではないのだろう。だが、こうして整然と並ぶ針を見ると、「普通」の質が違いすぎて少し怖い。

 

 糸切りばさみも一つ取る。こちらでは、よく切れる小さいはさみ、で終わる。だが向こうで見た刃物の重さを思い出すと、この専用道具は十分に強い気がした。

 

 髪留めの棚では、澪は少し長く悩んだ。

 

 可愛い。

 

 そして、可愛いは意外と強いのではないかと思う。昨日、手鏡の前へ女性が集まり、髪を直していた姿が頭に残っている。鏡が売れるなら、髪を整える道具も売れるかもしれない。

 

 そんなふうに自然につながる発想に、自分でも少し驚いた。

 

 小皿の棚も通る。薬師や細工師が、針や小さな石や粉を置くのに使うかもしれない。主役ではないだろうが、いる人には要りそうだ。そういう小さな用途の想像が、今日は妙に具体的だった。

 

 そこで、文房具コーナーの奥に並ぶ虫眼鏡が目に入った。

 

 澪は足を止める。

 

 丸いレンズに、黒い持ち手。昔からある虫眼鏡の形だ。試しに一つ持ち上げ、値札を透かして見る。数字が大きくなる。当たり前だ。虫眼鏡なのだから当たり前だ。だがその当たり前が、昨日の市場と重なった瞬間に意味を持った。

 

 宝石の欠け。硬貨の刻み。薬草の傷み。布目。針先。彫金の細かなつなぎ。

 

 使えるかもしれない、と思った。

 

 ライト付きもあったが、電池が切れたら説明も補充も面倒だ。カード型もあったが、向こうの人には用途が伝わりにくそうだ。そうやって消していくと、結局、いちばん普通の虫眼鏡がいちばん強く見えた。

 

 かごへ入れたあとで、澪は少しだけ周囲を見回した。

 

 誰も見ていない。

 

 当たり前である。

 

 百均の棚で虫眼鏡を選ぶ女子大生に、特別な視線を向ける人間はそういない。だが澪の方は勝手に「これ、強いかもしれない」と思ってしまっているので、挙動が少し怪しかった。

 

 次の棚ではライターが目に入った。絶対に便利そうだし、たぶん売れる。だが火事になったら責任が取れない。薬の棚も視界に入ったが、体に入れるものはもっと駄目だ。包丁や大きい刃物も、見ただけで通り過ぎた。

 

 燃えるものはなし。

 体に入れるものもなし。

 大きい刃物もなし。

 

 澪は心の中で線を引いた。立派な商会の規約ではない。ほとんど臆病の産物だ。だが、異世界で責任が取れないものは持ち込みたくない。その感覚だけは妙にはっきりしていた。

 

 かごの中をもう一度見直す。爪切りも、鏡も、針も、糸切りばさみも、髪留めも、小皿も、虫眼鏡も、いまはきちんと意味があるように見える。

 

 十分だ。たぶん。

 

 いや、あと少し何かあっても、と思いかけたところで、澪は自分を急かしてレジへ向かった。

 

「もう行け、もうレジ行け」

 

 危険な欲が出るとき、人はだいたい自分に命令口調になる。

 

 会計を済ませ、レシートを受け取る。いつもなら雑に財布へ突っ込むそれを、今日は妙に丁寧にたたんで入れた。そこでふと、頭の中に言葉が浮かぶ。

 

 仕入れ。

 

 澪は少しだけ足を止めかけた。

 

 それは、これまで自分の人生にほとんど関係のなかった言葉だ。ニュースや店の裏話の中にはあったが、自分がその言葉を使う側へ回ることはないと思っていた。それが今、百円ショップのレシートを持ったまま、妙にしっくり来る。

 

「……何してるんだろうな、私」

 

 つぶやいてから、少しだけ笑った。笑ったが、レシートはやはり丁寧に財布へしまったままだった。

 

 

 

 市場へ出るのは、昨日よりも少し怖かった。

 

 見るだけならまだいい。だが今日は売るつもりで来ている。しかも、日本の百円ショップで買ってきたものを、そのまま石畳の市場へ並べようとしているのだ。冷静に言葉にするとかなり正気ではない。

 

 だが押入れは今日も普通に石畳へつながっていたので、正気かどうかで現実が止まるわけでもなかった。

 

 リュックを背負い、押入れを越える。

 

 市場は昨日より大きく見えた。慣れたから、というより、見える情報が増えたからかもしれない。石畳の隙間の草、日除け布の色の違い、木箱の端の汚れ、魚をさばいたあとのまな板らしい板の染み、遠くの鍛冶屋の金属音。人の声も、昨日はただのざわめきだったのに、今日は少しずつ違って聞こえる。売り声、値切り、笑い声、小言。

 

 市場は昨日より親しくなったわけではない。ただ、こちらが少しだけ情報を拾えるようになっただけだ。

 

 市場の端へ行き、小さな布を敷く。

 

 全部は出さない。それが今日の学習だった。最初から全部出すと、何かあったときに全部見られる。全部見られると、全部に反応される。全部に反応されると、こちらの心がたぶん死ぬ。

 

 なので、まずは爪切り二つ、手鏡一つ、裁縫針一つだけを並べた。布の上に置かれた現代の小物たちは、なぜか妙にすました顔をして見えた。こちらでは百均の棚にいたのに、石畳の市場へ出た途端、急にちゃんと商品っぽくなる。場がものを育てるのか、ものが場の顔を借りるのか、そのへんはよく分からない。

 

 澪は膝の上で手を握った。

 

 何か言うべきだろうか、と考える。いらっしゃいませ、とか、おすすめです、とか、そういうことを言うべきなのかもしれない。だが、口が動かなかった。接客の才能は、どうやら異世界接続とセットでは実装されないらしい。

 

 そのうちに、昨日の髭の濃い商人風の男がやって来た。爪切りを買ったあの男だった。

 

 澪は一瞬で肩に力を入れる。文句を言われるかもしれない。高かったと言われるかもしれない。壊れたと言われるかもしれない。

 

 だが男は、そうではなかった。

 

 買った爪切りを取り出し、近くの男へ見せたのである。

 

「これがよく切れる」

 

 そう言って、自分の爪で実演して見せる。

 

 ぱちん。

 

 またあの音がした。

 

 そして、また人が見る。ありがたい。だが、ありがたいのに怖い。売れてほしいとは思っている。だが、目立ってほしいとはまだ思っていない。商売人としてはかなり致命的な矛盾だが、澪の中では両方が普通に共存していた。

 

 今度は女性が手鏡へ寄ってきた。一人が手に取り、もう一人が覗き込み、髪を直し、顔を寄せる。あっという間に、その小さな手鏡の前が簡易の化粧直し場になった。

 

「いや、それ、商品……」

 

 言いたい。とても言いたい。

 

 だが言えない。

 

 見るだけなら銅貨いくら、とか、そういうのを言うべきなのだろう。たぶん。だが、澪にはそのあたりの口の回し方がまるで分からない。見学料を取りたい、という発想だけはあるのに、声にすると急に自分がものすごく図々しい人間になる気がして、口が開かない。

 

 売る側なのに、回収ができない。そのことを前にして、澪はうっすら悟り始めていた。たぶん、自分は商品選びは向いている。だが売り場に立つと、だいぶ弱い。

 

「あなた、売り方が下手ね」

 

 横から明るい声がして、澪はびくっとした。

 

 図星だった、と思うより先に、心臓が一つ大きく跳ねる。いまの自分は、手鏡を勝手に覗き込まれても止められず、爪切りを実演されても見ているしかない、ひどく半端な売り手だった。その情けなさを、初対面の相手に一言で言い当てられたのだから、返す言葉が出ない。

 

 振り向くと、同じ年頃に見える女の子が立っていた。赤茶色の布の服。ゆるく結んだ髪。大きな目。笑っている。ぱっと見た第一印象は、可愛い、だった。

 

 けれど、その可愛さに気を取られたのは一瞬だけだった。

 

 その子の視線は、澪の顔より先に、布の上の商品と、それを触っている客の手元を見ていた。誰が何をどれくらいの温度で見ているのか、財布を出しそうなのは誰か、そのあたりを一息に拾っている目だった。可愛いのに、視線だけが完全に商人である。

 

「え」

 

 澪の口から出たのは、それだけだった。

 

 情けないな、と自分でも思う。思うが、図星を刺された直後の人間は、だいたいこうなる。言い返したいわけではない。ただ、言われたことが正しすぎて、一度胸の中で受け止めないと次の言葉へ進めないのだ。

 

 女の子はそんな澪の反応を気にした様子もなく、手鏡の前へ集まっていた女性たちの方へ向き直った。

 

「見るだけなら銅貨一枚。買うなら銀貨で相談」

 

 軽い言い方だった。

 

 軽いのに、不思議なくらい通った。

 

 澪は思わず息を止める。そう言えばいいのか、と気づくのと、そんなに自然に言えるものなのか、と驚くのが同時に来た。自分の中にあった「見学料を取りたい」という発想が、相手の口から出た瞬間に急に商売の形になる。その鮮やかさが少し悔しくて、でもかなり助かった。

 

 実際に一人が銅貨を出したのを見て、澪はますます何とも言えない気分になる。できる人がやると、こんなにあっさり通るのか。たった今まで、自分が黙って見ているしかなかった場が、その一言でちゃんと売り場へ変わってしまったことに、感心と敗北感が半分ずつ混ざった。

 

 女の子は銅貨を指で弾き、澪へ向き直った。

 

「ほら、売れる」

 

 澪は一瞬まばたきをしてから、小さく息を吸った。

 

「……はい」

 

 はい、としか言えない。正論で殴られると人はだいたいそうなる。

 

「名前は?」

 

 不意に向けられた問いに、澪は少し肩をすくめた。異世界の市場の真ん中で自己紹介をする日が来るとは、昨日の朝までは想像もしていなかった。

 

「み、澪です」

 

 名乗ったあと、自分の声が少し上ずっていたことに気づく。相手が笑っているのに、その笑顔の奥の商人の目があまりにも隙なく動くので、どうしても気が抜けない。

 

「私はリュシア」

 

 明るく名乗る。名前まで可愛い。だが可愛いで済ませるには、さっき銅貨を回収した動きが鮮やかすぎた。

 

 リュシアは澪を上から下まで見て、それから少し楽しそうに首をかしげた。

 

「どこから来たの?」

 

 そこで澪は、昨日と同じ罠に落ちた。

 

「東の方から……」

 

 口にした瞬間、自分でも弱いと思う。弱いどころか雑だ。東の方。天気予報か。

 

「へえ」

 

 リュシアは笑みを消さないまま、続けを待った。

 

「かなり東です」

 

 悪化した。範囲が広がっただけである。

 

「かなり」

 

 おうむ返しにされた一言が、妙に胸へ刺さる。そうですよね、と心の中で自分へ頷くしかない。

 

「だいたい東です」

 

 言ってから、自分でもひどいと思った。

 

 かなりのあとに、だいたい。情報が増えていないどころか、あやしさだけが育っている。

 

 リュシアは少し目を丸くしたあと、吹き出すみたいに笑った。馬鹿にする笑いではない。むしろ、下手だなあ、という面白がり方だった。

 

「嘘が下手ね」

 

 その一言を聞いた瞬間、澪は反射で口を開いていた。

 

「分かりますか」

 

 分かるだろうな、と思いながらも聞いてしまう。聞いたところでどうにかなる話ではないが、ここまで一刀両断に言われると、逆に確認したくなる。

 

「分かるわよ」

 

 即答だった。

 

 そうだろうと思う。昨日の門番風の男にも、たぶん分かっていた。自分の嘘は、隠すためのものというより、知られたくないところへ薄い布をかぶせているだけなのだ。風が吹けばすぐめくれる。

 

 リュシアはもう一度、布の上の商品を見た。

 

「ここだと目立つわ。裏に来る?」

 

 提案だった。命令ではない。だが断る理由もあまりなかった。

 

 澪は一瞬だけ迷う。知らない相手についていく不安はある。だが、このまま市場の真ん中で黙って立ち尽くしていても、商売になる気がしないことだけははっきりしていた。

 

「……行きます」

 

 そう言うと、リュシアは満足そうにうなずいた。

 

 

 

 市場の裏手は、表よりずっと静かだった。

 

 木箱や干し草、革袋や秤が置かれ、布越しのやわらかい光が落ちている。表のざわめきは少し遠くなり、かわりに品物の擦れる音や、誰かが帳面をめくる音が聞こえた。完全に安心できるわけではないが、少なくとも人波の真ん中で固まっているよりはましだった。

 

「出してみて」

 

 リュシアに言われ、澪はリュックの中から一つずつ商品を出した。爪切りも、手鏡も、裁縫針も、糸切りばさみも、髪留めも、小皿も、ポーチも、メモ帳も、鉛筆も、ここへ置かれると急に意味を持ち始める気がする。そして最後に虫眼鏡を置いた瞬間、リュシアの手が止まった。

 

 澪はそれを見逃さなかった。止まった。しかも、はっきり止まった。指先の動きがそこで切れたことに気づいた瞬間、自分の方まで少し息を詰める。

 

「それ、何?」

 

 爪切りや鏡のときよりも、声の温度が少し違う。軽くない。ちゃんと知りたい声だった。

 

「小さいものの、細かいところを見る道具です」

 

 昨日から、こういう説明ばかりしている気がする。しかも説明のたびに、自分がだんだん怪しい行商人みたいになっていく気がする。実際にはまだ、江古田の大学生なのだが。

 

 リュシアは虫眼鏡を手に取り、表裏を見た。

 

「大きくなるの?」

「見え方が、です」

「物が増えるわけじゃない?」

「増えないです」

「じゃあ何が増えるの?」

 

 問いが早い。しかも、妙に的確だった。

 

 澪は少しだけ言葉を探してから、口を開く。

 

「情報……ですかね」

 

 言ってから、澪はちょっとだけ変な顔になった。我ながら言い方が商人っぽい。だが実際、そうなのだ。大きくなるのは物そのものではなく、見える情報だ。

 

 リュシアは澪を見て、ふっと笑った。

 

「商人みたいな嘘を道具にするのね」

「嘘ではないです」

「分かってる。だから面白いの」

 

 そう言うと、リュシアは懐から古い銅貨を出した。表面の刻みが少し潰れた、使い込まれた硬貨だった。

 

「これで見せて」

 

 澪は虫眼鏡を受け取り、銅貨の上にかざした。刻みが大きくなり、傷が見え、縁の欠けがはっきり分かる。

 

 リュシアの顔つきが、そこで変わった。

 

 可愛い顔が消えたわけではない。だが、その奥にあった商人の目が、完全に前へ出た。澪はその変化を見て、少しだけ背筋が寒くなった。価値を見つけた顔だ。しかも、かなり本気である。

 

「これ、強い」

 

 断言だった。

 

 リュシアはそのまま、偽物の見分けや宝石の欠け、薬草の葉の傷みや針の先、細かい文字や硬貨の刻みまで、次々に用途を挙げ始めた。澪は聞いているうちに、自分が百均の棚で思っていたより、この道具がずっと危ないものに思えてきた。便利、ではない。強い、だ。商人や職人の目を一段上げる道具として、これは明らかに強い。

 

「売らないで。私が買う」

 

 リュシアは虫眼鏡を胸に抱えた。

 

 澪はそこで本気で固まった。いま抱えられたのは、百均で買ってきた、ただの虫眼鏡である。いや、たしかに便利だとは思った。使えるとも思った。だが「私が買う」と、こんな迷いのない声で言われるほどのものだとは、自分でもまだ理解しきれていなかった。

 

 リュシアは虫眼鏡だけではなく、布の上の商品も一つずつ見ていった。爪切りは旅人や職人向けで、手鏡は女性客や髪結い向け、裁縫針と糸切りばさみは仕立て屋、小皿は薬師や細工師、鉛筆とメモ帳は商人や書記へ。頭の中でぼんやり考えていた売り先が、彼女の口から出ると急に現実になる。

 

「あなた、自分が何を持ってきてるか分かってないでしょ」

 

 そう言われたとき、澪は反射みたいに答えていた。

 

「分かってないです」

 

 即答だった。ここで虚勢を張るほどの器用さはない。

 

 リュシアはそれを面白そうに見てから、硬貨袋を出した。銅貨、銀貨、それから、黄味のある小さな金色の硬貨。

 

 澪はそれを見た瞬間、息を止めた。

 

「……金貨」

 

 思わず口に出る。

 

 声が勝手に小さくなった。いや、だって金貨である。小声にもなる。

 

 リュシアはそんな澪の顔を見て、少しだけ口元を緩めた。

 

「そう。金貨には見えるね」

 

 軽い言い方だった。

 

 軽いが、こちらは軽く受け止められない。見えるね、じゃない。見えるも何も、金そのものにしか見えない。

 

 リュシアは指先でその硬貨を押した。

 

「でも、正金貨じゃないよ」

 

 澪はまばたきをした。

 

 金貨ではある。だが、正金貨ではない。つまり、金色の硬貨にも格があるらしい。急に世界観が細かい。いや、細かくてくれた方が助かるのだが。

 

「これは小金貨。銀貨よりは上。でも、正金貨ほどの額じゃない」

 

 澪は黙ってその言葉を頭の中で並べた。

 

 小金貨。

 正金貨。

 段階がある。

 

 金貨だと思って固まっていたのに、さらにその上があるらしい。貨幣制度が急に本気を出してきた感じがして、ちょっと怖い。

 

「じゃあ……正金貨は、もっと別なんですね」

 

 澪がそう言うと、リュシアは小さくうなずいた。

 

「別だね。正金貨は、もっと大きい取引で出る。商会同士の仕入れとか、高い素材とか、そういう顔をしてる金だよ」

 

 そういう顔をしてる金。

 

 澪はそこで少しだけ目を伏せた。分かる気がした。昨日受け取った銀貨と、いま目の前にある小金貨でも、もう空気が違う。たぶん正金貨は、さらに「簡単に触るな」みたいな顔で置かれているのだろう。嫌だな、その顔の金。たぶん見ただけで緊張する。

 

 リュシアは小金貨を指先で押し、澪の手元へ寄せた。

 

「これは小金貨。高いは高いけど、出しどころを間違えた額じゃない」

 

 そこで一度、リュシアは虫眼鏡を持ち上げた。

 

「ムシメガネには、そのくらい払う価値があるってことさ」

 

 澪は虫眼鏡と小金貨を交互に見た。ついさっきまで百円ショップの棚にいた道具である。それがいま、小金貨と向かい合っている。

 

 状況だけ切り取ると、だいぶ意味が分からない。

 

 だが意味が分からないまま、手の中の硬貨だけがちゃんと重い。

 

「……小金貨、なんですね」

 

 確認するように言うと、リュシアは笑った。

 

「そうだよ。だから、そんなに世界の終わりみたいな顔をしなくていい」

 

 澪はそこで、ようやく自分がかなり深刻な顔をしていたらしいことに気づいた。そりゃする。百均の虫眼鏡が金色の硬貨に変わる場面で、無表情でいられる人間の方が怖い。

 

「終わってはないですけど、だいぶ、びっくりはしてます」

 

 そう言うと、リュシアはあっさりうなずいた。

 

「それはしていいさ」

 

 その返しが妙に当然すぎて、澪は少しだけ肩の力が抜けた。驚いていいらしい。よかった。この世界の商人は、全員これを平然と受け取るのかと思っていた。

 

 リュシアは虫眼鏡を胸の前で軽く持ち上げた。

 

「でもね。びっくりする価値がある道具だよ、これ」

 

 その言い方に、澪は少しだけ黙った。

 

 小金貨の重みと、リュシアの視線と、百円ショップの棚で手に取ったときの軽さが、頭の中でまだうまく重ならない。重ならないのに、手の中の硬貨だけは確かな現実としてそこにある。

 

 それが妙におかしくて、妙に怖くて、そして少しだけ、うれしかった。

 

「受け取って」

「いや、あの、うれしいはうれしいんですけど」

 

 澪はそこで言葉を切り、指先で小金貨の縁を見るように視線を落とした。うれしい。うれしいのは本当だ。だが、うれしさがまっすぐ入ってこない。

 

「けど?」

「私の世界だと普通に使えないので」

 

 言ってから、自分でもずいぶん間の抜けた返答だと思った。だが、そこがいまの本音だった。向こうでいくら価値があっても、江古田のコンビニのレジはこの小金貨を受け取らない。

 

「変な世界ね」

 

 そう返されると、正論なのか何なのか分からない。たしかに変だ。だが変なのはこっちだけではなく、押入れを通して決済手段の互換性がない世界そのものにも結構な責任があると思う。

 

 それでも澪は、小金貨を受け取った。

 

 軽くはない。だが重さの中心は金属ではなかった。これが価値だと向こうで通った、という事実の重さだった。

 

 リュシアは小金貨を受け取った澪の顔を見て、それから布の上の商品へあごをしゃくった。

 

「次も持ってきて。ムシメガネ。あと鏡と針と爪切り」

 

 虫眼鏡がムシメガネになっている。言い方が可愛い。だが内容は完全に仕入れ指示だった。

 

 澪は少しだけ笑った。

 

「考えておきます」

「考える前に買ってきそう」

「否定はしません」

 

 そこまで言ってから、初めて少しだけ肩の力が抜けた。まだ友達、という感じではない。だが、次に会うのが嫌ではない、くらいの距離はできた気がした。

 

 

 

 押入れへ戻る路地で、澪は昨日の定規の子どもをまた見つけた。

 

 しかも今度は一人ではなかった。ほかの子どもたちに囲まれて、あの三十センチ定規を見せている。抱え方が、昨日よりさらに誇らしげになっていた。

 

「これは、まっすぐを測る板だ」

 

 そう言っているらしい。

 

 澪は少し離れたところで立ち止まり、それから先に手を上げた。

 

「取らないよ」

 

 大事である。先にそこを言っておかないと、こちらが近づいた瞬間に警戒が最大値へ跳ね上がる。昨日の経験から、それくらいは学んだ。

 

 子どもたちは澪を見た。定規の子はまだ少しだけ警戒している。だが昨日みたいに完全防御という感じではない。

 

「大事にしてる?」

 

 澪が聞くと、その子はすぐにうなずいた。

 

「これで、まっすぐの剣を描ける」

「うん」

「まっすぐの家も描ける」

「うん」

「まっすぐのパンも」

 

 パンだけ方向性がおかしいな、と澪は思ったが、口に出すとたぶん夢を壊すのでやめた。

 

 代わりにメモ帳を一枚出し、鉛筆を取り出す。子どもたちの目が揃ってそこへ向く。定規の子が、おそるおそる定規を差し出した。

 

 澪はそれを受け取り、紙の上に置き、縁へ鉛筆を沿わせた。

 

 す、と線を引く。

 

 子どもたちが息を呑む音がした。

 

「線が逃げない」

 

 誰かが言った。

 

 澪はそこで、少しだけ笑いそうになった。逃げない、という言い方が妙に正確だったからだ。たしかに定規なしで引いた線は、手の揺れで少し逃げる。だがこれは逃げない。まっすぐだ。あまりにもまっすぐだ。

 

 定規の子が、じっと線を見た。

 

「もっと長いまっすぐはあるの?」

 

 そう聞かれて、澪は一瞬だけ考えた。一メートル定規の映像が脳内に浮かぶ。あれを押入れへ差し込む図も浮かぶ。だいぶ間抜けだった。

 

「一メートルのやつとか、あるにはあるけど」

「いち……?」

「たぶん押入れに入れづらいかな」

 

 子どもたちが少し震えた。どうやら「とんでもなく長いまっすぐ」が存在する世界として認識され始めているらしい。よくない。非常によくない。定規の文明レベルで妙な信仰を生みかけている気がする。

 

「いつかね」

 

 そう言って、澪は逃がした。自分も逃げた。いまはそこまで責任を持てない。

 

 だが、子どもたちの目は本気だった。線一本引いただけで、あんなふうに目が変わる。そのことが、少し可笑しくて、少し怖くて、でも少しうれしかった。

 

 

 

 押入れをまたいで六畳間へ戻った瞬間、澪はその場にしゃがみこんだ。

 

 膝から、力が抜けた。

 

 向こう側にいるあいだ無理やり踏ん張っていた分が、一気に抜けたのだと思う。市場を歩き、門番みたいな男に声をかけられ、百均の商品を並べ、リュシアに値付けの現場を見せられ、小金貨を得て、子どもたちに線まで引いて見せた。戻ってきたと分かった途端、体が「じゃあもういいです」と勝手に職務放棄した感じだった。非常に現金な筋肉である。

 

 背中の向こうには、いつもの六畳間がある。畳も、ちゃぶ台も、ギターも、工具箱も、大学のプリントも、飯島貴金属の封筒も、何も知らない顔でそこにある。外からは自転車のブレーキ音と遠い電車の音が聞こえるだけで、異世界市場のざわめきは押入れの向こうで小さくなっていく。

 

 澪はリュックを下ろし、ちゃぶ台の前に座った。

 

 中から硬貨を取り出す。銅貨も銀貨も、そして小金貨も、いまは全部ちゃんと手の届く現実だった。ちゃぶ台の上へ並べると、最後の一枚を置いたところで部屋の空気が少し重くなった気がした。

 

 異世界では、たしかに価値のある硬貨だった。市場で通った。リュシアは迷わず出した。けれど、ここは江古田だ。この小金貨でコンビニのプリンは買えないし、家賃も払えないし、スマホ代の引き落としにも当然対応していない。

 

 日本円で仕入れて、向こうの硬貨を受け取った。

 

 その結果が、ちゃぶ台の上で妙にきれいに並んでいるのを見ると、商売としては前へ進んでいるのに、生活としては一歩も救われていないことが嫌でも分かった。

 

「商売として成功してるのか、生活として失敗してるのか、分からない……」

 

 ぽつりとこぼす。

 

 澪はノートを引き寄せ、小金貨の模様を描こうとした。だが絵が下手だった。思った以上に下手だった。丸い。線がある。たぶん花っぽい。みたいな、ひどく頼りない記録にしかならない。

 

「いや、私、ほんとにこういうとこ……」

 

 観察眼はある。だが絵心はない。全部の才能が同じ方向へ伸びるわけではないらしい。

 

 それでもノートは閉じなかった。百均で買ったもののレシートと、異世界で得た硬貨を見比べる。その並びは滑稽で、変で、でも妙に強かった。百均で買った虫眼鏡が小金貨になる。定規一本が「すごくまっすぐだ」と言われる。手鏡ひとつで女性が集まる。針の揃い方が価値になる。

 

 つまり、こちらの当たり前が、向こうでは商品になる。

 

 澪はそう考えたあと、ふと顔を上げた。

 

 まだ何も解決していない。家賃はそのままだし、口座残高もそのままだし、押入れの向こうの市場は、こちらのコンビニとはつながっていない。

 

 けれど、回路はできた気がした。

 

 向こうに市場があって、こちらに棚があって、そのあいだを押入れがつないでいる。それだけで、ゼロとは違う。

 

 最後に澪はスマホを手に取り、検索欄を開いた。王都の場所でもなければ、異世界語の辞書でもない。検索したのは、百円ショップの営業時間だった。

 

 そこまで来て、澪はついに吹き出した。

 

「いや、そっちに行くのか……」

 

 自分で自分に突っ込む。だが、たぶん間違っていない。少なくとも今の澪にとって、異世界への次の一歩は、王都ではなく百円ショップの棚の前にある。

 

 ちゃぶ台の上には小金貨があり、その横には百均のレシートがあり、スマホには営業時間が出ていて、ノートには下手な硬貨のスケッチがある。六畳間のままなのに、昨日までとは景色が違って見えた。

 

 冒険ではない。

 

 けれど、商いはたしかに始まりかけていた。

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