百円ショップの袋は、いつも軽いようで重かった。
安い皿を1枚、足りなくなった文房具を少し。そこへ、必要だったかどうか怪しい小物が2つ3つ混じる。
家に帰って袋を開け、「これ、何に使うつもりだったんだろう」と首を傾げるところまでが、澪にはいつもの買い物だった。
少なくとも、昨日まではそうだった。
江古田のアパートを出て鉄階段を下りると、朝の商店街にはもう人が動き始めていた。
駅へ向かう学生とすれ違い、自転車を避けながら歩く。澪はトートバッグの持ち手を握り直した。
「5,000円まで」
昨夜、家計簿アプリと財布を何度も見比べて決めた上限だった。
できれば3,000円台で収めたい。
爪切りが売れたからといって、次も売れる保証はない。
買わなければ商品はないが、買って売れなければ、ただ生活費が減る。
それでも何も買わずに帰ってから「あれは売れたかもしれない」と思うのも嫌だった。
「商売って、仕入れる前から怖いんですね……」
もちろん相談相手はいない。
武刺大学の知り合いに「押入れの向こうの市場で爪切りが売れたんですけど、次は何がいいと思いますか」と聞くわけにもいかなかった。
聞かされた方が困る。澪だって同じ相談を受けたら、まず押入れの方を心配する。
百円ショップへ入ると、白い照明の下に見慣れた棚が並んでいた。
入口で買い物かごを取ったところで、澪は値札を見て少し安心した。何を買っても、最初から値段が書いてある。
昨日の市場では、それが当たり前ではなかった。
まず爪切りの棚へ向かった。
昨日、実際に売れた物なら、何の手応えもない品よりは試しやすい。
同じ形を3つ取り、少し大きな物と小さな物も1つずつ加えた。
金属部分が曲がっていないか、刃がきちんと合っているかも確かめる。
自分で使う物なら、ここまで見ない。
けれど今日は、これに誰かが硬貨を出す。
そう思うと、百円の商品でも適当には選べなかった。
手鏡は丸い物と四角い物を見比べた。
大きい方が見やすそうだが、石畳へ落として割れた時のことを考えると怖い。
軽くて縁のしっかりした物を2つ選び、3つ目へ伸ばした手を止める。
「5,000円まで」
今朝から2度目だった。
裁縫用品の棚では、昨日市場で見た針を思い出した。
向こうの針も使えないわけではない。ただ、太さや長さが少しずつ違っていた。
目の前に並んでいる針は、細く、まっすぐで、ほとんど同じ形に揃っている。
「こういうのが珍しいのかな」
裁縫針を2セットと糸、それから小さな糸切りばさみをかごへ入れた。
髪留めや小さなステンレス皿も気になったので、持ち運びやすそうな物だけ選ぶ。
文房具売り場では、鉛筆の前で足が止まった。
昨日、紙にはあまり興味を持ってもらえなかったが、インクを使わずに書ける鉛筆ならどうだろう。
商人なら数字を書くこともあるだろうし、職人なら寸法を残すこともある。
鉛筆を1袋と、小さなメモ帳を2冊かごへ入れた。
そのあと、虫眼鏡を見つけた。
現代では、なくても困らない人の方が多そうな道具だ。
けれど、小さい物を大きく見られるなら、針の先や硬貨の傷を見ることもできる。
澪は1つ手に取って、店内の照明へかざした。
「……持っていってみようかな」
使い方は説明できる。
それなら試してもいい気がした。
売り場をひと回りすると、便利そうな物はいくらでも見つかった。
だからこそ、用途を説明できない物や、使い方を間違えると危なそうな物は棚へ戻した。
レジで合計金額を確認すると、どうにか予算内だった。
支払いを済ませ、受け取ったレシートを財布へ押し込もうとして手を止める。
いつもの買い物なら丸めて終わりだが、今日は捨てられない。
何をいくらで買ったか分からなくなれば、向こうで売れても得をしたのか損をしたのか判断できない。
澪はレシートを折り、財布へしまった。
◇ ◇ ◇
江古田のアパートへ戻ると、爪切りや手鏡、裁縫針、糸切りばさみ、髪留め、小さなステンレス皿、鉛筆、メモ帳、虫眼鏡をミニテーブルへ並べた。
どれも見慣れた百円ショップの商品だった。
ただし、透明な包装にはバーコードや会社名、注意書きが細かく印刷されている。
向こうの人に読めるとは思えないが、読めないから問題ないとも思えなかった。
「これ、このまま出したら目立ちますよね」
相変わらず返事はない。
爪切りと手鏡は包装から出し、裁縫針は危ないので台紙を残す。虫眼鏡は傷がつかないよう薄い布で包んだ。
鉛筆も全部は持っていかず、数本だけにした。
値札を剥がした跡が少し残り、澪は指でこする。
「……そこまで見ますかね」
気にしないかもしれないし、気にするかもしれない。
そもそも異世界の市場で値札の粘着跡を心配している時点で、かなり変なところまで来てしまった気がする。
レシートはノートへ挟んだ。
リュックの底にはタオルを敷き、商品同士がぶつからないように詰めていく。
財布と学生証は置いていく。スマホもミニテーブルの上へ伏せた。
向こうでなくしたら困る物は、なるべく持っていかない。
代わりに、小さな空のポーチをリュックのポケットへ入れた。
昨日もらった銀貨を、そのままポケットに入れて歩くのは落ち着かなかったからだ。
準備を終え、押入れの前へ座る。
昨日も通ったし、ちゃんと帰ってこられた。
それでも襖へ手をかけると、胸の奥が少し固くなる。
「行って、売って、帰る」
今日はそれだけでいい。
澪は襖を開けた。
◇ ◇ ◇
向こうには昨日と同じ石畳があった。
乾いた風と一緒に、土や煙、それに焼いた肉の匂いが入ってくる。
靴を履いて石畳へ移り、振り返る。
江古田のアパートの六畳間には、ミニテーブルもギターも工具箱も、そのまま残っていた。
帰り道があることを確かめてから、市場へ向かう。
入口には昨日の大柄な男がいた。
革の胸当てに、腰には短い剣を下げている。
「また来たのか」
「はい。少しだけ」
男の目がリュックへ移った。
「東の旅人」
「……はい。東の旅人です」
苦し紛れに言った呼び方を、すっかり覚えられている。
「今日は荷を見せびらかして歩くなよ」
「え?」
男は市場の奥を顎で示した。
「冬から、ろくでもないのが増えた。揉め事も起こすな」
「はい」
昨日より注意が1つ増えた。
澪はリュックの肩紐を握り直して市場へ入った。
昨日は異世界というだけで、何を見ても珍しかった。
今日は少し余裕ができた分、別のものが目についた。
広い通りに店と屋台が続いているのに、ところどころ妙に隙間がある。
屋台を外した跡だけが残る場所や、板戸を閉じたままの店があり、売られている野菜も小ぶりだった。
穀物の袋を前に値段を聞いた客が、そのまま首を振って離れていく。
賑わっていないわけではない。
けれど、豊かな町の市場にも見えなかった。
路地の入口には、仕事をしているようには見えない男たちが数人たむろしていた。
澪が通ると、一人の視線がリュックへ落ちる。
気づかないふりをして歩いたが、背中が落ち着かなかった。
市場の端まで来ると、通行の邪魔にならなさそうな場所を選び、小さな布を広げた。
最初から全部は出さず、爪切りを2つ、手鏡を1つ、裁縫針を1セットだけ並べる。
声を張って客を呼ぶ勇気はない。
誰かが足を止めたら説明する。それくらいなら、何とかできそうだった。
最初に来たのは、昨日爪切りを買った髭の濃い商人だった。
手には、昨日の爪切りが握られている。
「その爪刃、まだあるか」
「爪切りです」
「爪を切る刃物だろう」
「まあ、そうですけど」
商人は近くの男へ爪切りを見せ、ぱちん、と鳴らした。
「何だ、それ」
「爪刃だ」
「爪切りです」
澪の訂正は、もうかなり弱い。
商人は布の上の爪切りを1つ手に取り、何度か開閉した。
「いくらだ」
そこで澪の口が止まった。
一番考えておかなければならなかったことを、一番分からないまま持ってきてしまった。
昨日の銀貨が高かったのか安かったのか。銅貨何枚でパンが買えるのかも知らない。
「えっと……」
返事に詰まっている横で、別の女性が手鏡を取った。
頭に淡い青の布を巻き、腕には野菜の入った籠を提げている。
「まあ。水よりはっきり見える」
その一言で、周りの女性たちが寄ってきた。
「見せて」
「私も」
「髪、変じゃない?」
手鏡はあっという間に人から人へ渡り、髪を押さえたり耳飾りを直したりする道具になった。
楽しそうなのはいい。
ただ、誰も買っていない。
「あの、買う方は……」
澪の声は、市場のざわめきにきれいに消えた。
どうしようかと手を出しかけた時、横から声がした。
「そんなに好きに触らせるんじゃないよ。安く見られるじゃないか」
振り向くと、赤茶色の布を頭に巻いた女の子が立っていた。
澪より少し年下にも見える。
顔立ちは柔らかいが、見ている場所が違った。
澪の顔より先に、布の上の商品、客の手元、その腰に下がった革袋へ視線が動いている。
「安く、ですか?」
「珍しい品なんだろ? だったら値を決める前に触らせすぎないことだね」
女の子は女性たちへ向き直った。
「見るなら銅貨1枚置きな。髪まで直したなら、もう1枚だよ。買うなら値段は別」
「見るだけで取るのかい?」
「もう十分見ただろ。払わないなら返しな」
文句は出た。
それでも、女性たちは鏡をもう一度覗いてから、布の端へ銅貨を置いていった。
「払うんだ……」
思わず声が漏れた。
女の子が澪を見る。
「払わせるんだよ。売り物なんだから」
「あの、ありがとうございます」
「礼はあと。あんた、値段決めてないじゃないか」
「……はい」
返す言葉がなかった。
さっきの商人が、まだ爪切りを持っている。
「で、これはいくらだ」
女の子が澪へ顔を向けた。
「昨日はいくらで売ったんだい?」
「銀貨1枚です」
「なら、まず同じで出しな。理由もなく今日だけ下げたら、昨日買った客まで怒るよ」
「昨日買ったのは俺だ」
「だから言ってるんじゃないか」
商人は口を曲げたものの、しばらく爪切りを動かしたあと銀貨を出した。
澪が受け取ると、女の子はそれ以上口を挟まなかった。
「私はリュシア。小物を扱ってる。あんたは?」
「篠原澪です。澪で」
「シノハラミオ? 長いね。ミオでいいかい?」
「はい」
リュシアはすぐ商品へ目を戻した。
「ミオ、これはどこから持ってきたんだい?」
「東の方から」
「東は広いよ」
「かなり東です」
リュシアが澪を見る。
「下手な嘘つくんじゃないよ。言えないなら、言えないって言いな」
「……言えません」
「それでいいんだよ」
あっさり終わった。
そこへ、さっき路地にいた男の一人が近づいてきた。
「リュシア、また妙なの拾ったのか」
男の目は澪ではなく、リュックへ向いていた。
リュシアの顔から笑いが消えた。
「買う気もないのに荷ばかり見るんじゃないよ。離れな」
「17の小娘が偉そうに」
「17だから何さ。手を出すなら警備へ渡すよ」
男が鼻を鳴らす。
近くの屋台から、年嵩の商人が顔を出した。
「やめとけ。王都のギルド長、グスタフ相手でも引かなかった娘だぞ」
「話を大きくするんじゃないよ。値段でやり合っただけだ」
リュシアが面倒そうに返すと、男は何か呟きながら離れていった。
澪は、その背中が見えなくなってからリュシアを見る。
「リュシアさん、17歳なんですか?」
「そうだよ。あんたは?」
「20です」
「じゃあ3つ上じゃないか。そんな顔しな」
20歳の自分が17歳に商売を教わっている。
年齢で勝負しているわけではないが、3という数字だけが妙に気になった。
「ここじゃ目立つ。裏に来な。人に囲まれたまま売る品じゃないよ」
「全部見せるんですか?」
「売りたい物だけでいい。使い方が分からないと値段もつけられないだろ」
リュシアは布の上の爪切りを指で示した。
「品は悪くないよ。でもミオ、売り方を知らないね」
否定できなかった。
澪は布をたたみ、商品をリュックへ戻した。
◇ ◇ ◇
リュシアについて市場の裏手へ入ると、表のざわめきが少し遠くなった。
細い通路には木箱や革袋が積まれ、小さな台と秤が置かれている。
途中でリュシアは2つの屋台に声をかけた。
「その箱、通路へ出しすぎだよ。荷車が通れないじゃないか」
「昨日の場所が空いてないんだ」
「なら半分だけ中へ入れな。ぶつけられて壊れる方が損だよ」
次の屋台では、若い売り子が客と揉めていた。
「リュシア!」
「聞こえてる。先に客の話を聞きな。怒鳴った方が正しいわけじゃないよ」
呼ばれるたび、足を止めて用件だけ片づける。
自分の店へ戻る途中というより、市場そのものを見て回っているようだった。
「リュシアさんって、ここの取りまとめをしてるんですか?」
「取りまとめなんて大げさだよ。放っておくと揉めるから、見てるだけさ」
澪には十分、取りまとめに見えた。
台へ着くと、リュシアが上を空ける。
「出して」
「はい」
澪は爪切りや手鏡、裁縫用品、髪留め、小皿、鉛筆とメモ帳を並べていく。
最後に布で包んだ虫眼鏡を置いたところで、澪はふと思い出した。
「その前に、1つ聞いていいですか?」
「何だい?」
「ここって、なんて町なんですか」
リュシアが黙った。
「知らずに売りに来たのかい?」
「……はい」
「よく今まで帰れたね、あんた」
今日一番刺さる言葉だった。
「ヴァルデスだよ。ヴァルデス侯爵領の領都」
「領都……」
澪は表の市場を思い出した。
空いた屋台、閉じた店、小さな野菜。領都という言葉から想像していたものとは少し違う。
顔に出たらしい。
「寂れてるって?」
「そこまでは言ってません」
「顔が言ってるよ」
リュシアは肩をすくめた。
「去年の冬の寒波がひどくてね。畑も家畜もやられたし、店を畳んだ家もある。食べ物が減れば、他の物まで売れなくなるじゃないか」
台の向こうで、リュシアの指が空いている木箱を軽く叩いた。
「侯爵様は王都で宰相をしてる。今は長男のアルベルト様が領を見てるし、姫様も時々ここまで顔を出すよ」
「姫様?」
「アルベルト様の妹君さ。みんなそう呼んでる」
リュシアは市場の方へ目を向けた。
「領主家も手は打ってる。でも、一冬で空いた畑も店も、春になったからって元通りにはならないよ。食うのに困る家が増えれば、さっきみたいなのも増える」
澪は自分のリュックを見た。
「私、かなり危ないところで店を広げてました?」
「今ごろ気づいたのかい?」
「……はい」
「次からは一人であんな所に広げるんじゃないよ」
リュシアはそこで話を切り、虫眼鏡を手に取った。
「で、これは何だい?」
「小さい物を大きく見る道具です」
「物が大きくなるのかい?」
「見えるだけです。物はそのままです」
「見えるだけ、ね」
リュシアはレンズ越しに台を眺めると、腰の袋から使い込まれた銅貨を1枚出した。
「これを見せてみな」
澪が虫眼鏡をかざすと、表面の細かな傷や、潰れかけた刻印の端までよく見えた。
「ここに傷があります。こっちの文字も少し潰れてますね」
リュシアも覗き込む。
「……なるほどね」
さっきまでの軽い調子が消えた。
「偽物の硬貨を見るのに使える。薬草の葉も見られるし、宝石の欠けも、針の先も確かめられるじゃないか」
虫眼鏡は、リュシアの手から台へ戻らなかった。
「これは私が買うよ」
「え?」
「表に出すのはまだ早いね。値を知らない相手に売ったら損するよ」
「そんなにですか?」
「そんなにだよ」
迷いがない。
リュシアは次に爪切りを手に取った。
「これは旅人には売れるね。職人も使うかもしれない」
「爪を切るんですよ?」
「細い革の端くらいなら整えられるかもしれないじゃないか。まあ、試して壊れるなら売り文句にはしないけどね」
澪には、その発想がなかった。
自分は「爪切り」としか見ていなかった物を、リュシアは客の手まで想像して見ている。
手鏡は光へかざし、映りを確かめた。
「これは女の客だね。髪結いにもいい。貴族の侍女に見せるなら、傷をつけないよう包みな」
「貴族まで行くんですか、これ」
「品がよければね。誰が使うかは、仕入れた場所じゃ決まらないよ」
百円ショップの棚にあった鏡の行き先が、いきなり貴族まで伸びた。
澪の感覚が追いつかない。
裁縫針を確かめたリュシアは、こちらには少し慎重だった。
「針は仕立て屋だね。ただ、細い分だけ折れやすいかもしれない。最初は少なく出しな」
何でも高く売れると言わないところは、かえって信用できた。
鉛筆を持つと、リュシアは首を傾げる。
「これは何だい?」
「書く物です」
「羽根ペンと何が違う?」
「インクが要りません」
リュシアの手が止まった。
「それを先に言いなよ」
「あ、すみません」
「謝らなくていい。売る時に言えばいいんだよ」
「はい」
商品を説明するというのは、使い方を最初から全部話すことではないらしい。
何が便利なのかを先に出す。
その順番を、澪は今さら覚え始めていた。
ひと通り見終わると、リュシアが虫眼鏡をもう一度持ち上げた。
「ミオ」
「はい」
「あんた、自分の品の値段を分かってないだろ?」
「分かってません」
そこだけは迷わず答えられた。
「そこは正直でいいね」
「そこは、ですか」
「東の方よりはね」
やはり、あれは駄目だったらしい。
リュシアは台の下から硬貨の袋を出した。
銅貨や銀貨に混じって、小さな金色の硬貨が1枚見えた。
「虫眼鏡と鏡、針、爪切りをまとめて買う。これでどうだい?」
差し出された硬貨を見て、澪の目が止まる。
「……金貨」
「小金貨だよ」
「小金貨」
「足りないかい?」
「そういう意味じゃなくて……金貨」
値段の話をしなければならないのに、頭が金色の硬貨から先へ進まない。
小さいと言われても、金貨は金貨だった。
「ミオの国には金貨がないのかい?」
「少なくとも、私の財布には入ってません」
「じゃあ扱い方も知らないんだね」
「はい」
「袋を分けな。銅貨と一緒に入れない。表で数えるんじゃないよ。帰るまで人に見せないこと」
注意が具体的だった。
さっき市場の端でリュックを見ていた男たちを思い出し、澪は急いで空のポーチを出した。
「これでいいですか?」
「底へ入れな。あとは手を離さない」
「はい」
受け取った小金貨は、見た目より重く感じた。
うれしくないわけではない。
けれど、昨日の銀貨すらどう扱えばいいのか分からないところへ、今度は金貨が来た。
リュシアが澪の顔を見た。
「金貨をもらって、その顔をする人も珍しいね」
「ちょっと怖いです」
「だろうね」
「分かるんですか?」
「分からない物を持ってる顔だよ」
そこまで顔に出ているらしい。
リュシアは買った虫眼鏡を布に包み、自分の鞄へしまった。
「次も持ってきて。ムシメガネ」
「虫眼鏡です」
「ムシメガネ。あと鏡と針、爪切りも。数は少なくていいから、同じ物を持ってきな」
「同じ物がいいんですか?」
「同じなら客に説明しやすいし、値も崩れにくいじゃないか」
「分かりました」
「分からなくても、そうしな」
「……はい」
17歳のリュシアに、分かっていないところまで見抜かれた。
まだ信用したわけではない。
それでも次に市場へ来たら、たぶん先にリュシアを探す。
◇ ◇ ◇
押入れへ戻る路地で、澪は昨日の子どもを見つけた。
30cmの透明定規を胸に抱え、ほかの子どもたちへ得意そうに見せている。
「これは、まっすぐを測る板だ」
使い方は、まだ少し怪しい。
澪が近づくと、子どもは定規をさっと胸へ引いた。
「取りませんよ」
そう言うと、目だけで澪を見る。
「大事にしてる?」
「これで、まっすぐの剣を描ける」
「剣ですか」
「まっすぐの家も描ける」
「家も」
「まっすぐのパンも描ける」
「パンは、まっすぐじゃなくてもいいと思います」
子どもは真剣な顔で考え込んだ。
そこは考えるらしい。
澪はリュックからメモ帳を1枚取り、定規を借りた。
鉛筆を縁へ沿わせ、紙の上に1本の線を引く。
子どもたちが一斉に覗き込んだ。
「線が逃げない」
誰かが言った。
澪には当たり前の線だった。
けれど、この子たちには違う。
「次は、もっと長いまっすぐを持ってくる?」
定規の子どもが聞いた。
「1mの定規は、押入れを通すのが大変そうですね」
「1m?」
「今の3倍ちょっとです」
子どもたちが顔を見合わせた。
「長いまっすぐ……」
ひどく魅力的な響きになっている。
「いつかね」
澪は定規を返し、路地をあとにした。
◇ ◇ ◇
石畳から畳へ戻り、襖を閉める。
市場のざわめきが遠ざかると、窓の外から自転車のブレーキ音が聞こえた。
江古田のアパートの六畳間だった。
澪はリュックを下ろし、ミニテーブルの前へ座った。
百円ショップのレシートを出し、その横へ向こうで受け取った硬貨を置く。
銅貨も銀貨も小金貨も、ヴァルデスでは普通に使われていた。
問題は、ここでは使えないことだった。
小金貨を持ってコンビニへ行っても、プリン1個買えない。
武刺大学の学食でも使えないし、家賃やスマホ代の引き落としにもならない。
澪は財布を開き、小金貨を小銭入れへ入れかけてやめた。
同じ財布に入れたところで、日本円になるわけではない。
「売れたのに……」
現代側の財布は、百円ショップで使った分だけ軽くなっている。
澪はレシートを見ながら、今日持っていった品と売れた品をノートへ書いた。
小金貨を指でつまむ。
表面には見慣れない刻印がある。
その模様をノートの端へ写してみたが、描き終える前から似ていないことが分かった。
「彫金やってるのに、絵が下手……」
澪は小金貨と、自分が描いた模様を見比べた。
それから財布を閉じる。
ぱちん、といつもの音がした。
「……この金貨、どうしよう」
リライトしました。
今最新話の方は男同士のバディものになりつつあるのに、こんな可愛らしい話で癒されますなぁ