押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第2話 百円ショップは宝物庫だった

 百円ショップへ行く、という行為は、昨日までの澪にとってはただの節約だった。

 

 必要なものを安く買う場所であり、余計なものまで買ってしまう危険な場所でもある。買った瞬間は得をした気になるのに、帰ってから袋を開けて「これは何に使うつもりだったのか」と自分に問い詰められる場所でもあった。

 

 それが、今朝は違っていた。

 

 練馬区江古田の古いアパートの階段を下りながら、篠原澪はトートバッグの紐を握りしめていた。鉄の階段は少し錆びていて、一段踏むたびに、かん、と乾いた音がする。下の道路では自転車が通り過ぎ、近くのコンビニの前では配送の台車が動いている。駅へ向かう学生たち、小さな店の開店準備、電柱の影、アスファルトの継ぎ目、自販機の明るい赤。どれも昨日までと同じ、見慣れた江古田の朝だった。

 

 それなのに、澪の机の引き出しには異世界の銀貨がある。

 

 三十センチ定規は、異世界の子どものものになった。

 

 昨日、押入れの向こうに石畳の市場を見たことは、夢ではなかった。そう思うたびに、トートバッグの紐を握る指に力が入る。

 

「五千円まで」

 

 澪は歩きながら、小さく言った。

 

 財布の中身と、スマホの家計簿アプリは昨夜から何度も確認している。貯金は十万円ほどある。数字だけならまだある。けれど、家賃を引くとかなり減る。スマホ代を引くともっと減る。教材費を入れると、精神的にはすでに半分くらいない。だから今日使っていいのは五千円まで、できれば三千円くらいで収めたい。

 

 ただ、売れそうなものがあったら困る。売れそうなのに買わないのも困る。買って売れなかったら、もっと困る。

 

「商売って、始める前からこんなに困るものなの?」

 

 返事はなかった。

 

 澪には、こういうことを相談する友達がいない。大学で「押入れの向こうの市場で爪切りが売れたんだけど、次に何を仕入れたらいいと思う?」と聞ける相手もいない。いたらいたで、その人はたぶん距離を置く。人間関係として、それはかなり正しい判断だった。

 

 百円ショップの前で足を止めると、自動ドアが開いた。

 

 白い照明の下で、商品棚がまっすぐ並んでいる。値札があり、ポップがあり、入口には買い物かごが重ねてあった。店内には軽い音楽が流れていて、誰かに値段を聞かなくても、すべての商品の価格が最初から分かる。値切られない。急に短剣を下げた男も出てこない。たぶん。

 

 現代日本は、すごい。

 

 澪は買い物かごを取った。そして一歩進んだところで、足を止める。棚が、昨日までとはまったく違って見えたのだ。

 

 昨日までただの便利グッズだったものが、今日は異世界向けの商品に見える。爪切りは小型の精密な金属刃で、手鏡は顔をはっきり映す板で、裁縫針は均一な細い金属棒だった。虫眼鏡にいたっては、小さいものが大きく見える丸いやつ、というひどい名前しか浮かばない。

 

「……名前がひどい」

 

 自分で考えて、自分で落ち込んだ。商品名をつける才能はないらしい。

 

 まず、爪切りを選んだ。前回売れた、という実績がある。商売用語で言うと売れ筋商品だ。商売用語を使った瞬間、少し自分が嫌になったが、売れたものは強い。同じ形のものを三つ、少し大きめを一つ、子ども用に見える小さいものを一つ。澪は棚の前でそれぞれの大きさを見比べ、金属部分が雑に曲がっていないか確かめてから、かごに入れた。

 

 次に手鏡の棚へ向かう。丸いもの、四角いもの、折りたたみ式のものがある。大きい方が価値は伝わりそうだが、持ち運びが怖い。割れたら終わりだし、異世界で割れた鏡をどう処分するのかも分からない。澪は軽くて縁がしっかりしているものを二つ選び、三つ目に伸びた手を途中で止めた。

 

「五千円まで」

 

 自分を叱るように小さく言い、手鏡を棚へ戻す。買い物かごはすでに、いつもの生活用品の買い物とは違う重さを持ち始めていた。

 

 裁縫針の棚では、袋の中に細い針がきちんと並んでいた。昨日見た市場の針は、太さも長さも少しばらついていた。これなら売れるかもしれない。糸切りばさみも一つだけ選ぶ。髪留めは、あまり派手すぎないものを少し。ステンレスの小皿は、銀ではないがきれいに光っている。薬師や細工師なら使うかもしれないと迷い、今回は主役ではないと自分に言い聞かせて一枚だけ入れた。

 

 小さなポーチも手に取る。硬貨や小物を入れるのに使えそうだし、売れなくても自分で使える。これは商品というより保険だった。

 

 そして、虫眼鏡の棚の前で、澪はまた足を止めた。

 

 丸いレンズに黒い持ち手。昔からある形のものがある。ライト付きもあったが、電池が切れたら説明できない。異世界で「光らなくなった」と言われても困るし、電池を求められても困る。澪は電池屋ではない。カード型は薄くて便利だが、異世界の人には道具として伝わりにくい気がした。

 

 だから、普通の虫眼鏡にした。

 

 手に取ると軽い。レンズ越しに値札を見ると、当たり前だが文字が大きくなる。彫金でも、細かい傷やつなぎ目を見るのに使う。高いルーペには及ばないが、肉眼よりずっと見える。異世界の商人や職人なら、これを何に使うだろう。宝石、薬草、硬貨、布目、針先。澪の頭の中で使い道がいくつも浮かび、少し怖くなる。

 

 澪は虫眼鏡をかごに入れた。

 

 その後、ライターの棚の前で立ち止まる。便利だ。絶対に便利だ。火がつく。それは、たぶん売れる。けれど澪は首を横に振った。

 

「燃えるものは、なし」

 

 火事になったら責任が取れない。薬やサプリメントの棚も見ないようにした。体に入れるものは怖い。包丁の棚も通り過ぎる。大きい刃物は、自分でも怖い。異世界で商売する前に、自分が怖いものを売るのはやめるべきだった。

 

 かごの中身を確認する。爪切り、手鏡、裁縫針、糸切りばさみ、髪留め、小皿、虫眼鏡、メモ帳、鉛筆、小さなポーチ。指先で一つずつ位置を直していると、まだ何か足せるような気がしてくる。その「もう少し」に危険を感じ、澪は急いでレジへ向かった。

 

 会計を済ませ、レシートを受け取る。いつもなら財布に入れてそのまま忘れるか、バッグの底でぐしゃぐしゃになる紙だ。だが今日は違った。澪はレシートを折らずに財布へしまいながら、頭の中に浮かんだ言葉に少しだけ顔が熱くなる。

 

 仕入れ。

 

 私はいったい何を始めているんだろう。そう思いながら百円ショップの袋を抱えて店を出ると、江古田の町は相変わらず普通だった。空は明るく、道を行く人たちは誰も押入れの向こうの市場など知らない。その普通さが、少しだけ心強かった。

 

 

 

 

 

 部屋に戻ると、澪は買ってきたものをちゃぶ台に並べた。

 

 白いビニール袋を開けると、プラスチックと紙の匂いが広がった。窓から入る午後の光が、手鏡の縁で反射する。虫眼鏡のレンズには、天井の蛍光灯が小さく逆さまに映っていた。ちゃぶ台の端には、彫金用のヤスリとピンセットが転がっている。銀線の切れ端、真鍮板の小さな破片、作りかけの指輪。昨日までただの趣味だったものまで、今日は妙に仕事道具に近く見えた。

 

 机の端には、小さな封筒があった。銀線を買ったときのものだ。飯島貴金属、と印字された名前を、澪はちらっと見る。九二五銀線を三十センチだけ買った時の封筒だった。通販で買ったものだが、質問メールに丁寧な返事をくれたことを覚えている。そういえば銀線が少なくなっていた。買い足さなければ、と思ったところで、澪は封筒を脇へ寄せた。

 

 今は、百円ショップの商品だ。

 

 澪はレシートをその封筒へ入れ、表に「仕入れ」と書いた。書いてから、顔が熱くなる。

 

「仕入れって書いた……」

 

 口に出すと、さらに恥ずかしい。でも、消さなかった。

 

 商品を一つずつ袋から出していく。爪切りを開閉すると、ぱちん、と小さな音がした。昨日の異世界市場で、あの音に商人が驚いたことを思い出す。手鏡を覗くと、自分の顔が映った。前髪が少しはねていて、目の下に薄い影がある。異世界商人というより、寝不足の大学生だった。

 

 裁縫針の袋を軽く振ると、細い針が中で揺れた。虫眼鏡を手に取り、レシートの小さな文字を見る。文字は当然のように大きくなる。それなのに、異世界に持っていくと思うと、急に変わった道具に見えた。

 

 澪はメモ帳を開き、説明を書いた。爪切りは爪を切る道具。手鏡は顔を見る道具。裁縫針は布を縫う道具。虫眼鏡は小さいものの細かいところを見る道具。書いてから、ペン先を止める。説明が全部そのままだが、それ以上にうまい説明も思いつかない。

 

 声に出して練習してみる。

 

「これは爪を切る道具です」

 

 うん、と澪は自分で小さくうなずいた。

 

「これは顔を見る道具です。これは布を縫う道具です。これは小さいものを大きく……じゃなくて、小さいものの細かいところを見る道具です」

 

 虫眼鏡だけ、何度言っても少し怪しい。小さいものが本当に大きくなるわけではない。でも、見えるものは増える。増えるのは何か。情報だ。

 

「これは情報が増える道具です」

 

 言ってから、澪はすぐ首を振った。

 

「だめ。怪しい」

 

 自分で言っておいて、詐欺師みたいだった。

 

 澪は商品を小さな布袋に分け、リュックに入れた。全部は出さない。市場で広げるのは、爪切り、手鏡、裁縫針だけ。虫眼鏡は様子を見てから。そう決めたはずなのに、布袋の紐を結ぶ手は少し震えていた。

 

 怖いけれど、行くしかない。前回、爪切りは売れた。今回も何か分かるかもしれない。そう自分に言い聞かせ、澪はリュックを背負って押入れの前に立った。

 

 襖を開けると、石畳の路地があった。布の日除けの向こうからざわめきが流れ込み、乾いた風が頬に触れる。焼いた肉と土と革の匂いがして、昨日の恐怖が少しだけ戻ってきた。澪は深呼吸し、畳から石畳へ足を踏み出した。

 

 市場は、昨日よりも大きく見えた。

 

 本当は同じ場所なのだろう。だが、澪の目が少しだけ慣れたぶん、見えるものが増えていた。石畳のすき間には細い草が生えている。布の日除けは柱ごとに色が違い、赤茶けたもの、青いもの、日に焼けてほとんど白くなったものがある。木箱の上には、丸い果物、干した魚、香草の束、革紐、土器の小瓶が並んでいた。

 

 どこかで金属を叩く音がした。鍛冶屋だろうか。肉を焼く煙が風に流れて目にしみる。値段を叫ぶ声、笑う声、叱る声、子どもが走る足音、荷車の車輪が石に当たる音が、澪の周囲を途切れずに動いている。

 

 澪は市場の端に行き、小さな布を敷いた。

 

 最初から全部は出さない。爪切りを二つ、手鏡を一つ、裁縫針のセットを一つ。それだけを並べる。布の上で現代の小物が妙にすました顔をしているように見え、澪は膝の上で手を握った。

 

 並べた途端、昨日の商人が現れた。髭の濃い、腕の太い男だ。腰には革袋がいくつも下がっている。手には昨日買った爪切りがあった。

 

「また来たのか」

 

「はい。少しだけ」

 

「この爪刃、よく切れる」

 

「爪切りです」

 

「爪を切る刃物だろう」

 

「まあ、そうですけど」

 

 商人は近くの男に爪切りを見せた。ぱちん、と音がする。近くの男が目を丸くした。

 

「何だ、それ」

 

「爪を切る刃物だ」

 

「爪だけか」

 

「爪だけだ」

 

「ぜいたくだな」

 

 澪は遠い目をした。爪専用という概念は、この市場ではどうしてもぜいたくらしい。

 

 商人が見せびらかしたせいで、布の前に人が少しずつ集まり始めた。ありがたい。けれど、とても怖い。澪の心の中で、ありがたいと怖いが押し合っている。押し合いの結果、澪はほとんど動けなかった。

 

 その時、一人の女性が手鏡に目を留めた。淡い青い布を頭に巻き、耳に小さな金属の飾りをつけている。年は三十前後だろうか。手には野菜の籠を持っていた。

 

「これは?」

 

「鏡です」

 

「鏡?」

 

 女性は手鏡を持ち上げ、覗き込んだ。少し近づけ、少し離し、角度を変える。髪の乱れに気づいたのか、慌てて手で押さえた。

 

「まあ……水鏡よりはっきり見えるわ」

 

 その声に、別の女性が近づいてきた。

 

「見せて」

 

「ちょっと待って」

 

「私も」

 

 手鏡は、あっという間に化粧直しの場になった。女性たちが順番に覗き込み、髪を直し、耳飾りの位置を確かめ、顔を寄せ合って笑う。澪は布の前に座ったまま、手を出したり引っ込めたりした。

 

 それは商品です、と言いたい。商品なんです、と言いたい。見るだけの道具ではありません、とも言いたいが、手鏡は見るだけの道具なので、そこがまた困る。

 

「あの、買う方は……」

 

 澪の声は、誰にも届かなかった。見学料を取りたい。でも、言えない。心の中でそう思った時、横から明るい声がした。

 

「あなた、売り方が下手ね」

 

 澪はびくっとして振り向いた。

 

 少し離れた木箱の横に、若い女の子が立っていた。澪と同じくらいの年齢に見える。頭には赤茶色の布を巻き、髪は肩のあたりでゆるく結ばれている。大きな目がよく動き、口元には笑みがある。可愛い、と思った直後、その視線が澪ではなく、商品と客の手元と財布を見ていることに気づいた。

 

 可愛いのに、視線が商人だった。

 

「初対面でそれを言いますか」

 

 澪は小さく言った。

 

 女の子はにこっと笑う。

 

「言わないと、あなた、今日中に全部安く取られちゃうわ」

 

「取られる?」

 

「買われる、かもしれないけど。あなたにとっては同じじゃない?」

 

 澪は言い返せなかった。実際、値段が分からない。相場も分からない。怖くて、相手が出した金額をそのまま受け取る未来がはっきり見えている。

 

 女の子は手鏡を覗いている女性たちに向き直った。

 

「はいはい、見るだけなら銅貨一枚。買うなら銀貨で相談ね。髪を直した人は、ちゃんと払って」

 

 澪は目を見開いた。

 

 女性たちは文句を言いながらも、銅貨を出した。出すのか、と澪は心の中で叫ぶ。女の子は集めた銅貨を澪の布の端に置いた。

 

「ほら。見るだけでも値段がつくの」

 

「そんなことしていいんですか」

 

「だめなら払わないわ」

 

 さらっと言われ、澪は言葉を失った。強い。可愛いのに強い。

 

「私はリュシア。市場で小物を扱ってるの。あなたは?」

 

「篠原、澪です」

 

「シノハラミオ?」

 

「澪でいいです」

 

「じゃあ、ミオ」

 

 リュシアは音を確かめるように澪の名前を呼んだ。少し舌足らずで、柔らかい響きだった。異世界の市場で自分の名前を呼ばれることは、少し不思議で、少し照れくさい。

 

「ミオ、どこから来たの?」

 

「東の方から」

 

「東って広いわ」

 

「かなり東です」

 

「嘘が下手ね」

 

「初対面で二回目ですよ、それ」

 

 リュシアは楽しそうに笑った。

 

「ごめんね。半分だけ」

 

「半分」

 

「でも、本当に下手よ?」

 

「追い打ち」

 

 澪はうつむきかけたが、リュシアの笑い方があまりに軽くて、少しだけ力が抜けた。この子は怖い。商売のことになると、かなり怖い。でも、今この場では助かる。それも確かだった。

 

 リュシアは布の上の商品を見た。

 

「ここだと目立つわ。裏に来る? 全部は見せなくていいから。私、泥棒じゃないもの」

 

「商人ですよね」

 

「商人は、ちゃんと払って取るの」

 

「安心していいんですか」

 

「安心して。高く売れるものは安く買いたいけど、逃げられるほど安くは買わないわ」

 

「正直すぎませんか」

 

「正直な商人は長生きするの」

 

 澪は少し迷った。市場の表は人が多い。このまま広げていると、もっと注目されそうだった。それは嫌だ。とても嫌だ。澪は布をたたみ、商品をリュックに戻した。

 

 リュシアについて市場の裏手へ向かう。

 

 

 

 

 

 市場の裏は、表より少し静かだった。

 

 細い通路の上に布が張られ、光が柔らかく落ちている。木箱が積まれ、干し草と革袋の匂いがする。壁には古い布がかけられ、小さな台の上に秤が置かれていた。表の賑わいが少し遠くなり、澪は少し落ち着いた。とはいえ、出口がどこか分からないので完全には落ち着けない。

 

 リュシアは台の上を片づけ、手で示した。

 

「見せて」

 

 澪は商品を一つずつ出した。爪切り、手鏡、裁縫針、糸切りばさみ、髪留め、ステンレス小皿、ポーチ、鉛筆、メモ帳。最後に虫眼鏡を置いたところで、リュシアの手が止まった。

 

「これは?」

 

「小さいものの細かいところを見る道具です」

 

 練習した説明を言うと、リュシアは虫眼鏡を手に取り、丸いレンズを覗き込んだ。

 

「小さいものが大きくなるの?」

 

「見えるだけです」

 

「本当に大きくなるわけじゃない?」

 

「ならないです」

 

「じゃあ、何が増えるの?」

 

「情報、ですかね」

 

 言ってから、澪は失敗したと思った。情報が増える道具。やっぱり怪しい。

 

 リュシアはぱちぱちと瞬きをした。

 

「ミオの国は、商人みたいな嘘を道具にするのね」

 

「今の、悪口ですか」

 

「半分ほめてるわ」

 

「半分が多い」

 

 リュシアは笑い、腰の袋から古い銅貨を一枚出した。澪はそれを台に置き、虫眼鏡をかざす。

 

「ここ、傷がありますよね。あと、この文字の端が少し潰れてます」

 

 リュシアが覗き込む。次の瞬間、彼女の顔つきが変わった。可愛い商人娘の顔ではなく、本物の商人の顔だった。

 

「見える」

 

「はい」

 

「肉眼より、ずっと」

 

「そういう道具です」

 

 リュシアは銅貨を別の角度に置き、また覗いた。

 

「これ、偽物を見分けられる」

 

 声が低くなる。

 

「薬草の葉の傷も見える。宝石の欠けも見える。針の先も見える。細かい文字も読める」

 

 澪は少し怖くなった。虫眼鏡が、思ったより強い。

 

「売らないで」

 

「え?」

 

「私が買う」

 

 リュシアは虫眼鏡を胸に抱えた。

 

「ちゃんと払う。安くは言わないわ。少しだけ安く言うけど」

 

「今、言いましたよね」

 

「正直な商人だから」

 

 にこっと笑われ、澪は思わず笑いそうになった。この子は危ない。でも、面白い。

 

 リュシアは商品を一つずつ評価した。爪切りは旅人や職人に売れる。手鏡は女性客、髪結い、貴族の侍女にもいける。裁縫針は仕立て屋に売れる。糸切りばさみも縫い物をする人に売れる。小皿は薬師や細工師が使うかもしれない。鉛筆とメモ帳は、商人や書記に見せてみる価値がある。話しながら、リュシアの指は商品を動かし、買う相手を頭の中で振り分けているようだった。

 

 最後に、リュシアは虫眼鏡をもう一度見た。

 

「これは強いわ」

 

 澪は何も言えなかった。

 

「ミオ」

 

「はい」

 

「あなた、自分が何を持ってきてるか、分かってないでしょ」

 

「分かってないです」

 

 即答だった。

 

 リュシアは目を丸くし、それから可愛らしく吹き出した。

 

「正直ね」

 

「嘘が下手なので」

 

「うん。知ってる」

 

「知るのが早い」

 

 リュシアは台の下から硬貨袋を出した。銅貨、銀貨、そして小さな金貨が一枚。澪はそれを見た瞬間、動けなくなった。

 

 銀貨より小さい。けれど色が違う。鈍い金色。表面には王冠のような刻印と、小さな竜のような模様がある。

 

「これでどう?」

 

 リュシアが言った。

 

 澪は金貨を見たまま、声を出した。

 

「金貨」

 

「少額金貨よ」

 

「少額」

 

「足りない?」

 

「足りるとか足りないとか、その前に、金貨」

 

 リュシアは不思議そうに首を傾げた。

 

「ミオの世界には金貨がないの?」

 

「少なくとも、私の財布にはないです」

 

「変な世界ね」

 

「はい。たぶん変です」

 

 澪は金貨を受け取った。手が少し震える。うれしい。けれど、それ以上に怖い。銀貨でも扱いに困っているのに、金貨が来た。異世界ではお金。現代では謎の金属。もし本当に金なら価値はある。価値があるなら、問題も大きい。

 

 リュシアは澪の顔を覗き込んだ。

 

「金貨をもらって泣きそうな顔をする人、初めて見たわ」

 

「泣きそうではないです」

 

「怖い?」

 

「怖いです」

 

「どうして?」

 

「これ、私の世界だと、普通に使えないので」

 

「お金なのに?」

 

「お金なのに」

 

 リュシアは真剣に考え込んだ。

 

「ミオの世界、やっぱり変ね」

 

「否定できません」

 

 澪は金貨を小さなポーチに入れた。その動作だけで妙に緊張する。リュシアは虫眼鏡を布に包み、大事そうに鞄へ入れた。

 

「次も持ってきて。ムシメガネ」

 

「虫眼鏡です」

 

「ムシメガネ」

 

 少し舌足らずな発音が可愛くて、澪は訂正を諦めた。

 

「あと、鏡と針と爪切り」

 

「爪切りは言えるんですね」

 

「練習したもの」

 

 リュシアは得意げに笑った。

 

 澪も少しだけ笑った。商売相手で、まだ友達ではない。でも、少しだけ次に会うのが嫌ではなかった。

 

 押入れへ戻る路地で、澪は三十センチ定規の子どもを見つけた。七歳くらいのその子は、定規を胸に抱え、ほかの子どもたちに見せていた。

 

「これは、まっすぐを測る板だ」

 

 たぶん使い方はまだ分かっていない。澪が近づくと、子どもは定規を少し隠した。

 

「取りません」

 

 澪が言うと、子どもは目だけで澪を見る。

 

「大事にしてる?」

 

「これで、まっすぐの剣を描ける」

 

「剣」

 

「まっすぐの家も描ける」

 

「家」

 

「まっすぐのパンも」

 

「パンは、まっすぐじゃなくてもいいと思う」

 

 子どもは真剣に考え込んだ。

 

 澪はリュックからメモ帳を一枚取り、鉛筆で線を引いた。定規に沿わせて、まっすぐに。子どもたちが息を呑む。

 

「線が逃げない」

 

 誰かが言った。

 

 澪は少し笑った。顔が逃げない鏡。線が逃げない定規。現代の当たり前は、この世界では何かを逃がさないものらしい。

 

「次は、もっと長いまっすぐを持ってくる?」

 

 子どもが聞いた。

 

「一メートル定規は、押入れに入れづらいかな」

 

「一メートル?」

 

「今の三倍ちょっと」

 

 子どもたちが小さく震えた。

 

「長いまっすぐ……」

 

 澪は、自分が妙な信仰を生みかけている気がして、少し怖くなった。

 

「いつかね」

 

 そう言って、澪は路地を抜けた。

 

 

 

 

 

 石畳から畳へ戻ると、空気が変わった。

 

 練馬区江古田の六畳間は、何も知らない顔でそこにあった。ギター、ちゃぶ台、彫金工具、大学のプリント、飯島貴金属の封筒。窓の外では自転車のブレーキ音がし、遠くで電車が走る音も聞こえる。異世界市場のざわめきは、押入れの向こうで小さくなっていた。

 

 澪はリュックを下ろし、ちゃぶ台の前に座った。硬貨を並べる。銅貨、銀貨、小さな金貨。最後の一枚を置いた時、部屋の空気が少しだけ重くなった気がした。

 

 金貨は、静かに光っている。異世界では、それは確かにお金だった。リュシアが支払い、市場の商人たちは何の疑問も持たなかった。けれど、ここは江古田だった。この金貨ではコンビニのプリンは買えない。家賃も払えない。スマホ代も落ちない。

 

 澪は金貨を指先でつついた。硬い音がする。

 

「商売として成功してるのか、生活として失敗してるのか、分からない」

 

 百円ショップのレシートを横に置く。仕入れに日本円を使った。異世界硬貨は増えた。でも、銀行口座は増えていない。むしろ減っている。

 

 澪はノートを開き、金貨の模様を描いてみた。王冠のような刻印、竜のような模様、知らない文字。描き終えると、顔をしかめる。

 

「彫金やってるのに、絵が下手」

 

 金貨は、絵よりずっときれいだった。そして、ずっと困ったものだった。

 

 異世界では金貨だった。けれど江古田の六畳間では、それはまだ、家賃にならない丸い金属だった。

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