押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第2話 百円ショップは宝物庫だった

 

 百円ショップの袋は、いつも軽いようで重かった。

 

 安い皿を1枚、足りなくなった文房具を少し。そこへ、必要だったかどうか怪しい小物が2つ3つ混じる。

 

 家に帰って袋を開け、「これ、何に使うつもりだったんだろう」と首を傾げるところまでが、澪にはいつもの買い物だった。

 

 少なくとも、昨日まではそうだった。

 

 江古田のアパートを出て鉄階段を下りると、朝の商店街にはもう人が動き始めていた。

 

 駅へ向かう学生とすれ違い、自転車を避けながら歩く。澪はトートバッグの持ち手を握り直した。

 

「5,000円まで」

 

 昨夜、家計簿アプリと財布を何度も見比べて決めた上限だった。

 

 できれば3,000円台で収めたい。

 

 爪切りが売れたからといって、次も売れる保証はない。

 

 買わなければ商品はないが、買って売れなければ、ただ生活費が減る。

 

 それでも何も買わずに帰ってから「あれは売れたかもしれない」と思うのも嫌だった。

 

「商売って、仕入れる前から怖いんですね……」

 

 もちろん相談相手はいない。

 

 武刺大学の知り合いに「押入れの向こうの市場で爪切りが売れたんですけど、次は何がいいと思いますか」と聞くわけにもいかなかった。

 

 聞かされた方が困る。澪だって同じ相談を受けたら、まず押入れの方を心配する。

 

 百円ショップへ入ると、白い照明の下に見慣れた棚が並んでいた。

 

 入口で買い物かごを取ったところで、澪は値札を見て少し安心した。何を買っても、最初から値段が書いてある。

 

 昨日の市場では、それが当たり前ではなかった。

 

 まず爪切りの棚へ向かった。

 

 昨日、実際に売れた物なら、何の手応えもない品よりは試しやすい。

 

 同じ形を3つ取り、少し大きな物と小さな物も1つずつ加えた。

 

 金属部分が曲がっていないか、刃がきちんと合っているかも確かめる。

 

 自分で使う物なら、ここまで見ない。

 

 けれど今日は、これに誰かが硬貨を出す。

 

 そう思うと、百円の商品でも適当には選べなかった。

 

 手鏡は丸い物と四角い物を見比べた。

 

 大きい方が見やすそうだが、石畳へ落として割れた時のことを考えると怖い。

 

 軽くて縁のしっかりした物を2つ選び、3つ目へ伸ばした手を止める。

 

「5,000円まで」

 

 今朝から2度目だった。

 

 裁縫用品の棚では、昨日市場で見た針を思い出した。

 

 向こうの針も使えないわけではない。ただ、太さや長さが少しずつ違っていた。

 

 目の前に並んでいる針は、細く、まっすぐで、ほとんど同じ形に揃っている。

 

「こういうのが珍しいのかな」

 

 裁縫針を2セットと糸、それから小さな糸切りばさみをかごへ入れた。

 

 髪留めや小さなステンレス皿も気になったので、持ち運びやすそうな物だけ選ぶ。

 

 文房具売り場では、鉛筆の前で足が止まった。

 

 昨日、紙にはあまり興味を持ってもらえなかったが、インクを使わずに書ける鉛筆ならどうだろう。

 

 商人なら数字を書くこともあるだろうし、職人なら寸法を残すこともある。

 

 鉛筆を1袋と、小さなメモ帳を2冊かごへ入れた。

 

 そのあと、虫眼鏡を見つけた。

 

 現代では、なくても困らない人の方が多そうな道具だ。

 

 けれど、小さい物を大きく見られるなら、針の先や硬貨の傷を見ることもできる。

 

 澪は1つ手に取って、店内の照明へかざした。

 

「……持っていってみようかな」

 

 使い方は説明できる。

 

 それなら試してもいい気がした。

 

 売り場をひと回りすると、便利そうな物はいくらでも見つかった。

 

 だからこそ、用途を説明できない物や、使い方を間違えると危なそうな物は棚へ戻した。

 

 レジで合計金額を確認すると、どうにか予算内だった。

 

 支払いを済ませ、受け取ったレシートを財布へ押し込もうとして手を止める。

 

 いつもの買い物なら丸めて終わりだが、今日は捨てられない。

 

 何をいくらで買ったか分からなくなれば、向こうで売れても得をしたのか損をしたのか判断できない。

 

 澪はレシートを折り、財布へしまった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 江古田のアパートへ戻ると、爪切りや手鏡、裁縫針、糸切りばさみ、髪留め、小さなステンレス皿、鉛筆、メモ帳、虫眼鏡をミニテーブルへ並べた。

 

 どれも見慣れた百円ショップの商品だった。

 

 ただし、透明な包装にはバーコードや会社名、注意書きが細かく印刷されている。

 

 向こうの人に読めるとは思えないが、読めないから問題ないとも思えなかった。

 

「これ、このまま出したら目立ちますよね」

 

 相変わらず返事はない。

 

 爪切りと手鏡は包装から出し、裁縫針は危ないので台紙を残す。虫眼鏡は傷がつかないよう薄い布で包んだ。

 

 鉛筆も全部は持っていかず、数本だけにした。

 

 値札を剥がした跡が少し残り、澪は指でこする。

 

「……そこまで見ますかね」

 

 気にしないかもしれないし、気にするかもしれない。

 

 そもそも異世界の市場で値札の粘着跡を心配している時点で、かなり変なところまで来てしまった気がする。

 

 レシートはノートへ挟んだ。

 

 リュックの底にはタオルを敷き、商品同士がぶつからないように詰めていく。

 

 財布と学生証は置いていく。スマホもミニテーブルの上へ伏せた。

 

 向こうでなくしたら困る物は、なるべく持っていかない。

 

 代わりに、小さな空のポーチをリュックのポケットへ入れた。

 

 昨日もらった銀貨を、そのままポケットに入れて歩くのは落ち着かなかったからだ。

 

 準備を終え、押入れの前へ座る。

 

 昨日も通ったし、ちゃんと帰ってこられた。

 

 それでも襖へ手をかけると、胸の奥が少し固くなる。

 

「行って、売って、帰る」

 

 今日はそれだけでいい。

 

 澪は襖を開けた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 向こうには昨日と同じ石畳があった。

 

 乾いた風と一緒に、土や煙、それに焼いた肉の匂いが入ってくる。

 

 靴を履いて石畳へ移り、振り返る。

 

 江古田のアパートの六畳間には、ミニテーブルもギターも工具箱も、そのまま残っていた。

 

 帰り道があることを確かめてから、市場へ向かう。

 

 入口には昨日の大柄な男がいた。

 

 革の胸当てに、腰には短い剣を下げている。

 

「また来たのか」

 

「はい。少しだけ」

 

 男の目がリュックへ移った。

 

「東の旅人」

 

「……はい。東の旅人です」

 

 苦し紛れに言った呼び方を、すっかり覚えられている。

 

「今日は荷を見せびらかして歩くなよ」

 

「え?」

 

 男は市場の奥を顎で示した。

 

「冬から、ろくでもないのが増えた。揉め事も起こすな」

 

「はい」

 

 昨日より注意が1つ増えた。

 

 澪はリュックの肩紐を握り直して市場へ入った。

 

 昨日は異世界というだけで、何を見ても珍しかった。

 

 今日は少し余裕ができた分、別のものが目についた。

 

 広い通りに店と屋台が続いているのに、ところどころ妙に隙間がある。

 

 屋台を外した跡だけが残る場所や、板戸を閉じたままの店があり、売られている野菜も小ぶりだった。

 

 穀物の袋を前に値段を聞いた客が、そのまま首を振って離れていく。

 

 賑わっていないわけではない。

 

 けれど、豊かな町の市場にも見えなかった。

 

 路地の入口には、仕事をしているようには見えない男たちが数人たむろしていた。

 

 澪が通ると、一人の視線がリュックへ落ちる。

 

 気づかないふりをして歩いたが、背中が落ち着かなかった。

 

 市場の端まで来ると、通行の邪魔にならなさそうな場所を選び、小さな布を広げた。

 

 最初から全部は出さず、爪切りを2つ、手鏡を1つ、裁縫針を1セットだけ並べる。

 

 声を張って客を呼ぶ勇気はない。

 

 誰かが足を止めたら説明する。それくらいなら、何とかできそうだった。

 

 最初に来たのは、昨日爪切りを買った髭の濃い商人だった。

 

 手には、昨日の爪切りが握られている。

 

「その爪刃、まだあるか」

 

「爪切りです」

 

「爪を切る刃物だろう」

 

「まあ、そうですけど」

 

 商人は近くの男へ爪切りを見せ、ぱちん、と鳴らした。

 

「何だ、それ」

 

「爪刃だ」

 

「爪切りです」

 

 澪の訂正は、もうかなり弱い。

 

 商人は布の上の爪切りを1つ手に取り、何度か開閉した。

 

「いくらだ」

 

 そこで澪の口が止まった。

 

 一番考えておかなければならなかったことを、一番分からないまま持ってきてしまった。

 

 昨日の銀貨が高かったのか安かったのか。銅貨何枚でパンが買えるのかも知らない。

 

「えっと……」

 

 返事に詰まっている横で、別の女性が手鏡を取った。

 

 頭に淡い青の布を巻き、腕には野菜の入った籠を提げている。

 

「まあ。水よりはっきり見える」

 

 その一言で、周りの女性たちが寄ってきた。

 

「見せて」

 

「私も」

 

「髪、変じゃない?」

 

 手鏡はあっという間に人から人へ渡り、髪を押さえたり耳飾りを直したりする道具になった。

 

 楽しそうなのはいい。

 

 ただ、誰も買っていない。

 

「あの、買う方は……」

 

 澪の声は、市場のざわめきにきれいに消えた。

 

 どうしようかと手を出しかけた時、横から声がした。

 

「そんなに好きに触らせるんじゃないよ。安く見られるじゃないか」

 

 振り向くと、赤茶色の布を頭に巻いた女の子が立っていた。

 

 澪より少し年下にも見える。

 

 顔立ちは柔らかいが、見ている場所が違った。

 

 澪の顔より先に、布の上の商品、客の手元、その腰に下がった革袋へ視線が動いている。

 

「安く、ですか?」

 

「珍しい品なんだろ? だったら値を決める前に触らせすぎないことだね」

 

 女の子は女性たちへ向き直った。

 

「見るなら銅貨1枚置きな。髪まで直したなら、もう1枚だよ。買うなら値段は別」

 

「見るだけで取るのかい?」

 

「もう十分見ただろ。払わないなら返しな」

 

 文句は出た。

 

 それでも、女性たちは鏡をもう一度覗いてから、布の端へ銅貨を置いていった。

 

「払うんだ……」

 

 思わず声が漏れた。

 

 女の子が澪を見る。

 

「払わせるんだよ。売り物なんだから」

 

「あの、ありがとうございます」

 

「礼はあと。あんた、値段決めてないじゃないか」

 

「……はい」

 

 返す言葉がなかった。

 

 さっきの商人が、まだ爪切りを持っている。

 

「で、これはいくらだ」

 

 女の子が澪へ顔を向けた。

 

「昨日はいくらで売ったんだい?」

 

「銀貨1枚です」

 

「なら、まず同じで出しな。理由もなく今日だけ下げたら、昨日買った客まで怒るよ」

 

「昨日買ったのは俺だ」

 

「だから言ってるんじゃないか」

 

 商人は口を曲げたものの、しばらく爪切りを動かしたあと銀貨を出した。

 

 澪が受け取ると、女の子はそれ以上口を挟まなかった。

 

「私はリュシア。小物を扱ってる。あんたは?」

 

「篠原澪です。澪で」

 

「シノハラミオ? 長いね。ミオでいいかい?」

 

「はい」

 

 リュシアはすぐ商品へ目を戻した。

 

「ミオ、これはどこから持ってきたんだい?」

 

「東の方から」

 

「東は広いよ」

 

「かなり東です」

 

 リュシアが澪を見る。

 

「下手な嘘つくんじゃないよ。言えないなら、言えないって言いな」

 

「……言えません」

 

「それでいいんだよ」

 

 あっさり終わった。

 

 そこへ、さっき路地にいた男の一人が近づいてきた。

 

「リュシア、また妙なの拾ったのか」

 

 男の目は澪ではなく、リュックへ向いていた。

 

 リュシアの顔から笑いが消えた。

 

「買う気もないのに荷ばかり見るんじゃないよ。離れな」

 

「17の小娘が偉そうに」

 

「17だから何さ。手を出すなら警備へ渡すよ」

 

 男が鼻を鳴らす。

 

 近くの屋台から、年嵩の商人が顔を出した。

 

「やめとけ。王都のギルド長、グスタフ相手でも引かなかった娘だぞ」

 

「話を大きくするんじゃないよ。値段でやり合っただけだ」

 

 リュシアが面倒そうに返すと、男は何か呟きながら離れていった。

 

 澪は、その背中が見えなくなってからリュシアを見る。

 

「リュシアさん、17歳なんですか?」

 

「そうだよ。あんたは?」

 

「20です」

 

「じゃあ3つ上じゃないか。そんな顔しな」

 

 20歳の自分が17歳に商売を教わっている。

 

 年齢で勝負しているわけではないが、3という数字だけが妙に気になった。

 

「ここじゃ目立つ。裏に来な。人に囲まれたまま売る品じゃないよ」

 

「全部見せるんですか?」

 

「売りたい物だけでいい。使い方が分からないと値段もつけられないだろ」

 

 リュシアは布の上の爪切りを指で示した。

 

「品は悪くないよ。でもミオ、売り方を知らないね」

 

 否定できなかった。

 

 澪は布をたたみ、商品をリュックへ戻した。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 リュシアについて市場の裏手へ入ると、表のざわめきが少し遠くなった。

 

 細い通路には木箱や革袋が積まれ、小さな台と秤が置かれている。

 

 途中でリュシアは2つの屋台に声をかけた。

 

「その箱、通路へ出しすぎだよ。荷車が通れないじゃないか」

 

「昨日の場所が空いてないんだ」

 

「なら半分だけ中へ入れな。ぶつけられて壊れる方が損だよ」

 

 次の屋台では、若い売り子が客と揉めていた。

 

「リュシア!」

 

「聞こえてる。先に客の話を聞きな。怒鳴った方が正しいわけじゃないよ」

 

 呼ばれるたび、足を止めて用件だけ片づける。

 

 自分の店へ戻る途中というより、市場そのものを見て回っているようだった。

 

「リュシアさんって、ここの取りまとめをしてるんですか?」

 

「取りまとめなんて大げさだよ。放っておくと揉めるから、見てるだけさ」

 

 澪には十分、取りまとめに見えた。

 

 台へ着くと、リュシアが上を空ける。

 

「出して」

 

「はい」

 

 澪は爪切りや手鏡、裁縫用品、髪留め、小皿、鉛筆とメモ帳を並べていく。

 

 最後に布で包んだ虫眼鏡を置いたところで、澪はふと思い出した。

 

「その前に、1つ聞いていいですか?」

 

「何だい?」

 

「ここって、なんて町なんですか」

 

 リュシアが黙った。

 

「知らずに売りに来たのかい?」

 

「……はい」

 

「よく今まで帰れたね、あんた」

 

 今日一番刺さる言葉だった。

 

「ヴァルデスだよ。ヴァルデス侯爵領の領都」

 

「領都……」

 

 澪は表の市場を思い出した。

 

 空いた屋台、閉じた店、小さな野菜。領都という言葉から想像していたものとは少し違う。

 

 顔に出たらしい。

 

「寂れてるって?」

 

「そこまでは言ってません」

 

「顔が言ってるよ」

 

 リュシアは肩をすくめた。

 

「去年の冬の寒波がひどくてね。畑も家畜もやられたし、店を畳んだ家もある。食べ物が減れば、他の物まで売れなくなるじゃないか」

 

 台の向こうで、リュシアの指が空いている木箱を軽く叩いた。

 

「侯爵様は王都で宰相をしてる。今は長男のアルベルト様が領を見てるし、姫様も時々ここまで顔を出すよ」

 

「姫様?」

 

「アルベルト様の妹君さ。みんなそう呼んでる」

 

 リュシアは市場の方へ目を向けた。

 

「領主家も手は打ってる。でも、一冬で空いた畑も店も、春になったからって元通りにはならないよ。食うのに困る家が増えれば、さっきみたいなのも増える」

 

 澪は自分のリュックを見た。

 

「私、かなり危ないところで店を広げてました?」

 

「今ごろ気づいたのかい?」

 

「……はい」

 

「次からは一人であんな所に広げるんじゃないよ」

 

 リュシアはそこで話を切り、虫眼鏡を手に取った。

 

「で、これは何だい?」

 

「小さい物を大きく見る道具です」

 

「物が大きくなるのかい?」

 

「見えるだけです。物はそのままです」

 

「見えるだけ、ね」

 

 リュシアはレンズ越しに台を眺めると、腰の袋から使い込まれた銅貨を1枚出した。

 

「これを見せてみな」

 

 澪が虫眼鏡をかざすと、表面の細かな傷や、潰れかけた刻印の端までよく見えた。

 

「ここに傷があります。こっちの文字も少し潰れてますね」

 

 リュシアも覗き込む。

 

「……なるほどね」

 

 さっきまでの軽い調子が消えた。

 

「偽物の硬貨を見るのに使える。薬草の葉も見られるし、宝石の欠けも、針の先も確かめられるじゃないか」

 

 虫眼鏡は、リュシアの手から台へ戻らなかった。

 

「これは私が買うよ」

 

「え?」

 

「表に出すのはまだ早いね。値を知らない相手に売ったら損するよ」

 

「そんなにですか?」

 

「そんなにだよ」

 

 迷いがない。

 

 リュシアは次に爪切りを手に取った。

 

「これは旅人には売れるね。職人も使うかもしれない」

 

「爪を切るんですよ?」

 

「細い革の端くらいなら整えられるかもしれないじゃないか。まあ、試して壊れるなら売り文句にはしないけどね」

 

 澪には、その発想がなかった。

 

 自分は「爪切り」としか見ていなかった物を、リュシアは客の手まで想像して見ている。

 

 手鏡は光へかざし、映りを確かめた。

 

「これは女の客だね。髪結いにもいい。貴族の侍女に見せるなら、傷をつけないよう包みな」

 

「貴族まで行くんですか、これ」

 

「品がよければね。誰が使うかは、仕入れた場所じゃ決まらないよ」

 

 百円ショップの棚にあった鏡の行き先が、いきなり貴族まで伸びた。

 

 澪の感覚が追いつかない。

 

 裁縫針を確かめたリュシアは、こちらには少し慎重だった。

 

「針は仕立て屋だね。ただ、細い分だけ折れやすいかもしれない。最初は少なく出しな」

 

 何でも高く売れると言わないところは、かえって信用できた。

 

 鉛筆を持つと、リュシアは首を傾げる。

 

「これは何だい?」

 

「書く物です」

 

「羽根ペンと何が違う?」

 

「インクが要りません」

 

 リュシアの手が止まった。

 

「それを先に言いなよ」

 

「あ、すみません」

 

「謝らなくていい。売る時に言えばいいんだよ」

 

「はい」

 

 商品を説明するというのは、使い方を最初から全部話すことではないらしい。

 

 何が便利なのかを先に出す。

 

 その順番を、澪は今さら覚え始めていた。

 

 ひと通り見終わると、リュシアが虫眼鏡をもう一度持ち上げた。

 

「ミオ」

 

「はい」

 

「あんた、自分の品の値段を分かってないだろ?」

 

「分かってません」

 

 そこだけは迷わず答えられた。

 

「そこは正直でいいね」

 

「そこは、ですか」

 

「東の方よりはね」

 

 やはり、あれは駄目だったらしい。

 

 リュシアは台の下から硬貨の袋を出した。

 

 銅貨や銀貨に混じって、小さな金色の硬貨が1枚見えた。

 

「虫眼鏡と鏡、針、爪切りをまとめて買う。これでどうだい?」

 

 差し出された硬貨を見て、澪の目が止まる。

 

「……金貨」

 

「小金貨だよ」

 

「小金貨」

 

「足りないかい?」

 

「そういう意味じゃなくて……金貨」

 

 値段の話をしなければならないのに、頭が金色の硬貨から先へ進まない。

 

 小さいと言われても、金貨は金貨だった。

 

「ミオの国には金貨がないのかい?」

 

「少なくとも、私の財布には入ってません」

 

「じゃあ扱い方も知らないんだね」

 

「はい」

 

「袋を分けな。銅貨と一緒に入れない。表で数えるんじゃないよ。帰るまで人に見せないこと」

 

 注意が具体的だった。

 

 さっき市場の端でリュックを見ていた男たちを思い出し、澪は急いで空のポーチを出した。

 

「これでいいですか?」

 

「底へ入れな。あとは手を離さない」

 

「はい」

 

 受け取った小金貨は、見た目より重く感じた。

 

 うれしくないわけではない。

 

 けれど、昨日の銀貨すらどう扱えばいいのか分からないところへ、今度は金貨が来た。

 

 リュシアが澪の顔を見た。

 

「金貨をもらって、その顔をする人も珍しいね」

 

「ちょっと怖いです」

 

「だろうね」

 

「分かるんですか?」

 

「分からない物を持ってる顔だよ」

 

 そこまで顔に出ているらしい。

 

 リュシアは買った虫眼鏡を布に包み、自分の鞄へしまった。

 

「次も持ってきて。ムシメガネ」

 

「虫眼鏡です」

 

「ムシメガネ。あと鏡と針、爪切りも。数は少なくていいから、同じ物を持ってきな」

 

「同じ物がいいんですか?」

 

「同じなら客に説明しやすいし、値も崩れにくいじゃないか」

 

「分かりました」

 

「分からなくても、そうしな」

 

「……はい」

 

 17歳のリュシアに、分かっていないところまで見抜かれた。

 

 まだ信用したわけではない。

 

 それでも次に市場へ来たら、たぶん先にリュシアを探す。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 押入れへ戻る路地で、澪は昨日の子どもを見つけた。

 

 30cmの透明定規を胸に抱え、ほかの子どもたちへ得意そうに見せている。

 

「これは、まっすぐを測る板だ」

 

 使い方は、まだ少し怪しい。

 

 澪が近づくと、子どもは定規をさっと胸へ引いた。

 

「取りませんよ」

 

 そう言うと、目だけで澪を見る。

 

「大事にしてる?」

 

「これで、まっすぐの剣を描ける」

 

「剣ですか」

 

「まっすぐの家も描ける」

 

「家も」

 

「まっすぐのパンも描ける」

 

「パンは、まっすぐじゃなくてもいいと思います」

 

 子どもは真剣な顔で考え込んだ。

 

 そこは考えるらしい。

 

 澪はリュックからメモ帳を1枚取り、定規を借りた。

 

 鉛筆を縁へ沿わせ、紙の上に1本の線を引く。

 

 子どもたちが一斉に覗き込んだ。

 

「線が逃げない」

 

 誰かが言った。

 

 澪には当たり前の線だった。

 

 けれど、この子たちには違う。

 

「次は、もっと長いまっすぐを持ってくる?」

 

 定規の子どもが聞いた。

 

「1mの定規は、押入れを通すのが大変そうですね」

 

「1m?」

 

「今の3倍ちょっとです」

 

 子どもたちが顔を見合わせた。

 

「長いまっすぐ……」

 

 ひどく魅力的な響きになっている。

 

「いつかね」

 

 澪は定規を返し、路地をあとにした。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 石畳から畳へ戻り、襖を閉める。

 

 市場のざわめきが遠ざかると、窓の外から自転車のブレーキ音が聞こえた。

 

 江古田のアパートの六畳間だった。

 

 澪はリュックを下ろし、ミニテーブルの前へ座った。

 

 百円ショップのレシートを出し、その横へ向こうで受け取った硬貨を置く。

 

 銅貨も銀貨も小金貨も、ヴァルデスでは普通に使われていた。

 

 問題は、ここでは使えないことだった。

 

 小金貨を持ってコンビニへ行っても、プリン1個買えない。

 

 武刺大学の学食でも使えないし、家賃やスマホ代の引き落としにもならない。

 

 澪は財布を開き、小金貨を小銭入れへ入れかけてやめた。

 

 同じ財布に入れたところで、日本円になるわけではない。

 

「売れたのに……」

 

 現代側の財布は、百円ショップで使った分だけ軽くなっている。

 

 澪はレシートを見ながら、今日持っていった品と売れた品をノートへ書いた。

 

 小金貨を指でつまむ。

 

 表面には見慣れない刻印がある。

 

 その模様をノートの端へ写してみたが、描き終える前から似ていないことが分かった。

 

「彫金やってるのに、絵が下手……」

 

 澪は小金貨と、自分が描いた模様を見比べた。

 

 それから財布を閉じる。

 

 ぱちん、といつもの音がした。

 

「……この金貨、どうしよう」




リライトしました。
今最新話の方は男同士のバディものになりつつあるのに、こんな可愛らしい話で癒されますなぁ
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