孤児院の洗い場では、子どもたちが朝から妙に張り切っていた。
大豆もやしの器は、日の当たらない古い棚の下へ並べてある。
布をかけた器の前で、誰が水を替えるか、誰が運ぶかを巡って小さな声が飛び交っていた。
澪は、最初こそ頼もしく眺めていた。
子どもたちは思っていたより真面目だ。
シスターに教わったとおり、器を両手で持ち、棚の前では走らない。
布をめくる時も、端をつまんで横から持ち上げている。
その輪の中央には、なぜかトトがいた。
市場の子なのに、孤児院ではすっかり先輩の顔である。
「豆草は乱暴にすると折れる」
「もやしです」
澪は反射で訂正した。
「豆草のほうが強そうだろ」
「強そうにする必要はありません。清潔にしてください」
トトは鼻を鳴らしたが、布を持つ指は慎重なままだった。
そこへ、孤児院の子が桶を抱えてきた。
「これでいい?」
桶の水は澄んでいた。底まで見えるし、顔を近づけても変な匂いはしない。
子どもは当然のように、その水を大豆もやしの器へ注ごうとする。
澪は、器の上へ手を出した。
「待ってください。その水、どこから持ってきました?」
「台所」
子どもが桶を抱えたまま答える。
シスターも横から覗き込んだ。
「台所で使っている水です。今日は井戸の水ですが、雨が続く時期は貯めた雨水も使います」
雨水。
その一言が、澪の頭に引っかかった。
ゲンダイの水道水とは違う。蛇口をひねれば、消毒され、管理された水が出てくるわけではない。
井戸水も雨水も、透明だから安全とは限らなかった。
澪は大豆もやしを、ずっと豆の問題として見ていた。
けれど、その豆へ毎日触れるのは水だ。
先に考えるべきものが、棚の上ではなく桶の中にあった。
「水なんだから、水でいいじゃん」
トトが不思議そうに言った。
澪は桶の底を見たまま首を振る。
「水なのに、よくない時があるんです」
「水、ずるいな」
「ずるいのは水ではなく、汚れです」
そう答えたものの、澪にも何を基準に止めればよいのか分からない。
どの桶なら使えるのか。雨水はどこへ貯め、井戸の周りには何があるのか。
見た目と匂いだけで、子どもへ大丈夫だと言ってよいのか。
疑問が増えるたび、澪の頭には江古田の六畳間とスマホが浮かんだ。
少なくとも、分からないまま注がせるわけにはいかない。
「今日は、この水を使うのを待ってください。調べてきます」
「豆草も待つの?」
「もやしです。あと、待ってもらいます」
子どもは桶を下ろし、トトは棚の布をかけ直した。
朝から張り切っていた一同の最初の仕事は、水替えではなく、水替えを止めることになった。
◇ ◇ ◇
江古田の六畳間へ戻った澪は、大豆袋と帳面を前にして座った。
床には、相変わらず大豆の袋が積まれている。
水のことを考え始めたせいか、乾いているはずの布袋まで湿気を帯びて見えた。
もちろん、実際には乾いている。
問題は、澪の頭の中で豆と水が離れなくなったことだった。
スマホを開き、相談画面へ条件を打ち込む。
作りたいのは大豆もやし。
作る場所には電気も、冷蔵庫も、クーラーもない。暑くて湿度の高い日があり、使える水は井戸水か雨水。
作業には孤児院の子どもたちも加わる。
安全に使える水、水替えの回数、腐敗の見分け方。
子どもに任せられる作業と、大人が判断すべき作業も分けたい。
条件を書き終えると、相談というより難問の出題になっていた。
澪は読み返し、送信した。
返ってきた答えは、期待していたほど気軽なものではなかった。
清潔な水を使い、こまめに水を替える。
ぬめり、嫌な匂い、不自然な濁りが出たら捨て、食べる前には必ず加熱する。
子どもに任せられるのは、器を運ぶことや、決めた時刻を大人へ知らせることまで。
食べられるかどうかは、大人が決めなければならない。
澪は答えを読みながら、帳面へ書き写した。
シスターと司祭様が話していた内容とも重なる。
慎重すぎたわけではないと分かって安心したが、作業が減ったわけではなかった。
そこで、澪は補水飲料を作った時のことを思い出した。
塩を入れた。クエン酸も、水飴も入れた。量を測り、味を見て、飲めるものへ整えた。
水だけで足りないのなら、もやしにも何かを足すのだろうか。
思いついた途端、澪の指は追加の質問を打ち始めていた。
水へ混ぜる候補は、塩、砂糖、クエン酸、出汁。
送信すると、今度の返答は先ほどよりきっぱりしていた。
何も混ぜないこと。
発芽中の水へ砂糖や出汁を入れれば、雑菌が増えやすくなる。
塩やクエン酸は発芽を妨げる可能性があり、洗浄剤や消毒液を混ぜるのも危険だった。
必要なのは、清潔な水と水替え。
澪はスマホを持ったまま動きを止めた。
「……怒られた」
補水飲料の癖で、何かを足せば改善すると思っていた。
だが、大豆もやしは違う。材料を加えて味を作るのではなく、余計なものを入れずに育てる。
帳面へ、短く3つ書いた。
混ぜない。汚さない。怪しければ捨てる。
書き終えてから、澪は筆先を見つめた。商品を作る相談だったはずが、失敗を防ぐ勉強になっている。
清潔な水が必要なら、浄水する道具があればよい。
そこまで考えた時には、検索窓へ文字を打ち込んでいた。
大型浄水器、業務用浄水器、井戸水の浄水、雨水の浄水。
検索結果には、本気の設備が並んだ。
大きい。そして、高い。
交換カートリッジ、設置場所、水圧、処理能力。
知らない言葉を1つ調べるたびに、さらに知らない部品が増えていく。
写真に映る機械は、六畳間の机の下へ置ける大きさではなかった。
押し入れを通して運び、孤児院の洗い場へ置く姿も想像したくない。
澪は画面を送るほど、商品の値段より工事の説明へ追い詰められていった。
「押入商会ではなく、水道屋になりかけてる……」
やりたかったのは、市場と孤児院の子どもたちへ、しゃきしゃきした食べ物を出すことだ。
ところが今は、業務用浄水設備の処理量と交換部品を比べている。豆は画面のどこにもいなかった。
これは、よくない。
澪はスマホを伏せた。
大きな機械を買う前に、相談できる人がいる。
修さんなら、キャンプや防災の話として、水の扱いを聞けるはずだ。
ただし、異世界のことは言えない。孤児院も、大豆もやしも言えない。
澪はもう一度スマホを持ち上げ、検索履歴を眺めた。
「これを見せたら、絶対につっこまれる……」
つっこまれても、聞くしかなかった。
◇ ◇ ◇
彫金教室の片づけが終わると、飯島修一郎は澪のスマホ画面を見て眉を上げた。
作業台には布がかけられ、使い終えた工具も所定の位置へ戻っている。
いつもどおり整った部屋で、澪の検索履歴だけが妙に大がかりだった。
「澪ちゃん、これはキャンプではなく、避難所を作る買い物だね」
「やっぱり大きすぎますか」
「大きいし、高いし、買った後の手入れもいる」
修さんは業務用浄水器の商品画面を指で戻した。
「そもそも、どうして急にこれを?」
澪は、用意してきた説明を口にする。
「キャンプとか非常時って、井戸水や雨水をどう扱うんですか。防災用に、ちょっと気になって」
「ちょっとで業務用浄水器まで行くかな」
「行きました」
「行かないほうがいいね」
予想していた指摘だった。
修さんは笑ったが、澪が遊びで調べているのではないことには気づいたらしい。
椅子を引き、澪を作業台の前へ座らせた。
「まず、大きい機械を買う前に、水を取る場所を見る」
スマホを伏せ、指を1本立てる。
「濁りが強い水、変な匂いがする水、生活排水に近い水は避ける。
最初から怪しい水を、機械に入れれば何とかなるとは考えない」
「はい」
「次は容器だね」
「容器?」
「水がきれいでも、入れ物が汚れていたらそこで終わるよ」
澪の頭に、孤児院の桶と柄杓が浮かんだ。
水源ばかりを気にしていたが、桶は台所で何に使われているのか分からない。
雨水を貯める甕も、内側までは見ていなかった。
修さんは澪の顔を見て、話を続ける。
「川の水や雨水なら、まず布で葉や砂を取る。砂利、砂、炭、布を重ねて濾すやり方もある」
澪は急いで帳面を開いた。
「炭も使えるんですか?」
「使える場合はある。ただし、万能ではないよ」
修さんは、帳面へ並び始めた材料を指で示した。
「濾したから安全確定、とは言わない。見た目の濁りや匂いを減らす助けだと思ったほうがいい」
「そこから、火を通す」
「飲んだり料理へ使ったりするなら、その水に合った処理が必要になるね。キャンプでも防災でも、1つの道具で全部解決しようとしないことだよ」
水を取る場所を選ぶ。容器を分ける。布で粗い物を取り、砂利、砂、炭も使う。
それでも怪しい水は使わない。
澪の帳面へ、孤児院で確かめることが増えていく。
最後に、容器が汚れていたらそこで終わる、と線を引いた。
修さんが、埋まったページを覗き込む。
「澪ちゃん、やっぱり何か本気だね」
「防災です」
「便利な言葉だ」
澪は目を逸らした。
異世界の秘密は守れた。
信じてもらえたかどうかは、別の話だった。
◇ ◇ ◇
六畳間へ戻った澪は、修さんから聞いたことを帳面へ広げた。
雨水は、降れば使える。
昨日までは、その程度に考えていた。
だが、雨粒は空から甕へ直接入ってくれるわけではない。
屋根へ落ち、埃を流し、樋を通る。鳥の落とし物が混じることもある。
貯める甕や樽が汚れていれば、そこでまた汚れる。蓋がなければ虫が入り、日が当たり続ければ藻も出る。
澪は雨水が通る道筋を、帳面へ線で描いた。
最初に降った雨は、屋根と樋を洗う水として捨てる。
次の水から布で粗いごみを取り、砂利、砂、炭、布へ通す。
それを蓋つきの甕か樽へ貯める。虫を入れず、もやし専用の柄杓と桶を用意する。
書けば書くほど、豆の姿が帳面から遠ざかっていった。
「水を育ててるみたい……」
澪は筆を持ったまま、ローテーブルへ額をつけた。
育てたいのは豆である。
その前に水を育てなければならないらしい。いや、水は育てない。ただ汚さないように扱うだけだ。
水を育てるわけではないのに、手間だけ見ればずいぶん世話を焼いている。
顔を上げた時、押し入れの前に置いた大豆袋が目に入った。
大鍋も、水飴の小樽も、大豆も収納へ入った。
ならば、水はどうだろう。
雨水を外へ大量に貯めれば、虫や埃を防ぎ続けなければならない。
清潔にした水を容器ごと収納できれば、少なくとも日には当たらず、外から虫も入らない。
澪は帳面の端へ、収納と書き足した。
直後、その文字の下へ線を引く。
入れる前の水が汚れていたら、汚れた水を大切に保管するだけになる。
「汚い水を収納しても、汚いまま……そりゃそうだ」
収納は、浄水器ではない。
水を取る場所を選び、布で濾し、必要なら砂や炭を使う手順は残る。
ただ、最初の試験だけは、ゲンダイの水道水で安全な基準を作ってもよいのではないか。
子どもたちが水を替える順番を覚え、器や布を清潔に保つ練習をする。その間だけ、澪が水を持ち込む。
現地の水へ切り替えるのは、手順を覚えてからだ。
澪はスマホを手に取った。
今度は大型浄水器を検索しない。
探すのは、もっと小さな物でよい。水を入れられて、口を閉じられ、使わない時には畳める容器。
検索窓へ「ウォータータンク 20L」と入れる。
続けて「ウォーターバッグ 20L」「非常用給水袋」「キャンプ用水タンク」と打ち込んだ。
画面に並んだ商品は、先ほどの業務用設備よりずっと現実的だった。
折り畳み式で、蛇口がついている。非常用やキャンプ用なので、持ち運びも考えられていた。
値段も、工事の見積もりを覚悟する必要はない。
「これなら……」
澪は20Lのウォーターバッグを5つ、買い物かごへ入れた。
合計100L。
注文を確定しかけた指が止まる。
「100Lって、100kg……?」
澪は床の大豆袋を見た。
大豆100kgの次は、水100kgである。
何をしているのかは分からなくなってきたが、必要な理由だけは分かっている。
澪は注文を確定した。
◇ ◇ ◇
数日後、届いたウォーターバッグを前に、澪は覚悟を決めた。
蛇口をひねり、最初の袋へ水道水を入れる。
平たかった透明な袋が、底から少しずつ膨らんでいく。
20Lまで入った袋は、商品写真で見た時よりずっと大きく、床へ置くと中の水がゆっくり揺れた。
容量は分かっていた。重さも、計算した。
それでも実物を前にすると、20kgは数字よりずっと無遠慮だった。
澪は1つ目の袋へ手を置き、収納へ登録する内容を頭の中で揃えた。
水道水入りウォーターバッグ。20L。もやし用水候補。ゲンダイ水道水。未開封。飲用確定ではなく作業用。洗浄剤の混入なし。魚、肉、洗い物への使用禁止。使用期限は短め。
用途を曖昧にすれば、孤児院で別の水と混ざる。水そのものだけでなく、何のための水かまで分けなければならない。
登録を終えると、薄い靄が袋を包み、その姿が消えた。
2つ目も入った。3つ目へ手を置いた時、息が少し詰まる。4つ目では、こめかみの奥が重くなった。
残った袋は、あと1つ。床には20Lの水が、透明な袋の中で何でもない顔をしている。
澪は5つ目へ両手を置いた。
重さが来た。腕でも、肩でもない。頭の奥へ20Lの水袋をそのまま押し込まれたように、意識が沈む。
「ぐ……」
出すつもりのなかった声が漏れた。
水は軽そうな顔をしている。色もなく、袋へ入れれば形まで変わる。
だが、20Lは20kgだ。5つなら100kgになる。
大豆と違い、袋の中でゆらりと動く気配まで、頭の奥へ伝わってくる。
「グギギギギ……」
澪は水袋を押さえたまま、収納の在庫表へ必死に項目を書き込んだ。
もやし用水候補。ゲンダイ水道水。作業用。ほかの用途へ回さない。使用期限は短め。
「入れ……入って……お願い……」
最後の項目まで登録した瞬間、手の下の重さが奥へ沈んだ。
ウォーターバッグが薄い靄に包まれて消える。
澪はその場へへたり込んだ。
「……入った」
水を腕で持ち上げたわけではない。それでも、重い荷物を運び終えたように背中が熱く、首の後ろへ汗が流れている。
しばらく床へ座ったまま呼吸を整えた。
指の震えが収まるのを待ち、澪は自分へ鑑定を向ける。
----------------------------------
篠原 澪
分類:人間/異界渡航者
役割:押入商会代表
現在ジョブ:商人
状態:睡眠やや不足
疲労度:72%
身体異常:なし
----------------------------------
基礎能力値
体力:40
筋力:29
器用:49
知力:66
判断:51
精神:54
集中:48
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既得スキル
鑑定:3
収納:4
商才:芽あり
----------------------------------
「収納、上がってる……!」
嬉しくはあった。
ただし、床へ座り込んだままの声に、成長した者の格好よさはなかった。
澪は壁へ手をついて立ち上がる。
リュシアの屋台へ寄り、相談してから孤児院へ行く予定だった。
収納の中には水が100Lある。
両腕には何も持っていないのに、頭の奥にはまだ100kg分の存在感が残っていた。
予定表より先に、孤児院へ水を置くことにした。
◇ ◇ ◇
澪は、リュシアの屋台へ寄らなかった。
寄らなかったというより、寄る余力がなかった。
水100Lは収納へ入っているため、腕には何もかかっていない。
それでも歩くたび、頭の奥から重さがついてくる。
集中を少しでも緩めれば、収納に押し込んだ水袋が存在を主張してきそうだった。
澪は寄り道を諦め、最短で孤児院へ向かった。
洗い場にはシスターと司祭様がおり、子どもたちも何人か集まっている。
澪は入口で一度息を整え、できるだけ普通の顔を作った。
「今日は、水を持ってきました」
シスターが首を傾げる。
「水、ですか?」
「はい。もやし用です」
澪は収納から、最初のウォーターバッグを取り出した。
薄い靄の中から、透明な袋が床へ降りる。
中の水が、遅れてどぷんと揺れた。
子どもたちの目が一斉に丸くなる。トトも口を開けたまま、20Lの袋を見つめていた。
反応は悪くない。
澪は少しだけ胸を張る。
「収納スキルレベル4に育てた私の実力、見てください」
言い切ったところで、膝が震えた。
格好よく決めたかった。
だが、収納から1つ出しても、残りは80Lある。
頭の奥から消えた重さは、全体の5分の1だけだった。
「水袋だ」
トトが言った。
「もやし用水です」
澪は姿勢を立て直しながら訂正した。
小さな子が袋へ手を伸ばすと、シスターが手のひらを前へ出す。
「これは遊ぶ袋ではありません」
子どもの手が止まった。
澪は水袋の口へ結ぶ木札を取り出した。
もやし用水。ゲンダイの清潔な水。今日と明日の試験分。勝手に飲まない。洗い物に使わない。飲み水として配らない。
札へ書いた用途を読み上げ、紐を固く結ぶ。
指先がわずかに震えていた。緊張だけが理由ではない。
司祭様はウォーターバッグをしばらく見てから、澪へ視線を戻した。
「まず、安全な基準を作るのですね」
「はい。現地の水で作る前に、失敗しにくい水で手順を覚えたいんです」
司祭様は頷いた。それ以上、水をどこから持ってきたのかまでは尋ねなかった。
シスターは子どもたちへ向き直る。
「今日は、この水を使います。ただし、勝手に開けてはいけません。澪さんか私がいる時だけです」
トトが真っ先に手を上げた。
「ぼく、開けられる」
「開けなくていいです」
澪とシスターの声が、きれいに重なった。
トトは上げた手を下ろし、隣の子どもが笑う。
澪は帳面と新しい木札を洗い場へ並べた。
仕込んだ日、水を替えた時刻、担当した子、水を確認した大人、匂いを確かめたか、食べる予定の日。捨てた場合には、その理由も残す。
頭の中では、必要な項目が増えている。
全部を一度に説明しても、子どもには伝わらない。澪は最初の器へ札を結び、実際に手を動かしながら話すことにした。
「この器は1番。今日、豆を仕込みます」
木札の表を子どもたちへ見せる。
「次に水を替えたら、札を裏返してください。終わったことが見れば分かります」
シスターが、集まった子どもたちを見回した。
「水を運ぶ子、器を持つ子、布をかける子、時刻を知らせる子を決めます」
一度言葉を切り、トトへ目を向ける。
「走らない子から選びます」
上がりかけたトトの手が、途中で止まった。
シスターは何も言わずに見ている。
トトはゆっくり手を下ろした。
「まだ走ってない」
「まだ、という言い方がよくありません」
選考は、手を上げる前から始まっていたらしい。
澪はウォーターバッグの栓を開き、専用の桶へ水を注いだ。
透明な水が細い音を立てて溜まっていく。毎日見ていた水道水なのに、異世界の洗い場では妙に貴重に見えた。
「この水は清潔ですが、万能ではありません」
澪は桶を指した。
「汚れた器へ入れれば汚れます。汚れた手を入れても同じです。もやし用の桶と柄杓は、ほかの物に使わないでください」
「水だけでなく、器と手も見るのですね」
シスターが、専用の柄杓を桶の横へ置く。
「はい。水だけきれいでも、触れる物が汚れていたら意味がありません」
話を聞いていた子どもの1人が呟いた。
「水って、わがままだ」
トトが真面目な顔で頷く。
「水はずるい」
「ずるいのは汚れです」
澪は、朝と同じ訂正をした。
リュシアが現れたのは、澪が3つ目の器へ札を結んでいる時だった。
トトか、孤児院の子の誰かが知らせに行ったのだろう。
屋台の前掛けをつけたまま洗い場へ入り、床のウォーターバッグを見る。
次に、澪を見た。
澪は平気な顔を作ろうとした。
しかし肩は落ち、額には汗が残っている。返事をする前にも、いつもより長い間が空いた。
リュシアは何も言わず、もう一度ウォーターバッグへ視線を戻した。
「澪、あんた……水袋を抱えて、うちへ寄る余力もなかったんだね」
「……すみません。先に、孤児院へ置きたくて」
「謝るところは、そこじゃないよ。無理をしたところだ」
「でも、もやし用の水が必要で」
「分かる。そこは偉い」
リュシアは澪の顔を指さした。
「けどね、顔が白い。水を運んで倒れたら、今度は澪を運ぶことになる」
澪は返事に詰まった。
リュシアがウォーターバッグを軽く叩く。
袋の中で水が重く揺れ、20kgが見える形で澪へ戻ってきた。
「水は軽そうな顔をしてるけど、重いんだよ」
「知りました……」
「知ったなら、次から先に言いな。叱るのも、手伝うのも、こっちの仕事だ」
「叱るのも仕事なんですか?」
「澪相手だとね」
シスターが口元を緩めた。
司祭様は何も言わず、水袋の数を確かめている。おそらく、全部で5つあることにも気づいていた。
「澪姉ちゃん、水に負けた?」
トトが横から聞いた。
「負けてません」
「半分負けてるね」
リュシアの判定が加わった。
「半分……」
「でも、孤児院の水は勝った。次は澪が負けないやり方を考えるよ」
澪は頷いた。
勝敗はよく分からなかったが、100Lを毎回運ぶ案が負けていることだけは認めるしかない。
そのまま、洗い場で水の使い方を決めることになった。
ゲンダイの水道水は、最初の試験で手順を覚えるために使う。
現地の水へ切り替えたあとまで、澪が毎回100Lを運ぶことはしない。
雨水の話を聞くと、リュシアはすぐに眉を寄せた。
「最初の雨は屋根を洗う水だ。豆には使わない」
「もやし用の桶には、魚も肉も、洗い物も入れません。柄杓も分けます」
シスターは、水袋へ結んだ札を確かめる。
司祭様は子どもたちのほうを見た。
「子どもが判断するのは、時刻と担当までにしましょう。水を使えるかどうかは、大人が見ます」
澪は話し合った内容を帳面へ書き加えた。
1人で考えていた時より決まるのが早い。それぞれが普段見ている危険を持ち寄れるからだ。
修さんから聞いた、砂利、砂、炭、布の話も伝える。
リュシアは、すぐに現場で使える言葉へ変えた。
「濁った水を、そのまま使わない。まず布で大きなごみを取る。石と砂と炭を通す。それでも変な匂いが残るなら、豆には使わない」
「それだけで、安全になったとは決められません」
澪が付け加えると、シスターが頷いた。
「だから、食べる前には必ず火を通すのですね」
「はい」
司祭様は水を貯める容器を見た。
「孤児院では、もやし用の水と洗い物の水を混ぜません。水を貯める器にも札をつけましょう」
また札が増える。豆の札、器の札、水の札、担当の札。捨てた理由を書く札まである。
大豆もやしは、澪が思っていたより文字の多い食べ物だった。
使い終えたウォーターバッグへ目を移す。
ゲンダイから持ち込んだ丈夫な袋には蓋があり、洗って乾かせば再び使える。
現地で清潔にした水を入れ、収納へ入れられれば、虫や埃を避けて短時間は運べるかもしれない。
澪が考え込んでいると、シスターが尋ねた。
「収納を持つ子がいれば、運べるのでしょうか」
澪の返事が止まった。
考えなかったわけではない。
だが、子どもに水袋を運ばせ、収納まで使わせるとなれば話は変わる。便利だからこそ、任せる範囲を曖昧にはできない。
「子どもを、便利な荷運び道具にしてはいけません」
司祭様が先に線を引いた。
「はい。そこは絶対に守ります」
澪はすぐに答えた。
シスターも、子どもたちの作業を指で数える。
「仕事として教えるのであれば、休む時間と食事、報酬を決めます。失敗した時に叱りすぎないことも必要です」
最後に、大人たちへ視線を向けた。
「水を使えるかどうかまで、子どもに決めさせてはいけません」
「子どもに任せるのは、運ぶところまでだね」
リュシアが腕を組む。
「水を取る場所を見るのも、袋を洗うのも、使っていいか決めるのも、大人がやる」
エレナの目が輝いた。
「収納持ちを育てるのか」
「育てるというより、危なくない作業から覚えてもらうんです」
澪が答えると、トトが手を上げた。
「ぼくも収納持ってる」
リュシアはトトを見た。
「まず、水替えを忘れないところからだね」
トトは黙って手を下ろした。
収納より先に必要な試験は、かなり地味だった。
最初の小さな失敗は、その日のうちにやってきた。
孤児院の子が、布の下を覗きながら尋ねる。
「水に少し甘い物を入れたら、早く育つ?」
「それは絶対駄目です」
澪は反射で答えた。
思ったより強い声が出て、子どもの肩が跳ねる。
その横で、トトがすぐに笑った。
「澪姉ちゃんも、同じこと考えた?」
澪は目を逸らした。
リュシアとシスターが、同時にこちらを見る。
「考えたね」
「考えましたね」
逃げ道がなくなった。
澪は背筋を伸ばす。
「学習しました」
「それならよろしいです」
シスターは微笑み、リュシアも肩を揺らした。
「補水の水とは別物だったね」
「はい。これは、何も足さない水です」
そこへエレナが口を開きかける。
「では、少し塩な――」
「エレナ様も怒られます」
オスカーが、エレナの言葉を途中で止めた。
「まだ言い終えていない」
「言い終える前に止めました」
エレナは不満そうに眉を寄せた。
けれど、澪、リュシア、シスターの3人に見られると、そのまま口を閉じる。
「姫様も学習中」
トトの小声に、エレナは聞こえないふりをした。
◇ ◇ ◇
江古田の六畳間へ戻ると、澪はそのまま床へ座り込んだ。
水100Lは、孤児院へ着くまで収納の中から重さを主張し続けた。
すべて取り出した今も、疲れだけはきちんと残っている。
腕は痛くない。腰も、水袋を担いだ時のようには痛まない。
代わりに、頭の奥がじんわりと重かった。集中を絞り切ったあとのように、考えようとするたび鈍い疲れが返ってくる。
ローテーブルには、ウォーターバッグの説明書がある。
床には大豆袋が残り、スマホの画面には追加購入候補のウォーターバッグが表示されたままだった。
水100Lを持ち込むことはできた。
けれど、水100Lは100kgだった。
収納はレベル4へ上がったが、運用まで軽くなったわけではない。
澪は説明書を畳み、次に買う個数を入力しかけていたスマホの画面を閉じた。
同じことを毎回繰り返さない方法は、孤児院の水源と道具を確認してから決める。
先に買って解決しようとすると、大型浄水器か、水100kgへ戻ってしまう。
どちらも遠慮したかった。
澪は壁へ背中を預け、大豆袋を見た。
豆を育てるつもりだった。
ところが今日一番育ったのは、豆ではない。水の管理表と、澪の収納スキルだった。
六畳間の隅では、大豆袋だけが相変わらず地味な顔で次の出番を待っていた。