押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第20話 豆草は水で決まる

 

 孤児院の洗い場では、子どもたちが朝から妙に張り切っていた。

 

 大豆もやしの器は、日の当たらない古い棚の下へ並べてある。

 

 布をかけた器の前で、誰が水を替えるか、誰が運ぶかを巡って小さな声が飛び交っていた。

 

 澪は、最初こそ頼もしく眺めていた。

 

 子どもたちは思っていたより真面目だ。

 

 シスターに教わったとおり、器を両手で持ち、棚の前では走らない。

 

 布をめくる時も、端をつまんで横から持ち上げている。

 

 その輪の中央には、なぜかトトがいた。

 

 市場の子なのに、孤児院ではすっかり先輩の顔である。

 

「豆草は乱暴にすると折れる」

 

「もやしです」

 

 澪は反射で訂正した。

 

「豆草のほうが強そうだろ」

 

「強そうにする必要はありません。清潔にしてください」

 

 トトは鼻を鳴らしたが、布を持つ指は慎重なままだった。

 

 そこへ、孤児院の子が桶を抱えてきた。

 

「これでいい?」

 

 桶の水は澄んでいた。底まで見えるし、顔を近づけても変な匂いはしない。

 

 子どもは当然のように、その水を大豆もやしの器へ注ごうとする。

 

 澪は、器の上へ手を出した。

 

「待ってください。その水、どこから持ってきました?」

 

「台所」

 

 子どもが桶を抱えたまま答える。

 

 シスターも横から覗き込んだ。

 

「台所で使っている水です。今日は井戸の水ですが、雨が続く時期は貯めた雨水も使います」

 

 雨水。

 

 その一言が、澪の頭に引っかかった。

 

 ゲンダイの水道水とは違う。蛇口をひねれば、消毒され、管理された水が出てくるわけではない。

 

 井戸水も雨水も、透明だから安全とは限らなかった。

 

 澪は大豆もやしを、ずっと豆の問題として見ていた。

 

 けれど、その豆へ毎日触れるのは水だ。

 

 先に考えるべきものが、棚の上ではなく桶の中にあった。

 

「水なんだから、水でいいじゃん」

 

 トトが不思議そうに言った。

 

 澪は桶の底を見たまま首を振る。

 

「水なのに、よくない時があるんです」

 

「水、ずるいな」

 

「ずるいのは水ではなく、汚れです」

 

 そう答えたものの、澪にも何を基準に止めればよいのか分からない。

 

 どの桶なら使えるのか。雨水はどこへ貯め、井戸の周りには何があるのか。

 

 見た目と匂いだけで、子どもへ大丈夫だと言ってよいのか。

 

 疑問が増えるたび、澪の頭には江古田の六畳間とスマホが浮かんだ。

 

 少なくとも、分からないまま注がせるわけにはいかない。

 

「今日は、この水を使うのを待ってください。調べてきます」

 

「豆草も待つの?」

 

「もやしです。あと、待ってもらいます」

 

 子どもは桶を下ろし、トトは棚の布をかけ直した。

 

 朝から張り切っていた一同の最初の仕事は、水替えではなく、水替えを止めることになった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 江古田の六畳間へ戻った澪は、大豆袋と帳面を前にして座った。

 

 床には、相変わらず大豆の袋が積まれている。

 

 水のことを考え始めたせいか、乾いているはずの布袋まで湿気を帯びて見えた。

 

 もちろん、実際には乾いている。

 

 問題は、澪の頭の中で豆と水が離れなくなったことだった。

 

 スマホを開き、相談画面へ条件を打ち込む。

 

 作りたいのは大豆もやし。

 

 作る場所には電気も、冷蔵庫も、クーラーもない。暑くて湿度の高い日があり、使える水は井戸水か雨水。

 

 作業には孤児院の子どもたちも加わる。

 

 安全に使える水、水替えの回数、腐敗の見分け方。

 

 子どもに任せられる作業と、大人が判断すべき作業も分けたい。

 

 条件を書き終えると、相談というより難問の出題になっていた。

 

 澪は読み返し、送信した。

 

 返ってきた答えは、期待していたほど気軽なものではなかった。

 

 清潔な水を使い、こまめに水を替える。

 

 ぬめり、嫌な匂い、不自然な濁りが出たら捨て、食べる前には必ず加熱する。

 

 子どもに任せられるのは、器を運ぶことや、決めた時刻を大人へ知らせることまで。

 

 食べられるかどうかは、大人が決めなければならない。

 

 澪は答えを読みながら、帳面へ書き写した。

 

 シスターと司祭様が話していた内容とも重なる。

 

 慎重すぎたわけではないと分かって安心したが、作業が減ったわけではなかった。

 

 そこで、澪は補水飲料を作った時のことを思い出した。

 

 塩を入れた。クエン酸も、水飴も入れた。量を測り、味を見て、飲めるものへ整えた。

 

 水だけで足りないのなら、もやしにも何かを足すのだろうか。

 

 思いついた途端、澪の指は追加の質問を打ち始めていた。

 

 水へ混ぜる候補は、塩、砂糖、クエン酸、出汁。

 

 送信すると、今度の返答は先ほどよりきっぱりしていた。

 

 何も混ぜないこと。

 

 発芽中の水へ砂糖や出汁を入れれば、雑菌が増えやすくなる。

 

 塩やクエン酸は発芽を妨げる可能性があり、洗浄剤や消毒液を混ぜるのも危険だった。

 

 必要なのは、清潔な水と水替え。

 

 澪はスマホを持ったまま動きを止めた。

 

「……怒られた」

 

 補水飲料の癖で、何かを足せば改善すると思っていた。

 

 だが、大豆もやしは違う。材料を加えて味を作るのではなく、余計なものを入れずに育てる。

 

 帳面へ、短く3つ書いた。

 

 混ぜない。汚さない。怪しければ捨てる。

 

 書き終えてから、澪は筆先を見つめた。商品を作る相談だったはずが、失敗を防ぐ勉強になっている。

 

 清潔な水が必要なら、浄水する道具があればよい。

 

 そこまで考えた時には、検索窓へ文字を打ち込んでいた。

 

 大型浄水器、業務用浄水器、井戸水の浄水、雨水の浄水。

 

 検索結果には、本気の設備が並んだ。

 

 大きい。そして、高い。

 

 交換カートリッジ、設置場所、水圧、処理能力。

 

 知らない言葉を1つ調べるたびに、さらに知らない部品が増えていく。

 

 写真に映る機械は、六畳間の机の下へ置ける大きさではなかった。

 

 押し入れを通して運び、孤児院の洗い場へ置く姿も想像したくない。

 

 澪は画面を送るほど、商品の値段より工事の説明へ追い詰められていった。

 

「押入商会ではなく、水道屋になりかけてる……」

 

 やりたかったのは、市場と孤児院の子どもたちへ、しゃきしゃきした食べ物を出すことだ。

 

 ところが今は、業務用浄水設備の処理量と交換部品を比べている。豆は画面のどこにもいなかった。

 

 これは、よくない。

 

 澪はスマホを伏せた。

 

 大きな機械を買う前に、相談できる人がいる。

 

 修さんなら、キャンプや防災の話として、水の扱いを聞けるはずだ。

 

 ただし、異世界のことは言えない。孤児院も、大豆もやしも言えない。

 

 澪はもう一度スマホを持ち上げ、検索履歴を眺めた。

 

「これを見せたら、絶対につっこまれる……」

 

 つっこまれても、聞くしかなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 彫金教室の片づけが終わると、飯島修一郎は澪のスマホ画面を見て眉を上げた。

 

 作業台には布がかけられ、使い終えた工具も所定の位置へ戻っている。

 

 いつもどおり整った部屋で、澪の検索履歴だけが妙に大がかりだった。

 

「澪ちゃん、これはキャンプではなく、避難所を作る買い物だね」

 

「やっぱり大きすぎますか」

 

「大きいし、高いし、買った後の手入れもいる」

 

 修さんは業務用浄水器の商品画面を指で戻した。

 

「そもそも、どうして急にこれを?」

 

 澪は、用意してきた説明を口にする。

 

「キャンプとか非常時って、井戸水や雨水をどう扱うんですか。防災用に、ちょっと気になって」

 

「ちょっとで業務用浄水器まで行くかな」

 

「行きました」

 

「行かないほうがいいね」

 

 予想していた指摘だった。

 

 修さんは笑ったが、澪が遊びで調べているのではないことには気づいたらしい。

 

 椅子を引き、澪を作業台の前へ座らせた。

 

「まず、大きい機械を買う前に、水を取る場所を見る」

 

 スマホを伏せ、指を1本立てる。

 

「濁りが強い水、変な匂いがする水、生活排水に近い水は避ける。

 

 最初から怪しい水を、機械に入れれば何とかなるとは考えない」

 

「はい」

 

「次は容器だね」

 

「容器?」

 

「水がきれいでも、入れ物が汚れていたらそこで終わるよ」

 

 澪の頭に、孤児院の桶と柄杓が浮かんだ。

 

 水源ばかりを気にしていたが、桶は台所で何に使われているのか分からない。

 

 雨水を貯める甕も、内側までは見ていなかった。

 

 修さんは澪の顔を見て、話を続ける。

 

「川の水や雨水なら、まず布で葉や砂を取る。砂利、砂、炭、布を重ねて濾すやり方もある」

 

 澪は急いで帳面を開いた。

 

「炭も使えるんですか?」

 

「使える場合はある。ただし、万能ではないよ」

 

 修さんは、帳面へ並び始めた材料を指で示した。

 

「濾したから安全確定、とは言わない。見た目の濁りや匂いを減らす助けだと思ったほうがいい」

 

「そこから、火を通す」

 

「飲んだり料理へ使ったりするなら、その水に合った処理が必要になるね。キャンプでも防災でも、1つの道具で全部解決しようとしないことだよ」

 

 水を取る場所を選ぶ。容器を分ける。布で粗い物を取り、砂利、砂、炭も使う。

 

 それでも怪しい水は使わない。

 

 澪の帳面へ、孤児院で確かめることが増えていく。

 

 最後に、容器が汚れていたらそこで終わる、と線を引いた。

 

 修さんが、埋まったページを覗き込む。

 

「澪ちゃん、やっぱり何か本気だね」

 

「防災です」

 

「便利な言葉だ」

 

 澪は目を逸らした。

 

 異世界の秘密は守れた。

 

 信じてもらえたかどうかは、別の話だった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 六畳間へ戻った澪は、修さんから聞いたことを帳面へ広げた。

 

 雨水は、降れば使える。

 

 昨日までは、その程度に考えていた。

 

 だが、雨粒は空から甕へ直接入ってくれるわけではない。

 

 屋根へ落ち、埃を流し、樋を通る。鳥の落とし物が混じることもある。

 

 貯める甕や樽が汚れていれば、そこでまた汚れる。蓋がなければ虫が入り、日が当たり続ければ藻も出る。

 

 澪は雨水が通る道筋を、帳面へ線で描いた。

 

 最初に降った雨は、屋根と樋を洗う水として捨てる。

 

 次の水から布で粗いごみを取り、砂利、砂、炭、布へ通す。

 

 それを蓋つきの甕か樽へ貯める。虫を入れず、もやし専用の柄杓と桶を用意する。

 

 書けば書くほど、豆の姿が帳面から遠ざかっていった。

 

「水を育ててるみたい……」

 

 澪は筆を持ったまま、ローテーブルへ額をつけた。

 

 育てたいのは豆である。

 

 その前に水を育てなければならないらしい。いや、水は育てない。ただ汚さないように扱うだけだ。

 

 水を育てるわけではないのに、手間だけ見ればずいぶん世話を焼いている。

 

 顔を上げた時、押し入れの前に置いた大豆袋が目に入った。

 

 大鍋も、水飴の小樽も、大豆も収納へ入った。

 

 ならば、水はどうだろう。

 

 雨水を外へ大量に貯めれば、虫や埃を防ぎ続けなければならない。

 

 清潔にした水を容器ごと収納できれば、少なくとも日には当たらず、外から虫も入らない。

 

 澪は帳面の端へ、収納と書き足した。

 

 直後、その文字の下へ線を引く。

 

 入れる前の水が汚れていたら、汚れた水を大切に保管するだけになる。

 

「汚い水を収納しても、汚いまま……そりゃそうだ」

 

 収納は、浄水器ではない。

 

 水を取る場所を選び、布で濾し、必要なら砂や炭を使う手順は残る。

 

 ただ、最初の試験だけは、ゲンダイの水道水で安全な基準を作ってもよいのではないか。

 

 子どもたちが水を替える順番を覚え、器や布を清潔に保つ練習をする。その間だけ、澪が水を持ち込む。

 

 現地の水へ切り替えるのは、手順を覚えてからだ。

 

 澪はスマホを手に取った。

 

 今度は大型浄水器を検索しない。

 

 探すのは、もっと小さな物でよい。水を入れられて、口を閉じられ、使わない時には畳める容器。

 

 検索窓へ「ウォータータンク 20L」と入れる。

 

 続けて「ウォーターバッグ 20L」「非常用給水袋」「キャンプ用水タンク」と打ち込んだ。

 

 画面に並んだ商品は、先ほどの業務用設備よりずっと現実的だった。

 

 折り畳み式で、蛇口がついている。非常用やキャンプ用なので、持ち運びも考えられていた。

 

 値段も、工事の見積もりを覚悟する必要はない。

 

「これなら……」

 

 澪は20Lのウォーターバッグを5つ、買い物かごへ入れた。

 

 合計100L。

 

 注文を確定しかけた指が止まる。

 

「100Lって、100kg……?」

 

 澪は床の大豆袋を見た。

 

 大豆100kgの次は、水100kgである。

 

 何をしているのかは分からなくなってきたが、必要な理由だけは分かっている。

 

 澪は注文を確定した。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 数日後、届いたウォーターバッグを前に、澪は覚悟を決めた。

 

 蛇口をひねり、最初の袋へ水道水を入れる。

 

 平たかった透明な袋が、底から少しずつ膨らんでいく。

 

 20Lまで入った袋は、商品写真で見た時よりずっと大きく、床へ置くと中の水がゆっくり揺れた。

 

 容量は分かっていた。重さも、計算した。

 

 それでも実物を前にすると、20kgは数字よりずっと無遠慮だった。

 

 澪は1つ目の袋へ手を置き、収納へ登録する内容を頭の中で揃えた。

 

 水道水入りウォーターバッグ。20L。もやし用水候補。ゲンダイ水道水。未開封。飲用確定ではなく作業用。洗浄剤の混入なし。魚、肉、洗い物への使用禁止。使用期限は短め。

 

 用途を曖昧にすれば、孤児院で別の水と混ざる。水そのものだけでなく、何のための水かまで分けなければならない。

 

 登録を終えると、薄い靄が袋を包み、その姿が消えた。

 

 2つ目も入った。3つ目へ手を置いた時、息が少し詰まる。4つ目では、こめかみの奥が重くなった。

 

 残った袋は、あと1つ。床には20Lの水が、透明な袋の中で何でもない顔をしている。

 

 澪は5つ目へ両手を置いた。

 

 重さが来た。腕でも、肩でもない。頭の奥へ20Lの水袋をそのまま押し込まれたように、意識が沈む。

 

「ぐ……」

 

 出すつもりのなかった声が漏れた。

 

 水は軽そうな顔をしている。色もなく、袋へ入れれば形まで変わる。

 

 だが、20Lは20kgだ。5つなら100kgになる。

 

 大豆と違い、袋の中でゆらりと動く気配まで、頭の奥へ伝わってくる。

 

「グギギギギ……」

 

 澪は水袋を押さえたまま、収納の在庫表へ必死に項目を書き込んだ。

 

 もやし用水候補。ゲンダイ水道水。作業用。ほかの用途へ回さない。使用期限は短め。

 

「入れ……入って……お願い……」

 

 最後の項目まで登録した瞬間、手の下の重さが奥へ沈んだ。

 

 ウォーターバッグが薄い靄に包まれて消える。

 

 澪はその場へへたり込んだ。

 

「……入った」

 

 水を腕で持ち上げたわけではない。それでも、重い荷物を運び終えたように背中が熱く、首の後ろへ汗が流れている。

 

 しばらく床へ座ったまま呼吸を整えた。

 

 指の震えが収まるのを待ち、澪は自分へ鑑定を向ける。

 

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篠原 澪

 分類:人間/異界渡航者

 役割:押入商会代表

 現在ジョブ:商人

 状態:睡眠やや不足

 疲労度:72%

身体異常:なし

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基礎能力値

 体力:40

 筋力:29

 器用:49

 知力:66

 判断:51

 精神:54

 集中:48

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既得スキル

 鑑定:3

 収納:4

 商才:芽あり

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「収納、上がってる……!」

 

 嬉しくはあった。

 

 ただし、床へ座り込んだままの声に、成長した者の格好よさはなかった。

 

 澪は壁へ手をついて立ち上がる。

 

 リュシアの屋台へ寄り、相談してから孤児院へ行く予定だった。

 

 収納の中には水が100Lある。

 

 両腕には何も持っていないのに、頭の奥にはまだ100kg分の存在感が残っていた。

 

 予定表より先に、孤児院へ水を置くことにした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 澪は、リュシアの屋台へ寄らなかった。

 

 寄らなかったというより、寄る余力がなかった。

 

 水100Lは収納へ入っているため、腕には何もかかっていない。

 

 それでも歩くたび、頭の奥から重さがついてくる。

 

 集中を少しでも緩めれば、収納に押し込んだ水袋が存在を主張してきそうだった。

 

 澪は寄り道を諦め、最短で孤児院へ向かった。

 

 洗い場にはシスターと司祭様がおり、子どもたちも何人か集まっている。

 

 澪は入口で一度息を整え、できるだけ普通の顔を作った。

 

「今日は、水を持ってきました」

 

 シスターが首を傾げる。

 

「水、ですか?」

 

「はい。もやし用です」

 

 澪は収納から、最初のウォーターバッグを取り出した。

 

 薄い靄の中から、透明な袋が床へ降りる。

 

 中の水が、遅れてどぷんと揺れた。

 

 子どもたちの目が一斉に丸くなる。トトも口を開けたまま、20Lの袋を見つめていた。

 

 反応は悪くない。

 

 澪は少しだけ胸を張る。

 

「収納スキルレベル4に育てた私の実力、見てください」

 

 言い切ったところで、膝が震えた。

 

 格好よく決めたかった。

 

 だが、収納から1つ出しても、残りは80Lある。

 

 頭の奥から消えた重さは、全体の5分の1だけだった。

 

「水袋だ」

 

 トトが言った。

 

「もやし用水です」

 

 澪は姿勢を立て直しながら訂正した。

 

 小さな子が袋へ手を伸ばすと、シスターが手のひらを前へ出す。

 

「これは遊ぶ袋ではありません」

 

 子どもの手が止まった。

 

 澪は水袋の口へ結ぶ木札を取り出した。

 

 もやし用水。ゲンダイの清潔な水。今日と明日の試験分。勝手に飲まない。洗い物に使わない。飲み水として配らない。

 

 札へ書いた用途を読み上げ、紐を固く結ぶ。

 

 指先がわずかに震えていた。緊張だけが理由ではない。

 

 司祭様はウォーターバッグをしばらく見てから、澪へ視線を戻した。

 

「まず、安全な基準を作るのですね」

 

「はい。現地の水で作る前に、失敗しにくい水で手順を覚えたいんです」

 

 司祭様は頷いた。それ以上、水をどこから持ってきたのかまでは尋ねなかった。

 

 シスターは子どもたちへ向き直る。

 

「今日は、この水を使います。ただし、勝手に開けてはいけません。澪さんか私がいる時だけです」

 

 トトが真っ先に手を上げた。

 

「ぼく、開けられる」

 

「開けなくていいです」

 

 澪とシスターの声が、きれいに重なった。

 

 トトは上げた手を下ろし、隣の子どもが笑う。

 

 澪は帳面と新しい木札を洗い場へ並べた。

 

 仕込んだ日、水を替えた時刻、担当した子、水を確認した大人、匂いを確かめたか、食べる予定の日。捨てた場合には、その理由も残す。

 

 頭の中では、必要な項目が増えている。

 

 全部を一度に説明しても、子どもには伝わらない。澪は最初の器へ札を結び、実際に手を動かしながら話すことにした。

 

「この器は1番。今日、豆を仕込みます」

 

 木札の表を子どもたちへ見せる。

 

「次に水を替えたら、札を裏返してください。終わったことが見れば分かります」

 

 シスターが、集まった子どもたちを見回した。

 

「水を運ぶ子、器を持つ子、布をかける子、時刻を知らせる子を決めます」

 

 一度言葉を切り、トトへ目を向ける。

 

「走らない子から選びます」

 

 上がりかけたトトの手が、途中で止まった。

 

 シスターは何も言わずに見ている。

 

 トトはゆっくり手を下ろした。

 

「まだ走ってない」

 

「まだ、という言い方がよくありません」

 

 選考は、手を上げる前から始まっていたらしい。

 

 澪はウォーターバッグの栓を開き、専用の桶へ水を注いだ。

 

 透明な水が細い音を立てて溜まっていく。毎日見ていた水道水なのに、異世界の洗い場では妙に貴重に見えた。

 

「この水は清潔ですが、万能ではありません」

 

 澪は桶を指した。

 

「汚れた器へ入れれば汚れます。汚れた手を入れても同じです。もやし用の桶と柄杓は、ほかの物に使わないでください」

 

「水だけでなく、器と手も見るのですね」

 

 シスターが、専用の柄杓を桶の横へ置く。

 

「はい。水だけきれいでも、触れる物が汚れていたら意味がありません」

 

 話を聞いていた子どもの1人が呟いた。

 

「水って、わがままだ」

 

 トトが真面目な顔で頷く。

 

「水はずるい」

 

「ずるいのは汚れです」

 

 澪は、朝と同じ訂正をした。

 

 リュシアが現れたのは、澪が3つ目の器へ札を結んでいる時だった。

 

 トトか、孤児院の子の誰かが知らせに行ったのだろう。

 

 屋台の前掛けをつけたまま洗い場へ入り、床のウォーターバッグを見る。

 

 次に、澪を見た。

 

 澪は平気な顔を作ろうとした。

 

 しかし肩は落ち、額には汗が残っている。返事をする前にも、いつもより長い間が空いた。

 

 リュシアは何も言わず、もう一度ウォーターバッグへ視線を戻した。

 

「澪、あんた……水袋を抱えて、うちへ寄る余力もなかったんだね」

 

「……すみません。先に、孤児院へ置きたくて」

 

「謝るところは、そこじゃないよ。無理をしたところだ」

 

「でも、もやし用の水が必要で」

 

「分かる。そこは偉い」

 

 リュシアは澪の顔を指さした。

 

「けどね、顔が白い。水を運んで倒れたら、今度は澪を運ぶことになる」

 

 澪は返事に詰まった。

 

 リュシアがウォーターバッグを軽く叩く。

 

 袋の中で水が重く揺れ、20kgが見える形で澪へ戻ってきた。

 

「水は軽そうな顔をしてるけど、重いんだよ」

 

「知りました……」

 

「知ったなら、次から先に言いな。叱るのも、手伝うのも、こっちの仕事だ」

 

「叱るのも仕事なんですか?」

 

「澪相手だとね」

 

 シスターが口元を緩めた。

 

 司祭様は何も言わず、水袋の数を確かめている。おそらく、全部で5つあることにも気づいていた。

 

「澪姉ちゃん、水に負けた?」

 

 トトが横から聞いた。

 

「負けてません」

 

「半分負けてるね」

 

 リュシアの判定が加わった。

 

「半分……」

 

「でも、孤児院の水は勝った。次は澪が負けないやり方を考えるよ」

 

 澪は頷いた。

 

 勝敗はよく分からなかったが、100Lを毎回運ぶ案が負けていることだけは認めるしかない。

 

 そのまま、洗い場で水の使い方を決めることになった。

 

 ゲンダイの水道水は、最初の試験で手順を覚えるために使う。

 

 現地の水へ切り替えたあとまで、澪が毎回100Lを運ぶことはしない。

 

 雨水の話を聞くと、リュシアはすぐに眉を寄せた。

 

「最初の雨は屋根を洗う水だ。豆には使わない」

 

「もやし用の桶には、魚も肉も、洗い物も入れません。柄杓も分けます」

 

 シスターは、水袋へ結んだ札を確かめる。

 

 司祭様は子どもたちのほうを見た。

 

「子どもが判断するのは、時刻と担当までにしましょう。水を使えるかどうかは、大人が見ます」

 

 澪は話し合った内容を帳面へ書き加えた。

 

 1人で考えていた時より決まるのが早い。それぞれが普段見ている危険を持ち寄れるからだ。

 

 修さんから聞いた、砂利、砂、炭、布の話も伝える。

 

 リュシアは、すぐに現場で使える言葉へ変えた。

 

「濁った水を、そのまま使わない。まず布で大きなごみを取る。石と砂と炭を通す。それでも変な匂いが残るなら、豆には使わない」

 

「それだけで、安全になったとは決められません」

 

 澪が付け加えると、シスターが頷いた。

 

「だから、食べる前には必ず火を通すのですね」

 

「はい」

 

 司祭様は水を貯める容器を見た。

 

「孤児院では、もやし用の水と洗い物の水を混ぜません。水を貯める器にも札をつけましょう」

 

 また札が増える。豆の札、器の札、水の札、担当の札。捨てた理由を書く札まである。

 

 大豆もやしは、澪が思っていたより文字の多い食べ物だった。

 

 使い終えたウォーターバッグへ目を移す。

 

 ゲンダイから持ち込んだ丈夫な袋には蓋があり、洗って乾かせば再び使える。

 

 現地で清潔にした水を入れ、収納へ入れられれば、虫や埃を避けて短時間は運べるかもしれない。

 

 澪が考え込んでいると、シスターが尋ねた。

 

「収納を持つ子がいれば、運べるのでしょうか」

 

 澪の返事が止まった。

 

 考えなかったわけではない。

 

 だが、子どもに水袋を運ばせ、収納まで使わせるとなれば話は変わる。便利だからこそ、任せる範囲を曖昧にはできない。

 

「子どもを、便利な荷運び道具にしてはいけません」

 

 司祭様が先に線を引いた。

 

「はい。そこは絶対に守ります」

 

 澪はすぐに答えた。

 

 シスターも、子どもたちの作業を指で数える。

 

「仕事として教えるのであれば、休む時間と食事、報酬を決めます。失敗した時に叱りすぎないことも必要です」

 

 最後に、大人たちへ視線を向けた。

 

「水を使えるかどうかまで、子どもに決めさせてはいけません」

 

「子どもに任せるのは、運ぶところまでだね」

 

 リュシアが腕を組む。

 

「水を取る場所を見るのも、袋を洗うのも、使っていいか決めるのも、大人がやる」

 

 エレナの目が輝いた。

 

「収納持ちを育てるのか」

 

「育てるというより、危なくない作業から覚えてもらうんです」

 

 澪が答えると、トトが手を上げた。

 

「ぼくも収納持ってる」

 

 リュシアはトトを見た。

 

「まず、水替えを忘れないところからだね」

 

 トトは黙って手を下ろした。

 

 収納より先に必要な試験は、かなり地味だった。

 

 最初の小さな失敗は、その日のうちにやってきた。

 

 孤児院の子が、布の下を覗きながら尋ねる。

 

「水に少し甘い物を入れたら、早く育つ?」

 

「それは絶対駄目です」

 

 澪は反射で答えた。

 

 思ったより強い声が出て、子どもの肩が跳ねる。

 

 その横で、トトがすぐに笑った。

 

「澪姉ちゃんも、同じこと考えた?」

 

 澪は目を逸らした。

 

 リュシアとシスターが、同時にこちらを見る。

 

「考えたね」

 

「考えましたね」

 

 逃げ道がなくなった。

 

 澪は背筋を伸ばす。

 

「学習しました」

 

「それならよろしいです」

 

 シスターは微笑み、リュシアも肩を揺らした。

 

「補水の水とは別物だったね」

 

「はい。これは、何も足さない水です」

 

 そこへエレナが口を開きかける。

 

「では、少し塩な――」

 

「エレナ様も怒られます」

 

 オスカーが、エレナの言葉を途中で止めた。

 

「まだ言い終えていない」

 

「言い終える前に止めました」

 

 エレナは不満そうに眉を寄せた。

 

 けれど、澪、リュシア、シスターの3人に見られると、そのまま口を閉じる。

 

「姫様も学習中」

 

 トトの小声に、エレナは聞こえないふりをした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 江古田の六畳間へ戻ると、澪はそのまま床へ座り込んだ。

 

 水100Lは、孤児院へ着くまで収納の中から重さを主張し続けた。

 

 すべて取り出した今も、疲れだけはきちんと残っている。

 

 腕は痛くない。腰も、水袋を担いだ時のようには痛まない。

 

 代わりに、頭の奥がじんわりと重かった。集中を絞り切ったあとのように、考えようとするたび鈍い疲れが返ってくる。

 

 ローテーブルには、ウォーターバッグの説明書がある。

 

 床には大豆袋が残り、スマホの画面には追加購入候補のウォーターバッグが表示されたままだった。

 

 水100Lを持ち込むことはできた。

 

 けれど、水100Lは100kgだった。

 

 収納はレベル4へ上がったが、運用まで軽くなったわけではない。

 

 澪は説明書を畳み、次に買う個数を入力しかけていたスマホの画面を閉じた。

 

 同じことを毎回繰り返さない方法は、孤児院の水源と道具を確認してから決める。

 

 先に買って解決しようとすると、大型浄水器か、水100kgへ戻ってしまう。

 

 どちらも遠慮したかった。

 

 澪は壁へ背中を預け、大豆袋を見た。

 

 豆を育てるつもりだった。

 

 ところが今日一番育ったのは、豆ではない。水の管理表と、澪の収納スキルだった。

 

 六畳間の隅では、大豆袋だけが相変わらず地味な顔で次の出番を待っていた。

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