孤児院の洗い場では、子どもたちが妙に張り切っていた。
大豆もやしの器は、古い棚の下に並べられている。日が直接当たらない場所で、布をかけた器がいくつか置かれ、その前に小さな子どもたちが集まっていた。誰が水を替えるのか、誰が器を運ぶのかで、朝から少し騒がしい。
澪は、最初はそれを頼もしく見ていた。
子どもたちは思ったより真面目だった。シスターが教えた通り、器を両手で持つ。棚の前では走らない。布をめくる時も、横からそっと持ち上げる。トトは市場の子どもなのに、なぜか孤児院の子たちの前で先輩ぶっている。
「豆草は乱暴にすると折れる」
「もやしです」
澪は反射で訂正した。
「豆草の方が強そうだろ」
「強そうにしなくていいです。清潔にしてください」
トトは少し不満そうに鼻を鳴らした。
その時、孤児院の子が桶を持ってきた。
「これでいい?」
桶の中の水は、澄んで見えた。底まで見える。変な匂いもしない。子どもは当然のように、それを大豆もやしの器へ入れようとしている。
澪は、そこで手を止めた。
「その水、どこから持ってきました?」
「台所」
子どもが答える。
シスターも、横から補った。
「台所で使う水です。今日は井戸の水ですが、雨が続く時期は貯めた雨水も使います」
雨水。
その言葉が、澪の中でひっかかった。
現代日本の水道水と違う。蛇口をひねれば当たり前に出てくる、消毒されて、管理された水ではない。井戸水も、雨水も、見た目だけでは分からない。透明だから安全とは限らない。
大豆もやしは、豆の話だと思っていた。
でも違う。
これは先に、水の話だった。
「水なんだから、水でいいじゃん」
トトが言った。
澪は桶の中を見たまま、ゆっくり首を振った。
「水なのに、よくない時があるんです」
「水、ずるいな」
「ずるいのは水じゃなくて、汚れです」
言いながら、澪自身も自信がなくなってきた。
水をどう判断するのか。どの桶ならいいのか。雨水はどこに貯めたのか。井戸の近くに何があるのか。そこまで考えた時、澪の頭の中で、屋台裏や孤児院の棚よりも先に、六畳間の机とスマホが浮かんだ。
六畳間に戻った澪は、大豆袋と帳面を前に座った。
床には、相変わらず大豆の袋がある。水のことを考え始めたせいで、その大豆袋まで少し湿気を帯びているように見えた。もちろん実際には乾いている。だが澪の頭の中では、豆と水が離れなくなっていた。
スマホを開き、相談画面へ入力する。
大豆もやしを作りたいです。ただし、作る場所は電気なし、冷蔵庫なし、クーラーなしです。気温は高め、湿度も高い日があります。井戸水や雨水しか使えない場合があります。孤児院の子どもたちにも手伝ってもらいます。安全に作るには、どんな水を使うべきですか。水替えは何度くらい必要ですか。腐った時の見分け方は何ですか。子どもができる作業と、大人が判断すべき作業を分けたいです。
送信してから、澪は息を詰めて待った。
返ってきた答えは、思ったより厳しかった。
清潔な水を使うこと。こまめに水を替えること。ぬめり、嫌な匂い、変な濁りが出たら捨てること。食べる前には加熱すること。子どもに任せてよいのは器を運ぶことや決まった時刻を知らせることまでで、食べられるかどうかは大人が決めること。
澪は読みながら、帳面に書き写した。
そこで、ふと思いついた。
補水飲料では、塩を入れた。クエン酸も入れた。水飴も入れた。量を測り、味を見て、飲めるようにした。
なら、もやしにも何か入れるのだろうか。
澪は追加で入力した。
水に何か混ぜた方がいいですか。塩、砂糖、クエン酸、出汁など。
返答は、さっきより冷たかった。
混ぜないでください。発芽中の水に砂糖や出汁を入れると雑菌が増えやすくなります。塩やクエン酸は発芽を妨げる可能性があります。洗浄剤や消毒液を混ぜるのは危険です。必要なのは、清潔な水と水替えです。
澪はスマホを見たまま固まった。
「……怒られた」
補水飲料の癖で、何か足せばよくなると思っていた。だが、もやしは違う。何かを足す話ではない。余計なものを入れない話だ。
混ぜない。
汚さない。
怪しければ捨てる。
澪は、帳面にそう書いた。
書いてから、少しだけ顔をしかめた。
なんだか、商品を作るというより、失敗を防ぐ勉強になってきている。
澪は検索窓に文字を打ち込んだ。
大型浄水器。
業務用浄水器。
井戸水 浄水。
雨水 浄水。
画面には、本気の設備が並んだ。
大きい。
高い。
交換カートリッジという文字がある。設置場所の説明がある。水圧という言葉まで出てくる。写真に映っている機械は、六畳間の机の下に置くものではなかった。押し入れを通して異世界へ運ぶものでもなかった。
澪は、画面を指で送っていくほど青ざめた。
「押し入れ商会じゃなくて、水道屋になりかけてる……」
大豆もやしを作りたいだけだった。
市場の子どもと孤児院の子に、しゃきしゃきした食べ物を出したいだけだった。なのに、気がつくと業務用の浄水設備を見ている。交換部品の価格を見ている。処理できる水の量を読んでいる。
これは、よくない。
澪はスマホを伏せた。
こういう時、相談すべき人がいる。
修さんだ。
ただし、異世界のことは言えない。大豆もやしのことも言えない。言えるのは、キャンプ、防災、井戸水や雨水の扱い。そのあたりまでだ。
澪は、検索履歴を見て、少しだけ頭を抱えた。
「これ、見せたら絶対つっこまれる……」
つっこまれても、聞くしかない。
飯島修一郎は、澪のスマホ画面を見て、眉を上げた。
彫金教室の片づけが終わった後だった。作業台の上には布がかけられ、工具はきちんと並べられている。修さんはいつものように落ち着いていたが、澪の検索履歴を見た時だけ、少しだけ顔が変わった。
「澪ちゃん、これはキャンプじゃなくて避難所を作る買い物だね」
「やっぱり大きすぎますか」
「大きいし、高いし、買った後の手入れもいる。そもそも、どうして急にこれを?」
澪は、用意していた言い訳を出した。
「キャンプとか非常時って、井戸水とか雨水ってどう扱うんですか。防災用に、ちょっと気になって」
「ちょっとで業務用浄水器まで行くかな」
「行きました」
「行かない方がいいね」
修さんは笑ったが、馬鹿にする笑いではなかった。澪が本気で困っているのを見て、椅子を引いて座らせてくれた。
「まず、大きい機械を買う前に、水を取る場所を見る。汚れてそうな水は使わない。変な匂いがする水、濁りが強い水、生活排水に近い水、そういうのは避ける」
「はい」
「それから容器。水って、入れ物が汚れてたらそこで終わるよ」
容器。
澪の頭に、ペットボトル、フタ、桶、そしてまだ買っていないウォーターバッグが浮かんだ。
「川の水や雨水なら、葉っぱや砂を布で取る。砂利、砂、炭、布で濾す考え方もある。ただし、濾したから安全確定、とは言わない。見た目の濁りや匂いを減らす助けくらいに考えた方がいい」
「炭って、使えるんですか」
「使えることはあるよ。ただ、万能じゃない。キャンプでも、防災でも、大事なのは一発で何とかすることじゃなくて、危ないところを何段階かで減らすことかな」
澪は必死にメモした。
水を取る場所を選ぶ。
容器を分ける。
布で取る。
砂利、砂、炭、布。
怪しい水は使わない。
容器が汚れていたら終わる。
修さんは、澪のメモを見て少し笑った。
「澪ちゃん、やっぱり何か本気だね」
「防災です」
「便利な言葉だ」
澪は目を逸らした。
六畳間に戻った澪は、帳面を広げた。
雨水は、降れば使えると思っていた。だが、修さんの話を聞いた後では、そんな簡単なものに見えない。
屋根に落ちる。樋を通る。埃が混じる。鳥の落とし物もあるかもしれない。貯める甕や樽が汚れていれば、そこでも悪くなる。虫が入る。日が当たれば藻も出る。
最初の雨は捨てる。
布で粗いごみを取る。
砂利、砂、炭、布を通す。
蓋つきの甕か樽に貯める。
虫を入れない。
もやし用の柄杓と桶を分ける。
書けば書くほど、話が大きくなっていく。
「水を育ててるみたい……」
澪は帳面の前でうなだれた。
豆を育てたいだけだった。だが、その前に水を育てなければならないらしい。いや、水は育てない。汚さないだけだ。けれど手間としては、かなり育てている気分になる。
その時、ふと手が止まった。
収納。
大鍋も入った。水飴入り小樽も入った。大豆も五十キロ近く入った。なら、水はどうだろう。
雨水をそのまま大量に貯めるのは難しい。だが、清潔にした水を、収納の中へ入れられるなら、虫も入らない。日にも当たらない。外に置いた桶の汚れもつかない。
もちろん、入れる前の水が汚れていたら、汚い水を大事に保管するだけになる。
澪はそこまで考えて、少しだけ笑った。
「汚い水を収納しても、汚いまま……そりゃそうだ」
だから、水を取る場所と布濾しと砂や炭は必要だ。
けれど、最初の試験だけは現代の水道水で安全な基準を作ってもいいのではないか。現地の水を使う前に、孤児院の子どもたちが手順を覚えるための水を持ち込む。
澪はスマホを取った。
大型浄水器ではない。
もっと小さいもの。
水を入れる袋。
検索窓に入れたのは、ウォータータンク 二十リットル、だった。
次に、ウォーターバッグ 二十リットル。非常用 給水袋。キャンプ用 水タンク。
画面に出てきた商品は、さっきの大型浄水器よりずっと現実的だった。折りたたみ式。蛇口付き。非常用。キャンプ用。値段も、業務用の機械よりずっと優しい。
「これなら……」
澪は二十リットルのウォーターバッグを五つ、カートに入れた。
合計百リットル。
そこで手が止まった。
「百リットルって、百キロ……?」
澪は床の大豆袋を見た。
大豆百キロの次は、水百キロ。
自分は一体、何をしているのか。
だが、注文はした。
数日後に届いたウォーターバッグを前に、澪は覚悟を決めた。水道水を入れる。蛇口から水が流れ込み、透明な袋が少しずつ膨らむ。二十リットルは、見た目よりずっと重い。
一つ目に手を置く。
水道水入りウォーターバッグ。二十リットル。もやし用水候補。現代水道水。未開封。飲用確定ではなく作業用。洗浄剤混入なし。魚、肉、洗い物禁止。使用期限短め。
登録して、収納へ入れる。
二つ目は、まだ入った。
三つ目で、少し息が詰まった。
四つ目で、こめかみの奥が重くなった。
五つ目に手を置いた瞬間、澪は息を止めた。
重い。
収納に入れる前から、重さが来た。腕ではない。肩でもない。頭の奥に、二十リットルの水袋がそのまま押し込まれるような重さだった。
「ぐ……」
声にしたくなかったのに、出た。
水は軽くない。透明で、ただの水の顔をしているくせに、二十リットルは二十キロだった。五つで百キロ。大豆と違って、袋の中でゆらりと動く気配まである。
「グギギギギ……」
澪は両手でウォーターバッグを押さえたまま、頭の中の在庫表へ必死に書き込んだ。
水道水入りウォーターバッグ。二十リットル。もやし用水候補。現代水道水。未開封。飲用確定ではなく作業用。洗浄剤混入なし。魚、肉、洗い物禁止。使用期限短め。
「入れ……入って……お願い……」
最後の一行を書き終えた感覚がした瞬間、重さがふっと奥へ沈んだ。
澪はその場にへたり込んだ。
「……入った」
しばらく動けなかった。水を持ち上げたわけではない。だが、何かを持ち上げた後のように、背中と首の後ろが熱かった。
少しして、澪は震える指で鑑定を開いた。
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篠原澪
体力:40
筋力:29
集中:48
睡眠:やや不足
鑑定:3
収納:4
商才:芽あり
衛生管理:上昇中
在庫管理:上昇中
容器管理:上昇中
水管理:発生
栄養管理:発生
課題進捗:完了
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「収納、上がってる……!」
喜びはあった。
あったが、床に座り込んだままの声だった。
澪はリュシアの屋台へ寄らなかった。
寄らなかったというより、寄れなかった。
水百リットルは、収納に入っているから両腕にはかからない。だが、身体のどこにも負担がないわけではなかった。歩くと、頭の奥に重さがついてくる。集中を少しでも乱すと、収納の中身がこちらを見ているような気がする。
だから、最短で孤児院へ向かった。
洗い場には、シスターと司祭がいた。子どもたちも何人かいる。澪はそこで、できるだけ普通の顔を作った。
「今日は、水を持ってきました」
シスターが首を傾げた。
「水、ですか」
「はい。もやし用です」
澪は収納から、一つ目のウォーターバッグを取り出した。
二十リットルの水が、透明な袋の中で重そうに揺れる。孤児院の子どもたちが、いっせいに目を丸くした。トトは口を開けたまま、水袋を見ている。
澪は、少しだけ胸を張った。
「収納スキルレベル四に育てたあたしの実力、見なさい」
言い終えたところで、膝が少し笑った。
格好よく決めたかった。だが、体の奥にはまだ百リットル分の重さが残っている。収納から一つ出した分だけ少し楽になった気もするが、残り四つはまだ頭の奥にいる。
「水袋だ」
トトが言った。
「もやし用水です」
澪は言い直した。
小さな子が手を伸ばしかけ、シスターが静かに止める。
「これは遊ぶ袋ではありません」
澪は息を整えながら、札を取り出した。もやし用水。現代側の清潔な水。今日と明日の試験分。勝手に飲まない。洗い物に使わない。飲み水として配らない。
札を結びながら、手が少し震えた。緊張のせいだけではない。収納に水袋がまだ残っているせいだ。
司祭は、ウォーターバッグをしばらく見てから言った。
「まず安全な基準を作るのですね」
「はい。現地の水で作る前に、失敗しにくい水で、手順を覚えたいんです」
澪はうなずいた。
司祭は深くは聞かなかった。
シスターも、子どもたちへ向き直った。
「では、今日はこの水を使います。ただし、勝手に開けません。澪さんか私がいる時だけです」
トトが手を上げた。
「俺、開けられる」
「開けなくていいです」
澪とシスターの声が重なった。
澪は、帳面と木札を出した。
器に札を結ぶ。何日に仕込んだか、水を替えた時刻、担当した子、水を見た大人、匂いを確認したか、食べる日、捨てた場合の理由。頭の中では項目が並んでいるが、子どもたちの前でそのまま説明してもたぶん伝わらない。
だから、澪は一つずつ手を動かした。
「この器は、一番。今日仕込みます。次に水を替える時、ここに札を裏返します」
シスターが子どもを呼ぶ。
「水を運ぶ子。器を持つ子。布をかける子。時刻を知らせる子。走らない子から選びます」
トトが手を上げた。
シスターは見た。
トトはゆっくり手を下ろした。
「まだ走ってない」
「まだ、という言い方がよくありません」
澪は、ウォーターバッグから桶へ水を注いだ。水は透明で、見慣れたはずの水道水なのに、異世界の洗い場で見ると妙に貴重に見えた。
「この水は清潔ですが、万能ではありません」
澪は桶を指した。
「汚れた器に入れたら汚れます。汚れた手を入れても汚れます。もやし用の桶と柄杓は、ほかのものに使わないでください」
シスターがうなずいた。
「水だけでなく、器と手も見るのですね」
「はい。水だけきれいでも、入れる場所が汚れていたら意味がありません」
子どもの一人が、小さく言った。
「水って、わがままだ」
トトが真面目な顔でうなずいた。
「水はずるい」
「ずるいのは汚れです」
澪はまた同じことを言った。
リュシアが来たのは、澪が三つ目の器に札を結んでいる時だった。
トトか、孤児院の子の誰かが知らせに行ったのだろう。リュシアは屋台の前掛けをしたまま洗い場に入ってきて、まずウォーターバッグを見た。次に澪を見た。
澪は平気な顔をしようとした。
だが、肩が落ちていた。額には汗が残っていた。返事をするまでに、いつもより少し間があった。
リュシアは、すぐには叱らなかった。
水袋を見る。
澪を見る。
もう一度、水袋を見る。
それで、だいたい察した顔になった。
「澪、あんた……水袋を抱えて、うちへ寄る余力もなかったんだね」
「……すみません。先に、孤児院へ置きたくて」
「謝るところはそこじゃないよ。無理をしたところだ」
「でも、もやし用の水が」
「分かる。そこは偉い。けどね、顔が白い。水を運んで倒れたら、今度は澪を運ぶことになる」
澪は返事に詰まった。
リュシアはウォーターバッグを軽く叩いた。中の水が重く揺れる。袋の中ではただの水なのに、その動きだけで二十キロの重さが伝わってくる。
「水は軽そうな顔をしてるけど、重いんだよ」
「知りました……」
「知ったなら、次から先に言いな。叱るのも、手伝うのも、こっちの仕事だ」
「叱るのも仕事なんですか」
「澪相手だとね」
シスターが少しだけ笑った。
司祭は何も言わず、水袋の数を確認している。たぶん、五つあることにも気づいている。
トトが横から言った。
「澪姉ちゃん、水に負けた?」
「負けてません」
「半分負けてるね」
リュシアが言った。
「半分……」
「でも、孤児院の水は勝った。だから次は、澪が負けないやり方を考える」
澪は、素直にうなずいた。
勝ったのか負けたのか、よく分からなかった。
そのまま、洗い場で話し合いになった。
現代側の水道水は、最初の試験には使える。手順を覚えるにはいい。けれど、毎回澪が水を持ち込むのは無理だ。水百リットルは、収納に入っても百キロだった。
リュシアは、雨水の話を聞いてすぐに眉を寄せた。
「最初の雨は屋根を洗う水。豆には使わない」
シスターがうなずく。
「もやし用の桶には、魚も肉も洗い物も入れません。柄杓も分けます」
司祭は、子どもたちの方を見た。
「子どもが判断するのは、時刻と担当まで。水を使えるかどうかは大人が見ます」
澪は帳面に書きながら、ひとりで決めるよりずっと早いと思った。
修さんから聞いた砂利、砂、炭、布の話をすると、リュシアはすぐに現場の言い方へ変えた。
「濁った水をそのまま使わない。まず布で大きいごみを取る。石と砂と炭を通す。変な匂いが残るなら、豆には使わない」
「それだけで安全にはなりません」
澪が言うと、シスターが受けた。
「だから、最後は必ず火を通すのですね」
「はい」
司祭は、静かにうなずいた。
「では、孤児院では、もやし用の水と、洗い物の水を混ぜません。水を貯める器にも札をつけましょう」
札。
また札が増える。
澪は帳面を見つめた。
豆の札。器の札。水の札。担当の札。捨てる時の札。
大豆もやしは、思ったより文字が多い食べ物だった。
使い終えたウォーターバッグを見て、澪は悩んだ。
この袋は、現代側から持ち込んだ。丈夫で、蓋があり、水を入れられる。水道水を入れて持ってくることはできた。だが、毎回それをやるのは無理だ。
現地で清潔にした水を入れられればいい。
それを収納できれば、虫も埃も入らず、短い間なら保管できるかもしれない。
澪が考え込んでいると、シスターが静かに言った。
「収納を持つ子がいれば、運べるのでしょうか」
澪は固まった。
考えなかったわけではない。だが、口に出すには慎重になる話だった。子どもに水袋を運ばせる。しかも収納を使わせる。それは便利だが、便利だからこそ危ない。
司祭が、すぐに言った。
「ただし、子どもを便利な荷運び道具にしてはいけません」
「はい。そこは絶対に」
澪はすぐ答えた。
シスターも続ける。
「仕事として教えるなら、休む時間、食事、報酬、失敗した時に叱りすぎないことを決めなければなりません。水が使えるかどうかを子どもに決めさせるのも危険です」
リュシアが腕を組んだ。
「子どもに任せるのは、運ぶところまでだね。水を取る場所を見るのも、袋を洗うのも、使っていいか決めるのも、大人がやる」
エレナは目を輝かせた。
「収納持ちを育てるのか」
「育てるというより、危なくない作業から覚えてもらう感じです」
澪が言うと、トトがすぐ手を上げた。
「俺も収納ほしい」
リュシアはトトを見た。
「まず水替えを忘れないところからだね」
トトは黙った。
澪は、少しだけ笑いそうになった。
水替えは、意外と厳しい試験になりそうだった。
小さな失敗は、その日のうちに来た。
孤児院の子の一人が、器の中をのぞきながら言った。
「水に少し甘いものを入れたら、早く育つ?」
「それはだめです」
澪は反射で言った。
声が少し強くなった。
トトが、すぐに笑った。
「澪姉ちゃんも同じこと考えた?」
澪は目を逸らした。
リュシアとシスターが同時にこちらを見る。
「考えたね」
「考えましたね」
澪は背筋を伸ばした。
「学習しました」
シスターはにっこりした。
「それならよろしいです」
リュシアは少し笑う。
「補水の水とは別物だね」
「はい。これは、何も足さない水です」
そこへエレナが口を開きかけた。
「では少し塩な――」
「エレナ様も怒られます」
護衛が即座に止めた。
「まだ言い終えていない」
「言い終える前に止めました」
エレナは不満そうだったが、澪、リュシア、シスターの三人に見られて、静かに口を閉じた。
トトが小声で言った。
「姫様も学習中」
エレナは聞こえないふりをした。
六畳間に戻った澪は、そのまま床へ座り込んだ。
水百リットルは、収納に入っていた時も重かったが、帰ってきた後の疲れも重かった。腕は痛くない。腰も、直接は痛くない。だが、頭の奥がじんわり疲れている。集中を使い切ったような感じがある。
机の上にはウォーターバッグの説明書がある。床には大豆袋が残っている。スマホには、追加購入候補のウォーターバッグが表示されたままだ。
水百リットルを持ち込めた。
でも、水百リットルは百キロだった。
収納は上がった。けれど、運用は軽くない。
澪は説明書を畳み、大豆袋を見た。
豆を育てるつもりだった。
けれど今日いちばん育ったのは、豆ではなく、水の管理表と、自分の収納スキルだった。
そして六畳間には、相変わらず大豆袋が地味な顔で残っていた。