押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第202話 卵係、湿地へ行く

 

 朝の教会は、石の床から冷えが上がっていた。

 

 高い窓から入る光はまだ薄く、礼拝堂の端に長い影を落としている。孤児院側では、木の器が重なる音と、水桶を運ぶ小さな足音が交じっていた。シスターの声が短く響き、子どもたちの返事がぱらぱらと続く。薬草と石鹸と、干した布の匂いがする。

 

 クララは管理室の机の前で、竜卵を見ていた。

 

 白灰色の殻には、まだ灰色の筋が残っている。昨夜より荒さが薄くなったように見えるが、見えるだけで済ませるわけにはいかない。クララは記録板へ、殻の温度、色、魔力の揺れ、昨日の供給後の変化を書き込んだ。

 

 最後に、自分の疲労の欄へ筆を置く。

 

 少し迷った。

 

 疲れた、と書くのは簡単だった。けれど、どこがどう重いのかを書かなければ、次に同じことをした時に比べられない。指先なのか、腕なのか、胸の奥なのか。子どもたちの咳を見ていた時も、熱だけでなく、眠れたか、食べられたか、汗が出たかを分けていた。

 

 クララは、筆先を直した。

 

 指先の熱。腕の重さ。呼吸は乱れなし。

 

 書き終えたところで、扉の外に足音が増えた。

 

「クララ君。行く」

 

 真壁が入ってきた。

 

 その後ろに、若い騎士が2人立っている。1人は背が高く、槍を持ったまま肩に力が入っていた。もう1人は細身で、小盾の留め具を気にしながら、部屋の中を素早く見回している。

 

 クララは筆を置いた。

 

「どちらへ、でしょうか」

 

「赤樺湿地」

 

 朝の冷えが、少し深くなった気がした。

 

 クララは竜卵へ目を戻す。昨日、火山の魔力だまりから遠ざけたばかりの卵だ。殻の灰色の筋はまだ消えていない。置いていくのか、連れていくのか。そのどちらも、普通の答えではない。

 

「竜卵は」

 

「保護区画で運ぶ。君も行く」

 

 真壁は、答えながらもう収納を開いていた。

 

 竜卵の下に敷かれていた布の端が浮き、卵が保護区画へ移る。温度を落とさず、衝撃を受けず、魔力を断ちすぎないための空間。真壁は昨日から何度もそれを扱っているような手つきで、卵をしまった。

 

 槍の騎士が、少し遅れて背筋を伸ばした。

 

「我々は、護衛でしょうか」

 

「護衛兼訓練」

 

「訓練、ですか」

 

 小盾の騎士が、言葉を繰り返す。訓練と聞いて来たはずなのに、教会の管理室で竜卵を見るとは思っていなかった顔だった。

 

「レオンハルト君から借りた」

 

 真壁は2人を見る。

 

「ルッツ・ヘンケ。ニコ・バルツァー。以前、へばっていたな」

 

 槍の騎士、ルッツの顔がこわばった。真面目な顔のまま、返事だけが大きくなる。

 

「本日は最後まで立っています」

 

 ニコは盾の縁に触れ、短く息を入れた。

 

「私も、遅れません」

 

「結構」

 

 真壁の返事は短かった。

 

 クララは、2人の靴に目を留める。磨かれているが、細かな傷がある。訓練場の土と木剣の跡が残っているようだった。彼らも、昨日までの自分と同じように、何かの役目の前に立たされている。

 

「私は、何をするのでしょう」

 

「撃つ」

 

 クララは、記録板を持つ指を止めた。

 

「……撃つ、ですか」

 

 竜卵の温度欄の下に、今日書くべき言葉が増えた音がした。

 

 

 

 

 教会の裏手には、朝露のついたエアカーが置かれていた。

 

 石畳は湿っていて、箒で掃かれた跡が細く残っている。遠くからパンを焼く匂いが流れ、孤児院の窓の内側で、子どもたちの声が小さく跳ねた。そんな朝の生活の隅に、馬車ではない乗り物が低く沈んでいる。

 

 クララは、足を止めた。

 

「これは、馬車ではありませんね」

 

「馬は使わん」

 

 真壁は当然のように言い、車体の側面を開いた。

 

 ルッツは一歩前へ出て、どこから乗るのか分からずに止まる。ニコは盾を外側へ向けるべきか、内側へ抱えるべきかを見比べていた。クララには、その違いがまだ分からない。ただ、2人とも真面目に困っていることだけは分かった。

 

「飛ぶのでしょうか」

 

 ルッツの声は、やはり大きい。

 

「少し浮く」

 

「少し、の基準を伺っても」

 

 ニコが言うと、真壁は固定帯を手に取った。

 

「落ちなければよい」

 

 クララは、記録板の入った布袋を胸元へ寄せた。

 

「記録項目が増えます」

 

「後で書け」

 

 真壁はクララを中央に座らせ、固定帯をかけた。ルッツは自分で留めようとして、帯の向きを逆にしたまま固まる。真壁が無言で直す。ニコは自分の剣と小盾を落ちない角度へ納め、真壁に短く見られた。

 

「結構」

 

 ニコの肩が、わずかに下がった。褒められたのか、単に邪魔にならないと判定されたのか、判断に迷った顔だった。

 

 エアカーが低く浮く。

 

 石畳が足の下から離れた瞬間、ルッツとニコの呼吸が揃って乱れた。クララも布袋を押さえたが、声は出さなかった。竜卵の保護区画が真壁の収納内にあり、自分はその世話のために運ばれている。それを考えれば、地面から少し浮いたことくらい、記録欄の下の方に回すしかない。

 

 エアカーは教会の裏手を離れ、朝の領都の屋根を低くかすめるように進んだ。

 

 

 

 

 赤樺湿地は、朝霧の中にあった。

 

 赤みを帯びた木々の幹は濡れて黒く、葦の先から水滴が落ちている。水面の近くには白い霧が薄く残り、泥と水と薬草の青い匂いが混じっていた。遠くに薬草宿場の屋根が見えるが、真壁がエアカーを下ろした土手は、そこから離れている。

 

 クララは地面に足を置いた。

 

 石床とは違う。土は柔らかく、湿っていて、靴の裏へ吸いつく。外套の裾がすぐ水気を吸い、朝の冷たさが足元から上がってきた。

 

 ルッツは勢いよく降り、靴を泥に沈ませた。

 

「……」

 

 抜こうとして、さらに沈みかける。

 

「踏むな。置け」

 

 真壁が短く言った。

 

 ルッツは返事をしようとして、まず足を戻した。ニコはその様子を見てから、少し横の固そうな草の根元へ足を置く。

 

 湿地は、ただ立つだけでも騎士の癖を試してくる。

 

「ここで以前、大物を退けた」

 

 真壁は水面を見る。泡が出ている場所、葦の倒れ方、土手の高さを一度に拾っているようだった。

 

「では、安全になったのでは」

 

 ルッツが言った。

 

「数か月あれば、次が育つ」

 

 ニコは湿地の奥を見た。水の下に何がいるか、クララには分からない。だが、ニコの顔が硬くなったので、ただの浅瀬ではないことは分かる。

 

「群れの中で、大きいものが上がるのですか」

 

「そう見てよい」

 

 クララは、水面から目を上げた。

 

「今日は、その新しい大きいものを」

 

「退ける」

 

「訓練で、ですか」

 

 ルッツの声に、今度は少しだけ本音が混じった。

 

「訓練でなければ遅い」

 

 真壁はもう地図を見ていた。

 

 クララには、その地図がない。澪のように、敵の位置や射程を読むことはできない。クララが使えるのは、ヒールと浄化と鑑定。子どもの熱を探り、卵の殻の変化を見て、荒い魔力を薄めようとする力だった。

 

 それで、この湿地の何をするのか。

 

 クララが考えている間に、真壁はハイエースを出した。

 

 湿った土手の上に銀色の箱が現れ、その上へ固定台が組まれていく。金属が朝の光を鈍く返し、泥の匂いの中に油と鉄の匂いが混じった。

 

 ルッツが口を開けたまま固まった。

 

 ニコは、車体ではなく射線の先を見た。そこが宿場へ向いていないことに気づいたのか、盾の位置を少しずらす。

 

「私は、狙えません」

 

 クララは、正直に言った。

 

 固定台の上に据えられたものは、彼女の道具ではない。薬草を測る匙でも、記録板でも、祈りの灯でもない。

 

「狙わなくてよい」

 

「澪さんのような地図スキルはありません」

 

「要らん」

 

「要らないのですか」

 

「君は聖職者だ。地図ではなく、ヒールと浄化と鑑定を使う」

 

 真壁は、クララの立つ足元に滑りにくい板を置いた。さらに、発射ボタンの前へ位置を示す。ルッツとニコは、射線の外へ下げられた。

 

「では、クララ殿は何を」

 

 ルッツが尋ねる。

 

「押す」

 

「押す、ですか」

 

 ニコの声に、湿地の水音が重なる。

 

「ただし、思うものを間違えるな」

 

 真壁は、クララの手元を見た。

 

「卵へヒールを与える時を思え」

 

「卵へ」

 

 クララの頭に、白灰色の殻が浮かぶ。灰色の筋。自分の魔力で、ほんの少しだけ穏やかになった熱。

 

「子どもたちへヒールを与える時もだ」

 

「はい」

 

 熱を出した子の額。眠れない子の浅い呼吸。泣き疲れた手の小ささ。クララは、その感触を指先へ寄せた。

 

「魔力だまりを浄化する時を思え」

 

「浄化」

 

 濁った水を布で何度もすすぐように、荒いものを薄める感覚。

 

「子どもの病を見つけるため、鑑定する時を思え」

 

 クララは、発射ボタンを見下ろした。

 

「……見るための魔力ですね」

 

「そうだ。そのまま押したまえ」

 

「敵を撃つのではなく」

 

「危険を退ける」

 

 湿地の奥で、葦が揺れた。

 

 

 

 

 温水が浅瀬へ入ると、水面の揺れ方が変わった。

 

 餌の匂いが湿った空気に混じり、黒い背中が少しずつ寄ってくる。小型のアリゲーターが水面近くを滑り、中型が葦の影を低く割った。泥の中で泡が割れ、湿地全体がゆっくり目を覚ますように動き始める。

 

 ルッツが槍を構えた。

 

「小型が出ています」

 

「まだだ」

 

「今なら槍が届きます」

 

「届くから駄目だ。散る」

 

 ルッツは槍を引いた。返事はしなかった。返事をすれば、また力が前へ出ると分かっているようだった。

 

 ニコは水面を見ている。小型の波紋と、奥から押してくる長い波の違いを見分けようとしていた。

 

「親玉を待つのですね」

 

「そうだ」

 

 クララは、発射ボタンへ指を置いたまま、湿地の奥を見すぎないようにした。

 

 牙を考えると手が固まる。泥水の音を聞きすぎると、呼吸が浅くなる。だから、卵を思う。子どもたちを思う。浄化と鑑定を思う。

 

「私は、いつ」

 

「まだ押すな。卵を思え」

 

「はい」

 

 奥の水路で、泥が盛り上がった。

 

 葦が斜めに倒れる。小型が一斉に向きを変えた。水面の長い影が、ゆっくり浅瀬へ向かってくる。

 

 真壁が固定台の角度をわずかに変えた。

 

 クララの指先に、金属の冷たさがある。掌の奥には、昨日より少し太い魔力の感触がある。

 

 水面が割れた。

 

 ラージアリゲーターの頭部が出る。泥と藻をまとった鱗が黒く濡れ、目だけが硬い光を持っていた。以前の個体をクララは知らない。それでも、これが湿地の中で上に立つものだと分かる。小型と中型が散り、泥水が重く跳ねた。

 

「頭が出る」

 

「はい」

 

「卵を思え」

 

「ヒールを、与える時の」

 

「子どもたちもだ」

 

「はい」

 

「浄化と鑑定も忘れるな」

 

 クララは息を吸った。

 

 卵。子ども。魔力だまり。病の兆し。

 

 見落とさない。濁らせない。荒くしない。危険を近づけない。

 

「見落としません」

 

「今だ」

 

 クララは、ボタンを押した。

 

「守ります」

 

 音が湿地を裂いた。

 

 固定台がハイエースを押さえ、空気がひとつ遅れて震える。泥水が高く上がり、ラージアリゲーターの巨体が水面で跳ねた。黒い鱗の頭から首筋へ衝撃が抜け、巨大な影が浅瀬へ崩れる。

 

 小型と中型が一斉に散った。

 

 クララの手に、熱い疲れが残る。

 

 敵を倒した感触ではない。ヒールを強く遠くへ通しすぎた時の、腕の奥が空くような疲れだった。ただ、目の前の水面には倒れた巨体がある。

 

 クララは自分の指を見た。

 

 指は震えていた。けれど、押したことを取り消したい震えではなかった。

 

 

 

 

 泥水が落ち着く前に、真壁が一歩前へ出た。

 

「残敵掃討!」

 

 ルッツとニコの背筋が伸びる。

 

 クララは安全な位置へ下がった。真壁の声で、戦いが終わったのではなく、別の段階へ入ったのだと分かった。水面の遠くには逃げる小型の細い波紋がある。近くの葦の影には、重い泡が残っている。

 

「2時方向、死に損ないのアリゲーター2匹。ニコ、討伐せよ」

 

「はい!」

 

 ニコが盾を前へ出した。

 

「尾の内側へ入るな」

 

「承知しました」

 

 ニコは泥の硬いところを選び、半歩ずつ進む。1匹目の尾が泥水を叩いた。盾で受けようとして、途中でやめる。受けるのではなく、外す。ニコは体をずらし、首元へ剣を入れた。

 

 2匹目が泥の中で暴れる。

 

「足場を作る」

 

 真壁が泥の一部を収納すると、濁った水の下から硬い土が現れた。ニコの靴がそこへ乗る。彼は息を詰め、剣を入れ直した。

 

「終わりました」

 

「収納」

 

 処理済みの個体が消えた。

 

 ルッツの喉が鳴る。自分の番を待つ顔だった。

 

「11時方向、死に損ない1匹。ルッツ」

 

「はっ!」

 

「踏み込むな。槍を置け」

 

「はい!」

 

 ルッツは槍を突き出した。力が入りすぎ、靴が泥に取られる。

 

「足を抜くな。腰を落とせ」

 

「はい!」

 

 ルッツは歯を食いしばり、腰を落とした。槍を押し込むのではなく、距離を保ったまま突く。アリゲーターの尾が泥を叩いたが、届かない。

 

 止めが入った。

 

「収納」

 

 真壁は次に、泡ではなく葦を見た。

 

「3時。隠れている。注意せよ」

 

 ニコが水面を探す。

 

「見えません」

 

「泡を見るな。葦の倒れ方だ」

 

 ニコの視線が水面から葦へ移る。倒れている葦の中で、1本だけ向きが違う。水の動きと合っていない。

 

「……います」

 

「ニコ、盾。ルッツ、槍」

 

「はい」

 

「はい!」

 

「押すな。刺して抜け」

 

 隠れていたアリゲーターが跳ねた。ニコが盾で尾の向きを外し、ルッツが槍を置くように突く。今度は足を抜こうとしない。刺して、引く。もう1度、角度を変えて入れる。

 

 泥が跳ね、湿った音が止まった。

 

「収納」

 

 死に損ないだった個体が消える。

 

 クララは記録板を開きかけて、手が震えていることに気づいた。

 

 大きな1撃の後にも、人が動く。残った危険を見つけ、消し、残さない。守るという言葉は、思っていたより泥に近かった。

 

 ルッツは息を荒くしながらも立っていた。ニコは盾についた泥を見て、尾を受けなかったことを確かめている。

 

 真壁は、2人を順に見た。

 

「前よりよい」

 

「前より、ですか」

 

 ルッツの声は、疲れていても大きい。

 

「へばるまでが伸びた」

 

 ニコが、泥だらけの顔でわずかに目を細めた。

 

「褒められているのでしょうか」

 

「そうだ」

 

 2人は、返事をする前に息を整えた。

 

 

 

 

 ラージアリゲーターの巨体は、浅瀬の水を塞ぐように横たわっていた。

 

 濡れた鱗が黒く光り、泥水が腹の下でゆっくり濁っている。血と泥と湿った草の匂いが混じり、さっきまで鳴かなかった鳥が、遠くでようやく短く鳴いた。倒れた葦は、水面へ戻りかけている。

 

 真壁は巨体を見下ろした。

 

「収納」

 

 黒い塊が消えた。

 

 ルッツが息を呑む。

 

「大物も、入るのですね」

 

「入る」

 

 ニコは、消えた後の水路と泥の跡を見た。

 

「通常個体も回収しますか」

 

「残す理由がない」

 

 真壁が浅瀬へ視線を動かすたび、死に損ないだった通常アリゲーターの死骸が消えていく。泥と水だけが残り、湿地の匂いが少し変わった。

 

「逃げたものは追わん。水路は後で騎士団へ報告」

 

「逃走方向、数、残った跡ですね」

 

 ニコが言う。

 

「そうだ」

 

 ルッツが槍を握り直した。

 

「我々が報告します」

 

「結構」

 

 真壁はハイエースの固定を外した。

 

「では撤収!」

 

「ハイエースで戻るのですか」

 

 ニコが尋ねる。

 

「違う」

 

 真壁がハイエースを収納した。

 

 土手の上から、銀色の車体と固定レールガンがまとめて消える。泥のついたタイヤ跡だけが残った。

 

 ルッツは、声を出すまでに少し時間がかかった。

 

「……消えました」

 

「出す」

 

 今度はエアカーが現れた。

 

 クララは、記録板を胸に抱え、消えたハイエースと現れたエアカーを順番に見た。

 

「乗り物が変わりました」

 

「湿地を離れる」

 

 真壁は全員の位置を示す。

 

 ニコは泥のついた盾を抱え直し、小さく息を吐いた。

 

「訓練場へ戻るだけでも、普通ではないのですね」

 

「乗れ」

 

 エアカーが低く浮いた。

 

 赤樺湿地の水面には、倒れた葦と、逃げた小型の遠い波紋だけが残った。クララの手の中には、竜卵へ戻すための魔力の疲れが、まだ温かく残っていた。

 

 

 

 

 教会へ戻った時、クララの外套には湿地の匂いが残っていた。

 

 泥、水、草、生き物の重い匂い。礼拝堂脇の管理室へ入る前に、クララは外套を脱いだ。卵のそばへ湿地の匂いを持ち込みたくなかった。手を洗い、布で指の間まで拭いてから、記録板を机へ置く。

 

 竜卵は保護台の上に戻されていた。

 

 白灰色の殻は、朝より少し穏やかに見える。もちろん、見えるだけでは足りない。クララは殻へ手をかざす前に、発射前、発射時、発射後、撤収時の魔力の残り方を記録板へ書き足した。

 

 指先の熱。腕の奥の空き。胸の疲れ。呼吸は安定。恐怖あり。魔力の通りは昨日より太い。

 

 最後の1文を書いて、クララは自分の手を見た。

 

 真壁が横から短く言う。

 

「手を見ろ」

 

「……魔力の残り方が、昨日と違います」

 

「結構」

 

 ルッツとニコは、管理室の外で泥を落としきれずに立っていた。ルッツはまだ息が荒いが、膝はついていない。ニコは盾についた泥と尾の跡を見ながら、報告の順番を口の中で繰り返している。

 

 真壁は2人も見た。

 

「立って戻ったな」

 

「立っております」

 

「なんとか」

 

「前よりよい」

 

 ルッツの顔に、疲れと誇りが同時に浮いた。ニコは、褒め言葉として処理してよいのか迷ったあと、素直に息を吐いた。

 

 クララは竜卵へ手をかざした。

 

 赤樺湿地の水音が、まだ耳の奥に残っている。だが、ここは教会だった。石床は冷たく、布は清潔で、遠くから子どもたちの小さな声が聞こえる。

 

 卵へヒールを与える時を思う。

 

 子どもたちへヒールを与える時を思う。

 

 魔力だまりを浄化する時を思う。

 

 病を見落とさないために鑑定する時を思う。

 

 クララは、短く、細く、けれど昨日よりまっすぐに魔力を通した。

 

 竜卵の灰色の筋が、ほんの少しだけ薄くなる。殻の奥の熱が、荒く揺れるのではなく、ゆっくり返ってきた。

 

 クララはすぐ手を引いた。

 

「短くしました」

 

「よい」

 

 真壁は、もう次の手順へ目を移している。

 

 ルッツとニコは、レオンハルトへ報告する内容を復唱し始めた。ボス個体討伐。通常個体処理。逃走方向。水路の状態。回収済み。湿地の継続見回り。

 

 クララは、記録板に新しい欄を増やした。

 

 赤樺湿地訓練後。

 

 その下に、竜卵の反応と、自分の疲れを書き込む。

 

 卵を育てるために、自分も育つ。

 

 その事実はまだ大きすぎたが、記録板の上では、ひとつの欄に収まっていた。クララは筆を置き、白灰色の卵から返ってくる小さな熱を、指先に残った疲れと一緒に見つめた。

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