赤樺湿地の水は、巨体が沈んだあとの形をまだ覚えていた。
濁った波が葦の根元へ押し寄せ、戻り、また押し寄せる。水面に浮いた泡がひとつ割れるたび、泥と水草と血の匂いが風に混じった。
クララは、固定レールガンの発射ボタンを押した指を、膝の前でそっと握った。
撃った、という言葉はまだ胸に入ってこなかった。思い出すのは、白灰色の卵へ手をかざした時の熱であり、子どもの額に触れた時の小さな呼吸であり、濁ったものを澄ませたいと願った時の力の向きだった。目の前の湿地には、倒れた葦と逃げた小型個体の細い波紋がある。それなのに手の中だけが、教会の管理室に残っているようだった。
真壁は、巨体のそばに立っていた。
泥に沈みかけた黒い鱗を一度だけ見下ろし、手を動かす。
「収納します」
ラージアリゲーターの巨体が、湿地の空気ごと削り取られたように消えた。そこだけ水の戻り方が変わり、泥の穴が重く息を吐く。
ルッツ・ヘンケが槍を握り直した。息はまだ乱れているのに、膝は落としていない。
「大物も、そのまま入るのですか」
「入ります。後で侯爵家へ渡します」
真壁は、答えながら次の通常個体へ視線を移していた。驚きに付き合う時間さえ、工程の中では余白でしかないらしい。
ニコ・バルツァーは、盾の縁についた泥筋を指でなぞった。正面から受け止めた跡ではない。斜めに逃がした跡だった。その意味に気づきかけ、唇を引き結ぶ。
「通常個体も回収しますか」
「回収します。残すと宿場の問題になります」
真壁の言葉に、ニコの目が湿地の奥へ動いた。逃げた小型個体の波紋が、赤樺の根の間を縫うように消えていく。
「逃げたものは追いません。方向と数を覚えてください」
「水路側、葦の奥、3……いえ、4です」
「それでよい」
ルッツが、追わないという選択をまだ飲み込みきれない顔をした。槍を持つ手に力が入り、すぐ抜ける。前へ出ることだけが騎士の形ではないと、湿った泥が靴裏から教えているようだった。
真壁はハイエースを見た。車体には泥が跳ね、固定台にも水滴が残っている。彼は泥のついた装備をそのまま通常の収納へ入れず、手元の表示へ視線を走らせる。湿地装備、洗浄待ち、固定台。置き先を分けてから、ハイエースと固定レールガンを消した。
次に出てきたエアカーを見て、ルッツが一瞬だけ肩を固くした。ニコは声を出さなかったが、盾を抱える角度が変わった。
クララは、真壁が自分の固定帯をいつもより丁寧に締めるのを見ていた。金具が小さく鳴る。湿地の匂いが袖に残っている。
「教会へ戻るのですか」
「先に領都へ寄ります。報告が必要です」
報告、という言葉で、クララの視線が湿地から外れた。
倒したものを、どこへ渡すのか。
逃げたものを、誰が見るのか。
自分が押したボタンのあとに、まだ人の仕事が続いている。
エアカーが浮き上がると、赤樺湿地の濁った水面が少しずつ低くなっていった。クララの手の熱だけが、まだ同じ高さに残っていた。
風が車内へ入るたび、泥と水草の匂いは薄くなっていった。
下には赤樺の梢が流れ、湿地の暗い水路が細くなり、やがて畑道の土色が広がる。固定帯の革が服に擦れ、エアカーの床から細かな振動が伝わってくる。
クララは膝の上で両手を重ねたまま、指先を開いたり閉じたりしていた。
熱はまだある。
けれど、湿地で見た巨体の重さとは別のものだった。卵へ手をかざした時のような、奥へ届く前に細くなる糸の感触。その糸を切らさないように握っていたせいで、指だけが自分のものではないように重い。
真壁は操縦席で前方を見たまま、短く言った。
「鑑定します」
「はい」
クララは返事をした。何をどこまで見られるのか、まだ完全には分かっていない。ただ、真壁が必要だと判断したなら、それは次に竜卵へ触れるための準備なのだろうと受け取った。
真壁の視界に、表示が開く。
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クララ
旧称:クララ・フォン・ローゼンベルク
現在ジョブ:聖職者 Lv6
状態:王国教会預かり/見習い/家名使用制限/浄化訓練中/魔力消耗/成長直後
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基礎能力値
体力:35 → 39
筋力:18 → 21
器用:64 → 66
知力:91 → 94
判断:82 → 88
精神:78 → 87
集中:81 → 90
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スキル一覧
礼法:7
読解:6
帳簿読解:4
筆記:5
観察:3 → 4
生活介助:1 → 2
祈り:3 → 4
微光:3 → 4
浄化:3 → 5
ヒール:1 → 3
鑑定:1 → 3
魔力供給:1
疲労耐久:芽あり → 1
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取得スキルポイント:5
内訳:
Lv5到達:3
Lv6到達:2
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真壁の目は、数字を順に追って止まった。
体力と筋力は、戦う者の伸び方ではない。水桶を運び、布を絞り、子どもを抱え、床を拭く生活の筋肉だった。精神と集中の伸びは大きい。湿地の大物を前に、敵を見るのではなく、卵と子どもと浄化を思い続けた結果がそこに出ている。
「聖職者 Lv6です」
「2つ、上がったのですか」
クララの声には、喜びより戸惑いが先に混じった。レベルという数字は聞いたことがある。けれど、自分の身体のどこがどう変わったのかを、貴族家の礼法のように形で確かめることはできない。
「はい。低いうちに大物を経験したためです」
「大物……」
クララの視線が下の湿地へ戻る。もう見えない巨体を探すように、目だけが水路の形を追った。
「倒した相手ではなく、何を保ったかが出ています」
真壁の言葉は短かった。
クララは、自分の手を見直した。あの時、敵を強く思ったわけではない。卵へ届けること、子どもを助けること、濁りを澄ませること、見落とさないことを考えていた。
それが数字になったのなら、数字は戦場のものではなく、あの手の中のものだった。
ルッツは黙っていた。戦闘で上がるなら剣や槍だと思っていた顔で、クララの両手を見ている。ニコは口を開きかけて閉じた。何を保ったか、という言葉が盾の泥筋と重なったらしく、視線だけが自分の装備へ落ちる。
真壁は、表示の下へ目を戻した。
取得スキルポイント:5。
旧称。
魔力供給:1。
指先が短く動く。
クララは、外から入る風に目を細めていた。領都の外壁が遠くに見え始めている。湿地の匂いより、乾いた土と石の匂いが強くなってきた。
「卵は、揺れていませんか」
「問題ありません」
「よかったです」
その声の間に、真壁は処理を終えていた。
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使用スキルポイント:
魔力供給 1 → 2:2
魔力供給 2 → 3:3
残スキルポイント:0
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表示を閉じる時、真壁の表情は変わらなかった。
ローゼンベルクの名。
竜卵の灰色の筋。
教会の預かり。
孤児院の子どもたち。
攻撃へ転ぶ余白を残す段階ではない。細く長く渡す力なら、卵にも、教会にも、クララ自身にも収まりがよい。
真壁は操縦桿をわずかに倒した。
クララは何も言わなかった。
知らないものを、問いにすることはできなかった。
領都へ入る前、真壁はエアカーを乾いた土の上へ下ろした。
赤樺湿地の泥が遠ざかると、空気の重さが変わった。風は軽く、遠くから荷車の車輪音が聞こえる。石畳へ向かう道の脇で、竜卵の保護台だけが不思議なほど白く浮いて見えた。
真壁が保護布を少しめくる。
白灰色の殻には、ゼグルド火山を思わせる灰色の筋が残っている。クララはその筋を見ると、湿地の濁った水ではなく、火山の熱を想像してしまった。自分が見たことのない場所の熱が、この小さな殻の奥にまだ残っている。
「短くお願いします」
「はい」
クララは手を洗う場所がないことに一瞬迷ったが、真壁が清めた布を差し出した。布は少し冷たく、湿地の匂いを袖口から消していく。
卵へ手をかざす。
いつもなら、魔力は途中で細くなり、指先から先へ出る時に少し震えた。今日は違った。太くはない。強くもない。ただ、細いまま切れにくい。無理に押し出すのではなく、決められた幅の溝を通る水のように、すうっと殻へ届く。
「……今日は、少し届きやすいです」
「そこで止めてください」
「はい」
クララはすぐに手を引いた。まだ続けられそうだと思った瞬間に止められたため、指先が行き場を失って宙に残る。
「長く続ける必要はありません」
真壁は殻を見て、次にクララの顔色を見た。卵の反応は荒れていない。クララの呼吸も崩れていない。
クララは、掌を胸元へ戻した。
赤樺湿地で何かが変わったのだろうか。そう考えかけ、すぐ卵の保護布へ目が移る。今は、無事に戻す方が先だった。
真壁は卵を再び保護し、エアカーへ戻した。供給の伸びを喜ばせるより、伸びた分を使いすぎないことの方が大切だった。
クララは固定帯を締め直しながら、ほんの少しだけ息を置いた。
届きやすい。
その事実だけが、手の中に残った。
侯爵家の執務室には、湿地の匂いが似合わなかった。
磨かれた机、封蝋、整えられた報告板、壁に掛けられた領内地図。窓の外から訓練場の声が聞こえる。乾いた掛け声の向こうに、赤樺湿地の水音はもうない。
それでも真壁が机の上へ置いた収納札には、まだ泥の重さがあった。
アルベルトは札を見て、次に真壁の外套の裾を見た。泥の飛び方で、単なる訓練では済まなかったことを察したのだろう。表情は大きく動かないが、指が地図の赤樺湿地へ置かれる。
「赤樺湿地の件、助かった」
「大物が育っていました。処理済みです」
真壁の返答は短いが、礼を欠いてはいない。客分として侯爵家に協力する者の距離であり、臣下の低さではなかった。
「通常個体は」
「数体処理しています。逃げた個体は追っていません。水路側の見回りが必要です」
レオンハルトが地図の水路へ目を落とした。訓練場から聞こえる若手の声が、少し遠のいたように感じられる。
アルベルトは湿地と薬草宿場の位置を見比べた。
「そこからは侯爵家で引き取る。押入商会で抱える話ではないな」
「はい。その判断です」
真壁は収納札をひとつ横へずらした。討伐個体、逃走方向、装備洗浄待ち。それぞれの札が、机の上で別の意味を持つ。
アルベルトの視線が、次の表示へ移る。
「クララは」
「聖職者 Lv6です」
「SPは残していないのか」
「残していません」
アルベルトの指が止まった。
「本人は理解しているのか」
「理解していません」
「説明は」
「していません」
真壁の声は変わらない。だが、軽く流したわけでもない。必要な処理として、必要な相手へ報告している。
「理由は」
「ローゼンベルクの娘です」
アルベルトは、表示の旧称と、魔力供給の欄を見比べた。窓の外で木剣が打ち合わされ、乾いた音がした。
「攻撃に転ぶ余地を減らしたか」
「はい。魔力供給へ寄せました。竜卵にも必要です」
沈黙が落ちた。
責めるための沈黙ではなかった。領主代理が、危険と利を同じ机に載せて重さを量る間だった。
アルベルトはやがて、表示から目を上げる。
「分かった。クララへの扱いは、教会とも合わせる」
「お願いします」
真壁はそれ以上、言葉を足さなかった。
アルベルトも、真壁を配下のようには使わない。押入商会は侯爵家の客分であり、今回の湿地処理も、領主家の仕事を肩代わりさせるためのものではない。
地図の上で、赤樺湿地の水路だけが細く曲がっていた。
そこから先は、侯爵家が受ける。
素材受け入れ倉庫は、執務室よりずっと赤樺湿地に近かった。
石床には水洗い用の溝が走り、壁際には革手袋、大型素材用の吊り具、厚い作業布が用意されている。油と乾いた石の匂いがする場所へ、真壁が収納札を持ち込むと、職員たちの背筋がわずかに伸びた。
アルベルトも倉庫まで来ていた。侯爵代理が自ら足を運ぶには泥臭い場所だが、湿地の大物を受けるなら、机の上の言葉だけで済ませる方が軽い。
「討伐個体は、押入商会で扱うつもりか」
「侯爵家へ渡します。そのために分けてあります」
真壁が札を出す。赤樺湿地、討伐個体、侯爵家引渡し、査定待ち。文字は簡潔で、迷いがない。
「助かる。こちらで受ける」
アルベルトの返答を聞いて、職員が作業布をさらに広げた。ラージアリゲーターを出す場所を誤れば、倉庫が湿地になる。そんな緊張が全員の手つきに出ている。
「換金分は孤児院へ回すのがよいと見ています」
真壁が言うと、アルベルトは一度だけ目を細めた。
「侯爵家名義にする。押入商会の施しにはしない」
「それでよいです」
クララを使った訓練の結果を、押入商会の利益にしない。孤児院へ返すとしても、領主家の筋を通す。真壁の札の分け方は、すでにその結論へ向いていた。
「査定はこちらで行う。素材の扱いも任せてくれ」
「結構です」
職員の1人が革手袋をはめ直し、深く息を吸った。真壁が手を動かす。
まず通常個体が出た。湿地の匂いが石の倉庫へ広がり、若い職員が一歩退きかけて踏みとどまる。次にラージアリゲーター用の札が作業台の前へ置かれた瞬間、場の空気がさらに重くなった。
アルベルトは退かなかった。退かずに、職員へ目配せする。
「受領を取れ。査定後、孤児院支援へ回す」
「承知しました」
職員が板へ書き込む音が、倉庫の石壁に硬く返った。
真壁は、素材が出るたびに札の位置を変える。押入商会の手元から、侯爵家の受けへ。商売ではなく、領政の棚へ。
その動きに、アルベルトは短く息を置いた。
押入商会は速い。
速いが、今回は越えていない。
その線が見えるだけで、侯爵家は次へ動ける。
訓練場の土は、湿地の泥より軽い。
それでもルッツとニコの装備には、赤樺湿地の重さが残っていた。槍の柄には乾きかけた泥がつき、ニコの盾の縁には斜めの泥筋が走っている。
レオンハルトは報告書を求めなかった。
まず、2人の立ち方を見た。
「ルッツ。前へ出たか」
「出かけました」
ルッツは声を張ったが、少しだけ喉がかすれた。全力で走ったあとのようなかすれではない。止まったことを、まだ言葉に慣らしていない声だった。
「止まったか」
「止まりました。真壁殿の指示です」
レオンハルトは、ルッツに槍を構えさせた。踏み込み幅を見る。以前なら、相手を押し込むために前へ乗りすぎていた足が、今は泥に引かれる前の位置で止まっている。
真壁は横で見ていた。口を挟まない。必要なら一言で済むと分かっている顔だった。
「ニコ。何を見た」
「泡ではなく、葦の倒れ方を見ました」
「誰に言われた」
「真壁殿です」
ニコは盾を持ち上げた。正面で抱えるのではなく、角度を作る。その泥筋をレオンハルトが見て、わずかに目を細める。
「尾を受けたのではないな」
「外しました。外した、つもりです」
「つもりでよい。正面から受けていたら、ここに立っていない」
ニコの肩が少しだけ下がった。褒められたというより、生き残った理由を言葉にされたことで、やっと盾の重さが戻ってきたようだった。
レオンハルトはアルベルトへ向き直る。
「実戦と真壁殿の指導は、若手に効きます」
「そうか」
アルベルトは短く返した。目はルッツとニコへ向いている。
真壁が、ルッツの踏み込み位置を見て言った。
「止まる場所を決めてから出るとよいです」
ルッツは、槍を握ったまま目を瞬かせた。
「出てから止まるのではなく、ですか」
「それでは湿地に引かれます」
あまりにも当然のように言われ、ルッツの顔に一瞬だけ困った色が浮かぶ。訓練場なら、踏み込んでから戻る余地がある。湿地にはない。土の違いを、真壁は説教ではなく距離で見ていた。
ニコは小さく盾を見た。
「泡を見るより、葦を見た方が早いのですね」
「泡は遅いです。倒れるものは先に倒れます」
真壁の言い方に、ニコは真剣に考え込んだ。レオンハルトはその横顔を見て、口元だけをわずかに動かす。
若手2人の頭の中で、訓練場の型が湿地の泥へ置き直されている。
それは、ただ疲れさせる訓練よりも効いていた。
地図卓の上に、赤樺湿地が広げられた。
薬草宿場、水路、赤樺の密集地、街道へ戻る道。午後の光が斜めに入り、地図の端に影を落としている。
レオンハルトの指は湿地の奥へ置かれた。アルベルトの指は宿場と街道の近くにある。真壁は、2人の指の外側、水路の逃げ先を見ていた。
「次のボス個体が育った場合は、騎士団の訓練として組み込みたいと考えております」
レオンハルトの声は、訓練場で若手を見る時より慎重だった。真壁を騎士団の一部として扱う言い方ではない。
アルベルトが目を上げる。
「また頼むつもりか」
「はい。ただし、真壁殿を騎士団の駒として扱う話ではありません。侯爵家から協力を願う形です」
レオンハルトは真壁へ向き直った。
「真壁殿。その時は、またご協力を願えますか」
「条件次第です」
真壁は即答した。断るためではない。動くために、範囲を先に置く声だった。
アルベルトの指が地図を軽く叩く。
「レオンハルト、条件は先に決めろ」
「承知しました」
「それと、育つまで待つな。育つ前に見回れ」
「承知しました」
レオンハルトの返事は速い。だが、地図から目を離さない。赤樺湿地を教材にする前に、領内の危険として押さえる必要がある。
真壁が水路の合流点を指した。
「大物化する前に潰す方が安いです」
「だろうな」
アルベルトの声には、呆れと納得が半分ずつ混じった。命の危険を費用で言われると妙に軽く聞こえるが、領政ではその軽さが時に正しい。被害が出る前に処理すれば、人も金も時間も失わない。
レオンハルトは、地図の端へ小さな印を置いた。
「薬草宿場からの異変報告を受ける窓口を決めます。水路、葦、餌場の変化も見回り項目へ入れます」
「若手だけで奥へ入れるな」
アルベルトの命令に、レオンハルトは姿勢を正した。
「承知しました」
真壁は、逃走方向を書き込む位置を示す。
「泡ではなく、倒れた葦と泥の筋です。今日の2人には、その見方を残してください」
「使わせていただきます」
レオンハルトが真壁へ礼を返す。客分への敬意がある声だった。
押入商会は湿地管理を請け負わない。
だが、大物化した時には協力できる。
その境目が、地図の上で少しずつ形になっていった。
侯爵家を出たエアカーは、孤児院へ向かって高度を下げた。
午後の領都は、湿地と違う匂いがした。焼いたパン、馬の汗、石畳の熱、洗濯物の乾く匂い。屋根瓦が鈍く光り、市場の声が下から丸く上がってくる。
クララは、しばらく何も言わなかった。
王都の夜を思い出したのは、真壁が収納札を動かしたからだった。湿地で巨体が消えた時、その前に見た小さな消失が、急に輪郭を持った。
短剣が消えた。
毒針が消えた。
荷箱が消えた。
もう1人が、見えない何かで追手の目を逸らした。
あの時は、怖さと逃げることで精一杯だった。顔よりも、消えたものの順番だけが残っている。
「王都で、私を助けたのは、真壁さんですか」
真壁は前方を見たまま答えた。
「誰から聞きましたか」
「誰からも聞いていません」
クララは膝の上で指を組み直した。風が袖口へ入る。湿地の匂いは、もうほとんどしない。
「短剣が消えました。毒針も、荷箱も」
「収納を使う者は、他にもいます」
「もう1人は、見えない何かで追手の目を逸らしていました」
「境界です」
それは、否定ではなかった。
クララは息を止め、ゆっくり吐いた。
「やはり、ヴァルトさんも」
「いました」
教会の塔が遠くに見え始める。クララの胸の中で、王都の細い路地と、今見える白い塔が重なりかけ、すぐ離れた。
「なぜ、名乗らなかったのですか」
「名乗れば、君の選択が歪みます」
真壁の声は平らだった。恩を売る声音ではない。言い訳でもない。
あの時、助けた者の名を知っていれば、クララはその名にすがったかもしれない。誰を信じるかを、自分で選んだと思えなくなったかもしれない。
クララは、指先に力を込めた。
王都で逃げた時の石畳の冷たさが、足裏に戻ってくる。喉の奥に残っていた礼の言葉は、ずっと行き場を失っていたのだと、今になって分かった。
「あの時、助けてくださってありがとうございました」
「礼は不要です」
「必要です。恩で従うためではありません。私が、言いたかっただけです」
真壁は、そこでほんのわずかに間を置いた。
「受け取りました」
それだけだった。
けれどクララには、それで十分だった。大きな許しも、甘い慰めもない。自分が差し出した言葉が、余計な形に変えられず、そのまま受け取られた。
エアカーは教会の裏手へ回る。
庭から子どもたちの声が聞こえてきた。
クララは、顔を上げた。
教会裏の石畳は、湿地の泥より冷たかった。
エアカーが降りると、窓から子どもたちが覗き、すぐシスターに下がるよう言われた。台所の方から薄いスープの匂いが流れてくる。干し布が風に揺れ、礼拝堂の影が庭の端へ伸び始めていた。
クララは固定帯を外し、足を下ろした。
湿地のあとにこの匂いを吸うと、胸の奥が少し緩む。赤樺湿地も、侯爵家の倉庫も、王都の夜も、すべて同じ日の中にあるはずなのに、子どもたちの声だけが日常の形をしていた。
「お帰りなさい、クララ」
シスターが近づき、まず顔色を見た。無事かどうかを聞く前に、立っていられるかを見ている目だった。
「戻りました」
司祭様も管理室の方から出てきた。
「無事で何よりです」
真壁は竜卵の保護台を出し、布の端を見た。白灰色の殻は変わらず、灰色の筋も荒れていない。
「供給は短くお願いします」
「はい」
「疲労も書いてください」
「書きます」
クララがすぐ記録板へ向かおうとすると、シスターが片手を上げた。
「まず座ってからでも」
「座ってからで結構です。倒れてから書かれても困ります」
真壁の言葉に、シスターが困ったように眉を寄せた。司祭様は咳払いをしたが、笑いを隠すには少し遅かった。
クララも、小さく息を漏らした。
手を洗う。水は冷たく、石鹸の匂いが湿地の残りを落としていく。布で指を拭き、竜卵へ手をかざした。
魔力は細く伸びた。
強く押しているわけではない。無理に絞っているわけでもない。細いまま、殻へ届く。白灰色の奥から返る熱は、さっきよりもさらに穏やかに思えた。
「今日は、届きやすいです」
「そこで止めてください」
真壁の声で、クララは手を引いた。続けられる気がしても、続けない。教会での仕事は、倒れるまでやるものではないと、最近ようやく身体が覚え始めている。
管理室の記録板には、前の文字が残っていた。クララは筆を取り、少し迷ってから、板の端へ新しい線を引く。供給した時刻を書く欄。どれくらい手をかざしたかを書く欄。自分の疲れを書く欄。殻の色を見る欄。子どもたちの体調を書き込む余白。
真壁はその手元を見て、余計なことは言わなかった。
クララは、自分の手が何をされたのか知らない。
ただ、卵へ届いたことを知っている。
子どもたちの声が、庭からまた近づいてきた。誰かが廊下を走り、シスターに注意される。薄いスープの匂いが濃くなり、夕方の支度が始まっていた。
クララは筆先を整え、最初の欄に今日の時刻を書いた。
白灰色の卵のそばで、生活の音が途切れず続いていた。