押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

203 / 218
第203話 帰り道の熱

 

 

 赤樺湿地の水は、巨体が沈んだあとの形をまだ覚えていた。

 濁った波が葦の根元へ押し寄せ、戻り、また押し寄せる。水面に浮いた泡がひとつ割れるたび、泥と水草と血の匂いが風に混じった。

 クララは、固定レールガンの発射ボタンを押した指を、膝の前でそっと握った。

 撃った、という言葉はまだ胸に入ってこなかった。思い出すのは、白灰色の卵へ手をかざした時の熱であり、子どもの額に触れた時の小さな呼吸であり、濁ったものを澄ませたいと願った時の力の向きだった。目の前の湿地には、倒れた葦と逃げた小型個体の細い波紋がある。それなのに手の中だけが、教会の管理室に残っているようだった。

 真壁は、巨体のそばに立っていた。

 泥に沈みかけた黒い鱗を一度だけ見下ろし、手を動かす。

「収納します」

 ラージアリゲーターの巨体が、湿地の空気ごと削り取られたように消えた。そこだけ水の戻り方が変わり、泥の穴が重く息を吐く。

 ルッツ・ヘンケが槍を握り直した。息はまだ乱れているのに、膝は落としていない。

「大物も、そのまま入るのですか」

「入ります。後で侯爵家へ渡します」

 真壁は、答えながら次の通常個体へ視線を移していた。驚きに付き合う時間さえ、工程の中では余白でしかないらしい。

 ニコ・バルツァーは、盾の縁についた泥筋を指でなぞった。正面から受け止めた跡ではない。斜めに逃がした跡だった。その意味に気づきかけ、唇を引き結ぶ。

「通常個体も回収しますか」

「回収します。残すと宿場の問題になります」

 真壁の言葉に、ニコの目が湿地の奥へ動いた。逃げた小型個体の波紋が、赤樺の根の間を縫うように消えていく。

「逃げたものは追いません。方向と数を覚えてください」

「水路側、葦の奥、3……いえ、4です」

「それでよい」

 ルッツが、追わないという選択をまだ飲み込みきれない顔をした。槍を持つ手に力が入り、すぐ抜ける。前へ出ることだけが騎士の形ではないと、湿った泥が靴裏から教えているようだった。

 真壁はハイエースを見た。車体には泥が跳ね、固定台にも水滴が残っている。彼は泥のついた装備をそのまま通常の収納へ入れず、手元の表示へ視線を走らせる。湿地装備、洗浄待ち、固定台。置き先を分けてから、ハイエースと固定レールガンを消した。

 次に出てきたエアカーを見て、ルッツが一瞬だけ肩を固くした。ニコは声を出さなかったが、盾を抱える角度が変わった。

 クララは、真壁が自分の固定帯をいつもより丁寧に締めるのを見ていた。金具が小さく鳴る。湿地の匂いが袖に残っている。

「教会へ戻るのですか」

「先に領都へ寄ります。報告が必要です」

 報告、という言葉で、クララの視線が湿地から外れた。

 倒したものを、どこへ渡すのか。

 逃げたものを、誰が見るのか。

 自分が押したボタンのあとに、まだ人の仕事が続いている。

 エアカーが浮き上がると、赤樺湿地の濁った水面が少しずつ低くなっていった。クララの手の熱だけが、まだ同じ高さに残っていた。

 

 

 

 風が車内へ入るたび、泥と水草の匂いは薄くなっていった。

 下には赤樺の梢が流れ、湿地の暗い水路が細くなり、やがて畑道の土色が広がる。固定帯の革が服に擦れ、エアカーの床から細かな振動が伝わってくる。

 クララは膝の上で両手を重ねたまま、指先を開いたり閉じたりしていた。

 熱はまだある。

 けれど、湿地で見た巨体の重さとは別のものだった。卵へ手をかざした時のような、奥へ届く前に細くなる糸の感触。その糸を切らさないように握っていたせいで、指だけが自分のものではないように重い。

 真壁は操縦席で前方を見たまま、短く言った。

「鑑定します」

「はい」

 クララは返事をした。何をどこまで見られるのか、まだ完全には分かっていない。ただ、真壁が必要だと判断したなら、それは次に竜卵へ触れるための準備なのだろうと受け取った。

 真壁の視界に、表示が開く。

 

----------------------------------

クララ

 

旧称:クララ・フォン・ローゼンベルク

 

現在ジョブ:聖職者 Lv6

 

状態:王国教会預かり/見習い/家名使用制限/浄化訓練中/魔力消耗/成長直後

----------------------------------

基礎能力値

 

体力:35 → 39

筋力:18 → 21

器用:64 → 66

知力:91 → 94

判断:82 → 88

精神:78 → 87

集中:81 → 90

----------------------------------

スキル一覧

 

礼法:7

読解:6

帳簿読解:4

筆記:5

観察:3 → 4

生活介助:1 → 2

祈り:3 → 4

微光:3 → 4

浄化:3 → 5

ヒール:1 → 3

鑑定:1 → 3

魔力供給:1

疲労耐久:芽あり → 1

----------------------------------

取得スキルポイント:5

 

内訳:

Lv5到達:3

Lv6到達:2

----------------------------------

 

 真壁の目は、数字を順に追って止まった。

 体力と筋力は、戦う者の伸び方ではない。水桶を運び、布を絞り、子どもを抱え、床を拭く生活の筋肉だった。精神と集中の伸びは大きい。湿地の大物を前に、敵を見るのではなく、卵と子どもと浄化を思い続けた結果がそこに出ている。

「聖職者 Lv6です」

「2つ、上がったのですか」

 クララの声には、喜びより戸惑いが先に混じった。レベルという数字は聞いたことがある。けれど、自分の身体のどこがどう変わったのかを、貴族家の礼法のように形で確かめることはできない。

「はい。低いうちに大物を経験したためです」

「大物……」

 クララの視線が下の湿地へ戻る。もう見えない巨体を探すように、目だけが水路の形を追った。

「倒した相手ではなく、何を保ったかが出ています」

 真壁の言葉は短かった。

 クララは、自分の手を見直した。あの時、敵を強く思ったわけではない。卵へ届けること、子どもを助けること、濁りを澄ませること、見落とさないことを考えていた。

 それが数字になったのなら、数字は戦場のものではなく、あの手の中のものだった。

 ルッツは黙っていた。戦闘で上がるなら剣や槍だと思っていた顔で、クララの両手を見ている。ニコは口を開きかけて閉じた。何を保ったか、という言葉が盾の泥筋と重なったらしく、視線だけが自分の装備へ落ちる。

 真壁は、表示の下へ目を戻した。

 取得スキルポイント:5。

 旧称。

 魔力供給:1。

 指先が短く動く。

 クララは、外から入る風に目を細めていた。領都の外壁が遠くに見え始めている。湿地の匂いより、乾いた土と石の匂いが強くなってきた。

「卵は、揺れていませんか」

「問題ありません」

「よかったです」

 その声の間に、真壁は処理を終えていた。

 

----------------------------------

使用スキルポイント:

 

魔力供給 1 → 2:2

魔力供給 2 → 3:3

 

残スキルポイント:0

----------------------------------

 

 表示を閉じる時、真壁の表情は変わらなかった。

 ローゼンベルクの名。

 竜卵の灰色の筋。

 教会の預かり。

 孤児院の子どもたち。

 攻撃へ転ぶ余白を残す段階ではない。細く長く渡す力なら、卵にも、教会にも、クララ自身にも収まりがよい。

 真壁は操縦桿をわずかに倒した。

 クララは何も言わなかった。

 知らないものを、問いにすることはできなかった。

 

 

 

 領都へ入る前、真壁はエアカーを乾いた土の上へ下ろした。

 赤樺湿地の泥が遠ざかると、空気の重さが変わった。風は軽く、遠くから荷車の車輪音が聞こえる。石畳へ向かう道の脇で、竜卵の保護台だけが不思議なほど白く浮いて見えた。

 真壁が保護布を少しめくる。

 白灰色の殻には、ゼグルド火山を思わせる灰色の筋が残っている。クララはその筋を見ると、湿地の濁った水ではなく、火山の熱を想像してしまった。自分が見たことのない場所の熱が、この小さな殻の奥にまだ残っている。

「短くお願いします」

「はい」

 クララは手を洗う場所がないことに一瞬迷ったが、真壁が清めた布を差し出した。布は少し冷たく、湿地の匂いを袖口から消していく。

 卵へ手をかざす。

 いつもなら、魔力は途中で細くなり、指先から先へ出る時に少し震えた。今日は違った。太くはない。強くもない。ただ、細いまま切れにくい。無理に押し出すのではなく、決められた幅の溝を通る水のように、すうっと殻へ届く。

「……今日は、少し届きやすいです」

「そこで止めてください」

「はい」

 クララはすぐに手を引いた。まだ続けられそうだと思った瞬間に止められたため、指先が行き場を失って宙に残る。

「長く続ける必要はありません」

 真壁は殻を見て、次にクララの顔色を見た。卵の反応は荒れていない。クララの呼吸も崩れていない。

 クララは、掌を胸元へ戻した。

 赤樺湿地で何かが変わったのだろうか。そう考えかけ、すぐ卵の保護布へ目が移る。今は、無事に戻す方が先だった。

 真壁は卵を再び保護し、エアカーへ戻した。供給の伸びを喜ばせるより、伸びた分を使いすぎないことの方が大切だった。

 クララは固定帯を締め直しながら、ほんの少しだけ息を置いた。

 届きやすい。

 その事実だけが、手の中に残った。

 

 

 

 侯爵家の執務室には、湿地の匂いが似合わなかった。

 磨かれた机、封蝋、整えられた報告板、壁に掛けられた領内地図。窓の外から訓練場の声が聞こえる。乾いた掛け声の向こうに、赤樺湿地の水音はもうない。

 それでも真壁が机の上へ置いた収納札には、まだ泥の重さがあった。

 アルベルトは札を見て、次に真壁の外套の裾を見た。泥の飛び方で、単なる訓練では済まなかったことを察したのだろう。表情は大きく動かないが、指が地図の赤樺湿地へ置かれる。

「赤樺湿地の件、助かった」

「大物が育っていました。処理済みです」

 真壁の返答は短いが、礼を欠いてはいない。客分として侯爵家に協力する者の距離であり、臣下の低さではなかった。

「通常個体は」

「数体処理しています。逃げた個体は追っていません。水路側の見回りが必要です」

 レオンハルトが地図の水路へ目を落とした。訓練場から聞こえる若手の声が、少し遠のいたように感じられる。

 アルベルトは湿地と薬草宿場の位置を見比べた。

「そこからは侯爵家で引き取る。押入商会で抱える話ではないな」

「はい。その判断です」

 真壁は収納札をひとつ横へずらした。討伐個体、逃走方向、装備洗浄待ち。それぞれの札が、机の上で別の意味を持つ。

 アルベルトの視線が、次の表示へ移る。

「クララは」

「聖職者 Lv6です」

「SPは残していないのか」

「残していません」

 アルベルトの指が止まった。

「本人は理解しているのか」

「理解していません」

「説明は」

「していません」

 真壁の声は変わらない。だが、軽く流したわけでもない。必要な処理として、必要な相手へ報告している。

「理由は」

「ローゼンベルクの娘です」

 アルベルトは、表示の旧称と、魔力供給の欄を見比べた。窓の外で木剣が打ち合わされ、乾いた音がした。

「攻撃に転ぶ余地を減らしたか」

「はい。魔力供給へ寄せました。竜卵にも必要です」

 沈黙が落ちた。

 責めるための沈黙ではなかった。領主代理が、危険と利を同じ机に載せて重さを量る間だった。

 アルベルトはやがて、表示から目を上げる。

「分かった。クララへの扱いは、教会とも合わせる」

「お願いします」

 真壁はそれ以上、言葉を足さなかった。

 アルベルトも、真壁を配下のようには使わない。押入商会は侯爵家の客分であり、今回の湿地処理も、領主家の仕事を肩代わりさせるためのものではない。

 地図の上で、赤樺湿地の水路だけが細く曲がっていた。

 そこから先は、侯爵家が受ける。

 

 

 

 素材受け入れ倉庫は、執務室よりずっと赤樺湿地に近かった。

 石床には水洗い用の溝が走り、壁際には革手袋、大型素材用の吊り具、厚い作業布が用意されている。油と乾いた石の匂いがする場所へ、真壁が収納札を持ち込むと、職員たちの背筋がわずかに伸びた。

 アルベルトも倉庫まで来ていた。侯爵代理が自ら足を運ぶには泥臭い場所だが、湿地の大物を受けるなら、机の上の言葉だけで済ませる方が軽い。

「討伐個体は、押入商会で扱うつもりか」

「侯爵家へ渡します。そのために分けてあります」

 真壁が札を出す。赤樺湿地、討伐個体、侯爵家引渡し、査定待ち。文字は簡潔で、迷いがない。

「助かる。こちらで受ける」

 アルベルトの返答を聞いて、職員が作業布をさらに広げた。ラージアリゲーターを出す場所を誤れば、倉庫が湿地になる。そんな緊張が全員の手つきに出ている。

「換金分は孤児院へ回すのがよいと見ています」

 真壁が言うと、アルベルトは一度だけ目を細めた。

「侯爵家名義にする。押入商会の施しにはしない」

「それでよいです」

 クララを使った訓練の結果を、押入商会の利益にしない。孤児院へ返すとしても、領主家の筋を通す。真壁の札の分け方は、すでにその結論へ向いていた。

「査定はこちらで行う。素材の扱いも任せてくれ」

「結構です」

 職員の1人が革手袋をはめ直し、深く息を吸った。真壁が手を動かす。

 まず通常個体が出た。湿地の匂いが石の倉庫へ広がり、若い職員が一歩退きかけて踏みとどまる。次にラージアリゲーター用の札が作業台の前へ置かれた瞬間、場の空気がさらに重くなった。

 アルベルトは退かなかった。退かずに、職員へ目配せする。

「受領を取れ。査定後、孤児院支援へ回す」

「承知しました」

 職員が板へ書き込む音が、倉庫の石壁に硬く返った。

 真壁は、素材が出るたびに札の位置を変える。押入商会の手元から、侯爵家の受けへ。商売ではなく、領政の棚へ。

 その動きに、アルベルトは短く息を置いた。

 押入商会は速い。

 速いが、今回は越えていない。

 その線が見えるだけで、侯爵家は次へ動ける。

 

 

 

 訓練場の土は、湿地の泥より軽い。

 それでもルッツとニコの装備には、赤樺湿地の重さが残っていた。槍の柄には乾きかけた泥がつき、ニコの盾の縁には斜めの泥筋が走っている。

 レオンハルトは報告書を求めなかった。

 まず、2人の立ち方を見た。

「ルッツ。前へ出たか」

「出かけました」

 ルッツは声を張ったが、少しだけ喉がかすれた。全力で走ったあとのようなかすれではない。止まったことを、まだ言葉に慣らしていない声だった。

「止まったか」

「止まりました。真壁殿の指示です」

 レオンハルトは、ルッツに槍を構えさせた。踏み込み幅を見る。以前なら、相手を押し込むために前へ乗りすぎていた足が、今は泥に引かれる前の位置で止まっている。

 真壁は横で見ていた。口を挟まない。必要なら一言で済むと分かっている顔だった。

「ニコ。何を見た」

「泡ではなく、葦の倒れ方を見ました」

「誰に言われた」

「真壁殿です」

 ニコは盾を持ち上げた。正面で抱えるのではなく、角度を作る。その泥筋をレオンハルトが見て、わずかに目を細める。

「尾を受けたのではないな」

「外しました。外した、つもりです」

「つもりでよい。正面から受けていたら、ここに立っていない」

 ニコの肩が少しだけ下がった。褒められたというより、生き残った理由を言葉にされたことで、やっと盾の重さが戻ってきたようだった。

 レオンハルトはアルベルトへ向き直る。

「実戦と真壁殿の指導は、若手に効きます」

「そうか」

 アルベルトは短く返した。目はルッツとニコへ向いている。

 真壁が、ルッツの踏み込み位置を見て言った。

「止まる場所を決めてから出るとよいです」

 ルッツは、槍を握ったまま目を瞬かせた。

「出てから止まるのではなく、ですか」

「それでは湿地に引かれます」

 あまりにも当然のように言われ、ルッツの顔に一瞬だけ困った色が浮かぶ。訓練場なら、踏み込んでから戻る余地がある。湿地にはない。土の違いを、真壁は説教ではなく距離で見ていた。

 ニコは小さく盾を見た。

「泡を見るより、葦を見た方が早いのですね」

「泡は遅いです。倒れるものは先に倒れます」

 真壁の言い方に、ニコは真剣に考え込んだ。レオンハルトはその横顔を見て、口元だけをわずかに動かす。

 若手2人の頭の中で、訓練場の型が湿地の泥へ置き直されている。

 それは、ただ疲れさせる訓練よりも効いていた。

 

 

 

 地図卓の上に、赤樺湿地が広げられた。

 薬草宿場、水路、赤樺の密集地、街道へ戻る道。午後の光が斜めに入り、地図の端に影を落としている。

 レオンハルトの指は湿地の奥へ置かれた。アルベルトの指は宿場と街道の近くにある。真壁は、2人の指の外側、水路の逃げ先を見ていた。

「次のボス個体が育った場合は、騎士団の訓練として組み込みたいと考えております」

 レオンハルトの声は、訓練場で若手を見る時より慎重だった。真壁を騎士団の一部として扱う言い方ではない。

 アルベルトが目を上げる。

「また頼むつもりか」

「はい。ただし、真壁殿を騎士団の駒として扱う話ではありません。侯爵家から協力を願う形です」

 レオンハルトは真壁へ向き直った。

「真壁殿。その時は、またご協力を願えますか」

「条件次第です」

 真壁は即答した。断るためではない。動くために、範囲を先に置く声だった。

 アルベルトの指が地図を軽く叩く。

「レオンハルト、条件は先に決めろ」

「承知しました」

「それと、育つまで待つな。育つ前に見回れ」

「承知しました」

 レオンハルトの返事は速い。だが、地図から目を離さない。赤樺湿地を教材にする前に、領内の危険として押さえる必要がある。

 真壁が水路の合流点を指した。

「大物化する前に潰す方が安いです」

「だろうな」

 アルベルトの声には、呆れと納得が半分ずつ混じった。命の危険を費用で言われると妙に軽く聞こえるが、領政ではその軽さが時に正しい。被害が出る前に処理すれば、人も金も時間も失わない。

 レオンハルトは、地図の端へ小さな印を置いた。

「薬草宿場からの異変報告を受ける窓口を決めます。水路、葦、餌場の変化も見回り項目へ入れます」

「若手だけで奥へ入れるな」

 アルベルトの命令に、レオンハルトは姿勢を正した。

「承知しました」

 真壁は、逃走方向を書き込む位置を示す。

「泡ではなく、倒れた葦と泥の筋です。今日の2人には、その見方を残してください」

「使わせていただきます」

 レオンハルトが真壁へ礼を返す。客分への敬意がある声だった。

 押入商会は湿地管理を請け負わない。

 だが、大物化した時には協力できる。

 その境目が、地図の上で少しずつ形になっていった。

 

 

 

 侯爵家を出たエアカーは、孤児院へ向かって高度を下げた。

 午後の領都は、湿地と違う匂いがした。焼いたパン、馬の汗、石畳の熱、洗濯物の乾く匂い。屋根瓦が鈍く光り、市場の声が下から丸く上がってくる。

 クララは、しばらく何も言わなかった。

 王都の夜を思い出したのは、真壁が収納札を動かしたからだった。湿地で巨体が消えた時、その前に見た小さな消失が、急に輪郭を持った。

 短剣が消えた。

 毒針が消えた。

 荷箱が消えた。

 もう1人が、見えない何かで追手の目を逸らした。

 あの時は、怖さと逃げることで精一杯だった。顔よりも、消えたものの順番だけが残っている。

「王都で、私を助けたのは、真壁さんですか」

 真壁は前方を見たまま答えた。

「誰から聞きましたか」

「誰からも聞いていません」

 クララは膝の上で指を組み直した。風が袖口へ入る。湿地の匂いは、もうほとんどしない。

「短剣が消えました。毒針も、荷箱も」

「収納を使う者は、他にもいます」

「もう1人は、見えない何かで追手の目を逸らしていました」

「境界です」

 それは、否定ではなかった。

 クララは息を止め、ゆっくり吐いた。

「やはり、ヴァルトさんも」

「いました」

 教会の塔が遠くに見え始める。クララの胸の中で、王都の細い路地と、今見える白い塔が重なりかけ、すぐ離れた。

「なぜ、名乗らなかったのですか」

「名乗れば、君の選択が歪みます」

 真壁の声は平らだった。恩を売る声音ではない。言い訳でもない。

 あの時、助けた者の名を知っていれば、クララはその名にすがったかもしれない。誰を信じるかを、自分で選んだと思えなくなったかもしれない。

 クララは、指先に力を込めた。

 王都で逃げた時の石畳の冷たさが、足裏に戻ってくる。喉の奥に残っていた礼の言葉は、ずっと行き場を失っていたのだと、今になって分かった。

「あの時、助けてくださってありがとうございました」

「礼は不要です」

「必要です。恩で従うためではありません。私が、言いたかっただけです」

 真壁は、そこでほんのわずかに間を置いた。

「受け取りました」

 それだけだった。

 けれどクララには、それで十分だった。大きな許しも、甘い慰めもない。自分が差し出した言葉が、余計な形に変えられず、そのまま受け取られた。

 エアカーは教会の裏手へ回る。

 庭から子どもたちの声が聞こえてきた。

 クララは、顔を上げた。

 

 

 

 教会裏の石畳は、湿地の泥より冷たかった。

 エアカーが降りると、窓から子どもたちが覗き、すぐシスターに下がるよう言われた。台所の方から薄いスープの匂いが流れてくる。干し布が風に揺れ、礼拝堂の影が庭の端へ伸び始めていた。

 クララは固定帯を外し、足を下ろした。

 湿地のあとにこの匂いを吸うと、胸の奥が少し緩む。赤樺湿地も、侯爵家の倉庫も、王都の夜も、すべて同じ日の中にあるはずなのに、子どもたちの声だけが日常の形をしていた。

「お帰りなさい、クララ」

 シスターが近づき、まず顔色を見た。無事かどうかを聞く前に、立っていられるかを見ている目だった。

「戻りました」

 司祭様も管理室の方から出てきた。

「無事で何よりです」

 真壁は竜卵の保護台を出し、布の端を見た。白灰色の殻は変わらず、灰色の筋も荒れていない。

「供給は短くお願いします」

「はい」

「疲労も書いてください」

「書きます」

 クララがすぐ記録板へ向かおうとすると、シスターが片手を上げた。

「まず座ってからでも」

「座ってからで結構です。倒れてから書かれても困ります」

 真壁の言葉に、シスターが困ったように眉を寄せた。司祭様は咳払いをしたが、笑いを隠すには少し遅かった。

 クララも、小さく息を漏らした。

 手を洗う。水は冷たく、石鹸の匂いが湿地の残りを落としていく。布で指を拭き、竜卵へ手をかざした。

 魔力は細く伸びた。

 強く押しているわけではない。無理に絞っているわけでもない。細いまま、殻へ届く。白灰色の奥から返る熱は、さっきよりもさらに穏やかに思えた。

「今日は、届きやすいです」

「そこで止めてください」

 真壁の声で、クララは手を引いた。続けられる気がしても、続けない。教会での仕事は、倒れるまでやるものではないと、最近ようやく身体が覚え始めている。

 管理室の記録板には、前の文字が残っていた。クララは筆を取り、少し迷ってから、板の端へ新しい線を引く。供給した時刻を書く欄。どれくらい手をかざしたかを書く欄。自分の疲れを書く欄。殻の色を見る欄。子どもたちの体調を書き込む余白。

 真壁はその手元を見て、余計なことは言わなかった。

 クララは、自分の手が何をされたのか知らない。

 ただ、卵へ届いたことを知っている。

 子どもたちの声が、庭からまた近づいてきた。誰かが廊下を走り、シスターに注意される。薄いスープの匂いが濃くなり、夕方の支度が始まっていた。

 クララは筆先を整え、最初の欄に今日の時刻を書いた。

 白灰色の卵のそばで、生活の音が途切れず続いていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。