押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第206話 見えない線の建つ日

 

 朝のセルマ工房前は、薬草の匂いがまだ強かった。

 

 扉の上に吊るされた乾燥束が、夜の湿気を少し吸って色を濃くしている。瓶を洗った水の匂いと、刻んだ葉の青い匂いが、工房の戸口から細く流れ出ていた。通りには朝の光が斜めに入り、昨日まで店と住まいが寄り合っていた一角には、商店主たちがいつもより早い時間から集まっている。

 

 ヴァルトは、その人々の顔を順に見た。

 

 不安は、品物を失う不安と、家を失う不安で形が違う。店主は店先を見る。妻たちは奥の住まいを見る。子どもは、自分の箱があるらしい部屋の方を見ている。境界課にいた頃なら、人の立ち位置から危険線を読んだ。今は、同じ足の向きから、誰が何を失いたくないのかを読む。

 

 昨日、真壁に言われたことがまだ残っていた。

 

 工程。人の動き。隠すものと、見せてよいもの。

 

 見るだけ、と言われたはずなのに、見る対象が朝から多すぎる。

 

 真壁は、そんなヴァルトの横で、いつものように立っていた。急いでいる顔ではない。だが、すでに始まっている顔だった。

 

 工房の戸が開く。

 

 セルマが出てきた。袖口に粉がつき、指には薬草を揉んだ色が残っている。こちらを見る目は眠そうではなく、むしろ真壁の手元を最初から追う気で細くなっていた。

 

「これより工事を開始する。見ていくかね」

 

 真壁が言うと、セルマは戸口に片手を置いたまま答えた。

 

「見るわ」

 

 迷いはなかった。

 

「セルマ殿も、見学を」

 

 ヴァルトが聞くと、セルマは工房の内側をちらりと振り返った。棚に並んだ瓶、乾燥中の薬草、封をした袋。どれも、混ざれば困るものばかりだった。

 

「収納を身につけたいのよ。見ただけで分かるとは思わないけど、見ないよりはましでしょう」

 

 真壁はセルマの返答に、余計な感想を挟まなかった。代わりに、地面へ短い棒を一本置いた。そこから先は工事側。反対側は待機側。線は細いが、意味は太い。

 

「見る場所を間違えるな」

 

「収納そのものじゃなく、分け方を見るのね」

 

「そうだ」

 

 セルマの眉がわずかに動いた。そこは、錬金術師の顔だった。瓶の中身を見ないまま混ぜる者を嫌う顔である。

 

 真壁はヴァルトへ目を向ける。

 

「君は工程と人の動きだ」

 

「承知しました」

 

 答えながら、ヴァルトはもう住民たちの視線を追っていた。商人の顔、家族の顔、子どもの手。今日の工事は建物を作るだけではない。まず、誰の何を預かるかから始まる。

 

 

 

 

 

 最初の店は、粉物と豆を扱う小さな商店だった。

 

 店先には木箱が重ねられ、奥には家族が使う食器棚と寝具箱がある。粉の匂いと豆の乾いた匂い、長く使った木箱の酸っぱいような匂いが混じっていた。店主は帳面を抱え、妻は奥の戸口に立ち、子どもは小さな箱を両手で持っている。

 

 真壁は、店の入口で止まった。

 

「これより一時撤去する。荷物は収納で預かり、工事完了後に各店舗および住居へ戻す」

 

 店主の手が帳面を抱き直す。

 

「商品は混ざらんのか」

 

「店ごとに分ける」

 

「帳面は?」

 

 妻の声は、商品より低かった。

 

「別枠だ。水も埃も入れぬ」

 

 真壁は言いながら、店先の木箱に手をかざした。箱は消えた。だが、次の瞬間には真壁の手元に同じ箱が戻る。中の袋は動いていない。粉もこぼれていない。

 

 店主が息を止めた。

 

「戻った」

 

「戻すために、先に分ける」

 

 真壁は帳面を受け取る前に、手を出したまま止めた。

 

「帳面は店主が渡せ」

 

 その一言で、店主の顔が少し変わった。勝手に奪われるのではない。渡すのだ。店主は帳面の角を親指でなぞり、それから真壁へ渡した。

 

 ヴァルトは、その手の動きを見た。

 

 所有の線が、今、移った。そして、戻る前提で預けられた。

 

 真壁の収納内で、目に見えない札が切られていく。店名、商品、壊れ物、帳面、金箱、家族の生活品、戻し先。ヴァルトにはその中身は見えない。だが、真壁の手が品物に触れる前に止まり、次に動く方向で、何がどこへ分けられているかが読めた。

 

 セルマは、香辛料の小袋に目を留めていた。

 

「匂いが移るものは別ね」

 

「混ぜるな。戻せなくなる」

 

「薬瓶と同じだわ」

 

 真壁は返事の代わりに、店の奥にある皿を収納した。皿は一枚ずつ吸い込まれるように消え、音を立てない。壊れ物は壊れ物として扱われている。

 

 子どもが小さな箱を胸に抱きしめた。

 

「これも戻る?」

 

 真壁は箱を見てから、子どもの顔を見た。

 

「戻る。家族用だ」

 

 子どもは箱を差し出した。真壁は両手で受け取らない。ただ、落とさない距離で収納した。その距離が、子どもの箱を商品ではなく家族のものとして扱っているように見えた。

 

 次の店では、最初の実演を見ていた店主が自分から言った。

 

「帳面は別だな」

 

「そうだ」

 

「この瓶は割れ物だ」

 

「壊れ物」

 

「こっちは臭いが強い」

 

「別枠」

 

 工事というより、住民たちが自分の暮らしを解いていく作業だった。真壁はそれを収納し、ヴァルトは渡す順番を見て、セルマは混ぜてはいけない匂いを見た。

 

 店が一軒、また一軒と軽くなっていく。

 

 建物はまだある。だが、中の生活が、先に丁寧に外されていった。

 

 

 

 

 

 最後の床板が収納された時、通りに妙な広さが生まれた。

 

 朝まで店と住まいが並んでいた場所に、空が落ちてきたようだった。柱の跡、踏み固められた土、古い石、火を使っていた場所の黒ずみ。そこにあるはずの壁がなくなると、向こう側の声が近い。

 

 誰かが息を飲んだ。

 

 誰も、壊れる音を聞かなかった。

 

 槌の音も、倒れる音も、荷車のきしみもない。ただ、家がなくなっていた。

 

 セルマは更地を見て、腕を組んだ。

 

「本当に、1時間でなくなるのね」

 

 その声には、呆れと、少しの警戒が混じっていた。薬草の煎じ具合を一晩見てきた人間には、1時間で町並みが消える光景は、いくら見ても体に合わない。

 

 ヴァルトは、地面に残った柱跡を見た。

 

「なくなったのではなく、預けられたのだと思います」

 

 言いながら、自分の言葉を聞き直す。

 

 昨日なら、同じことを言えただろうか。収納で消えたとしか見えなかったかもしれない。今は違う。戻し先がある。店ごとの商品があり、家族ごとの生活品があり、壊れ物の固定があり、帳面の保護がある。

 

 消えたのではなく、戻るために外された。

 

 セルマが、少しだけ目を細める。

 

「収納って、消す力じゃなくて、分けて預かる力なのね」

 

「戻せぬ収納は事故だ」

 

 真壁は更地を見ながら答えた。

 

 近くにいた商店主が、思わず顔を向ける。

 

「事故扱いなのか」

 

「当然だ」

 

 真壁は地面に図面を重ねるように視線を落とした。更地になった瞬間、もう次の工程を見ている。ヴァルトはその視線を追った。どこを掘るか。どこを残すか。人をどこへ置くか。水がどこへ出るか。

 

 更地は空白ではない。

 

 次の線が、もう見えている。

 

 

 

 

 

「まず地下を掘る」

 

 真壁が言うと、セルマは周囲を見回した。

 

「道具は?」

 

「収納だ」

 

「普通の掘り方じゃないわね」

 

「抜く」

 

「抜く前に、分けているの?」

 

「そうだ」

 

 セルマの声が少し低くなる。土を掘るといえば、道具で崩し、運び、積むものだ。だが、真壁は地面を崩す前に、何をどこへ分けるかを見ている。薬草でも、砕いてからでは遅いものがある。根、葉、茎、傷んだ部分。混ぜてしまえば、あとで困る。

 

 真壁は地面に手を向けた。

 

 土が消えた。

 

 音はほとんどしない。表面の乾いた土が抜け、次に湿った土の匂いが立つ。冷えた地下水の匂いが鼻へ届いたかと思うと、別の場所から古い汚水の嫌な匂いが薄く上がった。真壁の手はそこで止まり、動きが変わる。

 

 セルマがすぐに気づいた。

 

「今の、別にしたわね」

 

「混ぜるな。後で困る」

 

 ヴァルトは、穴の底ではなく側面を見た。

 

 地面が抜けるたびに、山留め材が側面へ差し込まれる。土の壁はむき出しになる前に支えられ、穴が広がるたびに、残す土へ押さえが入る。真壁が見ているのは、消す場所ではない。残す場所だ。

 

「山留を入れる。残す土を支える」

 

 真壁が短く言う。

 

「抜くためではなく、残すための工事ですか」

 

 ヴァルトの言葉に、真壁が視線だけを返した。

 

「そうだ」

 

 その一言で、昨日の話が足元に沈んでいく。

 

 線を引け。

 

 ここでは、掘る線と残す線。地下水と汚水。人が立つ場所と立ってはいけない場所。支える土と抜く土。すべてが同時に分かれていく。

 

 真壁は支持杭の位置へ歩いた。収納で先に細い孔を抜く。鑑定の表示を見るのではなく、手の止まり方で硬い層を読んでいるように見えた。杭が収納から出る。垂直に降り、地面の奥へ差し込まれる。周囲の土が締め戻され、地面が小さく鳴った。

 

 派手な音はない。

 

 だが、ヴァルトの足裏には、建物の重さを受ける準備が下へ下へと伸びている感触があった。

 

 セルマは鼻を押さえかけ、やめた。汚水の匂いはもう薄くなっている。地下水の冷たい匂いと、石の匂いだけが残る。

 

「薬液を分けるのと同じね」

 

 彼女は小さく言った。

 

 ヴァルトは、その声を聞きながら、真壁の収納を別のものとして見始めていた。力ではない。大きすぎる匙でもない。

 

 混ぜないための手。

 

 

 

 

 

 地下の壁が形を持ちはじめると、空気が変わった。

 

 土の穴だった場所に、石材と鉄の匂いが入る。湿った匂いは抑えられ、冷たい空気だけが地下の奥へ残った。床が作られ、壁が立ち、部屋の輪郭が生まれていく。

 

 真壁は通路の途中でセルマを止めた。

 

「ここから先は君の範囲ではない」

 

 セルマは、真壁の背後に伸びる通路を見た。扉の位置は目立たず、人の流れから外れている。わざわざ近づく理由がない造りだった。薬品庫よりも分かりやすい。近寄るな、という顔をしている。

 

「見学場所じゃない、ってことね」

 

「そうだ」

 

「分かったわ。そこは見ない」

 

 セルマはそれ以上、奥へ目を向けなかった。工房の棚を扱う時と同じで、触ってよい瓶と、触ってはいけない瓶を分ける。その判断は彼女にもできる。

 

 ヴァルトだけが、真壁の後に続いた。

 

 奥の1部屋は、他と違っていた。

 

 壁が厚い。扉の位置が目立たない。通路から外れ、食品街や倉庫へ向かう者がわざわざ近づく理由がない。換気の線も別だ。見えないが、音の返りが少し違う。

 

 ヴァルトだけが、その名を知っている。

 

 昨日、秘密基地で見た無地の小箱。

 

 超小型核融合発電システム、イオネスコ。

 

 真壁はイオネスコを収納から出した。やはり飾りはない。名札もない。ただ、床に固定されると、最初からそこに置かれるべきものだったように収まった。

 

 ヴァルトは息を浅くした。

 

 言葉の重さは分かる。だが、今ここで見るべきは中身ではない。外部保守の範囲、封鎖の位置、表示の場所、触れてはいけない線。昨日渡されたマニュアルの重さが、また腕に戻ってくる。

 

「ここで電気を作るのですね」

 

「作る。ただし主役にするな」

 

「主役にしない」

 

「表は風と光でよい。イオネスコは支えだ」

 

 真壁は床固定を終え、外部表示の位置だけを示した。中を開けない。ヴァルトにも開けさせない。昨日と同じだ。

 

「管理はこちらで受けます」

 

 ヴァルトは自分で言った。

 

 真壁が短く目を向ける。

 

「そうだ」

 

 その一言は、許可ではなく、責任の受け渡しだった。

 

 ヴァルトは、封鎖部の位置を目でなぞる。自分が触れてよいのは外側だけ。停止、封鎖、異常表示。そこから奥は、自分の線ではない。

 

 地下の1部屋に、世界を変えかねないものが置かれる。

 

 だが、建物の中では、ただ「入ってはいけない部屋」として閉じられる。

 

 

 

 

 

 セルマ工房へ回す補助電源は、地下設備室から直接引かなかった。

 

 真壁は5Fに作った補助電源盤側へ移り、そこから必要な線を分けた。表向きは、屋上の風力と太陽光、そしてバッテリー室からの補助である。奥で何が支えているかは、見せない。ヴァルトはその順番を見て、胸の内で1つ息を置いた。

 

 隠すとは、布をかけることではない。

 

 見せる経路を、別に作ることだ。

 

 真壁が収納から巻いた電線を出した。黒い線が、床の上にするすると伸びる。次の瞬間、線の先がふわりと持ち上がり、工房側の壁へ向かって飛ぶように走った。

 

 セルマが目を細めた。

 

「今、投げたわね」

 

「通した」

 

「うちにも引くの?」

 

「補助電源だ」

 

「補助って、何を補助する気?」

 

 セルマの声には警戒があった。自分の工房へ何かを勝手に増やされるのは、薬瓶を勝手に棚替えされるのに近い。便利かどうかの前に、何に使われるのか分からなければ困る。

 

 真壁は、セルマ工房の壁際を指した。

 

「乾燥棚、換気、夜間灯、ポンプ。止まると困る」

 

 セルマは口を開きかけ、閉じた。

 

 困る。

 

 どれも困る。

 

 乾燥が止まれば薬草が傷む。換気が止まれば匂いと湿気が籠る。夜間灯がなければ瓶の取り違えが起きる。ポンプが止まれば洗浄も水の管理も乱れる。

 

「……困るわね」

 

「だから補助だ」

 

 真壁は工房側の受け口を取り付ける。古い木壁に新しい金具が収まり、線は目立たない高さで固定された。乾燥棚の近くに、必要な分だけ使えるように小さな表示がつく。

 

「元は聞かない方がいいやつね」

 

 セルマが言う。

 

「聞くな」

 

 真壁の返事は早かった。

 

 ヴァルトは一歩前へ出る。

 

「工房側に異常があれば、私が見ます。セルマ殿は、乾燥棚、換気、灯り、ポンプの使用範囲だけで」

 

「はいはい。触るところだけ触る。こっち側で変な音や熱が出たら呼ぶ。奥は聞かない」

 

「それでよい」

 

 真壁はそう言って、補助電源盤の表示を閉じた。

 

 セルマは受け口を見た。収納を覚えたいと思っていた朝から、見ているものが広がっている。収納はしまう力ではない。電気も明かりをつけるだけではない。乾燥も、換気も、湿気も、すべて混ざる前に分けるためにある。

 

「工房まで、勝手に賢くなっていくわね」

 

 セルマの声に棘はあったが、手はすでに乾燥棚の位置を見直していた。

 

 

 

 

 

 昼になる頃、共同商館は地上へ伸び始めた。

 

 鉄骨が立つ。床が入る。壁材が滑り込む。ガラスが光を返す。昨日、秘密基地で見た資材の並びが、そのまま現場で開かれているようだった。

 

 ヴァルトは、階が増えるたびに、誰がどこを通るかを追った。

 

 地下2階は倉庫。客は入らない。荷は裏から入る。地下1階は食品街。客が歩く。匂いが流れる。1Fには各店舗と住居への入口が分かれて置かれる。2Fは自分の拠点。3Fは弟子の住居。4Fは商店家族の住まい。5Fにはポンプ室とバッテリー室。屋上にはエレベータのモーター室、風力発電、太陽光発電。

 

 真壁は説明しながら、手を止めない。

 

「地下2階は倉庫。地下1階は食品街」

 

「客を地下1階まで入れるのですね」

 

「荷の線とは分ける」

 

 地下から上へ、鉄骨の影が移る。

 

「1Fは各店舗と住居入口。2Fは君の拠点。3Fは弟子の住居。4Fは商店家族の住居」

 

「弟子の住居まで」

 

「育てたまえ」

 

 ヴァルトは、3Fに入っていく床材を見た。

 

 昨日の言葉が、部屋になっている。

 

 弟子を育てろと言われた時は、まだ人の話だった。今は、住む場所として建っている。逃げ道がなくなったというより、道を敷かれた気がした。

 

 セルマが横でつぶやく。

 

「分け方が、そのまま建物になってるわね」

 

「……はい」

 

 認めるしかなかった。

 

 真壁は5Fを示した。

 

「ポンプ室とバッテリー室。屋上はモーター室、風力、太陽光」

 

「表の電源ですね」

 

「表は風と光でよい」

 

 屋上に太陽光パネルが並ぶ。風力発電の羽根はまだ止まっているが、風を受ける角度に置かれていた。地下のイオネスコは見えない。見えないまま、建物の奥で支える。

 

 ヴァルトは、その見えなさを覚えた。

 

 見える電源。見えない支え。客の道。荷の道。住む者の道。設備の道。触れてはいけない道。

 

 線が、建物になっていく。

 

 

 

 

 

「ここからは趣味だ」

 

 真壁が言った。

 

 セルマが真顔で振り向いた。

 

「今までは趣味じゃなかったの?」

 

 ヴァルトも、思わず口に出した。

 

「……違ったのですか」

 

「内装は重要だ」

 

 真壁の返答は短い。だが、声がほんのわずかに違った。

 

 セルマが目を細める。

 

「そこだけ声が違うのよ」

 

 真壁は聞いていないように、床材を出した。だが、手が速い。いや、最初から速かった。速かったが、今は選ぶ素材の種類が増えている。壁材の反射を見て替える。床を一度敷いて、足音を聞いて替える。手すりを出して、手のひらが当たる角度を変える。照明を吊って、色を一段落とす。

 

 ヴァルトは、どこまでを記録すべきか迷った。

 

 基礎、躯体、電源、導線。そこまでは工事だと分かる。だが、真壁がいま調整しているのは、床の響き、照明の温かさ、通路の見え方、手すりの触り心地だった。趣味と言われた。だが、客が歩く時に疲れない。店主が立ち続けても足に響きにくい。年寄りが手すりを握りやすい。案内板が遠くからでも読める。

 

 趣味なのか、工事なのか。

 

 真壁の場合、その境目が腹立たしいほど曖昧だった。

 

「音も内装だ」

 

「音、ですか」

 

「客は足音でも疲れる」

 

 セルマが天井を見た。

 

「薬草乾燥室には音楽を流さないでよ」

 

「流さぬ」

 

「即答なのね」

 

「用途が違う」

 

 真壁は食品街の吹き出し口の角度を変えた。風が直接棚へ当たらず、通路にゆるく落ちる。次に、見えにくい位置に小さな音響箱のようなものを収める。まだ音は出ていないが、ヴァルトは嫌な予感に近いものを覚えた。

 

 真壁の口元が、ほんのわずかに緩んでいる。

 

 セルマが、それを見逃さなかった。

 

「機嫌、いいわね」

 

「内装は重要だ」

 

「否定しないのね」

 

 真壁は答えず、案内板の角度を直した。

 

 その手つきが、明らかに楽しそうだった。

 

 

 

 

 

 午後、収納していた荷物が戻り始めた。

 

 だが、元のままではなかった。

 

 最初の粉物の店で、真壁は商品を取り出す前に、透明な袋を出した。商品を種類ごとに入れ、口を閉じ、小さな札を付ける。店名、品名、用途、価格を書く余地。棚に並べると、中身が見え、埃をかぶらず、客が手に取りやすい。

 

 店主は自分の商品を見て、少し口を開けた。

 

「これは、うちの商品か」

 

「そうだ」

 

「袋に入っている」

 

「埃を避ける」

 

「札も付いている」

 

「客が迷わぬ」

 

 店主は棚を見た。商品は、元より少ないわけではない。増えたわけでもない。だが、見え方が違った。安いものは手前、よく聞かれるものは目の高さ、壊れやすいものは奥、帳面と金箱は客の視線から外れ、店主の手が届く位置にある。

 

「……うちの店が、うちより店らしくなっている」

 

「それはよい」

 

「よい、ではなく」

 

 店主は言葉を探した。見つからないらしい。

 

 ヴァルトは、棚の前で足を止めた。

 

 収納で預かったものを戻すだけなら、元の箱へ戻せばいい。だが、真壁は戻す時に商売を整えている。客の目線、店主の手、匂いの強いもの、湿気に弱いもの、子どもが触ってはいけないもの。すべて置き場が変わっている。

 

 セルマは、薬草の束を見る目で透明な袋を見ていた。

 

「これ、薬草にも使えるわね」

 

「使える」

 

「瓶に入れるほどじゃない乾燥物とか、間違えやすい粉とか」

 

「タグを付けろ」

 

「言われなくても付けるわよ」

 

 言い返しながら、セルマの指はもう袋の口を確かめている。湿気の入り方、匂いの移り方、札の位置。専門家の手だった。

 

 真壁は次の店へ移る。香辛料の店では匂いの強い袋を別棚へ。布の店では手触りが見えるように一部だけ出し、残りは埃を避ける。小物を扱う店では、客が触る見本と売り物を分ける。

 

 戻るたびに、店主の顔が変わった。

 

 朝、家と店が消えた時の顔ではない。

 

 戻ってきた。しかも、使いやすくなっている。

 

 それが分かるたび、言葉より先に手が棚へ伸びる。

 

 セルマは棚の札を見て、朝の自分の言葉を少し直すように言った。

 

「収納って、しまう力じゃなくて、戻す力でもあるのね」

 

 ヴァルトは、その言葉を胸の内で受け取った。

 

 しまう力。分けて預かる力。戻す力。

 

 そして、戻す時に、商売を少し前へ押す力でもある。

 

 

 

 

 

 1Fの各店舗に、最後の金具が付いた。

 

 シャッターだった。

 

 店先の上部に収まったそれは、普段は目立たない。だが、真壁が手をかけると、金属の板が下りてくる。重い音ではない。滑るような音だった。最後に下まで落ちると、足元でぴたりと止まる。

 

 商店主の1人が、鍵穴を見た。

 

「鍵まで付くのか」

 

「夜と水用だ」

 

「水に鍵は効かんぞ」

 

「鍵は人用。防水は水用だ」

 

 セルマが横で小さく息を吐く。

 

「分かりやすいけど、言い方」

 

 真壁は気にせず、シャッターの縁を指した。

 

「洪水時は時間を稼ぐ。守り切るとは言わん」

 

 その言葉で、店主たちの顔が変わった。

 

 水を知っている顔だった。商品が水を吸う音、帳面がふやける匂い、泥をかぶった棚を洗う重さ。そういう記憶が、誰の目にも一瞬だけ出た。

 

「閉め方を覚えろ」

 

 真壁は各店の前で、操作を1回ずつ見せる。鍵を回す。シャッターを下ろす。下部を押さえる。水が来る前に閉める。水が来てからでは遅い。

 

 ヴァルトは、商店主たちが真剣に手元を見ているのを見た。

 

 これは防犯だけではない。避難する時間を作るためのものだ。

 

 4Fでは、住居の鍵が渡された。

 

 ヴァルトが家族名と部屋番号を読み上げる。真壁は横で予備鍵を分ける。家族の人数分の鍵が用意されていた。店主、配偶者、成人した家族、必要な者。子どもが小さな鍵を両手で受け取り、落とさないように握る。

 

「私の分も?」

 

 ある妻が、驚いたように聞いた。

 

「家族の人数分です」

 

 ヴァルトが答えると、彼女は鍵を見下ろした。新しい金属の小さな重さが、手のひらに乗っている。

 

 朝、住む場所は収納された。

 

 夕方前、鍵になって戻ってきた。

 

 澪がここにいたら、きっとその差を見逃さないだろうとヴァルトは思った。物ではなく、暮らしが戻っている。しかも、誰がどこへ入れるかという形で。

 

 予備鍵の束が、ヴァルトの手元へ残る。

 

 小さな金属音が鳴った。

 

 それは、昨日渡されたマニュアルより軽い。

 

 だが、軽くはなかった。

 

 

 

 

 

 澪とリュシアが来たのは、地下1階の食品街がほぼ整った頃だった。

 

 澪は階段を降りる前から、足元の明るさに違和感を覚えた。地下へ降りるのに、暗くない。湿った匂いも上がってこない。階段の手すりは手のひらに丸く、踏み面は滑りにくい。通路の下から、何か音が聞こえる。

 

 弦の音だった。

 

 澪は足を止めた。

 

「……音楽、流れてませんか」

 

 リュシアも耳を傾ける。

 

「流れてるね」

 

「地下食品街で、ボサノバが」

 

「ぼさのば?」

 

 真壁が下から顔を出した。

 

「ギターソロだ」

 

「そこじゃないです」

 

 澪の声は強くなりすぎなかった。けれど、言わずにはいられなかった。地下食品街、ボサノバ、ギターソロ。この3つを同じ場所に置くには、頭の中の棚が足りない。

 

 階段を降りると、さらに足りなくなった。

 

 地下なのに、空気が重くない。食品の匂いはある。香辛料、焼き物、乾いた果物、粉、油。それなのに、悪い匂いが籠っていない。湿気が肌にまとわりつかない。暑くも寒くもない。

 

 澪は通路の途中で、思わず上を見た。

 

「……エアコン、効いてますよね」

 

「効いている」

 

 真壁は当然のように答える。

 

 リュシアが澪を見る。

 

「エアコンって何だい」

 

「空気を涼しくしたり、湿気を取ったりする機械です。ええと、暑すぎず、じめじめしすぎないようにする……」

 

 説明しながら、澪は自分が何を説明しているのか分からなくなってきた。異世界の地下食品街で、空調の説明をしている。しかもBGMはギターソロのボサノバだ。

 

 リュシアは通路を歩いた。彼女の視線は、音楽そのものではなく、音楽を聞いた客の足の速度を見ている。通路の幅、棚の距離、匂いの強さ、店の入口の明るさ。商人の目だった。

 

「地下に食品街って聞いた時は、湿っぽい穴蔵を想像したんだけどね」

 

 リュシアは棚の前で止まる。

 

「これは穴蔵じゃない。客を歩かせる売り場だよ」

 

 澪は、その言葉で少しだけ落ち着いた。

 

 現代の地下街に似ていると思いかけた。けれど、並んでいるのは現代の店ではない。籠、木箱、香辛料、粉、干物、焼き菓子、店主の手。ここは、この町の商人たちの売り場だ。真壁の技術で整えられているが、売るのはこの人たちなのだ。

 

 セルマが吹き出し口の近くに立ち、空気を嗅いだ。

 

「この湿度なら、乾燥物が傷みにくいわね」

 

「食品街用に調整している。工房は別設定だ」

 

「別設定?」

 

「薬草と食品を同じ空気にするな」

 

「そこは分かってるわよ」

 

 澪は、真壁の横顔を見た。

 

 表情はいつもと大きく変わらない。だが、照明の角度を少し直し、音量を一段下げ、吹き出し口の向きを微調整する手が、明らかに楽しそうだった。

 

「真壁さん、楽しんでますよね」

 

「内装は重要だ」

 

 否定しない。

 

 澪は小さく息を吐いた。

 

 リュシアが口元を曲げる。

 

「悔しいけど、悪くないね。客が急いで出ていかない」

 

「評価するんですか」

 

「商売の邪魔をしないなら評価するよ」

 

 ボサノバが、食品街の通路を柔らかく流れていた。

 

 

 

 

 

 食品街の入口近くで、真壁は1本の鍵を出した。

 

 リュシアは最初、自分へ向けられているとは思わなかった。店主たちの鍵はすでに渡された。住居の鍵も渡された。ならば残るのは設備か予備かと思ったが、真壁の視線はまっすぐリュシアに向いている。

 

「食品街の営業鍵だ」

 

「……あたしに?」

 

「商いの場だ。君が見る」

 

 リュシアは鍵を受け取る前に、食品街を振り返った。

 

 明るい通路。匂いが混ざりすぎない棚。空調。音楽。袋詰めされた商品。戸惑いながらも商品を並べ直している店主たち。これはきれいな地下室ではない。今日から人が来て、歩き、選び、迷い、買い、揉める場所だ。

 

 鍵1本で済む話ではない。

 

 開ける時間。閉める時間。店同士の並び。匂いの強い商品をどこまで出すか。客が詰まる場所。価格の張り方。衛生。店主同士の不満。売れすぎる店と、見られない店。

 

 鍵の重さが、金属以上になる。

 

「ずいぶん重いものを渡すね」

 

「軽くはない」

 

 澪は、リュシアの指が鍵を受け取る瞬間に少し止まったのを見た。

 

 本当に、鍵というのは不思議だ。小さな道具なのに、渡された瞬間に、場所と責任が一緒についてくる。

 

「設備はヴァルト、警備はレオンハルト。食品街の営業は君だ」

 

「開けるだけなら簡単だよ」

 

 リュシアは鍵を握った。

 

「閉める時に揉めるのさ」

 

「だから君だ」

 

 真壁は短く言う。

 

 リュシアは一瞬だけ眉を上げた。褒め言葉に聞こえなくもない。だが、真壁の場合は適任判断に近い。そこが腹立たしいような、商人としては納得せざるを得ないような顔だった。

 

「分かった。食品街はあたしが見る」

 

 ヴァルトは、その横で自分の鍵束を見た。

 

 食品街はリュシア。

 

 各店は商店主。

 

 住居は家族。

 

 設備と通常予備鍵は自分。

 

 地下の閉じた部屋は、自分でも奥へは入らない。

 

 鍵が配られるたびに、建物の中の線が見えやすくなっていく。

 

 

 

 

 

 レオンハルトが来た時、日差しは少し傾いていた。

 

 共同商館の外壁には、まだ新しい石と木の匂いがある。屋上では風力発電の羽根がゆっくり動き、太陽光パネルが夕方前の光を受けている。地下からは、例のギターの音がかすかに漏れていた。

 

 レオンハルトは建物を見上げた。

 

 驚いた顔ではない。少なくとも、驚きは顔に出さない。彼の視線はすぐに入口へ移り、次に食品街へ降りる階段、荷物搬入口、住居入口、周囲の通りへ流れた。

 

 華やかさではなく、人が揉める場所を見ている。

 

「詰所はどこだ?」

 

 最初の言葉がそれだった。

 

 真壁は待っていたように歩き出す。

 

「1F西側。入口、食品街階段、荷の線が見える」

 

「あるのか」

 

「人が集まる。揉める。要る」

 

 レオンハルトは、短く鼻を鳴らした。納得なのか呆れなのか、ヴァルトには判断しきれない。

 

 1F西側の戸を開けると、新しい木と金具の匂いがした。中には机、椅子、仮眠用の長椅子、鍵付きの書類棚がある。壁には各階の図面。商店主一覧、住居家族一覧、防水シャッター操作一覧。非常灯、救急箱、落とし物箱。奥には短時間留め置くための小部屋があった。

 

 鍵箱もあったが、中は空に近い。

 

 真壁は箱を開け、レオンハルトに見せた。

 

「詰所用は非常時の封印鍵のみ。通常予備鍵はヴァルト。設備中枢の鍵はここに置かぬ」

 

 レオンハルトの目が、そこで止まった。

 

「分けているな」

 

「混ぜるな」

 

「いいだろう」

 

 レオンハルトは奥の小部屋へ視線を移す。

 

「留め置き室まであるのか」

 

「揉める」

 

「分かっているならよい」

 

 レオンハルトは窓へ寄った。入口が見える。食品街階段も見える。荷物搬入口も斜めに入る。住居入口には近すぎない。揉め事を外へ出す動線もある。

 

 警備の目で、部屋を測っている。

 

「警備の配置はこちらで決める」

 

「そのための部屋だ」

 

 真壁の返答に、レオンハルトは真壁を見た。

 

 押入商会が警備をするわけではない。真壁が治安を握るわけでもない。領主家側が仕事をする場所が、建物の中に用意されているだけだ。

 

 ヴァルトは、それを見てまた1つ線が引かれるのを感じた。

 

 リュシアは食品街。

 

 自分は保守と通常予備鍵。

 

 レオンハルトは警備。

 

 真壁は作る。だが、全部を持たない。

 

 レオンハルトは図面を1枚取り、詰所の机に置いた。

 

「夜間巡回の線は変える。食品街の閉店後、住居階へ無駄に入らせるな」

 

「よい」

 

「防水シャッターの閉鎖確認は、洪水の気配が出た時点でこちらも見る」

 

「よい」

 

「留め置き室は短時間だ。裁きはここでしない」

 

「当然だ」

 

 当然、と真壁は言った。

 

 その当然を聞いて、ヴァルトは少しだけ息を置いた。領主の仕事を商館が奪わない。警備の線は、ここで領主家に渡る。

 

 

 

 

 

 夕方の風が、共同商館の角を抜けた。

 

 屋上の羽根がゆっくり回る。太陽光パネルは斜めの光を受け、5Fの設備階は外からはほとんど目立たない。地下への階段からは、ギターソロのボサノバが小さく漏れている。食品街の空気は湿っておらず、上がってくる匂いも重くない。

 

 ヴァルトの手元で、予備鍵の束が小さく鳴った。

 

 建物は建った。

 

 だが、それだけではない。

 

 商店主たちは自分の店の鍵を持った。家族は住居の鍵を持った。リュシアは食品街の営業鍵を持った。レオンハルトは詰所を見た。セルマの工房には補助電源の線が通った。地下には入ってはいけない部屋があり、そこへ続く責任は自分の手元で止まっている。

 

 昨日、真壁は言った。

 

 この世界の何に責任を持つのか。

 

 ヴァルトは、鍵束の重さを手の中で確かめた。

 

 全部ではない。

 

 全部であってはならない。

 

 設備。保守。弟子。止められる範囲。知らせる相手。閉じる部屋。

 

 そのあたりまでが、自分の手の届く線なのだろう。

 

 澪は、4Fへ上がっていく家族の背中を見ていた。朝に消えた生活が、鍵と荷物と寝具になって戻っていく。現代側の大きな施設を連想しかけても、目の前の母親が鍵を握り、子どもが自分の箱を抱えて走りかけて叱られる姿を見ると、これはこの町の暮らしなのだと分かる。

 

「建物が建った、だけではないのですね」

 

 ヴァルトが言うと、真壁は案内板の角度を直しながら答えた。

 

「使う者が決まらねば、建物ではない」

 

 澪は、鍵を持つ人々を見た。

 

「鍵が配られて、やっと生活が戻るんですね」

 

「生活だけじゃないよ」

 

 リュシアは食品街の鍵を指で回さず、しっかり握っていた。

 

「明日から売らなきゃならない」

 

 セルマは、自分の工房の方を見る。

 

「うちの工房も、勝手に便利になってるしね」

 

 レオンハルトは詰所の戸を閉めた。

 

「勝手に揉め事が増えんことを祈る」

 

「詰所がある」

 

 真壁が言う。

 

「増える前提か」

 

「人が集まる」

 

 レオンハルトは何か言いかけ、やめた。否定できなかったのだろう。

 

 地下から流れるギターの音が、少しだけ大きかった。真壁は階段の横にある小さな操作部へ手を伸ばし、音量を一段下げる。次に照明の角度を少し直し、最後に吹き出し口の向きを確認した。

 

 澪とセルマとリュシアが、ほぼ同時に真壁を見る。

 

「楽しんでますよね」

 

 澪が言う。

 

「楽しんでるわね」

 

 セルマが続く。

 

「楽しんだね」

 

 リュシアが断定する。

 

 真壁は、少しだけ口元を緩めた。

 

「内装は重要だ」

 

 夕方の風が屋上の羽根をもう一度回した。

 

 ヴァルトの手の中で、鍵束が小さく鳴る。地下からは、音量を下げられたボサノバがまだ流れている。

 

 見えるものと、見えないもの。

 

 渡されたものと、閉じられたもの。

 

 その境目を抱えたまま、共同商館は静かに灯りを入れた。

 

 

 

 

 セルマは、自分の指先を見た。

 

 朝から見ていたのは、物が消える瞬間だけではなかった。

 混ぜないこと。

 戻す場所を決めること。

 誰のものかを間違えないこと。

 触ってよいものと、触ってはいけないものを分けること。

 

 薬草も、瓶も、商品も、家財も、土も、水も、結局そこは同じだった。

 

「……鑑定」

 

 セルマは小さく唱え、自分自身を見た。

 

----------------------------------

セルマ

状態:通常

 

芽生え:

収納

----------------------------------

 

 セルマは表示を見たまま、しばらく黙った。

 

「出たわ」

 

 澪が一歩近づく。

 

「収納ですか?」

 

「ええ。芽生え。まだ使えるほどじゃないけど」

 

 ヴァルトは、セルマの手元を見る。朝から彼女が追っていたのは収納の光ではなく、分け方だった。芽生えた理由は、そこにあるのだろうと思った。

 

 澪は、すぐには喜ばなかった。スキルが生えることと、それを使う責任は別だ。今日の真壁の作業を見ていれば、収納は便利な箱ではないと分かる。

 

「SP、ありますか」

 

「あるわ」

 

「振ればLv1まで届くと思います。ただ、使うのはセルマさんです。何を入れるか、何を入れないか、そこを決めてからの方がいいです」

 

 セルマは鼻で笑い、近くの棚から空の小瓶を1本取った。

 

「薬液入りから始めるほど馬鹿じゃないわよ」

 

 真壁が短く言う。

 

「よい」

 

 セルマは表示を見直し、SPを振った。

 

----------------------------------

セルマ

状態:通常

 

スキル:

収納:1

----------------------------------

 

 空瓶が、セルマの手の中から消えた。

 

 澪は息を止めかけた。瓶が戻るまでの一瞬が、思ったより長く感じる。空瓶だと分かっていても、割れた音がしないか耳が先に待ってしまう。

 

 次の瞬間、同じ手の上に瓶が戻った。

 

 割れていない。

 欠けていない。

 中に何も混ざっていない。

 

 セルマは瓶を光にかざし、口元を少しだけ緩めた。

 

「……戻ったわ」

 

 真壁は頷いた。

 

「戻せぬ収納は事故だ」

 

「分かってるわよ。今日、散々見たもの」

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