押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第207話 共同商館、開く

 

 朝の光は、昨日まで土埃をかぶっていた広場の石を、妙に新しいもののように見せていた。

 

 共同商館の前には、いつもより早く人が集まっていた。まだ店の戸が全部開ききっていないのに、通りの端では籠を抱えた女が背伸びをし、石職人らしい男が粉の残った袖を払わずに入口を眺め、子どもが親の手を引いて階段の方を指している。

 

 昨日までここは、工事の音がする場所だった。

 

 金属が鳴り、石粉が舞い、真壁が何かを出しては消し、ヴァルトが目を細め、澪が何度も「そこ、本当に大丈夫なんですか」と言いそうになって飲み込んだ場所である。

 

 それが一晩明けると、店になっていた。

 

 澪は共同商館の入口脇に立ち、石の床に残る薄い粉を見下ろした。誰かが朝一番に掃いたらしく、白い粉は隅へ寄せられている。けれど完全には消えていない。床の端、扉の金具の下、段差の陰に、昨日の作業の名残がまだある。

 

 それがかえって、澪には現実味を持たせていた。

 

 夢みたいに建った建物でも、朝になれば誰かが掃く。誰かが戸を開け、誰かが棚を直し、誰かが子どもに「走るな」と言う。建物は完成した瞬間に終わるのではなく、使い始めた瞬間から別の仕事が始まる。

 

 1Fの商店では、商店家族がそれぞれの戸を開けていた。布を掛けた棚から商品が出され、木箱の蓋が開き、奥の方では湯気の立つ椀を急いで片づける手が見えた。店の前に並ぶ品物の後ろに、暮らしがある。澪はそれを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

 店だけ戻しても、生活は戻らない。

 

 昨日、真壁が言った言葉が、朝の匂いの中で形になっている。焼いた粉の匂い、油の匂い、布の湿った匂い、子どもの髪に残る石鹸の匂い。どれも、設計図には書かれていなかったものだ。

 

 地下食品街へ降りる入口では、リュシアが鍵束を手にしていた。

 

 鍵は小さい。金属の輪に通されたそれは、見た目だけなら澪の家の自転車の鍵より頼りない。だが、リュシアはそれを指に引っかけたまま、入口の幅、階段の角、通路の奥に立つ店員、客が止まりそうな位置を順に見ていた。

 

 その目は、店先で客に笑いかける時の目ではない。

 

 澪が近づくと、リュシアは鍵を鳴らさないように握り込んだ。

 

「今日は、売る日じゃないんですか」

 

 澪がそう聞くと、リュシアは入口から視線を外さずに笑った。

 

「売る日だよ。でも、全部を売る日じゃない」

 

「全部?」

 

「珍しいものは一度売れる。続くかどうかは、客が2度目に来るかで決まる」

 

 リュシアはそう言って、地下から上がってくる空気を確かめるように鼻を動かした。地下食品街には、昨日試した調理の匂いがわずかに残っている。パンに似た香り、焼き油、肉汁、そしてまだ売り場には出していない味噌と醤油の気配が、奥の方で低く沈んでいた。

 

「味噌と醤油は、今日は出さないんですね」

 

「匂いだけだね。使い方を知らないものを売ると、台所で困る。困った客は戻ってこない」

 

 リュシアは鍵を差し込み、まだ回さずに指を止めた。

 

「売る前に、客の足を見る。どこで止まるか、どこで迷うか、何を聞くか。それを見ないで棚に並べると、商品が悪くなくても売り場が負ける」

 

 澪は、リュシアの横顔を見た。

 

 昨日まで、鍵はただの鍵に見えていた。だが今、リュシアの手の中にあるそれは、店を開ける道具ではなく、人を入れる責任に見えた。鍵を回せば人が入る。人が入れば、転ぶ人も、迷う人も、欲しがる人も、買わない人も出る。

 

 澪は小さく息を吸った。

 

「鍵って、重いんですね」

 

「金属としては軽いよ」

 

 リュシアはそこでようやく澪を見て、少しだけ口の端を上げた。

 

「開けると重くなる」

 

 その言い方が妙に商人らしくて、澪は返事に困った。現代側なら、鍵の重さはグラムで測れる。けれど、リュシアが言う重さは秤に載らない。客の数、店員の手、食材の回り方、次の日の評判。そういうものが、鍵の先にぶら下がっている。

 

 リュシアが鍵を回すと、地下食品街への扉が音を立てて開いた。

 

 待っていた客たちが一斉に前へ出かけ、すぐに足を止めた。地下へ降りる涼しい空気が、朝の広場へ流れ出たからだ。夏の石畳に立っていた人々の間に、驚きの沈黙が落ちる。涼しい、という言葉が誰かの口から出る前に、子どもが親の袖を引いた。

 

「下、寒いのか」

 

「寒くはないよ」

 

 リュシアは商人の顔で答えた。

 

「食べ物が悪くなりにくい温度にしてあるだけさ」

 

 澪は、心の中で「だけ、ではないです」とつぶやいた。けれど声にはしなかった。ここで驚く役は客であって、自分ではない。たぶん。

 

 たぶん、という言葉が頭の中に残ったまま、澪は涼しい空気に頬を撫でられた。

 

 

 

 

 

 2Fのヴァルト拠点は、開店直後のざわめきから半歩だけ離れたところにあった。

 

 窓を開けると通りの声は聞こえるが、店先の匂いは届きにくい。机の上には帳面が置かれ、壁際には予備鍵を納めた箱、封をした札、設備の状態を見るための小さな表示板が並んでいる。ヴァルトはそれらを一つずつ見比べていた。

 

 以前の彼なら、こういう部屋を「逃げ場」と見ただろう。安全な場所、情報を隠す場所、魔術院の癖で言えば、境界の内側。

 

 だが今は違う。

 

 この部屋は、逃げるための部屋ではない。戻すための部屋だ。

 

 どこから誰が来ても、まずここで足を止める。客の前に出さない。住居に踏み込ませない。詰所に知らせる。必要なら食品街へ案内する。必要でなければ、階段を下ろさず帰す。

 

 ヴァルトは床の中央に目を落とした。人が立つには十分だが、物を置けば狭くなる。彼は椅子を半歩分壁へ寄せ、帳面の位置を机の端から中央へ戻した。開いたままの帳面が侯爵の足元に落ちるなど、考えるだけで胃が痛い。

 

 扉が開き、真壁が入ってきた。

 

 真壁は部屋へ入ると、挨拶より先に床を見た。机、窓、扉、階段へ出る導線。視線が部屋の中を短く走り、ヴァルトが動かした椅子で止まる。

 

「椅子を寄せましたか」

 

「はい。中央を空けました」

 

「よろしい」

 

 それだけ言って、真壁は床へ小さな金属板を置いた。金属板は薄いが、置かれた瞬間、ヴァルトの肌に、境界が張り直されるような感覚が走った。魔術院で扱った転移標とは違う。だが、場所が場所として固定されるあの感覚だけは、どの術式でも似ている。

 

 澪が扉のところで立ち止まった。

 

「ここで何をするんですか」

 

「戻り先を変えます」

 

 真壁は床へ視線を落としたまま答えた。

 

「ヴァルト君。この部屋を戻り先にします」

 

「転移の登録拠点を、こちらへ」

 

「はい。共同商館へ人を迎えるなら、客の前に出してはいけません」

 

 ヴァルトは背筋を伸ばした。

 

 その言葉の重さは、部屋の床面積より大きかった。真壁は便利だからこの部屋を選んだのではない。ここに出せば客を驚かせず、住む者の生活を乱さず、管理する者が受けられる。つまり、ヴァルトが受ける。

 

「承知しました。床を空け、通路を確保します」

 

「戻る人数が増えます。侯爵閣下と家令殿を想定しなさい」

 

 澪が息を止めた音が聞こえた。

 

「想定が重いです」

 

「軽い転移先では困ります」

 

 真壁は淡々と答えながら、金属板の位置を爪先でわずかに動かした。ほんの数寸。だが、その数寸で、転移してきた者の向きが扉ではなく壁側へわずかに振られる。入ってすぐ歩き出さないための角度だと、ヴァルトには分かった。

 

 真壁は、話しながらもう整えている。

 

 ヴァルトは、胸の奥に浮いた緊張を押さえ込んだ。以前なら、侯爵を迎えるなどと言われれば、まず失敗しない魔術を考えただろう。今は違う。床を空ける。扉の前に人を立たせない。階段へ降りる順番を決める。店先へ直接出さない。そういう現場の手順が、魔術より先に頭へ来る。

 

 真壁がこちらを見た。

 

「ヴァルト君」

 

「はい」

 

「君の部屋ではない。共同商館の口です」

 

 一瞬、返事が遅れた。

 

 自分の拠点だと思っていた場所が、真壁の言葉で別のものに変わった。部屋ではない。口。人を迎え、通し、止めるところ。

 

「承知しました。口なら、噛まぬようにいたします」

 

 言ってから、ヴァルトは自分で少し後悔した。妙な言い回しになった。だが澪が小さく吹き出し、真壁が金属板から視線を外さないまま「それでよい」と言ったので、後悔は半分だけで済んだ。

 

 

 

 

 

 領主一家が共同商館に着いた時、広場のざわめきは一段低くなった。

 

 客たちは道を開ける。だが、完全には止まらない。レオンハルトが詰所側から目で合図を出し、警備の者が人を片側へ寄せるだけに留めているからだ。店は開いたばかりで、人の動きを止めれば客も店も硬くなる。

 

 アルベルトは入口で足を止め、広場から商館全体を見上げた。澪には、その視線が建物の高さではなく、人の動きを追っているように見えた。誰がどこで止まり、どの戸口が混むか。領主家の目は、驚きより先に治安と暮らしを拾う。

 

 セレスティナは階段の幅に目を留め、手すりへ指を触れた。石の冷たさと、木部の角の丸さを確かめている。エレナは一歩先に出かけて、入口の内側をのぞき込んだ。

 

「昨日まで、ここはなかった」

 

 エレナが言った。

 

「はい。昨日は、まだ工事でした」

 

 澪が答えると、エレナは眉を寄せて入口と空を見比べた。

 

「今日は店か」

 

「はい。……たぶん、私もまだ少し追いついてません」

 

 エレナは澪を見た。

 

「澪でもか」

 

「はい。私でも、です」

 

 そう言うと、エレナは少し納得したように頷いた。なぜそこで納得されたのか、澪には分からない。分からないが、エレナの中では「澪が追いつかないなら仕方ない」に分類されたらしい。あまり名誉ではない気がした。

 

 アルベルトが1Fの店を見た。

 

「店の奥に、家族の気配があるな」

 

 棚の向こうで、誰かが子どもに布巾を渡している。別の店では、老婆が戸口に座り、客の足元ではなく、店主の手元を見ていた。住む者がいる店の空気は、ただ並べた商品だけの場所とは違う。

 

 ヴァルトが一歩前へ出た。

 

「住居を分けております。店だけ戻しても、生活は戻りません」

 

 セレスティナが奥へ続く通路と客用の通路を見比べる。

 

「客の線と暮らしの線を分けたのですね」

 

「はい。混ざると、どちらも疲れます」

 

 ヴァルトの答えに、澪は目を上げた。

 

 以前のヴァルトなら、結界や境界の話に寄せたかもしれない。だが今は、疲れる、という言葉を使った。生活する人と買いに来る人が、互いに削られないための分け方。魔術ではなく暮らしの言葉で説明している。

 

 それが、澪には少しうれしかった。

 

 エレナは店先で売られている布袋を手に取ろうとして、店の子に「そちらは見本です」と言われ、素直に手を戻した。

 

「分かった」

 

 短い返事だったが、店の子は驚いて固まった。姫に注意してしまった、と気づいたのだろう。澪がどうフォローしようか迷ったところで、エレナは別の見本を指差した。

 

「こっちは触ってよいのか」

 

「は、はい」

 

「なら、こっちを見る」

 

 店の子の肩から力が抜ける。澪も同時に息を吐いた。エレナは好奇心が強いが、注意されると分ける。そこが、見ている側の心臓には時々悪い。

 

 その時、エレナがふと思い出したように真壁の方を向いた。

 

「真壁殿。父から手紙が来た」

 

 空気が少し変わった。

 

 真壁は棚の角を見ていた視線を、エレナの手元へ移した。

 

「拝見します」

 

 エレナが懐から折り畳んだ手紙を出す。紙は上等で、封はきちんと切られていた。だが、何度か読み返したのか、折り目の端が少し柔らかくなっている。

 

「共同商館を見たいらしい。かなり嘆いている」

 

「嘆いている……」

 

 澪は思わず繰り返した。

 

「嘆いている。字が多い」

 

 エレナの説明は、非常に分かりやすく、そして身も蓋もなかった。

 

 真壁は手紙へ目を通した。澪は、その指が紙の中ほどで一度だけ止まるのを見た。長い文面のどこで止まったのかは分からない。けれど、次の瞬間、真壁が小さく息を置いた。

 

「ふむ」

 

 澪の背中に、昨日の工事の音が戻ってきた気がした。

 

 真壁の「ふむ」は、ただの相槌ではない。何かを測り、切り、次の作業へ移る時の音である。

 

「今の『ふむ』、何か決めましたよね」

 

「王都へ参ります」

 

 やはり、と思った。やはりなのに、澪は少しだけ肩を落とした。共同商館が開いた朝に、王都が出てくる。真壁の行動範囲は、いつも人の予定表より広い。

 

 リュシアが食品街の入口から戻ってきたところで、目を細めた。

 

「今ですか」

 

「はい。開いた日の乱れは、後日では見えません」

 

 アルベルトが手紙と真壁を見比べた。

 

「父を迎えに行くつもりか」

 

「はい。共同商館の件で、お伺いします」

 

 真壁の声は短いが、雑ではなかった。澪はそこに少し安心する。侯爵相手に真壁が真壁の速度のまま突っ込むと、周囲の心臓が足りない。

 

 エレナは手紙を真壁に渡したまま、妙に真剣な顔をした。

 

「父は来る」

 

 その断定に、澪は目を瞬いた。

 

「そうなんですか」

 

「来る。字が多い時は、もう決めている」

 

 貴族の家族情報としては妙に実用的だった。

 

 

 

 

 

 ヴァルト拠点へ戻ると、真壁は床に置いた金属板の前で手を止めた。

 

 窓の外からは、広場のざわめきが聞こえる。地下食品街に降りた客が上げる短い声、石畳を踏む靴音、店先で値を聞く声。その一つ一つが、ここを客の前ではなく管理側に置く理由になっていた。

 

 真壁は手紙を畳み、机の端へ置いた。

 

「ここを登録します」

 

「はい」

 

 ヴァルトは床を見た。中央は空いている。扉は開けてある。階段へ向かう道に物はない。予備鍵の箱は布で覆い、帳面は閉じた。侯爵が転移してきた時、最初に目に入るものは壁と机とヴァルトであり、鍵箱ではない。

 

 澪は扉の脇に立ち、自分の手が落ち着かず袖を掴んでいることに気づいた。転移は何度も経験している。けれど、登録拠点を変える瞬間は、場所の意味が変わる瞬間でもある。大学の教室に突然、駅の改札が置かれるようなものだと思いかけて、少し違うと首を振った。駅の改札なら誰でも通る。ここは、通す相手を選ぶ口だ。

 

 真壁が床へ指を向けた。

 

「戻る人数が増えます。侯爵閣下と家令殿を想定しなさい」

 

「承知しました」

 

 ヴァルトは即答したが、喉の奥が乾いた。侯爵と家令。王都の重さそのものが、この床へ降りる。だがその重さを店先へ落とさないために、ここがある。

 

 真壁は金属板へ触れた。光は出ない。大げさな音もない。ただ、澪の足元で空気がほんの少し締まった。部屋が、昨日までの部屋ではなくなったように感じる。

 

 真壁が立ち上がる。

 

「王都へ参ります」

 

 澪は、何か言うべきか迷った。気をつけてください、はたぶん言うまでもない。早く戻ってきてください、は言っても無駄だ。真壁は必要な時に戻る。

 

 迷った末に、澪は小さく頭を下げた。

 

「お願いします」

 

 真壁は短く頷き、姿を消した。

 

 転移の後に残った空気は、思ったより静かだった。だが、澪の耳には階下のざわめきが急に大きく聞こえた。真壁がいなくなっても、共同商館は開いている。客は待たない。店は止まらない。

 

 ヴァルトが机の位置をもう一度直した。

 

 澪はその手つきを見て、少しだけ息を整えた。真壁がいない間、ここを受けるのはヴァルトだ。さっきまでの緊張は、もう彼の手の中で作業に変わっている。

 

 

 

 

 

 王都側の屋敷は、共同商館の朝とは空気が違っていた。

 

 石畳はよく磨かれ、廊下には余計な埃がない。窓から入る光さえ、どこか礼儀正しく床へ落ちている。真壁が登録済みの安全な場所へ転移すると、近くに控えていた使用人が一瞬だけ目を見開き、すぐに頭を下げた。

 

 少なくとも、この場の使用人は驚きを声に出さなかった。

 

 案内を待つまでもなく、家令が現れた。年を重ねた顔に、余計な動きがない。真壁を見ても、来る可能性があったものが来た、という程度の反応だった。

 

「真壁殿。旦那様がお待ちです」

 

「お手数をおかけします」

 

 真壁は短く頭を下げた。

 

 通された部屋で、王都の宰相クラウスは書類から顔を上げた。机にはいくつもの封書が重なっている。真壁はその山へ目を向けすぎないようにした。

 

 侯爵の顔に、年齢に似合わない明るさが差した。

 

「おお、真壁殿。突然どういたした」

 

「共同商館の件で参りました。こちらの手紙をアルベルト殿が気にかけておられました。お迎えに上がりました」

 

 侯爵は一瞬だけ黙り、それから手元の書類を伏せた。

 

「迎えに来たか」

 

「はい。本日より開いております。今なら、客の入りと店の動きを実地でご覧いただけます」

 

 真壁は、それ以上のことを言わなかった。見せる場所と見せない場所を分ける、などとは口にしない。言葉に出せば制限になる。現場では、順路として整えればよい。

 

 侯爵は家令を見た。

 

「家令」

 

「支度は整っております」

 

「早いな」

 

「旦那様が手紙を書かれた時点で、こうなる可能性はございました」

 

 侯爵は少しだけ咳払いをした。真壁は表情を変えなかったが、家令の手元にすでに外出用の上着が用意されているのを見て、この屋敷では主人が手紙を書いた時点で次の支度まで進んでいるらしい、と受け止めた。

 

「真壁殿」

 

「はい」

 

「どの程度、驚けばよい」

 

 侯爵の問いは冗談めいていたが、目は笑っていなかった。

 

 真壁は返答をわずかに選んだ。

 

「昨日までなかった建物が、2つあります」

 

 侯爵は伏せた書類の上に指を置いたまま止まった。

 

「……2つか」

 

「はい」

 

「それは、驚く前に確かめるべきことだな」

 

 家令が静かに上着を差し出した。

 

「旦那様、驚かれるのは現地でお願いいたします」

 

「分かっている」

 

 侯爵は立ち上がった。分かっていると言う声には、分かっていてもたぶん驚く、という響きが混じっていた。

 

 

 

 

 

 ヴァルト拠点の空気が、わずかに重くなった。

 

 澪は扉の脇でそれに気づき、背筋を伸ばした。次の瞬間、床の中央に真壁が現れ、その隣に侯爵、さらに半歩後ろに家令が立っていた。

 

 本当にお迎えしてきた。

 

 澪は心の中でそう言い、すぐに「お迎えしてきた」でも自分の内心としては変に丁寧すぎると思った。頭の中で敬語を修正している場合ではないのに、そうしないと口から変な言葉が出そうだった。

 

 ヴァルトは一歩前へ出て、深く礼をした。

 

「お越しいただき、ありがとうございます」

 

 侯爵は部屋の中を見回した。窓、机、床、扉、階段へ続く位置。驚くより先に、ここが客前でないことを見ている。

 

「ここが共同商館か」

 

「2Fの管理拠点でございます。こちらから階段で下へご案内します」

 

 家令の視線が床から扉へ、扉から廊下へ動いた。

 

「客前ではなく、管理側へ戻したのですな」

 

「はい。開店中の店先へ出ますと、人の流れを乱します」

 

 ヴァルトの声は丁寧で、少し硬い。だが震えてはいない。澪はその横顔を見て、胸の中で小さく頷いた。ヴァルトは今、真壁の補助ではなく、この部屋の管理者として話している。

 

 侯爵がヴァルトへ目を戻した。

 

「そなたが、ここを受けるのか」

 

「はい。拠点としてお預かりしております」

 

「預かる、か」

 

 侯爵はその言葉を舌の上で確かめるように繰り返し、短く頷いた。

 

 階段へ向かうと、下から人の声が上がってきた。店先の声とは違う。もっと近く、もっと生活に寄った音。子どもが何かを落とし、大人が小さく叱り、戸が閉まる。

 

 侯爵が階段の途中で足を止めた。

 

「……子どもの声がするな」

 

 ヴァルトも足を止める。

 

「商店家族の住居がございます」

 

「商館に、家族を入れたのか」

 

 真壁が半歩後ろで答えた。

 

「店だけ戻しても、生活は戻りません」

 

 侯爵は階段の手すりへ手を置いた。手すりはまだ新しく、木の香りがわずかに残っている。下から上がる料理の匂いと混じり、建物がすでに人のものになり始めていることを知らせていた。

 

 家令は階段の幅と踊り場を見た。

 

「住居と客の通路は分けてありますな」

 

「はい。混ざれば、客も住む者も落ち着きません」

 

 ヴァルトが答えると、侯爵は階段の下を見たまま、低く息を吐いた。

 

「店を建てたのではなく、暮らしごと入れたか」

 

 澪はその言葉を聞き、さっき入口で感じたことが侯爵にも届いたのだと思った。暮らしごと入れる。それは優しいようで、責任が重い。失敗すれば店だけではなく、家族の寝る場所まで揺れる。

 

 階段を降りると、1Fの空気はさらに濃くなった。客の足音、商品を包む紙の音、地下から上がる冷えた空気、石材の粉っぽい匂い。侯爵一行が通ると、商店の者たちが礼をしようとするが、レオンハルトが視線で店を続けるよう促した。

 

 侯爵はそれを見て、わずかに目を細めた。

 

 見られているのは建物だけではない。人の扱いもだ。

 

 

 

 

 

 外へ出た侯爵は、そこで初めて全体を見た。

 

 共同商館は朝の光を受け、石と木と金属の線をはっきり浮かび上がらせている。その横に、もう1つ、セルマ工房ビルが立っていた。少し離れているが、明らかに同じ日に同じ思想で建てられたものだと分かる。通りを挟む風が2つの建物の間で向きを変え、まだ新しい壁の匂いを運んでくる。

 

 侯爵は、首だけでは足りず、半歩下がって見上げた。

 

「……2つ、建っているのか」

 

「はい」

 

「昨日まで、なかったのだな」

 

「はい」

 

 真壁の返事は短い。だが澪には、侯爵が同じことを確かめた理由がよく分かった。普通は確かめる。むしろ、確かめない方がおかしい。昨日までなかった大きな建物が2つ並んでいて、人がもう使っているのだ。

 

 エレナなら「昨日までなかった」と言う。侯爵は「昨日までなかったのだな」と確かめる。澪はその違いを、親子の違いというより、立場の違いとして見た。

 

 セルマ工房ビルの前で、真壁が足を止めた。

 

「こちらが、セルマ殿の新しい工房です」

 

 扉の前にいたセルマが、手にしていた瓶を棚へ戻し、こちらへ向き直った。白い布で覆った作業机の向こうから、薬草の匂いが流れてくる。苦い匂い、乾いた葉の匂い、瓶の中に閉じ込められた湿り気。

 

 侯爵はセルマを見ると、すぐに表情を改めた。

 

「セルマ殿。王都で証言を聞いて以来だな」

 

「はい、閣下。その節は、工房の話をお聞きいただきました」

 

 澪は、セルマが初めて名乗らなかったことに、少し遅れて気づいた。そうだ。セルマは侯爵と面識がある。王都で、自分の工房や弟子のことを語った人だ。ここで初対面のように紹介する方がおかしい。

 

 侯爵は工房の入口から中をのぞいた。棚は食品街より細かく分かれ、瓶には札が付いている。澪には読めない字もあるが、セルマの手元なら意味を持つのだろう。薬品の棚は、食べ物の棚とは空気が違う。客の手が勝手に伸びないよう、ほんの少し距離がある。

 

「今度は、工房そのものを見ることになるか」

 

「はい。薬品、保存、弟子の作業場を分けております」

 

 家令が瓶棚と換気の窓を見比べた。

 

「食品街と薬品の空気は分けているのですな」

 

「はい。薬草と食べ物を同じ空気にしません。薬は、混ぜれば薬でなくなることがあります」

 

 セルマの声は丁寧だが、柔らかすぎない。澪はその声に安心した。貴族相手だからといって、薬の責任まで薄くしていない。

 

 侯爵が棚の前で足を止めた。

 

「薬品を売るには、客も選ぶか」

 

「はい。薬が先に客を選びます。合わないものは売れません」

 

 家令がわずかに眉を動かした。普通の商人なら、売れるものを売ると言うところだ。セルマは売れないものを先に言った。

 

 真壁は何も足さなかった。

 

 澪は、その沈黙を見て、ここはセルマの場所なのだと分かった。真壁が建物を作っても、薬品の棚の前で責任を持つのはセルマだ。澪の鑑定でも、真壁の設備でも、その責任は代わらない。

 

 セルマは棚の上の瓶を一つだけ手に取り、侯爵へ見せる距離で止めた。

 

「これは売るものではありません。湿気を見ています。朝と昼で変わるなら、棚を動かします」

 

 侯爵は瓶の中身を見て、少しだけ口元を引いた。

 

「開店日の店先で、すでに失敗を探しているのか」

 

「失敗は、早く見つけた方が安く済みます」

 

 セルマの答えに、澪は思わず頷きかけた。言葉は厳しいのに、現場の人間としてはとても優しい。失敗を隠さない場所は、長く続く。

 

 

 

 

 

 食品街へ向かう途中で、真壁はリュシアを呼んだ。

 

 リュシアは地下入口の横で、店員に何かを指示していた。客が階段の途中で立ち止まりすぎないよう、試食を出す位置を半歩だけずらしている。細かい。だが、その半歩で人の詰まり方が変わる。

 

 侯爵がリュシアを見た時、その顔に「誰だ」という色はなかった。

 

 当然だ、と澪は思った。リュシア商会は今や侯爵領で一番勢いのある商会である。侯爵や家令が知らないはずがない。

 

「食品街は、リュシア商会長が見ています」

 

 真壁が言うと、侯爵はリュシアの持つ鍵束へ目を留めた。

 

「リュシア商会長が、食品街の鍵を持つか」

 

 リュシアは背筋を伸ばし、いつもの屋台での調子をきちんとしまい込んだ。

 

「はい。リュシア商会のリュシアでございます」

 

 家令が鍵束を見た。

 

「領内一番の商会が、開け閉めから見るわけですな」

 

「はい。鍵だけなら軽いのですが、開ければ客が入り、店員が動き、仕入れも要ります。そこから先が重くなります」

 

 その返答に、侯爵はわずかに目を細めた。

 

「食べ物を売るだけではない、と」

 

「はい。食べ物だけなら、屋台で足ります。ここでは、客がどこで止まり、どこで迷い、何を覚えて帰るかを見ます」

 

 澪は、リュシアの声がいつもより整っていることに気づいた。だが、弱くなったわけではない。言葉遣いが違うだけで、見ているものは同じだ。客の足、手、財布、2度目の来店。侯爵相手でも、リュシアは商人だった。

 

 侯爵が地下へ続く入口を見た。

 

「味噌と醤油は、まだ出しておらぬのか」

 

「本格販売はまだでございます。珍しいからと出せば売れますが、使い方が分からなければ一度で終わります」

 

 家令が頷く。

 

「料理人を育てる必要がある、と」

 

「はい。味を売る前に、使い道を売る必要がございます」

 

 澪はその言葉を聞いて、現代側のスーパーの棚を思い出した。調味料は並べるだけでは売れない。ラベル、レシピ、試食、誰かの家の台所で使われる場面。そういうものがなければ、珍しい瓶は珍しいまま埃をかぶる。

 

 リュシアはそれを、この世界の言葉で分かっている。

 

 エレナが地下へ降りる階段を見下ろした。

 

「涼しい」

 

「食品が傷みにくいようにしております」

 

 ヴァルトが答えると、エレナは階段に足を乗せた。

 

「人も傷みにくい」

 

 澪は返事に詰まった。たぶん間違ってはいない。夏の食品街で客が倒れにくいのは大事だ。ただ、その言い方は人を干物のように扱っている気がする。

 

 リュシアは一瞬だけ目を瞬き、それから丁寧に答えた。

 

「はい。人も長く歩けます」

 

 商会長は強かった。

 

 

 

 

 

 各商店を見て回る頃には、共同商館の中に侯爵一家がいるという緊張は、少しずつ別の熱に変わっていた。

 

 客たちは礼をしようとして足を止めかける。だが、警備が流れを止めず、リュシアが店員へ目で合図を送り、レオンハルトが詰所側から余計な人の膨らみを抑える。商店家族は緊張しながらも、店を閉めない。商品を包み、客の質問に答え、子どもに棚を拭かせる。

 

 澪は、それがありがたかった。

 

 領主家が来たからといって、店が止まってしまえば、開店日の姿は見えない。真壁が王都まで迎えに行った意味がなくなる。華やかさも、緊張も、客の迷いも、値を聞く声も、そのまま見てもらう必要がある。

 

 まず足を止めたのは、ネリスの山で採れたキノコの店だった。

 

 棚には生のものと干したものが分けて置かれ、札には用途が書かれている。香りの強いものは少し離し、煮込み向きのものは籠ごとに分けてある。近くに立つ店員は、客が勝手に混ぜないよう手元を見ていた。

 

 侯爵が干したキノコへ目を留めた。

 

「ネリスの山のものか」

 

 リュシアが答える。

 

「はい。香りのよいもの、干して使うもの、煮込み向きのものを分けております」

 

 セルマも棚の札を見て、短く補った。

 

「混ぜてはいけないものは、ここには出していません」

 

 エレナが籠へ顔を近づける。

 

「これは匂いが強い」

 

「煮込みに入れると、もっと強く出ます」

 

 リュシアの説明に、エレナは真剣な顔でキノコを見た。

 

「食べるものか」

 

「食べるものです。ただし、こちらの札のものだけです」

 

 セルマの声が入ると、エレナはすぐに頷いた。

 

「分かった」

 

 その素直さに、棚の向こうの店員が緊張で固まったまま頷き返す。澪は心の中で「頑張って」と言った。姫にキノコを説明する開店初日など、普通の商店経験には含まれない。

 

 次の薬品店では、空気が変わった。

 

 食品街のような賑やかな匂いはない。瓶の中身が見えるもの、見えないよう布で巻いたもの、乾燥させた葉、粉にした根。それらは手が届きそうで、勝手には届かない位置にある。

 

 家令が棚を見た。

 

「こちらは薬ですかな」

 

「薬品です。食品ではありません。買う方には、誰に使うかを聞きます」

 

 セルマは瓶を直しながら答えた。

 

 侯爵が問いを重ねる。

 

「客を選ぶか」

 

「はい。薬が先に客を選びます」

 

 澪はその言葉に、少しだけ背筋が伸びるのを感じた。薬は便利なものではない。合わなければ毒になる。孤児院の子どもたちのことを考えた時も、熱を下げることだけを見てはいけないと何度も思った。セルマが同じように、いや、もっと現場の匂いと失敗を知った言葉で線を引いている。

 

 真壁は棚の端に立ち、何も言わなかった。

 

 侯爵もそれに気づいたようだった。

 

「真壁殿は説明せぬのか」

 

「薬品はセルマ殿の領分です」

 

 短い返事だった。

 

 セルマは瓶を置く手を一度だけ止め、すぐに別の札を直した。照れたわけではない。喜んだわけでもない。ただ、自分の棚を自分で見た。それだけで、澪には十分だった。

 

 

 

 

 

 宝石店の前には、すでに人だかりができていた。

 

 光を受けたガーネットやジルコンが、小さな棚の上で赤や透明の影を落としている。原石のままのもの、磨いたもの、金具を付けた小物。そして、動物の形に削られた石が、布の上に並んでいた。

 

 ピナが店番をしていた。

 

 肩に力が入りすぎている。けれど、手はきちんと見本の位置を示している。触ってよいもの、触ってはいけないもの、値札を見るだけのもの。分け方は体で覚えたらしく、客の手が伸びる前に目が動く。

 

 エレナが足を止めた。

 

「これは石か」

 

 ピナは一度だけ喉を鳴らしたが、声は出た。

 

「はい。ガーネットです」

 

 エレナは赤い鳥の形をした小物を見た。小さな翼、丸い目、折れそうな足。石なのに、鳥の気配がある。

 

「鳥の形をしている」

 

「鳥です」

 

「石だろう」

 

「はい。石の鳥です」

 

 澪は、説明が間違っていないのに、なぜか妙に強いと思った。

 

 エレナが手を伸ばしかけると、ピナの顔が青くなりかけた。だが、そこで止まらない。

 

「姫様、そちらは展示です。触るならこちらの見本をお願いします」

 

 言えた。

 

 澪は胸の中で小さく拍手した。実際に拍手すると店が壊れるので我慢した。

 

 エレナは手を止め、ピナが示した見本を見る。

 

「分かった。次は壊さない」

 

 ピナの顔から、今度こそ血の気が引いた。次、とは何の次なのか。澪は聞かないことにした。アルベルトも聞かなかった。セレスティナだけが、ほんのわずかに目を伏せた。

 

 侯爵は石の鳥を近くで見た。

 

「石をここまで削るか」

 

 家令は展示台の脚と、見本の位置を見ている。

 

「展示と見本を分けております。盗難対策としても悪くございません」

 

「子どもが触るものと、売るものを分けた方が壊れにくいです」

 

 ピナが小さく付け加えた。

 

 家令がピナを見る。ピナは固まったが、家令は頷いただけだった。

 

「実に正しい」

 

 その一言で、ピナの肩が少しだけ下がる。澪はその様子を見て、元子どもたちが「手伝い」ではなく、店の一部になっていることを感じた。

 

 隣には、加工石材の小物が並んでいた。

 

 白皿丘や採石場の石を使った小皿、飾り板、文鎮、置物。端材らしい小さな石も、磨かれて台に載ると、ただの余り物ではなくなる。石粉の町で見慣れたはずの色が、布の上では違って見える。

 

 侯爵が一つの飾り板を手に取らず、目だけで見た。

 

「石場の石が、こうなるか」

 

「切り方と置き方で変わります」

 

 真壁が答える。

 

 家令は値札へ目を向けた。

 

「値を付ける者が要りますな」

 

 リュシアが横から答えた。

 

「はい。高すぎれば飾りにならず、安すぎれば職人が痩せます」

 

 侯爵はリュシアを見る。

 

「領内一番の商会長が、石の値まで見るか」

 

「売り場に置くなら、見ます。売れすぎても困りますし、売れなくても困ります」

 

 澪は「売れすぎても困る」という言葉に目を瞬いた。現代側なら、売れすぎるのは良いことだと思いがちだ。けれど、職人が追いつかず、石材の供給が乱れ、値が荒れれば、店は続かない。リュシアの頭の中では、棚の上の小皿が、職人の手と採石場の粉へつながっている。

 

 商売は、品物を置いて終わりではない。

 

 

 

 

 

 白皿丘の石英大玉は、店の奥で光を受けていた。

 

 大きな玉は、透明というより白く深い。光が表面で跳ねず、内側へ沈み、そこで柔らかく広がっている。周りの客は、近づくにつれて自然に声を落としていた。誰かが言ったわけではない。大玉の前では、大きな声を出す方が不自然に感じるのだ。

 

 トルが展示の前に立ち、客が近づきすぎないよう手を広げている。顔は真剣そのものだ。澪はその立ち方を見て、詰所の警備を見よう見まねしたのかもしれないと思った。

 

 エレナが大玉の前で足を止めた。

 

「これは大きい」

 

 ピナが横から説明する。

 

「白皿丘の石英です」

 

「売るのか」

 

 エレナが真壁を見た。

 

「展示です」

 

 真壁が答える。

 

「なぜ売らない」

 

 今度はリュシアが答えた。

 

「売ると、一度で終わります。置いておくと、人が何度も見に来ます」

 

 エレナは大玉を見直した。

 

「見に来るための石か」

 

「はい。買わなくても、見に来た人は他のものも見ます」

 

「なるほど」

 

 その納得が早すぎて、澪は少しだけ笑いそうになった。エレナは好奇心で動くが、理屈が通れば受け入れる。大玉は売る石ではなく、人を呼ぶ石。そう分けられたらしい。

 

 侯爵と家令も大玉の前へ進んだ。

 

 侯爵はしばらく黙って見ていた。家令は美しさより先に、台座と床の固定を見ている。澪はそれに気づき、心の中で「さすがです」と思った。美術品を見る時でも、家令は倒れた時のことを考えている。

 

「売れば高値がつくだろう」

 

 侯爵が言った。

 

「はい」

 

「売らぬのか」

 

「目玉を売れば、店が痩せます」

 

 真壁の返答は短かったが、リュシアが横で小さく息を吐いた。

 

「その通りでございます」

 

 悔しそうにも、納得しているようにも聞こえた。

 

 侯爵は大玉から視線を外さずに言った。

 

「建物を見に来たつもりだったが」

 

 家令が半歩後ろで答える。

 

「建物だけではございませんな」

 

 澪は、その言葉を聞いて、大玉の白い影が少し違って見えた。これは飾りではない。石場の資源、加工する手、売らない判断、客を呼ぶ仕掛け、警備、台座、値付け。いくつものものが、白い玉の中で重なっている。

 

 共同商館は、成功している。

 

 そう思った瞬間、澪の胸の奥に、小さな冷たさが生まれた。

 

 成功しているからこそ、危ないのではないか。

 

 

 

 

 

 ヴァルトが一歩前へ出たのは、その冷たさがまだ言葉になる前だった。

 

 彼は侯爵の前で深く頭を下げ、声を整えた。澪はその横顔を見た。さっきまで拠点の床を気にしていた顔ではない。元王都魔術院境界課の顔でもあり、今は共同商館の管理者の顔でもある。

 

「恐れながら、閣下。これは、今すぐ王都で再現できるものではございません」

 

 周囲の音が一段遠のいた気がした。

 

 大玉の前にいた客たちは、会話の内容までは分からない距離で足を止めている。リュシアが店員へ目で合図を送り、人の動きを少しずらした。レオンハルトも詰所側へ視線を送る。話す場所が、自然に狭くなった。

 

 侯爵はヴァルトを見た。

 

「なぜだ」

 

「技術が違いすぎます。建てる力だけでなく、保つ力、直す力、止める力、責任を分ける力が要ります」

 

 ヴァルトの声は丁寧だった。だが、そこに遠慮で薄めた感じはなかった。

 

 澪は、ヴァルトの手が軽く握られているのに気づいた。彼は緊張している。それでも言う。真壁が作ったものを褒めるためではなく、壊さないために。

 

「真壁殿は、この世界から見れば200年は先の技術を使う方です。王都で同じものを求めれば、建物より先に人と家が壊れます」

 

 侯爵の表情から、見物の色が消えた。

 

「多くの家が滅ぶ、か」

 

「はい。商家だけではございません。貴族家も含みます」

 

 澪は喉の奥が詰まるのを感じた。

 

 華やかな店、涼しい食品街、きれいな石英大玉。数分前まで、それらは成功に見えていた。いや、成功ではある。けれど成功は、周りを押しのける力も持つ。王都で同じものを欲しがる者が出れば、誰が建てるのか。誰が保つのか。誰が失敗の責任を取るのか。真似できない者はどうなるのか。

 

 澪の頭の中で、大学の発表で使った「市場」という言葉が浮かび、すぐに消えた。ここでは市場という言葉だけでは足りない。家がある。爵位がある。職人の飯がある。弟子の寝床がある。

 

 ヴァルトは続けた。

 

「すでに、家具、石材、食品、薬品、流通、警備、住居の形に影響が出ております。ただ、侯爵領内に絞られているため、線を追うことができます」

 

 侯爵が問う。

 

「王都では追えぬか」

 

「王都は、町ひとつではございません。線が多すぎます」

 

 線。

 

 澪はその言葉に、真壁がヴァルトへ言った言葉を思い出した。自分が何に責任を持つのか。線を引け、と。

 

 その線が、今、大玉の前で侯爵へ渡されている。

 

 侯爵は真壁へ視線を移した。

 

「真壁殿も同じ考えか」

 

「はい。今の王都には早すぎます」

 

 真壁はそれだけ言った。

 

 長く説明しない。自分がどれほど先の技術を持っているかも語らない。ただ、ヴァルトの見立てを認める。それで十分だった。

 

 家令が低く言った。

 

「建てることより、建った後が問題になりますな」

 

「はい」

 

 ヴァルトは頷いた。

 

「誰かが形だけを真似ます。保守できぬ者が請け、理解せぬ者が使い、利益を失う者が奪おうとします。事故が起きれば、責任は建てた者だけでは済みません」

 

 言葉は重い。けれど、澪には脅しには聞こえなかった。ヴァルトは怖がらせたいのではない。見えている危険を、そのまま床に置いている。

 

 侯爵は石英大玉へ目を戻した。

 

 白い光は変わらない。客はまだそれを美しいと思って見ている。だからこそ、侯爵の沈黙が重かった。

 

 

 

 

 

 侯爵はしばらく大玉を見ていた。

 

 その間、共同商館の音は止まらなかった。地下食品街からは明るい弦の音が上がってくる。客が階段を降り、誰かがキノコの匂いに声を上げ、薬品店ではセルマが瓶を棚へ戻している。リュシアは客の詰まりを見つけ、店員の立ち位置を半歩ずらした。

 

 成功の音だった。

 

 それが今は、澪の耳に少しだけ危うく聞こえた。

 

 侯爵が口を開いた。

 

「真壁殿。貴殿は、これが王都へ出た時のことを考えていたか」

 

「はい」

 

「ならば、なぜここに建てた」

 

 真壁は侯爵をまっすぐ見た。

 

「ここなら、止められる者がいます」

 

 澪は、その言葉を聞いて、周りの顔を見た。

 

 アルベルトがいる。レオンハルトが詰所側にいる。リュシアが食品街を見ている。セルマが薬品を見ている。ヴァルトが拠点を受ける。真壁が作り、澪が分からないことを分けようとする。誰か一人で抱えているわけではない。

 

 だから、ここなのだ。

 

 侯爵はアルベルトを見た。アルベルトは父の視線を受け、静かに頷いた。親子の間で、言葉にならない確かめ合いが通ったように見えた。

 

「これは王都に上げる話ではないな」

 

 家令が答える。

 

「左様でございます」

 

 侯爵は大玉から共同商館の入口へ視線を移した。客が入っていく。出てくる。子どもが手を引かれ、石職人が小物を眺め、店の奥では家族が棚を直す。

 

「侯爵領で責任を持つ」

 

 その言葉は、飾りではなかった。

 

 ヴァルトが深く頭を下げる。

 

「それが、最も被害が少ないかと存じます」

 

「利益ではなく、被害か」

 

「早すぎるものは、利益より先に争いを呼びます」

 

 侯爵は笑わなかった。

 

 澪も笑えなかった。けれど、地下食品街から上がってくる音楽だけは、場違いなくらい軽い。明るい弦の音が、石英大玉の白い影と混ざる。客はまだ美しいものを見ている。店はまだ開いている。

 

 侯爵が真壁へ言った。

 

「真壁殿を王都に呼べば、王都は喜ぶだろう」

 

「はい」

 

「そして、何軒かの家が滅ぶ」

 

 ヴァルトが顔を上げた。

 

「何軒かで済めば、幸運でございます」

 

 風が、2つの新しい建物の間を抜けた。

 

 澪は、その風に石粉の匂いと料理の匂いが混じっていることに気づいた。昨日までの工事の名残と、今日からの商売の匂い。同じ場所にあるのに、どちらか一方ではない。

 

 共同商館は開いた。

 

 けれど、それは王都へ向けて大きく開いた扉ではなかった。

 

 ここで使い、ここで見て、ここで止めるための灯りだった。

 

 地下から、また明るい弦の音が上がってきた。澪にはその音が、さっきより少しだけ遠く、それでも確かに人のいる場所から聞こえた。

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