押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第208話 食卓に見えないもの

 

 侯爵家の食卓に招かれるのは、初めてではなかった。

 

 だから澪は、玄関広間の灰駿に心臓を持っていかれることはなかった。少なくとも、前ほどではない。磨かれた床に靴音が吸われ、壁際の灯りが石の馬の輪郭を柔らかく浮かび上がらせても、今回は息を止めずに済んだ。

 

 ただ、食堂へ通された時、別のところで息が浅くなった。

 

 白い布のかかった長い食卓。銀器に映る灯り。香草を使った肉料理の匂い。温かいスープから立つ湯気。窓の外はもう暗く、庭の灯りが細い枝を影にしていた。

 

 料理はきれいだった。

 

 きれいすぎて、昼間に見た共同商館の石粉や、地下食品街の冷えた空気や、クララが抱えていた記録板の角が、かえって澪の頭の中で浮いて見えた。

 

 侯爵は上座にいた。隣にはマルグリット。アルベルト、セレスティア、エレナが続き、家令が控えめな位置で給仕の動きと席の空気を見ている。レオンハルトは客ではなく、侯爵家側の武官として、必要ならすぐ報告できる場所に立っていた。

 

 招かれた側には、真壁、澪、ヴァルト、リュシア、セルマ。

 

 澪は席に着きながら、前よりは手の置き場所に迷わなくなったことに気づいた。けれど、それは慣れたからではない。今日は、手の置き場所より考えなければならないことが多すぎるだけだった。

 

「昼は、よいものを見た」

 

 侯爵が杯を置いた。重い音ではないのに、澪には食卓の布の下まで響いたように聞こえた。

 

「だが、よいものほど重い」

 

 リュシアが、商人の顔でうなずいた。

 

「売れるものほど、先に置き場所を決めませんと、あとで人の手が絡みます」

 

 屋台で聞くような調子ではなかった。侯爵家の食卓に合わせた、丁寧で、それでも芯のある声だった。

 

 澪はスープの縁に視線を落とした。湯気が上がり、鼻先を柔らかく湿らせる。その温かさに、孤児院の寝室の冷たい窓と、子どもたちの咳を思い出した。

 

「澪さん」

 

 セレスティアが、澪へ視線を向けた。

 

「孤児院で試した清浄機の件ですが、領内事業として進める前に、少し伺ってもよろしいかしら」

 

「はい」

 

 澪は背筋を伸ばした。清浄機の話なら、竜命薬や王家よりは軽い。そう思いかけて、すぐに違うと分かった。

 

 侯爵が聞いている。

 

 それだけで、孤児院の部屋に置いた道具は、もう部屋の中だけでは済まなくなる。

 

「効いた、と聞いている」

 

 侯爵が言った。

 

「だが、なぜ効く」

 

 澪は、すぐには答えなかった。喉に浮かんだ言葉を、そのまま出してよいか確かめる。現代側では当たり前に使う言葉が、この食卓では、石を池に投げるような音を立てることがある。

 

 真壁が、短く言った。

 

「腐敗をもたらす菌が減ります」

 

「菌?」

 

 侯爵だけでなく、エレナまで同じように眉を動かした。

 

 澪は、あ、と息を置いた。やはりそこからだ。

 

「目に見えないほど小さい生き物、と思ってください。食べ物を腐らせたり、傷を悪くしたりするものがあります」

 

「見えないのに、生き物なのか」

 

 エレナは真顔だった。茶化しているのではない。目に見えないものを、生き物として扱うことが分からない顔だった。

 

「はい。とても小さいです」

 

「さらに小さいものもあります」

 

 真壁が続けた。

 

「ウイルスです」

 

 エレナが、皿の上の肉を見たまま固まった。

 

「まだ小さくなるのか」

 

「なります」

 

 真壁が当然のように答えたので、澪は少しだけ口元を押さえた。笑うところではない。けれど、エレナの顔があまりにも正直だった。

 

 マルグリットが、楽しそうに目を細めた。

 

「小さいものほど、厄介なのですね」

 

「はい。見えませんから」

 

 澪は、そこでスープの湯気へ目を戻した。

 

「冬は窓を閉めます。人が同じ部屋に集まります。空気が動かず、乾きます。喉も乾きます。そうすると、風邪が広がりやすくなります」

 

 侯爵はスープの湯気を見た。先ほどまでただの料理だったものが、説明の中で冬の部屋へ変わっていく。

 

「寒さだけが原因ではないのか」

 

「寒さも関係します。でも、寒いから閉め切ること、乾くこと、人が近くにいることも大きいです」

 

 リュシアが、指先で杯の足に触れた。

 

「寒さで病む、だけではなく、寒さで逃げ場がなくなる、ということでございますか」

 

「はい。近いと思います」

 

 澪はほっとした。リュシアの言葉は、いつも客や店の形へ落ちる。現代側の言葉が、この世界で使える形に少しだけ近づく。

 

 ヴァルトが、膝の上で手を組み直した。

 

「風魔法だけなら、空気を動かせます。浄化だけなら、汚れを減らせます。ですが、空気が回らなければ部屋全体には届きません」

 

「混ぜる必要があります」

 

 真壁が言った。

 

「それと、乾きすぎないように水を使います。喉が乾くと、身体の守りが弱くなりますから」

 

 澪の言葉を、セルマが小さく繰り返した。

 

「菌。ウイルス。乾き。閉め切った部屋。風。浄化」

 

 セルマは料理を見ていなかった。皿の向こう側に、見えない何かを並べている目だった。薬草の色や沈殿を見る時の目に似ている。けれど今は、瓶ではなく部屋の空気を見ている。

 

 澪は、その顔に少しだけ胸が冷えた。

 

 セルマは清浄機を褒めているのではない。たぶん、なぜその形にしたのかを見ている。

 

「セルマ君」

 

 真壁が名を呼んだ。

 

 セルマは瞬きをした。

 

「その話は後です」

 

「……承知しました」

 

 すぐ返事はした。だが、目はまだ止まっていなかった。

 

 ヴァルトが、ほんの少しだけ肩の力を入れたのが澪にも分かった。止めたのは真壁だが、ヴァルトも同じところを見ていたのだろう。知りたいという顔を。

 

 侯爵はセルマを責めず、今度は澪へ戻った。

 

「その変化を見たのが、クララか」

 

「はい。咳、喉、寝つき、朝起きられるか。そういうことを、クララさんが書いてくれました」

 

 澪の頭に、記録板を抱えたクララが浮かんだ。日付、部屋、熱、咳、喉、寝つき、朝。きれいな言葉ではなかった。けれど、子どもたちが朝起きられたという1行は、銀器よりずっと重かった。

 

「王都で、見たことを自分の言葉で証言した娘が、今度は孤児院の空気を記したか」

 

 侯爵の声に、茶化す響きはなかった。

 

 澪は指先を膝の上で握った。クララが王都で何をしたか、ここにいる多くの者は知っている。けれど、澪が思い出すのは大広間ではなく、孤児院の部屋の隅で記録板を抱えていた小さな姿だった。

 

「難しい言葉ではありませんでした」

 

 澪は言った。

 

「でも、子どもたちの様子が分かりました。清浄機のある部屋を選ぶ子がいるとか、朝起きられたとか」

 

「だからよい」

 

 侯爵は短く言った。

 

「飾った報告より、現場の変化が分かる」

 

 真壁がうなずいた。

 

「クララさんは、結果を盛りません。道具の評価に向いております」

 

 侯爵は、そこで少しだけ目を伏せた。

 

「見えないものが、人の体を崩す。逆に、見えないところを支えれば、体は崩れにくくなるということか」

 

 侯爵の言葉に、真壁は短くうなずいた。

 

「大きく外れてはおりません」

 

 その時、マルグリットが茶器を置いた。かすかな陶器の音が、食卓の上を滑る。

 

「それで思い出したわ。真壁殿、先日いただいた薬のことですけれど」

 

 澪は指先を止めた。

 

 先日いただいた薬。

 

 その一言で、食卓の空気が清浄機から別のものへ移った。孤児院の部屋ではなく、マルグリットが侯爵家へ持ち帰った、あの小瓶へ。

 

 真壁は茶器から視線を上げた。

 

「竜命薬の経過ですな」

 

 侯爵もまた、わずかに目を細めた。

 

「効いたのか」

 

 マルグリットは、少し考えるように自分の手元を見た。

 

「体調が崩れなくなったわ」

 

 澪は、そこで少し息を止めた。

 

 若返った、ではない。

 

 美しくなった、でもない。

 

 まず出てきたのは、日々の不調が減ったという、ごく生活に近い言葉だった。

 

 澪は思わずマルグリットの手元を見た。茶器を置いた指先は落ち着いている。長く座っていても姿勢に乱れがない。顔立ちが変わったというより、疲れにくくなった人の、呼吸の深さがあった。

 

「朝に起きても重くないし、長く座っていても疲れにくいの。けれど……」

 

 侯爵が眉を上げた。

 

「けれど?」

 

「期待したほどではないわ」

 

「……お前は、何を期待していたのだ」

 

 侯爵の声に、食卓の重さが少しだけ緩んだ。

 

 エレナが母を見た。

 

「母上は、何を期待していたのだ」

 

「そうね。もう少し、鏡を見るのが楽しくなるかと思っていたの」

 

「今も楽しくないのか」

 

「楽しいわ。ただ、もっと楽しくなるかと」

 

 侯爵が深く息を吐いた。澪は笑ってよいのか迷い、視線を茶器へ落とした。5年間老いない薬の話をしているはずなのに、夫婦の会話が妙に生活に近い。

 

 けれど、セルマだけは笑っていなかった。

 

「……体調が崩れなくなった、ですか」

 

 セルマの声が、少しだけ低くなった。

 

 責める声ではなかった。興味を隠せない職人の声だった。

 

「真壁殿。これは、若返らせる薬ではなく、老いの進行を止める薬、という理解でよろしいですか」

 

「はい。巻き戻しではありません。停止です」

 

「停止……」

 

 その言葉を、セルマは舌の上で確かめるように繰り返した。薬効ではなく、変化の止まり方を見ている。澪にはそう見えた。

 

 真壁は、そこで小さな瓶を収納から出した。食卓の灯りを受けて、中身がかすかに揺れる。派手な見せ方ではなかった。料理の横に置かれた小瓶は、かえって危険なほど普通に見えた。

 

「セルマ君やリュシア君には、もう少し良い女になったところで渡しましょう」

 

 澪は、反射的に真壁を見た。

 

「真壁さんのストライクゾーンって、熟女なんですか」

 

 言ってから、侯爵家の食卓だったことを思い出した。

 

 終わった。

 

 澪の背中が冷えたところで、リュシアが先に笑った。

 

「へえ。あたしはまだ早いってことかい」

 

 ただし、侯爵家向けの礼を崩さない程度に、である。

 

「熟成には時間が要ります」

 

 真壁はまじめに答えた。

 

「酒かい」

 

「近いものです」

 

「近いのかい」

 

 エレナが真剣な顔でリュシアと真壁を見比べた。

 

「良い女は酒なのか」

 

 マルグリットが、そっと口元を押さえた。

 

 セルマは一度だけ目を閉じた。

 

「良い女の定義は後で結構です。それより、薬の構造を――」

 

「セルマさん」

 

 ヴァルトが、穏やかに名を呼んだ。

 

「後で話しましょう」

 

 セルマは言葉を止めた。不満はある。だが、ここが侯爵家の食卓であり、薬の製法や構造へ踏み込む場ではないことも分かっている顔だった。

 

 真壁は小瓶を見た。

 

「作るためには、学ばねばならぬものがあります。ゲンダイ100年の知識です」

 

 食卓の空気が、また少し変わった。

 

「ですが、それを知ったところで、作れると考えるには足りません。足りぬものを補う知己が、今回はありました」

 

 真壁はヴァルトを見た。

 

 ヴァルトは、ほんのわずかに背筋を正した。境界、魔力、こちら側の素材や現象。それらをつなぐ役割が、自分にあったことを理解している顔だった。

 

 次に、真壁は澪を見た。

 

 澪は目を瞬いた。自分が何を補ったのか、すぐには分からなかった。現代側の知識、責任の分け方、少量試験、使う相手を考えること。いくつも浮かんで、どれも自分だけの手柄ではないと思った。

 

「リュシア君なら分かるでしょう。一人で何もかも解決できることなど少ない」

 

 リュシアは眉を上げた。

 

「真壁がそれを言うかねぇ。まあ、あたしら商人は、繋がりと信用が必要ってことは分かります」

 

 最後だけ、侯爵家に合わせて丁寧に戻した。そこがリュシアらしいと、澪は思った。

 

「技術には壁が現れます。避ける、壊す、消す。手はいくつかあります。ですが、壁が高いほど、一人で進むことは困難になる」

 

 真壁は、小瓶を指先で軽く押さえた。

 

「この瓶の薬には、過去100年の壁に破れた研究者たちの遺骸と、問題解決のため海ができるほどの汗が詰まっています」

 

 エレナが、瓶から少し身を引いた。

 

「汗の詰まった薬は、飲みたくないな……」

 

「比喩です」

 

「それならよい」

 

 真壁の返事があまりにも平らだったので、澪は今度こそ少しだけ笑った。笑いは長く続かなかったが、食卓の空気を完全に壊さず、呼吸できる隙間を作った。

 

 侯爵は、その隙間が閉じるのを待つように、しばらく黙っていた。

 

 そして、別の名前を置いた。

 

「クララは、清浄機の記録を取っただけではないな」

 

 澪の手が止まった。

 

「竜卵の世話も、あの娘か」

 

 エレナが顔を上げた。

 

 真壁は迷わず答えた。

 

「はい。初期供給者として、クララさんが最も穏当でした」

 

「穏当、か」

 

「癖の強い魔力は、初期供給には向きません」

 

 ヴァルトが丁寧に続けた。侯爵家の食卓で、必要以上に踏み込まないよう、言葉の幅を測っている声だった。

 

「強すぎる魔力、境界を乱す魔力、方向の偏った魔力は避けるべきでした。クララさんの浄化と祈りに近い魔力は、卵を歪めにくい」

 

 セルマの指が動きかけた。竜卵。魔力の性質。浄化。祈り。錬金術師が触れたくなる言葉が、食卓の上にいくつも落ちている。

 

「セルマさん」

 

 今度はヴァルトが呼んだ。

 

「その話も、後でお願いします」

 

 セルマは口を閉じた。不満はある。澪にも分かる。だが、ここが侯爵家の晩餐であり、今は卵の構造を尋ねる場所ではないことも分かっている顔だった。

 

 エレナが、短く言った。

 

「クララは卵の道具ではない」

 

 その一言に、澪は胸の中の力が少し抜けた。エレナの言葉は飾らない。だからこそ、まっすぐ届く。

 

「はい」

 

 真壁が答えた。

 

「卵係として育つ必要があります」

 

「育つ?」

 

 アルベルトが口を開いた。

 

「卵だけを育てるのではありません。クララさん自身も、見ること、書くこと、退くこと、守る対象を間違えないことを学ぶ必要があります」

 

 レオンハルトが、控えた位置から声を足した。

 

「危険を見せた時も、戦わせるためではありませんでした。小型を追わせず、方向と数を見させる。守る側の訓練です」

 

 侯爵はしばらく黙った。燭台の火が揺れ、銀器に細い光が走る。

 

「証人を道具にするな。卵係も同じだ」

 

 澪は、ゆっくり息を吐いた。

 

「はい」

 

 自分の返事が、少しだけ遅れたことに気づいた。

 

 クララは証人だった。記録者になった。卵係にもなった。どれも必要で、どれも大事だ。けれど名前を積み重ねるたびに、クララ本人が隠れていく気がした。

 

 それが怖かった。

 

 

 

 

 

 料理が下げられ、甘い香りのする茶が置かれた。

 

 澪は器を両手で持った。温かい。指の冷えが少しずつ戻ってくる。けれど、食卓の空気は軽くならなかった。清浄機も卵も、もう皿の上にはないのに、話題だけが残っている。

 

 侯爵が、茶には手をつけずに言った。

 

「王家でも、妙な噂が動いている」

 

 セレスティアは、エレナを見なかった。マルグリットも見なかった。見ないことが、かえって誰の話かを示していた。

 

「第2王子の婚姻先として、エレナの名が上がっている」

 

 澪の手の中で、茶器の温かさが急に頼りなくなった。

 

 エレナは、皿のない食卓を見たまま言った。

 

「私は乗り気ではない」

 

 短い声だった。迷いではない。嫌だ、というより、違う、と言う声だった。

 

 マルグリットが、深くはない息を置いた。

 

「ローゼンベルクが揺らいだ後ですもの。王家が次を探すのは、分からなくはありません」

 

 リュシアが、商人の顔に戻った。笑みはない。

 

「各公爵家の中でも、ローゼンベルクは大きかった。そこが使いにくくなれば、別の家へ目が行く、ということですね」

 

「そういうことだ」

 

 侯爵は真壁を見た。

 

「真壁殿はどう見る」

 

 真壁はすぐ答えなかった。澪は、その沈黙が短くても意味を持つことを知っている。真壁が遅い時は、迷っているのではなく、言葉の置き場所を選んでいる。

 

「保留されるがよいかと」

 

 侯爵の目が細くなった。

 

「断れ、ではなく、保留か」

 

「はい。今は断るにも受けるにも、材料が悪すぎます」

 

「材料?」

 

 アルベルトの声が低くなった。

 

「共同商館、清浄機、竜卵、竜命薬。どれも、王家の近くへ持っていくには重すぎます」

 

 澪は、茶器の縁を見た。

 

 結婚の話のはずだった。エレナの行き先の話のはずだった。けれど真壁の言葉で、そこに商館も、清浄機も、卵も、薬も結びついていく。

 

 人の名前が、物や技術や秘密の束に変わっていくのが怖かった。

 

「王家と近づけば、守られるものもあります」

 

 真壁は続けた。

 

「ですが、見られるものも増えます。人、荷、手順、鍵、移動、治療、卵。婚姻は、家と家を近づけます。近づけた後で、見せぬものを選ぶのは難しくなります」

 

 エレナが、真壁を見た。

 

「私は、卵も薬も持って嫁ぐ気はない」

 

 澪は思わず顔を上げた。

 

 エレナは真顔だった。

 

「私は私だ。荷物ではない」

 

 マルグリットが、静かにうなずいた。

 

「ええ。あなたは荷物ではありません」

 

 侯爵は軽く額へ指を当てた。

 

「だから難しいのだ」

 

「難しくしないで断ればよい」

 

「それができれば、王家の話など誰も苦労せぬ」

 

 エレナは納得していない顔で茶へ視線を落とした。澪は、その横顔を見て胸が詰まった。はっきり嫌だと言えるのに、それだけでは終わらない。自分の世界にも結婚や家の話はある。けれどここでは、1人の気持ちの周りに、領地と王家と卵まで集まってしまう。

 

 真壁が、そこで別の名前を置いた。

 

「おそらく、次はエレナ様だけではありません」

 

 侯爵が、顔を上げた。

 

「誰を見る」

 

「クララさんです」

 

 食堂の空気が沈んだ。

 

 澪の頭に、記録板を抱えた少女が浮かんだ。卵の前で、両手を揃えていた横顔も浮かんだ。見たことを見なかったことにしなかった目も。

 

「来年のうちに、クララさんを侯爵家へ入れられるがよいかと」

 

 真壁の声は、食卓の布に落ちるように平らだった。

 

 侯爵は動かなかった。

 

「我が家に、か」

 

「はい」

 

「なぜ、そこまで急ぐ」

 

 真壁は、今度は間を置いた。

 

 その間に、澪は嫌な予感を覚えた。真壁がこういう時に出す言葉は、たいてい現実を短く切る。切られた方は、しばらく息ができない。

 

「この国では、竜を従えた聖女の価値はいかほどか?」

 

 誰も、すぐには声を出さなかった。

 

 リュシアの表情から、商人の笑みが消えた。セルマは茶器に触れた指を止めている。アルベルトは口を開きかけて閉じた。セレスティアは、ほんのわずかに顔色を変えた。

 

 エレナが、目だけを動かした。

 

「クララは竜を従えていない」

 

「はい」

 

「聖女でもない」

 

「はい」

 

「なら、そう呼ばせなければよい」

 

「そのために、先に居場所を決めます」

 

 侯爵は、ゆっくりと背を預けた。

 

「……そこまで見るか」

 

「見ない方が危険です」

 

 真壁は短く返した。

 

「クララさんは、ローゼンベルクの名を持ち、王都で見たことを証言し、孤児院で変化を書き、竜卵の初期供給者になっています。どれか1つでも狙われます。重なれば、放置できません」

 

 澪は、息が浅くなった。

 

 証言者。記録者。卵係。

 

 どれもクララのしたことなのに、並べられると札のように見える。誰かが手に取って、別の名前を付けられるものに見える。

 

「教会預かりのままなら、教会が名を付ける」

 

 侯爵が言った。

 

「はい」

 

「王家は保護を名目に呼ぶ」

 

「はい」

 

 リュシアが、低く息を吐いた。

 

「商人は噂を売りますね。竜と聖女なら、金貨より速く走ります」

 

「はい」

 

 マルグリットが、自分の手元を見た。

 

「そして、クララ本人は置いていかれる」

 

「それを避けます」

 

 真壁は、侯爵だけを見ていた。

 

「ローゼンベルクの名を残せば利用されます。名を消しても探されます。ならば、先に侯爵家の保護下へ置くべきです」

 

 エレナが、短く言った。

 

「クララに聞くべきだ」

 

「もちろんです」

 

「本人が嫌なら、だめだ」

 

「はい」

 

 澪は、そこでやっと少し息を吸えた。竜を従えた聖女。そんな恐ろしい言葉のあとで、エレナはちゃんとクララの名前を呼んだ。聖女ではなく、クララ。竜の持ち主ではなく、卵の前で緊張していた少女。

 

 侯爵は、家令へ目を向けた。

 

「養女手続きについて調べよ。王家、教会、ローゼンベルク関係、すべての反応を想定する」

 

「承知いたしました」

 

 家令は一礼した。筆も紙も持っていないのに、すでに頭の中で項目を並べているような顔だった。

 

「本人への確認は、こちらで整えます」

 

 アルベルトが言った。

 

 エレナがすぐに返す。

 

「急がせるな」

 

「分かっている」

 

 マルグリットが、茶器を置いた。

 

「急がせすぎてはいけません。けれど、遅れてもいけませんね」

 

 侯爵は、短くうなずいた。

 

「そうだ」

 

 食堂に、皿のない食卓だけが残ったように見えた。清浄機の記録。竜命薬。竜卵。王家の噂。エレナの婚姻。クララの名前。そして、まだ誰も付けてはならない、聖女という言葉。

 

 澪は、自分の手元を見た。

 

 何かを守るというのは、抱きしめることだけではないのだと思った。名前を先に置くこと。家に入れること。本人に聞くこと。手続きを調べること。噂より早く、居場所を作ること。

 

 どれも優しい言葉ではない。けれど、優しいだけでは追いつかないものがある。

 

 

 

 

 

 晩餐が終わる頃、澪はようやく料理の味を思い出そうとした。

 

 肉は柔らかかったはずだ。スープは温かかった。香草も良い匂いだった。けれど頭に残っているのは、菌とウイルスと老いの停止と竜を従えた聖女で、侯爵家の料理人には申し訳ない結果になっていた。

 

 リュシアが、席を立つ前に小さく笑った。

 

「侯爵家の晩餐というのは、腹だけじゃなく頭も使うんですね」

 

 侯爵は、わずかに目を細めた。

 

「今夜は特に重かった」

 

「味より重かったです」

 

 澪が思わず言うと、家令の眉がほんの少しだけ動いた。失礼だったかもしれない。澪は口を押さえかけたが、マルグリットが先に笑った。

 

「料理人には、あとで味は良かったと伝えておきましょう」

 

「お願いします……」

 

 澪は小さく頭を下げた。真剣な話の後で、料理の味に罪が発生している。そう思うと、少しだけ息が楽になった。

 

 セルマは席を立ちながら、まだ何か言いたそうにしていた。

 

「真壁殿。先ほどの薬と、清浄機と、竜卵の件ですが――」

 

「セルマさん」

 

 ヴァルトが、穏やかに名を呼んだ。

 

「後で話しましょう」

 

「……後で、ですね」

 

「はい。ここでは、侯爵家の話になってしまいます。錬金術師の話として扱える場所で」

 

 セルマは不満を残していたが、うなずいた。分かっている顔だった。納得しきってはいないが、場所を分ける意味は理解している。

 

 澪は、その目を見て、セルマが怒っているのではないと分かった。見たいのだ。何が変わり、どこから触れてよくて、どこから触れてはいけないのか。

 

 ただ、それは今夜の食卓で広げる話ではない。

 

 侯爵家の廊下へ出ると、食堂の暖かさが背中に残ったまま、夜の空気が頬に触れた。外庭の灯りは低く、石畳に淡い影を落としている。遠くで給仕が皿を運ぶ音がした。生活は続いている。重い話をしても、皿は洗われ、火は消され、朝は来る。

 

 澪は袖口を握った。

 

 クララにも朝が来る。エレナにも。孤児院の子どもたちにも。卵にも。

 

 そう思ったところで、隣の真壁がいつもの声で言った。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「次は、人を運ぶ手段が要ります」

 

 澪は足を止めた。

 

 夜風が、さっきより冷たく感じた。

 

「……それは、嫌な予感だけ持ち帰っていい話ですか」

 

「はい」

 

「はい、なんですね」

 

 真壁はもう屋敷の門の向こうを見ていた。

 

 澪は、侯爵家の晩餐で食べたものより、これから出される見積もりの方が胃に重そうだと思った。

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