押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第209話 見る力の返し方

 朝の侯爵邸は、昨夜の食卓の熱をまだ薄く残していた。

 

 大広間のざわめきも、厨房から漂う香ばしい匂いも、今はもうない。磨かれた廊下には早い時間の冷えた空気が沈み、窓の外では庭木の葉がかすかに揺れている。

 

 真壁は、奥まった一室で侯爵と家令を待っていた。

 

 転移に使うために人払いされた部屋である。家具は少なく、床には何の飾りもない。侯爵家の部屋にしては質素だが、余計なものがない分だけ、空間の歪みも人の視線も読みやすい。

 

 侯爵はいつもの礼服に近い装いだった。だが、晩餐の席で見せた父親の顔は、もう薄く引いている。そこに立っているのは、領主であり、宰相であり、王城へ向かう男だった。

 

 その隣に控える家令も、表情を崩していない。だが、手元の書類袋の厚みだけが、昨夜決まった事柄の重さを語っていた。

 

「真壁殿」

 

 侯爵が短く呼ぶ。

 

「王都侯爵邸でよろしいですな」

 

「ああ。王城へ直接ではない。表の動きは崩さん」

 

「その方がよろしい」

 

 真壁はうなずいた。

 

 澪なら、この一言の裏にある面倒を聞き返していただろう。なぜ王城に直接行かないのか。なぜ時間を短縮するのに、わざわざ侯爵邸を挟むのか。

 

 答えは簡単だ。便利だからといって、制度を踏み荒らせば、便利さそのものが疑われる。

 

 侯爵は家令に向き直った。

 

「王城では、私が婚姻話の温度を見る。お前は王都侯爵邸から、教会筋と手続きを当たれ」

 

「承知しております」

 

「ローゼンベルクへは踏み込みすぎるな。こちらが何を知っているかを見せる必要はない。向こうが何を恐れているかを見るだけでよい」

 

「はい」

 

 家令の返事は静かだった。

 

 クララをヴァルディス侯爵家の保護に入れる。言葉にすればそれだけだ。だが、そこにはローゼンベルク家、教会、王家、そして第2王子とエレナの婚姻話まで絡む。

 

 クララ本人は、まだ何も選んでいない。

 

 だからこそ、周囲の大人は先に動き、先に道を確かめなければならない。押しつけるためではなく、選べる道を潰さないために。

 

 真壁は、侯爵と家令の足元を確認した。部屋の空気がわずかに重くなり、床の輪郭が現代の六畳間の押し入れとは別の理屈でほどけていく。

 

「急ぐべきです。ですが、急いでいるように見せぬ方がよろしい」

 

 真壁の言葉に、侯爵がわずかに口元を動かした。

 

「難しいことを言う」

 

「侯爵閣下なら、慣れておられるでしょう」

 

「慣れたくはなかったがな」

 

 短いやり取りのあと、真壁は手を上げた。

 

 次の瞬間、侯爵と家令の姿が揺らぎ、部屋の奥の空気がひと息だけ抜けた。

 

 残ったのは、朝の静けさと、床にまだ薄く残る転移の気配だけだった。

 

 真壁はしばらくその場を見ていた。

 

 王都では侯爵が王城へ向かう。家令が人を動かし、紙を動かし、噂の温度を測る。領都ではアルベルトが手配を続ける。孤児院では、クララがまだ何も知らずに朝を迎えている。

 

 人を動かすには、道がいる。

 

 その言葉だけを、真壁は胸の内で一度転がした。

 

 

 

 

 

 

 

 ヴァルトの拠点は、朝から妙に整っていた。

 

 整っているというより、余分なものが退けられている。机の上には、数枚の紙と、簡単な線を引くための黒い石片が置かれているだけだった。清浄機の部品も、竜卵に関わる品もない。

 

 見せるための場ではない。

 

 話すための場だった。

 

 セルマはその空気を見て、入口で一度足を止めた。

 

 薬草の匂いも、抽出液の甘い苦さも、ここにはない。セルマの工房なら、棚の瓶、乾燥させた葉、煮詰めた薬液の膜、濾した布の湿りが、見る前に匂いで分かる。

 

 だが、ここにあるのは境界の匂いだった。何かと何かを分ける場所。踏み込んでよい線と、踏み込んではならない線が、言葉になる前から床に引かれている。

 

「昨日の続きです」

 

 セルマは机の前まで来て、ヴァルトに向かい合った。

 

「どこまで聞いてよいか、先に線を引いてもらえますか」

 

 ヴァルトは少しだけ目を伏せ、それからうなずいた。

 

「それを最初に言っていただけるなら、話せます」

 

「当たり前でしょう。線も引かずに他人の釜を覗く錬金術師なんて、信用できないもの」

 

 柔らかい言い方だったが、言葉の芯は硬かった。

 

 ヴァルトは、その硬さを好ましく思った。怒りでも、焦りでもない。職人が自分の場所を知っている硬さだ。

 

「清浄機の中身を渡す話ではありません。真壁殿が何を見て、何をつなげたか。その線を話します」

 

「それで十分です」

 

 セルマは椅子に座った。背筋は伸びている。いつものように新しい薬草を前にした時の明るさはないが、折れている顔でもなかった。

 

 聞くために来た顔だ。

 

 ヴァルトは紙の上に、まず黒い点を置いた。

 

「清浄機から話します。真壁殿は、まず魔力だまりを見ました」

 

「魔力の淀みね」

 

「はい。淀んだ場所には魔物が寄る。悪いものは、対象だけでなく場に留まる。浄化しても、流れがなければ戻る」

 

 セルマは紙の黒い点を見た。

 

 薬液にも似たものはある。濾したはずの瓶の底に、あとから沈むもの。熱を入れた直後は澄んでいたのに、冷めると濁るもの。材料だけが悪いのではなく、温度、器、時間、置き場所が悪いこともある。

 

「次に、浄化です」

 

 ヴァルトは黒い点の周りに円を描いた。

 

「浄化は届きます。ですが、届く範囲がある。一点を清めても、部屋全体には届かない」

 

「だから風で運ぶ」

 

「はい。風だけなら空気を動かす。浄化だけなら範囲が狭い。風に浄化を乗せれば、薄く広げられる」

 

「強すぎれば、人に負担が出るわね」

 

「その通りです」

 

 ヴァルトは、セルマがそこで理解したことに気づいた。魔術式の話ではない。釜の火加減を見る時と同じ顔だった。

 

「さらに、真壁殿は乾燥を見ています」

 

「乾燥」

 

「冬は窓を閉める。人が集まる。空気が乾く。喉が弱る。ゲンダイでは、菌、ウイルス、乾燥、喉、換気という考え方があります」

 

 セルマは眉を寄せた。

 

「菌とウイルスは、昨日の食卓でも聞いたわ。見えないほど小さなもの、だったかしら」

 

「はい」

 

「老いも病も、真壁殿はずいぶん細かく分けて見るのね」

 

「そのようです」

 

「嫌になるわ。けれど、面白い」

 

 セルマは本当に嫌そうに言い、その直後に本当に面白そうに言った。

 

 ヴァルトは少しだけ口元を緩めた。

 

「清浄機は、薬ではありません」

 

「ええ」

 

「病を治す道具ではなく、病みやすい条件を崩す道具です」

 

 セルマは、紙の線を見つめた。

 

「部屋を調合の器のように扱ったものね」

 

「たとえとしては近いです」

 

「でも、器の中に人がいる」

 

「はい。だから難しい」

 

 その一言で、セルマは完全に納得した。

 

 薬瓶なら振れる。釜なら火を強められる。瓶なら蓋をできる。だが、部屋には子どもがいる。寝る子がいて、咳をする子がいて、寒がる子がいて、湿りすぎれば嫌がる子もいる。

 

 薬より簡単なはずがない。

 

 セルマはまだ「無理」とは言わなかった。紙の上にある線を、目で追っている。職人が、失敗作を前にして、どこで違ったのかを見る顔だった。

 

 ヴァルトは次の線を引いた。

 

「竜命薬については、製法ではありません。発想の接続だけです」

 

「分かっています」

 

「竜命薬は、ゲンダイの知識が大きいと聞いています」

 

「ゲンダイの」

 

「細胞、テロメア、老化。真壁殿は、老いをそういう単位で見ていた」

 

 セルマはその言葉を、ひとつずつ舌の上で転がすように聞いた。

 

「細胞。テロメア。老化……。聞いたことのない言葉ばかりね」

 

「はい」

 

「老いを、血色や脈や薬の効き方ではなく、もっと細かいところで見ているのね」

 

「そこへ、竜の持つ再生力を重ねた。真壁殿の知識で、それを薬へ結びつけた」

 

 セルマは目を伏せた。

 

 竜の再生力。老い。細胞。時間。

 

 錬金術師として、竜の素材に手を伸ばしたい欲がないわけではない。だが、その線を越えてはいけないことも分かる。強すぎる材料は、釜ごと壊す。分からないものを分かった顔で扱えば、人を殺す。

 

「製法は、聞きません」

 

「それがよいでしょう」

 

「ですが、老いを見る目は変える必要があるわ」

 

「はい」

 

 ヴァルトは次に、竜卵の話へ移った。

 

「竜卵は、真壁殿が発見しました」

 

「それを、なぜ教会関係者へ?」

 

「属性を安定させるためです」

 

 セルマの目が、今度はまっすぐに紙を見た。

 

「強い魔力ならよい、という話ではないのね」

 

「はい。癖が強ければ、卵を歪める可能性があります。境界を乱す魔力、方向の偏った魔力も避ける必要がある」

 

「薬草と同じね。強い肥料を入れれば育つわけではないもの。根を傷めることもあるわ」

 

「教会関係者の浄化や祈りに近い魔力は穏当です。クララさんの魔力は、卵に強く色をつけるのではなく、乱れを抑える方向に働く」

 

 セルマはしばらく黙っていた。

 

 教会の浄化。祈り。穏当な魔力。

 

 錬金術師の工房では、それらは別の場所に置かれがちだ。祈りは祈り。薬は薬。浄化は教会の領分。錬金術は錬金術。

 

 だが、竜卵はその境界をまたいでいる。

 

「教会の浄化を、私は薬とは別のものとして見ていました」

 

「私もです」

 

「祈りに近い魔力が、卵の安定に関わるとは考えていませんでした」

 

「知らなかったことは恥ではありません」

 

 セルマは顔を上げた。

 

「知っていたふりをすることが、恥ですね」

 

「はい」

 

 ヴァルトの返事は短かった。

 

 その短さが、セルマにはありがたかった。

 

 励ましも、慰めも、今はいらない。必要なのは、線と、見方と、返すものだ。

 

 セルマは、紙の上に引かれた線を見つめた。

 

 淀み。浄化。風。湿り。細胞。テロメア。老化。竜の再生力。卵の属性。祈りに近い魔力。

 

 どれも、自分の仕事と無関係ではない。

 

 むしろ、近くにあった。

 

 近くにあったのに、自分は別の棚へ置いていた。

 

 薬は薬。祈りは祈り。部屋は部屋。卵は卵。老いは老い。

 

 錬金術師として深く見ていた。けれど、線の外側へ目を向けていなかった。

 

「……今の私には、無理ね」

 

 セルマは、そこで初めてそう言った。

 

 ヴァルトは、慰めなかった。

 

「無理でしょう」

 

 セルマは小さくうなずいた。

 

「今のセルマさん一人では、無理です。私にも無理でした」

 

「ヴァルトさんにも?」

 

「はい。私は境界を見ていました。魔術式を見ていました。魔力の流れを見ていました。ですが、教会の浄化や祈りを、技術として見ようとはしていませんでした」

 

 セルマは、机の上の紙を見た。

 

 何も知らなかったわけではない。見ていなかったのだ。

 

 その違いが、胸に痛かった。

 

「真壁殿に言われました」

 

 ヴァルトが静かに続けた。

 

「弟子を増やし給え、と」

 

 セルマの指が、膝の上で止まった。

 

「……私も、言われました」

 

「ええ。だからセルマさんは、弟子を増やし始めたのでしょう」

 

「増やしました。ポーションを増やすために。冬場の犠牲を減らすために。私一人の手では、もう足りないから」

 

「それも正しい」

 

 ヴァルトは否定しなかった。

 

「ですが、それだけでは足りません」

 

 セルマは息を吐いた。反発はなかった。むしろ、胸の奥のどこかで、その言葉を待っていた気がした。

 

「手を増やすだけではない、ということね」

 

「はい」

 

 ヴァルトは石片で紙に一本の線を引いた。

 

「どれか1つの目で足りるなら、弟子を増やせとは言われません」

 

 線の端に、ヴァルトは小さく点を置いた。

 

「セルマさんは、色、匂い、泡、沈殿、熱の入り方を見る。リュシア殿は、人の動き、目線、言葉の間を見る。エーリヒ殿は、葉色、土の湿り、育ち方を見る。澪さんは、見る、比べる、変化を言葉にする、予想して確かめる、その入口を広げる」

 

「見る角度を増やす」

 

「はい。真壁殿は、人手を増やせと言ったのではありません。見る角度を増やせと言ったのだと思います」

 

 セルマは、工房の弟子たちの顔を思い浮かべた。

 

 手順を覚えさせるだけなら、早い者が勝つ。器用な者が残る。失敗の少ない者が重宝される。だが、見る目を増やすなら違う。

 

 匂いに敏い子。熱の変化に気づく子。葉の裏を見る子。失敗した瓶をすぐ捨てず、なぜ濁ったのかを気にする子。

 

 それぞれが、別の目になる。

 

 セルマはゆっくりとうなずいた。

 

「弟子を増やす意味を、少し狭く見ていたのかもしれないわ」

 

「狭かったのではありません。深く見ていたのです」

 

 ヴァルトの言葉に、セルマは少しだけ目を細めた。

 

「慰めですか」

 

「違います。境界の話です。深く見ることと、広く見ることは別です」

 

「……そう言われると、怒りにくいわね」

 

 セルマの声に、ようやく少しだけいつもの調子が戻った。

 

 ヴァルトは石片を置いた。

 

「逆に伺います。等価交換の法則は、錬金術師の理にはないのでしょうか」

 

「あります」

 

「知らぬ技術を得るためであれば、根掘り葉掘り聞くことは恥ではないのですか」

 

「恥です。だから、線を引いてほしいと言いました」

 

「我々は押入商会に対し、過剰な便宜を受けています。これで等価交換が成り立つのですか」

 

 セルマはすぐには答えなかった。

 

 清浄機。竜命薬。竜卵。植物工房。弟子。冬場のポーション。受け取ったものは多い。

 

「……成り立ちません。受け取るだけでは、錬金術師として気持ちが悪いわ」

 

「では、同じ知識を返す必要はありません。こちらの世界でしか見えない変化を返すべきです」

 

「私が見える変化を」

 

「はい。真壁殿になる必要はありません。澪さんになる必要もありません。私になる必要もありません」

 

 セルマは紙に引かれた線を見た。

 

 知らない線ばかりだ。

 

 だが、知らない線の中にも、自分の手で触れられる場所はある。

 

「清浄機のある部屋とない部屋で、素材がどう変わるかを見ます」

 

 セルマは言った。

 

「素材、ですか」

 

「ええ。匂い、湿り、水の濁り、薬草の持ち、薬液の沈殿、保存瓶への影響。布や木箱の変わり方も見るわ。部屋が器になるなら、器に触れているものは必ず変わるもの」

 

「それは、私には見えません」

 

「弟子にも見せます。手を増やすだけではなく、見る目を増やすために」

 

 ヴァルトは静かにうなずいた。

 

「それが、返せるものだと思います」

 

 セルマは、深く息を吸った。

 

 悔しさは消えない。無理だと思った痛みも残っている。けれど、足元が崩れる感じはもうない。

 

 自分は清浄機を作れない。

 

 竜命薬も作れない。

 

 竜卵に勝手に触れることもできない。

 

 だが、変化は見られる。

 

 錬金術師としての目で、他の者が見落とすものを見ればいい。

 

「……嫌になるわね」

 

 セルマはぽつりと言った。

 

 ヴァルトが少し首を傾げる。

 

「こんなに知らないことがあるなんて」

 

「はい」

 

「でも、面白いわ」

 

 今度は、ヴァルトもはっきりとうなずいた。

 

 

 

 

 

 

 

 孤児院の門前に、侯爵家の馬車が止まった時、子どもたちは遠巻きにそれを見ていた。

 

 大きな音を立てて乗りつけたわけではない。護衛も最小限で、鎧の音も抑えられている。それでも、侯爵家の紋が入った馬車は、孤児院の前では十分に目立った。

 

 エレナは、降りる前に一度だけ母を見た。

 

 マルグリットは、いつもの柔らかな表情をしている。だが、エレナには分かる。母はただ慰問に来た顔ではない。相手を見るための顔をしている。

 

 クララ。

 

 没落した上位貴族の娘。ローゼンベルクの名に巻き込まれ、王都で証言し、教会に預けられ、今は孤児院にいる子。

 

 マルグリットは、その情報を知っている。だからこそ、会う前の母の中には、哀れみがあった。

 

 エレナはそれを悪いとは思わない。クララの置かれた状況は、確かに哀れまれても仕方がないものだ。

 

 だが、それだけではない。

 

 クララは、自分の足で立とうとしている。

 

 それを母にも見てほしかった。

 

 司祭様とシスターが出迎えに出てくる。エレナは背筋を伸ばし、まず2人へ向き直った。

 

「司祭様、シスター。急な訪問となり、申し訳ありません」

 

 司祭様は静かにうなずいた。

 

「クララに関わるお話ですかな」

 

「はい。本人の知らぬところで進めるべき話ではありませんので、母上と共に参りました」

 

 シスターの目が、わずかにエレナを見直した。

 

 エレナはそれに気づいたが、表情には出さない。以前から、司祭様とシスターには世話になっている。クララを預かっているのも、この2人だ。礼を失う理由はない。

 

「クララを呼んでまいります」

 

 シスターがそう言うと、マルグリットが穏やかに頭を下げた。

 

「お願いいたします」

 

 通された小部屋は、質素だった。

 

 机と椅子。壁際の棚。窓辺には小さな鉢が置かれている。侯爵邸の応接間と比べるような場所ではない。だが、掃除は行き届いており、空気は落ち着いていた。

 

 しばらくして、クララが入ってきた。

 

 薄い緊張が、部屋の空気に混じる。

 

 クララはまず司祭様とシスターを見て、それからエレナを見た。最後にマルグリットを見て、すぐに礼を取る。

 

「クララ。こちらが母上です」

 

 エレナは短く紹介した。

 

 マルグリットが一歩だけ前へ出る。

 

「マルグリット・ヴァルディスです。急に訪ねてしまって、ごめんなさいね」

 

「クララ・フォン・ローゼンベルクです。お目にかかれて光栄です」

 

 クララの声は固かった。だが、乱れてはいない。

 

 マルグリットは、その礼を見た。

 

 ぎこちない。緊張もしている。だが、投げやりではない。自分の家名を名乗る時も、逃げてはいない。

 

 ローゼンベルクの娘。

 

 その名は、今のクララにとって守りではなく、重しでもあるはずだ。それでもクララは、名乗った。

 

 マルグリットは、胸の内で最初の見方を少し改めた。

 

 哀れむだけでは、この子を見誤る。

 

「クララさん。今日は、あなたに関わる話をしに来ました」

 

「私に、ですか」

 

「はい。あなたの居場所に関わる話です」

 

 エレナの声は短い。だが、荒くはなかった。

 

 マルグリットが続ける。

 

「今日は返事をいただきに来たのではありません。まず、話を聞いていただければ十分です」

 

 クララは小さくうなずいた。

 

「あなたを、ヴァルディス侯爵家の保護に入れる話が出ています」

 

「侯爵家の、保護……」

 

「はい。けれど、あなたを荷物のように移す話ではありません。あなた自身が知らないところで、決めてよい話でもありません」

 

 クララの指が、服の布をそっと掴んだ。

 

 エレナは、その動きを見た。怖いのだろうと思った。怖くて当然だ。王都で証言し、教会へ預けられ、孤児院で暮らし、今度は侯爵家の保護という話が来る。

 

 大人たちの言葉は、子どもの足元を簡単に動かす。

 

 だからこそ、本人に伝える必要がある。

 

「父上も兄上も、本人に知らせず進めるつもりはありません」

 

 エレナはそう言った。

 

 クララは少しだけ顔を上げる。

 

「私は、ローゼンベルクの娘です」

 

「ええ」

 

 マルグリットは急がせなかった。

 

「でも、ローゼンベルクに戻れるとは思っていません」

 

 その声は細い。けれど、誰かに言わされた言葉ではなかった。

 

 エレナは問いかける。

 

「戻りたいのですか」

 

 クララはすぐに答えなかった。

 

 部屋の中で、誰も先を促さない。司祭様も、シスターも、マルグリットも、エレナも待った。

 

 やがて、クララは言った。

 

「分かりません」

 

 マルグリットは、その答えで完全に見方を変えた。

 

 哀れなだけの子なら、誰かが望む答えにすがる。戻りたいと言うか、戻りたくないと言うか、あるいは泣いてしまうかもしれない。

 

 だが、クララは分からないと言った。

 

 分からないものを、分かったふりで飾らなかった。

 

 その細い正直さは、弱さではない。まだ育ちきっていない芯のようなものだった。

 

「それでよろしいのです」

 

 マルグリットは言った。

 

 クララが驚いた顔をする。

 

「分からないことを、急いで答えにしなくてよろしいわ」

 

「よろしいのですか」

 

「ええ。今日は話だけです」

 

 クララの肩から、わずかに力が抜けた。

 

 エレナはその変化を見て、内心で息をついた。母を連れて来てよかったと思う。自分だけでは、この柔らかさは出せなかった。

 

「司祭様やシスターに相談してください」

 

 エレナは、クララに向かって言った。

 

「もちろん、私に尋ねてもかまいません」

 

「エレナ様に、ですか」

 

「はい。あなたに関わる話ですから」

 

 クララは迷うように、司祭様とシスターを見た。シスターが静かにうなずく。

 

「……はい」

 

 それだけだった。

 

 だが、マルグリットには十分だった。

 

 クララはまだ選んでいない。選べるほど落ち着いてもいない。だが、耳を塞いでいない。人の言葉を聞き、自分の中で考えようとしている。

 

 この子は、折れていない。

 

 しばらくして、クララはシスターとともに部屋を出た。司祭様も続き、部屋にはエレナとマルグリットだけが残る。

 

 窓辺の鉢に、午後の淡い光が当たっていた。

 

「エレナ」

 

「はい、母上」

 

「あなたが気にかける理由が、少し分かりました」

 

 エレナはわずかに目を伏せた。

 

「……そうですか」

 

「哀れなだけの子ではありませんね」

 

「はい。クララは、自分で考えようとしています」

 

 マルグリットは微笑んだ。

 

「私も気に入りました」

 

 エレナは、その言葉に少しだけ肩の力を抜いた。

 

 クララの返事は、まだない。

 

 だが、それでよかった。

 

 今日は、居場所を決める日ではない。クララが自分の居場所について考え始めるための日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 澪が六畳間へ戻った時、部屋の蛍光灯はすでについていた。

 

 まだ夕方の光は窓の外に残っている。だが、大学から帰ってきた澪の体には、講義室の空気、電車の揺れ、駅前の人混み、鞄の肩紐の重さがまとわりついていた。

 

 靴を脱ぎ、部屋に上がり、バッグを下ろそうとしたところで、澪は動きを止めた。

 

 真壁がいた。

 

 座卓の前に、妙に姿勢よく座っている。

 

 その前には、印刷された紙が1枚置かれていた。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「何かしましたね」

 

 真壁は否定しなかった。

 

「澪君。これを買う」

 

 澪はバッグを下ろす前に、紙を見せられた。

 

 中古車情報だった。

 

 三菱ふそうローザ。4.9ターボ。キャンピング仕様。社外ナビ・TVつき。

 

 そこまでは、まだ分かる。

 

 澪の視線は、次の2文字で止まった。

 

 水没。

 

 そして価格。

 

 100万円。

 

「……水没って書いてありますけど」

 

「書いてあります」

 

「そこは確認ではなく、問題点です」

 

「問題点が明記されている車両は、扱いやすい」

 

 澪は紙から顔を上げた。

 

「廃車寸前って、扱いやすいんですか」

 

「余計な期待がありません」

 

「車に対して言うことじゃないです」

 

 真壁は、まるで良い石材を見つけた職人のような顔をしていた。澪はその顔を見て、嫌な予感が確信に変わるのを感じた。

 

「完成品を買うのではありません。素材を買います」

 

「車を素材扱いしないでください」

 

「廃車寸前なら、むしろ素材です」

 

「むしろ、じゃないです」

 

 澪はようやくバッグを床に置いた。肩が軽くなったはずなのに、頭は重くなった。

 

「なんでこれなんですか」

 

「安い。車体寸法がよい。キャンピング仕様なら電装と水回りの名目が立つ。社外ナビとTVも、改装車両として説明しやすい。内装は外す前提ですから、水没の不利も限定できます」

 

「限定できます、じゃなくて、普通は避けます」

 

「普通に使うなら避けます」

 

「真壁さんは何に使うつもりなんですか」

 

「向こうです」

 

 澪は口を閉じた。

 

 向こう。

 

 異世界側。

 

 その一言で、紙の上の水没車が、急に別の顔をした。現代側の中古車ではなく、悪路を走り、人と荷物を運び、必要なら避難にも使われる箱。

 

 だからといって納得できるわけではない。

 

「車検はどうするんですか」

 

「不要です」

 

「不要?」

 

「運用は向こうです。現代側の公道を走らせる予定はありません」

 

「じゃあ、これは車じゃなくて……」

 

「向こう専用の移動設備です」

 

「設備」

 

「はい」

 

「また車を建物みたいに扱ってる」

 

 真壁は少しも悪びれない。

 

「明石さんには、なんて説明するんですか」

 

「途上国での運用を想定した車両補修、とだけ申告します」

 

 澪はゆっくりと目を細めた。

 

「嘘ではないけど、全部ではないやつですね」

 

「虚偽はありません」

 

「全部を言わないだけですよね」

 

「税務上必要な範囲で説明します」

 

「そこだけまともなのが腹立ちます」

 

 真壁は紙を指で押さえた。

 

 澪は、その指先を見た。廃車寸前のバスを前にしているのに、真壁の中ではもう分解と再構成が始まっている。どこを外し、どこを残し、どこを補強し、何を載せるか。そういう目をしている。

 

「水没車って、普通に危ないんじゃないですか」

 

「補修は私が行います」

 

「補修で済みますか」

 

「必要に応じて、構造も見直します」

 

 澪はすぐに反応した。

 

「いま、魔改造って言いかけませんでしたか」

 

「言っていません」

 

「目が言いました」

 

「目は発言しません」

 

「します。真壁さんの目は、わりとします」

 

 真壁は否定しなかった。否定しないのが、さらに嫌だった。

 

「でも、もし現代側で動かす必要が出たら?」

 

「その時は、必要な形に整えます」

 

「必要な形、って何ですか」

 

「澪君が聞かぬ方がよい種類の事務です」

 

 六畳間の空気が、一瞬だけ冷えた気がした。

 

 真壁の声は穏やかだった。だからこそ怖い。元軍人で、諜報の実績がある男が、聞かない方がよいと言う。澪の常識が、そこから先へ踏み込むなと警告した。

 

「今、すごく嫌な言い方をしましたよね」

 

「合法的に済むなら合法で済ませます」

 

「済まない場合の含みを残さないでください」

 

「残しておく方が安全です」

 

「元軍人の“必要なら”は信用してはいけない言葉です」

 

「正しい認識です」

 

「正しいなら直してください」

 

「直すと危険です」

 

「なんでですか」

 

「選択肢は多い方がよい」

 

 澪は額に手を当てた。

 

 大学で聞いた経営学の話が、頭の隅を通り過ぎた。リスク管理。資源配分。意思決定。どれも今の真壁に当てはまりそうで、当てはめたくない。

 

「それで、このローザで誰を運ぶんですか」

 

 真壁は淡々と答えた。

 

「クララ君。騎士団新人。セルマ君の弟子。ヴァルト君の弟子。清浄機試験の関係者。孤児院の子どもたち。工房見学者。緊急避難対象者。食品街や共同商館の研修者」

 

「増えすぎです」

 

「だから、バスです」

 

「そこで納得したくないです」

 

 だが、澪は納得しかけている自分にも気づいていた。

 

 クララを侯爵家へ移すかもしれない。孤児院の子どもたちを見学や避難で動かすこともあるかもしれない。セルマとヴァルトが弟子を増やせば、訓練や移動の人数も増える。清浄機の試験、湿地、工房、共同商館、食品街。人を動かす理由は、すでに山ほどある。

 

 荷物だけなら収納でよい。

 

 けれど人は、荷物ではない。

 

 人を運ぶなら、座る場所がいる。揺れを減らす工夫がいる。子どもが怖がらない空間がいる。怪我人を寝かせる余地もいる。

 

 だから、バス。

 

 その結論だけは、嫌になるほど正しかった。

 

 澪は紙の「水没」と「100万円」をもう一度見た。

 

 六畳間の蛍光灯の下で、廃車寸前のローザは、なぜかすでに異世界の悪路を走っているように見えた。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「これ、車じゃなくて次の事件ですよね」

 

「移動手段です」

 

「事件を移動手段って呼ばないでください」

 

「まだ事件ではありません」

 

「“まだ”を付けないでください」

 

 真壁は紙を丁寧に畳んだ。

 

「明日、現物を見ます」

 

「もう行く前提なんですね」

 

「はい」

 

 澪は、大学のバッグを下ろしたばかりなのに、明日の疲れを先取りした。

 

 押し入れの向こうでは、人を守るための話が進んでいる。

 

 そして六畳間では、水没した三菱ふそうローザが、真壁の目によってすでに素材にされていた。

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