押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

21 / 70
第21話 水袋は走らない

 

 孤児院の洗い場では、二十リットルのウォーターバッグが、前より少しだけ情けない姿になっていた。

 

 初めて取り出した時には、袋の中で水がずしりと揺れ、子どもたち全員の目を丸くさせた。それが今は、腹の減った革袋みたいにたるみ、洗い場の木箱の上でくしゃりと横になっている。

 

 中身が減るのは、良いことだった。

 

 大豆もやしの水替えがきちんと行われている証拠だからだ。子どもたちは、水を入れ替える時間を覚え始めていた。シスターに呼ばれる前に器を見に行く子もいる。布をめくる時には、以前よりずっと慎重に手を使うようになった。

 

 けれど、減った水袋を見た澪は、素直には喜べなかった。

 

 水道水を毎回百リットル持ち込むのは無理だ。前にやった時は、収納の奥に水の重さが居座り、孤児院まで歩くだけで頭の芯が疲れた。あれを続けたら、大豆もやしより先に澪がしおれる。

 

 トトが、たるんだウォーターバッグを両手で持ち上げた。

 

「もう軽い」

 

 言いながら、振ろうとする。

 

 シスターの声がすぐ飛んだ。

 

「軽くなったから振っていい、ではありません」

 

 トトは手を止めた。

 

「水、入ってないよ」

 

「水が入っていなくても、袋は仕事道具です」

 

「袋も仕事するのか」

 

「します」

 

 トトは、たるんだ袋を見下ろした。

 

「大変だな、水袋」

 

「トトより落ち着いています」

 

 シスターにそう言われて、近くにいた子どもたちが笑った。トトは不服そうだったが、ウォーターバッグを木箱の上へ戻した。

 

 澪はその袋を見ていた。

 

 使い捨てにするには惜しい。現代側から持ってきたものだ。洗って乾かせば、また水を入れられる。だが、何を入れるのか。誰が入れるのか。入れた水が本当に大豆もやしに使えるのか。

 

 そこを決めないまま再利用すると、ただの便利な袋ではなく、危ない水を大事に運ぶ袋になる。

 

 リュシアが、澪の横に立った。

 

「顔がまた難しくなってるね」

 

「この袋、こっちの水を入れて使えないかと思って」

 

「いいんじゃないかい。ただし、何を入れるか決めないと駄目だね」

 

「はい。何でも入れたら終わります」

 

「魚を洗った水を入れられたら、そこで終わりだ」

 

 リュシアは、あまりに自然に恐ろしいことを言った。

 

 澪は即座にうなずいた。

 

「それは絶対に嫌です」

 

 シスターも近づいてきた。手には、布巾と木札がある。もう、澪が何か言う前から、札を使うと分かっている顔だった。

 

「袋ごとに札を付けましょう。水を入れる前に洗い、乾かし、誰が入れたかも書きます」

 

 司祭も、少し離れたところから頷いた。

 

「子どもが勝手に水を詰めることは、させません。便利な袋ほど、間違えた時に大きく困ります」

 

 澪は、たるんだウォーターバッグを両手で広げた。透明な樹脂の口が、光を受けて少しだけ白く光る。

 

 ただの袋ではない。

 

 これは容器で、道具で、番号を持つ在庫になる。

 

 そして、間違えれば、腹痛の入れ物になる。

 

「……水袋も管理対象」

 

「また増えたね」

 

 リュシアが言った。

 

「増えました」

 

 澪はうなずいた。

 

 

 

 

 

 まず、水を見ることになった。

 

 孤児院で使える水は、大きく分けると三つある。井戸から汲む水。屋根から集めて甕に貯めた雨水。台所や洗い場の近くに置かれている汲み置き水。

 

 どれも、子どもたちにはただの水に見える。

 

 澪にも、最初はそう見えた。

 

 だが、もう見た目だけでは信用しない。ここは鑑定を使う場面だ。

 

 澪は井戸のそばへ行き、汲みたての水を入れた桶の前にしゃがんだ。水面は揺れている。光を受けて、底が見えた。嫌な匂いはしない。

 

「鑑定」

 

 小さく呟く。

 

----------------------------------

井戸水

 透明度:良好

 異臭:なし

 濁り:少

 用途:飲用候補

 注意:汲み置き時間に注意

----------------------------------

 

 澪は、少しだけ息を吐いた。

 

「井戸水は、汲みたてなら候補にできそうです。ただ、置きっぱなしはだめです」

 

 司祭が頷いた。

 

「台所で使う分も、長く置いたものは避けましょう」

 

 次に、雨水を貯めた甕へ向かった。

 

 甕は大きく、蓋がされている。蓋を開けると、水はそれなりに澄んで見えた。だが、わずかに湿った古い匂いがある。雨の匂いと言えばそうなのかもしれないが、澪はすぐにうなずけなかった。

 

「鑑定」

 

----------------------------------

雨水

 透明度:普通

 異臭:ごく弱い

 混入物:微量

 由来:屋根・樋経由

 注意:初雨混入疑い

 用途:もやし用には要処理

----------------------------------

 

 澪は固まった。

 

「初雨……」

 

 リュシアが横から覗き込む。

 

「何が見えた」

 

「最初に屋根や樋の汚れを流した雨が、混ざっているかもしれません」

 

 リュシアは甕の内側を見た。

 

「最初の雨は屋根を洗う水、だったね」

 

「はい。豆には使いたくないです」

 

「雨も面倒だね」

 

「水、全部面倒です」

 

 トトが腕を組んで言った。

 

「やっぱり水ずるい」

 

「まだ水だけならよかったんです」

 

 澪は、汲み置きの桶へ視線を移した。

 

 その桶は、ぱっと見には綺麗だった。水も澄んでいる。けれど桶の内側に、どこか鈍い光がある。澪は嫌な予感を覚えながら手をかざした。

 

「鑑定」

 

----------------------------------

汲み置き水

 透明度:良好

 異臭:なし

 貯水日数:不明

 容器状態:内側に古い油分

 用途:もやし用には不適

----------------------------------

 

 澪は桶を見て、顔を引きつらせた。

 

「水じゃなくて、桶がだめです」

 

 シスターが桶を受け取り、内側を指でそっとなぞった。ほんのわずかだが、ぬるりとした感触があるらしい。シスターの眉が動いた。

 

「これは台所の古い桶ですね。油を洗った時にも使ったかもしれません」

 

 リュシアが、桶を覗いて舌打ちした。

 

「水がよくても、入れ物で負けるわけだ」

 

「はい。水、ずるいです」

 

「やっぱり水ずるい」

 

 トトが真顔で言った。

 

 澪はそのまま止まらなかった。

 

 柄杓を鑑定する。柄の握るところに、わずかなぬめり。

 

 布を鑑定する。前に豆を包んだ時の匂いが少し残っている。

 

 甕の蓋を鑑定する。隙間から小さな虫が入った形跡。

 

 甕の底を鑑定する。細かな沈殿物。

 

 鑑定、鑑定、鑑定。

 

 使うたびに、見えなかったものが少しずつ出てくる。水そのものだけではない。水に触れる物が、全部危ない可能性を持っている。

 

 澪はだんだん無口になった。

 

 リュシアが、澪の顔を見た。

 

「澪、顔が険しい」

 

「水より、周りが敵です」

 

 司祭が静かに言った。

 

「水だけではなく、水に触れる物を見る必要があるのですね」

 

「はい。水を取る場所、桶、柄杓、布、蓋、全部です」

 

 目の奥が重い。

 

 何度も鑑定したせいで、こめかみのあたりがじんわり熱くなった。けれど、見つけたものは無駄ではなかった。シスターは汲み置き桶を外し、柄杓を取り替え、布を洗い直すよう子どもたちに指示した。司祭は、雨水の甕に使う蓋を見直すと言った。リュシアは、もやし用の桶を別に用意するよう市場へ声をかけると言った。

 

 澪は、少しだけ壁に手をつき、鑑定を開いた。

 

----------------------------------

篠原澪

 体力:39

 筋力:29

 集中:49

 睡眠:やや不足

 鑑定:4

 収納:4

 商才:芽あり

 衛生管理:上昇中

 在庫管理:上昇中

 容器管理:上昇中

 水管理:上昇中

 栄養管理:発生

 課題進捗:完了

----------------------------------

 

「鑑定、上がってる……」

 

 リュシアが笑った。

 

「水に勝ったのかい」

 

「水じゃなくて、桶と柄杓と布に勝ちました」

 

 トトが、近くの柄杓を警戒するように見た。

 

「敵、多いな」

 

「多いです」

 

 澪は、心からそう思った。

 

 

 

 

 

 積層ろ過桶を作る準備は、思ったより市場っぽかった。

 

 リュシアがどこからか砂利と砂を集めてくる。粗い砂、細かい砂、炭、布。炭は黒くて軽いが、触れば手が黒くなる。子どもたちは当然、触りたがった。

 

 中でもトトは、最初に触った。

 

 そして、両手を真っ黒にした。

 

「俺、炭係」

 

 胸を張ったトトに、リュシアは即座に言った。

 

「手を洗ってから名乗りな」

 

「炭係だから黒いんだよ」

 

「水のそばに黒い手を近づける係はいらない」

 

 トトはしぶしぶ洗い場へ連れていかれた。

 

 エレナは、桶の中を興味深そうに覗き込んでいる。護衛は、その一歩前に立ち、エレナの手と炭の距離を細かく見ていた。

 

「私は触らぬ」

 

「触る前の声です」

 

「まだ触っていない」

 

「だから止めています」

 

 澪は布を広げながら、何度も説明した。

 

「これは、水を完全に安全にする道具ではありません。濁りや匂いを減らすためのものです。これを通したから何でも使える、ではありません」

 

 リュシアが、子どもたちへ向けて言い直す。

 

「汚い水を魔法で飲める水にする桶じゃないよ。濁りを減らす桶だ。変な匂いなら使わない。大人が見る」

 

 子どもたちの理解は、そちらの方が早かった。

 

 澪は、少しだけ肩を落とした。

 

「私の説明、長いんですね」

 

「長いね」

 

 リュシアは否定しなかった。

 

 

 

 

 

 小さな桶の底に布を敷き、その上に砂利を入れ、粗い砂を入れ、さらに細かい砂を重ねる。炭は細かく砕きすぎないようにして、布で包んで間に挟んだ。

 

 澪は、桶の下に別の受け桶を置いた。

 

「少しずつ入れます」

 

 雨水甕の水を、まず布で粗く濾してから、積層ろ過桶へ注いだ。

 

 最初に出てきた水は、黒っぽかった。

 

「黒い!」

 

 澪は思わず声を上げた。

 

 トトが嬉しそうに言う。

 

「黒い水」

 

「使いません」

 

 澪は即答した。

 

 リュシアが覗き込み、炭の粉だね、と言って受け桶を遠ざけた。

 

「最初に出た水を豆に使う気かい」

 

「使いません」

 

「二回言った」

 

 トトが言う。

 

「大事なので二回言いました」

 

 澪は真面目に返した。

 

 何度か水を通すと、少しずつ黒さは減った。濁りも薄くなる。最初よりは、確かに見た目が澄んでいる。

 

 だが、澪はそれを見てすぐに安心しなかった。

 

「澄んで見えても、安全が決まったわけではありません」

 

 シスターが受け桶の水を見ながらうなずいた。

 

「澄んで見える水でも、まだ大人が見るのですね」

 

「はい。あと、最後は食べる前に火を通します」

 

 司祭は、子どもたちへ向けて穏やかに言った。

 

「綺麗に見えることと、食べ物に使ってよいことは、同じではありません」

 

 トトが、少し考えてから言った。

 

「水、ますますずるいな」

 

 澪は否定できなかった。

 

 

 

 

 

 次は札だった。

 

 澪は木札を前に、筆を持って固まっていた。

 

 雨水。井戸水。ろ過済み。未加熱。もやし用。本日中。

 

 書くべきことは分かっている。だが、それをそのまま書いても、孤児院の小さい子どもたちが読めるとは限らない。

 

 リュシアが横から見て、すぐに言い換えた。

 

「雨の水。井戸の水。砂と炭を通した水。豆草用。今日使う。変な匂いなら使わない」

 

「もやし用です」

 

 澪は小さく抵抗した。

 

 トトがすぐ口を挟む。

 

「豆草用の方が読める」

 

「読めても、名前が違います」

 

 シスターは少し考えてから言った。

 

「子どもが読める方を優先します」

 

 澪は負けた。

 

 木札には、豆草用、と書かれた。

 

 ただし、澪の帳面には、しっかり「もやし用水」と書いた。そこだけは譲らなかった。

 

 トトは木札を見て満足そうだった。

 

「豆草、勝った」

 

「勝ってません。表向きだけです」

 

「表向き勝った」

 

 澪は返す言葉を探して、見つからなかった。

 

 

 

 

 

 収納持ちの子どもの話が出たのは、その日の午後だった。

 

 シスターが、一人の子を連れてきた。年はトトより少し下くらいで、痩せているが目はしっかりしている。手には小さな布袋を持っていた。

 

「この子は、小さなものなら短い間しまえます」

 

 シスターが言った。

 

 子どもは緊張していた。布袋を胸の前で握りしめている。

 

 澪は、すぐに水袋を見せようとは思わなかった。二十リットルは無理だ。水は重い。収納に入っても、負担はある。自分が身をもって知ったばかりだ。

 

「まずは、空の袋からです」

 

 司祭が先に言った。

 

 澪はうなずいた。

 

「はい。水を運ぶ前に、空のウォーターバッグ、布、軽い木札からです」

 

 リュシアも頷く。

 

「重いものから始める子は、だいたい腰をやる前に心が折れる」

 

 トトが手を上げた。

 

「俺もやる」

 

「トト、収納あるんですか」

 

「ない」

 

「では、まず水替えからです」

 

「水替え、地味」

 

「地味なことが一番大事です」

 

 エレナは、収納持ちの子をじっと見ていた。

 

「才能を見るのか」

 

 澪は首を振った。

 

「才能というより、安全にできる範囲を見ます」

 

 司祭が静かに付け足す。

 

「そして、できないことも見るのです。無理をさせないために」

 

 収納持ちの子は、少しだけほっとした顔をした。

 

 澪はその顔を見て、慎重に進めようと思った。

 

 

 

 

 

 中身のなくなったウォーターバッグは、洗うだけでも少し手間がかかった。

 

 口が狭い。水を入れて振ればよいというものでもない。中に水が残ったまま置けば、匂いが出るかもしれない。乾かす時には、口を開けて、中に風が通るようにしなければならない。

 

 子どもたちは、当然のように袋を膨らませようとした。

 

 シスターが止めた。

 

「これは遊ぶ袋ではありません」

 

「前にも聞いた」

 

 トトが言う。

 

 リュシアがすぐ返す。

 

「聞いたなら覚えな」

 

 澪は、袋を吊るす場所を探した。日が当たりすぎず、床に触れず、子どもが走ってぶつからない場所。思ったより難しい。

 

 袋番号。前に入れた水。洗った人。確認した大人。次に入れる予定の水。

 

 また表が増える。

 

 澪は帳面に書きながら、思わずため息をついた。

 

「大豆もやし、表が多い……」

 

 リュシアは笑った。

 

「でも、表がないと水袋が迷子になるよ」

 

「水袋、迷子になりますか」

 

「トトが持つとね」

 

「俺、まだ持ってない」

 

「持つ前から分かるんだよ」

 

 トトは不満そうに唇を尖らせた。

 

 

 

 

 

 収納持ちの子ども候補には、まず小さな水袋を使った。

 

 片手で持てる程度の袋に、少しだけ水を入れる。直接持つと、子どもにはそれでも重い。けれど収納に入れると、表情が少し楽になった。

 

 澪は、子どもの目の前に桶を置いた。

 

「出す時は、必ず桶の上。床に出したら全部だめです」

 

 子どもは真剣にうなずいた。

 

 澪は、さらに近づいた。

 

「迷ったら出さない。分からなくなったら、私かシスターを呼ぶ。急がない。走らない」

 

 子どもはもう一度うなずいた。

 

 小さな水袋が、収納から出た。

 

 少しだけ場所がずれた。

 

 澪は慌てて手を伸ばしたが、袋は桶の縁に当たり、なんとか中へ落ちた。水が揺れ、少しだけ跳ねた。

 

 子どもは青ざめた。

 

 司祭がすぐに声をかける。

 

「大丈夫です。こぼしていません。今ので、桶の真上に出す練習が必要だと分かりました」

 

 リュシアも、子どもの顔を見て言った。

 

「水が少ない時に失敗しておくのは悪くないよ。二十リットルでやったら泣くからね」

 

 トトが横から言った。

 

「俺なら床に出さない」

 

 リュシアが見た。

 

 トトは黙った。

 

 澪は、収納持ちの子の顔色を見た。怖がりすぎてはいない。疲れてもいない。ただ、真剣だった。

 

 司祭は、その様子を確認してから言った。

 

「仕事にするなら、休む時間と、食べる時間と、受け取る銭を決めましょう。できたからといって、続けてやらせるのは違います」

 

 澪は深くうなずいた。

 

 便利な力を見つけた時ほど、止める決まりが要る。

 

 

 

 

 

 エレナは、積層ろ過桶とウォーターバッグの運用を見て、当然のように言った。

 

「屋敷でも作れば、もっと多くできる」

 

 澪は迷った。

 

 屋敷なら、器も人手もありそうだ。水を貯める場所もあるかもしれない。けれど、今広げると、手順が乱れる。名前だけ真似されて、汚れた水で大豆もやしを作られたら困る。

 

 リュシアが、澪より早く止めた。

 

「姫様、手順が固まる前に増やすと、悪い真似も増えます」

 

 シスターも静かに続ける。

 

「まず孤児院で少量です。失敗した時に止められる数。水を捨てても泣かない数。それからです」

 

 エレナは不満そうだった。

 

「屋敷の者なら覚えられる」

 

「屋敷の者が覚えたとしても、町の者が真似します」

 

 澪は言った。

 

「間違えた真似が広がるのが怖いんです」

 

 エレナは、少しだけ黙った。

 

 前なら、屋敷でできるかどうかだけを考えただろう。けれど今は、市場や孤児院で起きることも少しずつ見るようになっている。

 

「つまり、今は水の稽古なのだな」

 

「はい。豆草……ではなく、もやしの前に水の稽古です」

 

 トトが目を光らせた。

 

「今、豆草って言った」

 

「言ってません」

 

「言った」

 

「言ってません」

 

 エレナが笑った。

 

 護衛がすかさず言う。

 

「エレナ様、炭には触らないでください」

 

「笑っただけだ」

 

「笑った後に触ることがあります」

 

「信用がないな」

 

「はい」

 

 エレナは、少しだけむっとした。

 

 

 

 

 

 最初の現地ろ過水を使う時、澪はかなり緊張した。

 

 現代側の水道水で仕込んだ器とは、完全に分ける。札も違う。水の由来も書く。雨水なのか、井戸水なのか。布で取ったか。砂と炭を通したか。誰が匂いを見たか。

 

 今回は、井戸水を布で濾し、積層ろ過桶を通した水を少量だけ使う。

 

 澪は、器に大豆を入れ、水を注いだ。

 

 見た目は、現代の水道水と大きく違わない。

 

 だからこそ怖い。

 

 失敗した時、どこが原因なのか見なければならない。水か、桶か、布か、置き場所か、手か、時間か。

 

 シスターが横で言った。

 

「失敗しても、記録が残れば次に役立ちます」

 

 澪は、器に札を結びながらうなずいた。

 

「はい。捨てることも試験の一部です」

 

 言ってから、少しだけ胸が痛んだ。

 

 捨てるのは嫌だ。もったいない。孤児院の子どもたちに食べさせるはずだったものを捨てるのは、できれば避けたい。

 

 でも、危ないものを食べさせるよりはいい。

 

 澪は札の結び目を確かめた。

 

 現地ろ過水。井戸水由来。今日仕込み。大人確認済み。食べる前に加熱。

 

 字が多い。

 

 だが、今はそれでよかった。

 

 

 

 

 

 片付けの途中で、事件は起きた。

 

 トトが、炭を触った手で木札を持った。

 

 澪の目の前で、白っぽい木札に、黒い指跡が三つ付いた。

 

「水の札が!」

 

 澪は本気で叫んだ。

 

 トトは札を見た。

 

「読めるよ」

 

「読めるかどうかじゃないです」

 

 リュシアがトトの手首をつかんだ。

 

「読めても洗いな」

 

「俺、炭係だから」

 

「今は黒い手係だよ」

 

 エレナが笑った。

 

 護衛がすぐに一歩前へ出る。

 

「エレナ様は触らないでください」

 

「私は何もしていない」

 

「今からしそうでした」

 

「していない」

 

「する前に止めています」

 

 澪は、黒い指跡のついた札を見て、深く息を吐いた。

 

 木札の予備も必要。

 

 炭を扱う時の手洗いも必要。

 

 炭係という役職は不要。

 

 帳面にそう書こうとして、最後だけやめた。

 

 トトが横から覗き込む。

 

「炭係、書いた?」

 

「書きません」

 

「なんで」

 

「ない係だからです」

 

 トトは納得していない顔だった。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻った澪は、スマホを開いた。

 

 ウォーターバッグの追加購入画面が残っている。二十リットル、折りたたみ式、蛇口付き。買えば楽になる。たぶん、すぐに使う。あればあるほど便利だ。

 

 澪は、購入ボタンの手前で指を止めた。

 

 買えば、現代品頼りになる。

 

 もちろん、現代品を使うのが悪いわけではない。だが、孤児院で今日作ったものは、ウォーターバッグの数ではなかった。

 

 机の上には、水管理表が広がっている。

 

 袋番号。

 

 水を取った場所。

 

 布で濾したか。

 

 砂と炭を通したか。

 

 誰が見たか。

 

 どの子が運んだか。

 

 いつ使ったか。

 

 捨てた理由。

 

 澪は、大豆袋ではなく、その表を見てため息をついた。

 

 大豆もやしは、豆を育てる話ではなくなっていた。

 

 水を選び、濾し、札を付け、子どもが運び、大人が捨てる判断をする。そこまでやって、ようやく豆は食べ物に近づく。

 

 澪はスマホの画面を消した。

 

 ウォーターバッグを買い足す前に、まずこの表を回す。

 

 六畳間の床には、相変わらず大豆袋が地味な顔で残っていた。けれど澪には、その横に見えない水袋と、黒い指跡のついた木札まで積まれているような気がした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。