座卓の上で、印刷した紙の角がきっちりそろっていた。
澪は、その白い紙の上に並んだ文字をもう一度見下ろした。三菱ふそうローザ。4.9ターボ。キャンピング仕様。社外ナビ・TV。水没。100万円。
どれか1つだけなら、まだ聞き流せたかもしれない。だが全部が同じ紙の上に並ぶと、どうしても嫌な予感しかしなかった。冬前の薄い光が窓から入り、紙の端を白く照らしている。電気ポットから湯気が立っていたが、澪はお茶を入れる気になれなかった。
真壁は座卓の前に座り、スマホを置いた。紙の束は、ただの中古車情報だけではない。横に細かく書かれたメモには、補修、車内設備、悪路、運用試験という言葉が見える。
「明石さん、納得しますか」
澪が聞くと、真壁はスマホの画面を確認しながら短く答えた。
「させます」
その返事を聞いた瞬間、澪は口を閉じた。もう勝ち筋を見つけた人の声だった。
真壁が通話を始める。数回の呼び出し音のあと、明石の声がスマホから流れた。
『はい、明石です』
「真壁です。車両購入の件で確かめたい」
『……先に聞きます。普通の話ですか』
明石の声が、開始3秒で警戒していた。
澪は座卓の端に手を置いた。明石さん、さすがです、と心の中で呟く。
「普通の車両ではありません」
『その答えで不安が増えました』
真壁は紙を1枚、スマホの横へ滑らせた。紙の動きに迷いがない。
「三菱ふそうローザ。水没歴あり。キャンピング仕様。100万円」
『止めます』
即答だった。
澪は少しだけ息を吐いた。まだ世界には常識が残っている。
「公道走行用ではありません」
『では、何用ですか』
「未舗装地、悪路、電装補修、車内設備再構成を含む運用試験用です」
スマホの向こうで、明石が沈黙した。紙の上に落ちた光が少し揺れる。澪は、いま明石が頭の中で勘定科目と税務署と水没車を並べているのだろうと思った。
『確かめます。水没した中古バスを、事業用に100万円で購入したい、という話ですね』
「はい」
『普通は止めます』
「普通に使う予定はありません」
『その答え方が、すでに普通ではありません』
澪は思わず頷いた。完全にその通りだった。
真壁は反論しなかった。反論しないまま、次の紙を出す。
「国内公道での運用予定はありません。登録車両としてではなく、悪路用移動設備の素材として扱います」
『日本国内で走らせませんか』
「走らせません」
『即答されると、別の不安が出ます』
「税務上は、そこが重要です」
澪は、明石の声がほんの少し詰まったのを聞いた。常識で止めるには危ない。だが、税務上の説明としては逃げ道がある。その隙間に、真壁が資料を差し込んでいく。
『キャンピング仕様というのは』
「車内設備の再利用対象です。座席、簡易水回り、内部配線、収納空間、休憩区画。完成車ではなく、分解再構成を前提にします」
『水没車ですよね』
「電装は最初から点検、交換、引き直し前提です。むしろ研究材料として扱いやすい」
『扱いやすいと言われると、一般の感覚から離れていきます』
「一般販売用ではありません」
明石のため息が、スマホの小さな穴から聞こえた。
澪は、座卓の上の資料を見た。真壁のメモには、座席撤去、床材、手すり、荷物固定具、清浄機、救護といった単語が短く並んでいる。車を買う話ではない。人を運ぶ箱を、使える形に組み替える話だ。
それでも、水没したバスを買う話であることに変わりはなかった。
「明石さん、今ちょっと押されましたね」
『篠原さん、聞こえています』
「あ、すみません」
澪は背筋を伸ばした。スマホの向こうの明石は、見えないのに眼鏡を押し上げたような気配がした。
『真壁さん。購入自体は、説明の筋を作れなくはありません。ただし、趣味や個人利用に見える支出は困ります。使用目的、保管場所、補修費の扱い、事業との関係を残してください』
「分かりました」
『篠原さんも聞いてください。分かりました、で済ませないでください』
「はい。残します」
澪はノートを引き寄せかけて、指を止めた。何でもかんでも自分で抱えるのは違う。明石が求める書類は明石の領分で、真壁の補修計画は真壁の領分だ。澪は、その間で、用途と危険を見失わないようにすればいい。
『最後にもう1つ。国内で走らせない、という点は本当に守ってください』
「守ります」
『なぜそこで篠原さんまで沈黙するんですか』
澪は視線をそらした。
「真壁さんが、聞かない方がいい種類の事務と言い出しそうだったので」
「言っていません」
『言う予定はありましたね』
真壁は答えなかった。
沈黙の形だけで、だいたい分かった。
『……購入前に、最低限の資料を送ってください。私は、それを見てから処理します。納得ではなく、処理です』
「助かります」
『助かる話にしたのは、そちらです』
通話が切れたあと、六畳間は急に静かになった。
電気ポットの湯気が、やっと部屋の中で存在を主張し始める。澪は座卓の紙を見下ろした。100万円という数字は、大学生の感覚では小さくない。けれど異世界側で人を安全に運ぶことを考えると、安いとも言えてしまう。そのずれが、頭の中でうまく収まらなかった。
「勝ちましたね」
澪が言うと、真壁は紙をまとめながら首を横に振った。
「勝つより、逃げ道を残す方が疲れます」
「疲労、どれくらいですか」
「60%」
澪の指が紙の上で止まった。
「もう休んでください」
「そのために採石場秘密基地へ行きます」
「それは休む場所じゃなくて作業場です」
「整理だけです」
「真壁さんの整理は、だいたい作業です」
真壁は否定しなかった。否定しないまま、紙の束を揃え、スマホをポケットに入れた。
澪はその横顔を見た。顔色が悪いわけではない。声もいつも通りだ。ただ、資料を取る指の速度が、ほんの少し遅い。真壁が自分から60%と言う時点で、たぶん本当に休ませるべきなのだ。
それでも、真壁はもう次の作業を見ている。
「納品準備だけ済ませます。澪君は、ヴァルト殿とセルマ君の件を」
「はい。……そちらは、子どもたちの話ですよね」
「ええ。人を運ぶ手段の前に、人を育てる話です」
真壁はそう言って、紙の束を閉じた。
澪は、その言葉が紙より重いと思った。
採石場秘密基地の空気は、石粉を含んで冷えていた。
木箱の乾いた匂いと工具油の匂いが重なり、壁際には納品を待つ箱が並んでいる。棚の前にはまだ空いている場所が残され、何を置くか決まっていない空白だけが、妙に目立った。
真壁は上着を脱がず、棚の前に立った。動きは普段よりわずかに遅い。それでも手は止まらなかった。
収納から木箱が出る。布で包まれた部品、清浄機用の試験機材、工具、荷物固定用の金具。真壁はそれらを一つずつ見て、棚の前で置き直した。
ローザ用に使える物は、まだ箱へ入れない。床材、手すり、固定具、簡易救護の資材。真壁の指は、メモの上で短く止まり、それから別の紙へ移る。
「座席は減らす。荷と人を混ぜない。清浄機は固定式と可搬式を分ける」
声は小さかった。誰かへ説明するためではなく、自分の頭の中の配置を外へ出しているだけだ。
秘密基地の外で風が鳴った。石の隙間を抜ける音が、低く伸びる。真壁は一度だけそちらへ目を向け、すぐに棚へ戻した。
人を運ぶ。
それは荷物より厄介だった。壊れたら替えがきかない。泣く子も、酔う者も、怪我人も、魔術師見習いも、錬金術師見習いも、同じ箱に詰め込むわけにはいかない。
真壁は、空の棚を一段残した。
まだ決まっていない人間のための空きだった。
共同商館の一室には、新しい木の匂いが残っていた。
廊下の向こうでは、誰かが木箱を下ろしている。鈍い音が床を伝い、机の上の小瓶がかすかに震えた。冬前の光は窓から白く入り、ヴァルトの置いた小さな魔力灯を薄く照らしている。
澪が部屋に入ると、セルマが小瓶を布の上に置いたところだった。瓶の底には、光る粒が沈んでいる。ヴァルトは指先で魔力灯の明るさを絞り、光の輪を細くしていた。
商談の部屋とも、工房とも違う。ここに置かれた道具は、売るための商品ではなく、子どもたちに何かを見せるためのものだった。
澪は鞄の紐を握り直した。授業用の小瓶や布を入れてきたはずの鞄が、今日は妙に軽く感じる。魔力灯と錬金術の小瓶を前にすると、自分の理科の道具が急に頼りなく思えた。
「お待たせしました」
澪が言うと、ヴァルトが丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、お時間をいただきます」
セルマは小瓶の包みを指で押さえ、澪の顔を見た。
「弟子候補、という言い方が引っかかっているのね」
澪は鞄の紐を握り直した。言葉にされると、少し恥ずかしい。けれど、その通りだった。
「はい。孤児院の子どもたちを、人手として見る形にはしたくありません」
「人手を探すわけではありません」
ヴァルトの返事は静かだった。
「魔術師は、魔力が強ければよいというものではありません。何を見ているか。どこで止めるか。なぜ危ういか。それを考える子でなければ、危険です」
セルマも頷いた。
「錬金術も同じね。手が器用なだけでは駄目なの。匂い、色、沈み方、熱。変化を見て、待てる子でないと危ないわ」
澪は机の上を見た。魔力灯、小瓶、乾いた薬草、香りを含ませた布、軟膏らしい小さな容器。子どもに見せる道具としては綺麗で、同時に、触らせるには境目が必要なものばかりだ。
「弟子を選ぶ前に、将来の仕事の話にしてください。本人が何をしたいのかを先に見たいです」
「承知しました」
ヴァルトが言った。
澪は、ふと魔力灯に目を留めた。淡い光が、机の上で輪になっている。
「ヴァルトさん。さっき言っていた、理という言葉ですが」
「ことわり、です」
ヴァルトはすぐに答えた。
「澪さんが子どもたちに教えている理科。その先にあるものとして話せると思います」
澪は少しだけ目を開いた。
理科。
孤児院の広間で、水を入れた瓶を逆さにしたり、石を落として音を聞かせたり、草の葉を見比べたりしてきた。あれが魔術の入口につながると言われると、不思議な感覚があった。
「私の授業、そんなところにつながりますか」
「つながります。見る、比べる、なぜと問う。それを軽んじる魔術師は、長く持ちません」
ヴァルトの声には、魔術院にいた者の重みがあった。
澪は鞄の中の授業道具を思い出した。小さな瓶、石、布、紙。特別なものではない。けれど、子どもたちがそれを覗き込み、目を丸くしていた顔は覚えている。
「では、今日は仕事の話です」
澪は息を置いてから言った。
「弟子の話は、その後です」
セルマが微笑んだ。
「ええ。興味を持った子と、少し話しましょう」
共同商館を出ると、冷えた風が通りを抜けていた。
澪は鞄を肩へ掛け直した。中には、いつもの理科の道具が少し入っている。今日はそれに加えて、ヴァルトの魔力灯とセルマの小瓶がある。仕事の話、と言いながら、まるで不思議な移動教室だった。
通りの端には、冬支度の薪が積まれていた。干した布が低い風に揺れ、戸板を直している職人の槌音が遠くから聞こえる。澪には、その一つ一つが「冬が来る前に済ませたいこと」に見えた。
孤児院へ近づくと、煮込みの匂いと焼いた芋の甘い匂いが混じってきた。庭には洗濯物が並び、玄関脇には小さな木靴がいくつも置かれている。左右が逆になっている靴を見て、澪は自然に表情が緩んだ。
司祭様は玄関で3人を迎えた。シスターは奥から子どもたちの声を抑えながら出てくる。
「篠原さん。今日は授業の日でしたかな」
「はい。ただ、今日は理科の続きに関係する、将来の仕事の話をしたいと思っています」
澪が言うと、司祭様の目が少し和らいだ。
「仕事の話ですか」
「はい。魔術師と錬金術師について、ヴァルトさんとセルマさんに話していただきます。ただ、弟子入りを決める話ではありません」
澪はそこをはっきり言った。口にしておかないと、期待だけが先に走る気がした。
「本人が興味を持つか。何をしたいと思うか。そこからです」
シスターが小さく頷いた。
「それなら、子どもたちにもよい機会になるでしょう。ただ、舞い上がる子は出ると思います」
「……はい。そこは、たぶん」
澪は、真壁を見た時の子どもたちの顔を思い出した。空を飛ぶ、消える、物を出す、大きな建物を出す。あれを職業説明の前提にされると、かなり苦しい。
司祭様が広間へ案内する。
木の床は古いが、きちんと掃かれていた。厨房から湯気と夕食前の匂いが流れ、窓から入る午後の光に細かい埃が浮かんでいる。小さい子たちの声が近づき、次の瞬間、広間の空気が跳ねた。
「澪先生!」
「せんせーい!」
「今日なにするの!」
「理科?」
澪の袖を、腰を、鞄の紐を、小さな手が次々につかんだ。後ろから少し大きな子も来る。最初は先生らしく落ち着こうとした。手を広げて、順番に、と言おうとした。
言おうとしたのに、顔が勝手に緩んだ。
胸の奥で、普段あまり触れられない部分が、わっと温かくなる。大学では発言のタイミングを考え、商会では責任の線を考え、真壁の速度には追いつけずに息を詰めることが多い。けれどここでは、子どもたちが何の計算もなく「先生」と呼んでくる。
「順番です。転びますから、順番に」
澪はそう言いながら、完全に笑っていた。
ヴァルトが横で一度、瞬きをした。セルマは口元に手を当て、目だけで笑っている。
「澪さん」
「はい」
「嬉しそうね」
「教育効果です」
澪は即答した。
セルマは笑みを深くした。
「今のは教育効果なのかしら」
「少なくとも、かなり届いています」
ヴァルトまで真面目な声で続けた。
澪は子どもたちに囲まれながら、2人を見ないようにした。見たら負ける気がした。
シスターが手を叩き、子どもたちを座らせていく。小さい子は前、大きい子は後ろ。澪の袖を最後まで握っていた子が名残惜しそうに離れると、澪は胸の奥に小さな穴が空いたような気がした。いや、授業を始めるのだから、と自分に言い聞かせる。
「今日は、将来何になりたいかのお話です」
澪が言うと、広間のあちこちから手が上がった。
「行商人!」
「僕も行商人!」
「ぎょうしょうにん!」
まだ意味が分かっていない年の子まで、勢いだけで言っている。
澪は一瞬、言葉を失った。
「ええと。行商人がどういう仕事か、分かる人」
少し大きい男の子が胸を張った。
「物を売る人!」
「はい。そうですね」
「消える人!」
「違います」
「空飛ぶ人!」
「違います」
「大きい家出す人!」
「それは、もっと違います」
後ろでヴァルトが咳払いをした。たぶん笑いを隠した。
女の子の一人が、真剣な顔で手を上げる。
「真壁さんのお嫁さん」
広間がざわっとした。
「わたしも!」
「真壁さんのお嫁さんになる!」
「真壁さん、今日いないの?」
澪は額に手を当てかけて、途中で止めた。子どもたちの夢を正面から折るのは違う。しかし、これを職業として通すわけにもいかない。
さらに、端にいた男の子が小さく手を上げた。
「澪先生のお婿さん」
澪は固まった。
セルマが肩を震わせた。ヴァルトは真顔を保っているが、目元がやや危ない。
「……教育効果が、出ていますね」
澪は絞り出した。
「範囲が広がっています」
ヴァルトが丁寧に言った。
「広がらなくていい範囲です」
澪は深呼吸した。広間の子どもたちは期待に満ちた目でこちらを見ている。ここで負けてはいけない。先生として、仕事とは何かを戻さなければならない。
「仕事というのは、誰かの役に立つために、何を学び、何をするかです。行商人は、物を運んで、必要な人に売る仕事です。消えたり、空を飛んだり、大きい家を出したりする仕事ではありません」
「でも真壁さん、出したよ」
「真壁さんは、真壁さんです」
これ以上ない説明だった。
子どもたちは納得したような、していないような顔をした。
澪は隣のヴァルトを見た。
「今日は、行商人以外の仕事も知ってもらいます。まずは、魔術師のお話です」
ヴァルトが広間の中央へ進むと、子どもたちの声が少し小さくなった。
真壁のように大きな物を出す人ではない。子どもたちの顔に、そんな予想が浮かんでいた。澪にも分かる。ヴァルトは派手さを前に出す人ではない。だが、彼は子どもたちの視線を受け、静かに右手を上げた。
淡い光が手元に生まれた。
光は輪になり、広間の中央でゆっくり回った。小さい子が身を乗り出すと、シスターが肩を抱いて止める。光の輪は子どもたちの頭より少し低い位置で止まり、そこから細い線へほどけた。線は何もない空間で折れ曲がり、見えない壁に沿うように進んだ。
広間の床に、青白い影が揺れる。
「すごい」
「触れる?」
「触りません」
澪が即座に言うと、伸びかけた手がいくつか引っ込んだ。
ヴァルトは光をそのまま保ち、子どもたちを見た。
「今の動作には、理があります。ことわり、と読みます」
「ことわり?」
前の方の子が首を傾げる。
「澪さんが教えている理科は、物がなぜ落ちるのか、なぜ浮くのか、なぜ変わるのかを考える学びです」
澪は、広間の端で息を置いた。
自分の授業の名前が、ヴァルトの口から出る。水を入れた瓶。落とした石。葉の色比べ。小さな実験ばかりだった。それが、この光の輪と同じ話の中に置かれている。
「魔術にも、それがあります。魔力がどこを通り、どこで止まり、なぜ崩れないのか」
ヴァルトが指を少し動かすと、光の線が一歩だけ進み、また止まった。
「理は、澪さんが教えている理科の先にあります。理を見つけ、研鑽し、世のために使う者。それが魔術師です」
歓声の中で、1人だけ別の場所を見ている子がいた。
リオだった。小柄で、輪の端に座っている。派手な光ではなく、光が止まった空間をじっと見ていた。壊れた椅子を黙って直していた時と同じ目だった。
「どうして、そこから先に行かなかったんですか」
リオがぽつりと聞いた。
ヴァルトの視線が、その子に止まる。
「よく見ていましたね」
褒められたリオは、嬉しそうにはしなかった。ただ、光の止まったあたりをまだ見ている。
次に手を上げたのはメルだった。11歳の、いつも小さい子の前に立つ女の子だ。今日も隣の幼い子の肩に手を置いたまま、ヴァルトを見上げていた。
「あの壁は、小さい子を守れますか」
問い方が、強くなりたい子のものではなかった。守れなかったことを覚えている子の声だった。
ヴァルトは光の輪を小さくし、床へ落としかけた布切れを見えない膜で受け止めた。布は床に触れず、空中でふわりと止まる。
「守れます。ただし、理を乱せば守れません。強く出せばよいものではありません」
メルは唇を引き結んだ。
澪はその横顔を見て、授業の時にメルが小さい子の咳へすぐ反応していたことを思い出した。あれは世話好きだけではない。冬の寒さや流行病の記憶が、体に残っているのだ。
ヴァルトの光が静かに消える。
広間の子どもたちは、まだ興奮していた。だがその中に、ただ「すごい」だけではない目が混じり始めている。
セルマが中央に小さな台を置くと、子どもたちはまた前のめりになった。
台の上には、布で包まれた小瓶、乾いた葉、湿った葉、香りを含ませた布、小さな軟膏の容器が並ぶ。澪は思わず、小瓶の位置を見た。子どもの手が届きそうで届かない距離。セルマはその位置を、最初から分かって置いている。
「錬金術師は、薬を作る人?」
子どもの一人が聞いた。
「薬も作ります」
セルマは柔らかく答えた。
「でも、それだけではありません」
小瓶を軽く振る。
瓶の底で沈んでいた粒がふわりと舞い、赤、青、金の光が小さな花のように咲いた。熱はない。煙もない。ただ、光だけが瓶の中でほどけて消える。
「わあっ」
「もう一回!」
「それ混ぜたの?」
声が一気に上がる。ニナが半分立ち上がりかけ、シスターに肩を押さえられた。服の裾が少し乱れ、目だけが小瓶に釘付けになっている。
「勝手に混ぜたら、もう見せません」
セルマの声は穏やかだったが、線ははっきりしていた。
ニナは一瞬しゅんとした。だが、すぐ顔を上げる。
「聞いてからならいい?」
「聞いて、待てるならね」
その返事に、ニナの目がまた輝いた。待てるかどうかは、まだ怪しい。けれど、聞けばよいという入口を見つけた顔だった。
セルマは乾いた葉を指先で持ち上げた。かさりと軽い音がする。次に湿った葉を持つと、指先に重さが残った。青い匂いが、少しだけ広間に広がる。
「同じ葉でも、乾かし方、混ぜ方、置く時間で変わります。薬になることもあれば、失敗することもあるわ」
子どもたちは真剣に見ている。
セルマは香りを含ませた布をそっと振った。草花に似た柔らかい匂いが、澪のところまで届く。広間の古い木の匂い、煮込みの匂い、その間に、少しだけ違う空気が通った。
「錬金術師は、苦い薬を作るだけではありません。肌を守るもの、香りで気持ちを落ち着けるもの、髪や手を傷めないものも作ります」
後ろの方で、サラが顔を上げた。
サラはいつも髪を丁寧に整えたがる。服のほつれを気にし、小さい子の髪を結んでやる。澪は、その手つきがただの見栄ではないことを、何となく分かっていた。亡くなった母親から残されたものを、サラはそこに持っている。
「それは、貴族の人だけのものですか」
サラの声は小さかったが、広間に届いた。
セルマはすぐに首を横に振った。
「いいえ。働く人にも、子どもにも必要なものよ。手が荒れれば痛いでしょう。肌が切れれば、そこから悪くなることもあるわ。髪や肌を整えるのは、飾るためだけではありません」
サラは自分の手を見た。指先に、洗い物で荒れた跡が少しある。隣の子の髪を結んだ時についた癖が、まだ指に残っているようだった。
澪は、セルマが薬の話をしているのに、サラには母親の手の話として届いているのだと感じた。
「錬金術は、物が変わる瞬間を見る仕事です」
セルマは小瓶を置き直した。
「でも、変えればよいわけではありません。危ない変化を、安全な形に整える仕事です」
ニナがまた手を上げる。
「じゃあ、変えたい時は?」
「まず見るの。次に聞くの。それから待つの」
「待つの、長い?」
「長い時もあるわ」
ニナは露骨に顔をしかめた。
セルマは笑わなかった。
「待てるようになるところからね」
その一言で、ニナは小瓶からセルマの顔へ視線を移した。叱られたのではなく、入口を示されたと分かったらしい。
澪は、ヴァルトの光の時とは違う熱が、広間に生まれているのを感じた。魔術の理に目を向けた子。変化の匂いや光に身を乗り出す子。真壁だけに向いていた憧れが、少しずつ別の方向へほどけていく。
授業を終える頃には、広間の熱気は少し落ち着いていた。
小さい子たちはシスターに水を飲ませてもらい、大きい子は椅子を戻している。床には午後の光が長く伸び、台の上の小瓶は布に包まれていた。
それでも、何人かは帰らなかった。
リオはヴァルトの手元を見ている。メルは小さい子の肩に手を置いたまま、ヴァルトの方を向いている。サラはセルマの軟膏容器を見つめ、ニナは小瓶に近づきすぎない距離で足を揺らしていた。
司祭様とシスターに断ってから、ヴァルトとセルマは子どもたちを少しずつ見ることにした。見世物のように並べるのではなく、話を聞きながら、必要な時だけ鑑定する。
ヴァルトの目が、リオの上で止まった。
「鑑定:芽あり」
声は小さかった。だが澪には聞こえた。
次の子も、また次の子も、似た表示が見えているらしい。中には「鑑定:1」と見える子もいると、ヴァルトが目だけで澪に伝えた。
澪は胸の奥がまた温かくなるのを感じた。
見る。比べる。なぜを考える。
孤児院でやってきたのは、小さな理科の授業だった。水をこぼさないように瓶を持たせ、石の重さを比べ、葉の色を見せる。その一つ一つが、子どもたちの中で何かの芽になっていた。
「澪さんの授業ね」
セルマが、サラの手を見ながら言った。
「見る、比べる、なぜを考える。それが効いているのだと思うわ」
「……そうですか」
澪は、できるだけ普通に返したつもりだった。
セルマが顔を上げる。
「嬉しそうね」
「授業の成果です」
「はい。授業の成果です」
ヴァルトが真面目に乗った。
澪は2人を見た。2人とも悪気はない。ないのに、完全に見抜いている。
リオが小さく手を上げた。
「さっきの光、どうしてそこで止まったんですか。見えない壁があるんですか」
ヴァルトは膝を少し折り、リオと目線を近づけた。
「壁に近いものです。ただし、板のように置くわけではありません。ここから先へ進まない、という理を作ります」
「壊れたら」
「崩れます」
リオの視線が、床の傷へ落ちた。古い椅子の脚を直す時の顔になる。
「崩れないようにするには、どう見るんですか」
ヴァルトはすぐに答えなかった。リオが聞いたのは、派手な魔法の使い方ではない。壊れたものを、もう壊さないための見方だった。
「まず、どこに力がかかっているかを見ます」
ヴァルトが言うと、リオは黙って頷いた。
メルはそれを聞きながら、隣の小さい子の肩に手を置いていた。
「あの壁は、小さい子を守れますか」
「守れます」
「咳をしてる子も?」
澪はメルを見た。守りたい相手が、抽象的な誰かではないことが分かる。去年の流行病で、誰を守れなかったのかまでは聞けない。けれど、その問いの重さは広間の空気に残った。
「病を治す壁ではありません」
ヴァルトは誤魔化さなかった。
「ですが、冷たい風、飛ぶ破片、人の流れを分けることはできます」
メルは唇を引き結び、それから頷いた。
「分けられるなら、守れることもある」
「あります」
その短いやり取りで、メルの目が少し変わった。強くなりたいのではなく、間に立つ方法がほしいのだ。
セルマの前では、サラが自分の手を出していた。
「肌を守る薬は、私たちでも作れるようになりますか」
「最初から薬を作るわけではないわ」
セルマはサラの指先を見た。荒れた場所を押さえず、近くで止める。
「まず、荒れた手と荒れていない手を見る。何を触ったか、いつ痛むか、何を塗ると悪くなるか。そこからよ」
「髪に使うものも?」
「ええ。髪も肌も、同じ人の一部です」
サラは目を伏せた。母に髪を結ってもらった日のことが、たぶんそこにある。澪にはその記憶は見えないが、サラが小さな布切れを大事にしている理由は、少しだけ分かった。
ニナは、セルマのもう片方の手を見ていた。
「混ぜる前に聞けば、混ぜてもいい?」
「聞いて、待って、私がよいと言ったら」
「待つの、練習する」
「そこから教えます」
ニナは真剣に頷いた。たぶん、すぐ忘れる。けれど、忘れたらまた教えるしかない。待つだけだった過去が嫌で、何でも触って確かめようとする子に、待つことをただ禁じても届かない。
澪は4人を順に見た。
リオは壊れたものを理解したい。メルは小さい子を守りたい。サラは人をきれいにし、肌や髪を守りたい。ニナは待つだけではなく、自分で変化を起こしたい。
澪の中で、「弟子候補」という言葉の重さが変わった。
誰かに選ばれる子たちではない。
それぞれが、自分の手で届くものを見つけかけている。
孤児院の玄関を開けると、夕方の冷たい風が入ってきた。
庭の洗濯物はもう取り込まれている。厨房からは夕食の匂いが濃くなり、奥で鍋の蓋が鳴った。小さな木靴が玄関脇に並び、何人かの子どもが名残惜しそうに澪たちを見ている。
「すぐに決める話ではありませんな」
司祭様が言った。
ヴァルトは深く頷いた。
「はい。本人の望みと、適性を見てからです」
「危ないことも教える仕事です」
セルマは小瓶の包みを胸の前で押さえた。
「軽くは扱えません」
澪も頷いた。
「まずは、本人たちが何をしたいかですね」
シスターは広間の方を見た。子どもたちがまだざわついている。今日見た光や香りや魔術の話で、夜まで眠れない子もいるだろう。
「今日は、眠れなくなる子がいそうです」
「それは……少し、分かります」
澪は苦笑した。自分も初めて異世界を見た夜、簡単には眠れなかった。
小さい子が、澪の袖を最後まで握っていた。シスターがそっと手を離させると、その子は澪を見上げて言った。
「ぎょうしょうにん」
「そこは次回、もう一度説明します」
澪が返すと、司祭様が小さく笑った。
3人が玄関を出る時、リオはヴァルトの手元を見ていた。メルは小さい子の肩に手を置きながら、同じ方向を見ている。サラはセルマの小瓶ではなく、セルマの手つきを見ていた。ニナは一歩前に出かけて、シスターに肩を押さえられている。
夕方の冷えた空気の中で、澪は鞄の紐を握り直した。
まだ何も決まっていない。正式な弟子入りでもない。孤児院と、本人たちと、司祭様とシスターと、これから話すことがいくつもある。
それでも、広間に残った子どもたちの目は、来た時とは少し違っていた。
行商人だけではない。
真壁さんのお嫁さんだけでも、澪先生のお婿さんだけでもない。
夕食の匂いに混じって、セルマの香り布のかすかな花の匂いが、まだ澪の袖に残っていた。