共同商館の一室には、朝の冷えがまだ残っていた。窓から入る光は白く、机の端に置かれた魔力灯の金具を淡く照らしている。廊下の向こうでは、木箱を床へ下ろす鈍い音がして、そのたびにセルマの小瓶がかすかに震えた。昨日、孤児院の広間で光の花を咲かせた瓶だった。布で包まれているのに、まだ草花に似た匂いが薄く残っている。
ヴァルトは魔力灯を手に取った。指先で明るさを絞ると、淡い輪が机の上に浮かぶ。輪は一定のところで止まり、それ以上は広がらなかった。その止まった空間を、昨日、リオは見ていた。他の子どもたちが光に声を上げる中で、彼だけは、光が行かなかった場所を見ていた。どうしてそこから先へ行かなかったのか、と聞いた小さな声が、まだ耳に残っている。
「リオは、光そのものより、止まった位置を見ていました」
ヴァルトが言うと、セルマは小瓶を拭いていた手を止めた。
「サラは小瓶より、手の話に反応したわ」
布の上で瓶が小さく鳴る。セルマは瓶の底を確かめてから、ほんの少し眉を寄せた。
「ニナは……小瓶そのものね」
「危ういですか」
「危ういわ」
セルマは否定しなかった。けれど、切り捨てる声ではなかった。
「あの子は、変わる瞬間を見たくてたまらないのよ。だから最初に、待つことを教えないといけない」
ヴァルトは魔力灯を机へ戻した。光の輪が縮み、金具の中へ沈む。
待つ。
魔術にも同じものがある。魔力は、出したい時に出すだけなら子どもでも暴れる。止める、保つ、逸らす、消す。目に見えないところで踏みとどまる力がなければ、境界はただの線ではなく罠になる。
「メルは守れるかを聞きました。あれは、魔術を力としてではなく、役割として見ています」
「小さい子の肩から、手を離さなかったわね」
「はい」
ヴァルトは窓の外へ目を向けた。共同商館の前を、荷を抱えた少年が通る。薄い上着の袖口が擦り切れていた。少年は肩を入れ替え、重そうな袋を抱え直して小走りに市場の方へ向かう。足は速いが、軽やかではない。遅れれば叱られると知っている走り方だった。
昨日の広間にいた子どもたちは、澪の授業を受けていた。見る。比べる。なぜと考える。その癖が、あの子たちの目に出ていた。リオは止まった位置を見て、メルは守れるかを聞いた。サラは肌に触れるものに反応し、ニナは変化の入口を欲しがった。
では、授業を受けていない子はどうなるのか。
ヴァルトは、その問いを口にする前に、机の木目へ視線を落とした。
「孤児院だけを見て終わりにしてよいのか、分からなくなりました」
セルマは、小瓶を布で包み直した。指先が結び目の上で一度止まる。
「私もよ。町にもいるわ。薬草を運ぶ子、瓶を洗っている子、職人の家で手伝っている子。工房へ来られないだけで、見えていない子が」
「王都にもいます」
その言葉は、思ったより低く出た。
王都魔術院の門は高かった。物理的な高さだけではない。家、金、紹介、身分。才だけで届く場所ではない。門の内側にいた頃は、それを仕方のないものとして見ていた。今になって、門の外にいた子どもたちの顔が見える。見えていたはずなのに、見なかった顔だ。
セルマが眉を寄せた。
「でも、広げたら終わらないわ」
「終わりません」
ヴァルトは即答した。
魔術師の弟子は、教えれば済むものではない。理を誤れば怪我をする。小さな結界の失敗でも、相手を閉じ込めることがある。見えない壁は、守りにもなるが、逃げ道を塞ぐものにもなる。セルマの錬金術も同じだ。混ぜる、温める、待つ。どれかを間違えれば、薬ではなく害になる。美しい光花でさえ、セルマが安全な形に閉じたから子どもの前へ出せた。
窓の外で、市場の声が増えてきた。誰かが値を聞き、誰かが笑い、荷車の車輪が石畳を鳴らす。その一つ一つの生活の中にも、学ぶ場所のない子はいる。
だが、見つければ預かれるわけではない。
「澪と、リュシアに相談するわ」
セルマが言った。
ヴァルトは頷いた。自分たちだけで決めるには、見えているものが狭すぎる。
澪が部屋に入った時、湯を入れた杯は4つ置かれていた。だが、誰もゆっくり飲んでいない。湯気は細くなり、部屋の冷えに溶けていく。リュシアは椅子に座るなり、机の上の魔力灯と小瓶を見て、すぐにヴァルトとセルマへ目を戻した。
「で、弟子を増やす話が、どう転んだんだい」
リュシアの声は軽く聞こえたが、目は商人のそれだった。商品を見る時と同じではない。人の動きと噂の走り方を見る目だ。
澪は鞄を椅子の横へ置いた。昨日、孤児院で子どもたちに引っ張られた紐が、少しだけよれている。手で戻そうとして、昨日の小さな手の感触を思い出した。
リオ、メル、サラ、ニナ。
4人の名前は、もうただの候補ではなくなっていた。けれど、だからこそ簡単に増やす話にはできない。
ヴァルトが、昨日の4人の反応と、孤児院だけで見てよいのか迷っていることを説明する。セルマが、領都の中にも見落としている子がいるはずだと続けた。澪は、机の端に手を置いた。
無料。弟子。魔術師。錬金術師。
その言葉が並んだだけで、頭の中に人の列ができた。親に手を引かれた子。自分で来た子。よく分からないまま連れてこられた子。期待と不安と計算が、同じ廊下に詰まる。
「領都でただの弟子入りなんて言ったら、朝には列ができるよ」
リュシアが杯を持ち上げかけ、飲まずに戻した。
「それも、本人だけじゃない。親が来る。親戚が来る。商家が来る。うちの子を魔術師に、錬金術師にってね」
「本人が望んでいなくても、ですか」
澪が聞くと、リュシアは短く笑った。
「望んでない方が多いかもしれないよ。家の都合で来る子も出る。口減らしで出す家もある。逆に、弟子に取られたら困るって怒る職人もいる」
澪は、机の木目を見ながら椅子の数を数えてしまった。4脚しかない椅子でも、誰が座るか決めなければならない。部屋となれば、食事、寝具、服、熱を出した夜、怪我をした時、途中でやめたいと言った時までついてくる。
孤児院なら、司祭様とシスターがいる。あの子がどういう子か、何に怯えるか、誰と一緒なら落ち着くか、食べ物を隠す癖があるか。そういう生活の目がある。
領都で広く呼びかければ、それがない。
「魔術院に入れる者は限られていました」
ヴァルトは杯に手を伸ばさず、机の上へ視線を落とした。
「才だけでは届きません。ですが、開けばよいという話でもない」
「錬金術も、道具と材料がいるわ」
セルマは自分の指先を見た。薬草の匂いが残っているのだろう。
「危ないものも扱う。興味があります、だけでは預かれない」
リュシアは、窓の外へちらりと目をやった。
「商家の子なら、親は見返りを考える。将来うちの店に有利になるか、取引先へ顔が利くか。貧しい家なら、食い扶持が減ると考える者もいる。職人の家なら、手伝いを取られると見る者もいる」
「子どものための道が、家の都合になってしまいますね」
澪が言うと、リュシアは頷いた。
「そういうことだよ。商売なら客を集めればいい。でもこれは違う。来た子を帰す時の方が重い」
その言葉で、部屋の中が少し沈んだ。
澪は湯気の消えた杯を見た。温かいうちに飲むつもりだったものが、話している間に冷めていく。人の希望も、扱いを間違えればそうなるのかもしれない。
ヴァルトは、机の端に置いた魔力灯を見ている。光を見せるだけなら簡単だ。だが、光を見せた後で「あなたは違う」と言う時、相手の目から何が消えるのか。魔術院の門前で、それを見たことがあったかもしれない。覚えていないのではなく、覚えないようにしてきたのだと、澪には見えた。
セルマは小瓶の包みを撫でていた。ニナのような子が10人来たら、まず何を遠ざけるべきか。サラのような子が来たら、何から触らせればいいか。セルマの目は、すでに工房の棚を見ているようだった。
「真壁さんに相談しましょう」
澪が言った。
止めてもらうためではない。進めるなら、どこで止め、どこへ渡すかを決めるためだった。
採石場秘密基地の作業部屋には、石粉の匂いがあった。外から吹き込む風は冷たく、壁際の棚には納品を待つ木箱が並んでいる。油の染みた工具箱、布で包まれた部品、空いた棚。真壁はその前に立ち、収納から出した箱を1つずつ置き直していた。
澪たちが入っても、手は止まらない。
「相談があります」
澪が言うと、真壁は木箱の向きを変えた。
「聞きましょう」
そのまま作業は続く。澪は少しだけ息を吸った。真壁が聞いていないわけではない。むしろ、こういう時の方が聞いている。
棚の下段には、布で包まれた金具が並ぶ。中段には、清浄機の試験用らしい部品。上段はまだ空いている。真壁はその空きを残したまま、別の箱を出した。空いた場所にも意味があるのだと、澪はもう知っている。
ヴァルトとセルマが、孤児院だけで候補を探す偏りと、領都で無料の弟子入りを開く危うさを説明する。リュシアが、噂になれば親や商家まで押し寄せると補足した。
真壁は棚の空きを見たあと、机へ目を移した。そこには地図が広げられている。領都、王都、さらにその外。澪は、地図の端についた白い石粉を指で払った。粉は線の上に薄く広がり、地名を少し曇らせた。
「領都内で広く探すと、希望者が多すぎて裁けません」
澪が言う。
「しかも、本人じゃなく親が来る。才より家の都合が前に出るよ」
リュシアが続ける。
真壁は棚へ木箱を置いた。乾いた音が1つ落ちる。
「では、領都内で取り合う必要はありませんな」
ヴァルトが顔を上げた。
「どういうことでしょうか」
「犯罪者になる前の王都の子どもはいないのか」
部屋の空気が、一段冷えたように思えた。ヴァルトの指が、机の端で止まる。
「……います」
声は慎重だった。だが否定ではなかった。
澪は、ヴァルトの横顔を見た。王都魔術院というきれいな言葉の外側に、別の王都があるのだろう。盗みを覚える前の子。見張りに立たされる子。誰かの荷を運ばされる子。澪は勝手に想像して、すぐに止めた。知らないものを決めつけてはいけない。
真壁は次に、地図の西側へ視線を移した。
「災害地域から避難する子どもは」
セルマが小瓶の包みを握った。
「いる、でしょうね」
「良いでしょう」
真壁は地図から目を離さず言った。
「リソースは早めに確保、保全するに越したことはない」
澪は反射的に眉を寄せた。
「真壁さん、言い方」
「失われる前に救う、という意味です」
真壁の返事は短かった。
澪は口を閉じた。子どもを物のように扱っているわけではない。それは分かる。分かるが、言葉の刃先が鋭すぎる。
けれど、放っておけば犯罪に使われる子、災害で親や住む場所を失う子を、ただ「かわいそう」と呼ぶだけでは間に合わないのも分かってしまう。命も、才も、学ぶ前の目も、失われてからでは戻らない。
ヴァルトは王都の地図のあたりを見ていた。魔術院の門の外側。商人の裏道。夜に人の流れが変わる場所。言葉にしていないものが、彼の目に浮かんでいる。セルマは西側の空白を見ている。災害地と聞けば、怪我人、汚れた水、薬草を知る家、看病で荒れた手まで思い浮かぶのだろう。
リュシアは、真壁の視線が領都から外れた瞬間、腕を組み直した。
「領都じゃなく、外かい」
「ええ」
「商人の足が要るね」
「いずれ」
真壁はそれだけ言った。
今すぐ具体的な地名を広げるつもりはないのだと、澪は分かった。この場で決めるのは、行き先ではなく考え方だ。
「ただし」
真壁は収納から小さな木片を出した。机の上に置く。1つ、2つ、3つ。乾いた音が続く。左に10個。右に10個。
澪は、それが人ではなく部屋の印だと気づくまで、一拍かかった。
「助けられる枠は決まっていますな」
「枠、ですか」
「ヴァルト君が10部屋。セルマ君が10部屋」
真壁は木片を指で分けた。
「寝かせ、食べさせ、教え、危険から守れる器はそこまでです」
20個の木片が、机の上に小さな影を落としている。
澪には、その影が寝具に見えた。食器に見えた。夜に熱を出した子の額に置く布に見えた。20という数字は、多くもあり、少なくもある。王都や災害地という言葉の前では、あまりに小さい。
「10人でも、軽くはないわ」
セルマが言った。いつもの柔らかさは残っているが、声の奥は硬い。
「私の工房に入れるなら、薬草棚と作業台だけでは足りないわ。触っていいものと駄目なものを、子どもにも分かるように分けなければならないもの」
「魔術の弟子として見るなら、十分に重い数です」
ヴァルトも続ける。
「一度に10人へ理を教えるなど、魔術院でも容易ではありません」
「ええ。だからこそ、誰を選ぶかです」
真壁の声は変わらなかった。
澪は木片から目を離せなかった。
「選ばない子が出ます」
「出ます。選ばない責任も含めて、制度です」
その言葉に、部屋の外の風音が重なった。
澪は、孤児院で袖を握っていた小さな手を思い出した。全員を抱えたいと思うことと、全員を抱えられることは違う。そこを混同すれば、結局誰かを落とす。
真壁は、木片の横へ別の小さな札を置いた。寝具。食器。衣類。見回り。教材。危険物。札には短く書かれているだけだが、澪の頭の中では、それぞれが生活の形を持って広がった。
寝具は1枚置けば終わりではない。洗う日がある。濡れる日がある。夜中に泣いて汚す子もいる。食器は数だけでは足りない。誰が洗うのか、割れたらどうするのか、熱い汁をこぼしたら誰が見るのか。衣類は冬と夏で違う。小さい子はすぐにサイズが合わなくなる。見回りは、夜に必要だ。教材は、子どもが壊す前提で考えなければならない。危険物は、セルマの小瓶1つでさえ、置く場所を間違えれば事故になる。
「保護の扱いは、侯爵家と教会に渡す前提ですね」
澪は、そこだけは先に確かめた。
「当然です。押入商会が領主の仕事を奪う必要はありません」
リュシアが腕を組んだ。
「商会でできるのは、道を作るところまでだね」
「はい」
澪は頷いた。
道を作る。だが、道の先まで自分たちだけで背負わない。孤児院の時も、町全体の冬支度の時も、そこを間違えそうになるたびに考えてきた。
セルマは右側の10個を見ている。薬棚を見るような目だった。触らせてよいもの。触らせてはいけないもの。待たせる時間。失敗した時の逃がし方。
「道を作られたら、歩く子を選ばなければならないわ」
ヴァルトは左側の10個を見ていた。
「選ぶ、という言葉は重いですね」
「軽ければ、任せません」
真壁は木片を片付けなかった。
そのまま、左右に10個ずつ置かれたままにする。答えを出すのは自分ではないと、机の上が言っているようだった。
やがて真壁が、ヴァルトとセルマを順に見た。
「セルマ君、ヴァルト君がそれぞれどうされるか、楽しみにしています」
楽しみに、という言葉だけは軽く聞こえる。
だが澪には、それが軽い冗談ではないと分かった。真壁は、方向と器だけを示した。そこから先は、それぞれの職の責任で選べということだ。
ヴァルトは黙って、自分側の木片を見下ろした。王都へ続く道が、木片の向こうに見えているのかもしれない。
セルマもまた、小瓶の包みを持つ手に力を入れた。災害地という言葉の先にある誰かの手を、もう見ているのかもしれない。
澪は、その2人の間に置かれた20個の木片を見ていた。昨日の4人は、この中に入るのか。入らないのか。王都にいる誰か、災害地にいる誰かを入れるなら、誰かが外れる。そう考えるだけで、胸の奥が重くなる。
けれど、重いからこそ、ここで軽く決めてはいけない。
外で風が石の隙間を鳴らしている。机の上の20個の木片は、誰にも取られないまま、昼の光の中に残っていた。