王都の城壁は、冬前の乾いた風の中で白く立っていた。街道から見上げると、補修を重ねた石の継ぎ目が薄い影を作り、門へ続く列には荷馬車、商人、使者、旅人、荷を抱えた下働きが混じっている。車輪が轍を踏む音、馬の息、革袋を叩く役人の手、荷布をめくる布擦れが重なり、焼き麦の匂いと馬糞の匂いが風に乗って流れてきた。
ヴァルトは、その列から少し外れたところで足を止めた。魔術院の塔は城壁の奥に尖った影だけを見せている。かつてなら、彼の目は自然とそこへ向かった。高い窓、磨かれた廊下、書庫の乾いた紙の匂い、許可された者だけが通る門。王都とは、そういうものだと思っていた時期がある。
だが、今日は塔を見に来たのではなかった。
門番の視線が荷馬車へ向いた隙に、壁際を抜ける子どもがいた。肩にかけた袋は体に合っておらず、歩くたびに膝へ当たりそうになる。門の脇に積まれた古い樽の陰では、女が小銭を数え直していた。そのさらに後ろ、日が当たりにくい小路の入口に、黒ずんだ水が流れている。
ヴァルトは外套の前を直した。上等ではない。汚れても惜しくない、旅に慣れた布地である。魔術師らしい飾りも、長い杖もない。荷も少ない。行商で身につけた歩き方は、魔術院の廊下を歩いていた頃より、ずっと地面に近かった。
「表から入る用ではないな」
小さく言って、ヴァルトは門の正面ではなく、荷運びの者たちが使う脇の道へ向かった。
そこには、磨かれた石ではなく踏まれた土があった。荷台の影に隠れるように走る子、役人の声が届く前に壁際へ寄る男、袋の口を手で押さえたまま目を伏せる女。王都の入口は1つではない。かつての自分は、それを知らなかったのではない。見なくても済むところを歩いていた。
ヴァルトは足元の石を選び、泥の残る轍を避けた。森で覚えた踏み方だった。マールヴェインの森の湿った土、獣道、根の浮いた斜面。あの足は、王都の裏口でも役に立つ。
真壁が言った言葉が、耳の奥に残っていた。
犯罪者になる前の王都の子ども。
言葉にすると簡単だ。だが、その前とはどこなのか。盗みを覚える前か。見張りに立たされる前か。売られる前か。それとも、誰かに名前で呼ばれなくなる前か。
ヴァルトは、脇道の影へ入った。
スラムへ続く路地は、表通りの喧騒を急に細くしたような場所だった。遠くでは市場の声が明るく弾んでいる。だが、ここへ入ると音は壁に吸われる。洗い水が石畳の割れ目を流れ、古い油と濡れた布の匂いが鼻にまとわりついた。焦げた麦粥の匂いも混じっている。腹を満たす匂いではなく、鍋の底に残ったものが焦げついた匂いだ。
ヴァルトは路地の手前で境界を施し、それから一歩入った。
戸口に座っていた老人が一度こちらへ顔を向けかけたが、すぐに足元の桶へ視線を落とした。水たまりの上には薄い油膜が浮き、壁の隙間には寒さを防ぐための布切れが詰められている。上から垂れた洗濯物が、風のない空気の中で重そうに揺れていた。
ヴァルトは壁際を歩いた。足音を立てないためだけではない。人の視線は、道の中央を歩く者へ向きやすい。壁際には、汚れ、影、置き忘れられた桶、空き箱がある。人はそこを見ているようで見ていない。
角を曲がった先で、子どもが2人、木箱を引きずっていた。1人は片足をかばっている。もう1人は、箱の中身より後ろを気にしていた。ヴァルトは視線だけを落とし、短く鑑定する。傷は古い。空腹もある。箱の中は布と小物。危険物ではないが、子どもに持たせるには重い。
声はかけない。
声をかければ、その子があとで問われる。
ヴァルトは、荷車の跡、戸口の足跡、壁際の見張りらしい男の位置を拾っていった。表通りなら道は広く、誰もが自分の行き先を持っている。ここでは、人がどこへ行くかより、どこへ行かされるかが見える。
「そっちはだめ、見られる」
細い声がした。
ヴァルトは足を止めずに目だけ動かした。布の影で、小さな子が別の子の袖を引いている。
「今日は裏の荷だって」
「遅いぞ」
大人の声が重なると、子どもたちの肩が同時に縮んだ。
ヴァルトは唇を結んだ。候補を探しに来たはずだった。魔術の芽、鑑定の芽、境界に反応する目。そういうものを見つけるつもりだった。
だが、この道で最初に見えたのは芽ではない。
踏まれないように身を小さくする癖だった。
細い通りの奥に、古い倉庫があった。扉の板は油と手垢で黒ずみ、金具だけが何度も直されたように不釣り合いに新しい。壁沿いには木箱が積まれ、その影に子どもたちが集められている。日差しは建物の隙間から細く落ちるだけで、地面の大半は薄暗かった。
「足の速いの、裏を見てこい」
男の声がした。
子どもが1人、返事をする前に走り出す。名前は呼ばれなかった。足が速いから、その役目で呼ばれている。
「小さいのはこっちだ。荷持ちは黙ってろ」
別の男が言い、木箱を蹴った。
その音に、壁際の小さな子が肩を跳ねさせた。箱を抱えた少年が一歩前へ出る。
「ラウ、そっちは重い」
「いい。お前はあっちにいろ」
後ろからの小声に、少年は短く返した。
ヴァルトは、その呼び声で少年の名を拾い、同時に鑑定で確かめた。ラウ。目の前の男は彼を荷持ちと呼んだ。だが、彼には名がある。走らされた子にも名があった。トマ。男は足の速いのと呼んだ。壁際で布を握っている少女はキリ。大人は女の方と呼んだ。少し年長の少女、ベスは誰かの袖を結び直している。
呼び名が違う。
違うだけではない。大人の声の中では、名前が消されている。
ヴァルトは倉庫の扉に残った傷を見た。荷を出し入れする時についたものだけではない。乱暴に閉められた跡、内側から引っかいたような細い線。鑑定を重ねたい衝動を抑える。今は扉ではなく、人を見る時だった。
ラウは大人に逆らっているようには見えない。命令を受け、荷を持ち、年下を下げる。ただ、その位置取りが妙だった。小さい子が前に出されそうになると、半歩ずれて自分がそこへ入る。危ない荷が回りそうになると、先に手を出す。
従っているのではない。
被害の向きを、少しだけ変えている。
ヴァルトは足元の水たまりを避け、木箱の影へ移った。境界は保ったままだ。誰もこちらを見ない。だが、ラウだけが一度、路地の端へ目を動かした。
見えてはいない。
ただ、空気の変化を拾ったのだろう。危険に慣れた子どもの目だった。
大人たちが一度、倉庫の奥へ消えると、子どもたちは壁際の狭い日なたへ寄った。
日なたと言っても、建物の隙間から落ちる薄い光である。そこにいるだけで温まるほどではない。だが、影の中よりはましなのだろう。小さな子が膝を抱え、ベスがその髪を指で梳いた。埃が白く落ちる。
「キリ、それはそこじゃだめ。見つかる」
ベスが低く言った。
キリは布の端に包んだパンくずを、壁の割れ目へ押し込もうとしていた。隠す動きが速い。今食べたいから隠すのではない。取られる前に消す手つきだった。
キリは手を止めたが、布は離さない。
「……明日、来るって」
「黙ってろ」
ラウが即座に言った。怒っているのではない。聞かれれば危ないから止めている。ベスもキリの肩へ手を置き、視線だけで周囲を探った。
トマは座っているのに、片足だけ路地の出口へ向いている。耳は遠くの音を拾い、手は食べ物へ伸びてもすぐ戻る。ヴァルトは鑑定で、靴底の減りと擦り傷を見た。走らされている。遊びで走った足ではない。逃げるため、知らせるため、誰かより先に危険を見つけるための足だ。
ラウは最後まで食べなかった。小さい子へ欠片が回ったかを見て、ベスが自分の分をさらに割るのを止める。自分が食べるためではない。ベスが倒れれば、次に髪を結び、布を巻き、食べ物を分ける手がなくなると分かっている。
「ラウ、あんたも食べな」
「あとでいい」
「あとで、が残ったことあった?」
ベスの声には、責める響きより疲れがあった。
ラウは答えなかった。
ヴァルトは、壁に背をつけるように立った。境界の中で呼吸を抑える。今、収納から食料を出すことはできる。目の前の空腹へ、手を伸ばすことはできる。
だが、それをガルドン一味が見つけたらどうなる。
誰から受け取ったのか。どこに隠したのか。誰が先に食べたのか。問い詰められるのは子どもたちだ。
助ける手は、届く順番を間違えると刃になる。
ヴァルトは動かなかった。
その時、トマの肩が上がった。まだ音は遠い。けれど、子どもたちはトマを見る。ラウがゆっくり立ち、ベスがキリを後ろへ引いた。
路地の空気が、先に縮んだ。
男たちの足音は、曲がり角の向こうから重く近づいてきた。革靴が石を踏む音。低い笑い声。何かを引きずるような音。さっきまで細く残っていた食べ物の匂いが、急に古い油と汗の臭いに押される。
「おい、荷持ち」
先頭の男が声を投げた。
ラウが前へ出る。小さい子たちの前に、自然に壁を作る立ち方だった。
「今日は女の方も使う。小さいの、こっちへ来い」
別の男が指を鳴らす。
キリの肩が震えた。ベスがその肩を後ろへ引く。トマの足が出口へ向いたが、走らない。走れば、残った子が殴られる。体がそれを知っている。
「そいつは、まだ持てない」
ラウが言った。声は小さい。命令に逆らう形にならないぎりぎりの音量だった。
男の顔から笑みが消える。
「お前が決めるんじゃねえよ」
次の瞬間、ラウの肩が壁へ叩きつけられた。鈍い音がした。古い土壁から白っぽい粉が落ちる。ラウは息を詰めたが、声を出さなかった。男はその沈黙を気に入らなかったのか、さらに肩のあたりを蹴る。殺すためではない。全員に思い出させるための暴力だった。
「使えるやつを使うんだ。荷持ちが口を出すな」
「……そいつは、まだ持てない」
ラウは同じことをもう一度言った。
ベスが声を上げかける。
「ラウ――」
「黙れ」
ラウの声は鋭かった。突き放す声ではない。次にベスが狙われるのを止める声だと、ヴァルトには分かった。
その瞬間、別の光景が胸の奥へ刺さった。白い蛍光灯。深夜の事務所。机の上に積まれた紙。誰かが皆の前で立たされ、上司の声に小さく「大丈夫です」と答えている。誰も助けない。助けないのではない。助ければ次に自分が立たされるから、目を伏せるしかない。倒れそうな者ほど、大丈夫と言わされる。
王都の路地とは何も似ていない。服も、言葉も、匂いも違う。だが、見せしめに1人を痛めつけ、周囲を黙らせる構造だけは同じだった。
ヴァルトの指が外套の内側で曲がった。境界が一瞬、薄く揺れる。
男はキリの布を見つけ、奪い取った。中のパンくずを見て、鼻で笑う。
「隠すほどのもんかよ」
キリが手を伸ばしかける。ベスが抱き寄せて止めた。男はパンくずを地面へ落とし、靴先で泥へ押しつける。
ヴァルトは出なかった。
今出れば、目の前の男を止めることはできる。だが、止めた後に残るものが見えていない。背後は誰か。証拠はどこか。次に連れて行かれるのは誰か。どの道を抜けば小さい子まで逃げられるのか。
かつての事務所で、目の前の怒鳴り声を止められたとしても、翌日には別の誰かが同じ席に座らされただろう。
同じ失敗はしない。
ヴァルトは掌へ爪を立て、呼吸を戻した。境界が落ち着く。怒りは消えていない。ただ、使う順番を変えた。
男たちはラウに荷を押しつけ、次の用を命じて去っていった。足音が遠ざかっても、子どもたちはしばらく動かなかった。
路地には、男たちの残した臭いだけが残った。
ラウは壁から身を離し、何事もなかったように立とうとした。だが、右肩が少し遅れた。ベスが布を拾い、近づく。
「見せな」
「いい」
「よくない」
「いいって言ってる」
ラウは声を低くしたが、ベスは引かなかった。布を握る指が震えている。怒りか、怖さか、その両方かもしれない。キリは泥に踏まれたパンくずを見ていた。拾おうとはしない。拾えば、さっきの男の靴まで口に入れるようなものだと分かっているのだろう。
ヴァルトは、境界の内側で足を一歩出した。
ふと、真壁ならどうするかと考えた。
真壁なら、怒りで敵を追う前に、まず負傷者を見る。動ける者を残す。次の被害を減らす。言葉にすれば冷たいが、現場ではそれが早い。怪我を放置すれば、ラウはまた小さい子をかばう。その時、肩が遅れれば、かばえない。
ヴァルトは、収納から小瓶を出した。
路地の汚れた光の中で、上級ポーションの瓶は場違いなほど澄んで見えた。蓋を開けると、薬草の匂いが一瞬だけ排水と油の臭いを押しのける。
ラウの体が固まった。
姿をはっきり見たわけではない。だが、近づけば分かる。空気の中に、先ほどからあった違和感が形を持つ。
ヴァルトはラウの肩へ必要な量だけを使った。
ラウは息を呑み、反射的に身を引こうとしたが、遅かった。痛みが引く。動くはずのなかった肩が動く。彼は自分の肩に手を当て、指先で確かめた。
「あんた、さっきからいたな」
低い声だった。
「見ていた」
「助けたつもりか」
「怪我を減らしただけだ」
ラウの目が細くなる。ベスはキリを背に庇い、トマは出口へ半歩寄った。小さい子たちは、泣くより先に固まっている。
「何が欲しい」
ラウが言った。
ヴァルトは、すぐに名乗らなかった。魔術院も、侯爵家も、保護という言葉も出さない。そういう大きな名は、ここでは重すぎる。出した瞬間、子どもたちは逃げるか、利用されるかのどちらかだ。
収納から、パンと干し肉を小さく包んだものを出した。地面へは置かない。投げもしない。ベスが手を伸ばせる高さの木箱の上へ置く。
「食え。代わりに、少し聞く」
「買う気か」
「買わない。話せる分だけでいい」
ラウは動かない。だが、キリの喉が小さく鳴った。ベスが木箱の包みを見て、ラウを見る。ラウは止めなかった。ベスはゆっくり手を伸ばし、小さい子へ先に分ける。トマはまだ警戒していたが、干し肉の匂いには勝てなかったらしく、一瞬だけ顔が揺れた。
ヴァルトはそれを見て、もう1つ包みを出した。
ラウの眉が動く。
「話したら増えるのか」
「減らす理由がない」
「変な大人だな」
「よく言われる」
実際には、最近はもっとひどいものを見慣れている。真壁の速度に比べれば、食料を小出しにする自分など常識側ではないか、と一瞬思いかけてやめた。ここでその比較をすると、自分の常識まで危うくなる。
ベスがパンを割りながら、小さく言った。
「あいつらは、昼と夕方に来る。毎日じゃないけど、来る日は決まってる」
トマが干し肉を噛みながら、路地の奥を指した。
「倉庫はあっち。荷は軽い時と、触るなって言われる時がある」
ヴァルトは短く鑑定を重ねる。言葉の真偽を裁くためではない。恐怖で混ざった記憶と、実際に見たものを分けるためだ。
包みを1つ足す。
キリが、それを見たまま動けずにいた。
「古物屋……」
声は、喉の奥で擦れた。
「紙に、名前を書くって」
ベスの手が止まる。
「キリ」
「遠くへ行く子は、そこだって。戻らない子も」
ラウがキリの前へ出た。
「しゃべりすぎだ」
ヴァルトは、ラウを見た。
「次に連れて行かれるのは誰だ」
沈黙が落ちた。キリの手の中のパンが、形を崩すほど握られている。トマが路地の奥を見る。ベスがキリの肩に手を置く。答えは、誰も言わなくてもそこにあった。
午後の光は、建物の隙間でさらに細くなっていた。表通りの馬車の音は遠い。ここには、子どもが食べ物を飲み込む音と、誰かの小さな咳だけが残っている。ガルドン一味の足音は消えたが、戻らないとは誰も思っていない。
ラウの肩は治っている。治っていることが、かえって不気味なのだろう。彼は何度も動かし、痛みがないことを確かめ、そのたびにヴァルトのいるあたりを睨んだ。
怪しい大人がいる。
さっきから見えないところにいて、怪我を治し、食料を出した。
普通なら罠だ。
ラウの顔にはそう書いてある。ベスも同じだ。トマは食料と出口を交互に見ており、キリはパンを握ったまま、食べることと隠すことの間で迷っている。
ヴァルトは、答えを急がせなかった。
前世の記憶が、今度は怒鳴り声ではなく、もっと冷たい形で戻ってくる。選択肢があるように見せかけられた問い。できるか。やるか。責任を取れるか。断る余地などないのに、本人が選んだ形だけが残る。あれは問いではなく命令だった。
だから、ヴァルトは命じない。助けてやるとも言わない。来いとも言わない。信じろとも言わない。信じられない者に信じろと言うのは、別の形の暴力になる。
「今すぐ決めなくていい」
ラウの目が細くなる。
「決めなかったら?」
「飯は返さなくていい。薬の代金もいらない」
「そんな大人がいるか」
「ここにいる」
ラウは、心底怪しいものを見る目になった。ベスも眉を寄せた。トマは口を動かしながら、どうやら怪しさと干し肉を別々に処理しているらしい。キリだけは、もうパンを少し食べていた。
ヴァルトは、木箱の上に最後の包みを置いた。量は多くない。持てる分だけだ。多すぎれば奪われる。少なすぎれば夜を越せない。すべてをこの場で解くことはできないが、今、キリの手を空腹から離すことはできる。
「次に男たちが来る前に、もう一度来る」
「なんで」
「逃げ道を見る」
「俺たちをどこへ売る」
「売らない」
「保護ってやつか」
その言葉に、ヴァルトはすぐ答えなかった。
保護。きれいな言葉だ。だが、この子たちの中では別の汚れを持っている。どこかへ連れて行かれ、名前を紙に書かれ、戻らない子がいるなら、守ると言われることも怖いはずだ。
「その言葉を信用できないなら、今は使わない」
ラウが一瞬だけ黙った。
ヴァルトは、境界の中から半歩だけ近づいた。ラウは後ろへ下がらない。ベスがキリを引き寄せ、トマの足が出口へ向く。小さい子がパンを胸に抱えたまま、ラウの背を見る。
「ラウ」
名を呼ぶと、ラウの目がさらに細くなった。
名乗っていない。だが、彼はそれを問いたださなかった。問いただせる余裕がない。キリが明日にも連れて行かれるかもしれない。そのことが、すべての疑いより先に立っている。
「抜け出したいか」
ラウは答えない。
答えれば、その瞬間に何かが変わると分かっている顔だった。
「仲間を助けたいか」
その言葉に、ラウの視線がベスへ動き、トマへ、キリへ、小さい子たちへ移った。自分だけ逃げる道は、最初から彼の中にない。
ヴァルトは、最後の言葉だけを置いた。
「力が欲しいか」
路地の奥で、誰かが小さく咳をした。
ラウは、その声が消えるまで、ヴァルトのいる影を見続けていた。