ラウは、すぐには答えなかった。
肩の痛みは消えている。けれど痛みが消えたところで、目の前の大人を信用できる理由にはならない。見えないところから現れ、怪我を治し、食べ物を置き、名乗ってもいない名前を呼んだ。そんな大人は、スラムでは一番危ない種類に入る。
キリは、潰れかけたパンを両手で握っていた。食べたいのに、全部を食べてしまうのが怖い顔だった。ベスは小さい子を背に寄せ、トマは路地の奥の音を聞いている。遠くの表通りからは荷車の軋みと、夕方の市の声が細く流れてくる。けれど、この路地には油と排水と古い布の臭いが沈み、地面の水たまりは鈍い光を返すだけだった。
ヴァルトは、ラウを急かさなかった。
信じろ、と言えば早い。だが、その言葉を使う大人を、ラウたちは何度も見てきたはずだった。信じろと言われ、黙れと言われ、来いと言われ、戻れなくなる。言葉の形だけなら、どれも似ている。
ラウはキリを見た。それから、ベス、トマ、小さい子たちを順に見た。最後に、ヴァルトのいるあたりを睨む。
「……古物屋へ行く道なら、トマが知ってる」
それは答えではなかった。少なくとも、「力が欲しいか」への返事ではない。だが、ラウに出せる今の返事は、それだけだった。
トマが顔を上げる。
「見れば分かる。走れる」
「道だけでいい。奥へ入るな」
ヴァルトが言うと、ラウの目が鋭くなった。
「命令するな。トマは俺たちの仲間だ」
「だから、戻る道を残す」
ラウは口を閉じた。反論はまだ喉に残っている顔だったが、言い返すより先に、キリの指が震えるのが見えたのだろう。ベスが小さい子の口元へ手を当て、泣き出しかけた声を胸元へ吸わせる。トマはもう足先を路地の出口へ向けていた。
ヴァルトは境界を薄く張った。子どもたちの声が外へ漏れないようにしながら、トマが拾うべき足音だけは殺さない。完全に閉じれば安全に見える。だが、閉じすぎれば逃げる気配も、危険の近づく音も消える。守るという名で耳まで奪っては意味がない。
「角までだ。そこから先は、私が見る」
トマは不満そうに唇を曲げた。
「もっと先まで行ける」
「戻れる距離だけが、お前の道だ」
その言い方に、トマは一瞬だけ目をまたたかせた。足が速いのではなく、戻れることに意味がある。そう言われた経験が、たぶんなかったのだろう。
ラウはまだヴァルトを信じていない。ベスも、キリも、トマも同じだ。ただ、キリが連れて行かれるかもしれない夜が近づいている。その事実だけが、疑いより先に立っていた。
ヴァルトは、路地の湿った石を踏み、境界の内側へ沈むように姿を消した。
王都警備隊の詰め所は、表から見ればただの石造りの役所だった。門の横には槍を持つ兵が立ち、出入りする者の声が石壁に跳ねている。夕方の冷えた風の中で、鎧の金具が小さく鳴った。
ヴァルトは正面へは回らなかった。
詰め所の裏手には古い樽と薪束が積まれ、壁の雨だれ跡が黒く伸びている。表の声は聞こえるが、人目は少ない。境界を細く通し、奥の廊下を歩く気配を探る。懐かしい足の運びがあった。重さが前に出すぎず、音を隠しすぎない。警備隊の中で、周囲に聞かせる音と消す音を選べる者の歩き方だ。
「イザーク」
声は、境界の中だけへ落とした。
足音が止まる。
「誰だ」
低い声が返る。腰の剣へ手がかかる音までは聞こえなかったが、位置は分かる。
ヴァルトは境界を少しだけ解いた。
「久しいな、イザーク」
石壁の影の向こうで、男の目が細くなる。警戒は消えない。だが、次の瞬間、そこへ別の色が混じった。
「……オスヴァルト。王都に戻っていたか」
「戻ったというほどではない」
「なら、なぜここにいる」
イザークは剣から手を離さないまま、壁際へ一歩寄った。表の兵に聞かれない位置を、自然に選んでいる。年を経ても、そういうところは変わっていなかった。
「スラムの孤児たちを助けたい」
「警備隊へ言え」
「上は汚染されている可能性がある」
その一言で、イザークの顔から昔を懐かしむ気配が消えた。
「誰が絡んでいる」
「古物屋セブル。実働はガルドン一味。子どもを荷と紙に変えている」
イザークは息を吐いた。驚きではなく、ようやく形になった嫌な予感を前にした時の息だった。
「セブルか。何度か名は上がった。だが、上へ出すと鈍る」
「オルブライト子爵か」
「そこまで見るか」
「見なければ、子どもが消える」
イザークの手が、ようやく剣から離れた。だが、肩の力は抜けていない。
「何が要る」
「信頼できる部下を貸してほしい。命令系統へ上げるのは、制圧後でいい」
「命令系統へ上げずに部下を動かせと?」
「上は汚染されている可能性がある」
「それは命令違反に近い」
ヴァルトは、そこで一拍置いた。詰め所の中で誰かが笑い、すぐに扉の音で途切れる。王都の警備は、表ではいつも通りに動いている。その奥で、子どもの名が紙に変えられている。
「宰相閣下に貸しがある。何とかする」
イザークの眉が動いた。
「……宰相閣下に貸し、だと」
「正式な処理は後で通す。今は子どもを抜く」
「昔から、妙なところで無茶を通す男だったな」
「今回は、無茶ではない」
イザークはヴァルトを見直した。王都魔術院で見たオスヴァルト・クラインは、もっと整った服を着て、もっと整った場所にいた。目の前の男は粗い外套をまとい、靴に王都の泥をつけ、スラムの臭いを連れている。
「子どもが売られているなら、か」
「ああ」
「3人出す。俺を入れて4人だ。お前の宰相ルート、必ず通せよ」
「通す」
イザークは詰め所の奥へ視線を向けた。誰を呼ぶか、もう決めている顔だった。
ヴァルトは待つ間、壁の影に立ったまま、スラムの方角を見た。手続き、証拠、報告、命令。王都魔術院にいた頃なら、その順番を崩すことを最初に恐れただろう。だが、順番を守るためにキリを差し出すのなら、それは守るべきものではない。
真壁さんだったら、どうするか。
浮かんだ真壁は、たぶん迷わない。
王都に巣食う害虫は除去する。ガルドンと取引している時点で、セブルは黒。証拠が足りないなら、制圧して押さえればよい。
乱暴だ。あまりに速い。だが、その速さを否定できるほど、ヴァルトは目の前の子どもたちに時間が残っていると思えなかった。
イザークが3人を連れて戻ってきた時、ヴァルトは収納の中を切り替えていた。証拠を入れる場所、拘束品を入れる場所、手当用の小瓶、子どもへ渡す布。澪が商品を分ける時のように、用途ごとに置く。真壁が作業前に道具の向きまで決めるように、取り出す順番まで寄せる。
イザークがそれを見て、目だけで問いかけた。
「何をしている」
「後で詰まらないようにしている」
「今から突入する男の答えではないな」
「今の私の周囲では、遅い方だ」
イザークは一瞬だけ言葉を失った。昔のオスヴァルトなら、そんな返しはしなかった。誰の影響を受けたのかまでは分からないが、少なくとも穏やかな学友だけに囲まれてきた顔ではなかった。
路地へ戻る頃には、夕方の色がスラムの壁に薄く張りついていた。表通りでは煮込みの匂いが出始めているはずなのに、このあたりでは排水と古い油の臭いが勝つ。石畳の割れ目に溜まった水は黒く、踏めば靴底が吸われるように音を立てた。
ラウは、まだキリの前にいた。ベスは小さい子たちを壁際に集め、声を出しかけた子の背を撫でている。トマは角の近くにしゃがみ、手の中で小石を2つ握っていた。
ヴァルトが境界を解く前に、ラウの視線がこちらへ向いた。
「連れてきたのか」
「信頼できる大人だけだ」
「大人はだいたいそう言う」
「そうだな」
そこで言い返さなかったせいか、ラウは逆に怪しむ顔になった。イザークはそのやり取りを見て、少しだけ眉を寄せた。警備隊の名を出して安心させる場面ではないと察したのだろう。何も言わず、部下へ手だけで位置を示す。
ヴァルトはラウの前に立った。
「ラウ。倒すのは私がやる。お前は、キリを渡すな」
「俺が前に出るだけか」
「違う。お前が前に出るから、後ろが動ける」
ラウは、すぐには答えなかった。これまで前に出ることは、殴られることと同じだった。だが今は、違う意味で言われている。その違いを飲み込めず、目だけがベスの方へ動く。
「ベス。小さい子を奥へ。声を出させるな」
「泣いたら?」
「抱け。お前が見ていれば動く」
ベスは小さい子の頭に置いた手を止めた。命じられたのではなく、普段していることが役に立つと言われた顔だった。
「トマ。角で石を2つ鳴らせ。鳴らしたら戻れ」
「もっと先まで行ける」
「戻れる距離だけが、お前の道だ」
トマは唇を尖らせたが、小石を握り直した。走れることを褒められるより、戻れることを求められた方が、かえって逃げられない。
最後に、ヴァルトはキリを見た。キリはベスの袖を握り、呼ばれる前から首をすくめている。
「キリ。呼ばれても出るな」
「……出なかったら、ラウが」
「ラウだけに受けさせない」
ラウが、そこでヴァルトを睨み直した。怒りではない。今まで自分の役だったものへ、他人が手をかけてきたことへの戸惑いだ。
ヴァルトは境界を張り直した。子どもたちのいる側と、倉庫へ続く道とを薄く分ける。トマの石音だけは通す。男たちの怒鳴り声は、できる限り子どもたちの体へ届かないようにする。
イザークの部下が、路地の影へ散った。鎧の音がほとんどしない。王都警備隊にも、使える者はいる。ヴァルトはそれを見て、少しだけ息を置いた。
その間にも、トマの耳が動いた。
足音が来る。
小倉庫の戸は、表から見ればただの古物置き場にしか見えなかった。板は古く、表面は湿気で波打ち、端には黒いカビが出ている。だが、戸を支える金具だけが妙に新しい。足元の土には、大人の靴跡と、小さな靴跡が重なっていた。荷を引きずった線もある。
ヴァルトは、戸の横へ手を添えた。中から古い木、湿った布、金属の錆びた匂いが漏れてくる。
男たちが2人、荷を抱えて戻ってきた。1人は肩で息をし、もう1人は荷札を指で弾いている。
「次は女の方だ。古物屋が急かしてる」
「荷札は?」
「セブルの印がありゃ通る」
ヴァルトはイザークへ目を向けた。
「十分だ」
イザークは小さく頷き、部下へ指を動かした。
ヴァルトは倉庫の入口と裏口へ結界を落とした。戸板の隙間、割れた壁板、床下へ抜ける細い空気の道まで閉じていく。子どもたちのいる路地とは別の箱を作るように、倉庫の中だけを切り離す。男たちが異変に気づいて振り返るより早く、足元の境界が淡く沈んだ。
「動くな」
言葉は、男たちを従わせるためのものではなかった。
男の視線が動く。荷。戸。裏口。腰の短剣。順番まで読めるほど遅い。ヴァルトは収納から小さな容器を出し、指で封を切った。
苦い匂いが、結界の内側だけに広がった。
麻痺毒だった。
煙のように見えるほど濃くはしない。吸わせて殺すためではなく、手足から力を抜くためのものだ。呼吸まで落ちれば死ぬ。だからヴァルトは、毒気が男たちの膝を奪ったところで、それ以上深く入れない。
荷札を握っていた男の指が開いた。膝が土の床を打ち、肩が壁に当たる。もう1人は叫ぼうとしたが、喉に力が入らないまま崩れた。
ヴァルトはすぐに結界を絞った。
「浄化」
倉庫の空気が、薄く揺れた。麻痺毒の残りが淡い膜のように寄せ集められ、収納の隔離した場所へ落ちる。代わりに、浄化した空気を結界の内側へ送り込む。湿った木と錆びた金具の臭いが戻り、苦い匂いだけが切れていった。
ヴァルトは倒れた男たちへ鑑定を走らせる。
呼吸はある。
脈もある。
意識は落ちている。
手足は動かない。
「今だ」
イザークの部下が踏み込んだ。縄がかかり、男たちの手首が背へ回される。口は塞ぐが、吐いた時に詰まらないよう顔を横へ向ける。ヴァルトはもう一度、胸の上下を見た。
「殺してはいないな」
イザークの声は低かった。
「死なせると、証言が減る」
「そういう問題か」
「今回は、そういう問題だ」
イザークは返事をしなかった。だが、倒れた男たちの胸が上下しているのを見てから、部下へ次の指示を出した。
倉庫の奥には、壊れた椅子、曲がった金具、布袋、小箱が積まれていた。古物と言えば古物だ。だが、その奥の壁際には、小さな爪で引っかいたような傷がある。床には、細い髪紐が落ちていた。埃の中に、子どもの手の跡が薄く残っている。
イザークの部下の1人が、それを見て口を結んだ。
ヴァルトは髪紐を拾わなかった。すぐに証拠として取ることはできる。だが、現場に残すべきものもある。鑑定で位置と状態を刻み、収納内の記録用区画へ写しを置く。現物はまだ床にある。
昔の自分なら、魔術で隠されたものだけを探したかもしれない。今は、荷の擦れ、子どもの靴跡、壁の傷、手の届く高さを見る。行商で道を見て、荷を見て、客が買わなかった理由を見ろと言われ続けた結果が、こんな場所で役に立つ。
「古物屋へ行く」
ヴァルトが言うと、イザークは拘束された男たちを一瞥した。
「こいつらは置いていく」
「逃げられん」
「……便利だな」
「便利で済めばよいが」
イザークは返事をしなかった。倉庫の壁の傷を見たあとでは、便利という言葉だけでは足りないと分かっていた。
セブルの店は、表通りから少し外れた場所にあった。
壊れた椅子、欠けた皿、古い燭台、曲がった金具、色あせた布。店先に並ぶ品は、どれも値がつくのか分からない。埃の匂いが強く、古い革と湿った紙の臭いが奥から滲む。だが、店の奥へ続く床板だけは、ほかより擦れていた。人がよく出入りしている。
セブルは、思ったよりも穏やかな顔の男だった。
太っているわけでも、荒っぽいわけでもない。服は地味だが手入れされ、指先にはインクの跡がある。客を相手にするような柔らかい声で、イザークを見る。
「これはこれは、警備隊の方がこのような店に」
「奥棚を開けろ」
「古物の記録しかございませんが」
セブルの視線が、ほんのわずかに奥へ滑った。帳面を動かすには遠い。火を使うには、もっと近づく必要がある。だが、その前にヴァルトは境界を閉じた。
店先、奥棚、裏口。
空気が3つに分かれる。無関係な客がいた場所は外へ逃がし、奥棚の周囲だけを狭く閉じる。セブルが棚へ手を伸ばそうとした瞬間、その足元が止まった。
「子どもの名前を古物に混ぜるな」
ヴァルトの声に、セブルは初めて表情を消した。
「何のことでございましょう」
「答えは後でいい」
奥に控えていた男が動く。棚の横に置いた小さな火種へ手を伸ばしかけたが、その手は途中で止まった。境界が手元を切っている。声も外へ出ない。
ヴァルトは、倉庫で使ったものと同じ容器を開いた。
苦い匂いが、奥棚の一角だけへ満ちる。セブルの膝が崩れた。奥の男たちも壁へ肩を預けるように沈み、火種は使われないまま床へ落ちる。
紙は燃えなかった。
ヴァルトはすぐに浄化した空気を送り込んだ。残った麻痺毒を収納の隔離区画へ回収し、セブルたちの呼吸を鑑定で見る。胸は動いている。脈もある。手足は動かないが、呼吸は落ちていない。
「息はある」
イザークがセブルを見下ろす。
「なら十分だ。証文を先に押さえろ」
部下が棚へ走り、証文、帳面、印章、荷札を押さえる。セブルの指は床の上でわずかに震えたが、もう紙へは届かなかった。
ヴァルトは境界を保ったまま、店先へ匂いが漏れていないことを見た。子どもも、近隣も、巻き込まない。ここで必要なのは派手な勝利ではなく、証拠を残したまま黒い根を抜くことだ。
棚の奥から出てきた紙束を見た時、ヴァルトの指が止まった。
名前。年齢らしい数字。借金。奉公。移送費。行き先。セブルの印。子どもの意思が入る場所は、紙のどこにもない。人が品に変わる時は、怒鳴り声より静かだ。殴らなくても、紙の上で人は消える。
キリの名に近い記載だけではなかった。別の子どもの名もある。ラウたちの周囲にいた子、倉庫の壁に傷を残した誰か、戻らなかった誰か。紙は淡々と、それらを同じ束へ並べていた。
ヴァルトは息を置き、紙束へ手をかざした。
持ち去るだけでは足りない。これを、動ける形にしなければならない。
店の奥は、制圧が終わると急に狭く感じられた。さっきまでそこにいた人の気配が床へ沈み、紙と埃の匂いだけが残っている。イザークの部下がセブルと男たちを拘束し、店先では別の部下が戸口を押さえていた。
イザークは棚から出された帳面を見て、眉を寄せる。
「この量を、今ここで見るのか」
「見る」
「詰め所へ運んでからでは遅いか」
「上へ触れる前に、通せる形にする」
ヴァルトは証文、帳面、荷札、印章を順に収納へ入れた。雑に飲み込ませるのではない。原本は原本として、写しは写しとして、荷札は紐の色と印で分ける。鑑定で読み取った日付と名前を、収納内で別の束へ写す。紙の並びを崩さず、必要な対応表だけを別に作る。
澪なら、もっと見やすくするだろう。
商品を用途別に分け、札をつけ、出す順番まで考えて棚を作る。小さな品を扱う時ほど、後で探さないで済むようにする。真壁なら、その工程自体を次から短くするだろう。ヴァルトは2人のやり方を思い出しながら、紙束を収納の中で組み替えた。
名前が重なる。荷札と移送先がつながる。セブルの印と倉庫の記載が揃う。ガルドン一味の符丁が帳面の端に出る。オルブライト子爵の名に直接届く記載は少ないが、通常の報告経路が鈍った理由を示す余白はある。
収納から出した時、紙束は何本もの紐で分けられ、上に札がついていた。原本、写し、子どもの名前、荷札対応、倉庫位置、実働者、移送予定、保護対象。ヴァルトは一番上に要点を書いた紙を置く。
イザークがそれを見て、しばらく黙った。
「……お前、これを今やったのか」
「収納内で分けただけだ」
「普通は、分けただけとは言わん」
「澪さんなら、もっと見やすくしたと思う」
「誰だ、それは」
「今の私の基準だ」
イザークは、返す言葉を探すように資料束を見下ろした。王都魔術院のオスヴァルト・クラインは、境界と魔術式に強い男だった。だが、証文を束ね、荷札と子どもの名を合わせ、宰相府へ持ち込める形にする男ではなかったはずだ。
「変わったな」
「そうかもしれん」
「褒めているとは限らん」
「周囲も、そう言う」
イザークは短く息を吐いた。笑ったわけではないが、ほんの少しだけ硬さが緩む。
その時、外で石が2つ鳴った。
トマの合図だった。
ガルドン一味の残りは、予定より早く来ていた。
「キリを出せ」
男の声が路地に落ちると、小さい子が息を詰めた。ベスがすぐに抱き寄せ、口元を自分の肩へ押し当てる。キリはベスの後ろで震えていたが、前には出ない。両手はパンを握ったままで、指が白くなっている。
ラウが前へ出た。
「キリは動けない。別の荷なら俺が行く」
「荷持ちが決めるな」
男の手が伸びる。
ラウは肩を動かした。痛みはない。昨日なら、その動きだけで顔が歪んでいたはずだった。痛みがないだけで、半歩下がらずに済む。たったそれだけのことが、キリの前に立つ距離を変えた。
男が苛立って踏み込んだ瞬間、トマの石がもう一度鳴った。
ヴァルトは路地の角に戻りながら、境界を落とした。男たちの視線が一拍ずれる。キリへ伸びるはずだった手が、空を掴む。ベスはその隙に小さい子たちを奥へ下げた。トマは合図を終えて戻ってきたが、息を切らしながらも逃げ切った顔ではない。呼べた、という顔だった。
イザークの部下が、左右から入る。鎧の音は短く、手際は速い。ヴァルトの結界が退路を塞ぎ、子どもたち側へ毒気も混乱も流さない。男たちは状況を理解する前に膝を折り、拘束されていく。
ラウは、それを見ていた。
自分が殴られて終わるはずだった場面が、違う形になっている。ベスが小さい子を動かし、トマが合図を出し、キリが出ず、知らない大人たちが男を倒した。ラウ1人が全部を受けなくても、状況は変わった。
ヴァルトは、男たちを見下ろすより先に、子どもたちの位置を確かめた。キリはいる。ベスは小さい子を抱えている。トマは戻っている。ラウは立っている。
「イザーク」
「ああ」
イザークは部下へ短く命じた。倉庫を封鎖する者、セブルの店を押さえる者、拘束者を運ぶ者、子どもたちを囲わず見守る者。押入商会の私闘ではない。王都警備隊が、現場を取る。
それでも、子どもたちは警備隊を信じていない。ラウはイザークを睨み、ベスは小さい子を離さず、トマは逃げ道を探す。キリはパンを握ったまま、どこへ連れて行かれるのか分からない顔をしている。
ヴァルトは、安心しろとは言わなかった。
代わりに、資料束をイザークへ渡し、子どもたちを連れて王都侯爵邸へ向かう準備をした。
王都侯爵邸の門灯は、スラムの夕闇とは違う色をしていた。
高い門、磨かれた石畳、手入れされた植え込み、門番の整った姿。屋敷の中からは、温かい空気と料理の匂いが漏れてくる。スラムの泥をつけた子どもたちの靴が、その石畳の上に並ぶと、汚れはかえってはっきり見えた。
20人いた。
泣く子、黙る子、食べ物を服の中へ隠そうとする子、ラウの背後から離れない子。ベスは腕に小さい子を抱え、トマはまだ門の横を見ている。キリはパンを握ったまま、屋敷の灯りを怖がっていた。
門番は、ヴァルトとイザーク、そして子どもたちの列を見て顔色を変えた。すぐに取り次ぎへ走る。ほどなく、家令が現れた。整った服、無駄のない足取り、だが子どもたちを見た瞬間、その目の奥が変わる。
「侯爵閣下は王城におられます」
「承知しています。家令殿にお願いしたい」
家令に対して、ヴァルトは自然に言葉を改めた。イザーク相手の短い常体とは違う。ここは、子どもたちを預ける相手の屋敷であり、侯爵家の門前だった。
ヴァルトは資料束を差し出した。原本は封じ、写しと対応表を上に置いてある。イザークも一歩前へ出た。
「王都警備隊上層部に汚染の疑いがあります。通常経路では握り潰される可能性がある」
家令の目が細くなる。
「資料を」
「証文、帳面、荷札、印章、関係者一覧、保護対象の暫定一覧です」
家令は最初の紙に目を落とした。子どもの名。移送先。セブルの印。短い沈黙のあと、家令の顔から屋敷の穏やかさが消えた。
「門を閉じなさい。子どもたちを中へ。湯、食事、毛布、治療の手配を。厨房へも知らせなさい。小さい子は先に温めること」
使用人たちが一斉に動いた。足音は速いが、乱れない。毛布が運ばれ、湯の準備を告げる声が奥へ走る。誰かが小さな椀を落としかけ、別の使用人が受け止めた。
ラウは門の内側へ入らなかった。
屋敷がきれいすぎる。灯りが明るすぎる。閉じた門は、守るものにも見えるが、閉じ込めるものにも見える。ヴァルトには、その視線の向きが分かった。
だから、ラウへは言わない。
ヴァルトは家令へ頭を下げた。
「この子らの一時保護を、お願いいたします」
ラウの目が、そこで初めて少しだけ揺れた。
買うのではない。命令するのでもない。別の大人に頭を下げている。売る大人とは違う動きだった。
家令は、深く頷いた。
「侯爵家で預かります。宰相府へも通します」
侯爵家。宰相府。その言葉が、子どもたちには何を意味するのか分からない。けれど使用人が持ってきた毛布は本物で、湯の匂いも本物だった。キリの手の中のパンだけが、まだ潰れたまま残っている。
ラウは、まだ動かなかった。
ベスは小さい子を抱えたまま、使用人に案内されるか迷っている。トマは疲れているのに出口を見ていた。キリはヴァルトと家令を交互に見て、最後にラウを見る。誰が動けば自分も動けるのかを、まだラウに預けている。
ラウは、その全員を見た。
「俺、力が欲しい」
ヴァルトは、すぐには頷かなかった。
「何のために力が欲しい」
ラウは自分の手を見た。肩を一度だけ動かす。痛みはない。だが、痛みが消えただけでは足りないことを、もう知っている。殴られても立つだけでは、キリは守れない。自分だけ前に出ても、トマが戻れなければ、ベスが小さい子を動かせなければ、また誰かが消える。
「家族を」
言葉はそこで止まった。
ラウは周りを見た。ベス。トマ。キリ。小さい子たち。名前ではなく役目で呼ばれ、荷のように動かされてきた子どもたち。血がつながっているかどうかなど、誰も聞かなかった。生き残るために寄り合い、互いの痛みを見てきた者たちだった。
「こいつらを、汚い奴らから守りたい」
ヴァルトは、その答えを聞いてから頷いた。
「ならば、皆で私の住む町に来なさい」
ラウの目が鋭くなる。
「皆で?」
「お前だけではない。ベスも、トマも、キリも、小さい子たちもだ」
「何をさせる気だ」
「私の学んだ魔術を覚え給え」
ラウは黙った。魔術という言葉は、スラムの子どもにとって遠い。遠いが、今日、見えないものが道を分け、男たちを止め、自分たちを動かしたことは見ている。
「力は、1人で持つと折れる。家族だけを守ろうとしても、また狙われる」
ヴァルトは、屋敷の門の内側へ視線を向けた。使用人が毛布を抱えて走り、家令が指示を飛ばし、イザークが部下と押収品の扱いを詰めている。1人ではない場所が、そこにあった。
「知己を増やし、根を張り、周りを守れるようになり給え」
ラウは答えなかった。
ただ、キリが隣にいることを確かめるように、痛まない肩をもう一度だけ動かした。キリはその肩を見てから、パンを握る力を少し緩めた。
その時、門の外から馬の蹄音が近づいてきた。
侯爵邸の門番が声を上げる。家令が振り返り、駆け込んできた使者から封書を受け取った。封蝋を見た瞬間、その顔つきが変わる。使用人たちの足音が、ほんの一拍だけ鈍った。
家令は、子どもたちの間に立つヴァルトへ歩み寄った。
「ヴァルト殿」
ヴァルトが顔を上げる。
「大至急、王城の宰相府まで。侯爵閣下がお呼びです。緊急だそうです」
屋敷の中で、湯を運ぶ盆が小さく鳴った。
ヴァルトは、門の内側に立つ子どもたちを見た。ラウはキリの前に立ったまま、こちらを見ている。まだ信じたわけではない。だが、逃げようとはしていない。
王都の夜気が、別の重さを帯び始めていた。