押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第214話 侯爵の手紙

 

 

 セルマが机の上へ置いた紙束は、調合記録とは似ても似つかなかった。

 

 文字の大きさが揃っていない。名前らしいものの横に別の呼び名が書き足され、その上から強い線が引かれている。町の名には矢印が伸び、矢印の先には「たぶん」「去年まで」「薬草商から聞いた」と、確かめようのない言葉が並んでいた。

 

 普段のセルマなら、薬草の重さも煮出した時間も、瓶へ詰めた日付も一目で分かるように書く。失敗した調合でさえ、どこで色が変わり、いつ沈殿が出たかを残す。

 

 そのセルマが、今日は外套を脱ぐことも忘れ、椅子の背にもたれかかっていた。

 

「駄目。全然分からないわ」

 

 共同商館の扉が開き、冷えた風が床の近くを走った。吊るしてある布見本がわずかに揺れ、乾燥香草と革、荷車軸へ塗る油の匂いが混ざる。

 

 帳場の向こうでは、木札を重ねる音がしていた。荷を下ろす男たちの掛け声も聞こえる。いつもの商館の午前だったが、セルマの前だけ、紙の上に道がなくなっているように見えた。

 

「薬草を知ってるとか、手先が器用だとか、それだけなのよ。本人が何を望んでるかも、今どこにいるかも分からない」

 

 セルマは1枚を指で押さえた。

 

「この子なんて、片方では10歳くらい。別の人に聞いたら、もう成人前だっていうの。住んでる町も違うし、呼び名まで違う。たぶん同じ子だって言う人もいれば、兄弟だって言う人もいる」

 

 澪は紙を引き寄せ、重なっている町の名を見比べた。

 

 同じ薬師の名前が3枚に出ている。子どもの呼び名は違うが、薬草を採りに行く方角と、右手に古い火傷があるという話は一致していた。

 

「同じ人の話が、別々に入っている可能性がありますね」

 

「でしょ。だから会いに行こうにも、どこへ行けばいいか決められないのよ」

 

 セルマは両手を上げ、すぐに力なく机へ戻した。

 

「薬草のことなら、葉を見れば分かる。根を切れば匂いも分かる。薬師なら、作ったものを見れば腕も分かる。でも人は、見つける前から話が変わるじゃない」

 

「人は運ばれてきた荷物じゃないからね」

 

 リュシアは責める調子を入れずに言い、紙の端を揃えた。

 

「薬草の情報と、人の暮らしの情報は別物だよ。誰がどこで採っているかは分かっても、その家が今どうなってるかまでは、薬師同士じゃ話さないこともある」

 

「分かってるわよ」

 

 セルマは眉を寄せたが、声に勢いはなかった。

 

「分かってるから来たの。私だけじゃ探せない」

 

 澪は新しい紙を取り出し、上から順に欄を作った。

 

 名前。呼び名。年齢。現在地。家族。本人の希望。最後に確かめられた日。情報を持ってきた人。

 

 書き終えてから、セルマの紙へ戻る。

 

 埋められたのは、呼び名と、曖昧な年齢だけだった。

 

 本人の希望という欄は白いまま残った。

 

 澪は鉛筆の先を止めた。弟子を迎えるという話なのに、当人の声がどこにもない。周りの大人が「よく働く」と言った話ばかりが集まり、その子が何を望むかだけが抜け落ちている。

 

「これでは、連れてきてから本人が望んでいなかったと分かる可能性もあります」

 

「そんなのは弟子じゃないわ」

 

 セルマの返答は早かった。

 

「働き手を買うつもりじゃないもの」

 

 リュシアは紙を4つの山へ分け始めた。

 

「薬師から聞いた話。薬草商から聞いた話。採取人から聞いた話。それから、誰が言ったか分からない話」

 

 最後の山が一番高くなった。

 

 セルマが露骨に顔をしかめる。

 

「それ、ほとんど残らないじゃない」

 

「残らないんじゃない。混ぜたまま使えないだけさ」

 

 リュシアは、セルマが消しかけた町の名を指先でなぞった。

 

「人を探すなら、名前より、どの道を通って、どの宿で、いつ聞いたかの方が役に立つこともある」

 

 澪は紙を綴じるのをやめた。後から差し替えられるよう、欄ごとに小さな紙片を使う。呼び名が違えば並べておける。確定した情報だけを書き直せば、曖昧な話を消してしまう必要もない。

 

 セルマはその手元を見ていたが、やがて息を吐いた。

 

「最初から、2人に頼めばよかったわ」

 

「最初から頼んでいたら、セルマさん自身がどこまで分かるのか分からないままでした」

 

 澪が言うと、セルマは少しだけ顔を上げた。

 

「それ、慰めてる?」

 

「事実を分けています」

 

「澪らしいわね」

 

 呆れたような声だったが、紙を隠そうとする手はもう動かなかった。

 

 リュシアは帳場の棚へ目を向けた。

 

 最近、別にしておいた札がある。弟子候補とは関係がないと思い、商況の異常として積んでいたものだ。

 

 西から届くはずの荷。

 

 来ない荷車。

 

 予定を過ぎても姿を見せない隊商。

 

「人の居場所を追うなら、こっちも見た方がいいかもしれないね」

 

 リュシアは棚の下段から、赤と黄色の紐が結ばれた木札を何枚も取り出した。

 

 

 

 

 

 西部から来る荷札だけ、赤い紐が続いていた。

 

 未着の印だった。

 

 黄色は遅延。赤は、予定日を過ぎても次の宿場へ現れず、荷主とも連絡がつかないもの。

 

 リュシアは古い順に並べた。

 

「最初に遅れが出たのは5日前。塩漬け肉と乾燥豆を積んだ荷車だね。その翌日に、薬草と染料。3日前からは、来ない方が増えた」

 

 澪は西部街道の地図を机へ広げた。

 

 紙の端が火鉢の熱でゆっくり反り返る。指で押さえながら、札に刻まれた宿場名を探した。

 

「これは、荷が出た場所ですか。それとも最後に見られた場所ですか」

 

「最後に見られた方。出発地はもっと西だよ」

 

 澪は地点へ薄い印をつけ、その横に日付を書いた。

 

 別の紙には、保存食を急に買い集めている町の名が並んでいる。毛布、薬、馬具、車輪の金具。どれも旅行者が少し買う量ではない。

 

「こちらは、物資を買っている町が東へ移っています」

 

「避難してきた人間を受け入れてるのかもしれない。あるいは、自分たちの町まで来ると思って備えてるか」

 

 リュシアは断定しなかった。

 

 宿場商人の伝言には、「馬が泡を吹いていた」「荷を街道脇へ捨ててきた」「夜にも東へ歩く者がいた」とある。

 

 別の紙には、子どもを背負った女を見たと書かれていた。

 

 セルマの指が、その一文の上で止まった。

 

「薬師や採取人の家も、巻き込まれてるかもしれない」

 

 自分が持ってきた紙束へ視線を移す。

 

 薬草を見分ける子。

 

 手先の器用な子。

 

 家が貧しい子。

 

 その文字が、先ほどまでとは違って見えていた。工房へ迎えられるかもしれない候補ではない。逃げる途中にいるかもしれない。家を失っているかもしれない。親が戻らず、どこへ行けばよいか分からないまま、街道沿いの宿へ押し込まれているかもしれない。

 

 セルマは紙束を畳んだ。

 

「……候補を探しに行く話じゃないわね」

 

 商館の表では、客が布の値段を尋ねていた。木箱の蓋が閉まり、縄を締める音がする。

 

 その日常のすぐ隣で、遠い西の暮らしだけが崩れ始めている。

 

「まず、生きている人を連れ出す話だわ」

 

 澪は地図の印を見つめた。

 

「スタンピードという言葉は、どこから出ていますか」

 

「最後に来た伝言だよ。ただ、見た本人からじゃない。西の宿場で聞いた話を、別の商人が持ってきた」

 

「規模は」

 

「分からない。魔物の種類も、どこまで来てるかもね」

 

 分からないものが多い。

 

 だが、荷が来ないことは事実だった。保存食が消えていることも、東へ歩く人間が増えていることも。

 

 澪は、確かな情報を濃い線で囲み、又聞きには薄く印をつけた。異変が起きた地点と、情報が届いた地点を同じにしない。保存食が買われた町も、襲われた町ではなく、避難民を受け入れている側かもしれない。

 

 セルマの紙束は捨てなかった。

 

 救出した後、本人に尋ねるための材料になる。安全な場所へ来て、食事をして、眠れるようになってから、その先を決めればいい。

 

「真壁さんに持っていきましょう」

 

 澪が言うと、リュシアは札をまとめ始めた。

 

「新しく誰かを西へ見に行かせるのは?」

 

「状況が分からないまま、商人を追加で入れるべきではありません。確認するための人を増やして、避難する人を増やすことになります」

 

「そうだね。商人は兵じゃない」

 

 セルマは立ち上がった。椅子が床を擦り、乾いた音を立てる。

 

「工房へ戻る前に、私も行くわ」

 

 澪が顔を上げる。

 

「ポーションの在庫は」

 

「聞かれる前に答えられるようにしておく」

 

 そう言いながら、セルマはまだ外套を着たままだったことに気づいた。

 

 一度脱ごうとして、すぐにやめる。

 

「どうせまた外へ出るもの」

 

 リュシアは口元を緩めた。

 

「その調子なら、弟子が来る前に、弟子から身支度を教わることになるね」

 

「工房ではちゃんとしてるわよ」

 

「今日は商館だからね」

 

 セルマは反論しながら、机に残しかけた紙束を慌てて抱えた。

 

 深刻な情報の中で生まれた短いやり取りに、澪の肩からわずかに力が抜けた。

 

 だが地図の赤い印は消えない。

 

 3人は、札と紙を箱へ収めた。

 

 

 

 

 

 採石場の風は、領都よりも冷たかった。

 

 乾いた石粉が地面を薄く走り、靴の甲へ白く積もる。基地へ入ると風は止んだが、入口近くには冷気が残っていた。

 

 真壁は作業台の前で、金属製の小さな札へ穴を開けていた。

 

 食料。

 

 医療。

 

 寝具。

 

 工具。

 

 現地配布。

 

 回収品。

 

 別の作業に使うつもりだったらしい分類札が、机の隅に整然と並んでいる。

 

 澪たちの顔を見た真壁は、手にしていた工具を置いた。

 

「商談ではありませんな」

 

「はい。西部の街道で、異常が出ています」

 

 澪が地図を広げる場所を探す前に、真壁は作業台の部品を片側へ寄せた。部品はただ押し退けられたのではなく、種類ごとに浅い箱へ入り、空いた中央へ地図が収まった。

 

 リュシアは、スタンピードという言葉から始めなかった。

 

 5日前に荷が遅れたこと。3日前から未着が増えたこと。保存食や毛布を集める町が東へ移っていること。空荷で戻る商人や、夜に街道を歩く農民がいたこと。

 

 真壁は最後まで口を挟まなかった。

 

「最初に荷が遅れたのは、5日前ですな」

 

「そうだよ」

 

「報告が届くまでにも時間がかかっている」

 

 真壁の指が、地図の西側から領都までをなぞる。

 

「現地では、さらに先へ進んでいる可能性があります」

 

 セルマは抱えていた紙束を胸元から下ろした。

 

「弟子を探しに行きたいんじゃないわ」

 

 真壁が顔を上げる。

 

「子どもが残されてるなら、まず助けたいの。薬師の家の子でも、採取人の家の子でも、そんなのは後。生きて連れてこないと、何も始まらない」

 

 真壁は、セルマの紙束と西部街道図を一度見比べた。

 

「これは弟子の選定ではありません」

 

 作業台の端から「医療」と刻んだ札を取り、地図の横へ置く。

 

「救出と保護を先に組みます」

 

 澪は、以前、真壁が災害地域の子どもについて口にした言葉を思い出した。

 

 リソースは早めに確保、保全するに越したことはない。

 

 あの時は、言葉遣いへ先に引っかかった。今は地図の上に、荷が止まった町と、東へ逃げてきた人間の足跡がある。

 

 人材という言葉の前に、人がいる。

 

 澪は帳面を開いた。

 

「現時点で分かる範囲から、支援費を分けます」

 

 真壁はセルマへ向き直った。

 

「すぐに出せるポーションは」

 

「完成品は工房へ戻れば数えられる。治療用と疲労回復用は分けてあるけど、現地配布用は容器を見直した方がいいわ」

 

「開封後に保存できるものと、その場で使い切るものも分け給え」

 

「分かってる。子ども用も大人用と同じにはしない」

 

 セルマの返事は鋭かったが、真壁は気にした様子もなく、今度はリュシアを見る。

 

「保存食、毛布、布、薬瓶。即日で集められる量は」

 

「領都の在庫を空にしないなら、複数の店へ分けて頼む必要がある。1軒から買い切れば、明日から町の人が困るよ」

 

「その条件で進めてください」

 

 澪は書き留める。

 

 食料。

 

 毛布。

 

 薬。

 

 清浄機。

 

 輸送費。

 

 現地支援費。

 

 一時保護費。

 

 項目を書き足すたび、数字の先に人の姿が浮かぶ。毛布100枚ではない。夜に地面へ座る100人。保存食3日分ではない。火を起こせない場所で、空腹を抱えたまま朝を待つ3日間。

 

「押入商会の通常運営費と、孤児院への支援分は残します」

 

「当然ですな」

 

 真壁は空の木箱を1つ、地図の横へ置いた。

 

 木箱なら数えられる。中身を分け、札を付け、収納の棚へ収められる。

 

 人は同じようには運べない。

 

「物資なら運べます。問題は人です」

 

 澪は地図上の西部へ目を落とした。

 

「エアカーで往復する場合は」

 

「補助には使えます。ですが、負傷者を横にする空間と、乗車人数が足りません。街道が生きている保証もない」

 

 真壁は領都と王都の間へ指を置いた。

 

「人員を大量輸送する仕組みが、まだできていません」

 

 その言い方に悔しさはなかった。できていないなら、現時点で使えるものをつなぐ。真壁の手はすでに次へ動いている。

 

 広域地図を出し、王都侯爵邸へ印を置いた。

 

「ベラクルス侯爵領へ直接転移できる登録地点はありません。今回は王都を経由します」

 

「王都侯爵邸を中継点にするんですか」

 

「ええ。侯爵家の命令と、王都側の物資を集められる。領都で準備し、王都へ送り、そこから西へ流します」

 

 真壁は分類札を3列に並べた。

 

 侯爵家派兵用。

 

 先行支援用。

 

 一時保護用。

 

「まずはアルベルト殿に相談します」

 

 次に澪を見る。

 

「澪君は、押入商会の予算計画を作ってくれ給え」

 

「通常運営を止めずに出せる上限を出します。購入、貸与、無償支援も分けます」

 

「よろしい」

 

「リュシア君は調達を」

 

「領都の相場を壊さない範囲でね。店ごとに少しずつ出してもらうよ」

 

「セルマ君はポーションの準備だ」

 

「治療用、疲労回復用、現地配布用。容器も分けるわ」

 

 セルマはすでに扉へ向かいかけていた。

 

「数も記録し給え」

 

 足が止まる。

 

「箱を開けなければ残数が分からない状態にはしないように。製造数、搬出数、残数を揃えてください」

 

 セルマは振り返らず、片手を上げた。

 

「分かってるわよ」

 

 そのまま工房へ戻るつもりらしい。

 

 リュシアも木札をまとめる。

 

「許可が出てから買い始めるんじゃ、遅いね」

 

「ええ。ただし、軍を動かすのは侯爵家です。押入商会が独自に兵を集めることはしません」

 

 真壁はアルベルトへ持っていく紙を3枚だけ抜いた。

 

 街道図。

 

 物流異常の一覧。

 

 押入商会が即座に用意できる物資の概算。

 

 相談の結果を待ってから準備するのではない。準備は4方向へ同時に走らせ、権限が必要な部分だけを侯爵家へ渡す。

 

 澪が帳面へ顔を落とした時には、真壁はもう外套を手にしていた。

 

「では、行ってきます」

 

「もうですか」

 

「遅らせる理由がありません」

 

 当然のように言い、真壁は基地を出ていく。

 

 扉が開いた一瞬、冷たい石粉の匂いが入り込んだ。

 

 澪はその背中を見送り、書きかけの予算表へ戻る。

 

「予算額が出る前に、相談へ行きましたね」

 

 リュシアが笑う。

 

「真壁が予算を待ってから動いたこと、あったかい?」

 

「ないですね」

 

 澪は鉛筆を持ち直した。

 

「だから、追いつけるように作ります」

 

 

 

 

 

 王城の廊下には、夜になっても人の気配が絶えなかった。

 

 文官が抱えた紙束の端が揺れ、扉が開くたびに灯りが床へ細長く伸びる。磨かれた石床へ、ヴァルトの靴だけが王都下層の埃を残していた。

 

 着替える時間はなかった。

 

 王都侯爵邸へ子どもたちを連れ込み、証拠を家令へ渡した直後に呼び出されたのだ。

 

 宰相の執務室へ入ると、侯爵はすでに机の向こうで待っていた。

 

 机上には2種類の紙があった。

 

 片方は、家令から届いた王都下層の一報。

 

 もう片方は、西部の地図と、軍務関係の報告書だった。

 

「報告を」

 

 侯爵は挨拶を長引かせなかった。

 

 ヴァルトも一礼だけで済ませ、手元の紙を置く。

 

「ガルドン一味と、古物屋セブルは押さえました」

 

「証拠は」

 

「証文、帳面、荷札、印章。すべて王都侯爵邸の家令殿へ預けています。原本は封印済みです」

 

 侯爵は紙へ目を落とした。

 

「当家で原本を押さえているのだな」

 

「はい。これは要点表の控えです」

 

 ヴァルトが持ってきたのは、証拠そのものではない。

 

 家令へ渡した資料束と同じ番号を振った一覧だった。証文の番号、帳面の該当箇所、荷札の送り先、使用されていた印章。別々に見ればただの紙片でも、番号をたどれば誰が誰へ金を払い、どこへ子どもを送ったのかがつながる。

 

 侯爵の指が、警備隊関係者の欄で止まった。

 

「上にもいるか」

 

「可能性があります。現場の者だけで、あれだけ長く続けるのは難しい」

 

「警備隊全体へは流さない」

 

 侯爵は側近へ顔を向けた。

 

「原本を当家から宰相府の管理下へ移せ。封印の状態、受取人、時刻を残せ。担当者はこちらで選ぶ」

 

「承知いたしました」

 

「イザークという小隊長は」

 

「私の旧知です。命令違反に近いことは承知のうえで、協力しました」

 

 侯爵の眉がわずかに動く。

 

「命令違反だけを先に問うつもりはない。何を知り、誰を信用できないと判断したのか、こちらで聞く」

 

 ヴァルトは息を置いた。

 

 イザークへ借りを作ったとは考えていない。貸し借りで動いたのでもない。ただ、あの場で互いに背を向けられる程度には、昔を知っていた。

 

 次に報告すべきことは、紙の上ではなく、今も侯爵邸の部屋へ固まっている子どもたちだった。

 

「保護した子どもは20人です」

 

 侯爵の視線が上がる。

 

「互いを家族だと思っている。こちらの都合で分けるべきではありません」

 

「領都へ連れていくつもりか」

 

「順次。全員を一度には運べません」

 

「それまでは当家で預かる」

 

 侯爵の返答に迷いはなかった。

 

「正式に、侯爵家の一時保護下へ置く。救い出した者を、再びこちらの都合で引き離すことはしない」

 

 ヴァルトの肩から、見えない重みが1つ下りた。

 

 家令が受け入れてくれることは分かっていた。だが、家令の裁量と、侯爵家の正式な決定は違う。今これで、王都侯爵邸へ残す子どもたちは、誰かの気まぐれで外へ出されることはない。

 

「ありがとうございます」

 

 深く頭を下げる。

 

 侯爵は側近へ書付を命じた後、机の西部地図へ手を移した。

 

「ヴァルト殿。領都へ戻るのであれば、これをアルベルトへ届けてほしい」

 

 声の重さが変わった。

 

「ベラクルス侯爵領で、大規模な魔物の発生が確認された」

 

 ヴァルトは地図へ目を落とした。

 

 印の間が空きすぎている。魔物がいない空白ではない。情報が届いていない空白だ。

 

「スタンピードですか」

 

「その可能性ではない。すでに確認された」

 

 侯爵は封書へ筆を走らせた。

 

「陛下より、ヴァルディス侯爵家へ即時派兵の王命が下った」

 

 王都の人身売買事件を片づける間にも、西では別の子どもたちが逃げているかもしれない。

 

 ラウが求めたのは、皆を守る力だった。

 

 ヴァルトはつい先ほど、その力を学びに来いと告げたばかりだ。その自分が、王都の子どもを置いて西へ向かう可能性を考えている。

 

 だが、置き去りにするのではない。

 

 守る場所をつなげる。

 

 侯爵が封蝋を押す。赤い蝋が紙の上で固まり、家紋が刻まれた。

 

「私は王都を離れられない。領都側の兵は、アルベルトの判断で動かすよう記してある」

 

 封書を受け取ると、紙越しにも蝋の温かさが残っていた。

 

「可能な限り早く届けます」

 

「頼む」

 

 ヴァルトはもう一度礼をし、執務室を出た。

 

 廊下を歩きながら、頭の中では王都侯爵邸の子どもたちの顔と、西部地図の空白が交互に浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 王都侯爵邸の厨房には、夜遅くとは思えないほど火が入っていた。

 

 大鍋から立つ湯気に、野菜と肉の匂いが混じる。柔らかく煮たスープと、硬すぎないパン。子どもたちが一度に食べても胃を悪くしないよう、量を分けて出している。

 

 それでも、パンをすぐには食べない子がいた。

 

 服の内側へ隠し、使用人が近づくと身体をかばうように向きを変える。

 

 取り上げられると思っているのだ。

 

 使用人は止めなかった。

 

「持っていて構いません。明日の分もございます」

 

 子どもは答えず、パンを押さえたまま年長者の背後へ隠れた。

 

 ヴァルトが戻ると、ラウが最初に立ち上がった。

 

 視線はヴァルトの顔ではなく、手にした封書へ向いている。

 

「何かあったのか」

 

「領都へ戻る」

 

 部屋の空気が硬くなった。

 

 小さい子が、隣の少年の服を強く握る。

 

 ヴァルトは全員を見回した。

 

「皆を受け入れる場所は、領都に用意する」

 

 ラウの表情は緩まない。

 

「だが、今夜、一度に全員を運ぶことはできない」

 

「残る奴らは、どうなる」

 

 すぐに返ってきた。

 

 自分が行けるかどうかではない。残る者を尋ねている。

 

「侯爵家がここで預かる。先ほど正式に決まった」

 

「後から迎えに来るのか」

 

「必ず来る」

 

 ヴァルトはラウの目を見た。

 

「先に行く者も、残る者も、置き去りにはしない」

 

 ラウはすぐには頷かなかった。

 

 部屋の隅では、キリが小さい子の肩へ毛布を掛け直している。ベスはパンを2つに割り、自分より幼い子へ半分を渡した。トマは転移という言葉に顔をこわばらせながら、年下に気づかれないよう平然と座っている。

 

 この子たちは、血のつながりではなく、食事を分け、夜を越え、危険な時に互いを起こして家族になった。

 

 小さい子だけを先に運べばいいわけではない。

 

「体調の悪い者から連れていく」

 

 ヴァルトが言うと、ラウは眉を寄せた。

 

「でも、小さい奴だけ知らない所へ送るのは駄目だ」

 

「私もそう考えている」

 

 ヴァルトは家令へ向いた。

 

「名前と体調だけでなく、誰が誰の世話をしているかも書いてください」

 

「承知いたしました」

 

 家令は紙を2部用意させた。

 

 名前。

 

 呼び名。

 

 咳や熱の有無。

 

 傷。

 

 歩けるか。

 

 誰と離さない方がよいか。

 

 身元調査のためではない。後から迎えに来る時、誰を運び、誰が残っているかを失わないための一覧だった。

 

「この子は、夜になると咳が出る」

 

 キリが小さな少女の背を撫でながら言った。

 

「でも、俺がいないと泣く」

 

「なら一緒だ」

 

 ヴァルトは迷わず答えた。

 

 別の子は足に傷があり、長く立てない。世話をしている年長者も先発へ入れる。

 

 反対に、王都へ残る組にも年長者を置く。幼い子ばかり残せば、侯爵家の使用人がどれほど丁寧でも不安は消えない。

 

 ラウは全体を見ていた。

 

「俺は残る」

 

「ラウ」

 

「先に行った奴らのことは、あんたが見る。ここに残る奴らは、俺が見る」

 

 ヴァルトは止めなかった。

 

 ラウが領都へ行きたくないわけではないことは分かる。仲間を守る力を学びたいと言ったばかりだ。それでも今は、王都に残る者のそばを選んだ。

 

「分かった。必ず迎えに来る」

 

「約束だからな」

 

「ああ」

 

 転移する子どもたちは、手放したくない物だけを自分で持った。

 

 壊れた木片。

 

 汚れた布袋。

 

 端の欠けた小さな器。

 

 寝具や水、食料はヴァルトが収納へ入れる。だが、本人が握っている物は預からなかった。価値がないように見えても、それがその子に残った最後の所有物かもしれない。

 

 家令が2部の一覧を見比べる。

 

「先に向かわれる方はこちら。残られる方はこちらで間違いございません」

 

 ヴァルトも目を通した。

 

 転移可能な具体的人数を先に決めたのではない。自分の魔力、子どもの体調、領都側で今夜受け入れられる人数を考え、その範囲に収めた。

 

 小さい子が、ラウの袖をつかんだ。

 

「ラウも来る?」

 

「後で行く」

 

 ラウはしゃがみ、目の高さを合わせた。

 

「先に飯食って、寝る場所取っとけ」

 

 子どもは不安そうにしながらも、ゆっくり手を離した。

 

 ヴァルトは転移陣の準備へ入った。

 

 床へ伸びる魔術の光を見て、トマが息を飲む。

 

「大丈夫だ」

 

 ヴァルトは短く告げた。

 

「目を閉じてもいい。隣の手は離すな」

 

 子どもたちは互いの手を握った。

 

 光が部屋を満たす直前、ヴァルトはラウを見る。

 

「戻る」

 

「待ってる」

 

 その声を最後に、王都侯爵邸の部屋が光の向こうへ遠ざかった。

 

 

 

 

 

 領都侯爵邸の執務室では、真壁が西部街道図の上へ木札を置いていた。

 

「これが最後に荷が確認された宿場です」

 

 アルベルトは椅子へ座ったまま、札と日付を追った。

 

「商人の情報だけで、領外へ軍を出すことはできない」

 

「承知しています」

 

「だが、命令が届いてから糧秣を集め始めては遅い」

 

「そのために参りました」

 

 真壁は、押入商会側ですでに始めた作業を短く説明した。

 

 澪が予算。

 

 リュシアが物資。

 

 セルマがポーション。

 

 アルベルトは机を指で2度叩いた。

 

「斥候の準備と、招集可能な兵の把握までは進める。正式な派兵命令が来れば、すぐ動けるようにしておこう」

 

 その時、扉の外で慌ただしい足音が止まった。

 

 書記が入ってくる。

 

「転移室へ、ヴァルト殿がお戻りになりました」

 

 アルベルトが顔を上げた。

 

「通せ」

 

「それが……子どもを伴っておられます」

 

 一瞬だけ、室内の空気が止まった。

 

 真壁は西部地図から顔を上げ、アルベルトは椅子を引いた。

 

 廊下へ出ると、ヴァルトが子どもたちを連れて立っていた。

 

 転移直後の感覚に慣れないのか、小さい子は床を確かめるように足を動かしている。年長者はその肩を抱き、全員が扉に近い場所へ固まっていた。

 

 靴から落ちた王都の土が、磨かれた領都侯爵邸の床へ小さな跡を作っている。

 

 ヴァルトはアルベルトへ一礼した。

 

「夜分に申し訳ありません」

 

 その手には、侯爵の封書がある。

 

 だがアルベルトは、先に子どもたちを見た。

 

 服の汚れ。

 

 食料袋を離さない手。

 

 廊下の奥と出口を交互に見る目。

 

「食事と湯を」

 

 後ろにいる使用人へ命じる。

 

「医師にも連絡しろ。空き部屋で足りなければ、客室を使え。今夜は当家で預かる」

 

 使用人たちが一斉に動いた。

 

 1人は厨房へ。1人は医師を呼びに。別の者は毛布と着替えを用意するため廊下の奥へ走る。

 

 ヴァルトの手から、先発者の一覧が渡される。

 

「王都侯爵邸に残した子どももいます。全員を一度には運べませんでした」

 

「何人残っている」

 

 ヴァルトが答え、別の一覧を差し出した。

 

「順次、こちらへ連れてくるつもりです」

 

「承知した。父上の屋敷へも、こちらから連絡を入れる」

 

 小さい子が咳き込み、隣にいる少年が背を撫でた。

 

 アルベルトは医師を呼びに走った使用人へ、さらに声をかける。

 

「温かいものを先に。だが、一度に食べさせすぎるな」

 

 真壁は子どもたちの人数と部屋の数を見比べたが、すぐに孤児院へ移すとは言わなかった。

 

「長期の受け入れについては、明朝、教会と孤児院を交えて決めるべきでしょう」

 

「そうしよう」

 

 アルベルトは頷く。

 

「今夜は休ませることを優先する」

 

 ヴァルトの肩がわずかに下がった。

 

 親書を届ける役目は急いでいる。だが、子どもを見知らぬ場所へ置いたまま、すぐに背を向ける気にはなれなかった。

 

 アルベルトが親書より先に子どもを見たことで、ようやく足を執務室へ向けられる。

 

 使用人に付き添われ、子どもたちが廊下の奥へ移動していく。

 

 小さい子が何度も振り返った。

 

 ヴァルトはその姿が角を曲がるまで見届けた。

 

 それから、侯爵の封書を差し出す。

 

「侯爵閣下より、アルベルト様へ」

 

 アルベルトは父の封蝋を確かめ、執務室へ戻った。

 

 

 

 

 

 封蝋が割れ、赤い小片が机へ落ちた。

 

 すぐ隣には、リュシアが集めた未着の荷札がある。赤い紐と赤い蝋が、別の経路から同じ異変を告げているようだった。

 

 アルベルトは親書を最初から最後まで黙って読んだ。

 

 途中で一度、西部街道図へ目を移す。

 

 最後まで読み、もう一度冒頭へ戻った。

 

「ベラクルス侯爵領でスタンピードが発生」

 

 声に動揺はなかった。

 

「陛下より、ヴァルディス侯爵家へ即時派兵の王命が下った」

 

 書記の背が伸びる。

 

 真壁は地図上の赤い印を見た。

 

「リュシア君が集めた情報と一致しますな」

 

「現地から王都へ報告が届き、王都から領都へ命令が戻るまでに時間差が出たようだ」

 

 アルベルトは、商人情報の札を1枚取った。

 

「公式報告と商人情報が、別の経路から同じ事態を示している」

 

 ヴァルトは王都で見た地図を思い出した。

 

 あの時より、領都の地図には東側の情報が多い。王都へ届いた軍事報告と、領都へ届いた物流の崩れ。その間にある空白が、現地の混乱そのものだった。

 

「父上は、領都側の兵を私の判断で動かせと記している」

 

 アルベルトは親書を机へ置いた。

 

「真壁殿。押入商会は、どこまで出せる」

 

「物資輸送と初期支援を担当します」

 

 真壁は簡潔に答えた。

 

「軍の指揮と正式な保護は侯爵家へ。押入商会は、収納による輸送、現地への初期物資供給、簡易設備の展開を受け持ちます」

 

「それで進める」

 

 アルベルトは書記へ向いた。

 

「軍務担当を呼べ。招集可能な兵、騎兵、荷車、糧秣、治療物資を今夜中に出させろ。西部街道の行程表と距離表もだ」

 

「直ちに」

 

 書記が扉へ走る。

 

「押入商会側では、すでに準備を始めています」

 

 真壁は続けた。

 

「澪君が予算、リュシア君が調達、セルマ君がポーションを整えています。王都侯爵邸を中継点にする予定です」

 

「押入商会の物資は、無条件の徴発扱いにはしない」

 

 アルベルトは別の書記へ命じる。

 

「購入、貸与、無償支援を分けて書面にしろ。後から責任と所有が曖昧にならないように」

 

「承知いたしました」

 

 廊下の向こうでは、子どもたちへ湯を運ぶ足音が聞こえた。

 

 同じ屋敷の中で、王都から来た子どもを眠らせる準備と、西部へ兵を送る準備が同時に始まっている。

 

 アルベルトは椅子から立った。

 

 地図上では、領都とベラクルス侯爵領は机の幅にも満たない。

 

 だが、その間には町があり、宿場があり、荷車があり、歩いて逃げている人間がいる。

 

「ヴァルディス侯爵家は、王命に従い、直ちに派兵する」

 

 軍務担当を呼びに行く足音が、廊下の石床へ遠ざかっていく。

 

 真壁の視線は、西部へ伸びる街道の上で止まっていた。

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