軍務担当者が執務室へ戻ってきた時、廊下ではまだ湯桶を運ぶ足音が続いていた。
王都から連れてこられた子どもたちは、侯爵邸の客室で今夜を過ごすことになっている。厨房では胃へ負担をかけない温かな食事が用意され、医師は小さな傷や咳を診て回っていた。
その生活の気配を背に、軍務担当者は厚い帳面と数枚の地図をアルベルトの机へ置いた。
「何日かかる」
アルベルトは椅子へ戻らず、机に両手を置いたまま尋ねた。
軍務担当者は西部街道の行程表を広げ、領都から王都方面を経てベラクルス侯爵領へ至る道を指で追った。地図の上では短い線に収まっているが、その途中には宿場や橋、川沿いの低地があり、冬場には車輪が沈む区間も含まれている。
「街道行程は、およそ400kmです。兵を招集し、糧秣と荷車を整えて進軍するなら、急いでも約1週間を要します」
窓枠が風に鳴った。
親書には即時派兵とある。だが、即座に命令を出すことと、軍が即座に現地へ到着することは別だった。
「騎兵だけを先に出せば」
「先触れや偵察であれば日数は縮められます。しかし、避難民を守る兵力も、継続して戦うための物資も運べません。現地で馬を休ませられるかも分かりません」
「騎兵だけ着いて、食事も治療道具も届かないのでは意味がありませんな」
真壁は軍用荷車の帳面を開き、兵数ではなく積載量の欄へ目を留めた。
「到着時に戦えない軍を急がせても、救援を必要とする者が増えるだけです」
「その通りです」
軍務担当者が答えた。
ヴァルトは西部まで続く宿場の印を追った。
魔術院にいた頃なら、400kmという数字を転移陣同士の距離として考えただろう。しかし行商に出てからは、その距離の中に荷車の軋みや、車輪へ絡む泥、馬を止めて水を飲ませる時間まで見えるようになっていた。
兵士は街道を歩くだけではない。食事と睡眠を取り、武具を修理し、疲れた馬を休ませなければならない。荷を減らせば速くなるが、到着した先で戦い続ける力を失う。
「荷車を減らした場合は」
ヴァルトが尋ねると、軍務担当者は別の頁を開いた。
「速度は上がります。ただし、糧秣、治療物資、野営道具のいずれかを削ることになります」
「帰路で負傷者を運ぶ空きもなくなる」
真壁が積載欄を指で押さえた。
「はい。行きの荷だけで車両を埋めれば、負傷者や避難民を乗せられません」
アルベルトは地図から顔を上げなかった。
「通常の派兵準備は止めない。今夜のうちに招集の使者を出せ。武具、馬、軍用荷車、糧秣、治療物資は同時に集める」
「承知いたしました」
「騎兵の一部には街道を見せろ。ただし戦闘は避けさせる。道が通れるか、橋が残っているかを持ち帰らせろ」
軍務担当者が書記へ指示を渡すと、扉が開き、人が廊下を駆けていった。
即時派兵という命令だけで、軍が完成するわけではない。使者が各地を走り、倉庫係が食料を数え、馬係が状態を見定め、荷車へ何を積むかを決めて、ようやく部隊は街道へ出られる。
それには約1週間かかる。
侯爵の親書へ記された戦況は、すでに数日前のものだった。
「軍が到着する頃、どの町が残っているかも分からないか」
「はい」
軍務担当者の返答は短かった。
廊下の向こうで食器が触れ合った。
今夜の食事をようやく得た子どもたちがいる一方、西部には侯爵軍の到着まで空腹を待てない者がいる。
真壁は距離表を閉じた。
「先行するとして、何を確かめる」
軍務担当者が退室した後、アルベルトは真壁へ問いかけた。
真壁は西部から届いた報告を広げた。村の名前、魔物が現れた方角、避難民らしい集団が通った宿場が、それぞれ離れた紙へ書かれている。どの情報も単独では使えず、その間に何が起きているかは分からなかった。
真壁は収納から5枚の札を出し、地図の上端へ並べた。
「敵の規模、進路、避難民の位置、残存拠点、物資投下可能地点。この5つが要ります」
敵の種類さえ、報告ごとに揃っていない。異なる魔物が同じ方角へ押し寄せているのか、別々の群れが街道付近で重なったのかも不明だった。
「敵を倒すだけではないのだな」
「後続が使える状態にして初めて、先行した意味があります」
真壁は避難民を示す札を取り、魔物の目撃地点から離れた位置へ置き直した。
「どこに人がいるか分からないまま、火力は使えません」
ヴァルトは5枚の札を見つめた。
進路と避難民の位置、物資を出す地点は、境界術式で扱える。
研究室で境界を引く時は、術式の内側と外側を分けた。現地で区切るのは魔術式の領域ではなく、人が歩く道であり、荷車の通る幅であり、子どもが立ち止まらずに進める方向になる。
真壁は報告の途切れた地図へ目を落とした。
「私が先行して、早急に片をつける以外にありませんな」
アルベルトはすぐに認めず、その言葉の意味を量るように真壁を見た。
「片をつける、というのは」
「後続が入れる状態まで整えます」
真壁の指が残存拠点の札へ移った。
「砦、教会、倉庫。責任者が残っていれば、侯爵家の先行支援であることを伝えます。指揮権を奪う必要はありません」
「現地のベラクルス侯爵家や騎士団が残っている場合は、その指揮を尊重するのだな」
「任務に支障がない限りは」
従うと言いながら、動きが遅ければ先に道を開けてしまう顔をしている。
アルベルトにもそれは分かったらしく、眉間へ薄く皺が寄った。
「勝手に領政を始めないでもらいたい」
「興味はありません」
即答だった。
ヴァルトは口元が動きそうになるのをこらえた。
町を救った翌日に道路を直し、倉庫を出し、清浄機と物資棚まで並べる真壁が、領政には興味がないと言っている。本人の中では、困っている工程を処理することと領主になることは、まったく別の話なのだろう。
アルベルトも、それ以上は問い直さなかった。
「侯爵軍の準備は止めない」
「当然です」
「真壁殿が全て解決することを前提にも置かない」
「それでよろしい」
真壁は5枚の札を、現地へ入ってから動く順番へ置き換えた。
ヴァルトはまだ同行を口にしなかった。
廊下の先には王都から連れてきた子どもがいる。王都侯爵邸にはラウたちが残り、迎えを待っている。
守ると告げた直後に別の土地へ向かうことが責任なのか。それとも、ここへ残ることが責任なのか。
答えを出す前に、子どもたちが今夜を越えられるのか確かめなければならなかった。
客室には寝台が余っていた。
それでも子どもたちは1人ずつ寝台へ入らず、2つの寝台の間へ毛布を敷き、肩が触れる距離へ集まっていた。小さい子は眠っていたが、年長者の何人かは壁にもたれ、交代で扉を見ている。
暖炉の薪が崩れ、小さな火の粉が上がった。
室内は暖かい。だが窓際には冷気が残り、洗った服からは湿った布の匂いがしていた。
ヴァルトが入ると、起きていた子どもたちの目が一斉に向いた。
侯爵邸の使用人は柔らかな寝間着を用意していたが、古い上着を脱ごうとしない子もいる。破れ、煙と土の匂いが染みついていても、それは昨日まで自分の身を守っていたものだった。
「眠れないのか」
年長の少年は首を横へ振った。
「寝てる」
「目が開いているようですが」
「見張ってるだけだ」
ヴァルトは返事をせず、部屋の中を見回した。
寝床を用意すれば眠れると、どこかで考えていた。
しかしスラムでは、全員が眠ること自体が危険だったのだ。誰かが起きて足音を聞き、知らない大人が近づけば仲間を起こす。その暮らしが、安全な部屋へ移された一晩で消えるはずはなかった。
枕元へパンを置いた子が、眠ったまま手を伸ばした。指先がパンへ触れると、身体の近くへ引き寄せる。
「明日の朝も食事はございます」
使用人は取り上げず、同じ言葉を同じ声で繰り返した。
ヴァルトは廊下へ出て、家令へ頼んだ。
「扉は完全に閉めないでください。廊下の灯りも残していただけますか」
「承知しております」
「入浴や着替えも、嫌がる者へ無理にさせないようお願いします」
「医師からも同様に申しつけられております」
自分が頼むより前に、必要な配慮が行われている。
ヴァルトは家令へ頭を下げ、客室へ戻った。
「明日も、ここにいていいのか」
起きていた少年が尋ねた。
「明日、侯爵家と教会の者が、皆の暮らす場所を相談します」
「また別々にされる?」
「勝手に分けることはしません」
「王都に残った奴らは」
「迎えられるよう、明朝、侯爵家と教会へ話をつなぎます」
少年はしばらくヴァルトを見つめた。
「ヴァルトが来るのか」
自分が行くと言えば、今夜は安心するかもしれない。だが西部へ向かえば、いつ戻れるか分からない。守れない約束を増やすべきではなかった。
「私1人に何かあっても、迎えが止まらない形を作ります」
「ヴァルトが来ないってこと?」
「私が行ければ行きます。しかし、私がいなければ誰も迎えられない形にはしません」
少年はすぐには納得しなかったが、やがて毛布へ身体を戻した。
ヴァルトは王都から持ってきた名簿を開いた。領都へ来た者と王都に残った者の名前を見比べ、誰と誰を離さない方がよいかに加え、今夜気づいたことを余白へ書き添えた。
古い服を取り上げないこと。食料を隠しても叱らないこと。1人で眠るよう強制しないこと。
名簿は人数を数えるためだけの紙ではない。誰が何を怖がり、誰の隣なら眠れるかを、次に世話をする者へ渡すためのものへ変わっていた。
見張っていた年長者の頭が、やがて壁へ傾いた。
ヴァルトは部屋を出ず、入口近くの椅子へ腰を下ろした。
翌朝、侯爵邸の小会議室には夜の灯りがまだ残っていた。
窓から差し込む淡い光が机を照らし、燭台の炎を薄く見せている。
司祭とシスターは会議へ入る前に、子どもたちの部屋を見てきていた。シスターの指先からは傷を洗った薬草水の匂いがし、机へ置かれた孤児院の帳面には、既存の子どもたちが使う食料や薪、石鹸、洗濯布まで細かく書かれていた。
「寝床を増やすだけなら、何とかできます」
シスターは部屋数の紙から、勤務する者の名前が書かれた欄へ指を移した。
「でも、夜に熱を出した子を見る者と、朝から食事や洗濯をする者が足りません」
真壁も同じ欄へ目を留めた。
「現在の人数は」
シスターが名前と担当を答えると、真壁は日中と夜間の人数を見比べた。
「夜間担当が薄い」
「夜だけではありません」
シスターは孤児院の帳面を開いた。
「小さい子の着替えや食事、洗濯があります。怪我をしている子もいますし、今いる子どもたちの世話が減るわけでもありません」
司祭も続ける。
「教会として保護は引き受けます。ただ、今いる者だけへ負担を集中させれば、先に現場が倒れます」
受け入れを拒んでいるのではない。受け入れた後に何が起きるか知っているからこそ、最初に伝えている。
ヴァルトは昨夜、寝台が余っていても子どもたちが床へ集まっていた光景を思い出した。
建物があることと、そこで暮らせることは違う。
アルベルトは侯爵家の家政担当者へ顔を向けた。
「育児、看護、炊事の経験がある者を出せるか」
「当家の使用人から数名は出せます。しかし継続するなら、屋敷側の人員も補わねばなりません」
「一時雇用を行う」
アルベルトはすぐに決めた。
「元乳母、看護経験者、炊事のできる者へ声をかけろ。希望する者を雇い、費用は侯爵家が持つ」
家政担当者の筆が動き始める。
「慈善奉仕として無償で働かせるな。勤務する時間と担当に応じて賃金を決める」
シスターの肩から、目に見えない力が抜けた。
善意で何とかしろと言われなかったことへの反応だった。
「子どもたちは、一度に孤児院へ移さない方がよいと思います」
ヴァルトが口を開いた。
「互いを家族と考えています。受け入れ先の都合だけで組を崩せば、逃げ出す者が出る可能性があります」
司祭は異論を挟まずに受け止めた。
「当面は侯爵邸と教会、孤児院の施設を併用しましょう。体調と人員を見ながら移します」
「王都に残る子どもは」
アルベルトが尋ねた。
「領都側の世話役が整い次第、順次移します。小さい子だけを先に連れてくることはせず、世話をしている年長者と同じ組にします」
ヴァルトは王都待機組の名簿を机へ置いた。
アルベルトは書記へ控えを取らせる。
「王都に残る者も、侯爵家の案件として追う。ヴァルト殿が西部にいても、移送準備は止めない」
ヴァルトの指が紙の上で止まった。
まだ同行を申し出てはいない。だがアルベルトは、昨夜から自分の視線が西部地図と子どもたちの間を往復していることに気づいていたのだろう。
「教会と侯爵家が保護を担う。押入商会には、寝具や食料、清浄機、生活設備の不足分を頼みたい。世話役の雇用と費用は侯爵家が負担する」
真壁は孤児院へ回せる寝具と清浄機の数を頭の中で切り分け、簡易家具をどの倉庫から出すかまで決めていた。
会議が終わる頃には、子どもを入れる部屋を決めるより先に、そこで働く者を集める使者が屋敷を出ていた。
客室前の廊下には、朝食のパンと洗った布の匂いが残っていた。
子どもたちは新しい服を渡されていたが、全員が着替えたわけではない。古い上着の上から新しい布を重ねる子もおり、シスターはそれを脱がせようとはせず、長すぎる袖のまくり方だけを教えていた。
ヴァルトはその様子をしばらく見てから、アルベルトへ向き直った。
「この子らを、お願いいたします」
深く頭を下げる。
王都で助け、領都へ連れてきた以上、自分が最後まで面倒を見なければならないと考えていた部分がある。
だが、自分1人へつなぎ止めてしまえば、自分が倒れた時に全てが止まる。昨夜、子どもへ告げた言葉を、今度は自分が守らなければならなかった。
「侯爵家として引き受ける」
アルベルトはヴァルトの礼を受けた。
「王都に残る子どもも、準備が整い次第こちらへ移す」
「なに、孤児院の器は広げてあります」
真壁は客室と廊下を見比べた。
「世話をする女性を手配していただければ良いでしょう」
「教会と侯爵家で手配する。費用もこちらで持つ」
アルベルトの返答は短かった。
ヴァルトはもう一度だけ頭を下げる。
それで十分だった。
朝日が西部街道図の上へ伸びていた。
夜通し使われた魔道具の灯りは消され、窓から入る光が5枚の札を照らしている。
真壁は単独で先行する場合の装備を机の端へ揃え始めていた。
ヴァルトは進路と避難民、物資投下地点を示す札へ指を置き、客室の方向へ一度だけ目を向けた。
「私も行きます」
アルベルトが顔を上げた。
「子どもたちはよいのか」
「侯爵家と教会へお願いいたしました。王都に残る子どもについても、私がいなくても迎えを続けられます」
真壁は装備へ伸ばしていた手を止めた。
「先行地で、何を担当します」
同行を許す前に、自分の役割を言葉にしろという問いだった。
「境界、避難線、物資投下点の確保。私の役目です」
ヴァルトの指が地図上の街道をたどった。
真壁が敵主力へ対応する間に、魔物が入り込まない道を作る。避難民と後続軍が正面から衝突しないよう進路を分け、物資を出す地点へ人が殺到しない形を作る。
魔術院の境界課で学んだのは、内と外を区切る技術だった。
これから使う境界は、閉じ込めるためのものではない。逃げる人間を守り、安全な方角へ導くためのものになる。
真壁は5枚の札を見直し、ヴァルトが指を置いた3枚を彼の側へ寄せた。
「では、同行し給え」
迷いのない返答だった。
ヴァルトは真壁の護衛として選ばれたのではない。別の役割を持つ先行要員として、地図の片側を任された。
窓の外では、招集の使者が馬へ乗り、侯爵邸の門を出ていく。
通常の軍が動き始める蹄の音を聞きながら、ヴァルトは王都侯爵邸に残るラウの顔を思い出した。
皆を守れるようになれと告げた以上、自分も守る方法を増やさなければならない。
アルベルトは、真壁とヴァルトを押入商会の独断で送り出すつもりはなかった。
書記を呼び戻し、侯爵家の命令書用紙を机へ置かせる。
「任務は、敵主力の削減、避難路の確保、残存拠点の発見、物資集積地点の確保とする」
書記の筆が紙を走る。
「ベラクルス侯爵家、現地騎士団、教会、町の責任者が残っている場合は、その指揮を奪わない」
「承知しました」
真壁は地図上の札を動かし、侯爵軍が到着した後の引き渡し方をアルベルトと詰めた。避難路と物資地点を現地責任者へ渡し、敵主力を後続軍で対処できる規模まで削れば、押入商会が現場へ居続ける理由はない。
「後続が到着次第、引き渡します」
「避難民の正式な保護と、現地の治安維持は侯爵家が引き継ぐ」
アルベルトは書記がまとめた文面へ目を通した。
「押収物や現地資料を見つけた場合は、侯爵家へ渡すまで封印する。押入商会の所有物にはしない」
「異論はありません」
ヴァルトは現地責任者へ渡す控えと、王都侯爵邸や領都へ情報を戻すための用紙を受け取った。
現地の状況を知るだけでは後続軍の助けにならない。離れた場所でも同じ地図を使える形へ戻して、初めて情報として役に立つ。
アルベルトが封蝋へ印章を押した。
王都から届いた親書とは別に、領都から西部へ向かう命令が形になる。
真壁は先行支援証明書を受け取り、内容へ目を通した。
地図には敵の数も避難民の位置も書かれていない。正規軍より先に入り、現地の責任者を探し、断片的な情報を拾い、後続のために道を通す任務だった。
真壁はヴァルトへ顔を向けた。
「久しぶりのインテリジェンス活動だよ。ヴァルト君」
ヴァルトの中で、王国西部の荒れた街道とはまったく別の映像が浮かんだ。
異国の街を洒落た服で歩き、危険な任務を涼しい顔でこなす秘密諜報員である。どう考えても、収納から大量の物資と火力を出して工程ごと片づける真壁とは任務の手触りが違った。
「ダブルオーセブンですね。ロジャー・ムーアの」
真壁が証明書を収納しかけた手を止めた。
「ショーン・コネリーは譲れないな」
任務範囲も現地の指揮権も淡々と譲った男が、俳優だけは譲らなかった。
アルベルトは2人を見比べた。
「ダブルオーセブンとは、新しい先行部隊の名称か」
「違います」
ヴァルトは即座に否定した。
真壁も何事もなかったように証明書を収納する。
「ゲンダイの古い演目についての見解の相違です」
「任務中に解消する必要は」
「ありません」
2人の返答が重なった。
アルベルトは一呼吸置き、命令書の控えへ視線を戻した。
「ならばよい。情報を集めるだけでなく、避難路と物資集積地点も確保してもらう」
「承知しました」
真壁の表情と声は、すでに現地任務へ戻っていた。
ヴァルトだけが、ロジャー・ムーアを選んだことについて、西部へ向かう途中でも訂正を受ける可能性を警戒した。
アルベルトは西部街道図へ2つの小さな駒を置いた。
侯爵軍を示す複数の駒は、まだ領都周辺に集まったままだった。招集の使者は出たが、兵も馬も荷車も揃っていない。その前へ、真壁とヴァルトを示す駒だけが進められる。
「侯爵軍の準備は止めない」
アルベルトは戻ってきた軍務担当者へ改めて命じた。
「2人が先に現地へ着くことを理由に、招集も物資準備も遅らせるな」
「承知いたしました」
「2人には、その軍が届くまでの時間を稼いでもらう」
「承知しました」
真壁が答える。
「現地情報は、可能な限り早く戻します」
ヴァルトは王都侯爵邸を示す印へ一度目を向けた。
ラウたちを迎える約束は残っている。自分が西部にいる間も、王都と領都の間を止めてはならない。
真壁は2つの駒から視線を外した。
西へ向かう者が決まった以上、領都には予算と物資調達をつなぎ、セルマのポーションを受け取り、子どもたちの保護と王都からの移送を同時に動かす者が必要になる。
「まず、澪君へ伝えてきます」
真壁が執務室を出た後も、2つの駒は西部街道の入口に残っていた。
窓の外から、また1騎、招集の使者が門を駆け抜ける蹄の音が響いた。