西へ向かう者がいない。
エアカーが街道上空を西へ飛ぶにつれ、眼下に捉えた道と地形が、ヴァルトの内側にある地図へ薄く加わっていった。
街道には人の列が続いている。
荷を積んだ荷車も、牛馬も、背負えるだけの物を抱えた者もいる。しかし、全員が東へ向かっていた。西行きの轍は途中で途切れ、道端には転倒した荷車や、運ぶことを諦めた木櫃が残されている。
冬の風が機体を横から押した。
眼下では枯れた草原が波打ち、街道へこぼれた穀物が白い筋となって後方へ遠ざかっていく。
「西行きの轍が消えています」
ヴァルトは窓の外を見ながら、自分の地図へ意識を向けた。
街道の先に、家々と畑のまとまりが加わっている。小さな村だった。
その周囲に、赤い印がある。
北東には、幾重にも重なった赤いまとまり。動きが速く、横へ広がりながら村との距離を縮めている。
西にも赤が密集していた。北東ほど速くはないが、進む方向をほとんど変えず、村へ近づいている。
さらに北の森にも、途切れながら南へ動く赤い印があった。
「真壁さん。北東と西に魔物の群れです。北にもいますが、私の地図では途切れます」
「こちらでは北も拾えている」
真壁は操縦席から前方を見たまま、自分の内側にある地図へ意識を重ねていた。
「動きは鈍い。北東が先着するな」
「西の群れも進路を変えていません」
「そのようだ」
ヴァルトは北東の赤へ意識を寄せた。
印が重なり、個体ごとには分かれない。群れの端だけが膨らみ、村の東側へ回り込もうとしている。
「北東の赤が広がっています。かなり多そうです」
「数は後でいい。群れの端と進む向きを見ていよう」
真壁の声は静かだった。
だが、エアカーはすでに高度を下げ始めている。
地上の輪郭が少しずつ鮮明になった。
北東の畑では、冬枯れの作物が何本もの筋を描いて倒れていた。その間を、灰色の背が見え隠れしている。
ヴァルトは先頭を走る個体へ鑑定を向けた。
「灰狼です」
「ああ。こちらでも見えた」
西側では、低い柵が続けて倒れた。
土煙の中から、牙を突き出した黒褐色の巨体が姿を現す。さらに後ろにも、同じ大きさの影が重なっていた。
「西は牙猪です」
「灰狼に牙猪か。北はまだ見えん」
ヴァルトは北の森へ目を向けた。
高い樹冠はほとんど揺れていない。代わりに、低い枝と下草が帯状にざわめいている。
「赤い印が細かく分かれています。大型が1体という感じではありません」
「正体を決めるには早いな。遅いのは好都合だ。今は放っておこう」
「はい」
ヴァルトは視界と内側の地図を重ねた。
北東の灰狼が最も速い。
西の牙猪は速度こそ劣るが、村までの距離が近い。
北の群れだけが、冬の森をゆっくり南下している。
村の様子も見えるようになってきた。
家々の間には十数台の荷車が詰まり、荷台には穀物袋、寝具、農具、木箱が人の背丈近くまで積まれている。逃げ支度をしているはずなのに、街道へ出た荷車は1台もない。
牛馬は白い息を吐き、重い荷を引いたまま足踏みしていた。
「積みすぎていますね」
「暮らしを捨てて逃げろと言われても、簡単には選べんさ」
真壁の言葉に、村人を責める響きはなかった。
ヴァルトは南東へ続く街道を見た。
「動けない人から、エアカーで運びますか」
「何往復するつもりだ、ヴァルト君」
「人数を確かめてからですが……」
「最初の者を運んで戻る頃には、残りへ狼が届く」
真壁は自分の地図で北東の赤を追った。
ヴァルトの地図にも、同じ変化が現れている。灰狼群の端が、村の東側へ膨らみ始めていた。
「東へ回る群れがあります」
「見えている。村人を街道へ出せば、守る場所が増えるだけだ」
眼下では、荷車を動かそうとする者と、家からさらに荷を運び出す者が入り乱れていた。
隊列を作るだけでも時間がかかる。
その遅い列を、灰狼と牙猪から守りながら東へ進ませるのは現実的ではない。
ヴァルトは地図上で、北東の灰狼と西の牙猪の位置を見比べた。
真壁が見ているのも、同じ2つの赤だった。
「狼を西へ流しますか」
「ただ追い払うだけでは惜しいだろう」
真壁の口元が、ごくわずかに緩んだ。
「牙猪の横腹へ入れよう。狼の退路は、そのまま西へ残す」
「牙猪の足を止めてから捕らえる」
「話が早くて助かる」
部下へ命じるのではなく、作戦を知る友人へ次の手を渡す口調だった。
だが、北東の赤は今も村へ近づいている。
「灰狼が先です」
「ああ。降りたら私は荷車を空にする」
「私は西と北を見ます」
「北東も互いに切らずにいこう。片方の地図だけを当てにする必要はない」
「分かりました」
真壁はエアカーを緩く旋回させ、村の南東上空へ進路を取った。
高度が下がるにつれ、荷を抱えた村人たちが空を見上げる。着陸地点へ近づくと、機体の下降気流が地面の土埃を円形に巻き上げた。
ヴァルトは地図から意識を外さない。
北東の赤は速度を落としていない。
西の赤も村へ向かっている。
北の途切れた赤だけが、まだ森の中にあった。
「ヴァルト君」
「はい」
「一つに掛かりきりになるな。次はもう動いている」
「互いに確認しながら進めましょう」
「それでいい」
エアカーが村の南東へ降り立った。
真壁は扉が開くと同時に飛び降り、荷車の間を走り回る村人たちへ声を張った。
「見てきた。狼の大群があと5分で追いつく。急いで逃げるんだ」
広場のざわめきが消えた。
遠吠えが重なる。
北東を振り返った者の顔から血の気が引き、その隣にいた者も荷物を抱えたまま動きを止めた。
真壁は反応を待たない。
「家財を積んだ荷車から離れ給え。積み荷は私が預かる。子どもと歩けない者を乗せるんだ」
腕まくりをした女が、真壁の言葉をそのまま広場へ飛ばした。
「聞こえただろう! 荷車から離れな! 子どもを連れて下がるんだ!」
女の近くにいた母親が、幼児を抱えて荷車から離れた。
その動きを見て、隣の男が縄を放す。
木箱を押さえていた若者が退き、穀物袋を抱えていた者も続いた。何をされるのか理解していない者まで、周囲の流れに押されるように荷車から手を離していく。
ヴァルトは内側の地図で村人の位置を追い、広場へ目を走らせた。
「真壁さん、離れました」
「ああ」
真壁は家財と食糧で塞がれた荷車をまとめて捉えた。
次の瞬間、すべての積み荷が一斉に消えた。
広場のあちこちで荷台が跳ね上がる。
深く沈んでいた車輪が土から抜け、急に軽くなった車体に引かれて牛馬がよろめいた。
空になった荷車を前に、村人たちの息が止まる。
「子どもと老人を乗せな!」
腕まくりをした女の声が、驚きを断ち切った。
「病人と怪我人もだ! 歩ける者は手を貸せ! 荷物は見るんじゃないよ!」
家財を守っていた男が老人を抱き上げた。
空いた荷台へ子どもが乗せられ、病人を支える者が続く。若者たちは牛馬の向きを変え、集会所と共同倉庫へ荷車を走らせた。
「荷は返せる。命はそうはいかない」
真壁は地図へ意識を向けた。
北東の赤い群れは、すでに村外れの畑へ入っている。横へ広がりながら、東側へ回り込む個体も増えていた。
「ヴァルト君」
「こちらでも見えています。先頭が畑を抜けます」
「村人の通路を残して、北東側を塞いでくれ」
「分かりました」
ヴァルトは村の外縁へ境界を伸ばした。
人と荷車が中央へ戻る道だけを開け、灰狼が村へ飛び込める進路を狭めていく。
逃げ遅れた者の位置も、2人の地図には残っていた。
「北東の家に3人残っています」
「2人は動いているな」
「はい。残る1人を運び出しています」
「ならば任せよう。迎えを増やす必要はない」
真壁は西へ意識を移した。
牙猪の群れは進路を変えず、村へ向かっている。
「西は」
「変わりません。牙猪はそのままです。北の群れもまだ遅い」
「結構。順番どおりだ」
北東を見張っていた男が叫んだ。
「狼だ! 柵の向こうにいるぞ!」
村人たちの視線が一斉に北東へ向く。
「見るな! 運びな!」
腕まくりをした女が怒鳴った。
止まりかけた荷車が再び動き出す。
子どもと老人を乗せた車が集会所へ入り、病人を乗せた荷車は共同倉庫の前で止まった。間に合わない者たちは、近くの壁の厚い家へ駆け込んでいく。
ヴァルトが地図を確かめた。
「外に残っている人はいません」
「こちらも同じだ」
乾いた音を立てて、村外れの柵が倒れた。
灰色の背が、その向こうで跳ねる。
真壁は北東へ向き直った。
「ヴァルト君、村側を切れ。西だけを開けよう」
「牙猪の横腹へ流します」
真壁の口元がわずかに上がった。
「赤い霧だ」
真壁が北東の畑へ右手を向けた。
倒れた柵の向こうに、赤い霧が低く広がる。霜を残した畝の上で揺らめき、そのまま押し寄せる灰狼の先頭を呑み込んだ。
先頭の1頭が鼻面を激しく振り、くしゃみを重ねながら横へ跳ぶ。すぐ後ろの狼が避けきれず、その胴へぶつかった。足を取られた個体へさらに後続が押し寄せ、凍った土と枯れた茎が無数の脚に蹴り上げられる。
群れの唸り声が家々へ押し寄せた。
閉ざされた戸の内側では牛馬が騒ぎ、壁板を蹴る鈍い音が続いている。幼い子どもの泣き声は、すぐに誰かの胸元へ押し込められた。
風に押された霧が家並みへ膨らんだが、ヴァルトの結界に沿って畑へ戻る。
南へ向きを変えた狼の前では、境界が行く手を塞いだ。
先頭が身を翻し、後続も倒れた柵に沿って西へ折れていく。北へ膨らみかけた一団の鼻先にも赤い霧が広がり、灰狼たちは足を止めかけたまま、後ろから押されて進路を変えた。
「北が広がる」
真壁の声を聞くより早く、ヴァルトは境界の端を西へ寄せていた。
畑の外へ散りかけた数頭が向きを変え、仲間の背を追う。霜をまとった畝は次々に崩れ、浅い溝から跳ねた泥が狼の腹を汚した。
村へ首を向けた個体の前には、また赤い霧が現れる。
「南も戻ります」
「見えている」
ヴァルトが境界を閉じると、狼たちは凍った畝で足を滑らせながら身を翻し、西へ走る群れへ合流した。
北東の畑から灰狼が離れていく。
西の草地では、牙猪の群れが土煙を上げながら村へ進んでいた。黒褐色の巨体が幾重にも重なり、胸で枯れ草を押し倒している。太い蹄が地面へ落ちるたび、低い震えが畑の縁まで伝わった。
外側を進んでいた牙猪が頭を上げる。
灰狼の足音へ耳を向け、鼻から白い息を噴いた。横へ逃れようと身を捻ったが、すぐ隣にも巨体があり、その後ろからは仲間が押している。
「少し北へ」
ヴァルトは無言で境界を組み替えた。
進路を寄せられた灰狼の先頭数頭が、牙猪の外縁へ殺到する。
牙猪が牙を振り上げた。
狼たちは泥を蹴って外へ膨らみ、その鼻先を避ける。追おうとした牙猪が隣の巨体へ肩をぶつけ、押された1頭が後続の前へ横向きに入った。
止まりきれなかった牙猪が、その尻へ突っ込む。
硬い牙が触れ合い、乾いた音が鳴った。重い胴が押し合い、蹄が畝を深く抉る。さらに外側の牙猪まで一斉に横を向き、群れの縁が大きく膨らんだ。
灰狼は生じた乱れの外を駆け抜ける。
牙猪が数歩追うたびに、その動きへ隣の個体が巻き込まれ、後続が前の巨体へぶつかっていった。まっすぐ村へ向いていた列が曲がり、土煙の中で牙猪の向きがばらけ始める。
牙猪を避けて南へ逸れた狼が、境界の手前で足を止めた。
「切ります」
ヴァルトの一言とともに進路が閉ざされ、狼たちは西へ走る仲間の後を追った。
やがて群れの足音が遠ざかり、畑を覆っていた赤い霧も薄くなっていく。
後方に残っていた狼が、鼻面を地面へ擦りながら立ち上がった。足取りは覚束なかったが、仲間の臭いを追い、よろめきながら西へ離れていく。
最後の赤い印が村の外へ移った。
真壁は追わなかった。
横を向いた牙猪へ後続がぶつかり、外へ押し出された個体が群れとは違う方角へ鼻先を巡らせている。
「ヴァルト君。牙猪は散らさず捕らえられるか」
泥場で、迫る巨体の足元が消えた瞬間をヴァルトは思い出した。
「やってみます」
ヴァルトは西の草地を見据えた。
牙猪の群れは、狼に外縁を乱されながらも止まっていない。
蹄が落ちるたび、凍った地面が腹の底まで震えた。小石が跳ね、潰された枯れ草が土煙の中へ舞い上がる。荒い鼻息は白く噴き、汗に濡れた黒褐色の毛並みから薄い湯気が立っていた。
横を向いた牙猪へ、後続の巨体が肩から突っ込む。
押された1頭が隣を弾き、畝を踏み潰しながら群れの外へ走り出した。
その鼻先で、ヴァルトの境界が行く手を塞ぐ。
牙猪は長い牙を振り、頭からぶつかった。重い衝撃が空気を震わせたものの、押し切ることはできない。横へ逃れようと向きを変えれば、そこにも仲間の巨体が迫っている。
白い息を噴きながら身を返し、まだ開いている正面へ走った。
別の牙猪も続く。
外へ膨らみかけていた群れが、土煙の中で少しずつ同じ方向へ寄っていった。
ヴァルトは右手を地面へ向けた。
牙猪の進路の先で、草地が低く沈んだ。
土の裂ける鈍い音が、蹄の轟きに呑まれる。
先頭の牙猪は異変に気づき、前脚を突っ張った。太い蹄が凍土を削り、土と小石を前へ噴き上げる。
止まれない。
後ろから迫った巨体が尻へぶつかり、そのさらに後ろからも牙猪が押し寄せた。
先頭は踏ん張ったまま前へ押し出され、沈んだ地面へ足を取られた。重い胴が傾き、土煙を巻き上げながら斜面を滑り落ちる。
その背へ次の牙猪が突っ込んだ。
牙と牙が触れ、乾いた音が鳴る。
横へ逃れようとした1頭は土壁へ肩を打ちつけ、身を返したところへ後続を受けた。そのまま前脚が崩れ、削れた土と一緒に下へ押し流されていく。
反対側では、牙猪が斜面を駆け上がろうとしていた。
蹄が土へ深く食い込み、巨体が半ばまで上がる。
ヴァルトが境界を伸ばした。
牙猪は見えない壁へ頭からぶつかり、長い牙を振り回す。足元の土を蹴り散らしたが、後ろから押し寄せた仲間に脇腹を取られ、斜面を転がり落ちた。
地面が大きく揺れた。
土煙が窪地から噴き上がり、その中で白い息が幾筋も揺れる。押し合う巨体が土壁を削り、崩れた土が蹄の下へ流れ込むたび、さらに足場が失われた。
入口へ踏み込んだ牙猪は後続に押され、左右へ逃れようと身を捻っては土壁か仲間へぶつかる。
1頭が群れの脇から飛び出した。
土を蹴り上げ、村へ向かおうとする。
ヴァルトはその前を閉じた。
牙猪は勢いを殺せず、境界へ頭から激突した。首を振り、牙を何度も叩きつけるが、前へは出られない。
背後では群れの足音が迫っていた。
牙猪は荒い息を吐き、横へ走った。開いていた斜面へ入った途端、後ろから来た巨体に押され、土煙の中へ姿を消す。
最後尾が踏み込んだ。
ヴァルトは外へ伸びる赤い印がないことを確かめ、そのまま窪地を見下ろした。
底では牙猪が折り重なって暴れている。
土壁へ牙を突き立てるもの、隣の背へ前脚を掛けるもの、押し潰されまいと頭を振るもの。巨体が動くたび、地面の下から鈍い衝撃が突き上げてきた。
それでも、外へ出る牙猪はいない。
ヴァルトは息を整えた。
「私なりの落とし穴です、真壁さん」
真壁は土煙の向こうへ目を細めた。
斜面へ向いた牙猪が駆け上がろうとする。しかし後ろから別の巨体がぶつかり、足を崩して底へ戻された。
「結構」
その一言に、ヴァルトの肩からわずかに力が抜けた。
牙猪の咆哮が窪地を震わせる。
真壁はその音を聞きながら、ヴァルトへ顔を向けた。
「ヴァルト君、結界で敵をつつめ」
「はい」
窪地の縁に沿って結界が閉じた。
土煙も白い息も内側へ押し留められ、牙猪の咆哮が一枚隔てた向こうへ沈む。
真壁は結界の内側へ右手を向けた。
「ヴァルト君、そのまま閉じていてくれ」
「はい」
窪地では、牙猪がなおも折り重なって暴れていた。
牙が土壁を削り、蹄が地面を打つたび、縁に立つ2人の足元まで鈍い震えが伝わってくる。荒い鼻息が土煙の中へ白く噴き上がり、狭い底で巨体同士が押し合っていた。
真壁は収納内に用意していた一酸化炭素を、結界の内側へ送り込んだ。
目に見える変化はない。
牙猪はしばらく暴れ続けた。
斜面へ牙を突き立てるものも、隣の背へ前脚を掛けて起き上がろうとするものもいる。だが、やがて蹄音の間が伸び始めた。
群れの奥で1頭が膝を折る。
前へ倒れた巨体へ後続が乗り上げ、押し返そうと頭を振った。その動きも長くは続かず、牙猪は隣の胴へもたれるように沈んだ。
別の1頭が斜面を数歩上ったところで足を止める。
首を持ち上げようとして、持ち上がらない。前脚が崩れ、削れた土とともに底へ滑り落ちた。
咆哮が途切れる。
地響きは消えずに残っていたが、それも次第に弱くなり、最後には巨体が土へ倒れる音だけが窪地の底へ響いた。
ヴァルトが地図へ意識を向ける。
重なっていた赤い印の一つが、灰色へ変わった。
続いて、その隣も。
「まだ赤が残っています」
「ああ」
真壁は手を下ろさない。
窪地の奥で、最後まで立っていた牙猪が大きく身を揺らした。前脚を踏ん張ろうとしたが、力が入らない。巨体が横倒しになり、崩れた土が斜面をさらさらと落ちていく。
地図の赤が、また一つ灰色へ変わった。
残る印は少ない。
ヴァルトは結界を保ったまま、窪地と地図を交互に見た。
動かなくなった牙猪の中に、まだ赤い印がある。
「……あと2頭です」
真壁は短く頷いた。
土煙がゆっくりと沈み、底の様子が見えるようになる。折り重なった巨体の隙間で、1頭の腹がかすかに動いていた。
やがて、その印も灰色へ変わる。
最後の赤だけが残った。
斜面の下で頭を伏せていた牙猪が、短く息を吐いた。牙先が土へ触れ、そのまま動かなくなる。
地図の中で、最後の赤が灰色へ変わった。
「全部、灰色になりました」
「よろしい。結界はそのままで」
真壁は一酸化炭素を収納へ戻した。
続いて窪地の中の空気を入れ替える。沈んでいた土埃がわずかに動き、冬の冷気が結界の内側へ流れ込んだ。
真壁は少し待ってから、ヴァルトへ頷いた。
「開けていい」
結界が解かれる。
土と獣の濃い臭いが、冷たい空気とともに窪地から上がってきた。
真壁が手を向けると、折り重なった牙猪の死骸がまとめて消えた。
底には、深く抉られた蹄跡と、牙で削られた土壁だけが残る。
ヴァルトは空になった窪地を見下ろした。
「この場で処理しますか」
「加工は後だ」
真壁は北を向いた。
森の低い枝が、長い帯となって揺れていた。
真壁は北の森を見た。
低い枝の揺れが、吹き抜ける風の向きと合っていない。下草の盛り上がりは細い筋ではなく、横へ長く広がりながら、ゆっくりと村へ近づいていた。
「村の外へは出るな。北からも来ている」
集会所の戸口に集まった村人たちの顔が強張った。
「動ける者だけ手を貸してくれ。子どもと老人、病人は中に残るんだ」
オルガは問い返さなかった。
「斧と金槌を持てる者はこっちだ! 北側の柵を外すよ! 家畜は家並みの内側へ寄せな!」
戸口に立っていた男たちが散り、倉から縄と道具が運び出される。
凍った地面へ深く打ち込まれた柵杭は、手で引いただけではびくともしなかった。縄を根元へ巻き、斧の背で土を叩き割り、何人もが体重を掛ける。凍土が砕けるたび、白く乾いた土が靴へ跳ねた。
家畜小屋では、牙猪の残した土煙と獣臭に怯えた牛が前脚を突っ張っていた。
手綱を引かれても首を振り、鼻から白い息を何度も噴く。男が首筋を叩き、別の者が尻を押すと、ようやく牛は低く鳴きながら家並みの方へ向きを変えた。
その横を、山羊が縄を引きずって走り抜けようとする。
オルガが横から縄を踏み、勢いを殺した。
「そっちは外だよ。中へ戻りな」
山羊は甲高く鳴いて抵抗したが、オルガは手を緩めず、近くにいた女へ縄を渡した。
真壁は牙猪を捕らえた窪地の縁へ立った。
底には蹄で抉られた土が残り、斜面には牙の跡が何本も走っている。先ほどまで巨体が折り重なっていた場所は、今では深く荒れた土だけを残していた。
「ヴァルト君、縁を頼む」
「分かりました」
ヴァルトが窪地の外側へ回る。
真壁は村外れへ向けて右手を上げた。
牙猪の蹄跡が残る縁から、帯状に地面が消えた。
凍った表土が自重に耐えきれず割れ、その下の黒土が大きな塊となって落ちていく。崩落の音が地中を走り、近くの家の戸板を細かく震わせた。
村人たちが一斉に振り返る。
土煙の向こうでは、地面に長い切れ目が生まれていた。
ヴァルトが境界を走らせると、崩れかけていた縁が途中で止まった。そのすぐ先から真壁がさらに地面を抜き、深い堀が村外れの草地へ伸びていく。
柵を外していた男の足元から、土の塊が崩れた。
「下がってください!」
ヴァルトの声と同時に、境界が男の前へ立つ。
崩れた土は男の靴先へ届く前に向きを変え、そのまま堀の底へ落ちていった。
男は青ざめた顔で後ずさる。
オルガはその肩を強く叩き、次の縄を押しつけた。
「手を止めるんじゃないよ。次だ」
男は唾を飲み込み、仲間のもとへ戻った。
外された柵杭が1本、崩れた土へ巻き込まれた。
縁へ当たりながら底へ転がり、横倒しになって止まる。上から見下ろすと、先ほどまで男の背丈ほどあった杭が、玩具のように小さく見えた。
牛がその縁へ近づきかけ、四肢を突っ張った。
白い息を荒く吐き、目を見開いたまま動こうとしない。男たちは無理に引かず、少し離れた場所から家並みへ回り込ませた。
真壁とヴァルトは歩みを進めた。
村人たちは2人の進む先から薪束を運び、積み上げられていた柵材を内側へ放り込んでいく。間に合わなかった細い杭や、土へ食い込んだ根は、地面と一緒に堀の底へ消えた。
凍土の割れる音が途切れず続く。
その合間に、杭を引く掛け声と家畜の鳴き声が重なった。さらに北の森から、太い枝の折れる音が聞こえてくる。
地図に映る赤い群れの西端が膨らんだ。
真壁は顔を上げず、進む向きをわずかに西へずらした。
堀も草地の外側へ回る。
張り出していた地面が帯状に失われ、舞い上がった土煙が村の屋根を半ばまで覆った。冬の日差しは煙の向こうで白くかすみ、降り積もった土が屋根瓦や枯れ草の上を薄く汚していく。
ヴァルトは崩れた縁を支えながら、真壁の少し先へ出た。
「この先は土が脆いです」
「分かった。内側へ寄せよう」
真壁は数歩だけ村側へ近づき、地面を抜く位置を変えた。
直前まで掘ろうとしていた場所では、湿り気を帯びた土が遅れて崩れ、大きな塊となって底へ落ちた。
ヴァルトが短く息を吐く。
「そのまま進んでいたら、縁ごと崩れていました」
「君がいて助かったよ」
真壁はそれだけ言い、また右手を上げた。
家並みの外側を回る堀は、村の南東へ近づいていく。
杭を抜く声が何度も場所を変え、家畜の群れも少しずつ内側へ移っていた。先ほどまで外縁にあった柵はほとんどなくなり、代わりに深い切れ目が村を取り囲み始めている。
南東の街道だけは切らず、荷車の轍を残した。
真壁は道の手前で収納を止め、そのまま街道を渡る。反対側の道端から地面を短く抜くと、外周を巡った堀が元の窪地へつながった。
土砂の落ちる音が止んだ。
一瞬だけ、村の周囲が静かになる。
その静けさの中で、北の森から枝の折れる音が続けて響いた。
ヴァルトが顔を上げる。
森の縁で下草が大きく盛り上がり、低い枝が左右へ弾かれた。黒い影が地面近くをうねり、また木々の陰へ沈む。
「先頭が森を抜けます」
「まだ間に合う」
真壁は最後に崩れかけた縁へ手を向けた。
黒土の塊が剥がれ、堀の底へ落ちる。
崩れた黒土の間から、水が噴き出した。
真壁の手が止まる。
北の森では、また1本、太い枝が折れた。
崩れた黒土の間から、水が流れ出していた。
最初は指ほどの細さだった流れが、周囲の土を濡らしながら少しずつ幅を増している。落ちた土塊の下からも水がにじみ、堀の底に浅い筋を作っていた。
真壁は縁へ片膝をつき、流れの始まりへ手を向けた。
水だけが消える。
濁った泥も、崩れた土も、その場へ残った。少し離れた場所から新たに染み出した水も、底へ広がる前に次々と収納へ収められていく。
ヴァルトが北の森を見たまま言った。
「水脈へ触れたのでしょうか」
「そこまで深くは抜いていない。表へ染みてきた地下水だろう」
真壁は水の出方を見ていた。
勢いは強くない。だが、止まりもしない。
黒土の隙間から細い流れがいくつも生まれ、底の低い方へ集まろうとしている。
「井戸への影響は」
「確かめてもらおう」
真壁が振り返ると、柵材を運んでいたオルガがこちらを見ていた。
「オルガ。井戸の水位を見てきてくれ。汲み上げる必要はない。いつもと変わらないかだけでいい」
「分かりました」
オルガは近くにいた男を呼び止めた。
「井戸を見てきな。桶は下ろさず、水面だけ確かめるんだよ」
男が家並みの中へ走っていく。
真壁は再び堀の底へ手を向けた。
染み出した水が消え、また新しい流れが現れる。その繰り返しで、底へ水溜まりができることはなかった。
「土まで持っていかないのですね」
「後で使うかもしれない。泥まで混ぜる必要はないだろう」
ヴァルトは真壁の横顔を見たが、それ以上は尋ねなかった。
収納へ入った水には、地下に残っていた温度がある。
冬の外気よりは温かい。
真壁はその熱を奪った。
水が冷え、凍りつく寸前で止める。透明な水の中へ、細かな氷晶が生まれていった。
完全な氷ではない。
水はまだ流れ、無数の結晶だけがその中を漂っている。
真壁がわずかに目を細めた。
「随分と冷やしましたね」
「使えるものは、使っておこう」
ヴァルトの視線が北へ戻った。
森の縁で、低い枝が大きく揺れた。
風に煽られた動きではない。下から押し上げられ、枝先が左右へ弾かれている。
黒いものが、枯れ葉の下から姿を現した。
平たい頭が土の上を滑り、その後ろから節の連なった胴が続く。体の両側では無数の脚が忙しく動き、枯れ葉と小石を掻き分けていた。
先頭の個体が森を出る。
頭から尾まで、大人の背丈を越えていた。
その後ろからも、同じ形が続いて現れる。
太い胴が木の根を乗り越え、枯れ草を押し伏せていく。冷えた空気の中では動きが鈍く、脚の運びにも重さがあった。それでも、長い体は止まらず、ゆっくりと村へ向かっている。
「百足です」
「ああ」
ヴァルトが先頭へ鑑定を向けた。
「ジャイアントセンチピード。毒があります」
「この寒さでも動くか」
真壁は収納内の冷水へ意識を向けた。
細かな氷晶が水の中でぶつかり、かすかな音を立てている。
森の中では、まだ枝の揺れが続いていた。
先頭の後ろから2体、3体と姿を現し、そのさらに奥にも赤い印が重なっている。
横へ広がろうとした1体が木の幹へ胴を擦りつけ、乾いた樹皮を剥がした。別の個体は倒木を乗り越え、腹側を枯れ枝へ引っかけながらも前へ進んでくる。
牙猪のような速さはない。
狼のように散る気配もない。
ただ無数の脚を動かし、地面を舐めるように距離を縮めていた。
井戸を見に行った男が、息を切らして戻ってくる。
「水面は変わってません! いつもと同じです!」
「分かった。もう近づかなくていい」
真壁は答え、染み出す地下水をもう一度収納した。
底へ残った黒土の表面が湿り、冬の日差しを鈍く返している。
ヴァルトは森から現れる百足の列を見た。
「まだ後ろがいます」
「ああ」
真壁も北を見据えた。
収納内では、冷えた地下水の中を細かな氷晶が流れ続けていた。
森を出た百足の列は、草地へ横に広がり始めていた。
冷えた地面を無数の脚が掻き、枯れ葉と細かな石を左右へ押しのけていく。甲殻は冬の日差しを鈍く返し、長い胴が地表の起伏に沿ってゆっくりとうねった。
速くはない。
だが、止まる様子もなかった。
先頭はすでに堀へ向かっている。その後ろでは森から出た個体が次々に草地へ加わり、列の幅を少しずつ広げていた。
閉ざされた家々の内側から、家畜の低い声が漏れる。
風が積み上げられた柵材を鳴らし、北の草地では百足の脚が乾いた音を立て続けていた。
真壁はまだ動かなかった。
ヴァルトも北を見据えたまま、街道側へ寄ろうとする個体の先へ境界を置く。長い触角が見えない壁へ触れ、頭部が左右へ揺れた。進める場所を探した末、百足は胴をゆっくり曲げ、群れの中央へ戻っていく。
西へ外れた個体も、同じように進路を変えた。
百足たちは行く手を塞がれても暴れなかった。
触角を動かし、開いている方角を探し、前を進む仲間の胴へ沿うように向きを変える。
その静かな動きが、かえって村人たちの恐怖を煽った。
森を駆け抜けた狼のような唸り声も、牙猪が巻き起こした地響きもない。
ただ、ざわざわと乾いた脚音だけが近づいてくる。
先頭の百足が堀まで残り数十歩へ迫った。
長い触角が土の上を探り、深い切れ目の向こうへ伸びる。後続は先頭の動きに構わず進み、互いの胴へ脚を掛けながら距離を詰めていた。
「先頭が近いです」
「まだだ。もう少し引きつける」
真壁の声は低かった。
ヴァルトは黙って境界を保ち、群れの端を戻し続ける。
森の縁では、まだ低い枝が揺れていた。
最後尾の近くにいた百足が倒木を乗り越え、長い胴を草地へ滑り出させる。さらに奥の赤い印も動き、枝を押し分けながら前へ進んでいた。
先頭の触角が、堀の縁へ届いた。
百足は頭部を持ち上げ、深い切れ目を覗き込むように胴を反らす。
その背へ後続が押し寄せた。
横へ逃れようとした先頭の脇を、別の百足が通り抜けようとする。節と節が擦れ、硬い甲殻が乾いた音を立てた。
ヴァルトが森へ意識を向ける。
最後に残っていた赤い印が、木々の間から草地へ出た。
「全て森を出ました」
真壁は北の草地を見渡した。
群れは広がっている。
それでも大半は、堀へ向かう一帯へ収まっていた。
先頭が前脚を堀の縁へ掛ける。
真壁が右腕を突き出した。
百足の群れの下で、草地が帯状に失われた。
凍った表土が割れ、支えをなくした長い胴が沈む。
先頭は頭から落ち、後ろの個体がその背へ重なった。さらに後続も止まりきれず、無数の脚で崩れる土を掻きながら窪地へ滑り込んでいく。
地面が低く唸った。
大量の土が崩れ落ち、茶色い煙が堀の上へ噴き上がる。小石と枯れ草が村側まで飛び、堀の縁へ散った。
甲殻同士が打ち合う硬い音に、土壁を脚で削るざらついた音が重なる。
窪地の底では、百足の胴が幾重にも絡み合った。
下になった個体が体をくねらせ、その上へ落ちた別の個体が土壁へ脚を掛ける。押し合うたびに長い胴が折れ曲がり、縁へ向かって何本もの頭部が持ち上がった。
帯の端を外れた1体が、残った地面を伝って東へ逃れようとする。
ヴァルトの境界が先へ回った。
百足は触角を激しく振り、行く手を探して胴を曲げる。その足元まで真壁が地面を抜くと、長い体が横滑りに窪地へ落ちた。
西側へ外れた個体も、境界に沿って群れの方へ戻され、そのまま崩れた土ごと底へ沈む。
地図に残る赤い印が、すべて窪地の中へ重なった。
「閉じます」
ヴァルトの結界が縁に沿って閉じる。
噴き上がっていた土煙が外へ流れなくなり、百足の脚音も一枚隔てた向こうへ沈んだ。
それでも、中の動きは止まらない。
上になった個体が下の胴を足場にし、土壁へ脚を突き立てていた。長い体がゆっくり持ち上がり、頭部が縁へ近づいていく。
真壁は収納内の地下水へ意識を向けた。
冷え切った水の中に、細かな氷晶が混じっている。
右手を窪地へ向ける。
冷水が、折り重なった百足の腹の下へ現れた。
崩れた土を押し流しながら底へ広がり、無数の脚の間へ入り込む。泥を掻いていた脚が濡れた土の上で滑り、土壁へ掛かっていた肢が次々に外れた。
持ち上がりかけていた胴が傾く。
下の個体を巻き込みながら底へ落ち、別の百足の背へ重なった。
冷水に浸かった脚は、すぐには止まらない。
だが、もともと重かった動きがさらに鈍り、土壁へ掛け直そうとするたびに足場を失った。
ヴァルトは結界を保ちながら、窪地の中を見下ろした。
白い冷気が底から立ち上がり、外へ流れようとしている。
返事を求められる前に結界の形を狭め、冷気を内側へ押し戻した。
真壁は一度だけヴァルトを見た。
「助かる」
窪地の底で、百足が長い胴をくねらせた。
体が曲がるたび、脚の付け根と節の隙間が露わになる。まだ動いている個体の位置を見極め、真壁が腕を振り下ろした。
「氷晶散布――冷却制圧!」
冷水の中へ混じっていた氷晶が、一斉に広がった。
白い粒が脚へまとわりつき、甲殻の継ぎ目へ入り込む。濡れた節の表面に霜が走り、長い胴が曲がるたび、薄い氷が重なっていった。
窪地の底が白く霞む。
百足が脚を動かすたび、凍り始めた泥が硬い音を立てた。土壁へ掛けようとした脚は途中で止まり、持ち上がっていた頭部がゆっくりと下がっていく。
ヴァルトが白い冷気を見て目を見開いた。
「あ、氷河のダイヤモンドダストだ」
「ヴァルト君、結界で冷気を逃がすな」
「はい」
結界がさらに締まり、白い冷気が底へ押し戻された。
東端では、まだ1体の赤い印が大きく揺れている。
真壁は冷水をそちらへ寄せた。
腹の下へ氷晶が流れ込み、泥を掻いていた脚が一本ずつ鈍くなる。百足は胴を反らせたが、節の境目へ霜が広がるにつれ、その動きも小さくなった。
西側では、折り重なった2体が互いの体を押し退けようとしている。
ヴァルトが結界の内側をわずかに狭めると、冷気がその間へ流れ込んだ。白い霜が甲殻の継ぎ目を覆い、持ち上がっていた頭が土の上へ落ちる。
ざらついた脚音が減っていく。
無数に重なっていた音が途切れ、長い間を置くようになり、やがて窪地の底から聞こえなくなった。
地図に映る赤い印が、一つずつ灰色へ変わり始めた。
白い霜に覆われた長い胴は、脚の先ひとつ動かない。冷え切った百足は、そのまま息絶えていった。
最後まで残っていた赤も灰色へ変わる。
「全部、灰色です」
「こちらも同じだ」
真壁は北の森へ目を向けた。枝の揺れは止まり、新たに近づく赤い印もない。
「結界を解いてくれ」
「分かりました」
ヴァルトが結界を開くと、窪地へ冬の風が流れ込んだ。真壁は冷水と氷晶を収納へ戻し、霜をまとった百足の死骸をまとめて収めた。
底には、無数の脚に削られた土壁と、冷水に濡れた黒い土だけが残った。
真壁とヴァルトは、南東へ続く街道へ戻った。
村を囲む深い堀の中で、そこだけ土が残っている。避難に使った荷車の轍が幾重にも刻まれ、村の外へ伸びていた。
真壁は街道の両脇を見渡した。
「ここを閉じる」
集会所から出てきたオルガが、堀の縁を覗き込んで足を引いた。
「塞いでしまったら、荷車が通れません」
「必要な時だけ開ければいい」
真壁は街道脇へ積まれた柵材へ目を向けた。
外された太い杭や横木が、凍った土にまみれたまま重ねられている。その横には、荷車の補修用に残してあった板材もあった。
「太い梁はあるか」
「粉挽き小屋にあります。水車の軸を替えた時の古いものが」
「鎖と滑車は」
「共同倉庫にあります」
「持ってきてくれ」
オルガはすぐに村人を振り分けた。
数人が粉挽き小屋へ走り、別の者たちは共同倉庫へ向かう。残った男たちは積まれた柵材を崩し、使えそうな板と杭を選び始めた。
真壁は街道の土へ手を向けた。
荷車の轍を残していた地面が消え、左右の堀がつながる。向こう岸との間に暗い底が口を開け、冬の日差しを受けた土壁が切り立っていた。
村人が運んできた梁は、大人3人がかりでも持ち上げるのに苦労する太さだった。
古く黒ずんではいるものの、腐りはない。水車を支えていた材らしく、表面には斧の跡と、長年擦れた筋が残っている。
「これで足りますか」
「ああ。良い木だ」
真壁が梁へ触れると、割れた端と腐りかけた部分だけが消えた。
長さの揃った材が土の上へ残る。
村人の1人が切り口を覗き込み、指でそっと撫でた。
「こんなに真っ直ぐに……」
「眺めるのは後だ。板を並べよう」
梁の上へ板材が渡される。
金槌の音が街道へ響き始めた。曲がった釘は抜かれ、まだ使えるものは石の上で叩き直される。足りない鎹や金具は真壁が収納から出したが、取り付けるのは村人へ任せた。
ヴァルトが境界で組み上がりかけた橋板を支え、その間に村人たちが根元へ太い軸を通した。
軸受けの土台へ杭を打ち込み、横木で押さえる。板の合わせ目を踏んで確かめた男が、浮いた箇所へ楔を打ち込んだ。
ヴァルトは橋と北の窪地を交互に見ながら、取り付け位置を確かめる。
「こちら側が少し高いですね」
「楔を1枚抜こう」
村人が土台の楔を外すと、橋板の傾きがわずかに戻った。
「その位置だ」
ヴァルトが境界を解く。
橋は軸の上へ重みを預け、街道と同じ高さへ収まった。板が低く鳴ったものの、土台は動かなかった。
ほどなく、共同倉庫から鎖と滑車が運ばれてきた。
太い鎖には油と錆の臭いが染みつき、滑車の木枠には粉挽き小屋の小麦粉が白く残っている。
真壁は街道脇に太い支柱を立て、滑車を取り付けた。鎖を橋の先端近くへつなぎ、反対側を巻上げ軸へ回す。
村人たちは太縄を通し、巻上げ棒を差し込んだ。
オルガが腕を組む。
「これを回せば、橋が上がるんですね」
「試そう」
巻上げ棒へ男たちが取りついた。
「せえの!」
棒が軋んだ。
男たちの靴が土へめり込み、腕と首筋へ筋が浮く。それでも橋板は地面から指1本ほど浮いただけで止まった。
さらに数人が加わったが、鎖が張り詰め、支柱が細かく震えるばかりだった。
「重すぎます」
巻上げ棒から離れた男が、肩で息をした。
真壁は橋の根元と鎖の角度を見比べた。
「橋が悪いのではない。釣り合いが足りない」
街道脇へ大きな石を出す。
橋と反対側の鎖へ石を吊り、村人へもう一度棒を押させた。
今度は橋が動いた。
先端が堀から離れ、板が軋みながら立ち上がっていく。
男たちの顔に驚きが広がった直後、橋の動きが急に速くなった。
「離すな!」
オルガが叫ぶ。
ヴァルトが境界で橋板を受け止めた。
橋は垂直になる手前で止まり、鎖だけが大きく揺れている。吊られた石は地面近くまで下がっていた。
「少々、働きすぎたな」
真壁は石の一部を収納した。
橋を下ろし、もう一度上げさせる。
まだ軽すぎる。
石を少し減らし、巻上げ軸の位置もわずかに変える。何度か試すうち、橋は勢いよく跳ね上がることも、途中で止まることもなくなった。
オルガが巻上げ棒を握った。
「8人、来な」
男も女も混じって棒の周囲へ並ぶ。
掛け声に合わせて押し始めると、橋板はゆっくりと堀から離れた。鎖が滑車を回り、吊り下げた重りが地面へ近づいていく。
橋が立ち上がるにつれ、向こう岸へ続いていた道が消え、その下から深い堀が姿を現した。
「止め金を」
村人が軸へ太い金具を差し込む。
全員が巻上げ棒から手を離しても、橋は動かなかった。
オルガは見上げた橋と真壁を交互に見る。
「真壁さんなら、こんな橋も一瞬で閉じられるんでしょうね」
「私がいなければ閉じられぬ橋に、用はありません」
オルガは一度だけ目を瞬かせ、それから止め金へ手を掛けた。
「下ろすよ」
巻上げ棒を反対へ回す。
橋は重りに支えられながら、ゆっくりと街道へ降りた。先端が向こう岸の受けへ収まり、板の継ぎ目が低く鳴る。
村人が合わせ目を踏み、別の者が梁の下を覗き込んだ。
真壁は空の荷車を1台通すよう指した。
牛に引かれた荷車が橋へ乗る。
板が軋み、鎖がわずかに揺れたものの、土台は沈まない。荷車は堀を渡りきり、向こう岸で向きを変えて戻ってきた。
「使えます」
オルガが大きく息を吐いた。
「使ってもらわねば困る」
真壁は巻上げ棒の根元へ手を置き、油を差す箇所と止め金の掛け方だけを示した。
説明が終わる前に、ヴァルトが西へ顔を向けた。
真壁も同じ方向を見る。
西の草地に、赤い印が数個だけ現れていた。
先ほどの群れから取り残された灰狼が、村の外縁を遠巻きにしている。枯れ草の間から灰色の背が見え、何度も鼻を上げて村の臭いを探っていた。
「狼ですか」
オルガが2人の視線を追う。
「ああ。数頭だけだ」
村人たちの間に緊張が走った。
真壁は巻上げ棒から手を離し、1歩下がる。
「上げてみ給え」
オルガは真壁を見たが、問い返さなかった。
「さっきの8人、棒へつきな! 他の者は中へ!」
橋の上へ人が残っていないことを確かめ、止め金を外す。
8人が巻上げ棒を押した。
橋板が地面を離れる。
灰狼は草地の端を歩き、堀へ近づいてきた。大群だった時の勢いはなく、警戒しながら足を止めては、左右へ鼻先を巡らせている。
オルガたちは棒を押し続けた。
橋が立ち上がり、街道が途切れる。
「止め金!」
金具が軸へ差し込まれた。
先頭の灰狼が堀の手前で足を止めた。
後ろの個体がその横へ並び、土壁を覗き込む。何頭かが堀沿いへ歩き、渡れそうな場所を探したが、深い切れ目は村の外周へ長く続いていた。
狼は橋の前へ戻る。
立ち上がった板を見上げ、低く唸った。
真壁は動かなかった。
ヴァルトも結界を使わない。
巻上げ棒の周囲へ集まった村人たちは、息を殺して狼を見ていた。
やがて先頭が村へ背を向けた。
1頭が西へ戻ると、残りも後へ続く。灰色の背は枯れ草の中へ沈み、少しずつ遠ざかっていった。
オルガはすぐには棒から手を離さなかった。
「行きましたか」
「ああ。もう離れている」
ヴァルトの返事を聞き、ようやく肩から力を抜く。
周囲にいた村人たちも、一斉に息を吐いた。
歓声は上がらなかった。
1人が巻上げ棒を撫で、別の者が止め金を引いて掛かり具合を確かめる。堀の向こうを見ていた男は、隣に立つ者と無言で顔を見合わせた。
橋を上げたのは、自分たちだった。
真壁もヴァルトも、狼へ手を出していない。
「夜は交代で見張るよ」
オルガが巻上げ棒から手を離した。
「橋を上げる組も決める。止め金は必ず2人で確かめるんだ」
真壁は口を挟まなかった。
村人たちは、もう最初の番へ誰が入るかを相談し始めている。
立ち上がった橋の向こうには、冬枯れの街道と、村から離れていく狼の足跡が残っていた。
橋を上げた村人たちが見張りの組み分けを始める頃、真壁は村へ戻った。
橋の前では、オルガが見張りの組み分けを続けている。真壁たちが近づくと、彼女は話を切り上げ、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
その声を聞いた村人たちも、次々に頭を下げる。
真壁は立ち止まったが、いつまでもそうさせておくつもりはなかった。
「怪我人を見よう。話はそれからだ」
集会所の戸が開かれる。
避難の途中で転んだ老人が膝を擦りむき、荷車へ乗せる際に肩を痛めた男がいた。泣き疲れて眠った子どももいるが、狼や牙猪に襲われた者はいない。
ヴァルトが怪我人を集会所の明るい場所へ移し、真壁は収納から消毒薬と包帯を出した。
オルガたちは慣れた手つきで傷を洗い、布を巻いていく。
「家畜は」
「全部います。牛が1頭、柵へぶつけて脚を痛めましたが、立てています」
「食料庫は」
「無事です。外の畑は……」
オルガは言葉を止め、北東の窓へ目を向けた。
灰狼が踏み荒らした畝、牙猪が崩した土、堀の外側へ倒された柵。冬枯れの畑には、獣の足跡と土煙の跡が幾筋も残っている。
「畑は後で見ればいい」
真壁は包帯を結び終えた村人から手を離した。
「まず人数を確かめ給え。家ごとではなく、今ここにいる者をだ」
オルガが頷き、集会所と倉にいる者を分けて数えさせた。
呼ばれた名前へ返事が上がり、別の建物にいる者は近くの誰かが答える。子どもの名を呼ぶ声や、老人を起こす声が、家畜の鳴き声へ混じった。
やがてオルガが戻ってくる。
「全員います」
その言葉で、集会所に残っていた緊張がようやく緩んだ。
誰かが壁へ背を預け、別の者は隣にいる家族の肩を抱いた。大きな声を上げる者はいない。ただ、押し殺していた息が、あちこちで長く吐き出された。
真壁は広場へ出た。
家財を積んでいた荷車は、避難のため空のまま建物の近くへ寄せられている。
「積み荷を戻す。牛馬を外し、荷車から離れ給え」
村人たちは牛馬を荷車から外し、手綱を引いて十分に距離を取った。荷台の周囲から人が離れたのを確かめ、真壁が手を向ける。
空だった荷車へ、穀物袋や木箱、寝具、鍋、農具が一斉に戻る。荷車ごとのまとまりは保たれ、別の家の荷が混じることもなかった。
村人たちは自分たちの荷を確かめると、そのまま倉や家へ運び始めた。
戻された種袋へ手を置いた女が、袋の口を確かめながら何度も頷く。オルガはその肩を抱き、荷車から荷を下ろす者たちへ声を掛けた。
「荷車は空けておくよ! また何かあった時、人を乗せられるようにするんだ!」
返事が次々に上がった。
真壁は堀の縁へ歩き、村の周囲を見渡した。
掘ったばかりの土壁には、ところどころ崩れやすそうな箇所がある。地下水が染みた底も、そのまま放置すれば泥が溜まるだろう。
恒久的な防壁として使うなら、土留めも排水も必要になる。
だが、それを決めるのは真壁ではない。
オルガが隣へ来た。
「この堀は、これからも使っていいんでしょうか」
「当面は使い給え。橋も上げておくといい」
「当面、ですか」
「この村の土地と守りをどうするかは、領主が決めることだ。私は見たものと作ったものを侯爵家へ報告する」
オルガは堀と橋を見た。
「埋めろと言われることもありますか」
「あるかもしれない。だが、その前に現地を見てもらうさ。これだけの魔物が一度に来たのだからね」
真壁は街道の先へ視線を移した。
「援軍と食料、薬も必要だろう。見張りを置き、橋を動かす者を決めておいてくれ。土壁が崩れたり、水が急に増えたりした時は、外へ出ず橋を上げるんだ」
「分かりました」
「夜中に魔物を見つけても、追ってはならない。堀の内側で朝を待ち給え」
オルガが苦い顔をする。
「追える者なんて、この村にはいませんよ」
「それなら安心だ」
真壁が答えると、オルガは少しだけ笑った。
広場では、村人たちが荷物を倉へ戻していた。巻上げ棒の前には、最初の見張りに入る者が集まっている。止め金を抜く者と戻す者を交代しながら、何度も手順を確かめていた。
ヴァルトが真壁の横へ来る。
「村は、しばらく持ちそうですね」
「ああ。侯爵家の者が来るまでならな」
真壁は地図へ意識を向けた。
村の周囲には灰色へ変わった印が残り、遠ざかった狼の赤は西の森へ入りつつある。北には新たな魔物の姿はない。
そのさらに西で、疎らな赤が動いていた。
狼のようにまとまって走ってはいない。
牙猪のように一方向へ押し寄せてもいない。
森の奥から街道へ向かっている。
「ヴァルト君」
「見えています」
ヴァルトの表情が変わった。
「狼ではありません。動きが違います」
「こちらでも同じだ」
真壁は西の空へ目を凝らした。
冬枯れの木々の向こうから、細い煙が幾筋も上がっている。離れた場所から立つ煙は、冬風に崩されながら街道の上へ流れていた。
「煙も上がっています」
「ああ」
真壁は村の橋を振り返る。
村人たちは、自分たちの手で巻上げ棒を押し、橋をゆっくり下ろしている。見張りの交代と、領都から来る者を迎える準備を始めていた。
「ここは彼らに任せよう」
「西を見に行きますか」
「その前に侯爵家へ一報だ。村を見つけたこと、魔物の群れ、堀と橋。それから――」
真壁は煙へ向き直った。
「西には、まだ事情が残っているらしい」
冬の風が街道を渡る。
遠くで立つ煙は、横へ流されながらも消えなかった。