押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第219話 重力の芽

 橋を引き上げる縄が、凍えた空気の中でぎしりと鳴った。

 

 村人が4人がかりで横木を押し、別の2人が縄を巻き取る。前日まで荷車が通っていた南東側の道は、今では深い堀で断ち切られ、その上に渡された橋板だけが村と街道をつないでいた。橋がゆっくりと持ち上がるにつれ、板の隙間から泥と冷水が落ち、堀の底で鈍い音を立てた。

 

「そこで止めろ。横木を入れろ」

 

 オルガの声が飛ぶ。

 

 若い男が橋の脇へ走り、用意していた太い横木を受けへ差し込んだ。橋板の重みが横木へ移る。縄を握っていた村人たちの肩から、目に見えて力が抜けた。

 

 真壁は数歩離れた場所から、その一連の動きを眺めていた。

 

 橋が上がることは、すでに確かめている。だが、作った者が動かせることと、使う者だけで動かせることは違う。橋の脇には真新しい土が盛られ、縄には泥の付いた手の跡が残っていた。村人たちの動きはまだぎこちないが、誰が縄を持ち、誰が横木を入れ、誰が堀の向こうを見るかは決まりつつある。

 

 真壁の視線が、橋の上から見張り台へ移った。

 

 松明を持った男が2人。交代要員が4人。夜の途中で火が消えぬよう、薪も壁際へ積まれている。家畜小屋の戸は閉まり、牛馬は村の内側へ寄せられていた。収納から戻した鍋や寝具を抱えた村人が、家々の間を行き来している。泣き疲れた子どもを背負う女の横を、片足を引きずる老人が杖を突いて通った。

 

 泥と獣脂、濡れた毛布、焚き火の煙が、戦いの終わった村に残っている。

 

「橋は、これでよい」

 

 真壁が言うと、オルガは縄から手を離した。掌に赤く食い込んだ跡を、腰布で一度拭う。

 

「今夜は4組で回す。橋の側に2人、北の森側に2人。何か見えたら鐘を鳴らす」

 

「村外へ追う必要はない。橋を上げ、家畜と人を内側へ集めればよい」

 

「分かってる」

 

 オルガは短く答えた。次に何をするべきかは、もう頭の中で並んでいるらしい。

 

 真壁は意識の内側に残る地図へ目を向けた。

 

 村の周囲に赤い印はない。西へ流した灰狼は遠ざかり、牙猪と巨大百足は灰色へ変わった後、すでに収納へ収めてある。

 

 ただし、さらに西には別の赤が残っていた。

 

 まとまって進む群れではない。広い範囲に散らばり、その向こうに複数の煙が上がっている。日が落ちれば、目視できる距離はさらに短くなる。赤の正体も、煙の理由も、今の地図だけでは分からない。

 

 隣に立つヴァルトも、同じ方角を見ていた。

 

「動きは変わっていません」

 

 声はいつもどおりだったが、外套の裾には乾きかけた泥が付き、袖口には百足を落とした陥没の土がこびりついている。境界と結界を何度も切り替えたせいか、指を握り直す動きが普段より遅い。

 

「ならば、今夜は追わない」

 

 真壁は西から村へ目を戻した。

 

「見えぬものへ夜に踏み込む必要はない。先に人と物を動かす」

 

「侯爵家へ報告ですね」

 

「王都と領都を同時に動かす。村一つを救って終わる話ではなさそうだ」

 

 オルガが2人の顔を見る。

 

「戻るのか」

 

「ええ。朝までには侯爵家の救援が動くようにします」

 

 ヴァルトが答えると、オルガの目が一瞬だけ橋へ向いた。

 

 残ってくれとは言わなかった。村人だけで上げられる橋を作った理由を理解している。

 

「分かった。こっちは任せろ」

 

「鐘は、見てから鳴らすな」

 

 真壁が告げる。

 

「犬が騒ぐ。家畜が怯える。森の音が消える。おかしいと思った時点で鳴らしたまえ」

 

「魔物が見えてからじゃ遅いってことだな」

 

「結構」

 

 オルガは、はっきり頷いた。

 

 真壁とヴァルトは村の南東へ下がった。橋の操作を妨げず、人や家畜からも離れた場所で、ヴァルトが境界を整える。

 

 冷えた土の上に光が広がり始める。

 

 その直前、真壁はもう一度、橋の上へ目を向けた。

 

 オルガが次の組へ縄の持ち方を教えている。真壁がいなくとも、今夜はあの橋を上げられる。

 

 光が強まり、村の煙と泥の匂いが消えた。

 

 次に足裏へ伝わったのは、磨かれた石床の硬さだった。

 

 王都侯爵邸の転移室には蝋燭が何本も灯され、夜にもかかわらず使用人と伝令が行き交っていた。暖炉の熱が外套へ染み込み、冷え切った布から土と獣の匂いが立ち上る。

 

 出迎えた家令が、2人の姿を見て言葉を失った。

 

 真壁は構わず歩き出す。

 

「侯爵閣下へお取り次ぎを。西方街道で異変です」

 

「た、ただちに」

 

 家令が走る。

 

 ヴァルトも続こうとしたが、真壁は廊下の分岐で足を止めた。

 

「私は侯爵閣下へ報告する。ヴァルト君は領都へ」

 

 ヴァルトの目が細くなる。疲れていても、意図はすぐに読んだ。

 

「アルベルト殿とレオンハルト殿ですね」

 

「ああ。村の状態と、西方の煙を直接伝えてくれ。領都分の牙猪はリュシア君へ。王都分はこちらで処理する」

 

「同程度に分けた区画を、そのまま使います」

 

「それがよい。朝にここで合流しよう」

 

 領都側へ渡すべきものを渡し終えれば、今夜の役目は終わる。ヴァルトは一度だけ息を置いた。

 

「承知しました」

 

 2人は廊下の中央で分かれた。

 

 真壁は暖炉の明かりが漏れる執務室へ向かい、ヴァルトは転移室へ戻る。

 

 背後で転移の光が立ち上がるより先に、真壁は侯爵の待つ扉を開けていた。

 

 

 

 

 

 宰相侯爵の執務机には、西方街道を含む領内地図が広げられていた。

 

 机の端には開封済みの書状が積まれ、乾ききっていない封蝋が蝋燭の光を鈍く返している。暖炉には太い薪が入れられていたが、部屋の空気は温かいというより乾いていた。人が出入りするたび、開いた扉から夜の冷気が入ってくる。

 

 侯爵は真壁の外套に付いた泥を見て、次に袖口の焦げと乾いた血の跡へ目を留めた。

 

「座れ、と言っても聞かぬ顔だな」

 

「報告が先です」

 

「だろうな」

 

 侯爵は椅子を勧める代わりに、地図を真壁側へ押した。

 

「どこだ」

 

 真壁は街道沿いの村を指した。

 

 灰狼が来た北東、牙猪が現れた西、巨大百足が下りてきた北の森へ指を動かす。三方から別種の魔物が同時に村へ寄っていたこと、そのさらに西に複数の煙が見えたことを伝えた。

 

「村人は」

 

「全員、生存しています。怪我人はいますが、今夜を越す手段は渡しました」

 

 侯爵の指が村名の上で止まる。

 

「何を作った」

 

「居住部と家畜を囲う堀です。南東街道には人力の可動橋を架けました。村人だけで上げ下げできます」

 

「半日の救援で、村に堀を掘ったのか」

 

「牙猪を落とした窪地がありましたので、延ばしただけです」

 

 侯爵は真壁を見た後、問い返すのをやめた。

 

 真壁の指が地図の西へ滑る。

 

「問題はこちらです。煙が複数あり、魔物も散らばっていました。村へ来た3種とは動きが違う。地図だけでは正体までは分かりません」

 

「何かに追われている可能性はあるか」

 

「あります。ただし、まだ推測です」

 

 侯爵は椅子から身体を起こし、机の端に置かれた小さな鐘を鳴らした。

 

 書記と伝令が入ってくる。

 

「領都へ緊急命令。街道沿いの村へ警告を出せ。避難の判断は現地の役人に任せるが、夜明け前に知らせろ。治療要員、食料、土木担当をひとまとめにして動かす。兵だけを先に走らせるな」

 

 羽根ペンが紙の上を走る。

 

「西方街道の警備所にも伝えろ。通行人から煙と魔物の目撃を聞き取れ。戻れる者は戻せ」

 

「承知しました」

 

 命令書を受け取った伝令が、廊下へ飛び出していく。

 

 侯爵は真壁へ目を戻した。

 

「君はどうする」

 

「今夜は素材を救援物資へ替えます。朝、西へ戻る」

 

「休めと言っても聞かぬか」

 

「王都商業ギルドが働いている間は、私も働きます」

 

「ギルド長が気の毒になってきた」

 

「昨日も働いておりました」

 

「それは君が働かせたのではないのか」

 

 真壁は答えず、地図を見下ろした。

 

 侯爵は息を吐き、椅子へ深く腰を下ろす。

 

「行け。こちらは領都と村を動かす」

 

「お願いします」

 

 真壁は頭を下げ、執務室を出た。

 

 夜の王都は冷えていた。

 

 侯爵邸の門を出ると、石畳に薄い霜が降り、馬車の車輪が乾いた音を立てる。商業ギルドへ続く通りは大半の店が戸を閉めていたが、荷役人を呼び戻す声と、倉庫を開ける金属音が遠くから聞こえた。

 

 王都商業ギルドの前には、すでに数台の荷車が集まっている。

 

 門をくぐった真壁を、グスタフ・ハーゲンが帳場の前で迎えた。上着を引っかけただけの姿で髪も整っていないが、目には眠気が残っていなかった。

 

「この時間に来ると思っておったよ」

 

「準備が早い」

 

「昨日、あれだけの保存食を持っていった男が、夜になって何も持たずに戻るとは思えんのでな」

 

 グスタフは何も聞かず、倉庫へ向かう。

 

 奥では、石床の広い一角が空けられていた。藁を敷いた場所と、何も敷いていない場所が分けてある。

 

「百足を肉の隣へ置けば、明日からわしの名が王都の食卓で恨まれるからのう」

 

「賢明です」

 

「それで、どれほどじゃ」

 

「まず牙猪から」

 

 真壁が片手を上げる。

 

 藁の上に牙猪の死骸が現れた。解体担当が運べる間隔を残し、倉庫の奥から順に向きを揃えて置いていく。

 

 荷役人たちの声が止まる。

 

 次いで、石床側へ巨大百足が並んだ。

 

 節の多い胴、硬い甲殻、折り畳まれた脚。冷却された表面に、倉庫の灯りが白く反射した。

 

 グスタフが額へ手を当てる。

 

「牙猪だけだと聞いていた気がするのじゃが」

 

「伝える前に戻りましたので」

 

「巨大百足を追加注文のように言わんでもらいたい」

 

「売れませんか」

 

「売るとも」

 

 返答は早かった。

 

 グスタフは番頭を呼ぶ。

 

「肉屋を3つ。保存食工房を2つ。皮職人と脂を扱う者にも声をかけよ。百足は錬金術師と素材商じゃ。毒の有無を見られる者を通せ。勝手に脚を持ち帰らせるでないぞ」

 

 番頭たちが散る。

 

 真壁は指示が一巡するのを待った。

 

「売却代金は、追加補給の預かりにしてください」

 

 グスタフの羽根ペンが止まる。

 

「今すぐ物へ替えるのではないのかね」

 

「初動用の保存食は、昨日受け取った分があります。避難先と人数が定まる前に、見込みだけで食料や毛布を集めれば相場を荒らす」

 

「ようやく、わしの心臓に優しい相談になったのう」

 

「牙猪は市場へ流してください。食肉の不足と値上がりを抑える。巨大百足は値を付けられる者へ回し、売却分は後日の食料、毛布、防寒品へ充てます」

 

 グスタフは帳面の新しい頁を開いた。

 

「牙猪は一部を領主家と救護所へ。残りは食肉店と宿屋へ分ける。保存食工房には塩漬けと燻製。皮と脂は別勘定じゃ。百足は仮預かりにして、素材商と錬金術師の見立てを取る」

 

「お願いします」

 

「追加補給の品目と量が決まったら知らせ給え。その時点で相場を見ながら集めよう」

 

「結構」

 

「その言葉を聞くと、さらに何か出される気がするのう」

 

「今夜は以上です」

 

 グスタフの肩から力が抜けた。

 

 真壁は収納内に残した巨大百足へ意識を向けたが、追加で出すのはやめた。

 

「朝、処理の状況を聞きに来ます」

 

「来るのは構わんが、少しは眠り給え。こちらは朝までに売り切る話ではない」

 

 真壁は軽く頭を下げ、ギルドを出た。

 

 侯爵邸へ戻ると、客人離れにはまだ灯りが残っていた。

 

 ロルフは前日に組んだ保存食の棚を端から見直し、ヨルンは即食用の袋に付いた札を一つずつ確かめている。真壁が戸口へ立つと、2人は手を止めた。

 

「追加の物資ですか」

 

 ロルフの問いに、真壁は首を振った。

 

「今夜は代金だけ置いてきた。追加補給は、西方の人数と不足が見えてからだ」

 

 ヨルンが手にしていた袋を棚へ戻す。

 

「では、こちらはこのまま維持します」

 

「ああ。前進拠点が決まるまで、王都側の補給を頼む」

 

 2人が頷くのを見届け、真壁はようやく客室へ向かった。

 

 

 

 

 領都の転移室へ降り立った時、ヴァルトは一歩目で足の重さを自覚した。

 

 王都侯爵邸より床が重いわけではない。外套へ残った泥が乾き、裾が足へまとわりついているだけでもなかった。

 

 境界を張り、畳み、また張った。牙猪を逃さぬよう地形を分け、巨大百足の周囲を閉じ、橋を組む間も村の外へ意識を伸ばしていた。集中している間は、疲労を数える暇がなかった。

 

 廊下へ出ると、夜番の兵がヴァルトの姿を見て背筋を伸ばした。

 

「アルベルト様とレオンハルト様は」

 

「執務室におられます」

 

「取り次ぎをお願いします。西方街道の件です」

 

 兵は外套の汚れへ目を落とし、返事をするより先に走り出した。

 

 アルベルトの執務室では、暖炉の火が赤く燃えていた。

 

 机上には領内地図が広げられ、レオンハルトが街道沿いの警備所を指で追っている。アルベルトは届いたばかりの書状を読んでいたが、ヴァルトが入ると紙を伏せた。

 

「戻ったか」

 

「はい」

 

「真壁殿は」

 

「王都で宰相侯爵へ報告しています。私は領都側を任されました」

 

 ヴァルトが机へ近づく。

 

 靴底から落ちた泥が、磨かれた床へ小さな跡を作った。使用人が布を持って動こうとしたが、アルベルトは手で制した。

 

「床は後でよい。村は」

 

「全員、生きています」

 

 レオンハルトの肩が下がった。

 

「怪我人はいます。村には堀と可動橋を残しました。橋は村人だけで上げられますので、今夜は侵入を防げます」

 

「堀?」

 

 アルベルトが顔を上げる。

 

「村の周囲に、ですか」

 

「居住部と家畜を守る範囲です。牙猪を落とした窪地から延ばしました」

 

 レオンハルトが地図から目を離す。

 

「何人で」

 

「真壁さんと私です」

 

 暖炉の薪がはぜた。

 

「橋を作ったのも2人か」

 

「村人にも手伝ってもらいました」

 

「そこは普通なのだな」

 

 アルベルトが口元を押さえたが、ヴァルトは地図へ指を置いた。

 

「問題は村の西です」

 

 灰狼、牙猪、巨大百足が来た方角を示し、さらに西に見えた煙と、散らばる魔物の位置を伝える。

 

「種族は」

 

「分かりません。距離があります。少なくとも、村へ来た3種とは動きが違いました」

 

「煙の原因も不明か」

 

「はい。真壁さんと朝に戻ります」

 

 レオンハルトは立ち上がり、副官を呼んだ。

 

「治療、土木、警備をひとまとまりにしろ。村へ着いてから互いを待つ羽目になる」

 

「承知しました」

 

「荷車は2台。食料と毛布を先に積め。橋の構造を見られる者も入れろ。応急のまま使わせ続けるな」

 

 アルベルトも書記へ向き直る。

 

「街道沿いの村へ知らせる。避難を命じるのではなく、夜明けまで家畜を内側へ入れ、見張りを増やさせろ。役人には煙と魔物の目撃を集めさせる」

 

 廊下から、招集を告げる足音が聞こえ始めた。

 

「ヴァルト殿」

 

 アルベルトが問う。

 

「領都へ持ち帰った素材は」

 

「牙猪を王都分と同程度に分けています。領都側はリュシアさんへ渡します」

 

「市場へ出すのか」

 

「一度には出しません。リュシアさんなら、解体先と保存先を分けられます。売却分は食料と毛布へ回してもらいます」

 

「任せる。領主館でも買い取るが、配る先はリュシアと相談しろ。押入商会だけで抱える必要はない」

 

「はい」

 

 レオンハルトが副官へ最後の命令を出し、ヴァルトへ目を向けた。

 

「君は休め」

 

「まだ、リュシアさんへの引き渡しが」

 

「それを終えたらだ」

 

「承知しました」

 

 机の端に置かれた茶は、すっかり冷めていた。

 

 ヴァルトは一口も飲まず、再び外套を羽織る。廊下へ出ると、兵の鎧が鳴り、毛布を抱えた者が階段を駆け下りていた。

 

 ヴァルトはその間を通り、商会へ向かった。

 

 

 

 

 

 リュシアの商会は、店先の扉こそ閉じていたが、奥の倉庫には明かりがついていた。

 

 ヴァルトが裏口を叩くと、眠そうな番頭が顔を出し、その背後からリュシアの声が飛ぶ。

 

「その外套で来たなら、ただの夜商いじゃないね。入んな」

 

 倉庫には乾物の麻袋、木箱、吊り秤が並び、蝋燭の油と革、干し豆の匂いが混ざっていた。呼び戻された倉庫係たちが、荷物を壁際へ寄せている。

 

 リュシアは帳場の椅子を顎で示した。

 

「座りな。顔色が悪い」

 

「先に、倉庫の空きを」

 

「座ってからでも牙猪は逃げないよ」

 

「死んでいますから」

 

 リュシアは眉を上げた。

 

「そういう意味じゃないんだけどね」

 

 近くの番頭が顔を伏せる。

 

 ヴァルトは空いた床を見回した。

 

「藁を敷いた側へ出します。皮と脂を扱う分は、後で分けてください」

 

「量は」

 

「王都へ渡す分と、ほぼ同じです」

 

 リュシアの顔から眠気が消える。

 

「真壁も王都で売るのかい」

 

「商業ギルドへ持ち込んでいます。巨大百足は王都側です」

 

「百足まであるのかい」

 

「あります」

 

「真壁と一緒にいると、仕入れ品の種類が急に増えるね」

 

「私もそう思います」

 

 番頭が小さく咳払いをした。

 

「出しな。数えるのは後だ。解体屋が通れる幅を残してくれ」

 

 ヴァルトは倉庫の奥から順に、牙猪を横向きに出した。大きな胴が現れるたび、藁が沈み、獣脂と血の匂いが広がる。

 

 最後の1体を出す前に、リュシアが手を上げた。

 

「そこは空けておくれ。朝、荷車を横づけする」

 

 ヴァルトは壁際へ位置を変えた。

 

 リュシアは帳場へ戻り、取引先の名を書き始める。

 

「肉屋は3軒。保存食工房へも回す。宿屋と領主館の厨房、それから救護所。脂と皮は別口だね」

 

「一度に売ると、値が下がりませんか」

 

「全部を店頭へ吊るせばね。王都にも同じくらいあるなら、こっちは保存食工房へ多めに回せる。解体屋も抱え込まずに済む」

 

「領内の食品価格が上がらないように使ってください。売却後の流通はお任せします」

 

 リュシアの手が止まった。

 

「商人が、売値を任せるって言うのかい」

 

「高く売ることより、次の食料が不足しないことを優先します」

 

「真壁に言われた?」

 

「いえ。領都分は私が任されています」

 

 リュシアはしばらくヴァルトを見た後、次の頁を開いた。

 

「分かったよ。肉は食べる口へ、金は次の食料へ回す。毛布とポーションも集める」

 

「お願いします」

 

「それで、あんたはどこへ行く」

 

「子どもたちの様子を見てから休みます」

 

「見たら、だろうね」

 

「何がですか」

 

「倒れるのが」

 

 ヴァルトは返答しようとしたが、倉庫の灯りが一瞬だけ遠く見えた。

 

「大丈夫です」

 

「その台詞を言う奴は、大抵大丈夫じゃないんだよ」

 

 リュシアは番頭へ顎をしゃくる。

 

「念のため、寝床を空けときな」

 

「私はまだ」

 

「牙猪は置いた。条件も決まった。商人の仕事は終わりだよ」

 

 帳面と牙猪を見比べ、ヴァルトは息を置いた。

 

「では、子どもたちのところへ」

 

「誰か付けな」

 

「歩けます」

 

 ヴァルトは倉庫を出た。

 

 背後で、リュシアが保存食工房へ走る者と、毛布を扱う店へ向かう者を振り分けている。

 

 冷たい夜風が頬へ当たり、眠気をわずかに遠ざけた。

 

 

 

 

 

 子どもたちの寝所は、領主館に近い古い宿舎の一室に設けられていた。

 

 王都侯爵邸にいるラウたちとは別に、領都へ逃れてきた子どもや、家族と離れた子どもを一時的に預かっている。扉の前には夜番の女性が座り、膝に毛布を掛けたまま、湯を入れた鍋を見ていた。

 

「ヴァルトさん」

 

「起こしてしまいましたか」

 

「いいえ。何人か、まだ眠れていません」

 

 細く開けてもらった扉から中をのぞくと、藁を詰めた寝床が並び、その上へ毛布が掛けられていた。小さく落とされた暖炉の火が壁へ影を揺らし、乾いた藁と洗った衣服に、薬草湯の薄い匂いが混じっている。

 

 怪我の手当てを受けた子も、食事の椀を抱えたまま眠りかけた子もいた。毛布から出た小さな手が、寝返りに合わせて動く。

 

 ヴァルトは入口で足を止めた。

 

 誰も追われていない。冷えた路地で朝を待つ必要もない。

 

 寝床の端で目を開けていた少年が、ヴァルトに気付いた。

 

「魔術師さん」

 

 周りを起こさないよう、声を抑えている。

 

 ヴァルトは少年のそばへ腰を落とそうとした。だが、膝が思ったより深く折れ、片手を床へつくことになった。

 

「どうしたの?」

 

「何でもありません」

 

 自分の声が、離れたところから聞こえたような気がした。

 

「もう、魔物は来ない?」

 

 ヴァルトは少年の目を見た。

 

 西で何が起きているのかは分からない。それでも、今夜この場所まで魔物が来ることはない。兵はすでに動き、街道沿いの村にも知らせが走っている。

 

「今夜は大丈夫です。兵も動いています」

 

「ほんと?」

 

「はい」

 

 少年はようやく毛布へ顔を戻した。

 

 その肩から力が抜けるのを見た途端、ヴァルトの指から床を押す力が消えた。

 

 正月にもかかわらず人のいなかった事務所と、机の上で冷えた飲み物が一瞬だけ脳裏をよぎる。あと少しだけ働けば帰れると考えていた。父母と妹のいる家へ戻れるのだと、疑ってもいなかった。

 

「ヴァルトさん?」

 

 少年の声へ返事をしようとしたが、身体が先に傾いた。

 

 夜番の女性が立ち上がり、床へ落ちる前に肩を抱える。すぐに別の足音が近づき、頭を支える手と、腕を取る手が加わった。

 

「誰か、寝台を空けて!」

 

 名前を呼ばれながら運ばれていく。

 

 ヴァルトは、その声を聞いていた。

 

 頬に触れる掌も、肩へ掛けられた毛布の重みも分かった。

 

 それなら、もう目を開けている必要はない。

 

 子どもたちの寝息を聞きながら、ヴァルトは眠りへ落ちた。

 

 

 

 

 

 味噌の香りで目を覚ました。

 

 最初に浮かんだのは、家の台所だった。

 

 鍋の蓋が鳴り、父が新聞をめくる。母が味噌汁の味を見て、妹はまだ眠いと椅子へ頬杖をついている。

 

 目を開けると、その光景は消えた。

 

 代わりに見えたのは、石造りの客室の天井と、窓から差し込む冬の淡い光だった。

 

「起きましたか」

 

 澪が寝台の横に座っていた。

 

 卓上には湯気の立つ味噌汁と、透明なラップに包まれた三角形のおにぎりが並んでいる。1つは鮭、もう1つは醤油を含んだおかかだろう。包み越しでも分かった。

 

 ヴァルトは上半身を起こした。

 

「ご迷惑をおかけしました」

 

「皆さん、かなり驚かれたそうです」

 

「申し訳ありません」

 

「謝る前に、召し上がってください」

 

 澪は味噌汁の椀を差し出した。

 

 ヴァルトは両手で受け取る。温かさが掌へ染みた。

 

 一口飲むと、味噌の香りが鼻へ抜ける。異世界でも味噌や醤油は口にしてきた。好んで使い、料理へ入れてもらうこともあった。

 

 だが、ラップに包まれたおにぎりと味噌汁が同じ卓上へ並ぶ光景は、今生では初めてだった。

 

「ゲンダイで作ってきました。鮭と、おかかです」

 

「見れば分かります」

 

「あ、そうですよね」

 

 澪は一瞬だけ目を伏せた。

 

 ヴァルトは鮭のおにぎりを手に取った。ラップを外す音が妙に懐かしい。

 

 米は少し冷めていたが、中の鮭にはほどよい塩気があり、噛むと海の香りが広がった。おかかには醤油が染み、白い米と馴染んでいる。

 

 正月の泊まり込みを終えれば、家へ帰れると思っていた。

 

 母が味噌汁を作り、父が文句を言いながら酒を飲み、妹が菓子を持ってくる。そんなありふれた時間が、次にも続くと疑っていなかった。

 

 ヴァルトは急いで飲み込まず、味噌汁をもう一口飲んだ。

 

 別の世界で、別の身体になった今も、誰かが自分のために朝食を用意している。

 

 味噌汁を飲み終えたヴァルトは、空になった椀を卓上へ戻した。

 

「お疲れではないですか?」

 

 澪に尋ねられ、自分の身体へ意識を向ける。

 

「いや、もう疲労度0です」

 

 口に出してから、ヴァルトは眉を寄せた。

 

 深く眠ったとはいえ、昨夜まで身体へ残っていた重さが跡形もない。立ち上がっても足元は安定しており、魔力にも不足を感じなかった。

 

 自分へ鑑定を向ける。

 

 変化している項目はいくつもあったが、ヴァルトの目は2つの表示で止まった。

 

 行商人Lv10。

 

 転移Lv5。

 

「あ……昨日のスタンピードでレベルアップしていました」

 

「どこまで上がったんですか?」

 

「行商人がLv10です。転移もLv5になっています」

 

 澪の顔が明るくなる。

 

「おめでとうございます」

 

「ありがとうございます」

 

 転移へ意識を向けると、これまでになかった使い方が伝わってきた。

 

 一度訪れた町や村であれば、その手前の安全な位置へ仮の拠点を置ける。そこへ転移できる人数は、同行者を含めて6人まで。

 

「昨日の村へ、直接戻れます」

 

「村の中ではなく、村の前にですか?」

 

「ええ。人や建物と重ならない場所を選べます」

 

 澪は窓の外へ目を向けた。

 

 領主館の前では、夜のうちに集められた毛布や食料が荷車へ積まれている。昨日までなら、その荷車と同じ道を進むしかなかった。今は、先に必要な物だけを運べる。

 

「かなり大きいですね」

 

「街道を戻る時間が要りません。真壁さんと合流してから、村へ向かいます」

 

 ヴァルトは収納から、領都側で集められた物資を取り出した。

 

 毛布と食料は、現地で配れる単位にまとめられている。ポーションの木箱には布が詰められ、瓶同士が触れないようになっていた。

 

「こちらをお渡ししておきます」

 

 澪は毛布の束へ手を添え、収納へ収める前に荷札を見た。

 

「これは領都に残す分ですね」

 

「はい。救援部隊と後から来る村人へ渡してください。私が先に持っていく分は、こちらへ残しています」

 

 同じ物資を二重に運ばないよう、ヴァルトは収納内で現地投入分と領都残留分を分けていた。澪は荷札の付いた束だけを受け取り、食料と医療用品が混ざらないよう収め直す。

 

「分かりました。こちらは領都側で使います」

 

 澪は最後に、別に包んだおにぎりを卓上へ置いた。

 

「真壁さんの分です。昼食に渡してください」

 

 鮭とおかかが2つずつ、透明なラップに包まれている。具を間違えないよう、小さな印も付けてあった。

 

「承りました」

 

「真壁さん、食べるのを忘れそうなので」

 

「忘れはしないでしょう」

 

「後回しにはします」

 

 ヴァルトは否定できず、おにぎりを収納した。

 

「無理はしないでくださいね」

 

 昨夜と同じように大丈夫だと言い切るのはやめた。

 

「今度は、倒れる前に休みます」

 

 澪はその返事を聞いてから、ようやく頷いた。

 

 

 

 

 

 翌朝の王都商業ギルドは、店が開く前から人が動いていた。

 

 昨夜並べた牙猪の一部はすでに荷車へ載せられ、食肉店と保存食工房の札が付けられている。石床側の巨大百足には縄が張られ、錬金術師と素材商が甲殻や脚を離れた位置から見比べていた。

 

 真壁は侯爵邸で短く眠り、目を覚ますとすぐにここへ来た。

 

 グスタフは帳場で茶を飲んでいたが、真壁を見るなり椀を置いた。

 

「朝食は」

 

「後で」

 

「やはりのう」

 

 グスタフは帳面を真壁の前へ向ける。

 

「牙猪は領主家、食肉店、宿屋、保存食工房へ分けた。値を下げぬよう、今日出す分と加工へ回す分を分けてある。皮と脂も買い手が付いた」

 

「食品の値上がりは」

 

「今朝の段階では出ておらん。肉が市場へ入ると分かれば、買い占めを考える者も動きにくいじゃろう」

 

 真壁は倉庫の奥を見る。

 

「巨大百足は」

 

「まだ値は付けられん。甲殻と脚に興味を示す者はおるが、毒性と加工法を見ずに競らせるのは危うい。預かりのままじゃ」

 

「それでよい」

 

 グスタフは帳面の下へ別の紙を差し出した。

 

「牙猪分の仮売却額と、百足の預かりを分けてある。代金は追加補給の預かり金として残しておこう。必要な食料、毛布、防寒品が決まった時に、ここから充てる」

 

 真壁は数字へ目を通し、紙を戻した。

 

「ロルフ君とヨルン君が、昨日の補給棚を維持しています。追加分は前進拠点と避難人数が決まってからお願いします」

 

「よかろう。今から倉庫を空にしても、必要な場所へ合わねば荷物が増えるだけじゃ」

 

「引き続き、市場の動きも見てください」

 

「こちらも商売じゃからな。ただし、次は営業時間内に来てもらいたいものじゃ」

 

「努力します」

 

「守る気のない返事じゃのう」

 

 真壁は商業ギルドを出た。

 

 冬の朝日は低く、石畳の霜を白く光らせている。王都侯爵邸へ戻る頃には、街の店々が戸を開け始め、パンを焼く匂いが通りへ流れていた。

 

 侯爵邸の玄関広間へ入ると、ヴァルトの声が聞こえた。

 

 王都へ残された子どもたちは、侯爵邸の一角で朝食を終えたところらしい。借りた服を畳む者、木椀を運ぶ者、まだ眠そうに壁へ寄りかかる者がいる。

 

 ラウはヴァルトの前に立っていた。

 

「本当に、みんなで町へ行けるのか」

 

「すぐにではありません。住む場所と学ぶ場所を整えてからです」

 

「魔術も教えてくれる?」

 

「その話は、真壁さんが戻ってからですね」

 

 そこでヴァルトが真壁に気付いた。

 

「真壁さん」

 

「早かったな」

 

「転移が便利になりました」

 

 ヴァルトが近づき、領都側の状況を伝える。

 

「アルベルト殿とレオンハルト殿が、救援部隊を動かしています。リュシアさんも、牙猪の売却分で食料と毛布を集めています」

 

「村へ向かう者は」

 

「治療、土木、警備をまとめて出すそうです。街道沿いの村へも、夜のうちに知らせが出ています」

 

「結構」

 

 真壁の視線が、ヴァルトの肩越しにいるラウへ移った。

 

 新しい服を着てはいるが、細い腕にはスラムで暮らしていた頃の傷が残っている。食事と寝床を与えられたからといって、周囲を警戒する癖まで1日で消えるものではない。

 

 真壁は鑑定を向けた。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 それでも、ラウの眉が動いた。

 

「……何だよ」

 

 自分へ向けられた視線の質が変わったことに気付いたらしい。顎を引き、真壁の目を正面から見返している。

 

 真壁の口元が、ごくわずかに緩んだ。

 

「面白い子だ」

 

「真壁さん」

 

 ヴァルトが呼ぶ。

 

「見ていないだろ」

 

 ヴァルトもラウへ鑑定を向けた。

 

 いくつかの表示に混じり、見慣れない項目が浮かぶ。

 

 特殊スキル。

 

 『重力』 芽あり。

 

 ヴァルトの目が止まった。

 

 名称から何らかの力を想像することはできる。だが、まだ「芽あり」にすぎない。何へ、どのように作用するのかを今ここで断定する材料はなかった。

 

「真壁さん、これは」

 

「帰ってからだ」

 

 真壁は短く切った。

 

 ラウが2人を見比べる。

 

「俺に何かあるのか」

 

「今は、待つことを覚えたまえ」

 

 真壁はラウの前へ立った。

 

「押入商会の真壁だ。ヴァルト君とスタンピード対策で西に行く。帰ってくるまで、君の友人たちと待っていたまえ」

 

 ラウは真壁を見上げた。

 

 押入商会の商人だという。

 

 だが、侯爵邸の者は真壁が通ると道を空け、ヴァルトは領都の準備を報告している。真壁はそれを聞くと、次にどこへ向かうのかを迷いなく決めた。

 

 商人なら物を売る。

 

 兵士なら武器を持って戦う。

 

 目の前の男は、その両方をしながら人まで動かしている。

 

(商人さん?)

 

 ラウは真壁の外套に残る焦げ跡へ目を留めた。

 

(兵士長……いや、将軍なのでは?)

 

「分かった」

 

 ラウは友人たちの方へ目を向ける。

 

「みんなと待ってる」

 

「それでよい」

 

 真壁は能力について何も告げず、ラウから離れた。

 

 

 

 

 

 侯爵邸の中庭には、冬の乾いた風が通っていた。

 

 ヴァルトが収納から、透明なラップに包まれたおにぎりを取り出す。

 

「澪さんから、昼食にと預かっています」

 

「ありがたい」

 

「鮭とおかかです。食べるのを後回しにしないように、とのことでした」

 

「澪君らしい」

 

 真壁は昼食を収納すると、自分へ鑑定を向けた。

 

 変化している項目の中から、転移へ目を留める。

 

「私も転移が5に上がったようだ。ヴァルト君は」

 

「5に上がっています」

 

 真壁はヴァルトの顔を見た。

 

 追いついた理由を尋ねることはない。ヴァルトがこれまでどこで戦い、何を積み重ねてきたかは、隣で見ている。

 

「昨日の村へ行けるな」

 

「はい。南東側の街道沿いへ拠点を置きます。橋にも堀にも重なりません」

 

 王都と領都で集めた救援物資は、それぞれの収納へ収めてある。食料、毛布、ポーションの位置も決まっており、到着後に探す必要はない。

 

 真壁は西の方角へ顔を向けた。

 

「では行くか」

 

「はい」

 

 ヴァルトが転移先を定める。

 

 2人の足元へ光が広がり、王都の石と煙の匂いが薄れていった。

 

 光が収まると、靴の下には凍りかけた土があった。

 

 オルガの村の南東側。

 

 前方には堀と、下ろされた可動橋が見える。橋の脇では、見張りの村人が驚いて立ち上がっていた。

 

 真壁は村の向こう、西へ目を向けた。

 

 ヴァルトも隣へ並ぶ。

 

 地図の奥には、まだ消えていない赤がある。

 

 2人は村へ向かって歩き出した。

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