リュシアの屋台の前に、昼前から人が集まり始めていた。
いつもの汁物の匂いに、少しだけ豆の甘い匂いが混じっている。鍋の中では端肉と野菜くずが煮え、その上に白い大豆もやしが浮かんだり沈んだりしていた。大きな具ではない。派手でもない。けれど、湯気の向こうで白い茎が折れずに残っているだけで、いつもの汁とは少し違って見えた。
トトは、屋台の横で胸を張っていた。
「豆草入りだぞ」
「もやしです」
澪は反射で訂正した。
もう何度目か分からないやり取りだったが、トトは一向に譲らない。むしろ、自分が名付け親のような顔をしている。
客の一人が器を受け取り、眉を寄せた。
「豆なのか、草なのか」
リュシアは木杓子を鍋の縁で軽く叩き、器を差し出した。
「食べれば分かるよ。考えてる間に冷める」
客は笑いながら口をつけた。最初は汁を飲み、それから白いもやしを噛んだ。少し間があった。次に、もう一度噛む。しゃき、と小さな音がした。
「……へえ。汁に入ってるのに、へたってないな」
別の荷運びの男も器を覗き込んだ。
「肉は少ないのに、なんか腹に残る」
「青い葉が少ない日に、これなら悪くない」
「子どもにも食わせやすいな。豆より柔らかい」
声がいくつも重なった。
澪は、思った以上の反応に目を丸くした。孤児院や屋台裏で試した時にも手応えはあった。けれど、市場の客がその場で銅貨を出し、器を返す前に「もう一杯」と言うのを見ると、別の熱が胸の中に上がってくる。
売れる。
その言葉が、澪の頭の中に浮かんだ。
トトが得意げに言う。
「だから豆草は売れるって言った」
「言ってないです」
「今言った」
「今言っただけです」
リュシアは二人のやり取りを聞きながら、鍋の底を見ていた。客の目ではなく、残りの量を見ている顔だった。
近くの料理屋の男が、まだ湯気の立つ器を片手に屋台へ戻ってきた。
「リュシア、その白い豆草、少し分けてくれ。昼の煮込みに入れたい」
別の屋台商人も、すぐ横から口を出した。
「うちの粥に混ぜてもよさそうだ。腹持ちがよくなる」
「肉が少ない日の汁にも使えるな」
澪の顔が明るくなる。
その横で、買い物帰りらしい女が器を見ながら言った。
「家でも少し使えるかい。夕飯に入れてみたい」
家庭まで。
澪は思わずリュシアを見た。
「リュシアさん、これ、増やせば」
「澪、売れるから増やすんじゃない。傷む前に渡せる分だけ作るんだよ」
リュシアの返事は早かった。
澪は勢いを止められて、口を開けたまま固まった。
「でも、欲しい人が」
「腐った豆草を一度でも売ったら、次から誰も買わない。評判は鍋より早く広がる」
リュシアは客の器を受け取りながら、さらりと言った。
「料理屋はすぐ鍋に入れる。屋台も見ていれば分かる。でも家は違う。買ったあと、用事ができて置きっぱなしにするかもしれない。夕方に忘れるかもしれない。翌日に残すかもしれない」
「じゃあ、家庭向けは」
「少しだけ。今日中に火を通す家だけだね」
トトが、横から首を突っ込んだ。
「昨日の豆草は?」
「売らない」
「匂いが豆草でも?」
「昨日の豆草は敵だよ」
トトは目を丸くした。
「豆草、敵になるのか」
「なるよ。しかも腹を攻めてくる」
リュシアは真顔で言った。
澪は、客たちの欲しそうな顔と、リュシアの冷静な横顔を交互に見た。
売れるのに、すぐ増やせない。
欲しいと言われたのに、渡せない量がある。
それは、思っていたよりずっと商売らしかった。
屋台裏へ下がった澪は、帳面を開いた。
明日から増やす。そう書きかけて、筆先が止まる。
リュシアはその手元を見て、少し笑った。
「今日売れたからって、明日の豆草は増えないよ」
「三日前に仕込んだ分だけ……」
「そう。三日で済むのは助かる。でも三日分の水と手間はいる」
澪は帳面の上で、指を折った。
大豆三十グラムで、一袋二百グラムくらい。十袋なら三百グラム。百袋なら三キロ。数字だけなら書ける。けれど、その豆を三日間育てる。暗い場所に置く。水をかける。桶を洗う。布を替える。札を付ける。大人が匂いを見る。駄目なら捨てる。朝に収穫する。午前中に渡す。
豆だけの問題ではない。
「豆じゃなくて、水と手間が増える……」
澪が呟くと、リュシアは満足そうに頷いた。
「その顔が見たかった」
「見たかったんですか」
「増やす前に気づいた顔だからね」
リュシアは屋台の方へ視線を戻した。表では、料理屋の者がまだ何か聞きたそうにしている。別の屋台の者も、遠巻きにこちらを見ている。
「あんたは姫様と作る方を見ておいで。私は売る方を止めておく」
「リュシアさんは来ないんですか」
「行きたいけどね。ここを空けたら、料理屋も屋台も好き勝手に注文を膨らませる。豆草より先に、客の欲が発芽するよ」
「嫌な発芽ですね」
「よく育つんだよ、そういうのは」
リュシアは浅い籠と布を出した。籠は深くない。通気がよく、水気が下へ落ちる。布は濡らしてかけるが、包み込まない。
「早朝に収穫。水気を切る。ぬめり、匂い、変なところがないか大人が見る。浅い籠か布袋に分ける。濡れ布はかけるけど、蒸らさない。午前中に渡す。夕方に残った未加熱の豆草は売らない。翌日はなし」
澪は頷いた。
「水袋も走らないし、豆草も走らないんですね」
トトが、屋台裏の入り口で不満そうに言った。
「俺、朝に走って届ける」
「走らない」
リュシアは即座に言った。
「早く届けるんだぞ」
「籠を揺らして豆草を傷める配達はいらない」
「じゃあ何なら走っていいんだよ」
「怒られに行く時くらいだね」
トトは納得していない顔をした。
澪は帳面を閉じ、深く息を吸った。作る場所がいる。水がいる。温度を見る道具がいる。三日分を管理する場所がいる。
そして、この話を現代側で調べる必要があった。
六畳間に戻った澪は、スマホとノートパソコンを並べた。
畳の上には、まだ大豆袋が残っている。端にはウォーターバッグの説明書もある。机の上の帳面には、水管理の札を書いた跡が残っていた。
澪は検索窓へ入力した。
もやし栽培キット。
業務用もやし栽培器。
水耕栽培棚。
育苗トレー。
排水トレー。
室 もやし 栽培。
豆もやし 散水栽培。
最初に出てきたものを見て、澪はすぐに眉を寄せた。
電動ポンプ。タイマー。自動散水。水循環装置。LED付きの棚。電源コード。専用部品。業務用価格。
「電気を使うものは駄目。ポンプも駄目。タイマーも駄目。光る棚も駄目」
口に出して消していく。
だが、全部が駄目なわけではなかった。棚は使える。浅いトレーも使える。排水を受けるトレーも、食品用コンテナも、ザルも、メッシュも、遮光カーテンも、遮光布も、水温計も、室温計も、料理用温度計も、ウォーターバッグも、木札用の薄板も、紐も、洗える布も使える。
電気を食わないものだけなら、持っていける。
「工場を買うんじゃない。工場に必要な、電気を食わない部品だけ買う」
澪は、そこでさらに調べた。
古いもやし作り。
室。
蔵。
手作業。
水をかける。
画面の文章を読み進めるうちに、澪の手が止まった。
暗い室や蔵に、木桶や平たい容器を並べる。豆を敷き詰める。職人が日に何度も水をかける。豆の呼吸熱と、水が蒸発する時に奪う熱を見ながら、数日で育てる。
電気がいらない。
ポンプもいらない。
人の手と、水と、暗い場所でできる。
「これなら、電気がいらない……」
澪は、ノートの端に大きく丸をつけた。
そこで終わりにしなかったのは、前に水で痛い目を見たからだ。
澪は、ChatGPTのような相談画面を開いた。今度は短く聞かない。できるだけ条件を入れる。
電気もポンプも使えません。水は井戸水か地下水です。室の中で大豆もやしを作る場合、水温はどう考えればいいですか。最初の水と、芽が出た後の水は同じでいいですか。
送信して、待つ。
返ってきた答えを読みながら、澪は背筋を伸ばした。
古来の職人は、年間を通して十五度から十八度前後で安定する地下水や井戸水を好んで使った。もやし自身の呼吸熱で室や豆の層が熱くなってきたら、そのひんやりした水を何度もかける。水をかける目的は、水分補給だけではない。熱を逃がし、蒸れを防ぎ、腐敗やぬめりを避けるためでもある。
さらに、唯一の例外として最初の種もどしがある。乾燥豆を最初に浸し、皮をふやかして発芽のスイッチを入れる時だけ、三十度前後のぬるま湯を使うことがある。しかし、芽が出た後は温かい水を使わない。温かい水をかけ続けると、蒸れ、ぬめり、異臭の原因になる。
澪は画面を見たまま、息を止めた。
そして帳面に、大きく書いた。
最初だけぬるま湯。
芽が出たら冷たい井戸水。
水かけは、水分補給と熱逃がし。
温かい水を続けない。
温度計が必要。
「これ、秘技だ……」
澪は一度、画面へ手を合わせそうになった。
「ChatGPT先生、もやし職人だったんですか……?」
答えは返ってこない。返ってきても困る。
澪は料理用温度計、水温計、室温計を複数カートに入れた。大型浄水器より安い。業務用機械よりずっと現実的だ。だが、必要な本数を考え始めると、また数が増える。
「水場用、室用、種もどし用、予備……」
温度計だけで、もう一つの小さな在庫ができそうだった。
そして澪は、大豆百キロをもう一度注文した。
購入画面の数字を見ても、前ほど固まらなかった自分に、澪は少し青ざめた。
「怖い。豆に慣れてきてる」
食べる分。育てる分。もやし工場用。失敗分。種豆として残す分。畦で試す分。そう考えると、百キロは大きく見えない。むしろ足りるか不安になる。
数日後、荷物が届いた。
大豆の袋がまた積まれ、栽培用の棚、浅型トレー、排水トレー、食品用コンテナ、ザル、メッシュ、遮光カーテン、遮光布、水温計、室温計、料理用温度計、ウォーターバッグ、木札用の薄板、紐、洗える布が次々に六畳間を侵略した。
部屋は完全に負けた。
「部屋が、もやしに占領される前から負けてる……」
澪は玄関から六畳間までの隙間を横歩きで移動し、段ボールの山の前に座った。
収納するしかない。
まずは大豆。
工場用大豆。食用ではなく、仕込み小屋用。種豆と混ぜない。湿気注意。勝手に食べない。
次に棚。
仕込み小屋用棚。電気なし。組み立て式。水濡れ注意。木製棚の見本にも使う。
浅型トレー。排水トレー。食品用コンテナ。遮光布。水温計。室温計。料理用温度計。ウォーターバッグ。木札用材料。
三つ目の段ボールで、頭の奥が重くなった。
五つ目で、首の後ろが熱くなった。
大豆袋を押し込むところで、澪は床に手をついた。
「グギギギギ……」
水百リットルの時とは違う。水の揺れではない。棚の角、トレーの広さ、大豆袋の重さ、段ボールの硬さが、収納の中でそれぞれ場所を要求してくる感じがある。
「入って……入って……工場、作るんだから……!」
最後の温度計の箱を収納へ押し込んだ瞬間、収納の奥がふっと広がった。
澪は床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
息を整えてから、鑑定を開く。
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篠原澪
体力:38
筋力:29
集中:51
睡眠:やや不足
鑑定:4
収納:5
商才:芽あり
衛生管理:上昇中
在庫管理:上昇中
容器管理:上昇中
水管理:上昇中
栽培管理:発生
課題進捗:完了
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「収納、五……」
喜びはあった。
ただし、畳の上には段ボールの切れ端と緩衝材が残っている。
「収納が上がっても、段ボールは消えない……」
澪は、現代の便利さが残した現実を、しばらく見つめていた。
異世界へ戻った澪は、リュシアの屋台裏でエレナをつかまえた。
リュシアは料理屋と屋台の注文をさばいている最中で、こちらへ来る余裕がない。客を断る声が、表から何度も聞こえていた。
「暗い室と、冷たい水と、排水できる場所が必要なんです」
澪が一気に説明すると、エレナは腕を組んだ。少年服の袖口から、白い手首が少し覗く。護衛はその横で、また何か大きな話が始まったと察した顔をしていた。
「暗い場所。冷たい水。排水」
エレナは少し考え、すぐ顔を上げた。
「山側なら、父上の管理地に水場がある。古い貯蔵小屋も近い」
「水源、あるんですか」
「ある。小さな水路だが、町へ来る水より冷たい。古い小屋は今ほとんど使っていない」
澪の胸が跳ねた。
条件が揃いすぎている。
「職人は?」
「呼べる。木材も出せる。護衛もつける。通行許可と、朝の市場への搬入も私から言えばよい」
澪は、瞬きした。
「権力、速い……」
エレナは当然のように胸を張った。
「遅い権力など役に立たぬ」
護衛が横で少し胃を押さえた。
「エレナ様、まず旦那様へのお伺いを」
「試験小屋だ」
「その一言で全部通るわけではありません」
「通すためにお前がいる」
護衛は、もっと胃を痛めた顔になった。
澪は、これが貴族の力か、と妙に感心した。通販で買い、収納で運び、侯爵家の一言で土地と職人が動く。自分でも少し怖い。
怖いが、動いている。
山側の水場へ向かう道は、市場の喧騒から少し離れるだけで、急に音が変わった。
石畳が土の道に変わり、荷車の轍が残る。風の中に、草と湿った土の匂いが混じっていた。トトは「豆草工場を見に行く」と言って、当然のようについてきた。荷物持ちではなく、見張り役ということにして許されたが、本人はまったく見張る顔をしていない。
水場は、町より少し涼しかった。
細い水路が、木々の間から出ている。水は石の間を通り、古い貯蔵小屋の近くを抜けて下へ落ちていた。小屋は木と石でできていて、扉を閉めれば暗くできそうだった。湿気はあるが、風を入れる場所も作れる。床は古いが、排水の溝を掘る余地があった。
澪は水温計を取り出した。
透明な筒を水に沈め、数字が落ち着くのを待つ。数字を見た瞬間、澪は声を漏らした。
「使える……!」
十五度から十八度の間に近い。多少の差はあるが、現代側で見た説明に近い水だった。
トトが横から覗き込む。
「水を測って喜んでる」
エレナも水温計を見た。
「澪は時々、よく分からないところで勝つな」
「水温に勝ちました」
「水温は敵だったのか」
「敵にも味方にもなります」
護衛が小さく呟いた。
「また難しいものを相手にしている……」
澪は聞こえないふりをした。
貯蔵小屋の前に集まった侯爵家の職人たちは、澪の話を聞いて最初は首を傾げていた。
豆を暗い場所で育てる。日に何度も水をかける。最初だけぬるま湯。芽が出たら冷たい水。水をかける目的は、濡らすだけではなく熱を逃がすため。
職人の一人が、太い指で顎を撫でた。
「温い方が育ちそうだが」
「そこが罠みたいです。豆自身が熱を持つので、温めすぎると蒸れて悪くなります。だから、冷たい井戸水や地下水を何度もかけて、水を与えながら熱を逃がすんです」
エレナが目を丸くした。
「豆が熱を持つのか」
「生きてるので、たぶん。息をして、熱を出すみたいです」
トトは水場を見てから、真面目に言った。
「豆草、熱いのか」
「熱くなりすぎたらだめです」
「豆草、わがままだな」
「もやしです。でも、わがままです」
職人は、水に手を入れた。
「なら、この水は悪くない。夏でも手が冷える」
澪は水温計を見て、もう一度頷いた。
「勝ちました」
「だから何に勝ったのだ」
エレナが聞く。
「水温にです」
今度は誰もすぐには否定しなかった。
どうやら、この場では水温はかなり偉いらしい。
澪が収納から栽培用の棚と浅型トレーを取り出すと、職人たちの目が変わった。
それまでは、変わった豆の話を聞いている顔だった。けれど道具を見せると、手が動く人間の顔になる。
浅いトレーを持ち上げ、底の深さを確かめ、縁の高さを見る。排水トレーを重ね、どこから水が逃げるかを見る。遮光布を指でつまみ、光の通り具合を確認する。
「この浅い箱に豆を敷くのか」
「はい。水が抜けるようにして、暗くします」
「なら木でも作れる。底の水抜きと受けを考えればいい」
別の職人が食品用コンテナを覗き込んだ。
「こっちは水を受けるか、洗う時に使えるな」
「はい。現代の物は初期試験用と見本です。たくさん作る分は、木でお願いします」
澪が言うと、職人たちは頷いた。理解が早い。現代品の形を見て、木製に置き換える場所を探している。
トトが食品用コンテナに顔を近づけた。
「これが豆草の寝床?」
「もやしの育成容器です」
「寝床でいいじゃん」
「よくないです」
「寝るんだろ」
「芽を出します」
「寝起きだ」
澪は返事に困った。
職人の一人が少し笑った。
水をどう運ぶかで、職人たちはすぐに木樋の話をした。
電気で押すのではなく、上から下へ落ちる力を使う。水場から貯蔵小屋まで短い木樋を置き、取水口には葉や枝を止める木格子を入れる。必要なら布や砂利、炭で粗く濾す。小屋の手前で止められる板を入れる。水を受ける桶を置き、使い終えた水は床の溝から外へ逃がす。
澪は感動した。
現代の画面では電動ポンプやタイマーばかりだった。ここでは木と傾きと人の手で話が進む。
職人は木樋を置く場所を見ながら言った。
「流すのは簡単だ。止める方も作らないと困る」
「止める方?」
「水は勝手に止まらない。濁った時に小屋まで来られたら終わりだ。大雨で泥が混じった時、上で獣が入った時、葉が詰まった時、ここで止める」
澪は大きく頷いた。
「止水板、いります」
トトが水路を見て言った。
「水にも門がいる」
エレナが楽しそうに笑う。
「豆草城の城門か」
「仕込み小屋です」
澪はすぐ訂正した。
職人は、木樋を手で測りながら言った。
「あと、木樋はぬめる。洗う手がいる。排水先を決めないと小屋が泥になる。棚の下に水が溜まると匂う」
澪は帳面に書いた。
水は便利だが、放っておくと敵になる。
どうも水は、どこまでもずるい。
古い貯蔵小屋は、半日で別物になった。
エレナの指示で木材が届き、職人たちは迷いなく動いた。棚を組む。足を少し上げ、下に水が溜まらないようにする。遮光布を張る。扉の隙間を塞ぐが、必要な時に開けられるよう紐を付ける。床の一部に浅い溝を掘り、受け桶へ水が落ちるようにする。壁際には木札を下げる場所が作られた。
澪は収納から必要な物を次々に出した。
浅型トレー。排水トレー。水温計。室温計。温度計。食品用コンテナ。遮光布。メッシュ。紐。木札用の薄板。
護衛は人の出入りを見張り、エレナは職人たちへ次々に指示を出す。トトはあちこち覗き込んでは、「豆草城のここは何だ」と聞いて、澪に「仕込み小屋です」と訂正された。
小屋の中が暗くなり、棚の上にトレーが並び、水樋から細く水が届くようになると、澪は思わず呟いた。
「異世界もやし工場……」
職人が周囲を見た。
「小屋だな」
トトが言う。
「豆草城だな」
「工場です」
澪が言う。
エレナは腕を組んだ。
「試験小屋だ」
呼び名がまとまらない。
ただ、形はできていた。
近代的な機械はない。電気もない。自動散水もない。けれど、暗い場所があり、棚があり、トレーがあり、冷たい水があり、排水があり、木札がある。
澪の頭の中で、現代の検索画面と、目の前の木樋が重なった。
別物なのに、同じ目的へ向かっている。
最初の種もどしは、夕方前になった。
澪は料理用温度計を湯に入れ、じっと数字を見つめた。熱すぎても駄目。冷たすぎても、乾燥豆の皮がふやけにくい。最初だけ三十度前後。芽が出た後は温かい水を使わない。
「ここだけ、ぬるま湯です。芽が出た後は、温かい水を使いません」
トトが温度計を見て聞いた。
「なんで」
「豆が自分で熱を持つからです。温かい水をかけ続けると、蒸れて、ぬめって、嫌な匂いになります」
「豆草、わがままだな」
「もやしです。でも、わがままです」
エレナが水温計を覗き込んだ。
「数字で水を見るのは面白いな」
「手だけで毎回三十度や十六度を当てる自信がないので」
職人の一人も興味深そうに覗いた。
「これは便利だな。水場の温度も見られる」
「割らないでくださいね」
澪が言うと、護衛が即座にエレナの手元を見た。
「私は割らぬ」
「触る前に言っております」
澪は木札を一枚取った。
種もどし開始。
ぬるま湯。
水温確認済み。
芽が出た後は冷たい井戸水。
温水禁止。
三日後、早朝収穫予定。
書き終えた木札をトレーの横に下げると、急に本当に始まった気がした。
乾燥大豆が、ぬるま湯の中で静かに沈んでいる。まだ芽はない。白いもやしでもない。ただの豆だ。
けれど、この豆はもう、三日後の市場へ向かっていた。
夕方、リュシアが山側の仕込み小屋へ来た。
市場対応を終えたばかりらしく、少し疲れた顔をしている。それでも小屋に入ると、木樋、水温計、棚、遮光布、木札、大豆の入ったトレーを順番に見た。
しばらく黙った。
澪は少し緊張した。
リュシアは、ようやく口を開いた。
「……作ったね」
「作りました」
「工場って顔じゃないけど、仕込み小屋としては悪くない」
「そこは褒めてください」
「売れる量を決めてから褒めるよ」
やはりそこだった。
リュシアは、すでに持ってきていた木札を何枚か取り出した。
「初回は料理屋二軒。屋台一軒。家庭向けはほんの少し。侯爵家向けは試食分だけ」
澪は頷いた。
「当日使い切り」
「未加熱の翌日持ち越し禁止」
「匂いが怪しければ廃棄」
「ぬめったら廃棄」
「欲しがられても、初回は増やさない」
澪は少しだけ苦い顔をした。
「作ったのに、増やさないんですね」
「作ったからこそ、最初は絞るんだよ」
リュシアは、種もどし中の大豆を見た。
「澪、あんた今日はよく走ったね」
「走ってません」
「頭が走ってた」
澪は否定できなかった。
エレナは満足そうに小屋を眺めている。
「試験小屋としては、悪くないな」
トトが木札を覗き込んだ。
「豆草城、開城?」
「仕込み小屋です」
澪とリュシアの声が重なった。
職人たちが笑った。
六畳間に戻った澪は、畳の上で帳面を開いた。
部屋にはまだ梱包材が残っている。追加で買った大豆の袋は収納に入ったが、現代の商品が届いた後の細かい残骸は、どうしても現実に残る。
澪は最初に、大きく書いた。
異世界もやし工場。
少し見つめてから、その横に小さく書き足す。
水場の仕込み小屋。
その下に、表を作った。
仕込み日。
種もどし水温。
発芽後の水温。
散水回数。
室温。
収穫予定日。
配達先。
当日使い切り。
廃棄判断。
現代の機械工場を持ち込んだわけではない。電気なしで使えるものだけを買い、収納で運び、侯爵家の水場と職人の木樋と人手で組み直した。
それでも、一日でここまで来た。
澪は、帳面の端に小さく「ChatGPT先生、秘技ありがとう」と書きそうになり、慌てて消した。消した跡が少し残った。
異世界もやし工場は、まだ工場というより小屋だった。
けれど、澪の帳面の中では、三日後の豆草がもう冷たい水を浴び始めていた。
そこで澪は、ふと手を止めた。
「……そういえば、収納五って何が違うんだろう」
水百リットルの時は、入る量が増えたという実感があった。今回は大豆袋と棚とトレーと温度計と遮光布を押し込んだ時、収納の奥が広がった。だが、広くなっただけなのか。それとも、何か別の変化があるのか。
澪は鑑定を開き、いつもなら数字だけ見て閉じる画面を、じっと見た。
----------------------------------
篠原澪
体力:38
筋力:29
集中:51
睡眠:やや不足
鑑定:4
収納:5
商才:芽あり
衛生管理:上昇中
在庫管理:上昇中
容器管理:上昇中
水管理:上昇中
栽培管理:発生
課題進捗:完了
----------------------------------
収納、五。
その横に、小さな文字が増えていた。
----------------------------------
収納:5
容量:拡張
分類登録:安定
時間経過:外部比五〇%
温度変化:無し
----------------------------------
澪は、画面を見たまま固まった。
「……時間経過、五十パーセント」
声が小さくなった。
「温度変化、無し」
大豆袋。
水。
種もどし前の豆。
温度計。
そして、朝採りの大豆もやし。
頭の中で、それらが一斉にこちらを向いた気がした。
「これ、便利すぎるやつでは……?」
保存できる。傷みにくくできる。温度を変えずに運べる。しかも時間が半分なら、朝採りのものを少しだけ長く保てるかもしれない。
けれど同時に、澪の背中に冷たいものが走った。
便利な力ほど、管理を間違えると怖い。
リュシアの声が、頭の中で聞こえた気がした。
作ったからこそ、最初は絞るんだよ。
澪はゆっくり帳面を引き寄せた。
そして「異世界もやし工場」の下に、新しく一行を書いた。
収納内保管、要検証。
その下に、もう一行。
勝手に安心しない。
澪は、畳の上に残った段ボールを見た。
収納スキルが上がっても、段ボールは消えない。
そして便利すぎる能力が増えても、帳面の項目だけは、確実に増えるのだった。