転移の光が薄れると、足元に白く霜の降りた街道が現れた。
真壁はその場を動かず、村の方角へ目を向けた。
昨日通った南東側の道。その先には、人力で動かす可動橋が下ろされている。橋の両側には深い堀が延び、底に溜まった夜露が朝の光を鈍く返していた。
「誰だ!」
橋脇の若い村人が槍を構えた。
見張り台の男もこちらを向いたが、ヴァルトの姿に気づくと、すぐに声を上げる。
「昨日の魔術師だ!」
「真壁さんたちが戻ったぞ!」
真壁は橋の縄と横木を見た。
縄の表面には新しい擦れが増え、横木の受けには泥が付いている。
ヴァルトも地図へ意識を向けていた。
「村の周囲に赤はありません。人と家畜の数にも、大きな変化はなさそうです」
「結構」
橋の向こうからオルガが駆けてきた。
上着を羽織り、髪を後ろで束ねただけの姿だ。目の下には疲れが残っているが、昨日の切迫した色はない。
「戻ったか」
「異常は」
「狼も猪も戻ってない。北の森で何度か音はしたが、村までは来なかった」
「橋は」
「夜に2度上げた。最初は縄が片方に寄ったが、掛け直せば動いた」
「ならば、まずまずだ。橋を上げてみ給え」
オルガは村側へ振り返った。
「橋を上げるぞ! 昨日の組、持ち場へ!」
村人たちが集まる。
縄へ4人。横木の受けに2人。橋の向こうには、外を見る見張りが立った。
真壁もヴァルトも手を出さない。
「引け!」
縄が張り、橋の先端が軋みながら浮いた。
途中で右側が遅れたが、縄を持つ男が位置を変える。橋は最後まで持ち上がり、横木が受けへ差し込まれた。
縄から手を放しても、橋は落ちてこない。
「下ろし給え」
「もう下ろすのか」
「上げるだけでは、村人を閉じ込める橋になる」
オルガが鼻を鳴らし、横木を外させた。
縄が緩み、橋板は勢いをつけずに街道へ戻る。
「夜番は何組だ」
「4組。橋に2人、北に2人。途中で交代させた」
「鐘は」
「鳴らしてない。犬が一度吠えたから橋を上げたが、何も来なかった」
「見えてから動くよりはよい」
真壁は橋を離れ、堀沿いへ向かった。
ヴァルトも後に続く。
朝の冷気で表面は固くなっていたが、北側の一部では夜露を含んだ土が崩れ、堀の底へ落ちている。
「ここは少し崩れています」
ヴァルトが縁へしゃがんだ。
「深いところまでは達していません。ですが、雨が降れば広がるかもしれません」
真壁は崩れた部分だけを収納し、側面の角度をわずかに緩めた。
オルガが後ろからのぞき込む。
「埋まるのか」
「土である以上はな。昨日掘ったものが、何年も同じ形で残ると思ってはならん」
「またあんたたちが直しに来るのか」
「そのつもりはない」
真壁は立ち上がった。
「村の堀だ。次からは君たちが見つけ給え。雨の後に縁を歩けばよい」
オルガは崩れた箇所へ目を向けた。
ヴァルトは橋の縄に触れ、撚りを確かめる。毛羽立った箇所をオルガへ見せた。
「こちらも、いずれ交換が必要です」
「もうか?」
「今すぐではありません。擦れる場所は決まっています。橋を下ろしている間なら替えられます」
真壁も縄へ目を向けた。
「同じ縄を1月使えると思ってはならん。壊れてからでは遅い。替えを用意し給え」
「横木もか」
「ああ」
オルガは縄をつまみ、太さを確かめた。
「同じくらいの縄なら村にもある。横木も切れる」
「ならば問題ない」
遠くから馬の蹄と車輪の音が近づいてきた。
見張り台の男が声を上げる。
「街道から兵が来る!」
村人たちが槍や農具を取り、橋の内側へ集まる。
先頭の騎兵が掲げていた旗を見て、オルガが息を吐いた。
「ベラクルス侯爵家の旗だ」
騎兵は橋の前で馬を止めた。
後ろには兵士が十数人。工兵道具を積んだ小型荷車と、治療用品を載せた車両もある。
先頭の男が馬を下りた。
40歳ほど。革鎧の上に厚手の外套を着ている。腰には剣を下げているが、背には測量棒と巻いた縄を括りつけていた。
「この村の責任者は」
「私だ」
オルガが前へ出る。
「街道警備所へ逃げ込んだ旅人から聞いた。村が三方から襲われたとな」
「襲われた。昨日の昼までは、村が残るとも思ってなかった」
男は村内へ目を向けた。
家畜の鳴き声がし、家々から上がる煙は炊事のものだ。
次に、街道を断つ堀と可動橋を見る。
「この堀は、村で掘ったのか」
オルガが真壁とヴァルトを指した。
「あの2人だ」
男の視線が移る。
「ベラクルス侯爵家、街道砦付きの工兵長ガレスだ」
「押入商会の真壁です。こちらはヴァルト君」
「商会?」
ガレスは堀を見て、もう一度真壁を見る。
「立ち話より、先に怪我人を見てやり給え。堀は逃げません」
ガレスは一拍置き、兵へ振り返った。
「治療のできる者は村へ。2人は家畜小屋を見ろ。残りは周囲を警戒。街道警備所へ伝令を戻せ。村は無事、負傷者あり。工兵と食料を追加で寄越せとな」
兵士たちが動く。
指示を終えたガレスは、可動橋の脇へしゃがんだ。
橋板を持ち上げる支点を見て、縄の経路を追い、横木の受けを叩く。次に堀の縁へ立ち、幅と深さを目測した。
「これは、いつから造った」
「昨日の午後だ」
オルガが答える。
「昨日の午後?」
「牙猪を落とした穴があった。そこから村の周りへ伸ばした」
ガレスが真壁を見る。
「半日で、これを造ったのか」
「元からあった窪地を利用したまでだ。村全体を囲う必要もないのでね」
「普通のやり方ではないな」
「普通の方法で掘ったとは言っていない」
ガレスがヴァルトへ目を移す。
ヴァルトは崩れた土だけを収納し、堀の側面を整えた。
「収納で地面を抜いたのか」
「そうです」
「土は」
「種類ごとに分けています」
ガレスは堀の底を見下ろした。
「同じ物を周辺村にも造れば、守りは固くなる」
「同じ形を並べればよいというものではない。地形を見給え。川も崖も、使い方次第では立派な防壁になる」
ガレスは村の北側へ目を向けた。
「そのための工兵だろう」
「この村では、どこを外した」
「外側の畑と作業小屋。守ったのは人家、井戸、家畜だ」
真壁は橋を示した。
「街道を残し、橋は村人だけで動かせるようにした。私やヴァルト君がいなければ閉じられぬ橋では、用をなさん」
ガレスはオルガを見た。
「村人だけで動かせるのか」
「さっき上げた。夜にも2度使った」
「見せてくれ」
「またかよ」
「工兵に見せず、誰に見せる」
オルガはぼやきながら、村人を呼び戻した。
橋が再び持ち上がる。
ガレスは支点の動きと縄の張り方を見ながら、横木が差し込まれる位置まで確かめた。
「縄は長く持たん」
「替えを作るところだ」
「支点の木も、乾けば割れる。鉄帯を巻ければ長くなる」
ガレスは部下へ必要な金具と交換用の縄を書き留めさせた。
「後続が来るまで、私がここに残る。崩れた箇所を見て、村の者に補修を教える」
「それがよい」
「周辺村の様子も調べさせる。そちらはどうする」
「西へ行く」
オルガが近づいてきた。
「ルーデへ行くのか」
「状況を知っているのか」
「昨日、東へ逃げてきた荷車が言ってた。周りの村から人が集まって、宿場が一杯になりかけてる」
「位置は」
「地図を出す。正確じゃないが、空からなら分かる目印がある」
真壁は頷き、ガレスへ向き直った。
「この村は任せます」
「任された。戻って来た時に手直しばかりでは、工兵の面目が立たん」
「ならば、頼みます」
「言われるまでもない」
村の共同小屋に、簡単な地図が広げられた。
羊皮紙の上には、西へ延びる街道と、川らしい線、いくつかの丸印が描かれている。縮尺も方角も大まかだが、道を知るには足りた。
オルガが指を置く。
「村を出て西へ行く。川が2つに分かれるところを越えると、赤茶色のでかい屋根が見える。それがルーデの宿場だ」
「距離は」
「荷車なら半日以上。空を飛ぶなら、あんたたちの方が分かるだろ」
真壁は地図へ意識を向けた。
オルガの村と周辺の街道は映っているが、西側は途中から空白になっている。その中に、複数の赤い反応だけが浮かんでいた。
「西に反応はあります。ただ、地形がありません」
ヴァルトが言う。
「ルーデより向こうにはエルトがある」
オルガの指が羊皮紙の北西側へ移った。
「森際の木こり村だ。昨夜から、あっちで煙が上がってた。木が何本も倒れるような音を聞いた奴もいる」
「エルトから来た者は」
「まだ見てない」
ヴァルトは地図の空白を見た。
「ならば、まずルーデです」
「赤だけを追っても埒が明かん。まず宿場を押さえる」
「エルトへ先に行かなくていいのか」
「人が集まった場所を放置すれば、魔物の餌場になる。先にルーデだ」
真壁は川の分岐と赤茶色の大屋根を頭へ入れた。
「怪我人に使え」
収納からポーションの木箱を出す。
続いて不足している毛布の数を聞き、その分だけを取り出した。
「食い物は」
「昨日、家へ戻した分がある。兵も来た。今すぐ尽きるほどじゃない」
「ならば、それで持たせ給え」
王都に残した本隊用の補給まで、ここへ置く必要はない。
共同小屋を出ると、ガレスの部下が橋材を調べ、別の兵が負傷者へ薬を配っていた。オルガは村人へ毛布を運ぶよう指示している。
「また来るのか」
「必要ならば」
「今度は酒でも持って来い。助けてもらって、何も返してない」
「村が残った。それでよい」
真壁は歩き出した。
ヴァルトがオルガへ一礼し、後を追う。
2人は村の南東側、転移してきた場所まで戻った。
堀と橋から離れ、人も家畜もいないことを確かめてから、真壁が収納へ手を入れる。
空地へ4座のエアカーが現れた。
遠くにいたベラクルス兵が足を止める。ガレスも一度だけ目を向けたが、橋の点検を続けている。
「真壁さん」
ヴァルトが地図を見ていた。
「前方に、小さな反応が増えています」
「地形が見えぬ以上、赤だけ追っても仕方がない。先に宿場を確認する」
「街道をたどります」
真壁が前席へ乗り込む。
ヴァルトも後席へ座り、地図を開いたまま固定具を締めた。
機体が静かに浮き上がる。
村へ風圧を当てないよう、真壁は畑側へ離れてから高度を上げた。
オルガの村が眼下に小さくなる。
朝日に照らされた堀が村の周囲へ黒い線を引き、南東側には可動橋が架かっている。橋の脇では、ガレスと村人が縄を確かめていた。
真壁は機首を西へ向けた。
冬枯れの畑が続く。
街道には、東へ向かう荷車が何台も見えた。荷台には寝具や樽が積まれ、家畜を引く者もいる。皆、オルガの村より西から逃げてきた者たちだろう。
「街道の北側に2つ。南西に3つあります」
ヴァルトが赤の位置を告げる。
「距離は」
「近づいてはいません。南西の3つは、南へ移動しています」
「追う必要はない。村へ向かう反応だけを見給え」
「はい」
街道は林の間へ入り、やがて川沿いへ出た。
オルガの説明どおり、川は先で2つに分かれている。片方は南へ曲がり、もう片方は街道とともに西へ続いていた。
真壁は西側の流れを選ぶ。
街道上の人影が増え始めた。
荷車が途切れず同じ方向へ進み、その間を徒歩の者たちが埋めている。牛を引く者、羊を追う者、鶏籠を抱える者。荷車には家具や穀物袋、寝具が積み重ねられていた。
「見えました」
ヴァルトが前方を指す。
丘の南側に、赤茶色の大屋根がある。
その周囲へ家々と厩が集まり、街道は村の東側から中へ延びていた。
ルーデ村。
村の入口には荷車が詰まり、ほとんど動いていない。
村へ入ろうとする者の列と、満員だと聞いて戻ろうとする者が、狭い街道上で向かい合っていた。その間を家畜が塞ぎ、道から外れた畑にも人があふれている。
真壁は速度を落とした。
村の南には浅い川が流れ、北には緩い斜面がある。西の牧草地は広く開け、東側には街道が延びていた。
その街道では、牛に押された荷車が斜めに止まり、後ろの列まで動けなくなっている。
「村へ入る前から詰まっています」
「中へ押し込めば、井戸も道も塞がる。敵が来る前に、こちらが身動きできなくなるな」
真壁は村の上空を低速で回った。
宿場の馬柵は満杯だった。空き地にも牛や羊が集められ、共同井戸の周囲には長い列ができている。屋根の下へ入れなかった者たちは、壁際に毛布を広げていた。
西側の牧草地には、まだまとまった空間がある。
東側の街道脇には、機体を下ろせる空地があった。
「降りますか」
「ああ。まず道を空ける」
真壁は村の中ではなく、街道から少し離れた空地へ向けて高度を落とした。
エアカーが地面へ近づくにつれ、人々が顔を上げる。
見慣れない乗り物に、避難民の列からどよめきが起きた。
機体が土の上へ静かに降りる。
真壁は固定具を外し、扉を開けた。
目の前には、動かなくなった荷車の列と、村の入口まで続く人の群れがある。
ヴァルトもエアカーを降り、周囲を見回す。
西の空白には、赤い反応が残っていた。
真壁は街道へ向かって歩き出した。
街道の中央では、2台の荷車が互いに鼻先を突き合わせ、どちらも動けなくなっていた。
一方は村へ入ろうとしている。もう一方は、村内に空きがないと聞き、東へ戻ろうとしていた。荷台からは寝具と木箱がはみ出し、その隙間に子どもが身を縮めている。横では牛が首を振り、後ろから押された別の荷車が車輪を畑の畝へ落としていた。
「荷車を街道から退け給え。家畜は畑側へ回す。このままでは、救援も入れん」
真壁の声に、御者たちが振り返った。
「退けるって、どこへだ」
「こっちは昨日から並んでるんだぞ」
「戻る所なんかない!」
怒鳴り声が重なったが、真壁は止まらない。
斜めになった荷車の前へ立ち、街道脇の空地を指した。
「止まった荷車から動かし給え。奥へ入ろうとする者は待たせる。まず道を空けるのだよ」
「だから、あんたは誰なんだ」
御者の1人が荷台から身を乗り出す。
その横へヴァルトが立った。
「私たちは王都とヴァルディス侯爵家から、西方の救援に来ています。東の村では、すでにベラクルス侯爵家の巡回兵とも合流しました」
ヴァルトは村の入口へ視線を移した。
「責任者の方を呼んでください。その間に、街道を通れるようにします」
御者はエアカーとヴァルトの外套を見比べた後、荷車を降りた。
「分かった。だが、こいつは畑へ入れられん。車輪が沈む」
「収納します」
ヴァルトが荷車へ手を向ける。
御者と子どもを降ろし、荷を載せたまま荷車だけを一度収納すると、街道脇の固い場所へ向きを変えて出した。
御者が言葉を失う。
「次です」
ヴァルトが後ろの荷車を指した。
真壁は家畜を連れた者たちへ、街道南側の空地を使わせた。牛と羊を同じ場所へ押し込まず、綱を持つ者ごとに間隔を取らせる。逃げ出した鶏を追っていた少年には、籠を道の外へ置くよう命じた。
荷車が1台動くと、その後ろの列も少しずつ前へ詰められるようになった。
「真壁さん」
ヴァルトが小声で呼ぶ。
「村の中にも人が集中しています。井戸と厩の周囲が特に多いです」
「見れば分かるほど詰まっている。外だけ空けても意味はないな」
街道の奥から、体格の大きな男が駆けてきた。
50代ほどで、厚い上着の前を留める暇もなかったらしい。後ろからは、袖をまくった女がついてくる。女の前掛けには煤が付き、手にはまだ木杓子が握られていた。
「村長のハインだ!」
村人の1人が声を上げた。
ハインは真壁たちの前へ来るまでに、左右から何度も呼び止められた。
「井戸の水が足りない!」
「西の馬柵も一杯だ!」
「宿の裏に、また家族が来たぞ!」
「分かった、分かったから、ネラに言え!」
「私に全部回すんじゃないよ!」
木杓子を持った女が、ハインの背中を叩いた。
「寝床も鍋も増えやしないんだ。先に入れる人数を止めな!」
「追い返せば死ぬ」
ハインは街道に詰まった人々を見た。
「入れれば村が動かなくなる。どうしろというんだ」
「村の全てを守ろうとするから、何も守れなくなる。範囲を絞るのだよ」
真壁が答えた。
ハインは眉を寄せる。
「何を外せというんだ」
「まず村を見ます。井戸、食料庫、家畜、人の寝所。それ以外は後だ」
「畑も木材置き場もある。冬を越す物が全部外にあるんだぞ」
「畑は逃げはせん」
真壁は村の西側へ目を向けた。
「人と水と食料を内側へ入れ給え」
木杓子を持った女が真壁を見る。
「私はネラ。宿と厩と炊事場を預かってる。水と食事を止めるわけにはいかないよ」
「井戸と炊事場は防衛線の内側へ入れる。それを失えば、堀だけ残しても意味はない」
ネラは少しだけ目を細めた。
「堀を造るのかい」
「地形を見てからだ」
真壁はハインへ向き直る。
「村の外周を案内し給え。ネラ君は、人と家畜を街道から外す。ヴァルト君」
「はい」
「東側を空けておき給え。救援も避難も、ここを使う」
ヴァルトは頷き、街道と空地の境へ向かった。
ネラは木杓子を腰へ差し込むと、近くにいた村人を捕まえた。
「井戸の列を2つに分けな。村の者は北側、外から来た者は南側。水は同じだけ配る。家畜は東の畑へ。荷車を扱える奴を集めておくれ!」
声が通る。
ハインはまだ迷っていたが、村の入口で再び荷車がぶつかる音を聞き、踵を返した。
「こっちだ。外を回る」
ルーデ村の南には、幅の狭い川が流れていた。
深くはないが、岸はぬかるみ、荷車がそのまま渡れる場所は限られている。北側には緩い斜面が続き、その先で森へつながっていた。
真壁とヴァルトは地図と目の前の地形を見比べながら歩く。
「南は、この川を使えます」
ヴァルトが岸を見下ろした。
「水量は少ないですが、牙猪が勢いを保ったまま越えるのは難しいでしょう」
「川底を少し削れば、さらに使える」
「北側は斜面ですね」
「深い堀を掘る必要はない。下りてくる場所を西へ寄せればよい」
ハインが2人の後ろを歩きながら、村の外側を指した。
「西には牧草地がある。羊を出す時に使ってる。あそこまで囲えないのか」
「囲わない」
「冬の餌も積んである」
「移せる物は内側へ移し給え。動かせぬ物まで守ろうとすれば、肝心の村が広がりすぎる」
「牧草を失えば、家畜が飢える」
「人が死ねば、家畜の世話をする者もいなくなる」
真壁は足を止めた。
西側の牧草地は大きく開けている。森も川もなく、魔物が速度を落とす物はない。村の住居区、井戸、共同倉庫、厩を囲うなら、ここを切るのが最も早かった。
「西を止める」
真壁は地面へ視線を落とした。
「南は川。北は斜面を使う。東は街道を残す」
「東から魔物が来たら」
ハインが聞く。
「入口を真っ直ぐにはしない」
真壁は街道の左右を指した。
「両側から短い堀を内へ伸ばす。鉤形に曲げれば、勢いをつけたまま入れん。閉じる時は荷車を使い給え」
「荷車を門にするのか」
「空荷にして横へ並べ、車輪を外す。丸太と土袋で押さえれば、狼や猪が押した程度では動かん」
ヴァルトが東側へ目を向ける。
「橋を造るより早いですね。街道もそのまま使えます」
「ここでは可動橋が詰まりを作る。村ごとに同じ物を造る必要はない」
真壁はハインを見る。
「守る範囲を決め給え。住居、井戸、倉庫、厩、炊事場だ」
ハインは西側の牧草地と村内を何度も見比べた。
やがて、奥歯を噛むように口を閉じる。
「分かった。牧草と木材は運べるだけ運ぶ。外の小屋は捨てる」
「よろしい」
「何人要る」
「人は多いほどよい。ただし、掘るのは私とヴァルト君だ」
ハインは真壁の顔を見た。
「2人で?」
「昨日もそうした」
ヴァルトが穏やかに補足する。
「村人の皆さんには、縄を張り、近づく人を止めてもらいます。入口に使う荷車と丸太も必要です」
「ネラに集めさせる」
ハインは村へ向けて走り出した。
真壁とヴァルトは西側の牧草地へ向かった。
ヴァルトが境界を張ると、牧草地の一角に淡い光の線が現れた。
人と家畜が近づいてはならない区域。東側へ続く通路。村内へ戻す土を置く位置。真壁とヴァルトは互いの担当範囲を地図で確認する。
「私は北西側へ回ります」
ヴァルトが斜面を見る。
「斜面を下りてきた魔物が、こちらの堀へ流れるようにつなぎます」
「よろしい。こちらは西を切る」
真壁は牧草地の表面へ片手を向けた。
地面が帯状に消える。
土煙も、大きな音もない。草の根ごと表土が切り取られ、その下の褐色の土が露出した。
真壁は表土と下層土を別々に収納する。
続いて深い部分を抜き、人の頭が隠れるほどの深さと、牙猪が越えにくい幅を取った。反対側は、落ちた勢いのまま駆け上がれない角度へ削る。
一度に長く抜かず、地図上で人と家畜の位置を確認しながら区切っていく。
少し離れた北西側では、ヴァルトも地面を収納していた。
斜面下に段差が生まれ、その先が西側の堀へ向かって曲がっていく。真壁が一直線に掘るのとは違い、地形へ沿う滑らかな線だった。
「北側を、もう少し内へ曲げます」
ヴァルトが声を上げる。
「斜面を下りた魔物が西へ流れます」
「よろしい。こちらへつなぎ給え。魔物の進路は西へ絞る」
「西側の線と重なるところまで掘ります」
「隙間だけは残すな。魔物というものは、こちらの都合の悪い所から入ってくるのでね」
ヴァルトがわずかに笑い、再び地面へ手を向けた。
村側ではハインが縄を張り、見物に来た子どもたちを追い返している。
「近づくな! 落ちたら引き上げられんぞ!」
「父ちゃん、あれ、土が消えてる!」
「見れば分かる! 家へ戻れ!」
東側からネラの声も聞こえてきた。
「空の荷車はこっちだ! 荷物があるなら降ろしな! 木こりは丸太を持って入口へ!」
避難民の中から、斧を背負った男たちが出てくる。
村人の1人が顔をしかめた。
「余所者のために、こっちの荷車まで出すのか」
避難してきた木こりが丸太を肩へ担いだ。
「なら俺たちが運ぶ。斧も腕も置いてきちゃいない」
「壊したら弁償できるのか」
「壊れないように使うんだろうが」
2人の声が強くなる。
真壁は堀の縁から顔を上げた。
「話は後だ。丸太を運び給え」
村人は顔をしかめたまま、丸太の反対側へ肩を入れた。
木こりも礼は言わない。
足並みは揃っていなかったが、丸太は入口へ動き始めた。
ネラが大鍋の方角を指す。
「働いた者から食べろ! 村の者も、外から来た者も同じ鍋だよ!」
別の避難民は荷車から寝具を降ろし、村人と一緒に車輪を外す。女たちは古い袋へ土を詰め、子どもたちは空の水桶を炊事場へ運んでいた。
ハインは井戸の列を村人と避難民の混成に組み直し、見張り役にも双方から人を出させた。
堀は西側から北西へつながり始めている。
真壁は地図で施工線を確かめた。
あと少しでヴァルトの掘った部分と重なる。
その時、北西側の見張りが声を上げた。
「人だ!」
周囲の手が止まる。
「森側から人が来るぞ!」
ヴァルトは収納を止め、境界の一部を開いた。
「何人ですか」
「5人……いや、6人! 子どもがいる!」
「通路を空けてください!」
北西側の作業員が縄を外し、人が通れる幅を作る。
しばらくして、森へ続く脇道から数人の男女が現れた。
先頭の女は泥にまみれ、背中に子どもを背負っている。上着の袖には血が付いていたが、本人のものか、背負っている子どものものか分からない。
「エルトの者だ!」
ハインが駆け寄る。
女は村へ入ったところで膝をつきかけた。
ネラが腕を取る。
「子どもを渡しな」
「この子を……先に」
「分かってる。あんたも座れ」
女は背負っていた子どもをネラへ預けた。子どもの顔は青白いが、目は開いている。
ヴァルトがポーションを持って近づいた。
「怪我は」
「私は、擦っただけです」
女は息を整えようとしたが、言葉が途切れる。
「村に……まだ人が」
真壁が歩み寄る。
「名前は」
「サーラです。エルト村の」
「残っている人数は」
「村長さんと、歩けない年寄りと、怪我をした人が……全部で10人を少し超えるくらいです」
「兵は」
「いません。木こりが何人か残っています」
ヴァルトが水を差し出す。
サーラは一口だけ飲み、両手で器を握った。
「狼が来たんです。でも、村を襲いに来たんじゃない」
「どういうことですか」
「森の奥から走ってきて、村を抜けて、そのまま南へ逃げました。私たちのことなんか見てなかった」
ヴァルトが真壁を見る。
真壁はサーラへ視線を戻した。
「狼の後ろに、何か見えたか」
「姿は見てません」
サーラは首を振った。
「でも、木が倒れて……何本も続けて。地面を何かが擦るような音がして、村の皿まで揺れました」
「音はどちらから」
「西の森です。伐採路より、もっと奥から」
「最後に聞いた場所は」
「村を出る時も、まだ近づいてました」
真壁は地図へ意識を向けた。
ルーデ村の西側から先は、地形のない空白が広がっている。その中に、大きな赤が1つ浮かんでいた。
作業を始めた時よりも、わずかに東へ寄っている。
「大きな反応が先ほどより東へ動いています。周囲の小さい反応は南と東へ散っています」
ヴァルトも同じものを見ていた。
「断定するには材料が足りんな。だが、サーラ君の話と無関係とも思えん」
サーラが真壁たちを見上げた。
「助けに行ってくれるんですか」
「行く」
ヴァルトが答える。
「真壁さん、すぐに向かいますか」
真壁は掘りかけの西側を見た。
堀は北西側とまだ完全につながっていない。東の入口も、荷車を並べただけで固定が終わっていない。
「今ここを離れれば、避難民を一か所へ集めて敵に差し出したも同然だ。先に閉じる」
サーラの顔が曇る。
真壁は彼女を見る。
「半端な村をもう1つ増やすつもりはない。ここを閉じ次第、エルトへ向かう」
サーラは唇を結び、頷いた。
「道を教えます」
「その前に休み給え。道は逃げん」
ネラがサーラの肩を抱き、炊事場へ連れていく。
真壁とヴァルトは堀へ戻った。
西側と北西側の堀がつながった時、昼を少し回っていた。
真壁は接続部を歩き、幅の狭い場所がないか確かめる。ヴァルトも反対側から進み、斜面との境を整えていく。
「こちらは終わりました」
「東を閉じる」
村の入口では、荷車が鉤形に並べられ、すでに車輪を外されていた。荷台の下には、固定用の丸太が差し込まれている。
村人と避難民が土袋を積んでいた。
ハインが真壁へ歩み寄る。
「並べたが、これでいいのか」
真壁は荷車の角度を見た。
「1台目をもう少し内へ。隙間を人が通れる幅だけ残し給え」
「閉じたら、人が出られない」
「開閉の責任者を決め給え。皆でやる、などという仕事ほど当てにならんものはない」
「責任者と交代役を置く」
「それでよい」
ハインは村人の中から2人を指名した。
ネラは避難民の荷車持ちを呼ぶ。
「こっちからも2人出すよ。村の者だけに任せて、荷車の扱いを間違えられちゃ困る」
「避難民に門を任せるのか」
ハインが言う。
「自分たちも内側にいるんだ。開けたまま逃げやしないよ」
ハインは一瞬黙り、頷いた。
荷車を動かす者が決まる。
一度、入口を完全に閉じる。
車輪を外し、丸太を差し、土袋で押さえる。閉鎖が終わるまでの時間をヴァルトが測った。
「これなら、村人だけでも間に合います」
「今度は開ける」
真壁の指示で、固定を外す。
最初は丸太が引っかかったが、荷車持ちが角度を変え、通路を開けた。2度目には、最初より早く動かせた。
「夜は閉じろ。昼も見張りを外すな」
真壁はハインへ言った。
「西と北西の赤が近づいたら、鐘を鳴らす。入口を閉じ、家畜を内側へ寄せ給え」
「井戸と食事は」
「ネラ君に任せる」
ネラが腕を組む。
「最初からそのつもりだよ」
真壁は共同倉庫前へ移動した。
収納から保存食を取り出す。
すぐに食べられる硬パンと乾燥肉。共同炊事へ回す麦と豆。ポーションと、数を絞った毛布。
積み上がった物資を見て、ネラが数を目で追う。
「これで、次の荷が来るまで持つのかい」
「西には、まだ取り残された者がいる。ここへ置けるのは次の補給までの分だ」
「その次は」
ハインが尋ねる。
「不足が見えた時点で、ベラクルス侯爵家へ知らせ給え。黙って飢えることだけは許さん」
「街道警備所へ伝令を出す」
「避難民の人数と、残った食料の量も書かせるのだよ。足りないとだけ言われても、何を運べばよいか分からん」
ハインは若い村人を2人呼び、伝令の準備を命じた。
避難民の人数。
怪我人の数。
食料の残量。
エルト村に残っている者たち。
堀と入口を造ったこと。
必要な兵、工兵、治療要員。
ネラは物資を倉庫へ運ばせ、子どもと怪我人へ先に配る分を分け始めた。
「村の人数は今日中に数え直す」
ハインが言った。
「井戸の順番も決める。家畜は東側へ寄せる」
「よろしい」
「戻ってくるのか」
「必要ならば戻る。だが、君たちが動いているなら、その分こちらも先へ進める」
ハインは完成した堀の方角を見た。
「分かった。ここは任せろ」
真壁は頷き、エアカーを置いた東側の空地へ向かった。
サーラは炊事場の脇で待っていた。
子どもは毛布に包まれ、温かい湯を飲んでいる。サーラ自身の腕にも布が巻かれていた。
地面には、ネラから借りた木片が置かれている。
「ここがルーデです」
サーラは木片で土へ線を引いた。
「北西へ行くと、川が一度西へ曲がります。その先に森の切れ目があって、木を運ぶ伐採路があります」
「道は上から見えるか」
「森の中では見えにくいです。でも、伐採路の入口に大きな切り株があります。村の屋根は黒くて、煙突が2本ある家が一番高いです」
「川の曲がり、森の切れ目、大きな切り株、2本の煙突」
ヴァルトが繰り返す。
サーラは頷いた。
「村の東側に広い木材置き場があります。空からなら、そこが見えると思います」
「十分だ」
真壁はエアカーへ向かった。
まずエアカーで村へ入る。転移を使うのは、安全な場所と負傷者の数を確かめてからだ。
「私も行きます」
サーラが立ち上がった。
「子どもを置いてか」
「道を間違えたら」
「目印は聞いた。君はここに残り給え」
「でも、村には」
「戻った者がいると知れば、残った者も無茶をする。君まで連れて戻り、また負傷者を増やすつもりはない」
サーラは言葉を失った。
ヴァルトが静かに続ける。
「村へ着いたら、残っている方へ、あなたたちがルーデ村まで逃げ切ったと伝えます」
「……お願いします」
「承りました」
真壁が前席へ乗る。
ヴァルトも後席へ乗り込み、地図を開いた。
背後では、ハインたちが入口の閉鎖をもう一度試していた。荷車の車輪が外され、丸太が差し込まれる。堀の縁では、村人と避難民が見張り位置を確認している。
ネラは大鍋へ麦と豆を入れ、配る順番を怒鳴っていた。
「地形は、まだ出ません」
ヴァルトが地図を見た。
空白の奥には、大きな赤が浮かんでいる。
「地図になければ、上から探せばよいだけのことだ」
「大きな反応は、まだ動いています」
「位置を見失わないようにし給え。村を探している間に、向こうから来られては面白くない」
「はい」
エアカーが地面を離れた。
避難民の列と、完成した堀が眼下へ下がっていく。東側の鉤形入口では、横向きに並べられた荷車が村への直線を塞いでいた。
真壁はサーラから聞いた川の曲がりを探し、機首を北西へ向ける。
森の向こうから、木が倒れる低い音が続けて響いた。