押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第224話 巨人の投げるもの

 

 ルーデ村の朝は、まだ霜の白さを残していた。

 

 木柵の向こうでは、炊き出しの鍋から立つ湯気が、薪の煙と混じりながら低く流れている。ベラクルス侯爵家の兵たちは、エルトへ向かう荷を馬へ載せていた。鞍袋の紐を締める音に、村長が呼び掛ける声が重なる。

 

 村外れの補給物資置き場では、ロルフが木箱の底から魔石を取り出していた。

 

 隣に立つ兵士が、受け取った魔石を間違った箱へ入れかける。

 

「そちらではありません」

 

「あ、すまん」

 

 ロルフは箱を半回転させ、焼けた魔石を示す印を兵士の側へ向けた。それから掌に残った2つを、朝日に透かして見比べる。

 

「こちらは再充填できそうです。こちらは中まで変色しています」

 

 真壁は差し出された魔石を受け取り、割れた面へ親指を当てた。

 

「前者は残し給え。後者は持ち帰る」

 

「結界用ばかり減っています」

 

「昨日はよく働いてもらったからな」

 

 ヴァルトは肩を回した。

 

 昨夜まで残っていた鈍さは消えている。指先へ魔力を集めると、薄い境界が掌の上へ崩れずに立った。

 

 自分へ鑑定を向ける。

 

 疲労度は、浄化を掛けた直後よりもさらに下がっていた。

 

「どうかね」

 

「問題ありません」

 

 ヴァルトは境界を閉じた。

 

「食事と睡眠を挟んだ分、昨日より動けます」

 

「結構」

 

「真壁さんも眠ったのですね」

 

 ロルフの手が止まった。

 

 真壁は魔石を箱へ戻す。

 

「私も寝る」

 

「はい。存じています」

 

 ヴァルトがすぐに返すと、ロルフは蓋を閉じた。隣の兵士だけが、何か聞き逃したのかという顔をしている。

 

 真壁は西の森へ目を向けた。

 

「空白地帯を見てくる」

 

「地図の反応が避けていた所ですね」

 

「ああ。何があるのか、上から確かめる」

 

 ロルフは帳面を開いた。

 

「戻りはいつ頃です」

 

「昼までには一度戻る。遅れても捜索は頼まん」

 

 近くで毛布を抱えていた兵士が、ちらりとこちらを見る。

 

 ヴァルトは声を落とした。

 

「こちらから戻れます」

 

 ロルフは帳面の端へ昼と書き、鉛筆を耳へ挟んだ。

 

「分かりました。補給はこのまま進めます」

 

「先遣兵には、西へ踏み込ませぬよう伝え給え。大きな反応が残っている」

 

「理由は?」

 

「空から確かめている、とだけ」

 

 ロルフはそれ以上尋ねず、次の箱へ手を伸ばした。

 

 真壁とヴァルトは木柵沿いに歩き、村を離れた。

 

 背後では、兵士が馬を引き出し、村長が干し肉の包みを鞍袋へ押し込んでいる。炊き出しの匂いも、薪の割れる音も、森へ近づくにつれて遠くなった。

 

 見張り台が木々へ隠れたところで、ヴァルトは地図を開く。

 

「街道にも森側にも、人はいません」

 

「では使おう」

 

 認識不明化の境界魔道具を起動する。

 

 今日は黒いローブを出さない。名乗る相手も、芝居を見せる相手もいなかった。顔と声が記憶へ残らなければ足りる。

 

 真壁が収納からエアカーを出した。

 

 銀色の車体が朝日を弾き、霜の上へ長い影を落とす。

 

 ヴァルトは助手席へ乗り込み、予備の魔石と結界魔道具へ目を走らせた。真壁が車体を浮かせると、草に付いた霜が風に散った。

 

「今日は見るだけだ」

 

「見て、戻る」

 

「それで十分だ」

 

 エアカーは木々の頂を越え、西へ向かった。

 

 

 

 

 

 森の上には、道標がなかった。

 

 丘の起伏に沿って樹冠がうねり、湿地の上だけ薄い霧が残っている。倒木の帯が木々の間を茶色く裂き、露出した岩には白い霜が張りついていた。

 

 真壁は樹冠から離れすぎない高さを保って進む。

 

 ヴァルトの地図には、歩いて登録したルーデ周辺の地形だけが残っていた。その先は暗く曖昧なままだが、敵性反応だけは赤く浮かんでいる。

 

 西へ進むほど、その赤が左右へ分かれ始めた。

 

「中央を避けています」

 

 ヴァルトは地図を真壁の側へ傾けた。

 

 北へ回る群れと、南へ逸れる群れ。その間だけ、丸く抜けている。空白へ近づいた反応も、途中で向きを変えていた。

 

 真壁は少し南へ回る。

 

 森の下には、泥で潰れた獣道が東へ伸びていた。

 

 若木は同じ方向へ倒れ、ぬかるみには大小の蹄跡が重なっている。狼に似た足跡が猪の跡を踏み、その上を別の爪跡が横切っていた。

 

「牙猪だけではないな」

 

「同じ道を、何種類も通っています」

 

 獣道の脇に、枝を組んだ粗末な小屋が残っていた。

 

 屋根は半分抜け、入口には割れた器が転がっている。石を積んだ炉も、寝床に使った枯れ草も残っていたが、皮袋や食料らしい物は見当たらない。

 

 小屋から東へ、重い物を引きずった跡が続いていた。

 

「ゴブリンの住処でしょうか」

 

「そうだろうな」

 

「持てる物は持ち出しています」

 

「慌ててはいるが、昨日今日ではない」

 

 小屋の屋根を、黒い影が横切った。

 

 片側の翅だけが大きい。羽ばたくたびに身体が傾き、何度も梢へ触れながら、それでも東へ飛び続けている。

 

 その下では、鱗のある長い背が木々の間を同じ方向へうねっていた。

 

 真壁は高度を少し落とした。

 

 枝へ絡んだ灰色の毛が風に揺れ、その下には蹄跡と小さな足跡が泥の中で混じっている。

 

 動物型と亜人型が通った跡はある。

 

 だが、生きた反応は見えなかった。

 

「狼も猪もいません」

 

「地図にも残っていないな」

 

 ヴァルトは外周を避ける赤い反応へ目を戻した。

 

 森の音も薄くなっていた。

 

 ルーデ近くでは聞こえていた鳥の声が消え、枝の間を走る小動物の気配もない。代わりに、遠くで硬い殻が木へ当たる乾いた音がした。

 

 右手の樹冠が揺れる。

 

 巨大な甲虫が幹へぶつかり、翅を広げ直した。左右の翅が揃っておらず、真っすぐ飛べない。木へ触れるたびに身体を傾け、それでも空白地帯から離れようとしていた。

 

 別の倒木の上を、脚の多い影が這っていく。

 

「残っているのは、虫型や爬虫類型ばかりですね」

 

 ヴァルトの声に、真壁は答えなかった。

 

 前方の森の色が変わっていた。

 

 黒紫色の靄が木々の根元へ溜まり、風に押された上側だけが東へ流れている。岩の割れ目からは細い筋が立ち上がり、流された分を下から補っていた。

 

 枝や葉にも薄い膜が付着し、朝露とは違う鈍い光を返している。

 

 倒木の陰には、雪が細く残っていた。

 

 黒紫色の靄は、その白い上へ差しかかると急に低くなり、雪面を這うように流れている。

 

 真壁は一度だけ、そちらへエアカーを傾けた。

 

 前方で木々が大きく開けたため、そのまま視線を戻す。

 

 ヴァルトは魔素へ意識を向けた。

 

 胸へ重い布を押し当てられたような感覚がある。息はできる。それでも、無意識に呼吸が浅くなった。

 

「濃くなっています」

 

「中央へ流れているのかね」

 

 ヴァルトは靄の動きを追う。

 

 上側は風に運ばれているが、木の根元では新しい靄が次々と湧いていた。岩の隙間でも、暗い紫が脈を打つように増えている。

 

「逆です。下から上がっています」

 

 エアカーが少し高くなる。

 

 森の奥に、円形の窪地が現れた。

 

 木々は内側から押し倒されたように外へ傾き、中央では黒い岩盤が剥き出しになっている。太い亀裂が放射状に走り、その隙間から黒紫色の靄が噴き上がっていた。

 

 風が吹いても、窪地の底だけは暗い。

 

「空白の中心か」

 

「反応は、あの周囲を避けています」

 

 ヴァルトは地図を広げた。

 

 大きな赤い反応が、窪地の中央に留まっている。

 

 その周りを、小さな反応が動いていた。

 

 真壁は速度を落とし、窪地の縁に沿って機体を滑らせる。

 

 崩れた崖の一部が、動いた。

 

 

 

 

 

 岩壁に見えていた塊が持ち上がり、太い腕が亀裂へ突っ込まれた。

 

 泥が大きく盛り上がる。

 

 黒い節のある脚が何本も地表へ飛び出し、亀裂の中でもがいた。巨大な手がそれを掴み、まだ半分も這い出していない虫型魔物を引き抜く。

 

 柔らかな甲殻が伸び、泥と黒紫色の液が飛び散った。

 

 虫型魔物は顎を開き、脚を激しく動かす。

 

 腕の持ち主が、伏せていた胴を起こした。

 

 肩が樹冠を割る。

 

「人型……」

 

 ヴァルトが言い終える前に、それは立ち上がった。

 

 収納してある木喰い巨人の倍近い。

 

 肩幅も胸郭も大きく、長い腕は膝より下まで届いている。脚は木の幹ほど太く、一歩動くだけで岩盤の隙間から泥が押し出された。

 

 外皮には岩と硬化した泥が幾重にも固着し、その隙間へ巨大な甲虫の殻や爬虫類の鱗が食い込んでいる。

 

「木喰い巨人より大きいな」

 

 人型の魔物は、掴んだ虫型魔物の頭部を口へ運んだ。

 

 殻の割れる音が窪地へ響く。

 

 虫型魔物の脚は、胴の半分が口へ消えてからもしばらく動いていた。

 

「食べています」

 

「そのようだ」

 

 足元には、巨大ムカデの殻がいくつも積もっている。

 

 泥の間から蛇に似た骨が突き出し、半透明の翅が風に煽られて地面を叩いていた。

 

 人型の魔物は食べ残した殻を捨て、再び岩盤へ片膝をついた。

 

 別の亀裂へ手を入れる。

 

 その間に、足元の泥が膨らみ始めた。

 

 黒紫色の靄が地面へ巻きつき、泥の表面へ筋を作る。薄い膜が裂け、中から甲虫に似た頭部が現れた。

 

 片側の角だけが長い。

 

 濡れた翅は身体へ貼りつき、脚の数も左右で違っている。

 

 卵を破った様子はない。

 

 泥の塊だったものが、輪郭を持ち、脚を動かし始めていた。

 

「……生まれている」

 

 ヴァルトは窓の縁を掴んだ。

 

「巣穴から出てきたのではないな」

 

「魔素が土を巻き込んでいます」

 

 甲虫型魔物が、不揃いな脚で立ち上がる。

 

 人型の魔物は、亀裂から引き抜いた爬虫類型の魔物を片手で押さえていた。太い胴が腕へ巻きつき、長い口が外皮へ噛みつこうとする。

 

 人型の魔物は、その頭を岩へ打ちつけた。

 

 一度目で泥が跳ね、二度目で岩の角が欠ける。

 

 動きが鈍ったところで、首から噛み切った。

 

 その足元を、先ほど生まれた甲虫型魔物が抜けていく。

 

 岩の隙間からは、小型のムカデが3体這い出していた。

 

 2体が森へ向かう。

 

 残った1体だけが、人型の魔物の足に踏まれ、甲殻を潰された。

 

 人型の魔物は足元を見なかった。

 

 手にした大型の爬虫類型を食べている。

 

 ヴァルトは地図へ目を落とした。

 

 窪地の中央に小さな赤が増える。

 

 1つは大きな反応へ近づき、そのまま消えた。

 

 別の2つは外周へ向かい、その先にいた別種の反応が東へ動き始める。

 

「外へ抜けた2体の先で、別の反応が動きました」

 

 真壁は、森へ消えた小さな赤を追うように機体を横へ流した。

 

 巨体は追わない。

 

 別の亀裂へ手を伸ばし、泥の中から現れかけている大型個体へ向かっている。

 

「追わんか」

 

「大きな方を選んでいるようです」

 

 ヴァルトは地図と窪地を交互に見た。

 

 小さな反応がまた1つ、森へ入った。

 

 その外側で、別の赤が東へ向きを変える。

 

 真壁は窪地から距離を保ったまま、巨体の頭部と足元の亀裂を見比べている。

 

「もう少し見たい」

 

 ヴァルトは返事の代わりに、車体の側面へ結界をもう1枚沿わせた。

 

 真壁の視線が、人型の魔物へ定まる。

 

 

 

 

 

 真壁が鑑定を向けた。

 

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【鑑定結果】

 

 名称:不明

 種族:巨人種

 全高:約18m

 特性:魔力感知

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 表示が出た瞬間、巨人の顎が止まった。

 

 口元で暴れていた多足魔物を掴んだまま、動かなくなる。

 

 窪地の靄が、巨人の身体へ引かれるように揺れた。

 

 ヴァルトの皮膚へ、細い針を当てられた感触が走る。

 

「気づかれました」

 

 巨人が顔を上げた。

 

 泥と甲殻に覆われた顔の奥で、2つの目がエアカーを捉える。

 

 距離があっても、視線は迷わない。

 

 巨人は手にしていた多足魔物を両手で持ち直した。

 

 長い胴がしなり、何本もの脚が空を掻いている。

 

 巨人が片脚を引いた。

 

 肩が大きく後ろへ回る。

 

「よけてください、真壁さん!」

 

 エアカーが右下へ滑った。

 

 ヴァルトは前面結界を斜めに置き、側面へもう1枚を重ねる。

 

 巨人の腕が振り抜かれた。

 

 多足魔物が空へ放たれる。

 

 石のようには飛ばなかった。

 

 長い胴をくねらせ、脚を振り回しながら回転している。飛ばされている最中にも顎を開き、何かへ噛みつこうとしていた。

 

 朝日を受けた甲殻が、回るたびに白く光る。

 

 エアカーが急旋回する。

 

 真正面は外れた。

 

 多足魔物の頭部が、斜めに張った結界へ激突した。

 

 轟音とともに結界面が深くたわむ。

 

 ヴァルトの腕へ、壁ごと押し込まれるような重さが返ってきた。結界は巨体を左へ逃がしたが、遅れて振られた腹部が車体側面を捉えた。

 

 白い光が視界を埋める。

 

 機体が横へ回された。

 

 空と森が入れ替わり、固定具が一斉に鳴る。ヴァルトの身体が座席へ押しつけられ、息が途中で止まった。

 

 外では、多足魔物の脚が結界へ触れ、硬い音を連続して立てている。

 

 足元から低い異音が続いた。

 

 浮遊制御の表示が1つ消え、車体の片側が沈む。

 

「高度が落ちます」

 

「下を頼む」

 

 ヴァルトは車体の下へ結界を回した。

 

 梢が近づき、細い枝が面へ触れて左右へ弾かれる。太い枝が当たるたび、ヴァルトは結界をずらし、幹を横へ逃がした。

 

 葉が窓へ張りつき、後ろへ飛んでいく。

 

 窪地の方で、森が大きく揺れた。

 

 ヴァルトが振り返る。

 

 巨人は追ってきていない。

 

 足元から別の爬虫類型魔物を掴み上げ、こちらへ身体を向けていた。太い尾が腕へ巻きつき、長い口が何度も開閉している。

 

 巨人がまた片脚を引く。

 

「次が来ます」

 

「十分だ。降りるぞ」

 

 真壁は窪地から離れ、森の切れ間へ向かった。

 

 高度はすでに樹冠より低い。

 

 左右から太い幹が迫り、枝が結界へ次々と触れていく。前方の木々が途切れ、その向こうに倒木の重なった狭い平地が見えた。

 

 エアカーはそこへ滑り込んだ。

 

 

 

 

 

 樹冠の下へ入ると、光が急に暗くなった。

 

 空から平らに見えた地面は、低木と倒木に埋まり、折れた幹が斜めに突き出している。

 

 ヴァルトは前面結界を斜めに立てた。

 

 低木が左右へ押し分けられ、湿った葉が窓へ張りつく。細い幹が折れ、乾いた音が車内まで響いた。

 

 車体の底が地面へ触れる。

 

 土を削る重い音が続いた。

 

 エアカーは片側へ傾き、倒木の脇を滑る。泥と枯れ葉が跳ね上がり、車体へ叩きつけられた。

 

 後部が地面へ落ち、もう一度大きく揺れる。

 

 長い溝を残して、ようやく止まった。

 

 揺れが収まっても、ヴァルトの身体にはまだ横へ回されている感覚が残っていた。

 

 屋根へ枝が落ちる。

 

 遠くで、硬い脚が倒木を擦る音がした。

 

「動けるかね」

 

 ヴァルトは右手を握り、足へ力を入れた。

 

「はい。真壁さんは」

 

 真壁は歪んだ扉へ肩を当てる。

 

「先に出よう」

 

 扉は途中で引っかかった。

 

 ヴァルトが外側へ結界を押すと、金属の擦れる音を立てながら開いた。

 

 冷たい空気が車内へ流れ込む。

 

 焦げた匂いと、掘り返された湿った土の匂いが混じった。

 

 2人は車外へ出る。

 

 側面は内側へ歪み、車体の下から薄い煙が上がっていた。泥が窓の高さまで跳ね、折れた枝が後部へ挟まっている。

 

 ヴァルトが機体へ魔力を通す。

 

 反応は返ったが、車体は浮かなかった。

 

「飛べません」

 

「修理は秘密基地だな」

 

 真壁は周囲を一度歩いた。

 

 外れた部品は見当たらない。

 

 ヴァルトは地図を開く。

 

 窪地中央の大きな赤は、同じ位置に留まっていた。

 

 巨人は追ってきていない。

 

 ただし、先ほど投げられた多足魔物は森の中を動いている。衝突でも死ななかったらしく、大きな赤が不規則に進んでいた。

 

 倒木の向こうからは、別の反応が3つ近づいている。

 

「転移します」

 

 真壁はエアカーへ手を向けた。

 

「エアカーを先に収める」

 

 損傷した車体が収納へ消えた。

 

 地面には、長い滑走痕と、左右へ折れた低木だけが残った。

 

 倒木の向こうで、黒い甲殻が見える。

 

 何本もの脚を持つ魔物が、幹へ身体を乗り上げようとしていた。その後ろにも、細い脚が動いている。

 

「周囲に人はいません」

 

 ヴァルトは転移先をルーデ村外れへ合わせた。

 

「戻ろう」

 

 転移光が2人の足元から広がる。

 

 虫型魔物が倒木を越え、滑走痕へ脚を掛けた時には、人影もエアカーも消えていた。

 

 

 

 

 

 ルーデ村外れへ戻ると、朝より高くなった陽が木箱の影を縮めていた。

 

 ヴァルトは認識不明化を維持したまま地図を開く。

 

 転移拠点の周囲に人はいない。

 

 ロルフは少し離れた物資置き場で、補給担当の兵士と箱を運んでいた。先遣兵の一部はすでに出発したらしく、朝より馬の数が減っている。

 

 2人は境界魔道具を止め、木柵沿いに歩いた。

 

 ロルフが先に顔を上げる。

 

 真壁の外套には細い枝が絡み、ヴァルトの袖には泥が擦れていた。髪にも細かな葉が残っている。

 

「何かありましたか」

 

「エアカーを壊された。収納してある」

 

 ロルフは抱えていた水差しを箱へ置いた。

 

 真壁の外套からヴァルトの袖口へ視線を移し、血がついていないことを見てから、近くの木箱を裏返す。

 

「座りますか」

 

「先に報告する」

 

「水も先です」

 

 木杯が2つ置かれた。

 

 真壁は腰を下ろさなかったが、水は受け取った。ヴァルトは箱へ座り、冷たい水を口へ含む。

 

 結界を何枚も重ねた腕へ、遅れて鈍さが戻っていた。木杯を持つ指は震えない。ただ、肘を曲げるたびに重さが残る。

 

「何がいたのです」

 

「人型だ。木喰い巨人の倍はある」

 

 ロルフが水差しを置く手を止めた。

 

「倍ですか」

 

「ああ。肩が木の上へ出ていた」

 

 ロルフは西の森へ目を向ける。

 

 木柵の向こうには、いつもと変わらない森の端しか見えない。

 

「それが森の魔物を追い出したのですか」

 

 ヴァルトは地図を開いた。

 

「巨人より、足元です」

 

「何があったのです」

 

「泥の中から、虫が形になりました」

 

 ロルフの手が止まる。

 

「生まれた、ということですか」

 

「そう見えました。爬虫類型も混じっています」

 

 中央の大きな赤の周囲で、小さな反応がまた1つ増えた。

 

 しばらく窪地を動いた後、外側へ向きを変える。

 

 その先にいた別の赤が、接触する前に東へ動き始めた。

 

「巨人は何をしていたのです」

 

「食べていた」

 

 真壁は木杯を箱へ戻した。

 

「鑑定を向けたら、手に持っていた魔物を投げてきた」

 

 ロルフは真壁の顔を見直した。

 

「……魔物をですか」

 

「ああ。ちょうど持っていた」

 

 ロルフは一度口を開き、何も言わずに閉じた。

 

「それで、エアカーが壊れたのですね」

 

「そういうことだ」

 

 ヴァルトは地図上の大きな赤ではなく、その周りを動く小さな反応へ指を置いた。

 

「巨人は中央から動いていません。ただ、こちらは増えています」

 

「外へ出れば、また村の方へ来ますか」

 

「可能性はあります」

 

 真壁は先遣兵の出た街道へ目を向けた。

 

「エルトへ向かった者へ、空白地帯へ近づかぬよう伝え給え。道と村だけを見ればよい」

 

「何と伝えます」

 

「大型の敵性反応と、新しい魔物を確認した。それで足りる」

 

 ロルフは補給担当の兵士を呼び、指揮官へ渡す言葉を短く伝えた。

 

 兵士は一度繰り返してから、村の広場へ走っていく。

 

「詳しい話は王都へ?」

 

「ああ」

 

「侯爵家にも必要ですね」

 

 ヴァルトが言うと、真壁は地図へ目を戻した。

 

 大きな赤は動かない。

 

 その周囲だけが増え、消え、また増えている。

 

「順に話す」

 

 ヴァルトは、窪地で見た黒紫色の靄を思い出した。

 

 岩の亀裂からは絶えず湧き、倒木の陰に残った雪の上では、地を這うように低くなっていた。

 

 まだ、その違いへ名前はつけられない。

 

「魔素は、巨人の身体から出ていたのではありません」

 

「地下か」

 

「はい」

 

 真壁は壊れたエアカーを収めた収納区画へ意識を向けた。

 

 機体の修理も、収納してある木喰い巨人との比較も、秘密基地でできる。

 

 その前に、西で何が起きているのかを王国へ渡す必要があった。

 

「王都へ行く」

 

 地図の西端では、窪地から出た小さな反応が、また1つ森の外側へ動き始めていた。

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