押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第225話 帰還報告

 

「王都へ行く」

 

 真壁がそう告げると、ロルフはすぐに頷いた。

 

 巨人について聞き返すことはしなかった。つい先ほどまで、泥に汚れた真壁とヴァルトを前に、その大きさも、地面から現れた魔物を食う姿も、エアカーへ投げつけられた多足の魔物についても聞いたばかりだった。

 

 補給所の外では、馬の鼻息と荷縄を締める音が続いている。エルトへ向かう先遣兵の一部はすでに発ち、残ったベラクルス侯爵家の兵たちは、次の荷を馬へ振り分けていた。

 

 朝から踏み固められた土には、荷車の轍と馬蹄の跡が幾重にも重なっている。その間を、村人たちが水桶や空になった麻袋を抱えて行き来していた。

 

 広場の方から、先ほど伝言を運んだ兵士が戻ってきた。

 

「指揮官へ報告しました。エルトへ向かった者にも、道と村から外れぬよう伝えるそうです」

 

「結構」

 

 真壁は地図を開き、西の荒れ地からルーデ、エルトへ続く反応を見比べた。

 

 巨人を示す大きな赤い反応は、先ほど見た位置からほとんど動いていない。村の近くにも、新しい群れは現れていなかった。

 

「もう1つ、加えていただきたい」

 

 真壁は西の赤い反応へ指を置いた。

 

「巨人を見に行く必要はありません。好奇心で近づくには、少々大きすぎる相手ですからな」

 

「討伐のための偵察も控えるよう、ということでしょうか」

 

「ええ。道と村だけを見ればよろしい。奥は、我々が調べます」

 

「承知しました」

 

 兵士は踵を返しかけ、ロルフへ視線を向けた。

 

「物資の残りは、どうなっている」

 

「食料と毛布は、今ある分で当面は足ります」

 

 ロルフは木箱の横へ寄せた荷札を手に取った。

 

「ただ、ポーションと結界用の魔石は、次の便で増やした方がよさそうです。村から移ってきた人数が、朝の見込みより増えています」

 

「不足分を分けておき給え」

 

 真壁が言った。

 

「王都側へ戻す者へ、すぐ渡せるように」

 

「承知しました」

 

 ロルフは食料箱ではなく、ポーションと魔石の列へ向かった。箱の数だけでなく、開封済みの袋と使用途中の木箱も確かめ、残量を分けていく。

 

 避難の判断と誘導は、現地兵と村長が行う。

 

 ロルフが担うのは、その時に何が何人分残っているかを見極め、不足を次の荷へつなぐことだった。

 

 兵士が尋ねた。

 

「こちらの警戒について、ほかに要望はありますか」

 

「現状のままで結構です」

 

 真壁は地図を閉じた。

 

「村の警備と物資配布は、引き続き現地の指揮でお願いいたします。ロルフ君には物資だけを見させます。兵の真似事まで始めては、商人を連れてきた意味がありません」

 

「分かりました。魔物が近づけば、村人を避難路へ回します。追うのは村を守る範囲までにします」

 

「それがよろしい」

 

 押入商会が、この土地の指揮を執り続けるわけではない。

 

 ベラクルス侯爵家の兵が村を守り、村長が住民を動かす。ロルフは物資と魔石の不足を見て、王都側の商人が次の補給を受け取る。

 

 それぞれの役目が残っているからこそ、真壁とヴァルトは西の異常を王都へ持ち帰ることができる。

 

 ヴァルトは収納内のエアカーへ意識を向けていた。

 

 森へ不時着した際、破損した機体をそのまま収納している。浮遊制御の1つは沈黙し、外板には折れた枝と湿った泥が付着していた。

 

 巨人が投げた多足の魔物は、頭部から防御結界へ激突した。遅れて振られた腹部が車体側面を捉え、その衝撃で浮遊制御が損傷した。

 

 さらに森へ不時着し、機体は木々と地面へ擦られている。

 

 何が魔物由来で、何が森の泥や樹液なのかは、今の段階では分からなかった。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「エアカーは、洗わずに残しましょう」

 

 真壁の視線がヴァルトへ向く。

 

「外板の付着物ですか」

 

「はい。魔物由来のものが残っている保証はありません。森の泥や樹液と混じっています。ただ、洗えば可能性まで失われます」

 

 王都魔術院にいた頃なら、ヴァルトはその場で魔術反応を読み取ろうとしただろう。

 

 今は違う。

 

 現物を残し、専門家へ渡し、由来の違うものを分けてもらう。その方が、後から比較できる情報は多い。

 

「よろしい」

 

 真壁は収納内で、破損したエアカーの周囲へ空きを作った。

 

「状態を保ったまま、隔離しておきましょう。せっかく巨人が届けてくれた品です。泥と一緒に洗い流すのは、いささか惜しい」

 

「届け方は、ずいぶん乱暴でしたが」

 

「贈答の作法までは期待できますまい」

 

 ロルフは2人の話が終わるのを待ってから尋ねた。

 

「こちらで異変があった場合は」

 

「地図で捉えます」

 

 真壁は答えた。

 

「新しい群れが村へ向かえば、我々が戻りましょう。君は物資と魔石を見たまえ。剣を持つ者には、剣の仕事があります」

 

「承知しました」

 

「王都商業ギルドで受け取った追加の食料は、メルト君が収納内に預かっております。必要量が定まり次第、こちらへ回します」

 

「では、食料は急ぎません。先ほどの不足分を先にお願いします」

 

「その方がよろしいでしょうな。足りている物を積み上げても、補給所が狭くなるだけです」

 

 ロルフが不足分の荷札をまとめ、真壁へ差し出した。

 

「こちらです」

 

「預かりましょう」

 

 真壁は荷札を収納へ入れた。

 

 ヨルンは王都で次の補給受領に当たっている。王都商業ギルドから動く荷をヨルンが受け取り、現地のロルフが不足を返す。

 

 ようやく補給の線が、1本の仕事としてつながり始めていた。

 

「では、こちらはお任せください」

 

 ロルフが言った。

 

「頼みました」

 

 真壁とヴァルトが並ぶ。

 

 補給所の煙、荷車の軋み、馬の蹄が土を踏む音が、広がった転移の光へ沈んでいった。

 

 

 

 

 

 王都侯爵邸の転移室へ降り立った時、ヴァルトの足には、まだ森へ不時着した際の揺れが残っていた。

 

 転移の光が石床から消える。

 

 真壁の外套には細い枝が絡み、ヴァルトの袖口には乾きかけた泥が擦れている。壊れたエアカーは収納の中にあり、機体の片側では浮遊制御が沈黙したままだった。

 

 扉の外で待っていた使用人は、2人の姿を見るなり、礼を取る途中で動きを止めた。

 

「お戻りでございましたか。……すぐに湯を」

 

「手と顔を洗えれば充分です。宰相府へ先触れをお願いいたします」

 

 真壁は外套を脱ぎながら答えた。右肩に固まった泥が布から剥がれ、石床へぽろりと落ちる。

 

 家令はそれを見ても何も聞かず、近くの使用人へ目配せした。

 

「承知いたしました。ですが、せめて何か召し上がってください」

 

「移動中には食べておりませんからな。短く済む物を頼みます」

 

 真壁がそう答えたことで、ヴァルトもようやく喉の渇きを思い出した。

 

 手を洗う湯には、薄く香草の匂いがついていた。袖をめくると、肘の外側に青黒い痣が浮いている。エアカーが傾いた瞬間、内壁へぶつけた場所だった。

 

 疲労度は低い。それでも、身体が受けた衝撃まで消えるわけではない。

 

 使用人が差し出した布で水気を拭いながら、ヴァルトは鏡へ映った自分を見た。土埃にくすんだ髪と、乾いた唇。巨人の指が魔物を掴み、こちらへ向いた瞬間の光景が、まだ目の奥へ残っている。

 

 食堂へ運ばれたのは、薄く切ったパンと野菜のスープだった。

 

 湯気の中に玉ねぎの甘い匂いが立ち、匙を入れると、底から小さく刻んだ肉が浮かぶ。

 

 真壁は3口ほどで椀を空にしたが、その間にも家令から領都の状況を聞いていた。

 

「派兵準備はいかがです」

 

「直近の早馬では、まだ集積中とのことでした。兵の招集と荷車の準備を続けており、出立の知らせは届いておりません」

 

「それは結構」

 

 真壁は匙を皿へ置いた。

 

「兵が街道へ出た後で行き先を変えるより、荷を積んでいる間に知らせる方が上品ですからな」

 

 家令がわずかに眉を動かす。

 

「何か、ございましたか」

 

「知らずに西の奥へ進めば、魔物の発生域へ入ります」

 

 ヴァルトが答えた。

 

「その中央に、全高約18mの巨人がいます」

 

 食堂の空気が変わった。

 

 家令はそれ以上の質問を飲み込み、背筋を伸ばした。

 

「宰相府から、すぐお越しいただきたいとの返答がございます」

 

「では参りましょう」

 

 真壁は立ち上がると、替えたばかりの外套を肩へ掛けた。

 

 ヴァルトは残っていたパンを一口で食べ、冷めかけた水を飲み干した。胃へ温かいものが入っただけで、思考の輪郭が戻ってくる。

 

 王都には、巨人発見の報告はまだ届いていない。

 

 西方で黒いローブの騎士が現れたことも、白い光刃が魔物を断ったことも、荒れ地の巨人が生きた魔物を食っていたことも。

 

 何を伝え、何を伏せるべきか。

 

 ヴァルトは廊下を歩きながら、その境界を頭の中で引き直した。

 

 

 

 

 

 宰相府の会議室には、昼を過ぎた光が斜めに差し込んでいた。

 

 厚い石壁の窓は狭く、机の上に広げられた西方地図の一部だけを明るく照らしている。窓から離れた席には燭台が置かれ、蝋の匂いが紙と革の匂いに混じっていた。

 

 宰相は真壁たちが着席する前から、地図の中央へ目を落としていた。

 

「予定より早い帰還だな」

 

「喜ばしい理由ではありません」

 

 真壁は挨拶を済ませると、収納から折り畳んだ地図を出し、王国側の地図の上へ重ねた。

 

「西方へ軍を進める前に、順序を改めていただく必要が生じました」

 

 軍務官の指が、机の端で止まった。

 

 書記は羽根ペンを紙へ置く。まだ何も書かず、真壁の次の言葉を待っている。

 

 真壁は外縁村を示す位置へ、小さな木札を置いた。

 

「こちらの村では、住民の避難を終えております」

 

 次にルーデ、エルトへ札を動かす。

 

「2つの村へ接近していた魔物は排除しました。避難路と当座の補給地点も確保しております」

 

「被害は」

 

 宰相の問いは短かった。

 

 ヴァルトは人数を確かめるように一拍置いてから、把握できた範囲を答えた。分からないものは分からないままにし、推測で埋めなかった。

 

 書記の羽根ペンが紙を擦る音だけが、会議室に続く。

 

「村の守りは」

 

「ルーデ周辺では、ベラクルス侯爵家の先遣兵が警戒に立っております」

 

 ヴァルトは地図上の街道を指でなぞった。

 

「一部はエルトへの連絡と補給へ移動しました。指揮は現地の指揮官が執っています」

 

「押入商会の者は」

 

「ロルフ君を現地へ残しました」

 

 真壁が答えた。

 

「物資と魔石の残量を見させております。兵の役目まで商人へ持たせるほど、人手に困ってはおりません」

 

「補給は足りているのか」

 

「食料と毛布は当面足ります。ポーションと結界用魔石は、追加が必要です」

 

 真壁はロルフから受け取った荷札を机へ置いた。

 

「王都商業ギルドで受領した追加の食料は、メルト君が収納内に預かっております。ヨルン君が王都側で受領を手伝い、現地の不足に合わせて次便を組みます」

 

 宰相は荷札へ一度目を落とし、軍務官へ視線を移した。

 

「現地兵だけで持つのか」

 

「村の警戒は可能でしょう。しかし、西方全体を押さえられる人数ではありません」

 

 ヴァルトが答えた。

 

「発見した巨人と、便宜上、魔力だまりと呼んでいる異常域へ対応できる戦力でもありません」

 

「増援部隊は」

 

「領都で準備中です。出立の報告は届いておりません」

 

「準備は止めるな」

 

 宰相は短く命じた。

 

「報告を聞いた後、任務の変更案を整える。陛下へ上奏する」

 

「承知いたしました」

 

 軍務官が頭を下げた。

 

「魔物を排除した手段は」

 

 続けて問うたのも軍務官だった。

 

 真壁は視線を向ける。

 

「押入商会が保有する、防衛用の魔道具です。詳細は商会の秘匿事項となります」

 

「王国兵へ供与できるものか」

 

「使えることと、使わせてよいことは別です」

 

 真壁は声を変えずに答えた。

 

「扱う者と状況を選びます。今すぐ一般兵へ配れば、敵より先に味方の隊列を乱しかねません」

 

 軍務官は何かを言いかけたが、宰相が片手を上げた。

 

「その話は後だ。今は、何が起きているかを聞く」

 

 真壁は地図のさらに西へ手を伸ばした。

 

 ルーデとエルトから離れた荒れ地。その位置へ、大きな木駒を置く。

 

「問題はこちらです」

 

 

 

 

 

 大きな木駒の周囲へ、真壁は小石を並べ始めた。

 

 1つ、2つ、3つ。

 

 種類を分けるように形の違う石を置き、最後に、巨人のさらに奥へ黒い石を置く。

 

「この一帯では、地中から濃い魔素が噴き出しております」

 

 燭台の火が揺れ、地図の上で石の影が伸びた。

 

「便宜上、巨大な魔力だまりと呼びます。周囲では、魔物が泥から形を得るように現れておりました。数も種類も一定ではありません」

 

「召喚か」

 

 宰相がヴァルトを見る。

 

 ヴァルトは首を横へ振った。

 

「召喚陣も、整えられた術式も見つけられませんでした。地面と魔素そのものが、異常な状態にあります」

 

「その巨人が原因ではないのか」

 

 宰相の指が、大きな木駒を示した。

 

「巨人が魔物を呼び、従えている可能性は」

 

「支配の痕跡はありませんでした」

 

 ヴァルトは地図上の小石を見た。

 

 巨人の足元を這っていた牙のある獣。片側の羽が潰れた虫。どれも巨人を守ろうとはしていなかった。巨人の近くにいることさえ恐れ、泥の中を逃げ回っていた。

 

「命令を伝える魔力の流れも確認できません。巨人は、現れた魔物を捕らえて食べていました」

 

 会議室の奥で、書記の羽根ペンが止まった。

 

「食べていた?」

 

「生きたままです」

 

 その場にいなかった者へ、あの光景を言葉で渡すのは難しい。

 

 ヴァルトは余計な形容を加えず、見た事実だけを置いた。

 

「巨人の大きさは」

 

「鑑定では、全高約18m」

 

 真壁は木駒へ指を添えた。

 

「以前回収した木喰い巨人のおよそ2倍です。特性には魔力感知がありました。鑑定を向けた直後、こちらを捉えております」

 

「魔術による偵察にも気づくと」

 

「安全とは申せません」

 

 ヴァルトが答えた。

 

「その後、生きた多足の魔物を掴み、飛行中のエアカーへ投げつけました」

 

 軍務官の眉間へ皺が寄る。

 

「当たったのか」

 

「頭部が防御結界へ激突し、腹部が車体側面を捉えました」

 

 ヴァルトは言葉を区切った。

 

「浮遊制御の1つが損傷し、森への不時着で機体がさらに歪んでいます」

 

「負傷者は」

 

「我々だけです。打ち身で済みました」

 

 真壁は淡々と答えた。

 

「機体も回収しております。少々手荒い偵察料ではありましたが、情報は得られました」

 

 宰相は木駒を指で押した。

 

「巨人を討てば、発生源へ近づけるのではないか」

 

 真壁の手が、木駒の上で止まる。

 

「巨人から片づけるのは、いささか順序がよろしくない」

 

 巨人の駒は動かさず、その周囲の小石へ指を移した。

 

「この巨体は、周囲で生まれる魔物を食っております。先に除けば、今は巨人の腹へ消えている魔物まで、村へ流れることになりかねません」

 

「確かなのか」

 

「いいえ。可能性です」

 

 真壁は即座に答えた。

 

「現在、巨人は窪地の中央付近から動いておりません。そこを餌場としている可能性はありますが、離れぬとは断定できない」

 

 黒い石へ指を移す。

 

「根がこちらにあるなら、巨人だけ斬っても後始末が増えるだけです。片づけるなら、根から参りましょう」

 

 軍務官が腕を組む。

 

「増援は、どこまで進める」

 

「街道と村までです」

 

 真壁は答えた。

 

「巨人を見物するために、400kmを歩かせる必要はありますまい」

 

 宰相は机の上へ置いた指を、村と街道へ移した。

 

「増援部隊の任務は、街道の確保、避難民の保護、村の防衛を優先する。ベラクルス侯爵家本隊との連絡線も確保させる。巨人と異常域への接近は、追加調査が終わるまで認めない」

 

 軍務官が頭を下げる。

 

「追補案を整えます」

 

「陛下へ上奏する。派兵準備は止めるな」

 

「承知いたしました」

 

 真壁は黒い石を少しだけずらした。石の下には、地図へ書かれた川筋があった。

 

「もう1つ、気になる点があります」

 

「何だ」

 

「荒れ地には、まだ雪の残っている箇所がありました。その上では、地面近くの黒紫色の靄が、周囲より薄く見えました」

 

 宰相が目を上げる。

 

「雪が魔力を消したのか」

 

「そこまでは分かりません」

 

 ヴァルトが答えた。

 

「あくまで、見え方が違っただけです。温度か、水分か、地面の状態か。比較しておりません」

 

「試料は」

 

「荒れ地へは降りておりません」

 

 真壁は首を横へ振った。

 

「ただし、投げつけられた魔物がエアカーへ接触しております。外板に魔物由来の付着物が残っていれば、手掛かりにはなりましょう」

 

「誰に見せる」

 

「セルマ君が適任です」

 

 宰相は椅子の背へ身を預け、短く息を吐いた。

 

「巨人を発見したという報告より、巨人を倒すなという報告の方が厄介だな」

 

「倒すな、ではありません」

 

 真壁は木駒を収納へ戻した。

 

「倒す場所と順序を選んでいただきたい。それだけです」

 

 その口調には楽観も虚勢もなかった。

 

 ただ、すでに次の手順まで並べ終えた者の静けさだけがあった。

 

 

 

 

 

 領都侯爵邸へ戻った時には、窓の外の光が赤みを帯びていた。

 

 中庭では、軍用荷車へ積む麻袋が並べられ、兵士と使用人が数を読み上げている。乾いた藁の匂いと馬の汗、革具へ塗った油の匂いが、開いた窓から廊下まで入り込んでいた。

 

 アルベルトは執務室で、何枚もの書類へ署名を入れていた。

 

 机の端には、徴集された兵の人数、荷車、馬、糧秣の割り当てが積まれている。真壁たちが入室すると、羽根ペンを置き、椅子から立ち上がった。

 

「お戻りでしたか」

 

「先ほど、王都で宰相閣下への報告を済ませてまいりました」

 

 真壁が頭を下げる。

 

 アルベルトは2人の顔を見比べた。着替えてはいるが、ヴァルトの袖口には落としきれなかった泥が残っている。

 

「何がありました」

 

 真壁は王都で話した内容を、一から繰り返さなかった。

 

 外縁村の避難が済んだこと。ルーデとエルトへ迫っていた魔物を排除したこと。ベラクルス侯爵家の先遣兵が警戒と連絡を担い、ロルフが物資と魔石の不足を見ていること。

 

 その上で、さらに西に巨大な魔力だまりと、全高約18mの巨人がいることを伝えた。

 

 アルベルトの指が、机の上の派兵予定表へ触れた。

 

「巨人への攻撃は」

 

「保留です。巨人より、魔力だまりが根にある可能性が高い」

 

「派兵を止めますか」

 

「その必要はありません」

 

 真壁は予定表へ視線を落とした。

 

「街道と村を守る兵は要ります。ただ、討伐隊のつもりで奥へ進ませるのは、よろしくない」

 

「王都は」

 

「派兵準備を継続します。任務を街道確保、避難民保護、村の防衛へ改める追補案を整えるとのことです」

 

「分かりました」

 

 アルベルトはすぐに家令を呼んだ。

 

「レオンハルトを。副官へ任せられるところまで済ませてからでよい。だが、荷を積み終える前に来てもらおう」

 

 家令が退室すると、真壁は収納から王都商業ギルドの売買明細を取り出した。

 

「補給についても、ご報告しておきましょう」

 

 明細をアルベルトの前へ差し出す。

 

「王都へ運んだ動物像は、すでに売却しております。その代金で、西方へ回す追加の食料と物資を整えました」

 

 アルベルトは明細の売却額と支出欄へ目を通した。

 

「物資は」

 

「王都商業ギルドで受領済みです。追加の食料は、メルト君が収納内に預かっております。ヨルン君が王都側で受領を手伝っています」

 

「現地へは」

 

「ロルフ君が不足を見ております。必要量だけ送ります」

 

 真壁はロルフから預かった荷札を明細の横へ置いた。

 

「食料と毛布は当面足ります。先にポーションと魔石を増やすべきでしょうな。必要量も分からぬまま食料箱を積み上げては、補給ではなく倉庫を増やすだけです」

 

「今回の売却代金で、どこまで賄えます」

 

「追加で整えた分までは」

 

 真壁は答えた。

 

「ですが、避難と街道封鎖が長引けば、押入商会だけで支え続けるべきではありません」

 

「領地の補給は侯爵家の役目です」

 

「ええ。初動はこちらで整えました。以後は、侯爵家と王国に担っていただきましょう」

 

 アルベルトは明細を机へ置いた。

 

「次から、侯爵家負担分を分けてください。王国側の負担も宰相府へ確認します」

 

「承知しました」

 

「先に買ったことを責めるつもりはありません。間に合わなければ意味がない」

 

「そのお言葉があれば充分です」

 

 待っている間にも、中庭から荷車の車輪が軋む音が聞こえた。

 

 出立前の屋敷には、普段の静けさがない。誰も走ってはいないのに、建物全体が急いでいるように感じられた。

 

 ほどなくして、廊下へ重い足音が近づいた。

 

 レオンハルトは軍装の上に厚い外套を羽織り、手には革手袋を持ったまま入室した。肩に藁くずが1本ついている。髪にも薄く埃がかかり、侯爵邸の会議へ出る姿というより、荷車の下へ潜って車軸を見てきた者の格好だった。

 

「お待たせしました」

 

「いや、こちらが呼び戻した」

 

 アルベルトが席を勧める。

 

 真壁は地図を広げ、軍事上必要な点だけを示した。

 

 レオンハルトは途中で口を挟まず、魔力だまりと巨人の位置、村との距離、魔物の流れる方向を目で追った。

 

「現地兵は」

 

「ベラクルス侯爵家の先遣兵です」

 

 ヴァルトが答えた。

 

「ルーデ周辺で村の警戒に当たり、一部はエルトへの連絡と補給へ出ています。ただし、西の奥まで押さえられる人数ではありません」

 

「指揮は」

 

「現地の指揮官が執っております」

 

 真壁が続けた。

 

「我々は危険地点を知らせ、奥へ踏み込まぬよう要請しただけです。余所者が現地の指揮まで奪うのは、いささか品がない」

 

 レオンハルトは一度だけ頷いた。

 

「それでいい。指揮は現地へ残せ」

 

 革手袋を机へ置く。

 

「本隊は予定どおり準備を進める。街道も村も、押入商会だけへ預けたままにはできん」

 

「王都側も同じ判断です」

 

「なら、編成を変える」

 

 レオンハルトの指が地図上の街道をなぞった。

 

「討伐へ寄せた兵を減らし、補修と護送へ回す。荷車も、武器より食料と天幕を増やす」

 

「医療班も増やしてください」

 

 アルベルトが言った。

 

「負傷兵だけでなく、避難民を見る者が必要です」

 

「分かりました」

 

 レオンハルトは地図の最奥へ置かれた印へ目を向けた。

 

「巨人は、真壁殿たちが調べるのか」

 

「まず、持ち帰った機体を調べます」

 

「機体?」

 

「巨人が投げた魔物が、エアカーへ接触しました」

 

 レオンハルトの目が細くなる。

 

「飛んでいる車へ当てたのか」

 

「なかなかの投擲でしたな」

 

 真壁が平然と答える。

 

「褒めるところではない」

 

「敵の技量を低く見積もるよりはよろしいでしょう」

 

 レオンハルトは短く息を吐いた。

 

「機体は直せるのか」

 

「直す前に、付着物を調べます。森の泥に混じって、魔物由来のものが残っている可能性があります」

 

「それで何が分かる」

 

「魔物が、どのような状態で生じたのか。その手掛かりになるかもしれません」

 

 レオンハルトは地図から手を離した。

 

「では、俺は集積所へ戻る。編成を直すなら、荷を積み切る前の方が早い」

 

 すでに立ち上がりかけた彼へ、真壁が声を掛けた。

 

「もう1つ、内密にお伝えしたい件があります」

 

 レオンハルトの動きが止まる。

 

 アルベルトが家令と書記へ目を向けた。

 

「席を外してください」

 

 扉が閉じ、廊下の物音が遠ざかる。

 

 会議室に残ったのは、4人だけになった。

 

 

 

 

 

 真壁は扉が閉まったのを見届けてから、手袋を外した。

 

「実は、村人の前では押入商会を名乗っておりません」

 

 アルベルトの目が細くなる。

 

「では、何者として救援したのです」

 

「別の騎士団を名乗りました」

 

「騎士団?」

 

 レオンハルトは、置き直したばかりの革手袋から手を離した。

 

「何という名だ」

 

「ジェダイ騎士団、と」

 

 数秒、誰も口を開かなかった。

 

 アルベルトは記憶の中から、その名に近い騎士団を探したらしい。やがて真壁を見る。

 

「聞いたことがありません」

 

「当然でしょう。昨日、名を付けたばかりです」

 

 レオンハルトの眉が上がる。

 

「騎士団を作ったのか」

 

「形だけです」

 

 真壁は平然と答えた。

 

「名もない武装集団が村へ現れるより、騎士団を名乗る方が民も落ち着きます。正体を隠しながら救援するには、都合がよろしい」

 

「誰を参考にした」

 

「他国の軍神が、正体を隠して民を救った例があります。それに倣いました」

 

 ヴァルトは口を挟まず、視線を机の端へ落とした。

 

 真壁が参照したものが、軍神だけではないことを知っている。

 

 黒いローブ、空を滑る騎士、光る白刃。そして、その騎士団名。前世の記憶があるヴァルトには、どこから来たかが分かりすぎるほど分かっていた。

 

 異世界で本当に騎士団を作る者がいるとは、2000年の正月に倒れる前の自分でも想像しなかっただろう。

 

 しかも実物の光刃まである。

 

「王国軍を名乗りましたか」

 

 アルベルトは冗談へ流さず、領主代理の顔へ戻った。

 

「いいえ」

 

「侯爵家の名や紋章は」

 

「使っておりません」

 

「命令書や証明書を残したことは」

 

「ありません」

 

「村人に服従を求めましたか。税や食料を徴収しましたか」

 

「いずれもしておりません」

 

 アルベルトは1つずつ確かめ、真壁の返答を待った。

 

 レオンハルトも続ける。

 

「現地兵の命令系統へ介入したか」

 

「いいえ」

 

 真壁は首を横へ振った。

 

「危険地点の情報を渡し、空白地帯へ踏み込まぬよう要請しただけです。指揮は、最初から現地の指揮官が執っております」

 

「武装した者を残したか」

 

「補給担当の商人だけです。兵は残しておりません」

 

「使った装備は」

 

「全て回収しております」

 

 レオンハルトはそこで一度、ヴァルトへ視線を移した。

 

「何を使った」

 

 ヴァルトは収納から黒いローブを取り出した。

 

 机の上へ置くと、厚手の布が空気を含んで広がる。外見だけなら、何の飾りもない旅装だった。

 

「こちらに、認識を曖昧にする境界を重ねました」

 

「顔を隠す術か」

 

「顔や体格、声の印象を捉えにくくします」

 

 ヴァルトはローブを肩へ掛け、境界を狭く展開した。

 

「複数人をまとめて覆えば、人数の記憶も揺らぎます」

 

 アルベルトの視線が止まる。

 

 そこにヴァルトが立っていることは分かる。しかし、目を逸らしてから顔を思い出そうとすると、鼻や目の形がまとまらない。背丈も、先ほどまで知っていたはずなのに、わずかに揺らいで感じられる。

 

「解除します」

 

 境界が消えると、ヴァルトの輪郭が急に戻った。

 

 アルベルトは瞬きをし、目の前の人物を見直した。

 

「記憶を消したのですか」

 

「消してはいません。覚えにくくしただけです」

 

 ヴァルトはローブを外す。

 

「村人には、黒いローブや白い光だけが強く残るでしょう」

 

「白い光?」

 

 アルベルトの問いに、真壁が収納から棒状の柄を1本出した。

 

「騎士に持たせた武器です」

 

「騎士は何人いた」

 

「1体です」

 

 レオンハルトが真壁を見る。

 

「1人ではなく、1体と言ったな」

 

 ヴァルトは右手を上げ、部屋の中央へ小さな結界を組み始めた。

 

 空気が薄く震え、半透明の輪郭が人の上半身ほどの高さでまとまっていく。完全な騎士を室内へ出すことはせず、腕と肩だけを形作った。

 

「私が結界を動かしました。黒いローブを被せ、武器を持たせています」

 

「無人か」

 

「はい」

 

 レオンハルトは結界の腕へ近づいたが、触れる直前で手を止めた。

 

「これが村で戦った?」

 

「真壁さんと私も同行しましたが、前へ出たのはこの騎士です」

 

 真壁が柄を結界の手へ預ける。

 

 白刃は展開しなかった。

 

「室内で点けるのは控えましょう。机だけで済めばよいのですが」

 

 アルベルトが机へ目を落とした。

 

「壁まで切れるのですか」

 

「試す理由はありますまい」

 

 レオンハルトが深く息を吐いた。

 

「点けるな」

 

「賢明です」

 

 真壁は柄を収納へ戻した。

 

 アルベルトはローブと結界を見比べ、やがて椅子へ座り直した。

 

「救援のための一時的な偽装で、侯爵家も王国軍も名乗っていない。村を支配せず、徴収もせず、現地兵の指揮にも介入していない」

 

「その通りです」

 

「村人から聞き取った現地兵の報告には、騎士団名が残るでしょう」

 

「それは避けられません」

 

 真壁は答えた。

 

「名まで忘れさせては、救援へ来た者が何者か分からなくなります」

 

「侯爵家から否定も訂正もしません」

 

 アルベルトは真壁へ視線を定めた。

 

「ただし、ジェダイ騎士団の正体が押入商会であることは伏せます」

 

「助かります」

 

「次に領内で騎士団を作る時は、先に知らせてください」

 

「承知しました」

 

 真壁は静かに頷いた。

 

「次があるのか」

 

 レオンハルトが問う。

 

「必要がなければ、ありません」

 

「必要があれば作るのだな」

 

「名が役に立つ場面もありますからな」

 

 レオンハルトはそれ以上追及せず、ヴァルトの結界へ目を戻した。

 

「正体の件は、俺の部下にも伏せる。現地から騎士団名が上がってきても、正体不明の一団として扱う」

 

「それで結構です」

 

 ヴァルトは結界を解いた。半透明の腕がほどけ、部屋の空気へ溶ける。

 

 アルベルトは机へ置かれた西方地図へ目を戻した。

 

「軍務の話はここまでです。次は研究の話になる」

 

 家令を呼び、セルマへ使いを出すよう伝える。

 

 セルマを待つ間、レオンハルトは集積所へ戻った。編成を組み替えるなら、荷車へ積み終える前の方が早い。外套を翻して廊下へ出ていく姿には、呼び戻されたことへの不満より、遅れを取り返す意識の方が強く表れていた。

 

 セルマが到着した頃には、窓の外はほとんど暗くなっていた。

 

 工房から直接来たのか、彼女の袖には白い粉が付き、髪には細い革紐が刺さったままだった。会議室へ入るなり、貴族の前に出る格好ではないと気づいたらしく、手で払おうとする。

 

「そのままで構いません」

 

 アルベルトに言われ、セルマは手を止めた。

 

「急ぎと聞きました」

 

「魔力だまりの近くで発生した魔物について、調べていただきたい」

 

 真壁は収納内にある破損したエアカーについて説明した。

 

 荒れ地で巨人から投げつけられた多足の魔物が、防御結界と外板へ接触したこと。森へ不時着したため、泥や枝、樹液も付いていること。機体は洗わず、そのまま保管していること。

 

 セルマは説明を聞き終えると、すぐに尋ねた。

 

「荒れ地の土は」

 

「採取しておりません」

 

「では、外板の付着物が魔力だまり由来とは限りません」

 

「承知しております」

 

「森の泥、樹液、葉、車体の焦げ。それに、魔物由来のものが残っていれば分けます」

 

「そのために、洗わず残しました」

 

 セルマは一度だけ頷いた。

 

「機体は工房へ出さないでください。弟子が触ります」

 

「秘密基地の隔離区画を使いましょう」

 

「それがいいです」

 

 セルマは机上の地図から顔を上げた。現物を見るまでは、保管場所と触れてよい範囲だけを決めればよい。

 

「外板の状態を見てから、採取する場所を決めます。接触した面を下にしないでください」

 

「心得ました」

 

「木喰い巨人の組織も比較に使えます。ただし、今回の巨人と同じ性質だとは考えません」

 

「無論です」

 

「残雪の上で靄が薄かった、という話は」

 

「見た目の差だけです」

 

 ヴァルトが答えた。

 

「冷却、水分、地面の状態。何が影響したかは分かりません」

 

「それなら、温度を変えた物、水分を変えた物、地面の違う物を分けて試します」

 

 セルマは地図の雪が残っていた場所を指した。

 

「冷やせば止まる、と先に決めないでください」

 

「仮説を結論へ昇格させるほど、急いではおりません」

 

 真壁が答える。

 

「真壁さんが急いでいるかどうかではなく、先に巨大な氷を作らないでください」

 

「まだ作っておりません」

 

「考えましたね」

 

「広範囲を冷やす手段としては、候補に入ります」

 

「試す前に、必要な温度を調べます」

 

「結構」

 

 真壁はそれ以上押さず、地図から手を離した。

 

「順序を決めるために、セルマ君を呼んだのですからな」

 

 セルマは真壁の顔を見た。

 

「分かっているならいいです」

 

 アルベルトは2人のやり取りを聞きながら、先ほどのジェダイ騎士団より、こちらの方がいつもの真壁たちらしいと感じていた。

 

 正体不明の騎士団を作り、光る剣で魔物を斬り、その日のうちに壊れた乗り物を研究材料へ変える。

 

 理解できる部分が1つ増えるたび、理解できない部分も1つ増えていく。

 

「明日の朝、器材を持って行きます」

 

 セルマが言った。

 

「迎えに参りましょう」

 

「弟子は連れて行きません」

 

「その方がよろしいでしょう」

 

「機体はそのまま。付着物を払わない。先に削らない。何かを塗らない」

 

「承知しました」

 

「木喰い巨人も、私が見るまで出さないでください」

 

「同様に扱います」

 

 セルマは机の上へ置かれた地図へ目を落とした。

 

 巨大な魔力だまり。

 

 地面から現れる魔物。

 

 それを食べ続ける巨人。

 

 薬草や鉱石の失敗とは違う。瓶の中へ収まる問題でもない。それでも、見分けるべきものは同じだった。

 

 何が混ざり、どこから変わり、どの条件で差が出るのか。

 

「今日は、もう試料を出さないでください」

 

 セルマは顔を上げた。

 

「疲れている時に触ると、落とした物まで試料に見えます」

 

 ヴァルトは自分の袖口に残った泥を見た。

 

 確かに今なら、床へ落ちた泥が森のものか、補給所のものか、自信を持って言えない。

 

「分かりました」

 

 彼が答えると、セルマは真壁の方も見た。

 

「真壁さんもです」

 

「お任せあれ、とは申しません」

 

 真壁は穏やかに答えた。

 

「今夜は、出しません」

 

 セルマはようやく頷いた。

 

 アルベルトが立ち上がる。

 

「では、今日はここまでにしましょう」

 

 セルマは工房へ戻り、器材を揃えるため退室した。

 

 真壁とヴァルトも、もう一度転移室へ向かった。

 

 

 

 

 

 夜の秘密基地は、昼の熱を石壁の内側へ残していた。

 

 転移の光が消えると、暗闇の中で設備の金属が淡く輪郭を浮かべる。真壁が壁際の照明を点けるたび、作業台、空の棚、閉じた隔離扉が順番に現れた。

 

 ヴァルトは破損したエアカーを出す場所を目で測った。

 

 床には余裕がある。しかし、外板へ付いた泥を落とさず調べるなら、人が通る動線から離した方がよい。

 

「こちらへ出しますか」

 

「いや、今夜は出さぬ方がよいでしょう」

 

 真壁は隔離扉の封を確かめる。

 

「セルマ君が来てから、必要な位置へ展開します」

 

「木喰い巨人も」

 

「同様です」

 

 朝から巨人を見つけ、魔物を投げられ、王都と領都で報告を重ねた。それでも真壁の手は止まらず、明日の作業台の位置を少しずつ変えていく。

 

 ヴァルトは作業区画へ目を向けた。

 

 今夜から試料を出せば、早く始められる。だが、専門家が来る前に触れれば、比較すべき状態を壊すかもしれない。

 

 以前の自分なら、魔術で安全を確かめようとしただろう。

 

 今は、触らずに待つことも作業の一部だと分かっていた。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「今夜は、本当に出しませんよね」

 

「セルマ君に、出さぬと申しました」

 

「約束がなければ、出していましたか」

 

 真壁は隔離区画へ向けていた手を止めた。

 

「意味のない仮定ですな」

 

「答えになっていません」

 

「ならば、答えを変えましょう」

 

 真壁は作業台をもう半歩だけ壁際へ寄せた。

 

「今夜、出す必要はありません。専門家の手を待つ方が、結果として早い」

 

 ヴァルトは隔離扉を見た。

 

 今までの真壁なら、時間を惜しんで先に確認した可能性もある。だが、触らない理由まで分かった上で待つのなら、それでよい。

 

「では、配置だけにしましょう」

 

「ええ。明日の時間を、無駄にせぬ程度に」

 

 ヴァルトは反対側の棚を動かし、エアカーを展開する空間を広げた。2人で作業すれば、数分もかからない。

 

 真壁が最後の照明を点けた時、基地の奥で扉の開く音がした。

 

 続いて、軽い足音がこちらへ近づいてくる。

 

「真壁さ〜ん。ヴァルトさ〜ん」

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