押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第23話 水をかける仕事

 

 朝の山側は、市場よりもずっと音が少なかった。

 

 木々の葉が擦れる音と、木樋を伝う水の音だけが、仕込み小屋の中まで入ってくる。昨日張ったばかりの遮光布はまだ少し新しい匂いがした。木材を削った匂い、濡れた土の匂い、ぬるま湯を吸った大豆の匂いが混じり、澪は小屋の入口で一度立ち止まった。

 

 昨日は、できた、と思った。

 

 木樋がある。棚がある。浅型トレーがある。水温計も室温計もある。木札には、種もどし開始、ぬるま湯、水温確認済み、三日後早朝収穫予定、と自分の字で書いてある。

 

 だが、朝の静かな小屋でそれを見ると、別のことが分かった。

 

 水は木樋を通って来ている。けれど、それが勝手に豆へほどよくかかるわけではない。

 

 布はかかっている。けれど、濡れた布が勝手に洗われるわけではない。

 

 木札は下がっている。けれど、誰かが時刻を書き足さなければ昨日のままだ。

 

 水温計はある。だが、数字を見る人がいなければ、ただの細い道具でしかない。

 

 澪は、ぬるま湯を吸って少し膨らんだ大豆を見下ろした。まだ白い芽は出ていない。なのに、もう仕事だけは増えている。

 

「……これ、誰が毎日やるんですか」

 

 小屋の外で木樋を見ていた職人が、手に持った小槌で木を軽く叩いた。

 

「小屋は作った。水も引いた。だが、豆を見る手は別だ」

 

 それは、当然すぎる答えだった。

 

 澪は額に手を当てた。

 

「工場、完成したと思ったのに……」

 

「豆を入れたら、今度は豆の世話だな」

 

 職人は悪びれもせず言った。

 

 澪は、昨日自分が胸を張っていた「異世界もやし工場」という言葉を思い出した。

 

 工場は、勝手に働かない。

 

 仕込み小屋は、作った瞬間から仕事を要求してくる。

 

 

 

 

 

 市場へ戻ると、リュシアは屋台裏で浅い籠を拭いていた。

 

 まだ朝の早い時間なのに、料理屋の者が一人、屋台の前で何か聞きたそうに立っている。リュシアはそれを横目で見ながら、澪の顔を見るなり、だいたい察したような顔をした。

 

「どうしたんだい。豆草に夜逃げされた顔だよ」

 

「逃げてません。まだ芽も出てません」

 

「じゃあ何に負けた」

 

「人手です」

 

 澪は、屋台裏の木箱に腰を下ろした。

 

「工場はできたんです。でも、人がいません」

 

「小屋は勝手に豆草を育てないからね」

 

「リュシアさん、分かってたんですか」

 

「分かってたよ。だから作る側には行かなかった。売る方を止めるのと、人手を考えるのは別の仕事だ」

 

 澪は少しむくれた。

 

「教えてくださいよ」

 

「教えたら、昨日の勢いが止まっただろう」

 

「止めた方がよかったのでは」

 

「たぶん止まらなかったね。姫様もいたし」

 

 それは否定できなかった。

 

 リュシアは拭き終えた籠をひっくり返し、日陰になる場所へ置いた。

 

「人手なら、孤児院だね。あそこは水替えと札をもう覚え始めてる。ただし、子どもに重い桶を持たせる話じゃない」

 

 澪は背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

「布洗い、木札、浅籠への小分け、水かけの補助。そこまで。ぬめりを見るのと、出していいか決めるのは大人だよ」

 

「司祭様とシスターに相談します」

 

「それと、銭の話もする。手伝わせるなら、飯と銭で返す。『よいことだから手伝え』は一度なら通るけど、毎日は続かない」

 

 リュシアは料理屋の男へ「昼前にまた来な」と声を投げ、それから澪に向き直った。

 

「行くよ。姫様も呼びな。水場を使わせたのは姫様の家だからね」

 

 

 

 

 

 教会の一室は、市場より静かだった。

 

 古い机の上に、水差しと木の杯が置かれている。窓から入る光は柔らかく、壁際には孤児院で使う布や桶が整えられていた。エレナは少年服のまま椅子に座り、少し背筋を伸ばしている。護衛は扉の近くで、また面倒な話だという顔をしていた。

 

 澪は、山側の仕込み小屋の様子を説明した。水場があること。木樋で水を引いたこと。棚とトレーを置いたこと。三日間、日に何度も水をかける必要があること。布洗い、木札、浅籠への小分け、水温の確認が必要なこと。

 

 話を聞き終えると、司祭は静かに言った。

 

「子どもたちを、便利な手として使うことはできません」

 

 その声は柔らかいが、はっきりしていた。

 

 澪は頷いた。

 

「はい。仕事として、報酬と食事を決めたいです」

 

「休憩もです。失敗した時に責めないことも」

 

 司祭の隣で、シスターが続けた。

 

「ぬめりや匂いを見るのは大人がします。出荷してよいか決めるのも、大人です」

 

 リュシアは持ってきた小皿を机に並べながら言った。

 

「子どもがやるのは、手を洗ってから布を洗う。木札を持つ。浅籠に分ける。水かけを手伝う。そこまでだね」

 

 エレナが少し驚いた顔をした。

 

「子どもでも、できることを分けるのだな」

 

 司祭はエレナを見た。

 

「できるから全部やらせる、ではありません」

 

 エレナはすぐには返事をしなかった。だが、やがて小さく頷いた。

 

「分かった。これは人を出せばよい、という話ではないのだな」

 

「はい」

 

 澪はそう答えた。

 

 エレナは少し考え、机の上の水差しを見た。

 

「なら、侯爵家から大人もつける。木樋と水場を見る者だ。子どもが触ってよい場所と、触ってはいけない場所を分ける」

 

 護衛が小さく息を吐いた。仕事が増えた顔だった。

 

 

 

 

 

 リュシアは、机の上に小皿を並べた。

 

 銅貨が一枚ずつ、かたん、と乾いた音を立てる。澪はその音を聞きながら、前にも似たようなことをしたと思った。売上は、ひとつの袋に入れたら分からなくなる。皿を分ける。名目を分ける。使う手を決める。

 

 リュシアは一枚目の皿を指で押した。

 

「この皿は子どもらの駄賃」

 

 次の皿。

 

「この皿はシスターの布と桶の手間」

 

 次の皿。

 

「この皿は孤児院の飯へ戻す分」

 

 さらに次の皿。

 

「この皿は次の豆代。混ぜると分からなくなる」

 

 澪は帳面に書いた。

 

 子どもたちの駄賃。シスターの手間。孤児院の食事分。次の豆代。

 

 現代会計の言葉ではない。だが、皿の上に銅貨が置かれると、誰が何のために受け取るのかが分かる。

 

 シスターは銅貨ではなく、食事の皿を見ていた。

 

「子どもたちには、銭だけでなく、食事にも返したいです」

 

 リュシアは頷いた。

 

「それでいい。働いた日の汁に豆草が入るなら、子どもらも覚える」

 

「もやしです」

 

 澪は小さく訂正した。

 

 リュシアは聞こえていたのに、聞こえない顔をした。

 

 

 

 

 

 孤児院の洗い場に、子どもたちが集められた。

 

 桶が並び、布が干され、木札が紐でまとめられている。子どもたちは、仕込み小屋の話をすでに聞いていたらしく、目を輝かせていた。トトは最前列で胸を張っている。まだ何も任されていないのに、すでに責任者の顔をしていた。

 

 シスターが手を叩いた。

 

「まず、手を見せなさい」

 

 子どもたちは一斉に手を出した。

 

 その中には、さっきまで何かを触っていたらしい手もある。シスターは一人ずつ見て、洗い場へ向かわせた。

 

 澪は、仕込み小屋での仕事を説明した。手を洗うこと。布を洗うこと。木札を付け替えること。水かけを手伝うこと。浅籠へ分けること。

 

 そして、やってはいけないことも言った。

 

「勝手に豆を食べない。水に砂糖や塩を入れない。匂いが変なものを隠さない。走って籠を運ばない。重い桶を一人で持たない」

 

 トトが手を上げた。

 

「俺、水かけ係」

 

 リュシアが即答した。

 

「忘れそうだから一人では任せない」

 

「忘れない」

 

 シスターが静かに聞いた。

 

「昨日、木札をどこに置きましたか」

 

 トトは口を閉じた。

 

 子どもたちが笑った。

 

 澪は慌てて言った。

 

「二人組にしましょう」

 

 トトは不満そうだったが、反論できなかった。木札の件が強かった。

 

 

 

 

 

 説明が終わるころ、シスターが一人の女の子を連れてきた。

 

 年はトトより少し下に見える。細い指で、自分の服の裾を握っている。目は澪を見たり、床を見たり、また澪を見たりしていた。

 

「ミナです」

 

 シスターが言った。

 

「少しだけ、収納があります。小さな布袋や木札なら、短い時間しまえます」

 

 ミナは小さく頭を下げた。

 

 澪はしゃがみ、目の高さを合わせた。

 

「水は怖いですか」

 

 ミナは少し迷ってから頷いた。

 

「こぼしたら、全部だめになります」

 

「そうですね。だから、最初は水を入れません」

 

 澪は、中身のないウォーターバッグを見せた。

 

「最初はこれ。次は布。次は木札。水は、小さい袋で、桶の上だけ」

 

 エレナが興味深そうに覗き込んだ。

 

「収納持ちを育てるのか」

 

 司祭がすぐに言った。

 

「育てるのではありません。安全にできることを確かめるのです」

 

 澪も頷いた。

 

「水を運べる子、ではなくて、水を汚さずに扱える子になってもらいたいです」

 

 ミナは、その言葉を聞いて少しだけ肩の力を抜いた。

 

「失敗したら」

 

「水が入っていない物から始めます。失敗しても、袋が床に落ちるだけです」

 

 ミナはもう一度頷いた。

 

 トトが横から言った。

 

「俺も収納ほしい」

 

 リュシアは冷静に返した。

 

「まず木札をなくさないところからだね」

 

 トトはまた黙った。

 

 

 

 

 

 山側の仕込み小屋へ向かう道を、子どもたちは列になって歩いた。

 

 最初から人数は多くしない。シスターが前に立ち、侯爵家の護衛が後ろを見る。トトは先頭に行きたがったが、リュシアに首根っこをつかまれて真ん中へ戻された。

 

 仕込み小屋が見えると、子どもたちの声が上がった。

 

「木の水路だ」

 

「暗い」

 

「豆の部屋?」

 

 トトが得意げに言う。

 

「豆草城だ」

 

「仕込み小屋です」

 

 澪はすぐに訂正した。

 

 小屋に入る前に、シスターがもう一度手を見せさせた。洗ったはずの手に土がついている子がいて、洗い直しになった。布を持つ子、木札を読む子、浅籠を並べる子、水かけ用の小さな柄杓を渡す子に分かれる。

 

 シスターの声は、洗い場にいた時より少し厳しかった。

 

「豆に触る前に手を洗います。布を落としたら洗い直します。匂いが変だと思ったら隠さず呼びます」

 

 子どもたちは真剣な顔で頷いた。

 

 澪は、説明よりもシスターの手つきが早いことに感心した。布を広げる。濡れた部分を見せる。洗う桶とすすぐ桶を分ける。木札を読む子には、指で一文字ずつ追わせる。

 

 仕事は、言葉だけで教えるものではないのだと分かる。

 

 

 

 

 

 最初の失敗は、当然のようにトトが起こした。

 

「俺、水かけ係」

 

 今度は二人組で、シスターとリュシアが見ている中だったので、少しだけ許された。職人が作った小さな柄杓を持ち、トトは棚の前に立った。

 

「そっとですよ」

 

 澪が言った。

 

「分かってる」

 

 トトは頷いた。

 

 そして、勢いよく水をかけた。

 

 豆の一部が端へ寄った。浅型トレーの中で、せっかく平らにしていた大豆が片側に集まる。

 

「トト、強すぎます!」

 

「いっぱい水を飲んだ方が育つだろ」

 

 リュシアが額に手を当てた。

 

「腹が減った子に鍋ごと食わせるようなもんだよ」

 

「それは嬉しい」

 

「違う」

 

 子どもたちが笑った。ミナも少し笑った。

 

 職人が、トトの柄杓を取り上げ、少し見てから小屋の隅へ行った。余っていた木を削り、柄を短くし、皿の部分を小さくする。

 

「これで一度に出る水を減らす」

 

 職人はそう言って、小さな柄杓をトトに渡した。

 

 澪は目を丸くした。

 

「道具の大きさで、失敗を減らす……」

 

「手を叱るより早い時もある」

 

 職人は当たり前のように言った。

 

 トトは小さい柄杓を持ち、今度は少し慎重に水をかけた。まだ少し多い。だが、さっきよりはずっとましだった。

 

 リュシアが頷いた。

 

「二人組にして、片方が見る。トトは一人ではなし」

 

「えー」

 

「えーじゃない」

 

 

 

 

 

 水場のそばで、シスターが澪を呼んだ。

 

 仕込み小屋の外には、冷たい水が細く落ちる場所がある。手を浸すと、町の汲み置き水よりずっとひんやりしていた。シスターはその水を見て、少し言いにくそうに口を開いた。

 

「この水を、少しだけ孤児院へ持ち帰れれば助かります」

 

 澪は頷きかけて、すぐに首を傾げた。

 

 二十リットルのウォーターバッグは重い。ミナに持たせるには無理がある。大人でも毎日となれば負担になる。澪の収納ならある程度は持てるが、自分が毎回運ぶ形にしてしまうと、また澪がいないと動かない仕事になる。

 

 司祭も同じことを考えたらしい。

 

「孤児院の水をすべてここに頼ることはできません」

 

 リュシアは水場を見ながら言った。

 

「でも、もやし用と手洗い用に少し持ち帰れるだけでも違う」

 

 シスターは小さな革袋を二つ出した。

 

「まずは、小さな水袋二つからですね」

 

 ミナが、それを見て緊張した顔をした。

 

 澪はミナのそばにしゃがんだ。

 

「今日は、少しだけです。入れる時も出す時も、桶の上だけ」

 

 ミナは小さな水袋を両手で持ち、目を閉じた。袋が一瞬、手元から消える。すぐに額に汗が浮いた。

 

「出します」

 

「桶の上です」

 

 澪が言うと、ミナは桶の真上で袋を出した。中の水がちゃぷんと揺れたが、こぼれなかった。

 

 ミナは大きく息を吐いた。

 

 澪も一緒に息を吐いた。

 

「できました」

 

「はい。でも今日はここまでです」

 

 トトがすかさず言った。

 

「俺ならもっと大きいのを」

 

 リュシアが見た。

 

 トトは黙った。

 

 

 

 

 

 初回の売上が孤児院へ戻った日の夕食は、いつもより少しざわついていた。

 

 食堂の鍋には、大豆もやしが入っている。たくさんではない。けれど、白い茎が汁の中に見えるだけで、子どもたちは自分の器を覗き込んだ。

 

「これ、俺たちが水をかけたやつ?」

 

 小さな男の子が聞いた。

 

 シスターは器を置きながら答えた。

 

「大人が確認して、火を通したものです」

 

 トトが胸を張った。

 

「俺の水は強かった」

 

 リュシアが横から言った。

 

「強すぎたから直された」

 

 子どもたちは笑った。

 

 ミナは自分の器の中のもやしを、少し不思議そうに見ていた。水袋を出した自分の手と、器の中の白い茎を見比べている。

 

 澪はその様子を、食堂の端で見ていた。

 

 銅貨の皿から孤児院へ渡る分があり、仕事をした日の汁に大豆もやしが入り、子どもたちがそれを食べる。帳面に書くと項目が増えるだけだが、鍋の中で見ると、ずっと分かりやすい。

 

 仕事と食事が、同じ湯気の中にあった。

 

 

 

 

 

 それから、仕込み小屋は少しずつ動き始めた。

 

 朝、シスターと数人の子どもたちが山側へ向かう。木札を声に出して読む。水温計を見るのは大人だが、子どもたちは数字の場所を覚え始める。布を洗う子は、落とした布を自分から洗い直すようになった。浅籠を並べる子は、籠を積みすぎないことを覚えた。

 

 トトは一度、収穫予定日の木札を読み間違えた。

 

「今日だ」

 

「明日です」

 

 澪が訂正すると、トトは木札を近づけて見た。

 

「字が似てる」

 

「似てません」

 

「木札が悪い」

 

「悪くありません」

 

 ミナは、小さな水袋を桶の上で出す練習を続けた。最初は顔を真っ赤にしていたが、三度目には少しだけ肩の力が抜けた。水を出した後、必ず桶の底を見る。こぼれていないか、汚れていないかを確認する癖がつき始めていた。

 

 市場では、リュシアが注文を絞り続けた。

 

「家庭向けは二袋まで」

 

「うちは五袋欲しい」

 

「今日中に火を通せるなら二袋だよ」

 

「明日も使う」

 

「明日の豆草は敵だって言っただろう」

 

 エレナは屋敷分を増やしたがった。

 

「屋敷の料理人が、もう少し欲しいと言っている」

 

「試食分だけです」

 

 リュシアは容赦なく返した。

 

「侯爵家でもか」

 

「侯爵家でもです」

 

 エレナは少し不満そうにしたが、以前ほど無理は言わなかった。大豆もやしは増やせる食べ物ではある。だが、増やすには水と手と三日がいる。それを、彼女も見てしまっている。

 

 孤児院の皿には、銅貨が少しずつ戻った。

 

 小さな水袋も、毎日ではないが持ち帰られるようになった。もやし用の試験、手洗い、器をすすぐ時に使う分だけ。全部を賄うには足りない。それでも、汚れた水を避ける日が増えた。

 

 仕込み小屋は、豆だけでなく、日々の小さな習慣まで育て始めていた。

 

 

 

 

 

 ある夕方、シスターが寝室の入口で足を止めた。

 

 寝床が、いつもより静かだった。

 

 それは子どもたちが騒いでいないという意味ではない。むしろ、食堂の方からはいつもの声が聞こえている。だが、寝込んでいる子が少ない。季節の変わり目には咳をする子が何人か出る。腹を押さえて台所の隅に座り込む子もいる。

 

 今年は、それが少ない。

 

 シスターは寝床を一つずつ見た。掛け布は畳まれ、使われていない場所がある。熱で赤い顔をして眠る子も、今日は見当たらない。

 

 食堂へ戻ると、澪が器を片付ける手伝いをしていた。

 

「今年は、寝込む子が少ないのです」

 

 シスターが静かに言った。

 

 澪は最初、嬉しそうに顔を上げた。

 

「大豆もやしで栄養が少し……」

 

「それもあります。でも、それだけではないと思います」

 

 シスターは、洗い場の方を見た。

 

 食事を終えた子が、自分の手を見てから桶へ向かっていた。別の子が、落とした布を何も言われず洗い直している。トトでさえ、何かをつまもうとして、一度自分の手を見た。

 

「子どもたちが、手を洗うようになりました」

 

 澪は動きを止めた。

 

「手を」

 

「水を扱う前に手を洗う。豆に触る前に手を洗う。布を洗う。器を分ける。汚れた水を使わない。変な匂いがしたら隠さない。それが、食事の前にも少しずつ出てきています」

 

 シスターの声には、驚きと安堵が混じっていた。

 

「最初は、食事が少しよくなったからだと思っていました。でも、たぶんそれだけではありません」

 

 澪は洗い場を見た。

 

 手を洗う。

 

 布を洗う。

 

 器を分ける。

 

 それは、もやしを腐らせないために始めたことだった。

 

 でも、子どもたちの腹や喉にも、届いていた。

 

 

 

 

 

 リュシアは屋台裏で、その話を聞いた。

 

 ちょうどトトが、鍋の横に置いてあった端肉をつまもうとしていた。手を伸ばし、途中で止まる。自分の指を見る。少し迷って、洗い場へ向かう。

 

 以前なら、そのまま口へ入れていた。

 

 リュシアはそれを見て、少し笑った。

 

「もやしのために手を洗わせてたら、子どもらの腹まで守ってたってことかい」

 

 シスターは頷いた。

 

「そうかもしれません」

 

「食べ物の仕事は、食べ物だけじゃ終わらないんだね」

 

 澪は、その言葉を聞きながら、屋台裏の湯気を見ていた。

 

 押入商会は、商品を運んでいるつもりだった。扇子、タオル、ボトル、豆、温度計、トレー。けれど、実際には道具と一緒に、手を洗う癖や、器を分ける考え方や、匂いを隠さない約束まで運んでいたのかもしれない。

 

 商売と、食事と、体のこと。

 

 思っていたより、近い場所にある。

 

「澪」

 

 リュシアが呼んだ。

 

「はい」

 

「また難しい顔してるよ」

 

「考えてました」

 

「考えるのはいいけど、手は洗ったかい」

 

 澪は自分の手を見た。

 

「洗います」

 

 リュシアは満足そうに頷いた。

 

 

 

 

 

 ミナの小さな練習は、孤児院の洗い場で続いていた。

 

 桶を置く。小さな水袋を持つ。収納へ入れる。すぐに出す。桶の真上へ。床ではない。膝の上でもない。必ず桶の上。

 

 ミナは目を閉じ、息を吸った。

 

 小さな水袋が手元から消える。ほんの少しの間があり、また桶の上に現れる。水は袋の中で揺れたが、こぼれなかった。

 

 ミナは、心底ほっとした顔をした。

 

「できました」

 

「できました」

 

 澪も同じくらいほっとして答えた。

 

 中身は少量だ。二十リットルには遠い。けれど、汚さずに出せた。床へ出さなかった。桶の上で扱えた。

 

 それだけで、今は十分だった。

 

 トトが横から覗き込んだ。

 

「俺も収納ほしい」

 

 リュシアがすぐに返した。

 

「まず木札をなくさないところからだね」

 

 トトは黙った。

 

 ミナは少しだけ笑った。

 

 澪はその顔を見て、収納スキルを大きなチートとしてだけ見るのは違うと思った。正しく扱えば、仕事になる。けれど、間違えれば水を床へ落とす。だから、練習と、見ている大人と、失敗しても怒鳴らない場所がいる。

 

 力だけでは、仕事にならない。

 

 手順と、人と、待つ時間が必要だった。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻った澪は、帳面を開いた。

 

 畳の上には、まだ片付けきれていない木札用の薄板と、温度計の予備箱がある。収納の中には大豆と道具が分類されている。収納五の「時間経過五十パーセント」「温度変化無し」は便利すぎる気配を漂わせているが、今日の帳面に最初に書くべきものはそれではなかった。

 

 水場の仕込み小屋。

 

 孤児院の軽作業。

 

 売上の孤児院分。

 

 大豆もやしの食事分。

 

 小さな水袋。

 

 収納訓練。

 

 手洗い。

 

 腹痛減少。

 

 流感減少。

 

 澪は、そこまで書いて筆を止めた。

 

「工場を作ったら、管理表が増えた……」

 

 声に出すと、六畳間の静けさに少し情けなく響いた。

 

 もやし工場を作ったはずだった。

 

 だが実際には、子どもの手洗い、シスターの布洗い、リュシアの皿、司祭の約束、ミナの小さな水袋まで増えている。

 

 大豆もやしは、豆だけを育てているわけではなかった。

 

 水を扱う手、銭を数える皿、洗われた布、少し丈夫になった子どもたちまで、静かに育て始めていた。

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