足元が消えた。
そう思った次の瞬間、ラウの靴底を硬い石床が受け止めた。
腹の中が半拍遅れて落ち、頭の奥で白い光が弾ける。隣にいた年下の子がよろめいたため、ラウは反射的に腕を伸ばした。
「立てるか」
「う、うん」
返事を聞いてから顔を上げる。
王都の侯爵邸ではなかった。
磨かれた床も、背の高い窓も、見張るように立つ使用人もいない。石造りの広い部屋に机や棚が並び、壁には見たことのない線が引かれた地図が掛かっている。
知らない場所だった。
だが、知らない顔ばかりではなかった。
「ラウ!」
声の方を向く。
部屋の奥からキリが駆けてきた。後ろにはベスがいて、トマもいる。キリの手を握っている幼い子は、王都を離れる前より顔色がよく見えた。
ラウは自分から駆け寄りかけ、足を止めた。
数える。
キリ。
ベス。
トマ。
咳をしていた幼い子。
先ほどヴァルトと最初に消えた仲間たちも、壁際に固まっている。誰かの姿を見つけるたびに、胸の中へ詰め込まれていた硬い石が、一つずつ落ちていった。
「皆いるのか」
「いるよ」
キリが答えた。
「先に来た人も、ここで待ってた」
「王都に残ってる奴は?」
ラウが振り返ると、ヴァルトは転移してきた4人を順に見ていた。
顔色を確かめ、足元を見て、最後に人数を数える。
王都で初めて会った時より、大きく見えた。
背丈が変わったはずはない。それでも、誰も知らない場所で迷わず立ち、20人の子どもを見渡している姿は、ラウが今まで見てきたどの大人とも違っていた。
金を持つ大人は、金を見せつけた。
剣を持つ大人は、剣を抜いて命令した。
ヴァルトは何も見せびらかさず、誰が具合を悪くしているかだけを見ていた。
「20人。全員いますね」
その声を聞いて、ラウはようやく息を吐いた。
「もう、王都には残ってないんだな」
「ええ。荷物もすべて運びました」
ヴァルトが右手を上げると、部屋の隅へ布袋や木箱が順番に現れた。どれも王都の屋敷でまとめたものだった。
見覚えのある袋を見つけた子が、小さく声を上げる。
ラウには大した荷物がなかった。それでも、自分たちの物が勝手に捨てられず、ここまで運ばれてきたことには、うまく言葉にできない重みがあった。
「ここが私の拠点だよ」
ヴァルトは荷物を出し終えると、廊下へ続く扉を開けた。
「暮らす部屋に案内するよ」
すぐに歩き出す者はいなかった。
知らない建物の奥へ、大人に連れていかれる。
それだけなら、これまでにもあった。戻ってきた者もいれば、二度と会わなかった者もいる。
ヴァルトは急かさなかった。
扉の外に立ち、ただ待っている。
ラウはキリたちを見た。ベスは年下の子を自分の近くへ集め、トマは人数を数え直している。
「行くぞ」
ラウがヴァルトの後を追うと、背後で足音が重なった。
廊下を進み、階段を上る。
ヴァルトは先頭にいたが、速くは歩かなかった。時々後ろを振り返り、咳をしていた幼い子が遅れていないか確かめている。
そのたびに、ラウにはヴァルトがひどく大人に見えた。
子どもへ優しい声を出すだけの大人なら、いくらでもいた。
そういう大人ほど、見えないところで何かを求めた。
ヴァルトは、何を求めるかをまだ言わない。
それがかえって不気味なはずなのに、ラウはその背中から目を離せなかった。
上の階には、長い廊下の両側へ扉が並んでいた。
ヴァルトが最初の扉を開ける。
中には寝台が置かれていた。真新しい寝具が整えられ、壁際には衣類や小物を入れる箱が並んでいる。窓から入る冬の光が、床板を白く照らしていた。
「ここで寝るのか」
トマが扉の外から尋ねた。
「そうだよ。隣の部屋も、その先も使えます」
子どもたちは部屋へ入るより先に、廊下を見た。
扉の数を数え、開いている部屋を覗き、寝台がいくつあるかを確かめる。
ラウも同じだった。
自分がどこで寝るかより、20人全員の場所があるのかが先だった。
スラムで屋根のある場所を見つけても、全員が入れることは少なかった。年下を中へ押し込み、身体の大きな者は入口や軒下で眠った。朝になると、誰かがいなくなっていることもあった。
この廊下には、まだ使われていない寝台が並んでいる。
数えても、途中で足りなくならなかった。
「この子と一緒でいい?」
キリが、手をつないでいる幼い子を示した。
「もちろんだよ」
ヴァルトは部屋の中を見てから、窓に近すぎない寝台を指した。
「夜に咳が出た時は、すぐ私を呼んでください。この部屋なら階段にも近い」
「私が呼びに行く」
「キリも眠るんだよ。1人で全部を見る必要はありません」
キリは返事をしなかった。
幼い子の手を握る指だけが、少し強くなった。
ベスが同じ部屋へ入り、寝台の間隔を確かめる。トマは廊下の端まで歩き、階段と窓の位置を見て戻ってきた。
ラウは窓から外を見た。
石造りの建物が並び、通りを荷車が進んでいる。王都より狭く、スラムより明るい。知らない町だ。
「俺たち、全員ここに住むのか」
「ええ。この階で暮らします」
「後から、別々にされないか」
ヴァルトはラウへ身体を向けた。
「部屋は分かれますが、誰かだけを別の場所へ送る予定はありません」
「働けない奴も?」
「働けるかどうかで、寝床を取り上げることはありません」
迷わず返された。
ラウは、その言葉をすぐには信じられなかった。
信じた後で違っていた時の方が痛い。それを知っている。
だが、ヴァルトはラウを安心させようと笑ったり、頭を撫でたりしなかった。ただ一度答え、次の部屋の扉を開けた。
大人が嘘をつく時は、もっとたくさん喋る。
ラウはそう思いながら、空いている寝台へ目を戻した。
「荷物は、後でそれぞれの部屋へ運ぼう」
ひととおり住居を見せたヴァルトが、階段へ向かう。
「先に食事にしようか。食事はこちらだよ」
食事という言葉に、何人かの腹が同時に鳴った。
誰も笑わなかった。
笑えば、自分の腹も鳴るかもしれなかった。
階段を下りていくと、途中から匂いが変わった。
焼いたパン。
肉と豆を煮込んだ湯気。
油の弾ける匂い。
地下へ近づくほど、人の声と食器の音が大きくなる。
子どもたちの歩みが速くなった。
「走らなくていいよ」
ヴァルトの声が前から届く。
ラウは最後尾を見た。
キリもいる。幼い子も、手すりにつかまりながら下りている。ベスが後ろから支え、トマがその後ろについていた。
誰も置いていかれていない。
地下1階へ降りると、通路の両側に店が並んでいた。
大鍋を火にかける店。
焼き上がったパンを籠へ積む店。
串へ刺した肉を並べる店。
働いているのは大人ばかりではなかった。
ラウたちと大きく年の変わらない少年が、パン籠を抱えて店の間を歩いている。店員に声をかけられると、勝手を知っている様子で進路を変え、別の卓へ籠を置いた。
ぼんやり見ていたラウと目が合う。
少年は一瞬足を止めたが、すぐに仕事へ戻った。
「おや、ヴァルト先生じゃないですか」
明るい声がした。
帳場のそばにいたリュシアが、こちらへ歩いてくる。
「今日はお弟子さんと一緒ですか」
弟子。
その言葉が落ちた途端、子どもたちの間がざわついた。
ラウはヴァルトを見上げた。
自分たちは弟子になるために来たのではなかったのか。
ヴァルトは振り返り、全員の顔を見た。
「この後、その話をするところです。まずは食事をさせようと思いまして」
「そうでしたか」
リュシアは子どもたちへ目を向けた。
かわいそうだとも、痩せているとも言わなかった。ただ人数を数え、近くの店と長卓を見比べる。
「奥の卓を2つ使いましょう。詰めれば全員座れます。トト、パンをこちらへお願い」
「分かった!」
先ほどパン籠を運んでいた少年が返事をした。
トトというらしい。
ヴァルトが子どもたちを卓へ案内する。
長い卓には、人数分の器と木の匙が並べられた。大鍋から肉と豆の煮込みがよそわれ、丸いパンと焼いた根菜が置かれる。
誰もすぐには座らなかった。
ラウも立ったまま、料理を見ていた。
誰から取るのか。
どこへ座るのか。
自分が食べていい量はどれくらいか。
聞かなければならないのに、聞いたら取り上げられそうな気がした。
「好きな場所へ座っていいよ」
ヴァルトが卓の端の椅子を引いた。
「全員の分があります」
それでも誰も動かなかった。
ヴァルトは先に自分が座り、目の前のパンを一つ取った。
ラウは向かいの椅子へ腰を下ろした。
それを見て、キリが幼い子を隣へ座らせる。ベス、トマ、年下の子たちも順に席へ着いた。
全員が座っても、料理は残っている。
キリはパンを半分に割った。
半分を幼い子の皿へ置き、残りを自分の服の内側へ入れようとする。
ヴァルトの目がそちらへ向いた。
キリの手が止まった。
「明日の朝も食事はあります」
ヴァルトはそれだけ言って、自分のパンを煮込みへ浸した。
「明後日も?」
キリが聞いた。
「あります」
「毎日?」
「ええ」
キリは服へ入れかけたパンを見た。
しばらく迷った後、半分だけ皿へ戻した。残りは手元に置いたままだった。
ヴァルトは何も言わなかった。
ラウは煮込みへ匙を入れた。
肉が入っている。豆も根菜もある。薄い汁で腹を膨らませるための食事ではなかった。
一口食べると、熱さが舌から喉へ落ちていった。
身体の中に、温かい場所ができる。
隣の席で、小さな子が無言のまま匙を動かしていた。食べ終わる前から次の一口をすくい、誰かに奪われる前に飲み込もうとしている。
「急がなくていいよ」
ヴァルトが言う。
「お代わりもあります」
トトが空になりかけたパン籠を持ってきた。
「こっちもまだあるぞ」
籠の底ではなく、その下にもう一つ籠を抱えている。
子どもたちの目がそちらへ集まった。
トトは慣れた手つきで新しいパンを足し、また店の方へ戻っていった。
ラウはその背中を見送った。
同じくらいの年なのに、あいつはここで何をすればいいのか知っている。
自分たちは、ただ座って食べている。
全員へ料理が行き渡ったのを確認すると、ヴァルトはリュシアを帳場の近くへ呼んだ。
ラウの席からも、2人の姿は見えた。
「リュシア君。私がいない間、彼らに食事をお願いします」
ヴァルトが革袋を差し出した。
受け取ったリュシアの手が、重みでわずかに下がる。
袋の口を少し開いた彼女は、すぐに閉じた。
「ヴァルト先生。これは食事代ですか?」
「ええ。20人おりますので、不足しないように」
「不足どころか、多すぎます」
リュシアは周囲へ目を向け、袋を帳場の内側へ移した。
ラウには中身が見えなかった。
だが、袋が卓へ置かれた時の音は知っている。銅貨や小銀貨の軽い音ではない。大きな金貨が詰まっている音だった。
「預かり金として別にします。使った分は帳面へつけますから、残りは返します」
「それでお願いします」
「しばらく戻らないのですか?」
「まだ分かりません。南方からの食糧輸入について、これから話を聞くことになりますので」
「レヴァニアの件ですね。侯爵家から連絡は来ています」
リュシアは正金貨の袋を置いた棚とは別の場所から、新しい帳面を取り出した。
「子どもたちの食費と、南方の買い付けは別です。混ぜませんよ」
「承知しています」
「本当に?」
リュシアの問いに、ヴァルトがわずかに黙った。
大人同士の話なのに、少しだけヴァルトが叱られているように見える。
ラウは匙を持ったまま、そのやり取りを見ていた。
ヴァルトが金を払う。
リュシアが食事を用意する。
自分たちは食べる。
それで終わりなのか。
トトはパンを運び、店の者に呼ばれれば走っていく。小さな箱を抱えたまま、ちゃんと役に立っている。
だからといって、何もしないわけにはいかないしなぁ。
ラウは匙を置いた。
「俺たちも働く」
思ったより大きな声が出た。
卓にいた全員が顔を上げる。
リュシアもこちらを向いた。
「何をするの?」
「荷物でも、皿でも運ぶ。食わせてもらう分くらいは返す」
「今から?」
「できる」
立ち上がろうとしたラウへ、リュシアがまっすぐ歩いてきた。
「あんたら、ヴァルト先生に救われたんだから、何を返せばいいか考えなさい」
ラウは椅子から半分腰を浮かせたまま止まった。
「お金じゃないでしょ」
「金じゃなきゃ、何を返すんだ」
「それを考えるのよ」
「分からないから聞いてるんだ」
言い返すと、リュシアは怒らなかった。
卓を囲む子どもたちを順に見た後、ラウへ視線を戻す。
「今日食べた分だけ皿を運んで、それで全部返したことにするの?」
「そんなことは――」
「文字を覚える。仕事を覚える。自分のことを自分でできるようになる。助けてもらった命を粗末にせず、いつか誰かを助けられるようになる」
リュシアは、キリの隣に座る幼い子へ目を向けた。
「返すなら、そういうものじゃないの?」
ラウは言葉を失った。
皿なら運べる。
荷物なら、重くても持てる。
言われた仕事を終えれば、終わったと分かる。
だが、いつか誰かを助けられるようになれと言われても、どこまで行けば返し終わるのか分からなかった。
金を返すより、よほど難しい。
「リュシア君」
ヴァルトが静かに声をかけた。
「私は、見返りを求めて助けたわけではありません」
「分かっています」
リュシアはヴァルトへ向き直る。
「先生が求めなくても、この子たちは考えます。ずっと食べさせてもらうだけでいいのかって」
ヴァルトはラウを見た。
子どもを見る目ではなかった。
嘘を見抜こうとする目でも、従わせようとする目でもない。
答えを待つ大人の目だった。
「この後、少し話そうか」
ヴァルトが言った。
ラウは唇を引き結び、うなずいた。
「分かった」
「まずは食べよう。冷めてしまう」
ヴァルトは自分の席へ戻った。
ラウも座り直す。
目の前の煮込みからは、まだ湯気が立っていた。
何を返せばいいかは分からない。
だが、今日の皿を運んで終わりではないことだけは分かった。
食事が終わると、ラウは自分の器を持った。
ベスが年下の子の器まで重ねようとすると、トトが横から声をかける。
「重ねすぎると落とすぞ。4枚くらいにしろ」
「これくらい持てる」
「持てても、ぶつかったら全部割れる」
トトは4枚だけ取り、残りをベスへ戻した。
「返すのは向こう。匙は別の箱だ」
ラウも皿を5枚重ねていたが、黙って1枚をトマへ渡した。
トマが笑いそうな顔をしたので、睨む。
「何だよ」
「別に」
食費を返す仕事ではない。
自分たちが使った物を自分たちで運んでいるだけだ。
それでも、座っているだけよりは胸の辺りが軽かった。
全員が戻ったのを確かめると、ヴァルトが階段を示した。
「では、先ほどの拠点へ戻ろうか。教室で話そう」
「教室?」
ベスが聞き返す。
「文字や計算、魔術の基礎を学ぶ部屋だよ」
「俺たちが使うのか」
ラウの問いに、ヴァルトはうなずいた。
「そのために用意した部屋です」
また、この大人は当然のように言う。
寝床も。
食事も。
教室も。
ラウたちが来るより前から、ここにあった。
どうしてそこまで用意したのか、ラウには分からなかった。
大人は普通、子どもを使う場所だけを先に作る。子どもが学ぶ場所を、来る前から作る大人など見たことがない。
2階へ戻り、ヴァルトが拠点の奥にある扉を開けた。
部屋には長机と椅子が並んでいた。
正面の壁には大きな黒い板があり、脇の棚には紙、石板、筆記具が置かれている。
子どもたちは入口で止まった。
ラウは席を数えた。
自分たちは20人。
椅子は、それより2つ多い。
「好きな場所へ座っていいよ」
ヴァルトが教卓の前へ進む。
キリは幼い子を連れて前の席へ座った。ベスはその後ろを選び、トマは廊下と窓の両方が見える端の席へ行く。
ラウは教室の後ろ寄りへ座った。
全員の姿が見える場所だった。
ヴァルトは立ったまま話し始めなかった。
皆が席へ着き、椅子を引く音が止まるまで待った。それから教卓の前にあった椅子を引き、自分も座った。
座れば、ラウたちと目の高さが近くなる。
それでも子どもには見えなかった。
黒い服の肩も、落ち着いた声も、疲れているのに背を曲げないところも、何もかもが大人だった。
「私は、皆をこの町へ連れてくると約束しました」
ヴァルトは20人を見渡した。
「そして、私が学んだ魔術を教えるとも言いました。約束は守ります」
ラウは机の下で拳を握った。
「いつから教える」
「明日から始めよう」
「戦う魔術もか」
「まずは文字と計算からです」
ラウの拳から力が抜けた。
「魔術じゃないじゃないか」
「魔術書を読めなければ、術式を確かめられません。数を間違えれば、魔力を入れすぎます。受け取った金額を数えられなければ、働いても正しい給金を受け取れない」
「でも、俺は強くなりたい」
「何のために?」
ヴァルトの問いに、ラウは口を閉じた。
強ければ殴られない。
強ければ売られない。
強ければ、仲間を連れていかれない。
言葉にしようとすると、どれも喉につかえた。
「こいつらを守るためだ」
ようやく出たのは、それだけだった。
ヴァルトは笑わなかった。
「ならば、力を出すより先に、止める方法を覚えなければなりません」
「止める方が先なのか」
「止められない力では、守りたい者まで傷つけるからね」
ラウは隣の列にいる年下の子を見た。
腕を振っただけで、その子が倒れるような力なら、確かに使えない。
「文字と計算の後は、魔力を感じる練習をします。感じられたら、少しだけ外へ出す。そして、自分で止める」
「戦うのは?」
「その後です」
「ずいぶん先だな」
「急いで覚えて、取り返しのつかない怪我をするよりは短いよ」
言い返せなかった。
ヴァルトは、机の上へ何も持っていない両手を置いた。
「全員が、同じ速さで覚える必要はありません。魔術を使えるようになるまで時間がかかっても、食事はあります。文字を覚えるのが遅くても、寝床はなくなりません」
教室が静かになった。
魔術より、その後の言葉の方が皆へ届いたのが、ラウにも分かった。
「働けない日があっても?」
キリが小さく尋ねた。
「病気なら休みます」
「失敗したら?」
「やり直します」
「言われたことが分からなかったら?」
「聞いてください」
ヴァルトは簡単に答える。
「ここでは、分からないことを隠す方が危険です。魔術道具へ勝手に触らない。病気や怪我を隠さない。誰か1人へ仕事を押しつけない。食べ終わった器は自分で返す。まずは、そのくらいから始めよう」
「守れなかったら、追い出されるのか」
ラウが聞いた。
ヴァルトは少しだけ考えた。
すぐに答えなかったことで、ラウはかえって目を離せなくなった。
「なぜ守れなかったのかを話します」
「それだけ?」
「何度も同じことをすれば、別の方法も考えます。それでも、最初から食事や寝床を取り上げることはしません」
ラウには、そんな決まりが本当に続くのか分からなかった。
ただ、ヴァルトが何も考えずに優しい言葉を選んだのではないことは分かった。
この大人は、追い出さないための方法まで考えている。
だからこそ、ラウには大きく見えた。
剣を振り上げる者よりも。
怒鳴って全員を黙らせる者よりも。
座ったまま、20人分の先を考えているヴァルトの方が、ずっと大きな大人に見えた。
「それから」
ヴァルトは教室の端へ視線を向けた。
ラウもつられて見る。
誰も座っていない椅子が2つ残っていた。
「この部屋には、あと2人加わる予定だよ」
「誰だ」
「この領都の孤児院にいる、リオとメルという子たちです。もうすぐこちらへ来る」
「そいつらも、魔術を習うのか」
「そのために来ます。君たちと同じ教室で学ぶことになる」
ラウは2つの空席を見た。
自分たちはすでに20人いる。
王都のスラムでは、知らない者が増えれば、それだけ食べ物も寝場所も減った。新しく来た者を追い出すか、逆に自分たちが場所を奪われるかだった。
「先に来た君たちが上ではありません」
ヴァルトはラウが考えていたことを見抜いたように言った。
「後から来る2人が下でもない。同じ場所で暮らし、同じ教室で学ぶ仲間です」
ラウは、初めてこの部屋へ入った時の自分たちを思い出した。
どこへ座ればいいか。
誰に話しかければいいか。
何をすれば追い出されないか。
リオとメルという2人も、同じことを考えながら扉の前に立つのかもしれない。
「仲良くな」
ヴァルトの声は柔らかかったが、頼んでいるだけではないことが分かった。
「分かった」
ラウは空席を見たまま答えた。
「俺たちから追い出したりはしない」
「それで十分だよ」
ヴァルトは立ち上がり、黒い板の前へ移った。
白い筆記具を手に取り、ゆっくりと文字を書く。
ラウには読めなかった。
何本かの線が並び、意味のある形になっているらしい。
「何て書いたんだ」
ヴァルトが振り返った。
「自分の名前、と書きました」
教室のあちこちで、小さな声が交わされた。
「明日は、ここから始めよう」
「俺の名前を書くのか」
「ええ。まず、自分の名前を自分で書けるようになりましょう」
ラウは黒い板の文字を見上げた。
これまで紙に書かれた名前は、いつも自分たちを縛るものだった。
誰が所有するか。
いくらで売られたか。
誰へ借りがあるか。
大人が書き、ラウたちには読ませないものだった。
明日、最初に覚えるのは主人の名前でも、商会の名前でもない。
自分の名前だという。
まだ読めない文字の下で、ヴァルトは20人を見ていた。
教室には2つの空席が残っている。
足りなかった席ではない。
これから来る仲間のために、最初から用意されていた場所だった。