教室の扉へ手をかけたところで、セルマは中から聞こえた声に指を止めた。
「力を出す前に、止め方を覚えてもらいます」
「止める方が先なのか?」
まだ声変わりもしていない少年が、不満そうに聞き返している。
「止められなければ、守りたい相手まで巻き込みますからね」
ヴァルトの声はいつもと変わらない。
怒鳴りもせず、子ども向けにわざと甘くもせず、当然のこととして話していた。
用があるのだから、呼び出しても構わない。
そう思って扉を押しかけたが、セルマは結局、手を離した。
「失敗したら?」
「やり直します」
「何度やってもできなかったら?」
「別のやり方を考えましょう」
廊下には長椅子があった。
座る気にはなれず、その横に立って待つ。
弟子を取る。
その話が出た時、セルマが最初に考えたのは工房のことだった。
作業台を増やす。炉を分ける。薬草棚へ札を付ける。初歩の調合から始めて、何年でどこまで教えるか決める。
寝床や食事も必要だとは考えた。
だが、今扉の向こうで行われているのは、そんな話ではなかった。
できなければどうなる。
失敗したら追い出されるのか。
食事はなくならないのか。
子どもたちが知りたがっているのは、錬金術や魔術より前のことだった。
「この教室には、あと2人加わる予定だよ」
ヴァルトが、領都の孤児院にいるリオとメルの名を告げた。
「後から来るからといって、下になるわけではありません。仲良くな」
それで話は終わったらしい。
椅子の動く音が重なり、ほどなく扉が開いた。
最初に出てきた少年が、廊下にいるセルマを見て足を止める。後ろから来た年下の子どもとぶつかりそうになると、黙って脇へ寄った。
子どもたちは何度も後ろを振り返りながら階段へ向かう。
ヴァルトは最後に教室を見回し、窓を閉めてから出てきた。
「お待たせしましたか」
「少しね」
「呼んでくださればよかったのですが」
「今、呼ぶ話じゃなかったもの」
ヴァルトの眉が、ほんの少し上がった。
「何よ」
「いえ」
「言いなさいよ」
「セルマさんも、待てるのですね」
「喧嘩なら帰るわよ」
「まだ御用を聞いていません」
この男は、たまに真壁より腹が立つ。
セルマは階段へ消えていく子どもたちを見送ってから、声を落とした。
「西方へ連れていって」
「弟子候補を迎えに?」
「違うわ」
答えが強くなり、階段の途中にいた少年が振り返った。
セルマは一度息を吐いた。
「少なくとも、連れて帰るためには行かない」
「では、何をしに行かれるのですか」
「それを見に行くのよ」
ヴァルトが黙る。
説明が足りないことくらい、セルマにも分かっていた。
「あの時のことは覚えているでしょう」
「人工魔石の件ですか」
「そうよ」
ヴァルトは、その場にいた。
真壁へ工程を見せろと迫ったことも、自分を外せば困るだろうと言ったことも、全部見ている。
今さら言葉を飾っても仕方がなかった。
「私は、みっともなく食い下がった」
「否定はしません」
「少しは否定しなさいよ」
「ご本人が認めた直後に否定するのも、不自然でしょう」
セルマは舌打ちしたくなった。
「真壁が私より先に人工魔石を作った。それが悔しかったの」
「今は違うのですか」
「今も悔しいわよ」
即答すると、ヴァルトが僅かに頷いた。
慰められるよりはましだった。
「でも、あのまま工房に籠もって鑑定と収納だけ上げても、また同じことをすると思うの。誰かが先へ行くたびに、自分にも見せろって噛みつくわ」
「それで、西方へ?」
「巨人も魔力だまりも消えたけれど、向こうの暮らしまで元に戻ったわけじゃないでしょう」
「復旧隊は入っています」
「兵士や大工が直す物もあれば、薬師や錬金術師が要る物もある。まず、それを見たい」
「そこで珍しい素材を見つけた場合は?」
「持ち帰らない」
「まだ何も見つけていませんよ」
「あなたが聞くから答えたのよ」
「収納へ入れて確かめることも?」
「しない」
「少し削る程度なら?」
「しないわよ」
「熱を加えて反応を見ることも?」
「しないって言っているでしょう」
ヴァルトの口元がわずかに動いた。
「笑ったわね」
「確認が取れて安心しただけです」
「真壁みたいなことを言わないで」
セルマは言ってから、口をつぐんだ。
真壁に言われたからやめるのではない。
自分で止まるために行くのだ。
「現地へ送ってくれれば、あなたは戻っていいわ」
「お1人で?」
「復旧隊のいる場所へ下ろして。3日後、同じ場所まで迎えに来て」
「通信はできません」
「日没前には待っている」
「危険があれば、復旧隊と一緒に退避してください」
「分かってる」
「本当に?」
「あなた、昨日まで私を何だと思っていたのよ」
ヴァルトは答えなかった。
答えないところを見ると、ろくな評価ではなかったらしい。
「明日の朝でいい?」
「今日は子どもたちから離れられません」
「……そう」
セルマは階段へ目を向けた。
先ほどの少年が、年少の子どもを数えながら廊下の角を曲がっていく。
「なら、明日でいいわ」
「承知しました」
ヴァルトが予想外の返事を聞いたような顔をする。
「何よ」
「いえ。今すぐでなければ駄目だと言われると思っていました」
「まだ何も変わってないわよ」
変わったと言われるほどのことはしていない。
ただ、扉を開けずに待っただけだ。
工房へ戻ったセルマは、作業台に空の木箱を置いた。
試薬棚へ手を伸ばし、途中でやめる。
未知の結晶を削る刃も、魔力測定具も必要ない。
応急用のポーション。
空の薬瓶。
秤。
厚手の手袋。
洗浄用の水。
補修に使う金属材。
小型炉。
蓋の締まる隔離容器。
ひとつずつ箱へ入れていく。
最後に札を3枚作った。
再利用。
廃棄。
保留。
セルマは少し考え、「保留」の札を一番上に置いた。
翌朝、ヴァルトは約束より早く工房へ来た。
「準備は?」
「できているわ」
木箱を持ち上げようとすると、ヴァルトが先に収納する。
「自分で持てる」
「転移の途中で手を離すと困ります」
「離さないわよ」
「昨日の子どもたちも全員そう言いました」
反論するうちに、箱は消えていた。
「行きますよ」
差し出された手を取る。
足元から感覚が抜けた。
身体の置き場所が一瞬なくなり、次に靴底へ返ってきたのは、工房の床ではなく湿った土だった。
煙と泥と、生木の匂いがする。
魔力だまりの気配はない。
空も晴れている。
それでも、村は元へ戻っていなかった。
屋根を失った家の横へ、雨除けの布が張られている。
外れた車輪が壁へ立てかけられ、泥をかぶった農具が道端へ並べられていた。
兵士たちは剣ではなく、縄や鋤を手にしている。
壊れた橋へ板を渡す者。
水路から泥を掻き出す者。
配給用の袋を数える者。
真壁たちが巨人を倒し、魔力だまりを除去し、地下から大量の資源を回収した。
セルマが西方を思い出す時、頭に浮かんでいたのは、人工魔石へ使った結晶や鉱物のことばかりだった。
村には、そんな物を見たこともない人間が残っている。
「こちらです」
ヴァルトが復旧隊の責任者へ声をかけた。
「領都の錬金術師、セルマさんです。3日間、復旧作業へ加わります」
「錬金術師殿が?」
責任者は、セルマの後ろに助手も荷車もないことを確かめるように見た。
「何をお願いできますか」
セルマは周囲を見回した。
「今、一番止まっているのは何?」
「止まっている?」
「それが直らないせいで、次の仕事へ進めない物よ」
責任者は少し考え、村の端を指した。
「薬房です」
薬房は、壁より先に匂いで分かった。
湿った薬草。
黴。
煤。
割れた瓶からこぼれた薬液。
屋根の一部が落ち、床へ泥が入り込んでいる。
棚は傾き、乳鉢は欠け、秤は片方の皿を失っていた。
痩せた老薬師が、割れた瓶を布へ包んでいる。
「新しい道具が来るまで、薬は作れません」
「いつ来るの?」
「早くて10日先でしょう」
復旧隊の責任者が答えた。
セルマは薬房の中へ入った。
「その間、薬が要らないわけじゃないでしょう」
「ですから、領都から届く分を――」
「足りてる?」
責任者は答えなかった。
セルマは手袋をはめた。
「まず、中を全部出すわよ」
湿った薬草を布の上へ広げる。
表面が乾いていても、茎へ水気が残っている物がある。葉の裏へ白い黴が出た物もあった。
残せる物と捨てる物を分ける。
「これは高価な粉薬です」
薬師が泥の付いた袋を持ち上げた。
札は濡れ、文字が滲んでいる。
「中身は?」
「おそらく解熱薬かと」
「おそらく?」
「隣の棚に置いてありましたから」
「捨てるわ」
老人の顔が曇った。
「まだ使えるかもしれません」
「熱のある人間に、何か分からない粉を飲ませるの?」
薬師は袋を見つめ、しばらくして廃棄用の布へ置いた。
割れた薬瓶は、泥と薬液を洗い落とす。
使える破片を収納へ入れ、溶かす。
セルマは最初に1本だけ固形化した。
光へ透かす。
水を入れる。
漏れはない。
「蓋を」
薬師が木の蓋を押し込んだが、途中で止まった。
「口が狭いですね」
「測ったはずなのに」
セルマは瓶を取り返した。
もう一度寸法を測る。
蓋の方が、乾燥して少し歪んでいた。
「瓶だけ合わせても駄目ね」
2本目は、使われている蓋を数個測ってから作った。
今度は収まり、逆さにしても水が漏れない。
「これなら」
「ええ。残りもこの寸法で作るわ」
「最初からまとめて作らなかったのですか」
「今、1本失敗したでしょう」
薬師が黙った。
セルマも、それ以上は言わなかった。
薬炉は、外側の亀裂より内部の方がひどかった。
火を回す溝が崩れ、片側だけが高温になる。
「作り直した方が早いわね」
口にした途端、薬師が炉の横に積まれた鍋を見た。
「その炉に合わせた道具しかありません」
鍋の足も、蒸し器の枠も、炉の幅に合わせて作られている。
炉だけ新しくすれば、ほかが使えなくなる。
セルマはしゃがみ込み、崩れた箇所をもう一度覗いた。
「石工と鍛冶屋を呼んで」
「錬金術で直されるのでは?」
復旧隊の責任者が尋ねた。
「石を削るのは石工。枠を叩くのは鍛冶屋よ。私は、どこを残すか決める」
呼ばれてきた石工へ、外す石を示す。
鍛冶屋には歪んだ金属枠を渡した。
「全部新しくすれば丈夫になるぞ」
「今ある鍋が載らなくなるでしょう」
「なら鍋も直す」
「次に壊れた時は?」
鍛冶屋がセルマを見る。
「この村で直せる形にして。私がいないと使えない物にしたくないの」
「錬金術師ってのは、もっと何でも1人でやるもんだと思ってた」
「私もそう思ってたわ」
言ってから、自分で少し可笑しくなった。
石を削る音と、金属を叩く音が薬房へ響く。
待つ時間は長かった。
それでも、セルマは手を出さなかった。
石工の仕事を奪ってまで早く終わらせても、何も残らない。
「それも錬金術なの?」
背後から子どもの声がした。
薬草の籠を抱えた子が、戸口に立っている。
「何が?」
「瓶を作ったり、壊れた炉を直したりするの」
「使えるように戻すなら、そうでしょうね」
「薬を作らなくても?」
「錬金術師が毎日、薬ばかり煮てると思ってたの?」
子どもは素直に頷いた。
「まあ、私も前は似たようなものだと思ってたけど」
子どもが籠から葉を1枚出した。
「これは?」
「私に聞く前に、どこを見るの」
子どもは困った顔をした。
セルマは葉を返す。
「裏」
「黒い点がある」
「茎」
「柔らかい」
「匂い」
鼻へ近づけた子どもが顔をしかめる。
「変」
「なら捨てる」
「端だけ切れば?」
「薬へ入れたいなら、自分で飲めると思う物だけにしなさい」
子どもはしばらく葉を持っていたが、やがて廃棄用の籠へ入れた。
翌日、薬房の床下を片づけていた兵士が、泥の塊を運んできた。
「中で何か光っています」
泥を落とすと、黒い石の奥に紫色の筋が見えた。
セルマの指が動いた。
鑑定。
名称は出ない。
組成も不明。
魔力へ反応する可能性だけが表示される。
収納へ入れれば、成分を分けられるかもしれない。
薄く削れば、内部が見える。
少し熱を加えれば――
「きれい」
昨日の子どもが手を伸ばした。
「触るな」
セルマはその手首をつかんだ。
強くつかみすぎたらしく、子どもが目を見開く。
「ごめん。でも触らないで」
道具で石を挟み、隔離容器へ入れる。
蓋を締め、上から蝋を落とした。
札を貼る。
保留。
「持ち帰らないのか?」
兵士が尋ねた。
「今の私じゃ判断できない」
「領都なら調べられるだろう」
「持ち運んでいい物かも分からないのよ」
石を見つけた場所を記録し、そのまま復旧隊へ預けた。
容器から手を離す時、指が少し惜しんだ。
調べたい。
正体を知りたい。
真壁より先に見つけたい。
その気持ちは、なくなっていない。
なくならなくても、手を離すことはできた。
3日目の朝、修理した薬炉へ火を入れた。
「最初は水だけよ」
薬師が鍋へ水を張る。
弱い火から始め、煙の流れと石の温まり方を見る。
石工と鍛冶屋も、戸口で腕を組んでいた。
鍋の底へ小さな泡が浮かぶ。
片側だけが煮立つことはない。
火を少し強くする。
ぱき、と小さな音がした。
全員の動きが止まった。
「薪を抜いて」
セルマが炉へしゃがみ込む。
新しい亀裂ではなかった。
接合部の耐熱材が沈み、細かな隙間ができている。
「ここを埋め直すわ。今日は薬を作らない」
「もう水は沸いていますが」
「だから何よ。薬を入れた後に割れたら、全部捨てることになるでしょう」
薬師は鍋を下ろした。
昼までかけて接合部を直し、もう一度水を沸かす。
今度は音がしなかった。
火を落とし、冷めるまで待つ。
夕方になって、ようやく薬師が薬草を量り始めた。
作るのは、傷を洗うための薬だった。
セルマは横から秤と火加減を確認する。
混ぜるのは薬師。
薬を瓶へ移すのも薬師。
出来上がった薬は、作業中に腕を切った兵士へ使われた。
派手な効果はない。
傷口を洗い、清潔な布を巻く。
兵士は礼を言い、また作業へ戻っていった。
「また来る?」
薬草を分けていた子どもが聞いた。
「来るわよ。直したばかりの炉を放っておいたら、気持ち悪いもの」
「その時も見てていい?」
「邪魔しなければね」
「薬草も?」
「それは薬師に聞きなさい。私の薬房じゃないわ」
子どもは老薬師を振り返った。
薬師は少し考え、顎を引いた。
日没前、セルマは転移してきた場所へ戻った。
持ち帰るのは、修理した箇所と廃棄品を書いた紙だけだった。
珍しい素材もない。
新しい薬もない。
弟子もいない。
ほどなく足元が揺らぎ、ヴァルトが現れた。
「お待たせしました」
「時間どおりよ」
ヴァルトはセルマの周りを見た。
「お1人ですね」
「誰か連れて帰ると思っていたの?」
「可能性はあるかと」
「私は仕事をしに来たの。弟子へ勧誘しに来たんじゃないわ」
「何か得るものはありましたか」
「質問が商人みたいになってるわよ」
「行商人ですからね」
セルマは紙を押しつけた。
「薬房を使えるところまで戻した。未知の石が1つ出たけれど、現地へ置いてきたわ」
ヴァルトが紙から顔を上げる。
「持ち帰らなかったのですか」
「悪い?」
「いいえ」
「驚かないのね」
「セルマさんが、そうすると決めて来たのでしょう」
その時、村の方から足音がした。
「待って!」
薬房にいた子どもが、小さな布包みを持って走ってくる。
「これ」
包みの中には、乾かした薬草が数枚入っていた。
「今日、自分で分けた。次に来た時、使えるか見て」
セルマは葉を1枚取りかけた。
鑑定すれば、ここですぐ答えられる。
だが、子どもは「次に」と言った。
セルマは包みを閉じた。
「分かった。次は一緒に見るわ」
子どもは笑い、薬房へ駆け戻っていった。
「名前は?」
ヴァルトが尋ねる。
「聞いてない」
「弟子候補ではなかったのですか」
「だから聞かなかったのよ」
セルマは布包みを持ち直した。
「次に会った時に聞くわ」
領都へ戻ると、工房には薬品と金属の匂いが残っていた。
3日しか離れていない。
それでも、棚に並ぶ器具の見え方が少し変わっていた。
ヴァルトが、セルマの持つ包みへ目を向ける。
「また西方へ行かれるのですね」
「炉の様子を見ないといけないでしょう」
「それだけですか」
「うるさいわね」
セルマは作業台へ包みを置いた。
開いてみると、葉の乾き方はまだ揃っていなかった。
端に湿り気の残る物がある。
傷んだ箇所を取りきれていない葉も混じっている。
セルマは紙を1枚取り出した。
乾燥時間。
葉の裏。
茎の硬さ。
次に確かめることを、簡単に書いて包みの横へ置く。
名前を聞くのは、その時でよかった。