放課後を告げるヴァルトの声が響くと、教室の空気が一斉にほどけた。
「今日は串焼き、残ってるかな」
「先に地下へ行こうぜ。揚げ芋がなくなるぞ」
王都から来た20人に、領都の孤児院から加わったリオとメル。22人の声が重なり、石板を棚へ戻す音まで騒がしくなる。
その中から、澪を見つけたメルが駆けてきた。
「澪せんせ〜!」
「走ったら危ないですよ」
注意しながらも、澪は飛び込んできたメルを両腕で受け止めた。
「先生、今日は一緒に食べるの?」
「後で地下へ行きます。先に皆さんで食べていてください」
「やった!」
メルが澪へ抱きついたまま笑う。
そこへリオも石板を抱えてやってきた。
「澪先生、今日の計算、全部できた」
「そうですか。頑張りましたね」
「ヴァルト先生にも丸をもらった」
「きちんと復習した成果ですね。偉いですよ」
澪は落ち着いた声で褒めた。
落ち着いていなかったのは、その顔である。
顎がほんの少し上がり、目尻は緩み、引き締めようとした口元がまったく引き締まっていない。
リュシアが、その横顔を見た。
「ああ」
「何ですか」
「澪は、その顔になるんだね」
「どの顔ですか」
「先生と呼ばれて、すっかり満たされている顔だよ」
「満たされていません」
澪は即答したが、メルの頭を撫でる手は止まらなかった。
真壁も澪を眺める。
「なるほど。自己承認欲求が十分に満たされた者の表情か」
「分析しないでください!」
「鑑定は使っておらん」
「見ただけで分かるんですか!」
「分かりやすいからね」
リュシアが頷いた。
「いつもの顔だよ」
ヴァルトは驚きもせず、残った石板を棚へ戻している。
澪が振り返った。
「ヴァルトさん?」
「子どもたちが問題を解けた時や、先生と呼んだ時は、だいたいその顔になるね」
「毎回ではありません!」
「毎回だとも」
「先生、また教えてね」
メルが澪を見上げた。
「はい。分からないところがあれば、いつでも聞いてください」
返事が妙に早かった。
リュシアが真壁を見る。
「嬉しいんだね」
「嬉しいのだろうな」
「2人とも、聞こえていますよ!」
リオとメルが笑いながら、他の子どもたちの後を追う。
澪は教室を出るまで2人を見送り、それから何事もなかったように真壁たちへ向き直った。
ただし、口元にはまだ名残が残っていた。
「澪君」
「何ですか」
「よい顔だった」
「実験を始めてください!」
ラウを除いた21人が夕食の相談をしながら地下1階へ向かい、廊下の向こうへ消えていく。
ラウだけは、自分の席に座ったままだった。
石板はとっくに棚へ戻してある。両手を膝へ置き、教室の後ろに立つ真壁たちをじっと見ていた。
「ラウ君」
ヴァルトが呼ぶ。
「分かってる。勝手には始めない」
「それなら結構」
「だから早く始めようぜ」
「分かっていないようだね」
ヴァルトが教室の戸を閉める。
残ったのは、ラウ、真壁、ヴァルト、澪、リュシアの5人だった。
真壁は教室の中央へ目を向けた。
「少々狭いな」
「机を動かしましょうか」
澪が袖をまくるより早く、中央に並んでいた机と椅子が消えた。
真壁がまとめて収納へ入れたのだ。
「これでよい」
「早いね」
リュシアは感心しかけたが、すぐに真壁の右手を見た。
その手は、次の物を取り出そうとしている者の構えだった。
「真壁さん」
「何だね」
「今日は相談だけだったよね?」
「実験を行うことになった」
「昼間に決まったばかりだよ」
「左様」
「その割に、ずいぶん準備のよい顔をしているね」
真壁は答えず、収納から大型の天秤を出した。
続いて荷重を測る秤。
鉄球と木球。
砂袋。
記録用紙。
最後に、同じ大きさへ切りそろえられた鉄塊が床へ並ぶ。
澪が指で数えた。
「1、2、3、4、5」
澪は鉄塊から顔を上げ、教室に残った者を順番に見た。
「真壁さん」
「何だね」
「どうして鉄塊が、ちょうど5個あるんですか?」
「比較する者が5人だからだ」
「今日のために用意したんじゃないですか」
「資源分離用の鉄を、同じ重量へ切り分けただけだ」
リュシアが両手を腰へ当てた。
「それを用意したと言うんだよ!」
「新造した物ではない」
「言葉の隙間へ逃げ込まないでおくれ!」
真壁は鉄塊を天秤の横へ並べた。
どれも同じ形、同じ大きさで、表面まできれいにそろっている。
澪が1つを指でなぞった。
「これ、本当に今日作ったんじゃないんですか?」
「帳場からここへ来る間に切り分けた」
「歩いている間に作っていますよね?」
「移動時間は有効に使うべきだ」
「歩きながら鉄を切らないでください」
「収納内だ」
「そういう問題ではありません!」
ラウが笑いながら鉄塊へ手を伸ばした。
その手を、ヴァルトの杖が軽く押し戻す。
「まだ触れてはならないよ」
「触るだけだぞ」
「君の場合、触るだけでは終わらない」
「俺を信用してないのか?」
「それについても、先に話がある」
真壁がラウへ向き直った。
「ラウ君。こちらへ来たまえ」
真壁の声から、先ほどまでの軽いやり取りが消えていた。
ラウもそれに気づき、鉄塊から離れる。
「何だよ」
「君の力についてだ」
真壁はラウへ鑑定を向けた。
「西方へ向かう前、私はヴァルト君とともに君を鑑定した」
「俺を?」
「左様」
真壁は表示を確かめ、そこに出ている言葉を読み上げた。
【特殊スキル】
【重力 芽あり】
ラウは聞き慣れない言葉を口の中で繰り返した。
「重力……」
「西方へ向かう前には、すでにこの芽が出ていた」
ヴァルトが静かに補う。
「ただし、芽があるだけで、まだスキルとして使える状態ではなかった」
ラウが真壁を見上げる。
「前から知ってたのか?」
「知っていた」
「何で教えてくれなかったんだよ」
「あの時は、戦場へ向かう直前だった」
「だからって」
「伝えれば、君はその場で試しただろう」
「試さないよ」
「試しただろうね」
リュシアが即答した。
「真壁さんたちに隠れて、こっそり試したと思います」
澪も迷わなかった。
ラウが2人を振り返る。
「俺を何だと思ってるんだよ」
「新しい力があると知って、帰るまで一度も使わずにいられる子どもではないと思っているよ」
ヴァルトが答えた。
「ヴァルトまで」
「反論できるかね?」
「できる」
ラウは胸を張った。
「どんなふうにだい?」
リュシアが尋ねる。
「ちょっとだけ試す」
「試すんじゃないか!」
ラウは口を閉じた。
真壁が小さく息を吐く。
「ゆえに、あの場では『帰ってからだ』と保留した。未確認の力を戦場で試させるわけにはいかん」
「俺が信用できなかったからじゃないのか?」
「信用の問題ではない。危険な場所で未知の力を渡さぬのは、連れてきた大人の責任だ」
ラウは少し俯いた。
不満がすべて消えたわけではない。それでも、真壁の説明には納得したらしい。
「今なら使えるのか?」
「君が望むならな」
真壁はラウの残りSPを確認した。
「芽を正式なスキルへ変えるには、SPを1使う必要がある」
「俺、自分じゃ見えないぞ」
「君は鑑定を持っていない。私が内容を確認し、君の同意を得た上で割り振る」
真壁はそこで言葉を切った。
「ただし、飛行船のために取得せよとは言わん」
ラウが顔を上げる。
「空を飛ぶ話とは別なのか?」
「別だ。これは君のSPであり、君の力だ。使うか否かは、君が決めたまえ」
「今は見送っても構わないよ」
ヴァルトも続ける。
「取得してみれば、君が考えていた力とは違う可能性もある」
「真壁さんに期待されているから、という理由で決めなくていいんですよ」
澪が言った。
「昨日まで重力なしで生きてきたんだ。今日取らなくても困りはしないよ」
リュシアも急かさなかった。
4人が黙る。
ラウは自分の両手を見つめた。
指を開き、握り、また開く。
「俺、自分が何をできるのか知りたい」
やがて顔を上げた。
「空を飛ぶ船も見たい。でも、その前に、この力が何なのか知りたい」
真壁が確認する。
「重力を取得するのだな?」
「うん。俺が決めた」
「承知した」
ラウの同意を受け、真壁がSPを1割り振る。
【重力 Lv1】
表示が切り替わった。
だが、ラウが光ることはなかった。
床も揺れない。
風も起こらない。
ラウは手を握ったり開いたりした。
「……何も変わらない」
リュシアが天井を見る。
「いきなり浮かなくてよかったよ」
「少しくらい浮いてもよかったのに」
「天井を壊すので駄目です」
澪が即座に止める。
「浮く力とは限らん」
真壁が口を挟んだ。
「真壁さんまで期待させないでおくれ」
「可能性を否定しなかっただけだ」
「子どもの前では、それを期待させると言うんだよ」
ヴァルトが天秤の両側へ、同じ鉄塊を1つずつ載せた。
左右の皿が釣り合う。
「まずは使用前の状態を確認しよう」
真壁、ヴァルト、澪、リュシアが同時に鑑定を使う。
材質は鉄。
重量は10kg相当。
大きさと形状に変化なし。
魔力反応もない。
リュシアが鑑定表示を見ながら尋ねる。
「どうして私まで鑑定しているんだい」
「止めるには、何が起きているか知る必要があります」
澪が答える。
「そうだね」
「もう立派な実験参加者ですね」
「私は監視役だよ」
真壁がラウへ片側の鉄塊を示した。
「触れて、軽くしてみたまえ」
「どうやって?」
「それを確かめるための実験だ」
「分からないのにやらせるのかよ」
「私が知っているなら、君へ頼む必要はあるまい」
「それもそうか」
ラウは天秤の前へしゃがみ、鉄塊へ右手を置いた。
「軽くなれ」
何も起きない。
「軽くなれ!」
少し大きな声で言う。
やはり天秤は動かなかった。
ラウが鉄塊を睨む。
「聞こえてないのか?」
「鉄へ大声を出しても変わらん」
「じゃあ、どうするんだよ」
ラウは腕へ力を込め、鉄塊を持ち上げようとした。
真壁が止める。
「腕で持ち上げる必要はない」
「軽くするんだろ?」
「腕力で軽く見せても、実験にはならん」
ヴァルトがラウの横へ膝をつく。
「鉄を上へ押し上げようとせず、下へ引かれている感覚を探し給え」
「下へ?」
「君の手も、鉄も、床へ引かれている。その働きへ意識を向けるのだ」
ラウは首を傾げた。
それでも、もう一度鉄塊へ手を置く。
今度は腕へ力を入れなかった。
手の下にある重さ。
鉄が皿を押し、皿が天秤を押し、そのすべてが床へ向かっている感覚。
ラウの眉間に皺が寄る。
天秤の皿が、ごくわずかに揺れた。
「あっ」
「そのままだ」
真壁の声が低くなる。
「力まず、その感覚を維持したまえ」
ラウが鉄塊を見つめる。
天秤が、ゆっくり傾き始めた。
ラウが触れている側の皿が上がり、反対側が下がる。
澪が秤の目盛りを読む。
「10kg相当から、8kg……7kg相当です」
「本当に軽くなったのか?」
ラウが手を離しかける。
「まだ離さないでください」
澪が止めた。
「記録中です」
リュシアが鉄塊を横から覗き込む。
「形は変わっていないね。小さくもなっていない」
ヴァルトは魔力の動きを追っていた。
「魔力は入った。だが、上へ押し続けている流れではないようだ」
真壁がリュシアを見る。
「リュシア君。持ってみていただきたい」
「どうして私なんだい」
「変化を確かめるには、使用前の重さを知る者がよい」
「真壁さんも知っているだろう?」
「私は記録を取っている」
「便利な言葉だね、記録というのは」
リュシアは疑わしそうな顔のまま、両手で鉄塊を持とうとした。
10kgを持ち上げるつもりで腰を落とす。
だが、鉄塊は予想よりも軽かった。
「わっ」
勢い余って上体が後ろへ傾く。
澪が背中を支えた。
「大丈夫ですか?」
「軽くなっているなら、先に言っておくれ!」
「7kg相当と伝えたはずだ」
「数字で聞くのと、実際に持つのは違うんだよ!」
リュシアは鉄塊を皿へ戻し、真壁を睨んだ。
「次は自分で持ちな」
「承知した」
「どうして今は素直なんだい」
「比較対象は多い方がよい」
「やっぱり私を参加者へ数えているじゃないか!」
ラウが笑った拍子に、鉄塊から手を離した。
「あ」
全員の視線が天秤へ集まる。
だが、皿はすぐには戻らなかった。
軽くなった状態を保ったまま、わずかに揺れている。
「効果が残っています」
澪が鑑定を続ける。
「ラウ君から魔力は流れていません」
「一度与えた変化が、鉄塊へ固定されているようだね」
ヴァルトも頷いた。
「ラウ君」
真壁が呼ぶ。
「元へ戻せるかね」
「触らなくても?」
「試したまえ」
ラウは鉄塊を見つめた。
「戻れ」
変わらない。
先ほど感じた、鉄が床へ引かれる感覚をもう一度探す。
「元に戻れ」
天秤の皿がゆっくり下がり、左右が水平へ戻った。
「戻った!」
ラウが声を上げる。
澪は持続時間と変化を記録した。
リュシアは天秤を見ながら、顎へ手を当てる。
「軽くした樽を運んでいる途中で、急に戻ったら危ないね」
「持続時間と戻り方は確認する必要がある」
真壁が答えた。
「もう次の実験を増やしたね」
「必要な確認だ」
「今日は持続時間までにしてください」
澪が先に線を引いた。
「大きな物は次回です」
「異論はない」
「台車を出そうとしていましたよね」
「まだ出していない」
「収納へ手を向けていました」
「準備しただけだ」
リュシアが澪を見る。
「この人、準備を実行に数えないんだね」
「鉄塊の時も同じでした」
4人は使用前、使用中、使用後の記録を並べた。
真壁が鉄塊を指す。
「材質も形状も変わっていない。鉄そのものが減ったのではない」
ヴァルトが続ける。
「上へ押したのでもない。対象へ働く、下へ引く力へ干渉したと考えるべきだろう」
「つまり?」
ラウが尋ねる。
「鉄を減らさず、軽くした」
真壁が答えた。
「最初からそう言ってくれよ」
「最初は、それが正しいか分からなかった」
その時、澪が小さく息を呑んだ。
「真壁さん」
「何だね」
「私の特殊スキル欄に、表示が増えました」
澪が鑑定結果を開く。
【重力 芽あり】
真壁とヴァルトも、自分自身を鑑定した。
2人にも同じ表示がある。
リュシアは、3人の顔を順番に見た。
「まさか」
自分の鑑定欄を開く。
【重力 芽あり】
リュシアの眉が寄った。
「どうして止めに来た私まで出るんだい」
「最初から最後まで鑑定していましたからね」
澪が言う。
「鉄塊も持ち上げていました」
「軽くなっているか確認しただけだよ」
「実験参加ですね」
「私は監視役だって言っただろう」
「十分に理解した証拠だ」
真壁が満足そうに頷く。
「嬉しそうに言わないでおくれ」
真壁は迷わずSPを割り振った。
【重力 Lv1】
ヴァルトも続く。
「術式へ置き換えるなら、自分でも作用を知る必要があるね」
【重力 Lv1】
澪も残りSPを確認した。
「比較できる人が多い方が、安全に調べられます」
【重力 Lv1】
3人が取得を終える。
視線がリュシアへ集まった。
リュシアは両腕を胸の前で組む。
「私は取らないよ」
「なぜだね」
「私は商人だよ。鉄の塊を浮かべる仕事じゃない」
「穀物袋の荷役には使える」
「人を雇えばいいよ」
「樽を棚へ上げる時にも有効だ」
「それも倉庫の仕事だね」
「荷車が泥へはまった場合は――」
「今日は荷車を出さない約束だっただろう?」
先回りされ、真壁が口を閉じた。
リュシアが鼻を鳴らす。
「商売の話で私を釣ろうったって、そうはいかないよ」
「左様か」
真壁はあっさり引き下がった。
その素直さに、澪は嫌な予感を覚えた。
「真壁さん」
「それに、リュシア君。知っているかね」
真壁は、リュシアを正面から見た。
「世の女性の美とは、重力との戦いであるという格言を。澪君?」
教室から音が消えた。
リュシアの笑顔も消えた。
「……何だって?」
澪が勢いよく真壁を見る。
「どうして私に確認するんですか!」
「ゲンダイの女性として、見解を聞いている」
「私を巻き込まないでください!」
「否定はしないのだな」
「そういう問題ではありません!」
リュシアが、ゆっくりと澪を見る。
「澪」
「違います。私が言ったんじゃありません」
「でも、否定しなかったね?」
「真壁さんが急に恐ろしい角度から攻撃したので、反応が遅れただけです!」
ラウが首を傾げる。
「美人と重力って関係あるのか?」
「ラウ君は知らなくていい」
澪とリュシアの声が重なった。
ヴァルトは口元へ手を当て、顔を横へ向けていた。
肩がわずかに揺れている。
「ヴァルト君」
「私は何も言っていないとも」
「笑っているじゃないか!」
「実に興味深い格言だと思ってね」
「そっちも敵かい!」
真壁は淡々と続ける。
「重力を弱めれば、少なくとも持ち上げる負担は減る」
「何を持ち上げるつもりだい!」
「一般論だ」
「絶対に一般論じゃないよ!」
澪が真壁の袖を引いた。
「真壁さん。今のは謝った方がいいです」
「私はリュシア君の美を損なうとは一言も申していない」
「言っていないところが、もっと悪いんです!」
リュシアは真壁を睨んだまま、自分の鑑定欄を開いた。
残っているSPを確認する。
「取るよ」
澪が振り返る。
「リュシアさん?」
「商人として必要だから取るんだ。今の話とは何の関係もないよ」
「左様か」
「その納得した顔をやめておくれ!」
リュシアは勢いよくSPを割り振った。
【重力 Lv1】
表示が切り替わる。
真壁が満足そうに頷いた。
「これで5人そろったな」
「真壁さん」
「何だね」
「私に重力を使ったら、商会への出入りを止めるよ」
「その必要はあるまい」
「今、必要がないだけだろう!」
澪は額へ手を当てた。
「商売の説得に失敗したからって、美容へ切り替えるのは卑怯です」
「結果として、リュシア君は有用なスキルを得た」
「成果を出せば許されると思わないでください!」
ラウが感心したように真壁を見る。
「真壁さんって、強いな」
「ラウ君」
澪がラウの両肩をつかんだ。
「今の真壁さんから学んではいけません」
「どうして?」
「大人になってから、ものすごく困るからです」
リュシアが深く頷く。
「特に女商人を敵に回すよ」
真壁だけが、なぜ叱られているのか分からないという顔で、5個の鉄塊を並べ始めていた。
「10kg相当から、5kg相当へ変える」
真壁が5個の鉄塊を示した。
「順に試そう」
「もう次が始まるのかい」
「比較しなければ、共通の作用が分からん」
「美容の話をした直後に鉄塊を並べる人を、信用しろという方が無理だよ」
最初はラウだった。
先ほど感覚をつかんだため、鉄塊の重さはすぐに変わる。
秤の針が10から一気に4まで下がった。
「軽すぎた」
「変化は速いが、止める位置が曖昧だね」
ヴァルトが記録する。
次は真壁。
10、9、8、7と、1kgずつ段階的に下げていく。
時間はかかるが、針は狙った位置で止まった。
「飛行船より先に、新しい秤を作りそうな使い方だね」
リュシアが言う。
「制御できぬ力は装置にできん」
「やっぱり作る前提なんだね」
ヴァルトは魔力の流れを観察しながら重さを変えた。
途中で、鉄塊の片側へだけ作用させようと意識を細く絞る。
「ヴァルトさん」
澪が呼ぶ。
「今は鉄塊全体を5kgにする実験です」
「片側だけ軽くできれば、姿勢制御へ使えると思ってね」
「増やさないでおくれ」
リュシアが止める。
「真壁さんだけ見ていればいいと思っていたのに、こちらにもいたよ」
澪は最初から5kgを狙った。
4.8まで下げ、少し戻し、5.1になったところでもう一度調整する。
最後は針を5へ合わせた。
「細かな制御は、澪君が最も正確だな」
「褒めても、今日中に次の実験はしません」
「まだ何も頼んでいない」
「頼む顔をしています」
最後はリュシアだった。
鉄塊を持ち上げ、自分の腕へかかる重さを確かめながら調整する。
「このくらいだね」
澪が秤を見る。
針は、ほぼ5を示していた。
「正確です」
「倉庫の子が無理なく運べる重さは、手で分かるよ。軽すぎても、今度は乱暴に投げる者が出るからね」
真壁は記録へ書き加える。
「同じ重力Lv1でも、基準の置き方が違う」
「真壁さん」
「何だね」
「私の欄へ『美容』と書いていないだろうね?」
「実用感覚による調整と記した」
「それならいいよ」
「美への応用は別紙に――」
「書かなくていい!」
真壁は無言で別紙を収納へ戻した。
「今、何を隠したんですか?」
澪が問い詰める。
「白紙だ」
「白紙なら隠す必要はありませんよね?」
「今後、使うかもしれん」
「絶対に出さないでください」
5人分の記録を並べ、ヴァルトが共通点を拾う。
「対象の指定。変化量の決定。状態の維持。そして解除。この4つは共通している」
「効果が切れる際、急激に戻らぬ仕組みも必要だ」
真壁が加える。
「この共通部分を術式へ置き換えれば、魔道具化できる可能性はあるね」
「今日は可能性までです」
澪が念を押した。
「術式板を作るのは次だよ」
リュシアも続ける。
「まだ台車を――」
「次回です」
「出さないでおくれ」
真壁は収納へ向けかけた手を止めた。
「承知した」
澪が目を細める。
「やっぱり台車も入っているんですね」
「測定用だ」
「何でも測定用と言えば通ると思っていませんか?」
窓から差す光は、いつの間にか橙色へ変わっていた。
ヴァルトが実験終了を告げる。
真壁は天秤、鉄塊、秤、砂袋を収納へ戻した。
中央に収納していた机と椅子も、元の位置と向きへ戻していく。
ラウは最後に残った鉄球へ触れた。
鉄球が軽くなる。
「ラウ君」
ヴァルトが呼ぶ。
「今日はここまでだ」
「まだ疲れてないぞ」
「疲れてから止めるのでは遅いよ」
リュシアが鉄球を取り上げる。
「力を覚えた初日に使い切るものじゃない」
「あと1回だけ」
「その1回が続くんです」
澪も首を横へ振った。
ラウは渋々、重力を解除した。
ヴァルトが教室の時計を見る。
「もうよい時間だね」
真壁とヴァルトは、記録用紙を挟んでまだ何か話したそうにしている。
リュシアは帳場へ戻るつもりだったが、2人の顔を見て考え直した。
ヴァルトが記録を畳む。
「たまには、皆で飲みに行こうか」
ラウがすぐに立ち上がった。
「俺は飯だぞ」
「分かっているよ」
「私も行きます」
澪が記録を抱えた。
「私もだね」
リュシアも教室の戸へ向かう。
真壁が2人を見る。
「何を警戒しているのだね」
澪とリュシアの声が重なった。
「真壁さんたちです」
ヴァルトが教室の灯りを落とす。
「続きは地下で話そう」
「続ける気なんですね」
澪の声を最後に、5人は地下1階へ向かった。