押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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カクヨムにも掲載するときには変えないといけない。。。


第239話 【ハーメルン版】2000年の続き

 

 地下1階のフードコートでは、先に教室を出た子どもたちが、すでに夕食を始めていた。

 

 長い卓の上には、串焼きや揚げ芋、豆の煮込みが並んでいる。授業中よりも大きな声が飛び交い、空いた皿を持った子どもが、追加を求めて店先へ並んでいた。

 

 ラウは席を探すより先に、串焼きの店へ向かった。

 

「ラウ君」

 

 ヴァルトが呼び止める。

 

「分かってる。走ってないぞ」

 

「それは結構です。ですが、その盆は1人分でしょうか」

 

 ラウの盆には、串焼きが4本、揚げ芋が山盛り、豆の煮込みと黒パンまで載っていた。

 

「重力を使ったから腹が減った」

 

「実験で消費した魔力より、食事の方が多そうですね」

 

「育つ時期なんだよ」

 

 ラウは当然のように答え、空いている丸卓へ盆を置いた。

 

 真壁とヴァルトは麦酒、リュシアは薄めた果実酒を選んだ。澪は香草茶を受け取り、ラウの揚げ芋が卓から崩れないよう、盆を少し中央へ押し戻した。

 

 5人が席へ着くと、ヴァルトが杯を持ち上げた。

 

「では、ラウ君の重力取得と、最初の実験が無事に終わったことに」

 

「予定した範囲で終えられたことにも入れてください」

 

 澪が香草茶を掲げる。

 

「放っておけば、台車まで出ていたからね」

 

 リュシアも杯を上げた。

 

「測定用だ」

 

「まだ言うのかい」

 

 杯が軽く触れ合った。

 

「俺は晩飯に乾杯」

 

「それは毎日でしょう」

 

 ラウは乾杯が終わると、すぐに串焼きへ噛みついた。

 

 1本目を食べ終え、2本目へ手を伸ばしたところで、真壁を見る。

 

「なあ、真壁さん」

 

「何だね」

 

「重力を強くした中で鍛えたら、俺も強くなるのか?」

 

 真壁は麦酒の杯を置いた。

 

「効果はある」

 

 ラウの目が輝く。

 

「本当か!」

 

「ただし、急に強くすれば身体が壊れる」

 

「どのくらいなら大丈夫なんだ?」

 

 真壁が答えるより先に、ヴァルトが懐かしそうに目を細めた。

 

「真壁さん。そういえば、重力を何倍にもした部屋で修行する漫画がありましたね」

 

「ドラゴンボールですね」

 

 澪が応じた。

 

 リュシアとラウが、そろって3人を見る。

 

「ドラゴン……何だい?」

 

 リュシアが聞き返した。

 

「ゲンダイの物語です」

 

 澪は少し考え、言葉を選んだ。

 

「絵と短い言葉を順に追って読む本ですね。何冊にもわたって、長い物語が続きます」

 

「絵本とは違うのか?」

 

「子ども向けとは限りません。大人が読む作品も多いです」

 

「つまり、ゲンダイの絵物語かい」

 

「そう考えてください」

 

 ヴァルトがラウへ向き直る。

 

「その絵物語では、悟空やベジータという武道家が、重力を強くした部屋で修行していました」

 

「どのくらい強くするんだ?」

 

「何十倍、時には100倍以上ですね」

 

「俺もやる」

 

「無理です」

 

 澪が即座に切った。

 

「まだ試してないだろ」

 

「試す前に分かります」

 

「その悟空って奴はできたんだろ?」

 

「物語の中の人物です」

 

「なら、少し下げればいい。10倍くらいだ」

 

「立てん」

 

 真壁が答えた。

 

「5倍」

 

「立てん」

 

「2倍なら?」

 

「危険だ」

 

 ラウが串焼きを持ったまま眉を寄せる。

 

「たった2倍だぞ」

 

「自分と同じ重さの人間を、常に背負っていると考えたまえ」

 

 真壁はラウの頭から足までを指で示した。

 

「腕だけではない。頭も、内臓も、流れる血もだ。立っていれば、脳へ血を送るだけでも負担が増す」

 

「食べ物も重くなるのか?」

 

「部屋全体の重力を変えるならな」

 

 ラウは手元の串焼きを見た。

 

「食べるのも修行になるな」

 

「そこへ感心するのかい」

 

 リュシアが呆れる。

 

「真壁さん」

 

 ヴァルトが杯を置いた。

 

「重力を強くする訓練は、単に重い荷物を持つこととは違うのでしょうか」

 

「違う」

 

 真壁は短く答えた。

 

「石を持つなら、主に腕や脚へ負荷がかかる。空間全体の重力が増せば、立つ、歩く、振り向く、避ける。そのすべてが訓練になる」

 

「身体の動かし方そのものを、学び直すわけですね」

 

「左様」

 

 真壁は自分の耳の横を指した。

 

「人は耳の奥でも、重力と傾きを感じている。耳石器という器官だ。普段とは異なる情報が入れば、小脳は身体の動かし方を修正する」

 

「筋肉だけではなく、動作の制御まで鍛えられる可能性がある、と」

 

「過重力下で運動学習が促される可能性は、ゲンダイでも研究されている」

 

 澪が少し意外そうに真壁を見る。

 

「本当に重力を強くして試したんですか」

 

「人間では2倍程度だ。魚を使った実験もある」

 

「魚まで修行したのか?」

 

「魚に修行のつもりはあるまい」

 

 真壁が答えると、ラウは少し残念そうな顔をした。

 

 ヴァルトは酒杯へ視線を落としながら考える。

 

「筋力を増すだけなら、重い防具でも代用できます。ですが、全身の感覚と動作を作り直すとなれば、重力を変える意味はありますね」

 

「うむ」

 

「ならば、1.5倍程度から――」

 

「高い」

 

 真壁が止めた。

 

「では、どの程度をお考えですか」

 

「始めるなら1.1倍だ」

 

 澪が香草茶を卓へ置いた。

 

「始めませんよ」

 

「仮定の話だ」

 

「具体的な数字が出た時点で、真壁さんの中では設計です」

 

「範囲を限定し、停止役を置く。状態を見ながら1.2倍へ上げる」

 

「役割分担まで決まっていますよね」

 

 リュシアが果実酒を置く。

 

「真壁さん。酒を1杯飲むたびに、商会の設備を増やさないでおくれ」

 

「リュシア君。まだ設備とは申しておらん」

 

「床と壁の材質まで考えている顔だよ」

 

 真壁は答えず、麦酒を一口飲んだ。

 

 ヴァルトが卓上へ指先を置く。

 

「空間全体へ均一に作用させるには、境界で範囲を固定する必要があります。重力を急に戻さないための段階式も要るでしょう」

 

 澪がヴァルトを見る。

 

「ヴァルトさん」

 

「何でしょう」

 

「真壁さんを止める側ではなかったんですか」

 

「危険を止めるには、どこが危険かを把握する必要があります」

 

「同じ物を作ろうとしていますよね」

 

「成立条件を確認しているだけですよ」

 

 リュシアが眉を上げた。

 

「その言い方は、真壁さんと同じだね」

 

 真壁が続ける。

 

「訓練場は明るい方がよい」

 

「照明まで決まったんですか」

 

「明るい環境が、小脳の活動や運動学習を助ける可能性もある」

 

 ヴァルトが小さく笑った。

 

「白く明るい、高重力の空間ですか」

 

 澪が目を細める。

 

「言わないでくださいよ」

 

「精神と時の部屋ですね」

 

「言いましたね」

 

 リュシアが首を傾げた。

 

「今度は、どんな部屋なんだい」

 

 澪が説明する。

 

「先ほどの絵物語に出てくる修行場です。中は白くて広く、外とは時間の流れが違います。重力も地上より強くなっています」

 

「1日で、外の1年分を過ごせる場所でしたね」

 

 ヴァルトが懐かしそうに言った。

 

 ラウが身を乗り出す。

 

「それを作ればいいじゃないか」

 

「作りません」

 

「地下に空いてる部屋は――」

 

「探しません」

 

「白く塗るだけなら――」

 

「塗りません」

 

 澪が1つずつ切った。

 

 リュシアは呆れたように息を吐く。

 

「絵物語の部屋を、そのまま店の地下へ作ろうとするんじゃないよ」

 

「そのままではない」

 

 真壁が訂正する。

 

「安全装置を加える」

 

「改良案も要らないよ!」

 

 ヴァルトは麦酒を一口飲んだ。

 

「ですが、精神と時の部屋という名は、重力を扱う場所として興味深いですね」

 

 澪の視線がヴァルトへ向く。

 

「今度は何ですか」

 

 真壁が答えた。

 

「重力と時間は、無関係ではない」

 

 ヴァルトの目が変わった。

 

「一般相対性理論ですね、真壁さん」

 

「左様」

 

「そこへ行くんですか」

 

 澪が低く言った。

 

 リュシアは2人の顔を見比べる。

 

「重力の話から、どうして時間になるんだい」

 

 真壁は卓上の空いた小皿を2枚並べた。

 

 片方へ自分の麦酒杯を置く。

 

「アインシュタインは、時間と空間を別々のものとは考えなかった」

 

 ラウが小皿を覗き込む。

 

「その人も絵物語に出るのか?」

 

「実在した学者です」

 

 澪が答えた。

 

「真壁さんたちが急に難しい話を始める原因の1人です」

 

「原因とは何だね」

 

「事実です」

 

 真壁は澪の言葉を流し、小皿を指した。

 

「こちらを普通の場所。杯を置いた方を、強い重力のある場所とする」

 

「酒を置くと、時間が遅くなるのか?」

 

「杯は目印だ」

 

 ラウは残念そうに揚げ芋へ戻った。

 

「強い重力のある場所では、弱い場所より時間の進みが遅くなる」

 

 リュシアが杯を見る。

 

「中にいる本人も、動きが遅くなるのかい」

 

「本人には普通だ。心臓も思考も時計も、同じ時間の中にある」

 

 ヴァルトが確認する。

 

「外へ戻り、別の時計と比べて、初めて差が分かるということですね」

 

「うむ」

 

 ラウが眉を寄せた。

 

「重い場所で1日過ごして戻ったら、外では2日たってるのか?」

 

「そこまで差をつけるには、今扱える重力とは比較にならぬ力が要る。だが、考え方は合っている」

 

「未来へ行けるのか」

 

「一方向ならばな」

 

 ラウが揚げ芋を持ったまま固まった。

 

「本当に?」

 

「自分の時間を遅らせ、外の時間だけを先へ進ませる。戻った時には、周囲の方が未来になっている」

 

 ヴァルトが真壁へ向き直る。

 

「高速で移動した場合にも、同じように時間が遅れるのでしたね」

 

「そうだ。光に近い速度で移動する者の時間は、外より遅れる。こちらは特殊相対性理論だ」

 

「強い重力と、高速移動。理由は異なっても、どちらも未来への一方向の移動になるわけですか」

 

「左様」

 

 リュシアが2人を交互に見る。

 

「確認してもいいかい」

 

「何だね」

 

「最初は、ラウが強くなれるかという話だったね」

 

「その前は、空を運ぶ船の話でした」

 

 澪が補足した。

 

「それが、どうして未来へ行く話になったんだい」

 

「重力を辿った結果だ」

 

 真壁が答える。

 

「真壁さんのおっしゃる通りです」

 

「2人で正当化しないでおくれ」

 

 ラウは新しい串焼きを手に取った。

 

「未来へ行けるなら、昨日にも戻れるのか?」

 

「それは別問題だ」

 

 真壁が答える。

 

「未来へ進むだけなら、時間の遅れで説明できる。過去へ戻る方法は確立されていない」

 

「昨日へ戻れたら、昨日の煮込みをもう1回食えるのに」

 

「最初に考えることが、それなのかい」

 

 リュシアが呆れる。

 

「昨日には、昨日のラウ君がいますよ」

 

 澪が言った。

 

「俺が2人になるのか?」

 

「そこで時間旅行の矛盾が生じます」

 

 ヴァルトが答える。

 

「過去を変えれば、自分が過去へ戻った理由まで失われるかもしれません」

 

「意味が分からない」

 

「先ほどの絵物語では、未来から来た少年が過去へ戻ります」

 

 澪が説明を引き取った。

 

「未来では強い敵に多くの人が倒されていました。少年は、その原因を過去で取り除こうとしたんです」

 

「過去を変えれば、未来も直るんじゃないのか?」

 

「彼が来た未来は、直りませんでした」

 

「どうしてだ?」

 

 真壁が2枚の小皿を少し離した。

 

「1本の歴史を書き換えたのではない。少年が過去へ来た時点で、世界が枝分かれしたと考える」

 

「こちらが少年のいた未来。もう一方が、過去へ来たことで生まれた別の未来です」

 

 ヴァルトが小皿を指した。

 

「片方を変えても、もう片方まで同じように変わるとは限りません」

 

 ラウはしばらく考えた。

 

「じゃあ、昨日へ戻って煮込みを食っても、今の俺は腹いっぱいにならないのか?」

 

「別のラウ君が満腹になるだけだ」

 

「意味ないじゃないか」

 

「時間旅行を食事の追加手段にするでない」

 

 真壁が言った。

 

 澪がすぐに返す。

 

「真壁さんにだけは言われたくないと思います」

 

「なぜだね」

 

「収納から食事を追加する人だからです」

 

「時間は移動しておらん」

 

「食事が増える結果は同じだよ」

 

 リュシアが真顔で言った。

 

 ヴァルトは小皿へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。

 

「真壁さん」

 

「何だね」

 

「転移は、離れた2つの場所を接続します」

 

「左様」

 

「では、接続先へ場所だけでなく、時刻を指定することはできないのでしょうか」

 

 澪とリュシアが同時にヴァルトを見た。

 

「できません」

 

「やめておくれ」

 

 ヴァルトはわずかに眉を上げた。

 

「まだ尋ねただけですよ」

 

「ヴァルトさんの質問は、試作の1つ前です」

 

「条件を確認しなければ、危険かどうかも分かりません」

 

「その問いを真壁さんへ渡さないでください」

 

 真壁はすでに考え込んでいた。

 

「現在の転移は、登録した場所を指定している」

 

「真壁さん」

 

「何だね」

 

「受け取らないでください」

 

「理論上の整理だ」

 

「そう言って、いつも物ができます」

 

 真壁は2枚の小皿を見た。

 

「同じ場所でも、時刻によって状態は異なる。転移が空間だけを扱っていると、断定はできん」

 

「真壁さん。私も同じ点が気になります」

 

 ヴァルトが杯の縁へ指を添えた。

 

「離れた場所を隣り合わせにするなら、空間を曲げるか、境界を一時的に接続しているのでしょう。時間も同じ時空の一部なら、完全に無関係とは言い切れません」

 

「ゲンダイにも、離れた時空を穴のようにつなぐ仮説はある」

 

「ワームホールですね」

 

「うむ。ただし、安定させるには、通常とは異なる性質の物質やエネルギーが必要とされる」

 

「この世界には、遊離魔素があります」

 

 ヴァルトが静かに言った。

 

 澪が額へ手を置いた。

 

「出ましたね」

 

「何がでしょう」

 

「ゲンダイにない物を、遊離魔素で埋めようとする発想です」

 

「同じ物だとは申していません。似た性質があるかを確かめるだけです」

 

「その確認のために、実験室が増えるんだよ」

 

 リュシアが果実酒を飲む。

 

「ラウ。よく見ておきな。この2人へ酒を飲ませて昔の絵物語を語らせると、最後には世界の仕組みまで試そうとする」

 

「すごいな」

 

「褒めているんじゃないよ」

 

「しかし、時間を移動する機械を作った技師は、実に優秀ですね」

 

 ヴァルトが言った。

 

「ブルマか」

 

 真壁が頷く。

 

「重力制御装置、宇宙船、探索装置、タイムマシン。戦闘力を持たず、技術で状況を変え続けた」

 

 リュシアが2人を見る。

 

「そのブルマというのは、絵物語に出てくる技師なのかい」

 

「はい」

 

 澪が答えた。

 

「とても頭のいい女性です」

 

「真壁さんとヴァルトが、そろって感心するほどなのかい」

 

「参考になる」

 

 真壁が答えた。

 

「参考にしないでください」

 

 澪が短く切った。

 

 ヴァルトは麦酒を一口飲み、遠い記憶を探すように目を細めた。

 

「ゲンダイの絵物語を魔術の参考にするなら、ジョジョの奇妙な冒険も忘れられません」

 

「ジョジョまで行きますか」

 

 澪が言った。

 

「今度は、どのような話なんだい」

 

 リュシアが尋ねる。

 

「長く続いている、奇妙な冒険の絵物語です」

 

 ヴァルトは少し笑った。

 

「最初は、呼吸によって生命の力を巡らせる波紋という技が出てきます」

 

「呼吸で力を?」

 

「ええ。一定の呼吸で身体の中へ力を巡らせ、手や物を通じて外へ伝えます」

 

「魔力循環や治癒術へ置き換えて考えたくなる技だ」

 

 真壁が言った。

 

「真壁さんも、そう思われますか」

 

「君なら、まずそこへ目をつけるだろう」

 

「否定はできませんね」

 

 澪が2人の間へ視線を入れる。

 

「波紋だけにしてくださいね」

 

「問題は、その後に出てくる幽波紋です」

 

 ヴァルトが続けた。

 

「すたんど、と読むのですが、術者の精神が固有の姿と能力を持って外へ現れます」

 

 ラウがヴァルトの背後を覗く。

 

「人の後ろに、もう1人出てくるのか?」

 

「そのように見えるものもあります。殴るもの、物を動かすもの、遠くを探るもの。能力は使い手ごとに異なります」

 

「便利だな」

 

「絵物語の力ですからね」

 

 澪が念を押した。

 

 ヴァルトは卓上へ指先で小さな線を描いた。

 

「ですが、遊離魔素へ術者の意思を反映させ、使い手ごとに構造を変える可変術式を与えれば――」

 

「ヴァルトさん」

 

 澪が呼んだ。

 

「何でしょう」

 

「もう実現方法を考えていますよね」

 

「まだ着想です」

 

「今の言葉に、遊離魔素と可変術式が入っていました」

 

「方向を考えただけですよ」

 

 リュシアがヴァルトを見る。

 

「その方向へ歩き始めないでおくれ」

 

「すぐに形になるものではありません」

 

「すぐには、なんだね」

 

 真壁は何も言わず、収納へ右手を入れた。

 

 澪が、その動きを見逃さなかった。

 

「真壁さん。今度は何を出すんですか」

 

「ヴァルト君へ渡す物だ」

 

 真壁の指先に、小さな黒いUSBメモリが現れた。

 

「ヴァルト君。進呈しよう」

 

 ヴァルトがUSBメモリを見る。

 

「真壁さん、これは?」

 

「以前渡したノートPCへ挿して使う。君が見られなかった、2000年以降の漫画だ」

 

 リュシアとラウには分からない言葉だったが、ヴァルトの手は止まった。

 

「2000年以降の……」

 

「君が知る作品の続きと、その後に始まった主な作品を収めてある」

 

「ジョジョの続きも、ですか」

 

「うむ」

 

「ドラゴンボールも?」

 

「続きと関連作を入れてある」

 

 ヴァルトが真壁の顔を見た。

 

「真壁さん。これは、いつ用意されたのですか」

 

「君へノートPCを渡した後だ」

 

 澪がUSBメモリを見る。

 

「それから、ずっと収納へ入れていたんですか?」

 

「渡す時機がなかった」

 

「今日、作品の話になると分かっていたわけではありませんよね」

 

「いずれ必要になると判断した」

 

 リュシアが真壁を見る。

 

「何か月も、絵物語の詰まった物を持ち歩いていたのかい」

 

「場所は取らん」

 

「そういう問題ではないよ」

 

 真壁はUSBメモリをヴァルトへ差し出した。

 

「私が購入した電子版を、君の端末で読めるよう整理してある。受け取っていただきたい」

 

 ヴァルトは酒杯を置いた。

 

 両手でUSBメモリを受け取り、指先ほどの記憶媒体を、しばらく黙って見つめた。

 

「私の記憶は、2000年の正月で止まっています」

 

 静かな声だった。

 

「その後にも、物語は続いていたのですね」

 

「左様」

 

「……2000年の続きですか」

 

 ヴァルトは小さく笑った。

 

 新しい術式を見つけた時とは違う。

 

 読むことのできなかった物語へ、ようやく手が届いた者の顔だった。

 

「真壁さん。ありがたく頂戴します」

 

「うむ」

 

「今夜、確認してみましょう」

 

 澪がすぐに口を挟む。

 

「徹夜は駄目です」

 

「一覧を確認するだけですよ」

 

「その後は?」

 

「ジョジョがどこまで続いたかを確認します」

 

「その後は?」

 

「最初の数話を読む程度でしょう」

 

 リュシアがヴァルトの顔を見る。

 

「朝になる顔だね」

 

「私は自制できます」

 

「泊まり込みで働いて亡くなった人の言葉とは思えません」

 

 澪が言うと、ヴァルトは一度黙った。

 

「今回は仕事ではありません」

 

「好きなことの方が止まらないものです」

 

「その点は否定できませんね」

 

 ラウがUSBメモリを覗き込んだ。

 

「そんな小さい物に、絵物語が何冊も入ってるのか?」

 

「かなりの量が入る」

 

 真壁が答える。

 

「俺にも見せてくれよ」

 

「まずは読み書きです」

 

 ヴァルトが教師の顔へ戻った。

 

「文字を覚えれば、自分で読めます。急がず学び給え」

 

「絵を見るだけじゃ駄目なのか?」

 

「言葉を読まなければ、物語の半分も分かりません」

 

「じゃあ覚える」

 

「結構です」

 

 澪が反射的に答えた。

 

 リュシアが澪を見る。

 

 澪も、その視線に気づいた。

 

「何ですか」

 

「何も言っていないよ」

 

「顔に出ています」

 

「澪に言われるとは思わなかったね」

 

 澪は口を閉じた。

 

 ヴァルトはUSBメモリを大切そうに懐へしまう。

 

「ところで、真壁さん」

 

「何だね」

 

「ノートPCはマールヴェインの家にあります。今から取りに戻るには――」

 

「今日は戻りません」

 

 澪が切った。

 

「まだ最後まで申していませんが」

 

「続きを聞く必要がありません」

 

「予備の閲覧端末なら収納にある」

 

 真壁が言った。

 

「出さないでください」

 

「皆で収録内容を確認できる」

 

「確認しません」

 

 リュシアが真壁とヴァルトを交互に見た。

 

「絵物語を渡した途端、飲み会を読書会へ変えるんじゃないよ」

 

「では、飲み終えてから確認しましょう」

 

 ヴァルトが答えた。

 

「今日は寝てください」

 

「澪さん」

 

「何ですか」

 

「26年分あるのですよ」

 

「だから寝てください」

 

 ヴァルトは懐のUSBメモリへ触れ、それ以上は反論しなかった。

 

 過去へ戻る方法も、時間を越える転移術も、まだ誰も知らない。

 

 けれども、2000年の正月で途切れたヴァルトの時間へ、26年分の物語が届いた。

 

 タイムマシンより一足先に、未来の方から彼の手の中へやって来たのである。

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