押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第24話 綺麗な水だけ、トウッ

 

 孤児院の井戸は、朝のうちはまだ冷たかった。

 

 石で囲まれた井戸の縁に、湿った縄がかかっている。桶を引き上げるたびに、縄の繊維から水がぽたぽた落ちた。水面は澄んで見える。底まで見えるほどではないが、少なくとも泥で濁っているようには見えない。

 

 けれど、澪はもう、水が透明だから安心、とは思わなくなっていた。

 

 汲み上げた桶の底に、細かな砂が少し沈んでいる。木桶の内側には古い擦り傷があり、隅には洗い残しのような薄いざらつきもあった。井戸水が悪いのか、桶が悪いのか、それとも汲み上げる途中で混じったのか。見ただけでは分からない。

 

 澪は桶を覗き込みながら、収納五の表示を思い出していた。

 

 時間経過は外の半分。温度変化は無し。分類登録は安定。

 

 便利すぎる。便利すぎて、迂闊に使うと後でリュシアに怒られるやつだ。

 

 今日は、大豆もやしを保存する話ではない。水を入れて運ぶ話でもない。水そのものを、収納の中でどう扱うかを考える日だった。

 

 横では、ミナが両手を前で握って立っていた。小さな布袋や木札なら収納できる。小さな水袋も、桶の上なら出せた。けれど、まだ水を扱うたびに肩が硬くなる。

 

 澪は桶から目を上げた。

 

「収納って、ただ入れるだけじゃないと思うんです」

 

 ミナは不安そうに澪を見た。

 

「しまうだけでは、だめなのですか」

 

 澪は首を横に振る。

 

「しまうだけだと、出す時に事故になります。どこへ出すか、何を出すか、何を残すかまで決めるんです」

 

 ミナは桶の水を見た。

 

「残す……」

 

「はい。今日やるのは、それです」

 

 その言い方をした瞬間、澪は自分の背中にリュシアの視線を感じた。本人はまだ来ていない。だが、絶対にあとで「また仕事を増やしたね」と言われる気がした。

 

 

 

 

 

 澪は桶の横にしゃがみ、鑑定を使った。

 

 水面が少し揺れる。朝の光が井戸の縁で反射し、桶の底に沈んだ砂がきらりと見えた。

 

----------------------------------

井戸水

 透明度:良好

 異臭:なし

 濁り:少

 混入物:細かな砂

 沈殿物:微量

 容器状態:桶内側に古い汚れあり

 用途:飲用候補

 注意:もやし用には上澄み推奨

----------------------------------

 

「やっぱり」

 

 澪が呟くと、トトが横から首を伸ばした。

 

「透明なのに敵がいるのか」

 

「砂と泥は敵というより、混ざってる別のものです」

 

「水、またずるい」

 

「今回は水というより桶もずるいです」

 

 トトは桶を睨んだ。

 

「桶も敵か」

 

「敵にしないでください。洗えば味方です」

 

 シスターが桶を受け取り、内側を指でそっとなぞった。ほんの少し、ざらりとした感触があったのだろう。眉が動く。

 

「この桶は井戸用にしていますが、底の方はもっと丁寧に洗わないといけませんね」

 

「はい。水がよくても、桶で負けます」

 

「桶で負ける水」

 

 トトが妙に気に入ったように言った。

 

 澪はそれを聞き流し、大鍋を用意してもらうことにした。シスターが台所から出してきた大鍋は、普段は汁を作るためのものだが、今日は水の実験用だった。底には古い擦り傷がある。だが、洗われて乾かされていて、今日の桶より状態が良い。

 

 司祭も少し離れたところに立っていた。こういう時、すぐ止めに入れる位置にいる。ありがたいが、少し怖い。

 

 

 

 

 

 澪は桶の水へ手をかざした。

 

 ただの井戸水として入れない。

 

 それが今日の大事なところだった。

 

 井戸水。砂。泥。桶由来の汚れ。

 

 全部をひとつにまとめてしまうと、出す時もひとつになる。そうではなく、最初から別々に見る。別々のものとして、頭の中に置く。

 

「曖昧な水じゃなくて、綺麗な水として見る」

 

 澪は自分に言い聞かせた。

 

 ミナが息を呑んでいる。

 

 澪はミナへ顔を向けた。

 

「ミナ、泥水を静かにしておくと、泥が下へ沈みます。ゆっくり、ゆっくり、砂や泥が下へ落ちていきます。上の方は少しずつ透明になります」

 

「上の方……」

 

「はい。そこだけを見ます。下の泥は残します。上の、綺麗な水だけ。健康に良い、美味しい水。そこだけを思い浮かべるんです」

 

 ミナは大鍋と桶を真剣に見た。小さな唇が、声にならない言葉を何度か繰り返す。

 

 上の方。綺麗な水。下は残す。

 

 澪は桶の水を収納へ入れた。

 

 頭の奥が、細い針で押されるように軋んだ。水をそのまま入れる時より、明らかに意識を使う。分類するというのは、容量とは別の負担だった。桶一杯程度なのに、全身が少し強ばる。

 

 それでも、収納の中に入った感触があった。

 

 水。砂。泥。桶由来のざらつき。

 

 別々に見える。

 

 たぶん、見えている。

 

 

 

 

 

 澪は大鍋の前に立った。

 

 大鍋は洗い場の中央に置かれている。周りには、ミナ、トト、シスター、司祭、そしていつの間に来たのかエレナまでいた。エレナは護衛の後ろから覗いている。リュシアの姿はまだない。

 

 澪は大鍋の上に両手をかざした。

 

 収納の中にある水から、上澄みの綺麗なところだけを出す。砂と泥は残す。桶の汚れも残す。

 

 泥水を静かに置く。

 

 砂が下へ落ちる。

 

 泥がゆっくり沈む。

 

 上の水が澄んでいく。

 

 透明で、冷たくて、嫌な匂いのない水になる。

 

 その上澄みだけをつかむ。

 

「綺麗な水だけ……」

 

 トトが拳を握った。

 

「いけ、澪姉ちゃん」

 

 澪は、掛け声なんか必要なのだろうかと一瞬思った。だが、必要だった。たぶん、合図があるとイメージが固まる。

 

「トウッ!」

 

 大鍋の中へ、水が落ちた。

 

 どばっとではない。太い水の束がほどけるように、上から大鍋へ落ちる。水面が丸く盛り上がり、鍋底へ澄んだ音が響いた。澪はすぐに底を覗き込む。

 

 砂は見えない。

 

 濁りも、ほとんどない。

 

 トトが目を丸くした。

 

「水だけ来た」

 

 シスターは柄杓で少しすくい、匂いを確かめた。すぐ飲もうとはしない。司祭も鍋底を見て、それから静かに頷いた。

 

「飲めるかどうかは、まだ大人が見ます。ですが、砂と泥を残せたのは大きい」

 

 澪はほっとした。

 

「はい」

 

 ミナは、鍋の中の水をじっと見ていた。

 

 その顔は、怖がっているようでもあり、憧れているようでもあった。

 

 

 

 

 

 澪は次に、小鉢を用意してもらった。

 

 収納の中には、残した砂と泥がまだある。水ではないものとして分けたもの。今度はそれだけを出す。

 

「砂と泥だけ、出します」

 

 小鉢の上へ手をかざすと、湿った砂と細かな泥が、ぽとりと落ちた。

 

 トトが顔を近づける。

 

「水、砂を置いてきた」

 

「置いてきたというか、分けました」

 

 ミナが小鉢を見て、小さく言った。

 

「水と、違うもの……」

 

「そうです。砂や泥は、水じゃないものとして見られます」

 

 澪はここで、顔を上げた。

 

 こういう時こそ、強く言わないといけない。

 

「ただし、何でもできるわけじゃありません」

 

 トトがすぐ聞いた。

 

「じゃあ海の水も水だけにできる?」

 

「たぶん無理です。塩は溶けています。砂みたいに見えるものじゃないので、今の収納では分けられません」

 

 エレナが目を細めた。

 

「毒は?」

 

「それも今は無理だと思います。病気の元も、まだ無理です。鑑定で危ないと分かることはあっても、分けられるとは限りません」

 

 司祭が頷いた。

 

「できたことと、できると思い込むことは別です」

 

 その言葉に、澪は少し救われた。自分で言ったのに、どこかで「もしかしてもっとできるのでは」と考えかけていたからだ。

 

 便利な力は、できることより、できないことを先に書いた方がいい。

 

 たぶん帳面に。

 

 また項目が増える。

 

 

 

 

 

 ミナの訓練は、乾いた砂入りの小袋から始めた。

 

 いきなり水は扱わせない。澪はそう決めていた。ミナは真面目で、少し怖がりだ。だからこそ、最初に失敗しても大丈夫なものを使う。

 

「これは砂入りの小袋です。水は入っていません。落としても拭けば終わりです」

 

 ミナは両手で小袋を受け取った。

 

 収納する。すぐに出す。場所は桶の上。

 

 ミナは目を閉じた。小袋が手元から消え、次の瞬間、桶の上にぽとりと出た。

 

「できました」

 

「今のは、ちゃんと場所を決めて出せました」

 

 澪がそう言うと、ミナは少し笑った。小さな笑みだったが、さっきまでの固い表情よりずっといい。

 

 次は木札。次は布。

 

 どちらも成功した。

 

 トトが横で胸を張った。

 

「俺もできる」

 

 リュシアが、いつの間にか洗い場に来ていた。腕を組んで、涼しい顔で言う。

 

「収納がない」

 

「気合いで」

 

「気合いでしまえるのは、言い訳くらいだよ」

 

 子どもたちが笑った。

 

 トトは少し考えてから言った。

 

「言い訳ならいっぱいしまえる」

 

「出さなくていい」

 

 リュシアは即答した。

 

 

 

 

 

 次は、少量の水だった。

 

 澪は小さな器に水を入れ、ほんの少しだけ砂を混ぜた。目で見れば分かる程度。失敗しても床を拭けば済む量。シスターが布を用意し、司祭は少し離れた場所から見守っている。

 

 澪は鑑定した。

 

----------------------------------

少量の水

 透明度:普通

 混入物:砂少量

 用途:訓練用

 注意:飲用不可

----------------------------------

 

 ミナの肩が強ばった。

 

「床に出したら」

 

「床に出したら、今日は失敗で終わりです。でも怒りません。だから少ない量にしています」

 

 司祭が穏やかに言った。

 

「失敗できる量から始める意味があります」

 

 ミナは頷いた。

 

 澪はもう一度、イメージを教える。

 

「砂が下へ沈みます。上の方が透明になります。綺麗な水になります。美味しい水になります。そこだけを思い浮かべます」

 

「下は、残す」

 

「はい。下は残します」

 

 ミナは器に手をかざした。小さな水が収納される。ミナの眉が寄る。

 

 次に桶の上へ出す。

 

 水は出た。

 

 だが、桶の中心から少しずれて、縁に当たり、一部が外へ跳ねた。

 

 ミナの顔が青くなる。

 

「すみません」

 

 澪はすぐに言った。

 

「大丈夫です。ここで練習してよかったんです」

 

 シスターが布で床を拭きながら続けた。

 

「こぼれた水は、使いません。失敗したら捨てる。怒らずに覚える。それでよいのです」

 

 リュシアは澪を見た。

 

「澪、ここで次へ行く顔をしない」

 

 澪はぎくりとした。

 

「してましたか」

 

「してた」

 

 していた。

 

 少しだけ。

 

 

 

 

 

 それでも、もう一度だけ試した。

 

 今度は、ミナが自分で桶の位置を近づけた。小さな水を収納し、両手を桶の上にしっかり置く。

 

 水は、桶の中へ落ちた。

 

 砂は少し混じっている。完全ではない。だが、床にはこぼれていない。

 

 ミナの顔がぱっと明るくなる。

 

「できました」

 

「できてます。これ、もう少し練習したら……」

 

 澪の声が少し弾んだ。

 

 その瞬間、リュシアの目が細くなった。

 

「澪、その顔は儲け話を見つけた顔じゃない。もっと危ない。便利な子を見つけた顔だよ」

 

「そんなつもりじゃ」

 

「あるよ。少し」

 

 司祭が静かに口を挟んだ。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

「でも、もう少しで」

 

「できたから続ける、ではありません。できたから休むのです」

 

 澪は口を閉じた。

 

 シスターがミナの顔を覗き込む。

 

「頭の奥が痛みますか」

 

「少し、きゅっとします」

 

 それを聞いて、澪はようやく自分の調子に乗りかけた心を押さえた。

 

 鑑定を使う。

 

----------------------------------

ミナ

 体力:24

 集中:31

 睡眠:普通

 収納:1

 水扱い:未熟

 分類感覚:芽あり

 注意:疲労時は失敗しやすい

----------------------------------

 

 収納一。

 

 でも、分類感覚に芽あり。

 

 それを見た瞬間、澪はまた目を輝かせそうになった。危ない。自分で分かるくらい危ない。

 

 澪は深く息を吸った。

 

「今日はもう水は扱いません。でも、頭の中で練習しておいてください。大事なのはイメージです。泥や砂が下へ沈んで、上の綺麗な水だけを思い浮かべるんです」

 

 ミナは真剣に頷いた。

 

「はい」

 

 その日の訓練は、そこで終わった。

 

 

 

 

 

 翌日も、その次の日も、ミナは水を触らずに、洗い場の端で桶を見ていた。

 

 澪が毎回いるわけではない。仕込み小屋の帳面を確認し、市場側の受け渡しを見て、戻ってくるまでに少し時間がかかる日もある。ミナはその間、言われた通りに頭の中で練習していた。

 

 泥が下へ。

 

 砂が下へ。

 

 上の方が透明に。

 

 綺麗な水に。

 

 最初は、それだけだった。

 

 だが、孤児院の洗い場は静かではない。

 

 シスターが桶を洗いながら言った。

 

「お腹を壊さない水がいいですね」

 

 司祭が、近くで子どもの額に手を当てながら言った。

 

「子どもたちが熱を出しにくい水なら、なおよいでしょう」

 

 小さな子が、ミナの隣で囁いた。

 

「飲んで、ほっとする水がいい」

 

 別の子が、桶の匂いを嗅いで顔をしかめた。

 

「変な匂いがしない水がいい」

 

 その隣の小さな子が、目を輝かせた。

 

「あまーい水だったらうれしいなー」

 

 また別の子が、神殿の方を見て言った。

 

「神殿で祈った水みたいなら安心だね」

 

 ミナはそれを、全部真面目に聞いた。

 

 全部、大事なことに聞こえた。

 

 澪が言った。大事なのは、イメージ。

 

 だから、ミナは全部をイメージに入れた。

 

 

 

 

 

 数日後の朝、ミナは桶の前で、両手を胸の前に合わせた。

 

 最初は、澪に教わった通りにするつもりだった。

 

 砂が下へ沈む。

 

 泥が下へ沈む。

 

 上の水が澄む。

 

 そのはずだった。

 

 けれど、ミナの口から出た言葉は、少し違っていた。

 

「天にまします、やさしき神さま」

 

 シスターが手を止めた。

 

「この水の底へ、砂を沈めたまえ。泥を沈めたまえ。濁りを下へ退けたまえ」

 

 司祭の眉が動いた。

 

「上に残る水を、清らかな清水となし給え。飲む子の腹を痛めず、熱を遠ざけ、喉を潤し、あまーく、あまーく、心をほっとさせる水となし給え」

 

 トトが口を開けた。

 

「あまーく?」

 

 ミナは真剣だった。真剣すぎて、誰もすぐには止められなかった。

 

「肌を清め、嫌な匂いを退け、病魔の影を遠ざける水となし給え」

 

 澪がいたら、この時点で止めていた。

 

 けれど澪はいなかった。

 

 ミナは、最後の掛け声だけは、澪から教わったものを少し柔らかく覚えていた。

 

「トーっ」

 

 桶の上へ、水が落ちた。

 

 透明だった。

 

 透明すぎた。

 

 水面が、普通の井戸水より静かに見えた。濁りがない。砂もない。嫌な匂いもない。シスターはそれを見て、すぐには何も言えなかった。

 

 トトだけが、小さく言った。

 

「すごい水。あと、甘そう」

 

 司祭がトトを見た。

 

「飲んではいけません」

 

「まだ飲んでない」

 

「飲む顔でした」

 

 トトは少しだけ口を閉じた。

 

 

 

 

 

 澪が洗い場へ戻ってきた時、様子が少しおかしかった。

 

 ミナは桶を見ている。悪いことをした顔ではない。むしろ、自分でも何が起きたか分かっていない顔だった。

 

 司祭とシスターは微妙な表情をしている。

 

 トトは興奮している。

 

「ミナがすごい水を出した」

 

「すごい水?」

 

 澪は嫌な予感がした。

 

 桶の水を鑑定する。

 

----------------------------------

聖水

 透明度:高

 異臭:なし

 清浄度:高

 微弱な浄化性:あり

 用途:飲用候補/儀礼用/食品洗浄用

 注意:神殿管理対象

----------------------------------

 

 澪は固まった。

 

 文字を見たまま、瞬きを忘れた。

 

「……ミナ」

 

「はい」

 

「それ、聖水になってます」

 

「せいすい?」

 

「はい。聖水です。あたしが教えたのは上澄みです」

 

 ミナは困った顔で桶を見た。

 

「でも、綺麗なお水を出しました」

 

「綺麗すぎます」

 

 澪は慌ててミナ本人も鑑定した。

 

----------------------------------

ミナ

 体力:21

 集中:44

 睡眠:やや不足

 収納:3

 水扱い:上昇中

 分類感覚:上昇中

 清浄化感覚:発生

 注意:過集中/祈念混入

----------------------------------

 

「収納、三……?」

 

 声が裏返りそうになった。

 

 ミナは不安そうに澪を見た。

 

「悪いことですか」

 

 澪はすぐ首を振った。

 

「悪いことではないです。でも、上がり方が急すぎます」

 

 リュシアが、またしてもいつの間にか来ていた。桶を見て、澪を見て、ミナを見て、最後に澪の目を見た。

 

「澪、目が怖い」

 

「違います。心配してる目です」

 

「便利な子を見つけた目も混じってる」

 

「混じってません」

 

 司祭が静かに言った。

 

「混じっています」

 

 澪は言い返せなかった。

 

 

 

 

 

 澪は両手を振って、慌てて説明した。

 

「違います。あたしが教えたのは、泥や砂が下に沈んで、上の透明なところだけ出すやつです。病魔から護るとか、お肌に良いとか、あまーく、あまーくとか、そういう機能は付けてません」

 

 ミナは申し訳なさそうに両手を握った。

 

「でも、シスターが、お腹を壊さない水だと助かるって」

 

 シスターは小さく咳をした。

 

「言いましたけれど……」

 

「司祭様が、熱を出しにくい水ならって」

 

 司祭も少し目を伏せた。

 

「言いましたが、収納に祈りを混ぜる意図ではありませんでした」

 

「飲んでほっとする水がいいって」

 

 小さな子が自分を指さした。

 

「言った」

 

「甘い水がいいって」

 

 別の子が手を上げた。

 

「言った」

 

 トトも手を上げた。

 

「俺も、甘いならいいと思った」

 

「思わないでください」

 

 澪は頭を抱えた。

 

「言いましたけど! 言いましたけど、それを収納に入れないでください!」

 

 リュシアが桶を覗き込む。

 

「澪、また変な仕事を増やしたね」

 

「増やしてません。増えました」

 

「同じだよ」

 

「違います。今回は本当に増えました」

 

「もっと悪いね」

 

 トトが水を見ながら言った。

 

「聖なる甘い豆草、作れる?」

 

「作りません」

 

「聖水もやし」

 

「言わないでください」

 

「あまーい聖水もやし」

 

「もっと言わないでください」

 

 エレナが、真剣な顔で一歩前に出た。

 

「侯爵家で管理すれば」

 

「待ってください」

 

 澪、リュシア、司祭の声が重なった。

 

 

 

 

 

 司祭は聖水の桶を見つめ、慎重に言った。

 

「これは神殿で確認します」

 

 澪の胃が重くなった。

 

「確認で済みますか」

 

「済ませるよう努めます」

 

「努力目標ですか」

 

「はい」

 

 リュシアは腕を組んで、屋台で売る品を見極める時と同じ目をしていた。

 

「市場で『聖水もやし』なんて言われたら、行列じゃ済まないよ」

 

「聖水もやしって言わないでください」

 

 トトが嬉しそうに続ける。

 

「聖なる豆草」

 

「もっと言わないでください」

 

 エレナはまだ諦めていない。

 

「侯爵家としては、聖水の扱いを」

 

「エレナ様、まず神殿の確認が先です」

 

 司祭が穏やかに言うと、エレナは少し不満そうに口を閉じた。

 

 澪はミナへ向き直った。

 

「今日はここまでです。聖水は封印です。ミナも休みます」

 

 ミナは小さく頷いた。顔に疲れが出ている。収納が三へ上がったことより、過集中という文字の方が澪の頭には残っていた。

 

 シスターがミナの肩に手を置いた。

 

「休みましょう。今日はもう、水の前に立たなくていいです」

 

 ミナはほっとしたように息を吐いた。

 

 澪も、同じくらい深く息を吐いた。

 

 そして心の中で、帳面に書く項目が増えた音を聞いた。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ると、澪はすぐに帳面を開いた。

 

 部屋には、まだ温度計の予備箱や木札用の薄板がある。収納五の表示を見た時も大変だと思ったが、今日は別の意味で大変だった。

 

 井戸水分離訓練。

 

 砂・泥分離。

 

 上澄み指定。

 

 ミナ成功。

 

 病原菌は不可。

 

 塩水不可。

 

 毒水不可。

 

 成功しても休む。

 

 聖水化、要封印。

 

 ミナ収納一から三、要観察。

 

 澪は筆を止めた。

 

「収納は、たくさん入れる力じゃない。こぼしてはいけないものを、こぼさず渡す力……のはずだったんだけど」

 

 今日、ミナは小さな水を桶の真ん中へ出した。

 

 それはすごいことだった。

 

 けれど、その小さな水は、桶の真ん中へ出るどころか、神殿の管理札まで連れてきた。

 

 澪は、帳面の最後に大きく書いた。

 

 ミナの自主練は、大人同席。

 

 祈らない。

 

 願いを混ぜない。

 

 上澄みだけ。

 

 そして、少し迷ったあと、もう一行書いた。

 

 聖水化禁止。

 

 収納は、たくさん入れる力ではない。

 

 そして、イメージは大切だった。

 

 大切すぎて、澪の帳面に、また一つ、絶対に守らなければならない項目が増えた。

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