原酒の売買をまとめた紙をリュシアが鞄へ収めたところで、応接室の扉が叩かれた。
「ギルド長。近郊向けの最初の荷が出ます」
「もうか」
「はい。積み替えだけで済みましたので」
報告に来た職員の後ろでは、廊下を急ぐ靴音が途切れない。
グスタフは椅子から腰を上げた。
「見ておくか。持ち込んだ本人たちも来るじゃろう」
「行くよ」
リュシアが立ち、真壁も地図を畳んだ。
澪はその後を追った。
大倉庫へ戻ると、先ほどまで整然と床を埋めていた大麦と豆の列が、もう崩れ始めていた。
開け放たれた大扉から夕方の冷たい空気が流れ込み、穀物の乾いた香りに馬と革具の匂いが混じっている。荷役人は10kgの包みを持ち上げると札へ目を走らせ、そのまま行き先の荷車へ運んでいく。
秤の前は空いていた。
検品用の卓にも、朝から集められていた人数は残っていない。
計量し直す必要がなく、中身を開いて等級を分ける必要もない。札を読めば重量も品質も期限も分かるため、荷受けの工程そのものが薄くなっていた。
「近郊行き、これで最後だ!」
「次は南へ回す分を持ってこい!」
声が飛び、包みが荷車の板床へ置かれるたびに鈍い音が重なる。
澪は荷の山より、そこを行き来する人の足を見るようになっていた。
レヴァニアでは、食料が多すぎて人が立ち止まっていた。
ここでは同じ食料が、人を止めない。
「ずいぶん早いですね」
澪が言うと、隣に立ったリュシアが荷車へ目を向けた。
「受け取ってから商品にしなくていいからね。そのまま次の客へ渡せるのは大きいよ」
御者が手綱を引く。
馬が一度鼻を鳴らし、荷を満載した車がゆっくり門へ向かった。
その後ろへ、空の荷車が入ってくる。
真壁は、入れ替わる2台をしばらく見ていた。
「グスタフ殿」
「何じゃ」
「今回の荷、いつまでに捌ける」
グスタフが顔を向けた。
「売れるかどうかではなく、いつまでにか」
「そうだ」
グスタフは近くを通った職員を呼んだ。
「今決まっておる行き先は」
「王都と近郊はかなり埋まりました。地方へ回す分も振り分けています。加工向けは粉屋と醸造関係から返事待ちです」
「残りは長く掛かりそうか」
「この形なら、かなり早いと思います。少なくとも、ひと月も倉庫へ置くことにはならないかと」
職員はそう答えると、別の呼び声に振り返った。
「失礼します」
小走りに去っていく。
グスタフは真壁を見た。
「聞いたとおりじゃ。今回程度なら、そう長くは残らん」
「そうか」
真壁はそれ以上聞かなかった。
利益がいくらになるかも、何軒へ売れたかも尋ねない。
視線はまた門へ戻っている。
2台目の荷車が動き出した。
「真壁さん」
「何かね、リュシア君」
「何を見てるんだい」
「次の荷だ」
リュシアの表情が変わった。
澪も、数時間前に見た光景を思い出した。
空になったレヴァニア王都の倉庫。
床が見えたことで、商人たちは喜んでいた。
これで次に北から来る大麦を入れられる。
外へ置いていた豆も中へ戻せる。
倉庫を空にしたことで終わったのではない。
次の荷を受け入れられるようになっただけだ。
真壁がグスタフへ向き直った。
「もう一つ聞きたい」
「まだあるのか」
「この冬、食料は足りなくなると見ているな」
グスタフの白い眉が下がった。
外では車輪が石を踏む音が続いている。
「今すぐ王都の棚が空になるわけではない。各地に備えもある。じゃが、西であれだけの騒ぎがあったからのう」
グスタフは倉庫の奥へ目をやった。
「例年なら入るはずの荷が減っておるうえ、西へ回す分も増える。このままなら冬は厳しくなる」
「不足が表へ出るのはいつ頃だ」
「冬には――」
「市場に出る時期だ」
真壁が短く返す。
「値が上がり、在庫が減る。それはいつだ」
グスタフはすぐには答えなかった。
目の前の荷だけではなく、王都へ集まる商人たちの顔を思い浮かべているようだった。
「今の入荷量が続くなら、ひと月ほど先じゃな」
白い髭を撫でる。
「最初は値に出る。その後も荷が戻らねば、春まで残すつもりの備えに手を付ける所も出よう」
「ひと月……」
澪の口から小さく漏れた。
今日空にした倉庫へ、また袋が積まれていく。
北から大麦が来る。
豆が来る。
だが火山東街道は何も変わっていない。
高価な荷なら護衛費を載せられても、大量の安い穀物では採算が崩れる。その事情は、倉庫を空にしたくらいでは消えない。
「レヴァニアも、その頃だ」
真壁が言った。
「何がじゃ」
「また余る」
グスタフが目を細める。
先に理解したのはリュシアだった。
「そうだね。今日、買ったからって生産が止まるわけじゃない」
「そうだ」
「北からの荷も来る。火山東街道は相変わらず。なら、また倉庫へ溜まり始める」
「同じ量になるかは分からん」
真壁は門の外へ消える荷車を見送った。
「だが、似た状態にはなる」
グスタフがゆっくり息を吐く。
「向こうが余り始める頃に、こちらが足りなくなるということか」
「そうなる」
「ならば、また買えばよかろう」
「買える」
「おぬしなら運べる」
「出来る」
「では何が問題じゃ」
真壁は門の向こうではなく、石床に残った車輪の跡へ目を落とした。
「このままでは、また詰まる」
荷役人の声が飛び交う中、その一言だけが澪の耳に残った。
応接室へ戻る頃には、窓から差す光が赤く傾いていた。
グスタフは椅子へ座るなり、真壁へ杖の先を向けた。
「先ほどの話じゃが、おぬしが定期的に運べば済むのではないか」
「運べる」
「なら――」
「それでは運送ではない」
グスタフが黙った。
「今回は私が運んだ。次も出来る。だが、私がいなければ止まる」
澪は思わず口を挟んだ。
「真壁さん自身が、大きな荷車になっているだけですね」
言ってから、少し言い方が悪かったかと思った。
けれど真壁は普通に頷いた。
「そのとおりだ」
グスタフの髭が揺れる。
「本人が認めるのか」
「事実だからな」
リュシアが笑いを堪えながら地図を引き寄せた。
真壁も卓上へ身を寄せ、王国とレヴァニアの間に指を置く。
「品はある。買う者もいる。時期も合う」
指先が火山東街道から外れた。
「足りないのは運ぶ手段だ」
「護衛を増やすだけでは駄目か」
グスタフが聞く。
「穀物の値に乗らん」
「荷車の数を増やしても同じ、か」
「危険な道へ増やすだけになる」
グスタフが腕を組んだ。
「では?」
「新しい運送形態が要る」
リュシアが椅子の背へ身体を預けた。
「飛行船の予定を早めるんだね」
「予定より早いが、その段階へ進む」
グスタフの視線が2人の間を往復した。
「待て。わしの知らぬ話が混じっておるぞ」
「前から考えてたんだよ」
リュシアは地図上の街道を指でなぞった。
「道に頼らず、大量の荷を運ぶ方法をね」
「空を使うという話か」
「そうだ」
真壁が答えた。
「船は?」
「まだない」
「ないのか」
「だから作る」
グスタフは額へ手をやった。
「毎度、順番がおかしい気がするのう」
澪は何も言わなかった。
今朝レヴァニアへ渡り、大量の食料を買い、鉄と銅を供給し、侯爵家と商業ギルドへ納品した。さらに大麦から別の商品まで作った末に、今は新しい運送事業の話をしている。
グスタフがそう言いたくなる気持ちは分かる。
「飛べば終わりじゃないよ」
リュシアが地図を自分の方へ寄せた。
「レヴァニアから食料を運ぶなら、戻りに鉄や銅を載せたい。空で帰ってたら商売にならない」
「その方がよい」
真壁が答える。
「それに、真壁さんが毎回乗らないと動かない船じゃ意味がない」
「そうだ」
澪は地図の上にないものを考えた。
船が浮くかどうかだけなら、真壁は技術の問題として片付けてしまうかもしれない。
だが、定期的に動かすとなれば話が違う。
荷を積む人がいて、整備する人がいて、出発を決める人がいる。客から荷を預かり、到着した先で引き渡す者も要る。
壊れれば直さなければならないし、若い人へ技術を教える人も必要になる。
「船だけあっても駄目ですね」
澪が言った。
「動かす人たちがいないと」
「その話だ」
真壁が頷く。
リュシアが真壁を見る。
「じゃあ、先に船を作るんじゃないのかい」
「先に人だ」
リュシアの手が止まった。
「リュシア君。今回の利益を使い給え」
「何に?」
「侯爵領へ、優秀な人材を集める」
「今回の利益を、人に使うんだね」
「そうだ」
リュシアは少し考えたあと、卓の端に置かれた紙を引き寄せた。
「船を作れる人だけじゃ足りないよ」
「分かっている」
「木を扱える職人がいても、金具を作る人がいなきゃ困る。大きな布を扱える人も欲しいし、作った後に直せる人も必要になる」
「荷を扱う者もじゃ」
グスタフが口を挟む。
「どれほど良い船でも、荷主を集められねば置物じゃ。倉庫を見る者も、商売をまとめる者も要る」
「帳場も必要ですね」
澪が言った。
「行きと帰りで荷主が変わるなら、運賃も受け渡しもありますから」
飛行船の話だったはずが、気づけば一つの会社を作る話になっていた。
グスタフが真壁を見る。
「何人ほど欲しい」
「人数を先に決める必要はない。使える者を広く見ればよい」
「腕のよい者ほど、今の土地から動かしにくいぞ」
今度は真壁が問い返さなかった。
「移住の条件は用意している」
「ほう」
「住む家がある。家族ごと来ればよい。子どもの教育も受けられる」
グスタフが真壁を見直した。
リュシアも、持っていた紙を卓へ置く。
「そこまで揃ってるなら話が違うね」
彼女の声から笑いが消え、商談をするときの調子に変わった。
「腕のある人ほど家族がいる。給金を上げるだけじゃ、妻子を置いて来いって話になる。でも家があって、子どもも学ばせられるなら、家族ごと動ける」
グスタフが白い髭を撫でる。
「若い独り者だけでなく、親方格まで狙えるということか」
「そういう人の方が欲しいよ。若い人を育ててもらえる」
「その通りだ」
真壁が答えた。
澪は、その会話を聞きながら窓の外へ目を向けた。
人を集める、と言えば、働く本人の話だけを考えてしまう。
けれど生活は一人分ではない。
家を移せるか。
子どもの生活を変えられるか。
新しい土地で何年も暮らせると思えるか。
その条件まで揃って、ようやく腕のある人へ「来てほしい」と言えるのだ。
「グスタフ殿にも協力されたい」
真壁が言った。
「王都の人脈を使えということじゃな」
「そうだ」
グスタフは即答せず、椅子の背へ寄り掛かった。
「協力はする」
一拍置き、真壁とリュシアを順に見る。
「じゃが、一つ忠告がある」
「聞こう」
「侯爵家を看板にするな」
リュシアの眉が上がった。
「侯爵領でやるんだよ?」
「侯爵領でやるのと、侯爵家肝いりと触れ回るのは別じゃ」
グスタフは杖の頭を指で叩いた。
「『侯爵家の新事業』などと書けば、来る者まで構えるぞ」
「どうしてだい」
「腕のある職人ほど、自分の客と看板を大事にする。貴族直属になれば、仕事を囲われるのではないか、途中で軍の都合へ回されるのではないか、辞めにくくなるのではないかと考える」
リュシアの表情が引き締まる。
「商人も同じじゃ。他領との取引へ政治の色が付くのを嫌う」
グスタフは地図上の侯爵領へ視線を落とした。
「まして新しい運送網じゃ。ヴァルディス侯爵家が職人を集め、人も荷も囲い込もうとしておると見られれば、面倒になる」
「商売じゃなく、勢力争いに見えるってことだね」
「そうじゃ」
真壁はすぐに頷いた。
「侯爵家は看板にしない」
「それでよい。ただし、無関係にせよという話ではないぞ」
「分かっている」
真壁が答える。
「領内で人を受け入れる以上、侯爵家には話を通す」
リュシアも頷いた。
「戻ったらアルベルト様に説明するよ。使える住居と受け入れられる人数、それに教育側で無理が出ないかも確認しないとね」
「それが先じゃ」
グスタフが満足そうに顎を引いた。
「侯爵家は土地と治安、領内の許可、それに用意してある住居と教育の基盤を支える。商売の看板はおぬしらが背負え」
「募集と雇用はリュシア商会と押入商会」
「その方が人は動きやすい」
澪も内心で線を引き直した。
侯爵家が受け入れを支えることと、侯爵家が商売を直営することは違う。
どちらかへ全部寄せる必要はない。
「では、今日は候補を拾っていただきたい」
真壁が言った。
グスタフが片眉を上げる。
「もう始めるのか」
「侯爵家へ話を通す前に、募集は出さない」
「ほう」
「だが、人を探すことは出来る」
グスタフの口元が少し上がった。
「そこまで考えておるならよい」
「明日に延ばす理由もないだろ」
リュシアが紙を取り直す。
「王都にどんな人がいるか、先に知っておきたいね」
「おぬしまで真壁に似てきたのう」
「それは褒めてるのかい」
「さてな」
澪は口元だけで笑った。
日が沈む前には、グスタフの執務室へ2人の職員が呼ばれていた。
まだ募集状は作らない。
まず、商業ギルドが持っている人のつながりから、声を掛ける価値のある者を拾う。
「船大工だけ探すな」
グスタフが職員へ言った。
「金工、木工、大物の縫製を扱える者、倉庫や荷役に慣れた者。新しい技術を覚える気のある職人もじゃ」
「今の店を辞めたがっている者を探しますか」
「そこだけに絞るな。引き抜きに見える」
グスタフは手を振った。
「独立の機会を探しておる者、工房を畳む親方、後継ぎがなく腕を残したい者もおる。商人側も同じじゃ。何が出来るかを先に見ろ」
職員が紙へ書き留めていく。
リュシアはその横から覗き込み、1か所を指で示した。
「家族の有無も分かる範囲でお願い。本人だけの条件を作っても仕方ないからね」
「侯爵領へ移住出来るかどうか、ですか」
「そう。ただ、今は誘わなくていいよ。条件を正式に出すのは侯爵家へ話を通してからだ」
「承知しました」
もう1人の職員がグスタフを見る。
「地方の商人にも聞きますか」
「候補の名前だけ集めろ。募集の話はまだ流すな」
そこでグスタフが真壁を横目で見た。
「ここは待てるのじゃな」
「順番の問題だ」
「安心したぞ」
「何がだ」
「いや、何でもない」
グスタフは紙へ戻った。
澪は少しだけ笑った。
真壁も、ただ急げばいいと考えているわけではない。
進められるところは今日進める。
権限が必要なところは、持つべき相手へ渡す。
止まっているようには見えないが、線は越えない。
「真壁さん」
「何かね、澪君」
「そっちは何を書いているんですか」
真壁は別の紙から顔を上げた。
「人が来た後に使う作業場所だ」
「もうそこまで?」
「候補が決まってから探す必要はあるまい」
澪は紙へ目を落とした。
飛行船そのものの図ではなかった。
職人が集まった時に使えそうな場所と、訓練に回せる場所を思い出せる範囲で書き出しているらしい。
船を先に完成させるのではない。
人が来て、働いて、覚えて、次の人を育てられる状態から作ろうとしている。
その方が、毎月飛ばす船には必要なのだろう。
「ところで真壁」
グスタフが手を止めた。
「何だ」
「その飛行船とやらは、本当にまだ1隻もないのじゃな」
「ない」
「それなのに、もう働く人間を探しておる」
「船だけ作って、誰が動かす」
グスタフが口を閉じた。
正面のリュシアが笑う。
「そこだけ聞くと普通なんだけどね」
「そこだけなら、そうですね」
澪も小さく同意した。
真壁が2人を見る。
「何か問題があるのかね」
「ありません」
澪はすぐに答えた。
窓の外では、今日レヴァニアから運ばれてきた大麦を積んだ荷車が、王都の通りへ出ていくところだった。
車輪が石畳を踏み、夕暮れの向こうへ音が遠ざかっていく。
まだ新しい船はない。
侯爵領へ移ると決めた職人も、まだ1人もいない。
それでもグスタフの机では、これまで別々の工房や店で働いてきた人々の名前が、一つずつ拾われ始めていた。