押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第249話 町の器

 

 アルベルトが領都を発った時、膝の上には革紐で綴じた分厚い資料が載っていた。

 

 表紙には、真壁の几帳面な字で「地下ドック周辺施設・第1期工事完了報告」とある。その下には、住宅、上下水道、浄水、排水処理、燃料供給、学校、診療所、警備消防詰所、庁舎、駅舎という項目が並んでいた。

 

 領都の執務室で最初に読んだ時、アルベルトは町の建設計画書だと理解した。着工前に提出された資料にも、最終的にはそれだけの施設を設けると書かれていたからだ。

 

 問題は、表紙の右上に押された印だった。

 

 完了。

 

 計画でも、着工でもない。

 

 添付された一覧には、建物ごとの用途、収容人数、維持に要する人員、侯爵家へ選定を求める職種まで記されている。図面には配管の深さや点検口の位置、火災時の避難経路まで引かれていた。

 

 不足しているのは説明ではなかった。

 

 これを1週間で造ったという事実に、アルベルトの理解が追いついていない。

 

 窓の外では、夏の終わりを含んだ風が街道脇の草を伏せていた。馬車の車輪が乾いた轍を踏み、細かな土埃を後方へ巻き上げている。

 

 向かいに座る土木官は、資料の配管図を開いたまま、朝から同じ頁を何度も見返していた。

 

「間違いは見つかったか」

 

 アルベルトが尋ねると、土木官は紙から顔を上げた。

 

「見つからないことが問題でございます」

 

「どういう意味だ」

 

「排水管と浄水管を同じ深さへ埋めておりません。燃料管とも間隔を空け、交差する箇所には保護層が入っております。点検口の位置も道路の中央から外されております」

 

「正しいのなら、問題はないだろう」

 

「これを1週間で施工したことが問題なのでございます」

 

 土木官は図面の端を指で押さえた。

 

「測量し、掘り、勾配を取り、管を敷き、漏れを調べてから埋め戻すだけでも日数が要ります。その間に住宅と公共施設まで建ったという報告を、私はどのように受け止めればよいのでしょう」

 

「私に聞くな。確かめるために向かっている」

 

 アルベルトは窓の外へ視線を戻した。

 

 街道の先に、切り立った岩壁が見え始めている。採石場として削られてきた灰色の斜面には、新しく切り開かれた道が白い帯のように延びていた。

 

 その道を越えたところに、資料の上では既に町がある。

 

 紙面に並ぶ数字よりも先に、屋根が見えた。

 

 赤褐色、濃い灰色、淡い茶色。雨水を逃がす傾斜を揃えた屋根が、緩やかな起伏に沿って連なっている。まだ煤に曇っていない煙突が朝日を返し、その奥には、採石場の岩壁をくり抜いた地下ドックの入口が黒く開いていた。

 

 馬車が新しい道路へ入ると、車輪の揺れが急に小さくなった。

 

 土木官が窓枠へ手を掛ける。

 

「石畳ですな」

 

 敷石の隙間には、まだ土も苔も入り込んでいない。両脇には若い街路樹が等間隔に植えられ、細い幹を支える添え木の縄が新しい。掘り返した土の匂いに、削った石と生木の匂いが混じっていた。

 

 だが、人の声がしない。

 

 道の左右には家々が並んでいるというのに、扉を出入りする者も、窓から顔を出す者もいなかった。軒下に薪は積まれず、庭には桶も洗濯物もない。煙突から煙が上がっているのは、中央に近い数棟だけだった。

 

 完成した建物が並ぶ町は、廃墟とは異なる不気味さを持っていた。

 

 壊れていない。

 

 汚れてもいない。

 

 ただ、人が来る前に出来上がりすぎている。

 

 中央広場の前で馬車が止まると、真壁、澪、ヴァルト、リュシアが待っていた。

 

 アルベルトが降りるのに合わせ、4人が礼を取る。

 

「アルベルト様。遠路をお越しいただき、ありがとうございます」

 

 真壁の挨拶はいつもどおりだった。衣服にも顔にも、1週間で町を造った者らしい疲労は見えない。

 

「報告書には目を通した」

 

「ありがとうございます」

 

「先に言っておく。内容が足りないとは考えていない」

 

 真壁が僅かに首を傾けた。

 

「では、どの部分に問題がございましたか」

 

「そこだ」

 

 アルベルトは、背後に広がる家々へ目を向けた。

 

「資料を読んだ私が、現地へ着くまで町の規模を疑っていた。数字も図面も整っているのにだ」

 

「図面と一致しております」

 

「それを今から確かめる」

 

 真壁は一度だけ頷き、視察経路を記した紙を差し出した。アルベルトが受け取るより先に、土木官が横から覗き込む。

 

「地下設備からでよろしいでしょうか」

 

「無論だ。家の外見は逃げぬ」

 

 土木官の返事には、ようやく自分の領分へ入れる安堵が混じっていた。

 

 澪は、その横顔を見てから真壁へ目を向けた。

 

 真壁は視察経路の余白へ、既に何かを書き足している。土木官が道路の沈下や配管の勾配まで確かめるつもりだと察し、点検口を開ける人員を先回りさせたらしい。

 

 人のいない町で、仕事だけが先へ動いていく。

 

 澪には、それが真壁らしくもあり、どこか落ち着かなくも見えた。

 

 

 

 

 

 地下ドックへ続く主通路には、岩を削ったばかりの冷気が残っていた。

 

 入口を抜けると夏の日差しが背後へ遠ざかり、代わりに壁際の照明が一定間隔で足元を照らす。岩肌には大型の鉄骨が肋骨のように組み込まれ、その下を歩くたび、靴音が長い空間の奥へ重なっていった。

 

 アルベルトは歩みを緩め、頭上を見上げた。

 

 資料で寸法は読んでいる。

 

 しかし、数字は首を反らさせなかった。

 

 岩盤を支える鉄骨は人の胴より太く、門のような形で通路を跨いでいる。掘削面は荒い岩肌のまま放置されず、亀裂のある箇所には補強材が増やされていた。

 

 土木官が壁際へ寄り、岩と鉄骨の接合部へ指を当てる。

 

「掘り終えてから補強したのではないのですな」

 

「掘削区画ごとに岩盤を鑑定し、必要な箇所へ鉄骨を組み込みました」

 

 真壁は足を止めずに答えた。

 

「先に全て掘り抜けば、補強前の長い空間が残ります。掘削、搬出、鑑定、補強を並行させた方が安全です」

 

「この鉄骨の本数も、鑑定で決めたのか」

 

「鑑定結果だけではありません。岩盤の割れ方、空間の幅、上部荷重を見て増減しております。最低本数は減らしておりません」

 

 土木官が資料の断面図と頭上を見比べる。

 

 疑うために来た顔が、次第に工法を追う職人の顔へ変わっていった。

 

「この先が格納区画か」

 

 アルベルトの問いに、真壁は通路の奥を示した。

 

 厚い隔壁の向こうで、広大な空間が開けた。

 

 照明に照らされた床は緩やかな傾斜を持ち、中央には飛行船を固定するための設備が並んでいる。左右には足場と作業床があり、上方へ渡された梁から点検用の台を降ろせるようになっていた。

 

 まだ飛行船はない。

 

 それでも、空洞には見えなかった。

 

 人が工具を持って歩く経路、部材を運ぶ経路、燃えやすい物を離して置く範囲が、床の色と柵で分けられている。空の作業台には工具の輪郭を描いた板が取り付けられ、何をどこへ戻すかが一目で分かる。

 

「収納を使わずに整備するための施設です」

 

 澪の声も、広い空間へ吸い込まれていった。

 

「飛行船を出し入れするたびに真壁さんを呼ぶ形では、真壁さんが不在の時に何もできなくなります。部品の交換も点検も、ここで働く人たちだけで続けられるようにします」

 

「そのための人員案が、報告書の後半にあったな」

 

「はい。最初から全ての職種を揃えるのは難しいので、組立てに関わった職人から指導役を選び、整備担当を育てる案です」

 

 アルベルトは作業床から下を見渡した。

 

 飛行船は、真壁が収納から出せば済む。

 

 だが、それでは技術も責任も真壁一人へ集まる。資料には、その状態を避けるための訓練期間と、段階ごとに任せる作業まで書かれていた。

 

「職人の選定は、侯爵家だけではできぬ」

 

「承知しております」

 

 真壁が答える。

 

「押入商会が技術面の適性を見ます。身元、待遇、居住条件につきましては、侯爵家と協議のうえで決定したく存じます」

 

 頼み事の形を取りながら、侯爵家が何を決め、押入商会が何を引き受けるかは切り分けてある。

 

 アルベルトは手すりから手を離した。

 

「その案で進める。だが、採用を急いで人数だけ揃えるな。地下で働くことに耐えられぬ者もいる」

 

「初期訓練の前に、半日ここで過ごす試験を加えます」

 

 真壁は即座に視察経路の紙を裏返し、書き込んだ。

 

「今、加えたのか」

 

「ご指摘は妥当です」

 

 アルベルトは真壁の手元を見た。

 

 検討します、と持ち帰らない。妥当と見れば、話している間に工程へ入れてしまう。

 

 1週間という時間の異常さは、収納だけが原因ではないらしい。

 

 

 

 

 

 地上へ戻ると、昼前の日差しが白い石壁を強く照らしていた。

 

 地下の冷気に慣れた肌へ熱が戻り、澪は袖口を指で引いた。新しい道路には木陰がほとんどない。街路樹が育つまでは、夏の日差しを遮る物が必要になりそうだった。

 

「真壁さん。停留所と公園だけでなく、住宅街にも日除けがあった方がよくないですか」

 

「歩道上へ張り出す物は、荷車の通行を妨げる可能性がある」

 

「各家に付けるのではなく、何軒かごとに休める場所を造るのはどうでしょう。子どもや高齢の人が、中央まで一度に歩かなくても済みます」

 

 真壁の視線が、住宅街から中央広場までの距離を測るように動いた。

 

「長椅子と屋根を設ける。夜間照明と消火用取水口の近くがよい」

 

「増やす前に、通行の邪魔にならない位置を土木官へ見てもらってください」

 

「左様にする」

 

 聞いていたアルベルトは、前を歩く土木官へ声を掛けた。

 

「帰るまでに位置を見ておけ」

 

「承知いたしました」

 

 澪は胸元で息をついた。

 

 止めるのではなく、条件を付けて進める。

 

 そうしなければ、真壁は屋根と長椅子を設置し終えてから報告してくる。もっとも、今回は事前の資料に増設余地まで記されていたので、勝手な追加工事とは言い切れなかった。

 

 一行が最初に入った住宅は、働き手と家族が暮らすことを想定した建物だった。

 

 玄関には靴の泥を落とす場所があり、奥へ入ると小さな居間と厨房が続く。窓を開ければ、乾いた風が前後の部屋を抜けた。

 

 壁はまだ新しい木と漆喰の匂いを残している。台所の流しには蛇口があり、澪が栓をひねると、管の中で一度だけ空気が鳴った後、透明な水が流れ出した。

 

 アルベルトは手を差し入れ、指先を濡らした。

 

「井戸まで汲みに行く必要がないのだな」

 

「はい。ただし、使える量に上限は設けます」

 

 澪は栓を閉じた。

 

「水が出るからといって、出し放しにされると処理が追いつかなくなります。最初は各戸の使用量を見て、無理のない範囲を決めます」

 

「料金を取るのか」

 

「維持費は必要です。ですが、水そのものを高く売ると、支払えない家が使う量を減らしすぎます。衛生にも関わりますので、最低限の生活分と、それを超えた分を分ける案を提出しています」

 

 アルベルトは頷き、台所の脇に設けられた小さな表示器へ目を留めた。

 

「これが使用量か」

 

「はい。数字が読めない人にも分かるよう、使いすぎると色が変わります」

 

 澪は答えながら、まだ住民の決まっていない家を見回した。

 

 棚には何もない。鍋も、皿も、家族の癖が付いた椅子もない。

 

 水が出て、火が使えて、寝室には空調用の吹出口まである。それでも、人が暮らすには足りない物が無数にあった。

 

 寝具、衣服、食器、灯り。朝に誰が最初に起き、どこへ働きに行き、子どもを誰が学校へ連れていくのか。

 

 建物を完成させることと、生活が始まることは違う。

 

 澪が窓の外へ目を向けると、向かいの家の透明な窓が、空だけを映していた。

 

「住宅への入居は、仕事が決まった家族から順にしたいと考えています」

 

 リュシアがアルベルトへ説明した。

 

 屋台で客を呼ぶ時の勢いは抑えられ、言葉遣いにも領主家への敬意がある。それでも、商人として譲れない箇所では声が明瞭になった。

 

「住居だけを先に渡し、働き口が決まらなければ、移ってきた方が困ります。反対に、働き手だけを集めても、家族を領都へ残したままでは長続きいたしません。職種、賃金、家賃、入居時期を一つの書面で示すべきかと存じます」

 

「商店へ入る者も同じか」

 

「商人と職人は、少し条件を分ける必要がございます。店を借りる者には仕入れと運転資金が要ります。家賃だけを安くしても、棚へ並べる品がなければ商売になりません」

 

「押入商会の商品を仕入れさせるのか」

 

 アルベルトの問いに、リュシアは首を横へ振った。

 

「それだけでは町の商いが偏ります。押入商会とリュシア商会は必要な品を供給いたしますが、他の商会や周辺の農村からも仕入れられるようにしていただきたいと考えております」

 

「自分たちの競争相手を呼ぶのか」

 

「一つの店だけで食料も衣服も道具も扱えば、その店が止まった時に町全体が困ります。それに、選べない市場では客が育ちません」

 

 リュシアは空の棚へ指先を触れ、木粉が付いていないことを確かめた。

 

「商いは、店を建てれば始まるものではございませんので」

 

 その言葉は、この町全体にも当てはまっていた。

 

 

 

 

 

 排水処理施設は町の低い側に建てられていた。

 

 住宅街を抜けると、足元の石畳に緩やかな下りが加わる。風向きを考えて建物との距離を取り、周囲には土を盛った防護帯と植樹用の溝が設けられていた。

 

 施設へ近づいても、アルベルトが予想していた悪臭はしなかった。

 

 湿った空気に、石と金属の冷たい匂いが混じっている。建物の中からは、水が管を通る低い音と、一定間隔で弁が動く硬い音が聞こえた。

 

 入口では担当者が待っており、アルベルトたちへ色の違う札を渡した。

 

「赤い線より内側へは、担当者以外入らぬようお願いいたします」

 

 床には歩行用の線が引かれ、管にも用途ごとの色が付けられている。文字が読めなくても、同じ色を辿れば接続先を追えるようになっていた。

 

 土木官が太い管の継ぎ目へ寄り、漏れの跡がないか目を凝らす。

 

「実際に流しているのか」

 

「試験用の水と、建設作業中に出た排水を処理しております」

 

 真壁は壁際の槽を示した。

 

「空の状態だけでは、詰まりや逆流を確かめられません。流量を変え、複数の家から同時に排水された状態も試しました」

 

「町の人口が増えた時の最大量までは流せまい」

 

「一系統ずつ負荷を増やし、処理上限の手前で遮断するよう設定しております」

 

「上限を越えても入れ続ける設計にはしなかったのだな」

 

 アルベルトの言葉に、澪とヴァルトが同時に真壁を見た。

 

「安全上、好ましくない」

 

 真壁が答える。

 

「最初から、その結論でしたか」

 

 澪が尋ねると、真壁は管の表示へ目を移した。

 

「処理能力には余裕がある」

 

「余裕があるから、もう少し増やせると仰いましたよね」

 

「試験によって実証した」

 

「その試験を3回増やされた後で、上限を決めたのですな」

 

 ヴァルトが穏やかに補う。

 

 アルベルトは、真壁、澪、ヴァルトの順に顔を見た。

 

「資料に、試験回数が当初予定より3回増えたとあったのは、このことか」

 

「はい」

 

 澪が答えた。

 

「真壁さんが上限を疑ったので、流す量を変えて試しました。結果として、安全側の数字は変えていません」

 

「処理は可能だった」

 

「町の人が、真壁さんと同じように設備の余裕を見極められるとは限りません」

 

 真壁は反論せず、槽の脇へ取り付けられた遮断装置を指した。

 

「したがって、使用者が操作できない箇所に上限を設けました」

 

 アルベルトは資料の試験結果を思い出した。

 

 数字の並びだけでは見えなかった3人のやり取りが、ようやく形になった。真壁が限界を押し広げ、澪とヴァルトが、真壁以外の者でも扱える限界へ戻している。

 

 施設が動き続けるなら、正しいのは最大性能ではない。誰が扱っても危険域へ入らない性能だった。

 

 担当者が操作盤へ手を置くと、壁際の灯りが一つ変わった。槽の下で弁が開き、水音が太くなる。

 

 流れ込んだ排水は、最初に固形物を除かれ、その後、真壁の収納内プラントへ送られる。戻ってきた物は、3つの系統へ分けられていた。

 

 アルベルトは、燃料用の表示が付いた管へ目を留めた。

 

「資料では、ここで得た燃料を厨房と給湯へ送るとあった。既に燃やしたのか」

 

「試験住宅と共同厨房で使用しました」

 

 真壁が答える。

 

「排水中の有機物からガスを得て、不要な成分と水分を除いております。貯蔵時には液化し、使用する量だけ気化させます」

 

「火が管を戻った場合は」

 

「街路ごと、建物ごとに遮断できます。異常な熱や圧力を検知した箇所は、その前後の弁を閉じます」

 

 真壁が合図すると、担当者が模型の建物へ火を入れた。

 

 青い炎が、小さな燃焼器の上で揺れる。次の瞬間、担当者が異常を模した操作を行うと、炎は細くなり、消えた。別の系統にある炎は残っている。

 

 アルベルトは消えた火ではなく、燃え続けている方を見た。

 

「一軒の異常で、町全体を止めないのだな」

 

「はい。止める範囲を狭くしております」

 

「燃料が足りない間はどうする」

 

「入居者が少ない時期は、外部から持ち込む燃料を併用いたします。排水量が安定した後に、回収量と使用量を見直します」

 

 真壁の返答に、出来たばかりの仕組みを完全なものとして扱う響きはなかった。

 

 次の槽には、濃い泥状の物が溜められていた。

 

 ヴァルトが採取用の器具を手に取り、槽へ直接触れない位置から試料を取る。鑑定結果を読み、隣の担当者が持つ紙と照らし合わせた。

 

「肥料へ利用できる成分を含んでおります。しかし、この状態では畑へ出しません」

 

「重金属や薬品が混じる可能性があるためだったな」

 

 アルベルトが先に言うと、ヴァルトは丁寧に頭を下げた。

 

「資料をご覧いただいたとおりです。今後、工房が増えれば、生活排水とは異なる物が流れ込むおそれがございます。そのため、工房排水は最初から別系統とし、混入が疑われるまとまりは隔離いたします」

 

「安全なものだけを乾燥させ、肥料へ配合するのか」

 

「左様でございます。肥料へ使えぬ物から、使える成分だけを無理に取り出すことはいたしません」

 

「手間に見合わぬからか」

 

「それもございますが、使える物を増やそうとして、畑へ毒を入れては本末転倒です」

 

 真壁が短く答えた。

 

 最後の管は、透明な水を湛えた槽へ続いていた。

 

 土木官が縁へ近づき、鼻先まで顔を寄せる。臭いがないことを確かめると、今度は灯りへ透かした。

 

「これが排水だった水か」

 

「不純物と病原体を除いた純水です」

 

 澪は水面に映る照明を見ながら答えた。

 

「ただし、そのまま町の飲み水には戻しません。飲み続ける水に必要な成分まで抜けていますから、井戸水や伏流水を濾過した水と合わせ、飲用に適した状態へ整えます」

 

「純水へ、わざわざ別の水を混ぜるのか」

 

「はい。汚れがない水と、身体に適した水は同じではありませんので」

 

 澪は槽の横から分かれる細い管を示した。

 

「混ぜる前の純水も一部は取っておきます。診療所や工房では、成分の少ない水が必要になることがあります」

 

「飲み水は、排水の再利用だけに頼らぬのだな」

 

「井戸、伏流水、再生水のどれか一つが止まっても、町全体の水を止めないようにしています。設備の修理中や雨の少ない年にも、別の系統で補える形です」

 

 アルベルトは3本の管を順に眺めた。

 

 町から出た物が、燃料、肥料の材料、水に分かれて戻ってくる。

 

 何も捨てずに済む魔法ではない。使えない物は残り、燃料も水も足りなければ外から補わなければならない。

 

 それでも、使った物を全て町の外へ捨てるより、周辺の森と水源へ掛かる負担は小さくなる。

 

 資料に書かれていた「循環」という一語が、管を震わせる水音を伴って、ようやく実感へ変わった。

 

 

 

 

 

 午後の日差しが傾き始めた頃、一行は町の中央へ戻った。

 

 学校の廊下には、新しい木の匂いが残っていた。広さの異なる教室が並び、机と椅子は揃っている。窓から入る風が、まだ何も書かれていない黒板の前を通り抜けた。

 

 子どもの声はない。

 

 廊下を歩く大人たちの靴音だけが、空の校舎に響いている。

 

「年齢だけでなく、読み書きと計算の習熟に応じて分ける案だったな」

 

 アルベルトが教室を覗き込む。

 

「はい。夕方以降は、働く大人にも使ってもらう想定です」

 

 澪は教卓へ手を置いた。

 

「仕事によって必要な計算が違います。商店なら売買と釣り銭、倉庫なら数と重さ、整備なら寸法を読めることが要ります。全員に同じところまで一度に教えるのではなく、暮らしと仕事に結びつくところから始めます」

 

「教師の候補は、こちらでも調べている」

 

 アルベルトは後ろに控えていた実務官へ目を向けた。

 

「領都の学校から移す者だけで埋めるな。領都側の教室が立ち行かなくなる。読み書きのできる者を補助員として雇い、教師の指導を受けさせる案も加えろ」

 

「既に候補者の聞き取りを始めております。正式な条件が定まり次第、面談へ移れます」

 

 実務官の返答に、澪の肩から力が抜けた。

 

 侯爵家は、視察を受けて初めて動くのではない。真壁が提出した資料を読み、人選を始めたうえで現地へ来ている。

 

 建物だけが先走り、人の準備が全くないわけではなかった。

 

 校舎を出ると、正面に公園が広がっていた。

 

 植えられたばかりの芝は、土を覆い切っていない。風が吹くたび、乾いた地面から細かな砂が浮いた。中央には何も置かれていない広場があり、その周囲に遊具と屋根付きの休憩所が並んでいる。

 

「ずいぶん広く取ったな」

 

 アルベルトが言うと、澪は遊具の向こうに延びる道路へ目を向けた。

 

「子どもを工房や道路で遊ばせないためです。火事や地震の時には避難場所にもなります」

 

「地下には防火用の貯水槽がございます」

 

 リュシアが言葉を継いだ。

 

「普段は市を開くこともできます。住民が増えた後は、曜日を決めて周辺の農村からも店を呼べるかと存じます」

 

「避難場所へ商品を並べるのか」

 

「市の日であっても、中央の通路は空けます。何かあれば、すぐ撤去できる屋台に限ります」

 

 リュシアは広場を横切る人の動きを目で追うように、入口から出口まで視線を巡らせた。

 

「普段から人が集まる場所なら、災害の時にも迷いにくくなります。それに、市場が町の端にありますと、荷は入れやすくても、子どもや高齢の方が歩く距離が増えます」

 

「商売の都合だけではないと」

 

「商売は、人が無理なく来られなければ続きません」

 

 砕けた物言いではないが、答えに遠慮はなかった。

 

 アルベルトは広場の端へ目を向けた。取水口を示す赤い標識が立ち、その横には手押し式の消火器具を運び込める道幅が確保されている。

 

 公園の向かいには診療所があった。

 

 診察室、処置室、薬品庫、入院室。感染症の疑いがある患者を分ける部屋には、外から直接入れる扉が設けられている。出産に使う部屋もあるが、棚の大半は空だった。

 

 窓から差す西日が、何も載っていない寝台を照らしていた。

 

「治療師の候補は2名だ」

 

 アルベルトは空の薬品棚を見たまま言った。

 

「だが、どちらも領都で患者を抱えている。移住させるなら、引き継ぎに時間が要る」

 

「治療師だけでは足りません」

 

 澪は寝台の脇へ立った。

 

「薬師、産婆、看護を担う人も必要です。全員を領都から移せないなら、経験のある人を指導役として招き、こちらで補助をする人を育てる方法もあります」

 

「その間の重病人は領都へ運ぶのだな」

 

「はい。ただ、熱を出した子どもや、作業中に手を切った人まで毎回運ぶわけにはいきません。最初からできることと、領都へ渡すことを分けておくべきだと思います」

 

 アルベルトは実務官を振り返った。

 

「候補者へ、移住だけでなく定期滞在も打診しろ。月の一部をこちらで診療し、補助員を育ててもらう。産婆と薬師は別に探す」

 

「承知いたしました」

 

 次に訪れた警備消防詰所では、武器より先に長いホースと手押し式の消火ポンプが目に入った。

 

 壁際には斧、鉤、縄、砂を運ぶ容器が並び、反対側には留置室と武器庫が設けられている。裏手の訓練場には、まだ踏み固められていない土が広がっていた。

 

「警備と火消しを、当初は同じ者へ担わせる案か」

 

「町が小さい間に限ります」

 

 真壁が答える。

 

「常時巡回する者が、火災発生時の初動も担います。人口が増えれば、消防担当を分けるべきでしょう」

 

「指揮官候補は、領都警備隊から出す」

 

 アルベルトは武器庫の扉を確かめた。

 

「だが、隊員を全て移すことはできぬ。新規採用者をここで訓練させる」

 

「警備権と拘束権限は侯爵家にございます」

 

 真壁はアルベルトへ向き直った。

 

「押入商会からは、設備の扱いと地下ドックで起こり得る事故について、訓練内容を提出いたします。警備隊の編成と指揮につきましては、侯爵家へお任せいたします」

 

「それでよい。商会が町の者を裁く形にはするな」

 

「承知しております」

 

 真壁の返事には迷いがなかった。

 

 造れるからといって、権限まで取り込まない。その境を最初から資料へ明記していたことを、アルベルトも承知している。

 

 問題は、真壁が境を越えることではなかった。

 

 境の手前までを、あまりにも早く完成させてしまうことだった。

 

 

 

 

 

 庁舎は公園に面して建っていた。

 

 正面玄関の内側には広い窓口があり、住民登録、住居の割り当て、商業許可、徴税、工事の届け出を扱う部屋が分けられている。

 

 2階の執務室からは、中央道路と公園、その向こうに並ぶ住宅の屋根まで見渡せた。

 

 机の上には、建物の鍵と、真壁が提出した資料の写しが置かれている。余白には、領都側の実務官が書き加えた人員候補と日程が並んでいた。

 

 アルベルトは椅子へ座らず、窓辺に立った。

 

 町として必要な物は、確かに揃っている。

 

 水が出る。排水は処理される。料理と給湯に使う燃料が送られ、火災時には飲み水と別の貯水槽から水を取れる。学校も診療所も警備の詰所もある。

 

 しかし、公園を走る子どもはいない。

 

 住宅の窓に布は掛からず、庭には洗濯物も薪もない。学校には教師がいなければ、診療所には治療師も患者もいなかった。

 

 資料の住宅戸数は、執務室で読んだ時には数字だった。

 

 今は、暮らす者のいない窓の数になっている。

 

「真壁殿」

 

「はい」

 

「工事の完了は認める」

 

 真壁は何も言わず、続きを待った。

 

「地下ドックも、生活基盤も、提出された計画と相違ない。土木官から細部の指摘は出るだろうが、使用を止めるほどの問題は見つかっていない」

 

「ありがとうございます」

 

「だが、町は完成していない」

 

 澪の指が、手にしていた資料の端で止まった。

 

 アルベルトは机の上の鍵へ手を伸ばした。

 

「建物を造るのは工事だ。人を住まわせ、規則を定め、役人と教師と治療師と警備隊を置き、日々の問題に責任を持つのは領政になる」

 

「その認識で相違ございません」

 

 真壁が答えた。

 

「押入商会が造れるのは、町の器までです。地下ドックと空運事業に必要な土地と施設につきましては、侯爵家と正式に契約いたします。町全体の行政は、侯爵家へお願いしたく存じます」

 

「頼まれずとも、領内にある町の行政は侯爵家の責任だ」

 

 アルベルトは鍵束を持ち上げた。

 

「この鍵は預かる。初代管理官が決まり次第、私から渡す」

 

 実務官が机の横へ進み出る。

 

「管理官候補は3名まで絞っております。行政職員につきましても、領都から異動させる者と、新規に雇う者を分けております」

 

「面談を進めろ。ただし、管理官を置く前に住民募集だけを始めるな。家賃、税、商業許可、入居条件を先に定める」

 

「移住者の募集要項案はこちらにございます」

 

 リュシアが、持参していた書類を両手で差し出した。

 

「地下ドック、飛行船整備、倉庫、工房、駅、商店ごとに、必要となる人数を分けております。経験者を優先する職種と、移住後に教えられる職種も分けました。ご家族で移られる場合の住居案も添えてございます」

 

 アルベルトは最初の頁を開いた。

 

 職種と人数だけではない。仕事を始める時期、指導役の有無、家族が同時に入居できるかまで記されている。

 

「店を出す商人の区画もあるな」

 

「はい。押入商会とリュシア商会だけで占めることは考えておりません。領都の商人にも条件を公開していただければと存じます」

 

「競争相手を入れる件は、先ほど聞いた」

 

「商店街が1つの商会の倉庫になってしまいますと、町ではございませんので」

 

 リュシアは穏やかに答えた。

 

 アルベルトは書類を実務官へ渡す。

 

「侯爵家側の条件と合わせろ。募集を始める前に、押入商会、リュシア商会、管理官候補を交えて最終案を作る」

 

「承知いたしました」

 

 決めるべきことが、ようやく建物から人へ移った。

 

 澪は窓の外を見た。

 

 空の公園へ、街路樹の細長い影が伸びている。今は風の音しかない広場にも、住民が来れば子どもの声が生まれ、屋台の匂いが漂い、誰かが決まりを守らず、誰かが困り事を窓口へ持ち込む。

 

 きれいなままの町ではいられない。

 

 だが、汚れも騒ぎも、人が暮らし始めた証になる。

 

「ところで」

 

 アルベルトの声に、澪は窓から振り返った。

 

「町の名は、どうなっている」

 

 実務官が書類をめくる。

 

「全ての資料で、仮称となっております」

 

「仮称は何だ」

 

 真壁が答えた。

 

「飛行船ドック付属居住区画です」

 

 執務室の空気が止まった。

 

 アルベルトは真壁を見た。真壁は、場所と用途を正確に示したという顔をしている。

 

「それは施設名だ」

 

「位置と目的を識別できます」

 

「町の名には、識別以外の役目もある」

 

「荷札へ書くには長すぎますね」

 

 リュシアが控えめに付け加えた。

 

「商いの面から申し上げましても、短く、聞き間違えにくい名がよろしいかと存じます」

 

「古くから、この土地に呼び名はなかったのですかな」

 

 ヴァルトが窓の外に広がる採石場跡へ目を向けた。

 

「土地の由来を調べず、我々だけで決めるのは避けた方がよろしいでしょう」

 

「住む人たちの意見も聞けませんか」

 

 澪が言う。

 

「まだ誰も暮らしていないのに、私たちだけで名前まで決めてしまうと、ずっと工事のための町みたいになってしまいます」

 

 アルベルトは鍵束を机へ戻した。

 

「古い地名を調べ、候補をいくつか用意する。最初の移住者が決まったところで意見も聞こう。それまでは仮称のままだ」

 

「飛行船ドック付属居住区画で管理を続けます」

 

「短くしろ」

 

 真壁は窓の外を一度見てから答えた。

 

「新町」

 

「それでよい」

 

 即答したアルベルトを、澪が見た。

 

「よろしいのですか」

 

「これ以上考えさせれば、上下水道完備飛行船整備拠点などと長くなる」

 

 真壁が口を開きかけた。

 

「案を出すな」

 

「まだ何も申しておりません」

 

「顔に出ていた」

 

 ヴァルトが口元へ手を当てる。リュシアは礼を崩さなかったが、肩が一度だけ揺れた。

 

 真壁は何もなかったように資料を閉じると、視察中に増えた指摘事項を別紙へ移し始めた。

 

 澪は、その手元を見て思う。

 

 町の名前より、屋根付きの長椅子をどこへ設けるかの方が、真壁には切迫した問題なのだろう。

 

 それでも、新町という仮称なら、少なくとも荷札には書ける。

 

 

 

 

 

 庁舎を出た時には、岩壁の上へ夕日が差していた。

 

 新しい窓ガラスが赤い光を返し、長く伸びた建物の影が石畳を横切っている。昼間は白く乾いて見えた町も、日が傾くと屋根と壁の凹凸が濃く浮かび、ようやく誰かの暮らす場所に近づいたように見えた。

 

 中央道路の先から、低い鐘の音が響いた。

 

 続いて、一定の間隔で地面を踏む音が近づいてくる。

 

 馬の蹄に似ているが、速さも強さも乱れない。やがて道路の向こうに、2頭の馬が引く大型乗合馬車が姿を現した。

 

 遠目には、本物の馬にしか見えない。

 

 だが、首の振り方も脚の運びも正確すぎた。汗をかかず、鼻息も荒くならない。駅の屋根へ近づくと、2頭は同時に歩幅を縮め、決められた位置でぴたりと止まった。

 

「試験運行の機械馬車です」

 

 真壁が言った。

 

 一行が駅へ着く頃には、御者と整備担当が機械馬の脚を一つずつ調べていた。駅には屋根付きの乗降場、待合室、切符売り場、荷物預かり所、貨物倉庫が並び、奥には機械馬の点検庫がある。

 

 御者が帳面を持って近づき、アルベルトへ礼を取った。

 

「領都東門から、休憩を含めて予定より四半刻早く到着いたしました。途中、荷車を2台追い越しております。機械馬と車体に異常はございません」

 

「休憩は、機械馬にも要るのか」

 

「機械馬ではなく、御者と乗客に要ります」

 

 真壁が答える。

 

「機械が疲れないからと走り続ければ、人間の方が耐えられません」

 

「御者は必ず乗せるのだな」

 

「街道には人と家畜がおります。倒木、故障した荷車、飛び出した子どもまで、機械馬だけへ任せるつもりはございません」

 

 アルベルトは機械馬の首へ触れた。

 

 表面は生きた馬へ似せてあるが、掌へ伝わる温度が違う。内部から、ごく細かな振動が続いていた。

 

「餌の代わりは魔石か」

 

「はい。駅で交換と充填を行いますぞ」

 

 ヴァルトが点検庫を示した。

 

「運行前後に御者と整備担当が残量を見比べ、消費量を書き留めます。交換用の魔石は施錠した保管庫へ収め、持ち出せる者を限ります」

 

「当初は1日1往復だったな」

 

 アルベルトの言葉に、澪が頷く。

 

「朝に領都と新町をそれぞれ出て、午後に戻る予定です。人だけでなく、手紙、小さな荷物、薬、行政の書類も運べます」

 

「住民がいないうちから駅を造った理由も、資料で理解している」

 

 アルベルトは空の客車へ乗り込んだ。

 

 座席は向かい合わせに並び、頭上には荷物棚がある。窓には日差しと雨を防ぐ覆いが付いていた。

 

「だが、現物を見ると意味が変わるな」

 

 澪も客車へ乗り、空いている座席へ手を添えた。

 

「家族ごと移ってもらうなら、領都へ戻れる手段が要ります。道があっても、自分の馬や馬車を持っていない人には遠いですから」

 

 町へ移れば、領都を捨てなければならない。

 

 そう思わせれば、住居を用意しても人は来ない。

 

 決まった日に馬車が出ると分かっていれば、領都に残る親族を訪ねることも、必要な物を買いに戻ることもできる。診療所で扱えない患者を運ぶ道にもなる。

 

「料金は、試験結果を見てから決めるのだったな」

 

「はい」

 

 リュシアが丁重に答えた。

 

「高ければ住民の足にならず、安すぎれば整備費を賄えません。人、手紙、荷物を同じ料金にはできませんので、運行を続けられる範囲を見定めます」

 

「その点は慎重なのだな」

 

「商売でございますから」

 

 リュシアの返答には、僅かだが誇らしさがあった。

 

 帰路には、この機械馬車を使うことになった。

 

 発車を待つ間、アルベルトは乗降場から町を振り返った。

 

 一週間前には、杭と縄で位置を示しただけの土地だった。

 

 今は、地下ドックの入口から中央道路が延び、その左右に住宅と工房が並んでいる。地面の下では水、排水、燃料が流れ、処理施設では弁が動き続けていた。

 

 学校にも診療所にも、まだ人はいない。

 

 公園を走る子どももいなければ、夕食を作る煙も上がっていない。

 

 それでも、完全な空白ではなくなった。

 

 管理官候補は既に選ばれ、教師と治療師への打診も始まっている。警備隊の指導役、整備職人、商人、倉庫作業員の条件も、これから正式に詰められる。

 

 建物が人を待っているだけではない。

 

 領都の側でも、ここへ人を送り出す準備が動き始めていた。

 

「真壁殿」

 

 アルベルトが呼ぶと、点検庫へ向かいかけていた真壁が振り返った。

 

「何でしょう」

 

「次は、いつまでに何を造るつもりだ」

 

「視察中に追加された休憩所、点検箇所の修正、採用者向けの地下作業試験設備です。明日までに終えます」

 

「聞き方を間違えた」

 

 アルベルトは額へ手を当てた。

 

「その次だ」

 

「飛行船の建造と試験運用になります」

 

「町をもう一つ造る予定はないのだな」

 

「現時点ではございません」

 

 澪が真壁を見た。

 

「現時点では、なんですね」

 

「空運経路が増えれば、中継拠点は必要になる」

 

「今日は増やさないでください」

 

「今日は造らない」

 

「明日なら造るように聞こえますな」

 

 ヴァルトの言葉に、真壁は返答せず、機械馬の点検へ戻った。

 

 逃げたのかもしれないと澪は考えたが、機械馬の脚へ本当に僅かな調整箇所を見つけたらしく、真壁はすぐ整備担当を呼んだ。

 

 機械馬車が駅を離れる。

 

 揃った足音が新しい石畳を踏み、一定の速さで町を遠ざかっていった。

 

 アルベルトは窓から、夕暮れの新町を見ていた。

 

 誰も住んでいない住宅の窓へ、最後の光が映っている。公園には長い影が落ち、学校の屋根越しには、地下ドックの入口を照らす灯りが見えた。

 

 町はまだ、人を持たない。

 

 だが、人が来たその日から暮らせるように、水が流れ、空気が動き、駅では次の便に備えた整備が始まっている。

 

 造られたのは、完成した町ではなかった。

 

 人の暮らしを受け入れるための、町の器だった。

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